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◆全体感想◆

 では最後に、全体の感想をば。


◆構成について

 本作と原作・アニメドラマCDは、似た形でありつつもそれぞれ異なる話展開になっています。同じ部品を使って、違う組み合わせ方で家を建てた、という感じ。

 部品は《惑星譜術》《レプリカネビリム絡みのジェイドの過去》《譜術士フォニマー連続死傷事件》の三系統。

 

 原作版はゲームのサブイベントなのでドラマ性では見劣りしますが、それまで得てきた無関係とも思える雑多な情報が、レプリカネビリム復活で一気に統合される点では最も自然でした。

 ドラマCD版は《惑星譜術入手》要素をバッサリ削除し、大幅に構成を変化させています。レプリカネビリムを復活させる道具を惑星譜陣ではなくディストの音機関に変え、ルークたちは意図せずレプリカネビリムに遭遇するのではなく、最初からレプリカネビリム退治のため封印へ向かう。単純な勧善懲悪で、仲間全員の団結が明確化されており、それ故の健全さがあります。個人的にはこの健全さはかなり好きです。

 ただし、完全復活していないはずのレプリカネビリムが封印から遠く離れた村に独りで行って滅ぼし、また封印に帰ったことになっており、その点にいささか不自然感があります。

 そして本作。《謎の襲撃から物語開始》《惑星譜術入手要素を削除しディストの音機関に変更》《レプリカネビリム退治前に仲間たちもジェイドの過去を知る》と、全体にはドラマCD版に沿いつつも、また異なる構成を試みています。

 

 正直、本作の構成はあまり好きではありませんでした。

 ルークたちがディストの遺品を届ける行動自体にも引っかかりがありますが、何より、ディストの遺品中に《ネビリムのレプリカ情報》がある点。

 ディストがヴァンの部下として働いていた理由は、研究環境の確保が一つ。もう一つは《ネビリムのレプリカ情報》をヴァンに奪われたから、というものだったはず。そして、ディストがヴァンの部下でありながらモースと通じていたのは、モースにヴァンから《ネビリムのレプリカ情報》を奪い返してもらう見返りだったはずです。

 アニメ版でも、偽姫事件の際にアッシュがディストの裏切りを指摘した台詞は消されていませんでしたから、この設定は適用されていますよね。

 ディストの本編最後の登場、レムの塔でのレプリカ襲撃は、モースの指示によるものでした。ここのレプリカ共を始末しなければネビリム先生復活作戦に着手できないと言っています。つまり、その時点でまだ、モースはヴァンから《ネビリムのレプリカ情報》を奪い返せていなかった。

 しかし本作では、ディストは少なくともレムの塔で生死不明になる以前から《ネビリムのレプリカ情報》を持っていた訳です。

 これでは、どうしてディストがモースにくみしていたのか、説明できなくなってしまいます。

 

 原作の方では、レムの塔から吹き飛ばされて気絶している間にモースが死に、《ネビリムのレプリカ情報》を入手できなくなったので、やむなく、封印されていた最初のレプリカネビリムを探し出したのだと説明されていましたが……。

 本作ではそうした背景事情をごっそり変えている。結果、本編とは辻褄が狂っている。これはいただけません。

 

 それはまだいいにしても、最も不満だったのは、ディスト復活からレプリカネビリム復活までの展開の強引さです。殆どジェイドの推測・独断だけで進めてしまう。とにかく一方的。

 ルークが「確信のないことは言わない主義だもんな」とジェイドをからかう、一種の自主突っ込みは入れられていましたが、それどころじゃない。

 特に《譜術士フォニマー連続死傷事件》要素の扱いのまずさは抜きんでていました。第4話のジャスパーの回想にて、過去のマクガヴァン元帥が自分の目の負傷はその事件によるものとチラリと語る場面はありましたが、それだけ。犯人が若い女だとか強力な譜術の使い手だとか、その程度の暗示すら読者に与えられることはなかった。なのに、第7話ではそれを急に持ち出して《ディストの居場所を確定できる絶対的な根拠》とする。ジェイドがその内容(今まで一度も触れられたことのない詳細)をベラベラ喋って「だからこの結論で間違いない」と言ってしまう。

