高級な一枚板で作られたその厚い扉を押し開くときは、流石に気が重かった。そこで何が起こるのか、想像はあまりに容易に出来たからだ。
「おお……ルーク、ルーク! あの子たちは本当に……」
案の定、奥方は悲痛に叫ぶと、半身を起こしていたベッドにそのまま倒れこんでしまう。元々体が弱いところに、ここ最近は彼らの身を案じるあまり伏せりがちだったのだから、無理もない。「しっかりしろ、シュザンヌ」と妻の身体を支えるファブレ公爵はそれほど取り乱している風には見えなかったが、それでも、感情を押し殺した目の中に確かに悲嘆があるのを見てとって、俺は微かな衝撃を受けた。
無論、俺は知っている。冷徹で情けなど知らぬと思っていたこの男の中にも、人並みに情があり、愛があり。我が子を愛し、失うことを恐れ、そのあまりに触れることから逃げていた、そんな弱さがあることを。それを知った時、黒く凝っていた憎しみが、血で贖うよりないと思っていた復讐心が、思いがけずに緩み融けて流れた気がした。そう。この男も人の情を持っていたのだ。笑いながら俺、ガイラルディア・ガラン・ガルディオスの家族を惨殺した、この憎き仇であっても。
それ以来、俺は公爵への復讐心を捨てた。『昔のことばっか見てても前に進めない』。その言葉を思い出すまでもなく、やることは山積みだったし、――それでいて"時間切れ"が迫っていることも分かっていて、黒い思いは思い返されることもなく、確かにどこかへ消えていた。
なのに、どうしたことだろう。
今、我が子を失って悲痛に眉を寄せるこの男の姿に、俺は確かに満足を感じている。消えていたはずの淀みはまだ俺の奥底にあって、ふつふつと黒い泡を吐き出しながら暗い喜びに震えている。
ああ、俺はずっと、この男のこの顔が見たかった。そのためであるなら、名を偽り
そうか、苦しいか。辛いのか。そうだろうなぁ。十七で死ぬと定められていた息子が死なずにすんで、ようやく正面から愛そうと決めた、その矢先だったんだものな。どのみち、お前の息子は十七よりも先は生きられなかった。お前の血は未来へは続かない。お前のその苦しみは、俺の父を、母を、姉を、親戚を、使用人たちを、ホドの民を殺した罰だ。当然の業なのだ。ざまぁみろ。
どろどろと思いが溢れ出す。洗い流され、空っぽになっていたはずの俺の空隙を再びいっぱいにしていく。
――ごめん。俺、何も知らなくて……。
黒い沼の中で、あの時あいつが言った言葉がプツリと弾けた。ずるり、と心地よい闇が引き下がっていく。むき出しになった素地が痛んだ。
――分かった、ガイを信じる。……いや……ガイ、信じてくれ……かな。
ルーク。どうしてお前はそんな風に言えたんだ。
忠義ぶって、親友面して笑っていた俺が、実は自分と自分の家族を殺すために側に控えていたのだと知った時。それでもあいつは俺に望んだ。側にいて欲しいと。なんて愚かな、滑稽な。……いっそ真白く強靭と言えるほどに。
そうだ、公爵。この歪みを与えたのもお前なのだ。愛されないと感じた故に、お前の息子たちは欠乏を持ち、その為まんまと騙された。優しげな笑顔の陰に刃を隠した、俺やヴァンのような悪党に。真実を知っても離れられないほど深く。そしてこの上ない痛みを味わうことになったのだ。――たった十七年。ルークに至っては七年だ。そんな短い人生を、こんな歪みの中で過ごして。
「それで、このことは既に国王陛下にご報告を……?」
渦巻く俺の思いを知る由もなく、奴はもう公務の顔になって俺たちに問うてきた。
「いいえ、お父様にはまだ。最初にこちらにお伝えすべきだと思いましたから……」
「そうか……感謝いたします、殿下。では、取り急ぎ陛下にもご報告しなければなるまいな。私も共に登城しましょう」
「エルドラントが沈黙し、ローレライが解放されてからもう五日です。もっと早くご報告に上がるべきでしたが……」
