歌が聞こえる。

 遠く、近く。波をもって己を震わせる、その響き。

 それを知覚した時、光が見えた。青白く冴え冴えとしたあれは、ルナの影だ。その下に広がる白い波は、黒々とした海に寄せ返す波頭と、そこに面した崖縁の草地で揺れる無数の花。

 ……見覚えがある。

 懐かしい、と思った。見えるもの、聞こえる声。そう感じる『自分』が、ここに『る』ということを思い出す。それと同時に、思いは志向性を持った。

 ――帰りたい。

 それは長らく忘れていた『意志』だった。それに伴って拡散していた『存在』が収束する。

 帰ろう。帰らなければならない。あの場所へ。荘厳な音律に揺らされる、白い波の寄せ返す『始まりの地』へ。

 今、『彼』はそれを望み求める。

 ――かつて交わした、『約束』を果たすために。









鏡面境界




 雨がじとじとと降っていた。しっかりとした外套とブーツは雨水の浸入を許さなかったが、満ちる湿った空気は不快だった。長かった髪は今は襟足で切り落とされている。それでも、頭からすっぽりとフードを被らされているせいで湿気がこもり、なんとなく頭皮に貼り付いてくる感じがする。

「もうじきだ」

 傍らの男がそう言った。が、すぐにその声に失笑が混じる。「そんなことは、言わずとも分かりきっていたな」と。それはそうだ。この道を、俺は知り尽くしている。一年ほど前までは日常的に歩いていた道なのだから。






 道を駆ける。駆け抜けていく。

「待って……待って!」

 背後から切れ切れに声が掛かった。頭からすっぽりと被ったフード付きの外套の裾が、走る動きに合わせてヒラヒラとたなびいている。

「待って、ルーク! わたくし、もう息が……」

 彼女は足を止めて、ぜえぜえと喉を鳴らした。被っていたフードが落ちて、波を持った金色の髪が露になっている。

「だらしないな、ナタリア」

「そんな、ことを言っても……。わたくし、こんなに走ったのは、初めて、なんですもの……」

 彼女は城から滅多に出ない。厳密には、出ることをあまり許されない。一国の姫君には走り回るような遊びも推奨されないから、実際、殆ど走ることもなかったのだろう。

「……だけど、ぐずぐずしてたら城に連れ戻されるかもしれないからな。天空客車に乗ればこっちのものだ」

「ええ……。折角ルークが街へ連れ出してくれたんですもの。わたくし、そう簡単には帰りませんわ」

 そう言うと、ナタリアは呼吸を整えて顔を上げた。「行きましょう」と強い笑顔を輝かせる。

 

 こいつと初めて出会ったのは、いつのことだったのか。記憶は定かではない。生まれると同時に親たちの間で婚約を定められ、従姉弟同士でもあった俺たちは、物心付く前から側にいて、当たり前に顔を合わせていたからだ。

「ルーク!」

 どこかの詩人が詠った通り、可憐な金の花のようなナタリアは、だが少しばかり生意気で説教臭い。

わたくしたち、大人になったら結婚しますのよ。王様とお妃様になって、この国を治めていくの。だから、立派な王様になってくれないと困りますわ」

「そ、そんなこと言われなくても分かっている!」

「そうですの? わたくし、聞きましたわよ。最近、勉強を放り出して街へ勝手に遊びに行っているそうじゃありませんの」

「あれは……遊びに行ってるわけじゃない」

「まあ、そんなこと言って。叔母様が心配していらしたわ。一人で街へ出かけるなんて、不良のすることじゃありませんこと?」

「……ナタリア。王になる者が民の実際を知らずに国を治めていけると思うか?」

「……え……?」






「――王になる者が自国のことも知らないでどうしますの!?」

 ナタリアは今日も目を吊り上げている。本の中の『お姫様』ってのはもっと大人しいものだった気がするけど。

 考えてみれば、最初に会ったときからこうだったよな、こいつ。『わたくしですわ。あなたの婚約者のナタリアです!』なんつって詰め寄ってきたから、ここだけの話、俺は少しびびってしまった。だって、父上でも母上でも使用人でも医者でもない、全然知らない奴に会うなんて、あの時が初めてだったからだ。