 例えて言えば、推理小説で関係者が集められたところで、探偵が登場人物はおろか読者すら知る由のなかった情報をつらつら語り出して、「だから犯人はお前だ」と事件解決してしまった感じです。読者置いてけぼり。読者の推理参加を許さない自己完結。申し訳ないけれど、「なんじゃこりゃー!」と、理不尽な思いに駆られました。

 そりゃ、私は原作を知ってますから、譜術士連続死傷事件の詳細は最初から承知していましたよ。でもこの構成の仕方はあんまりでしょう。

 

 ところで、今作を読んで初めて意味の解ったことがありました。《マルクト軍がネビリムの遺品を引き上げた理由》です。

 私、原作当時は惑星譜術絡みなのかと思っていたんですよ。だって、ルークたちがマルクト軍の資料から得られる情報って、《惑星譜術の呪文と惑星譜陣の場所》ですから。ディストが盗んだ情報も惑星譜術のデータだったことになってますし。マルクト軍も惑星譜術を入手しようとした時期があって、それで彼女の遺品を徴収したのかと。

 でも今作見ると、「情報部がネビリム先生の資料を引き上げたのがND2000年―――」「譜術士フォニマー連続死傷事件の犯人が封じられたのも同じ年です」とジェイドが言っていて。あーつまり、譜術士連続死傷事件の犯人はネビリムのレプリカだと、マルクト軍は当時から把握していたって意味なのか。

 でもそれなら、レプリカ製作者のジェイドが情報聴取された様子がないのは、すこぶる奇妙な気がするのですが……。


◆ルークのブレについて

 第1話の感想に、ヴァンの目的解釈でゲシュタルト崩壊を起こしかけたと書きましたが、実は2話にもそう感じたところがありました。(^ ^;)

 この回で、ルークはジェイドに向かってこう言います。

俺は 誰かがネビリムさんのレプリカを作ろうとしてる気がする
「この世界はまだレプリカを拒絶してる」
「こんな状態のまま…」
俺みたいなレプリカに生まれてほしくない!

 これを見て、アニメ25話のアッシュとの決闘でのオリジナル台詞を思い出したのです。

「レプリカだけの世界なんて、間違ってる。俺みたいな思いをする奴は、もう作り出してはいけないんだ!」

 原作の該当場面のルークがつよく勇ましかった分、半泣きでこう言ったアニメのルークがとても嫌で、当時、感想には随分と駄々こね愚痴を書いたものです。そして、そのとき拠り所にしていたのが「原作と違う」という点でした。

 ところが、原作シナリオライターさんによる本作で、やっぱり似たようなことを言っているではありませんか。ありゃりゃりゃりゃ……。

 なんとなく原作者に叱られた気分になり、しょんぼりしました。そして恥ずかしくてたまらなくなりました。

 ああ恥ずかしいっ。私は間違っていたんだ。ルークは最終的に《レプリカという生まれ》を恨まなくなったんだと思い込んでいたけれど、本当は最後まで《俺みたいなレプリカ》は《生まれてくるべきじゃない》と思っていたんだ。間違った思い込みを根拠に偉そうに愚痴感想なんて書いて、とんだ恥さらしだ迷惑ファンだ。うわあああ……!

 考えてみれば、ルークが障気中和をターニングポイントに《変わった》という解釈も私の勝手な思い込みなのでは。本当はSD文庫小説版で書かれていたように、レプリカで余命乏しい自分にはアッシュのサポート・身代わりくらいしかできない、その役目こそ自分の存在価値だ、という最終結論だったのかも。実際、原作のアッシュ死亡時の日記(あらすじ)には、アッシュの代わりに俺が死ねばよかったと言われても仕方がなかったのにとか、凄く卑屈なことが書かれてありますもの。ってことは、ヴァンを前に立派げなことを言ったのは死んだアッシュの代弁だったってことなのか! ……あ、だから最後に帰ってくるのはアッシュなの? ルークは立派に影武者としての役目を終え、本物が帰ってきましたよ、という……?

