さらさらと砂はこぼれる


 その痛みが襲ってきたのは、ダアトの教会を出ようとした時だった。キーンという不快な耳鳴りが聞こえて、ルークは頭を抱えて片膝をつく。

「ルーク、大丈夫!?」

 ティアが駆け寄ってきて覗き込んだ。背後から、「例の頭痛か?」と訊ねるガイの声がする。

「いってぇ……。アッシュ……か……?」

 ――やっと繋がったか。レプリカ。

 唸りながら声を出すと、頭の中にアッシュの声が響いた。響きは波となってルークの頭の芯を痛ませる。

 ――お前たち、今何処にいる? ……待て、『視る』。……ダアトか。何でそんなところにいやがる!

「っせぇな……。いいだろ。イオンの慰霊祭があったんだよっ……う」

 ――導師の……。フン。死者を悼む時間の余裕がある奴はいいな、レプリカ野郎。

「何でそんなこと言うんだよ!」

 思わず声を荒げて、ルークは走った痛みにぐっと歯を食いしばった。頭蓋骨に響く自分の声すらも、今は頭痛を助長させる。声を出すのはやめて、思考だけで会話を続けることにした。これでも、通信であれば通じる。

(……これから……バチカルへ帰るんだ。……父上たちにも障気中和の報告をしなくちゃならないからな)

 ――そうか。

 短い返事だけを残して繋がりが遠ざかっていこうとしているのを感じて、ルークは慌てた。

(おい、待てよ! それだけか? お前は何してるんだ? ……障気を消した後、お前は、体は大丈夫なのかよ)

 ――お前には関係ない。

(なんだよそれっ……つっ……)

 ――お前たちは寄り道でも報告でも好きにして、せいぜいダラダラ旅をしていればいいさ。……宝珠が必要な時はこちらから行く。それまでは勝手にしろ。

「ちょっ、アッシュ、待……」

「アッシュ? ルーク、アッシュがどうかしましたの!?」

 咄嗟に焦った声を出した途端、それまで側でじっと見守っていたナタリアが詰め寄ってきた。

『ナタリア!?』

 図らずも、頭の中に響くアッシュの声と、この場に出されたルークの声が綺麗に重なった。

「ルーク、アッシュは……アッシュは元気なのですか? なにか問題でも起こったのでは……」

 ――チッ。ナタリア、何て声を出してやがる。

(お前の声、ナタリアには聞こえてねぇって……)

 思考で呟いて、ルークは両手を胸の前で組んでいるナタリアに顔を向けた。

「別にアッシュがどうこうって訳じゃないよ。……お前に泣いて欲しくないんだってさ」

 ――な、誰がそんなことを言った!

「わ、わたくし泣いてなどおりませんわ!」

 ルークの頭の内と外とで、見事に合ったタイミングで同じ色を帯びた声が返った。思わず両耳を塞いで頭を押さえ、ルークは眉間に皺を寄せて小さく唸る。

(お前ら、ホントに息が合ってるよなぁ……。同位体でもねぇのに)

 ――うるせぇっ!! 屑のくせに一人前に人をからかってるんじゃねぇ!!

「ぐ、そっちこそうるせぇな! 別にからかってねぇよ。思ったことを言っただけだろ!」

「ま、まあ。今、うるさいって仰いましたの?」

 耐えかねて喚くと、ナタリアがハッと身を引いた。

「あ、違う、ナタリア。そうじゃなくて、アッシュが……」

「アッシュ? アッシュがわたくしにうるさいと……?」

 ――違うっ、俺じゃねぇ!! おいレプリカ、ちゃんとナタリアに説明しろ!

 頭の中に、やけに動揺したアッシュの声が響く。

「ルーク、アッシュは何と?」

 ――レプリカ、ナタリアに早く言え! ……えいくそ、俺が直接言うっ!

 途端に全身が強張って、ルークはギクリと目を見開く。体を操られるこの感覚だけは、どうにも受け入れがたい。

「ばか、やめろ!」

 ――くっ……。この、抵抗するな!