「うぜーなぁ……。別にどうでもいいじゃんか、そんなこと」

 一つ上だからって年上風吹かせるなっつーの。

「もう、ルーク!」

「るせぇ! 国のことっつったって、こんな文字ばっかじゃ訳わかんねーよ!」

 暗記するだけなら簡単だ。レムデーカン、シルフデーカン、ウンディーネデーカン……そう唱えて月の名前を覚えていったみたいに、歌にでもして唄っていればいい。だけどさ。俺が一度も会うことのない奴の名前、行ったこともない場所の歴史だとか特産だとか。そんなの必死に覚えて何になるんだっつーの。ある日そう思ったら、急に覚えるのが馬鹿らしくなった。

 この国の大きさ、人の数、都市の数。そんなこと言われてもピンとこない。キムラスカ・ランバルディアの人口はおよそ百五十万人。首都バチカルの人口はおよそ五十万人。それってさ、多いのか少ないのか? そもそも、俺は街ってものを見たこともない。この屋敷はバチカルの一等地にあるんだってガイは言うけど。五十万人って……。ウチの使用人たちは全部で何人いたんだっけ? これ以上人間がいたら、ぎゅうぎゅう詰めで一歩も歩けないんじゃないのか。

 俺のこの疑問を聞いて、ガイは笑った。

「街は、この屋敷よりずっとずっと広いんだよ。世界はもっと広い。果てがないかもしれないほどだ」

「ふーん……」

 なんだか想像が付かなくて曖昧に返したら、ガイは「お前、ホントに何も覚えてないんだな」と、俺が嫌いな表情をした。

「確かに、家の中にいるだけでは世界のことは実感できませんわね。……わたくしも、そうでしたもの」

「ナタリアも!? お前も軟禁されてたのか?」

「いえ、そうではありませんけれど……」

「王女というものは、あまり外を出歩くものじゃないからな」

 ガイが言った。「それに、陛下はナタリア様を溺愛しておられる」とナタリアに笑いかける。

「お父様は心配性なのですわ。あのままお城に閉じこもっていたら、わたくしはこの国の姿を何一つ知らないままだったでしょう。ですからわたくし……あなたには感謝していますのよ、ルーク」

「へ? 俺?」

「ええ。あなたがわたくしを城から連れ出して、世界を教えてくれたんですもの」

「……」

 そんなこと、俺は知らない。

「あの時は大変な騒ぎになりましたけどね。お二人の姿が消えて、どうやら天空客車に乗ったらしいことが判って」

「ルークと一緒に街に出て、天空客車に乗って……。何もかもが初めて尽くしでしたわ。そして……わたくしは、バチカルのもう一つの顔を見ました」

「王女様が貧民街を歩くなんて、前代未聞のことですよ。……あの辺りにはよからぬ連中も多いですからね」

「無事に戻ってこられたのは本当に幸運でした」とガイが言うと、ナタリアは「大丈夫ですわ。ルークと一緒でしたもの」なんて笑っている。

「それにガイ、あなたも迎えに来てくれたでしょう」

「……私はルーク様の従者ですから」

 そう言うガイは薄く笑って、ポットからナタリアのカップに紅茶を注ぎ足した。

 なんだか。なんつーか、面白くねー。俺の名前は出てるけど、俺はそんなの知らねーし。俺だけ置いてけぼりじゃんか。

「おーい! もうやめろよ、この話。俺に分かんねぇ話すんなっつーの!」

 テーブルの上をどんどん叩いて言ってやったら、ナタリアとガイは揃って俺の方を見た。

 よし。

「もう。ルークったらお行儀の悪いことはおよしなさいな」

 たちまちナタリアは説教口調に戻った。ガイは「はは」と笑う。

「ルーク、焼き菓子もっと貰ってきてやろうか?」

「うん!」

 俺が頷くと、ガイはトレイにポットなんかを載せて、それを持って本館の方へ行く。俺の後ろを通った時、小さく何か言ったのが耳を掠めた。

――のまま……って来なければよかったのに

「……?」

 不思議に思って俺は振り向いたけれど、ガイはもう向こうへ歩いていってしまっている。

 なんだ、あいつ。おかしな奴。――ま、いっか。






「――ルーク様!」

 中庭に出るなり声を掛けられて、俺はそちらに顔を向けた。不機嫌さが顔に出ていたかもしれない。ナタリアが『ルーク。最近、眉の間にしわが寄っていますわよ』と言っていたが、勝手に寄ってしまうのだから仕方がなかった。――それに眉間に皺が寄っているのは父上も同じだ。だから、これはこれでいいのではないかと思う。