 これまで《『アビス』ってこういう話》だと思っていたものが、自分の中でどんどん崩れてしまい、なんだか分からなくなりました。

 外殻大地崩落です。……かといって真の大地が姿を現してくれたわけでもなく。

 何ヶ月か時間を置いて、感想を書くため考え直してみた結果、真実の確証でもない限りは、自分が信じる仮の解釈を掲げていたっていいじゃないか、と開き直ることにしましたが。

 極論ではありますが、作者(他人)の真意は受け手には解りません。だから結局、自分の納得できる筋付けで理解するしかない。《見たいようにしか物語を見ない》と揶揄されても仕方のないことでもあるんですが。

 でも、しょうがない。だって理解する能力が(私には)ないんですよう。ただ、理解しようと試みたのは確かなので、努力だけは認めてください……。

 ともあれ、白旗。作者の真意は解らないから我流の解釈・価値観で感想も書く! 的外れだと怒られるとしても。

 

 ただ、アニメ25話のルークと今作のルークは、似たような台詞を言っていても感情は真逆に描かれています。アニメの方は半泣きでしたが、今作では強い意思のこもった瞳でジェイドを正面から見すえ、決してそらそうとしませんでした。また、「レプリカが世界に拒絶されている現状では」と前置きもしてあります。それらを重視するなら、近い台詞を言わせつつ、もう少し柔らかく変えようとした……焼き直しの意図だったのかもしれません。

 それでも私は《俺みたいな》という言い回しが引っかかってしまうんですけどね。どうしてもそこに自己否定のニュアンスを感じてしまうから。 「この世界はまだレプリカを拒絶してる。こんな状態のまま…、新たなレプリカを生まれさせちゃいけない!」とかでいいじゃんよー、わざわざ《俺みたいな》と入れなくても。と思っちゃうのでした。

 人によっては《俺みたいな》という言い回しに自己否定なんて感じないのだということは知っています。アニメの感想の時も、違うんじゃないですかとご意見をいただきました。そうです、私は神経質ですね。(^_^;) ここを読んでそう思っている方も多いと思うんですが、ヤレヤレと肩をすくめつつ流していただけるとありがたいです。

 

ファンダム2』の感想にも書きましたが、結局私は、障気中和後(死の目前)のルークに、自分の人生を悔いる(足りなかった部分を嘆く)ようなことを言ってほしくないのです。実際彼の人生は過酷でしたから、そんな気持ちを持っていてもおかしくはありません。けれど、強いて本人に口にさせてほしくない。レプリカとして利用されるために生み出されたって、幸せな出会い、楽しい時間もあったじゃないか。レプリカ差別があったって、理解してくれる友達や家族がいたじゃないか。「こんな友達が欲しかった」だとか「俺みたいなレプリカに生まれてほしくない」だなんて、それまでの自分や友達を否定する(とも解釈できる)台詞を言わせないでほしい。本編で言っていたならまだ諦めもつくけれど、後出しの公式二次だと理不尽な気がしてしまいます。

 ルークに悔やまれてしまうと私は、彼が最後に死ぬ結末を持つこの物語を肯定できなくなってしまうのです。

 

 それにしても。

 この場面のジェイドは終始無表情でしたが、ルークにそう言われて何を感じていたんでしょうね。

 実はこの一回前の第1話では、二人はこんな会話をしています。

ジェイド「私は失敗した」「譜術にもレプリカ製作にも」「――そしてここで」「ネビリム先生を殺した
ルーク「けど」「ジェイドがフォミクリーを開発してくれたから」「「俺」は生まれたんだ
ジェイド(目線をそらし)――そうでしたね」
ルーク「俺 生まれてよかったって思ってる」
ジェイド「レプリカでも?」
ルーク(明るく笑って)レプリカだから――そう思えるようになったのかもしれないぜ」

 もしも私がジェイドだったら、ルークに「生まれてよかった」と言ってもらえて嬉しい。フォミクリー発案者としての自分を肯定してもらったように思えるから。なのに、そのほんの数時間後に「俺みたいなレプリカに生まれてほしくない!」と言われたら、かなりショックです。ああ、この子は本音では、やはり生まれてきて辛かったのか。自分と同じ思いをするなら最初から生まれるべきではないと言い切ってしまうほどに、と。