「馬鹿? 馬鹿と仰いまして? ルーク! アッシュは?」

 ――いいから替われ、この屑がぁっ!

「う、うぅ……」

 ガンガンと音が響く。

 煩い。痛い。痛い。痛い。挟まれて鬱陶しい。

「ルーク!」

 ――レプリカ!

だぁあぁあ〜〜〜〜っ、もう、うっせぇえ! お前ら二人とも、うぜーんだよっ!!」

 様々なものが限界に達して、これまでにない大声でルークは怒鳴り――そのまま、ぷつりと『切れた』。

「ルーク!?」「ご主人様っ!」

 ティアとミュウが悲鳴をあげたのが微かに聞こえたのが最後。痛みの頂点にさらされた意識が途切れて、ルークはその場に倒れた。






「……あれ?」

 ルークが目を開けると、辺りは薄暗かった。どこかの部屋のベッドに横になっていたのだ。小さな音素フォニム灯の明かりの中に見える天井はさほど高くなく、周囲の調度も簡素で古びている。なんか見たことあるな……と考え、ああ、ダアトでいつも泊まってる宿だ、と気がついた。

(暗いけど、今、何時なんだろう……。つーか、俺、なんで寝てたんだっけ……?)

 考えながらベッドの中で身じろぐと、すぐ側から声が降ってきた。

「ルーク!? 気がつきましたのね」

「ナタリア……?」

 見れば、ベッドサイドに置いた椅子にナタリアが腰掛けており、ホッとしたような、それでいて泣きそうな顔で覗き込んでいた。

「お前、何で……」

「ごめんなさい」

「へ?」

わたくし、あなたの体に掛かる負担も考えないで無理をさせてしまって……。本当にごめんなさい」

「え、あ……」

 そうか俺、アッシュとの通信のし過ぎで気を失っちまったんだな。

 ようやく、ルークはそれを思い出す。

「ちぇ、ダッセぇの……」

 横になったまま、ルークは片手で顔を押さえた。ここに寝かされているということは、皆がここまで運んでくれたということだ。この期に及んで迷惑をかけてしまった。

「けどナタリア、何でお前が謝るんだ? ……あ、もしかして『うぜー』って怒鳴っちまったからか? あれは、あんまり頭が痛くて苛々したからで……悪ぃ、怖がらせちまったかな」

「ルーク……」

 ナタリアは緑の目を見開いている。やがて、ふっと困ったように微笑んだ。

「あなた、本当に変わりましたわね。……いえ、全然変わっていないのかしら……?」

「はぁ? なんだよそりゃ」

 困惑顔になったルークは、「わたくしたちが初めて会った時のこと、覚えていまして?」と問われて更にその表情を深めた。

「あの時、わたくし、ファブレ公爵のお屋敷に忍び込んでいたのですわ」

「……あ、ああ。そうだったよな。庭の隅の植え込みの陰で、いきなりお前に会って……。考えてみたら、お前、あの頃から結構むちゃくちゃだったよなー」

 お姫様があんなところに忍び込んでんなよ、とルークが笑うと、ナタリアは微笑って少し目を伏せる。

「……七年前に『ルーク』が誘拐されて、帰って来て……でも、今は会える状態ではないからといって、わたくしは会わせてもらえなくて。一年過ぎてもそのままでした。お父様はあなたをお屋敷から出させないという命令を下しましたし、物を贈っても、手紙を書いても、返って来るのは代筆だとはっきり分かるものばかりで。記憶を全てなくしたという噂は聞きましたが、信じられませんでした。それでわたくし、もう我慢ならないと思ったのですわ。ちょうど叔母様が体調を崩しておいでで、そのお見舞いがしたいと強情を張ってお屋敷に入って、隙を見てお庭に……。そこであなたに出会いましたの」

 そう言って、ナタリアは笑顔にほんの少し咎める色を載せた。

「あの時はわたくし、それはもう決死の覚悟だったのです。それであなたに会えてどんなに嬉しかったか。ところがあなたときたら、わたくしに向かって仰いましたのよ。『だれだおまえ?』って」