「いや、分かっている。あなたにも感謝する、カーティス大佐。あれも……ルークも満足だろう。このように仲間たちに想ってもらえたのだから。陛下への報告が終わったら……葬儀の手配をせねばなるまいな」
「――死んでないっ!!」
叫んだのは、ティアだった。普段からあまり饒舌な方ではなかったが、この五日間は殆ど口を開かなかった彼女が、息を荒げ、震えながら叫んでいる。
「ルークは死んだりなんかしていないわ! だって、約束したもの。戻ってくるって。必ず帰るって。だから………お願い、葬儀なんてしないで。――彼を、殺さないでぇ!」
「ティア……」
ナタリアが震えるティアの肩をそっと抱いている。それを見ているうちに、我知らず俺の口からも言葉が滑り出していた。
「そうだな……あいつは死んでいない」
「ガイ?」
見上げてくるアニスに、どうにか微笑みを返した。
「あいつは確かに約束したんだ。帰ってくるってな。ああ見えて、あいつは約束は律儀に守ろうとするバカ正直なところがあるから、約束したからには帰ってくるさ」
頭では分かっている。崩れ始めたエルドラントから脱出して、解放されたローレライが光の柱となって天に立ち昇るのを見送った後、俺たちはルークを半日待った。怪我をして動けないのかもしれないと、それから三日探した。だが……ルークの姿はなかった。
それは当然とも言えただろう。崩壊したエルドラントは、外観こそ保ってはいたものの、中は酷い有様だった。アッシュの死体も見つからなかったのだし、ましてや、ルークはレプリカだ。
いくらあいつ自身が約束を守りたいと思ってくれていても。無理なものは無理だ。現実は硬く、動かせない。嫌と言うほど俺はそれを知っている。恐らくはジェイドも、アニスも、ナタリアも、ティアにしても。
……それでも。
「ええ。……ルークは帰ってくるわ」
ティアは頷いた。その目は濡れているように思えたが、彼女らしい強い意志の光が戻っている。「申し訳ございません、取り乱して大変失礼をしてしまいました」と公爵夫妻に頭を下げた。
彼女を突き動かす感情は、ある言葉で簡単に定義することが出来るのだろう。では、俺を揺るがすこの感情は何なのだろうか。
友情か。忠心か。悔恨か。……それ以外の何かなのか。
「――では、バチカル城へ向かいましょうか。インゴベルト陛下がお待ちでしょう。その後はグランコクマです。鳩は飛ばすつもりですが、やはり直接報告したい」
「ユリアシティにも行かないと、ですね。大佐」
「はい。アルビオールとノエルには、もう少し頑張っていただきましょう」
少し調子を取り戻したらしいジェイドとアニスのやり取りを聞きながら、俺も彼らと共に歩き出す。視界に入るファブレ公爵の姿にも、今は暗い感情は動かされなかった。
なあ、ルーク。お前はいつか言ったよな。罪を犯した自分、アッシュの存在を食らって生きていた自分に、生きる価値はあるのか。レプリカの自分が本当に必要とされる居場所はあるのか、って。
忘れないでくれ。復讐の闇に囚われ、心を偽ることにばかり長けるようになっていた俺に、光を見せてくれたのはお前なんだ。俺だけじゃない。息子から目を背けていた公爵が向き直ることが出来たのも、お前の存在があってこそなんだぞ。キムラスカ、マルクト、ダアト、ユリアシティ。そんなバラバラの国と立場の人間が共に歩き、手を取り合って、硬い現実を解きほぐし、こうして
オリジナルのルークじゃない。レプリカのお前が俺たちを――世界を変えた。
「だから……帰ってこいよ、ルーク」
俺は呟く。ファブレ邸の回廊の窓から、あいつがいつもそうしていたように空を見やった。
帰って来い。お前は、こんなにも世界に必要とされているのだから。
終わり
2006/01/23 すわさき
*ファブレ夫妻にとっては、オリジナルもレプリカもどちらも「ルーク」ってことで。念の為。