 でも前後の流れを見る限り、作者側にそういうネガティブな意図はないっぽいですよね。この場面はただ、フォミクリー問題から逃げていたジェイドをルークの熱い友情・逃げない姿勢が突き動かす、そんな明るい意味だけなのだろうと思います。

 

 さて。

 前述したように、本作第1話にて、ルークは「生まれてよかった、レプリカだからこそそう思えるようになったのかも」と明るく笑って言います。ああ、このルークはもう《オリジナル・コンプレックス》を乗り越え、レプリカである自己を揺るぎなく肯定できるつよさを持っているんだなあと思っていました。

 ところが、次回の第2話では、暗い顔でピオニーにこう言うのです。

「…でもレプリカは模造品です」「どんなに見た目がそっくりでも本人じゃない」「偽物だ

 えええ?(汗)

 色々理屈を考えることはできるでしょう。《生まれてよかったと思うこと》と《レプリカは偽物だと思うこと》は別問題だ、とか。或いは、人間の気持ちは揺れて行きつ戻りつするのがリアルだ、とか。

 でも。混乱させられますよ〜。前回は《レプリカとしての自分》を明るく肯定してたのに、今回は卑屈な言葉をあえて選んで暗い顔をするのかと。ルークの気持ちがどこにあるのか戸惑わされて、感情移入しづらいです。

 もしかしたら、この場面で重要なのは《ピオニーがルークを素敵に励ます》点で、ルークの心情のプレはどうでもいいことなのかもしれないですが。私はルーク中心に見ちゃうもんで……。

 私は馬鹿なので、もっと単純にしてくれた方がいいなあと思いました。初回でルークに明るく「生まれてきてよかった」と言わせたなら、その後に自己否定的なことを言わせないとか。或いは、初回の自己肯定をやめて、最終回で「生まれてきてよかった」と笑うようにするとか。(その場合は、ネビリム戦前に「ジェイドを責めないでくれ」と言わせ難いというリスクが生じますけど。)

 解り易い・感情移入し易い方がいいです……。


◆レプリカの存在位置について

 ちよっと考えてみた、どーでもいい話です。

 若き日のピオニーがフォミクリ―実験を続けるジェイドを批判した際、こう言いました。

「おまえは何回ネビリム先生を殺せば気が済むんだ?」

シナリオブック』掲載の没サブイベントでも、レプリカネビリム退治後、ピオニーはジェイドが再び妄執に囚われるのではないかと心配して、こう言っています。

「おまえはネビリム先生を二回殺した訳だからな」

 これらの台詞を見ると、ピオニーはレプリカのネビリムをオリジナルと同一視……とまでいかなくても、従属的なもの、コピーのように考えていると受け取れます。

 けれど今作では、レプリカは偽物だと暗く語ったルークに向かい、一度「そうだな」と肯定したうえで、頭を優しく撫でてこう言うのです。

「おまえはレプリカかもしれんが「偽物」じゃない」
「ただ名前と姿が同じだけのもう一人のルーク…」
「本物」だ

 ……うーん? ネビリムのレプリカは偽物だけど、ルークは本物? そりゃまあ、本物か偽物かと単純に問えばレプリカは間違いなく偽物ですが、そこから翻ってルークは本物とするのは何故? この認識の違いはどこから生じているのでしょうか。

 

 もにゃもにゃ考えてみた結果、これはピオニーというキャラクター固有のものではなく、作者さん自身の考え方……アビス世界での基本的価値観なのだろうな、と思いました。

 本作のジェイドは崩壊するレプリカネビリムを抱きしめて「あなたも…人間だ」と存在を認めます。けれど彼女が消滅すると、切なげに呟くのです。「さようなら 先生」と。勿論、彼はオリジナルとレプリカが別人だと識っているでしょう。けれどレプリカの死でオリジナルに想いを馳せる。実質的に、レプリカネビリムをオリジナルの従属物、コピーと認識しているわけです。