 目の前が真っ暗になりましたわ、と言われて、ルークは「う……」と口ごもった。

「だ、だけどしゃーねぇだろ。ホントに、俺はあの時初めてお前に会ったんだから」

「そうですわね。でもあの頃のわたくしにはそれが分かりませんでしたから……悲しくて腹立たしくて、あなたに詰め寄ってしまいました」

 

『ル……ルーク! ルークですわよね!? わたくしですわ。あなたの婚約者のナタリアです!』

『はぁ? なんだよおまえ。「こんやくしゃ」とか、ワケわかんねぇ!』

『何を仰いますの? まるで、わたくしのことを忘れてしまったみたいに。そんな冗談、少しも面白くありませんわ』

『ジョーダンなんかいってねぇつーの。「なたりあ」なんかしらねーし。つーか、おまえも、かくれんぼしてるのか?』

『ち……違いますわ。わたくしは、あなたに会いに……』

『かくれんぼじゃないなら、なんでこんなとこにかくれてるんだよ。ここは俺のかくればしょなんだぞ。……あっ、おまえ、もしかして「ドロボー」か? ドロボーはこっそりかくれてるって、ガイがいってたぞ!』

『何てことを仰いますの。わたくしは泥棒などではございません! ルーク、いい加減ふざけるのはおやめになって』

『ちょっ……、やめろ、俺にさわんなよっ』

『きゃあっ!?』

 

「俺はワケわかんなくて、お前に怒鳴り返して……それで、しつこいって、お前のこと突き倒しちまったんだよな」

わたくしショックで、泣き出してしまって……。それを聞きつけて、ガイや他の使用人たちが集まってきてしまって。あの時は散々でしたわ」

「ホント、散々だったよ。……あの後ガイにこってり叱られたからなぁ。女の子に手をあげて泣かせるとは何事だ! ってさ」

 ルークがぼやいてみせると、ナタリアはふふ、と笑った。

「あれはガイの計らいだったのですわね。あの後、あなたから初めてお手紙が届いて。……読むのに苦労しましたけれど」

「しょーがねぇだろ。あの頃は俺、まだ殆ど読み書きできなかったんだからさ」

 ルークは少し拗ねた声を出す。

「……知らないと言われて突き倒されて、とても悲しくて……。わたくし、もうルークに会いに行くのはやめようと思っていました。ですが、あのお手紙を読んで、もう一度会いに行ってみようと思いましたの。それでも、簡単に許す気もありませんでした。わたくしも子供でしたから。ルークがどれだけ謝ってくれるか見てやろう、と思っていたんですわ。でも、あなたは……」

 

『いたいか?』

『え?』

『だから、お前、どっかいたいのか?』

『い……いえ、別に何処も……』

『ホントか? 女はよわいから、俺がつきとばしたせいでケガしてるかもしれないって、ガイが……』

わたくし、弱くありません!』

『ふーん。……じゃあ、へいきなんだな』

『勿論ですわ』

『そっか。へへ。よかった』

 

「そう言って笑って、後は独りでご機嫌でしたのよ。謝罪の言葉は一言だってありませんでした」

「う……。ご、ごめん……」

 本当に、かつての自分は周囲が殆ど見えていなかったのだ。自分が満足すればそれでよかった。決まり悪い思いでルークが謝ると、ナタリアは少し困ったような顔をした。

「今のあなたは謝り過ぎなくらいですわね。以前とは正反対。――でも、少しも変わってはいませんわ」

 ルークが三度みたび困惑顔を作ると、ナタリアはふわりと笑って言った。

「とても、優しいんですもの」

 口先の謝罪ではない。ただ、ナタリアの痛みの心配をしていた。それは、とてもつたないものだったけれども。

 ルークは目を瞬いた。

 ルークにとって過去の自分は『悪いもの』で、だから変わらなければならなくて。「変わっていない」と言われた時、てっきり悪い評価を下されたのだと思っていたのだ。

わたくしはずっと、あなたのその優しさに甘えていたのかもしれませんわね」

「べ、別に俺は……。優しくなんかねーし」

「そうでしょうか? イオンも、ずっとあなたのことを優しいと仰っていましたわ」

「……」

「アッシュと通信することで、あなたはあんなに苦しんでいましたのに……。今までわたくし、自分のことばかりで。大佐にも怒られてしまいました。今、ルークに無理をさせるべきではない、って」

「ジェイドが……」

「確かに、レムの塔であれだけのことを成し遂げたばかりですもの。体に異常はないという検査結果で安心しましたけれど、だからといって倒れてしまうほど無理をさせてしまうだなんて。わたくし、本当に至りませんでしたわ。ごめんなさい」

「……そんな何度も謝んなよ。元々、俺が通信を切ろうとしたアッシュを引き止めたんだしさ」

 ルークは笑った。その表情はどこかぎこちなく、強張っていたのだが。それでも、大きく息を吐いて笑顔で続ける。

「アッシュもなー。意地張ってないで、一緒に来ればいいのに。お前にこんな泣きそーな顔させてないでさ」

「わ、わたくしは別に……」

「でも、会いたいんだろ?」

 優しい声音でルークが確かめると、逡巡した後、ナタリアはこくりと頷いた。

「逢いたい……ですわ」

「うん。……ごめんな、ナタリア」

「え? どうしてルークが謝るのです」

「だって、アッシュがこっちに来ないのは俺がいるからってのもあるんだろうしさ。……それに俺、お前のこと七年間騙して、辛い思いさせてたってことになる訳だし……」

「そんな! そんなことはありません!」

 ナタリアは立ち上がって叫んだ。ルークが思わず耳を押さえて顔をしかめると、「あ、ごめんなさい……」と頬を赤らめて口を押さえ、腰を下ろす。緑の瞳で真摯にルークを見つめた。

「ルーク、忘れないで下さい。あなたはわたくしの大切な幼なじみです。あなたと過ごした七年間……いえ、六年ということになるのかしら。その間、辛かったわけではありませんわよ。楽しい思い出も沢山作りましたもの。これは決して偽りなどではない……本当のことですわ」

 そう言い、ナタリアは言葉を継ぐ。

「それに、わたくしは忘れません。わたくしがお父様の実の娘ではないと判った時、あなたがお父様に言って下さった言葉を……。たとえ血は繋がっていなくとも、共に過ごした思い出は本物なのだと。あの言葉にわたくしは救われました。……今、わたくしがここでこうしていられるのも、あなたの……。あなたが側にいてくれたおかげなのですわ」