#物凄くどうでもいいことなんですが、ジェイドの台詞、雑誌掲載時は「先生 さようなら」でしたが、単行本で「さようなら 先生」に直されてますね。

 けれどそれは、人間としては自然な感じ方だろうとも思います。オリジナルが亡くなっているなら尚更、別人と言う感覚は薄くなる。生まれ変わり、レプリカ化という変容のように感じられてしまう。

 アニメ版ファンブック(一迅社)のマリィ(ガイの姉)の解説などは、それを象徴していたように思います。「ガイを守り命を落とす。のちにレプリカとなって復活し、ガイの前に現れるが、姉としての感情は失っていた。」とあって、あたかもレプリカがオリジナル本人の再生、生まれ変わりかのように書かれていました。

 恐らく原因の一つは、レプリカマリィの自我が、芽生えてはいても未だ薄い状態だったからなのでしょう。同じ人間ではないという違和感を感じづらい。作中のガイも、別人だと認識しつつも、彼女と会うたびに「姉上」と呼んでしまっていました。彼女の最期には「(オリジナルである)姉上と同じ(尊厳ある)あなたの命のために」レプリカたちを身捨てない、という言い方をしていましたが。

 つまり自我の芽生えていない、または薄いレプリカはオリジナルの「偽物コピー」。けれど自我を強め自己確立を果たしたルークは、明確に異なる存在、「本物」と認められた。そういうことなのかな、と。

 そう考えると、ルークは本当に頑張って成長して、「人間になった」んですね。最終決戦でヴァンが評したように。


◆ネビリムの説諭について

 原作には、生前のネビリムがジェイドとどんな会話をしたか、というような描写は一切ありません。アニメ版で「強い力は人を不幸にすることもあるの。あなたは必要以上のことを求め過ぎる。それは、いつかあなたの身を滅ぼすかもしれない」と忠告するエピソードが追加され、更にドラマCDで「あなたは、私に似ているわ。だからこそ心配なの。私のようにはならないで。あなたは、道を間違えては駄目よ」という言葉が付け足されました。

 本作では《ネビリムとジェイドは似ている》点が拡大され、《大きな力に溺れて不幸を招いた》過去が共通するだけでなく、《力の追求のため罪のない魔物を冷たく殺した》という描写も重ねられています。ネビリムもジェイドと同じように罪を犯していたが前向きに生きていたのだから、ジェイドもそうしてよい、という結論。

 それとは別に、ネビリムが幼いジェイドへ向けた説諭が新規に付け加えられ、そちらは物語の重要なキーワードとして使われました。

「ジェイド」「命は消えるのよ」「人も」「魔物も」「必ず死ぬの
「でもねジェイド」「命に限りがあるからこそ 人は変われるのよ」

 この言葉は、若きジェイドが実験事故で重傷を負った場面と、崩壊するレプリカネビリムをジェイドが抱きしめ存在肯定する場面で回想されています。

 のですが。私はどうも、引っかかっていました。いい言葉なんですが、どうしてこの言葉なんだろうと。そもそも、《人も魔物も必ず死ぬ》から、どうして《人は変わることができる》という結論になるのか。いささか突飛ではないか。しかも何故それが、幼いジェイドに向ける言葉なのか。

 どんな状況で言ったのかも説明されていません。断片的な絵はありますが、ネビリムは優しく微笑んでいて、説諭の重さとそぐいませんし……。

 

 理屈をひねって考えるなら、《ネビリムは大切な人たちの命を失って、命を大切に思う人間に変わることができた。だから、過去の自分と似て命を軽視するジェイドも変わるべきだと諭した》、ということなんでしょうか?