 暫くの間、ルークは黙り込んだ。やがて目元をうっすらと赤らめ、「……うん。ありがとう」と呟く。

「ルーク。わたくしには今、夢があるのです」

 そんなルークを見つめながら、ナタリアは微笑んで言葉を続けた。

「世界が平和になって、あなたとアッシュが二人でバチカルに帰って来る夢。そして一緒にお父様を助けてくれたら、どんなに素敵なのかしらと思うのですわ」

 ふ、とルークが笑みをこぼした。声にからかうような色が混じる。

「――……お前、それ、欲張りすぎ」

「そ、そうですかしら」

「そうだよ。それって二股って言うんじゃねーの?」

「二股って……。もう、ルーク! そんなのではありません!」

「ははっ、分かってるって」

 笑って答えて、ルークは目を伏せた。何かに思いを馳せるように、口元に笑みを浮かべたまま。

「……だけど、アッシュと二人でバチカルに帰る、か……。そういうのも、いいよな。………そう出来たら、よかったな……」

「ルーク……?」

 ナタリアが不思議そうに見返してくる。「ん、なんでもねーよ」といささか慌てて返して、ルークは「よっ」とベッドに半身を起こした。

「起きても大丈夫なんですの?」

「ああ、もうなんてことないって。それより腹減ったな。今何時なんだ?」

「八時を少し回ったくらいですかしら。……あの、わたくし、お詫びにルークにお粥を作って……」

「え!?」

 ギクッ、とルークの全身が震えた。

「……差し上げようと思ったんですけど、ティアやガイに全力で止められて……」

「あ、そそそ、そうか。よかった! ……って、いや」

「いいですわ。わたくし、料理は苦手ですもの。結局、アニスが作ってくれましたのよ」

 少し拗ねる素振りで言って、ナタリアはサイドボードに置かれた雪平ゆきひら鍋を示す。

「でも、冷めてしまいましたわね。あたため直してきますわ」

「いいよ、そのままで」

 トレイを持って立ち上がり掛けたナタリアをルークは制する。ベッドの中で受け取ってトレイを膝に載せ、鍋の蓋を開けた。

「うん、美味い。やっぱアニスは料理が上手いよなー」

「本当ですわね。羨ましい限りですわ……」

 嬉しそうに粥を口に運ぶルークを見ながら、ナタリアがほう、と息を吐く。

「お前は王女なんだから、料理できなくてもいいじゃん」

 っていうか、しない方が世の為……と言いかけて、ルークは口をつぐんだ。ナタリアにジロリと睨まれたので。

「でも、アッシュの作る料理は美味しいんですのよ。殿方に料理の腕で負けるのは、なんだか悔しいものですわ」

「へぇ、そうなのか……」

 ルークは少し複雑な顔になった。ルーク自身、料理はかなり苦手だ。最近はどうにか食べられるものを作れるようにはなったものの、美味いと言ってもらえたためしがない。……まさか料理の腕まで本物オリジナルから劣化しているというわけでもあるまいが。

「でも、男で上手いって言ったら、ガイだってそうじゃん」

「そうでしたわね。あなたの誕生日の料理をガイが作っていたなんて……驚きましたわ」

 少し前にガイが自ら明かした秘密を、ナタリアは口に出した。

「だよな。言ってくれりゃーよかったのに……」

「ですわね。とても美味しかったのですもの」

 去年の暮れにファブレ邸で行われた生誕祭を思い出して、二人はくすくすと笑う。

「そういや、あの日はガイがぶっ倒れて、ちょっとした騒ぎになったよなぁ」

「あなたがガイを預言士スコアラーかたに向けて突き飛ばしたからでありませんか」

 その預言士スコアラーは女性だった。年配で、かなり恰幅がよかったが。屋敷の女性ならガイの女性恐怖症を承知していて、出来るだけ触れないようにしてくれるのだが、生誕預言スコアを詠むために呼ばれたこの女性は、倒れ掛かってきたガイを抱きとめて、ガクガク震える若者を介抱しようとしてくれたのだった。心優しくも、彼が気を失うまで。

「う……。だってガイの奴、朝から姿が見えなかったからさ、腹が立って……」

 でも、考えてみたら料理を作ってたからいなかったんだよな、とルークはひとりごちた。けれど、あの頃はそんな事情を量ることすらしないでいて。

「俺ってホント、ガキっぽくてワガママだったんだよなぁ」

「うふふ。そうですわね」

「あのな〜、少しは否定しろよ。……まあ、ホントのことだけどさ」

 口に手を当てて笑ったナタリアを恨みがましい目で睨んでから、ルークは小さく息をついた。

「……だけど、さ。楽しかったよな、あの頃。……ホントは、色々あって……俺も馬鹿だったし、皆にも色々辛い思いさせてて、それが見えてなかっただけなんだけど。でも、楽しかった。お前や、ガイがいて……。閉じ込められてたけど、大人になったら自由になれるって信じてて」