 なんだか、ネビリムとルークを重ね合わせるために、よく言う《命に限りがあるからこそ人は精一杯生きる》という理屈を変形して無理に作った、少し不自然な説諭のように思えてしまうんです。《限りある命を実感して変わった》って、まんまルークのことですから。実際、レプリカネビリム崩壊の場面でこの言葉が回想される時、絵はルークになっています。

 ジェイドにとっては、《儚く夭折した(する)が、限りある命の中で罪に向き合って自分を変えた偉人》という意味で重なっているんでしょうか。


◆お姫様ジェイドについて

 以前ブログにて、本作を簡単に言えば「ジェイド(35歳男性)がお姫様ポジションにいる少女漫画」だと書いたことがあります。

 最後となるこの項は、その一行を長々と開いただけのものです。そしてこれが、最初に書いた「どうしてこの漫画を気持ち悪いと感じたのか」の回答ともなります。ただの愚痴ですが、宜しければお付き合いください。

 

 本作に感じた最も強い引っかかり。それは、ジェイドが大事にされ過ぎている、という点でした。

 本作はジェイドを主人公とした外伝で、彼の精神的外傷トラウマ克服をテーマとしています。ですから、彼が物語の中心にいるのも周囲から助けられるのも当たり前。なのに、中盤まで読み進めたところで、微量の気持ち悪さを感じてやみませんでした。

 

 似たような気持ち悪さを『エピソードバイブル』ジェイド小説に感じたことを思い出しました。当時は何にそう感じたのか、あまり明確に表現できなかったのですが、今は以下の部分だと探り当てています。

ピオニーはブウサギで作った懐かしい世界に、いつもジェイドと深く関わりを持った人物の名前を追加していく。

 ペットに自分の知己の名を付けるのは微笑ましい。けれど《友人と》深く関わった人物の名を付けるのは、いささか異様なことではないでしょうか。友人のすることとして尋常ではないですし、恋人のことと仮定しても少し度を超えている。ピオニーがジェイドの親ならばあり得るかもしれませんが、子供に執着していると取られておかしくないレベルの行為だと思います。

 

 過ぎたるは及ばざるがごとし、という言葉があります。ピオニーやジャスパーがジェイドを案じるのは友人として美しい。けれど、どういう訳か二人それぞれが、ルークを呼び出してジェイドを見守り救うよう依頼する。ジェイドにはこんなに辛い過去があったんだ、救ってやらねば。だからルーク、君はジェイドのために行動してくれ。はい分かりました勿論です。そんなエピソードが繰り返される。

 過ぎたるは及ばざるがごとしです。不気味なことだと思いました。一度なら友情の発露と思えることでも、繰り返され、強調されてしまうと。本編を視野に入れればネフリーも似たことをしていましたから、三度も繰り返されている。

 思えば、ディストもジェイドのために行動している。ルークも本作では、依頼されるまでもなくジェイドを全肯定し、一心に案じ、徹頭徹尾、全力で庇っています。

 ジェイドはまるで、何人もの騎士にかしずかれた物語のお姫様のようだと思いました。お姫様は守られるべき存在であり、理屈などありません。

 そしてルークは、ジェイドを救うために生まれた天使か何かのような扱いだと思いました。

 お姫様ジェイドはいばらのお城の中。騎士たちはお姫様を救いたい。
 第一の騎士はピオニー。お姫様に最も近しく、茨の扉をこじ開けて戸口まで連れ出すことに成功した。
 第二の騎士はディスト。お姫様はお城で幸せに暮らせるはずだと、茨を刈り込んで奮闘している。
 第三の騎士はジャスパー。表立っては何もしないけれど、陰でお姫様のために血を流している。
 第一と第三の騎士は、城からお姫様を救い出したい。そこでルークに依頼した。何故なら、彼はお姫様をさいなむ茨そのものから咲いた花だから。きっと道を開けてくれるに違いない……。

 

 中年でジェイドの古い友人であるピオニー達が、こぞって子供のルークにジェイドを任せるのは、結局のところ、彼がレプリカだからですよね。フォミクリーという不幸な技術を生み出してしまったためジェイドは傷ついている。しかしそれにより生まれたルークが幸福を体現できれば……俺は生まれて幸せだから気にしないでいいよと赦してやれれば、彼は救われる。

 実際、ルークはそうしてジェイドを救っています。

 でもね。ルーク自身がそうするのは素敵なことですが、それを第三者が依頼するのは、本当はしてはいけない、おこがましいことではないでしょうか。

 レプリカとして生まれたことで味わった辛さ。それを昇華して、発案者であり多くのレプリカを無為に殺してきたジェイドを赦す。それをも超えて救おうと尽力するかどうか。それはルーク自身が決めることで、オリジナルであるピオニーやジャスパーが「そうして欲しい」と依頼していいことではない。