「今だって、わたくしもガイも側にいますわ。ティアやアニスや大佐やミュウも。それに、あなたは自由です。今も、勿論この先大人になっても、ずっと」

「…………そう、だよな」

 頷いたルークは、笑っていた。

 けれど、何かしら。――そう、ナタリアは思う。どこか、違和感がある気がする。これは、先程も感じたものだけれど。

「……あら、お水がありませんわね。わたくし、水差しをもらってきます」

「あ、悪いな」

 立ち上がって戸口に向かったナタリアの背に、ルークが声を掛ける。「とんでもありませんわ」と笑って、彼女は廊下に出た。パタリ、と背で扉を閉じる。

「……」

「あら、ナタリア。どうしたの? ルークの様子はどう?」

 戸口でぼんやりしていると、廊下をティアが歩いて来た。腕にミュウを抱いている。

「ティア。……なんでもありませんわ。ルークなら目を覚ましましたわよ。今、食事をしています」

「ご主人様、目を覚ましましたの!?」

 ミュウが歓喜の声をあげた。ふるふると体を震わせている。

「みゅうぅう……。よかったですの……。よかったですのぉ〜」

「まあ、どうしたのミュウ。少し大げさね」

 ティアは笑って、「でも、本当に良かったわ」と安堵の顔を見せた。そのまま部屋の扉に手を掛けた彼女に向かい、「あの、ティア」と、ナタリアは咄嗟に呼びかけていた。

「え、何かしら、ナタリア」

「あの……ルークは……」

「ルークがどうかしたの?」

「……いいえ、そんなはずありませんわね。ごめんなさい、何でもありませんわ」

 ティアは「そう?」と不思議そうな顔をしたが、そのままミュウを抱えて部屋の中に入っていった。それを見送ってから、ナタリアは廊下を歩き出す。

わたくしは今、何を言おうとしたのかしら……)

 そう、考えた。

(ルークが、また消えてしまいそうな気がしただなんて……。そんなこと、ティアに言うわけにはまいりませんわ)

 先程、ルークが見せた表情。――何かを抑えたような、どこか空虚な笑み。

 イオンが亡くなってから、ルークはよくそんな表情を見せていた。それは自らの命と引き換えに障気を消そうと考えていたからで、でも、それは解決できた事のはずなのに。

 ほんの数日前まで、毎日がひどく苦しかった。

 障気を消滅させるために、アッシュかルークかどちらかが消えねばならない。あの全てが灰色に塗りつぶされたかのような日々。レムの塔でローレライの剣を奪い合う二人の姿は、まさに悪夢のようだった。――どちらにも消えて欲しくなんかないのに。

 けれど、奇跡は起こった。アッシュとルーク、二人とも消えずに障気は消去された。……多くのレプリカたちの命を犠牲にしてではあったが。それでも、二人が残ったことを心からユリアに感謝したのだ。

(そうですわ。後はエルドラントに潜むヴァンの野望をくじくだけ……。そうしたら、平和な世界が訪れるはずですのに……)

 ナタリアは視線を窓から外に向けた。外は真っ暗で、ガラスは鏡のように廊下の情景を映し出している。中には、不安そうな顔をしたナタリア自身の姿があった。

『でも、会いたいんだろ?』

 先程のルークの声が耳の底に甦る。

(ええ……。逢いたいですわ。アッシュに逢いたくてたまらない)

 ナタリアは窓枠を握り締める。

(逢いたい。でないと、わたくし……どうしてこんなに……)

 窓枠を握る手が微かに震えていた。

 怖くて、震えが止まらない。

 握り締めた砂が指の間から零れ落ちていくように、何かが形を崩し、失われていく。そんな気がしてならなかった。

(どうして、こんなことを考えてしまうの。そんなはず、ありませんのに)

 握った手の中に残された砂は、あと僅かなのだ。

 天啓のように閃いたその思いを、ナタリアは首を振って振り払った。

(そんなはず、ありません。二人とも助かったのですもの。そんなはずは……)

 サラサラと砂は零れていく。

「アッシュ……。お願い、アッシュ。来て下さい……!」

 押し殺した声でナタリアは願いを口にした。――それは闇に食われ、叶えられることはなかったのだけれども。






終わり

06/05/05 すわさき


*天然ナタリアはルークの音素乖離に気付いていなかったというのが一般的解釈だと思うのですが、気付いたらこんなの書いてました(苦笑)。

 ルークがレムの塔で障気を消してベルケンドで検査を受けた後、バチカルに帰る前の話。ですから、まだティアはルークが音素乖離を起こしていることを知りません。この時点で知っているのはジェイドとミュウだけです。

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