 まして、ジャスパーは自身もフォミクリー研究に携わっています。彼が実験の残酷さに心痛める描写がありましたが、その気持ちが本当ならば、レプリカであるルークに《ジェイドの心の傷を癒すため》フォミクリ―を肯定せよと依頼するなんて、本来なら恥ずかしくてできることではないと思う。

 けれどこの作品世界には、そういう見方自体が存在しません。ジェイド側に視点があるんですね。ジェイドを救うことが最善、という価値観の世界です。

 それはそれで明快でアリですけど、ピオニー、ジャスパーに《ジェイドのために行動してくれ》と繰り返されたおかげで、どうして彼ばかりこんなに大事にされるのだろうと疑問が生じ、あまりに世界が彼に偏り過ぎていておかしくないか? という気持ち悪さを感じてしまった、と。

 

 とまあ、こう感じていたので、最終回にてルークが「…俺」「本当は自分のことでいっぱいいっぱいなんだ」「だからしっかりしてくれよ」とジェイドに言った時は、心底安堵しました。全くその通りですから。

 作者さん方は、最初から最後にはこう言わせるつもりで、ピオニー・ジャスパーの依頼エピソードを入れたのでしょうか。それとも、連載を続けるうちにやり過ぎたと思うようになって、最後にフォローを入れたのでしょうか。

 後者なら感謝感激。前者なら、私はまんまと作者さん方の掌の上で転がされていたって事ですね。いつものことながら。(^_^;)

 

 思うのですが、「あなたの真っ直ぐな生き方でジェイドを救ってほしい」とルーク本人に言わなくてもよかったんじゃないでしょうか。ルークとジェイドがいない場所で、ジャスパーやピオニーが「ルークがジェイドを変えてくれるかもしれない、いや、既に少し変わってきている」と期待を込めて話し合うとか、そんなものでも。

 ルークに、ジェイドを救わねばならないという変な責任を与えなくてもよかったなあ、と。本作のルークは、ジェイドを心配し過ぎて少し不自然になっているように思います。

 ジェイドが仲間たちにレプリカネビリム絡みの過去を告白した際、誰も責めていないのに先回って「ジェイドを責めないでくれ…!」と庇う。これは原作にもあるエピソードですが、原作時点ではどうとも思わなかった……むしろルークの優しさを好もしく思ったのに、本作では、「どうしてこの子はここまでジェイドを庇うのだろう」と疑問を感じました。ルークが独りでジェイドを赦し過ぎ、心配し過ぎ、庇い過ぎに見えて、少々不気味に思えてしまう。過ぎたるは及ばざるがごとし、ですね。

 アニメドラマCDは、この辺のバランスのとり方が上手かったと思っています。

 ルークがジェイドを心配し思いつめていると、気付いたティアが声を掛け、話を聞いて、きっと大佐にその気持ちは伝わっている、仲間と共にある彼は大丈夫だと励ます。

 実際どういう意図なのかは知る由もないですが、私はこれを、物語が《ルークとジェイド》の狭い部分に偏り過ぎないようにするためのバランス調整だと感じました。ジェイドを案じるルークもまた、仲間たちに心配され支えられている。独りじゃないぞと。ドラマCDは《仲間たちと共にあること》がジェイドを救ったという地点に着地しており、その点で小気味が良かった。

 本作でも、最終回の扉は《仲間たちと笑い合うジェイド》になっていますし、書き下ろし漫画には「持つべきものは仲間ですか」というジェイドの台詞もあって、《仲間がジェイドを救った》という視点が皆無ではありません。けれど圧倒的に強いのは《ジェイドとルークの関係》で、やや偏った、狭い世界に着地しているように思います。だからこその危うい美しさはありますけども。

 もう少し、(ジェイド、そしてルークを支える)仲間たちの存在感を強く描いてほしかったな、というのが本音です。

 

 偏った世界と言えば、冒頭に書きましたように、ジェイドを献身的に案じるキャラクターが男性ばかりなのも、その印象を強めていたと感じました。BLボーイズ・ラブ的だなあ、と。

 もしも本作がより一般層向けのゲームや映画だったならば、ジャスパーは女性キャラになっていたんではないかという気がします。

 

 

 話戻って。

 ジェイドが大事にされ過ぎではないかと思ったもう一つの理由に、ジャスパーの設定があります。

ジェイド「それより私の方こそ謝らなければなりません」
ジャスパー「?」
ジェイド「私が放置していたフォミクリ―の実験情報を管理してくださっているそうですね」「そのために上から睨まれて昇進に影響が出ているとか」
ジャスパー「どうしてそれを…」
ジェイド「陛下に聞きました」
#ジャスパー、微笑んで
ジャスパー「―――いいんだ」「好きでやっていることだ」「それこそ謝ってもらう必要はないさ」
ジェイド「そうですか…」

 これは第5話のひと場面。外伝小説にも、以下の描写がありました。

 かつてジャスパーは、あの死霊使いネクロマンサージェイドと共にフォミクリ―研究を行っていた。研究が中止されてからも研究に関する情報を管理しており、上層部からは知り過ぎた軍人として疎まれている。そのこと自体は構わないのだが、厄介者として執務室も敷地の外れに用意されているのには閉口していた。

 驚きました。「閑職に回されている」「知り過ぎた軍人として疎まれている」? 研究の中心人物であるジェイド自身は、皇帝の懐刀として国内外に名を轟かせ、重臣たちにも一目置かれ。もっと昇進していいのにと言われて本人が断る(本来なら更に高い階級に相応しい能力があるが、ジェイド自身の意向で留まっている、と言いたげな)場面すら、原作本編にはあったというのに。

 しかも、同じ基地に勤めながら、ジェイドがそれを全く知らなかったとは。フォミクリ―の話題を避けていたとしたって、友人のことです、耳に入らないものでしょうか。さしてジャスパーに興味がなかったのだと思うしかありませんが、彼の方は、自分の行為をひた隠しにして、謝らなくていいよと微笑んで、もう十年以上、人生を犠牲にしてまで奉仕し続けている。

 これは、ジャスパーが善人グッドだから、という域を超過した状況だと思いました。友情の度を超えた、もはや献身と呼ぶべきもの。見返りなくお姫様を守る忠実な騎士のような。或いは、無償の愛で包む母親のような。

 例えば、必ずしもジェイドのためだけでなく、ジャスパー自身がフォミクリ―実験に参加したことを後悔していて、贖罪・責務のつもりで資料管理を買って出たと言うのなら、個人的にはまだ納得できます。けれどジェイドに「謝らなければ」と言われて、彼は「好きでやっていることだから」と宥めるように返しました。「お前のためじゃないよ」とは言わなかったし、彼視点の小説でも匂わされてすらいません。書かれているのはジェイドを案じる思い、そして彼が立ち直るなら苦労も歓迎するという犠牲精神ばかり。真実、彼はジェイドのためだけに行動しているのです。

 これは、前述の《ピオニーのブウサギの名前》と同様、作中では《善いこと、素敵なこと》として扱われています。こんなにもジェイドは愛されているんだよと。『バイブル』小説によればジェイド自身自覚しており、馴れ合いは嫌いだと少々辟易しながらも、

 だがそれを許してしまっているのも自分だ。人間とはつくづく不条理な生き物である。

と受け容れているのでした。

 

 過ぎたるは及ばざるがごとし。

 ジェイドを囲む男たちの献身的な友情は、私には、行き過ぎのように感じられます。愛されるジェイドを強調し過ぎたあまり、幾分の異様さを醸し出していると。

 けれど、そうは感じない人も多いのだろうとも思います。本当は友人ならこのくらいするのは当たり前で、私が冷たい人間なのだというだけかもしれません。

 

 ともあれ、《お姫様扱いされるジェイド》に入り込めた読者にとっては、本作は至上の傑作だっただろうと思います。萌えたか萌えなかったか。それが本作の評価の、大きな分岐点となるのではないでしょうか。


 以上です。ここまでお付き合い下さり、ありがとうございました。

 



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