「なんだ、ガイ」

 声音も低いままで問うと、「今日も家庭教師にしごかれましたか」と奴は笑った。おかしな奴だ。これだけ不機嫌な態度を見せてやれば、大抵の使用人は引くものなのに。こいつは朗らかな態度を崩したことはない。

「これぐらい、どうってことはない。俺の為すべきことなんだからな」

「ご立派な王になられるための?」

「当たり前だ!」

 そう答えると、ガイはにっこりと笑った。

「あなたのような次代の王を持って、キムラスカ王国は幸せですね。旦那様も、さぞお喜びのことでしょう」

「父上は……」

 言いかけて、俺は口をつぐんだ。

「ルーク様? どうかされましたか」

「うるさい、なんでもない!」

 思わず怒鳴りつけると、ガイがすっと息を吸うのが感じられた。思わず見やると、しかし相変わらずの笑顔を浮かべている。……気のせいだったか?

「ですが、たまには息抜きされれば宜しいのに」

 毎日勉強ばかりでは辛いでしょう、と笑う。ガイが屋敷に来たのは俺が四歳の時だ。俺付きの使用人――というより、元々は俺のお守り役、遊び相手として雇い入れられた。歳も四つほどしか離れていない。こいつにしてみれば、俺の機嫌を取り、遊ばせることこそが自分の重要な仕事だと思っているのかもしれない。

「俺にはもう遊んでる暇なんかないんだよ。……お前だって、俺の相手をするだけが仕事じゃないだろう。余計な口出しはするな。使用人は使用人としての役割をきちんと果たせばいい」

「――……そうでしたね」

 ガイは笑った。慇懃に頭を下げて、まるで執事のように告げる。

「ルークお坊ちゃま、応接室でお客様がお待ちでございます」

「客?」

「ローレライ教団神託の盾オラクル騎士団のヴァン様です」

「ヴァン師匠せんせいが? だけど、今日は剣の修練の日じゃないだろう」

「別件でバチカルに立ち寄られたそうで。ルーク様にお時間があるならお話がしたいと」

「分かった……すぐ行く。お前は下がれ」

「はっ」

 頭を下げるガイには構わずに俺は歩き出す。――と。

「ルーク様」

 珍しいことに、背後からガイが呼び止めてきた。

「王になる者が、民の実際の暮らしを知らずに国を治めていけると思いますか?」

「……何?」

 見返したガイの顔は相変わらず朗らかに笑っている。

「これも余計な口出しですね。ですが、宜しければ今度私がご案内しますよ。……この街を」

 ガイは俺が四歳の時、俺のお守り役として雇い入れられた。もう六年近く、側にいるのが当たり前というほどの付き合いで。

 だがこの時、俺は何故か初めて、こいつが本当に感情を込めて作った顔を見たような、そんな気がしたのだ。






「――ヴァン師匠せんせいっ!」

 全力で駆け寄ったので上手く止まりきれずに、俺は師匠に殆どぶつかりそうになってしまった。「おっと」と師匠は受け止めてくれて、低くてよく通る声で笑う。

「相変わらず元気だな、ルーク」

「へへ……」

 照れ臭くってへらへら笑ってしまった俺の頭を、師匠の大きな手がくしゃくしゃと掻き回した。ガイにこうされると、最近はちょっと腹が立つんだけど(だっていかにもガキ扱いって感じじゃん)、師匠だけは別だ。初めて会った時も――実際はそうじゃないらしいんだけど、昔のことは全然覚えてねぇから、俺にとっては初めてだ――こうしてくれたっけ。

「ヴァン師匠、今日は俺に稽古つけてくれるんですよね!?」

「無論だ。私が来ていない間も鍛錬は欠かさなかっただろうな?」

「はい!」

 そんなの当ったり前じゃん!

「では、見せてもらおうか。まずは基本の型からだ」

「分かりました!」

 握り、構え、重心……そういったものに細心の注意を払いながら、俺は木刀を振る。師匠の前なんだ。みっともないところは見せらんねぇ。

「――よし。よく出来ている。基本は身についたようだ。頑張ったな、ルーク」

 やった、やった、やった。誉められた!

「ありがとう、師匠」

 本当は踊り出したい気分だけど、『剣を扱う時は礼節を持ち、相手に敬意を払うものだ』って散々言われてるから、口だけで我慢する。

「ではルーク、次に……」

 言い掛けた師匠の言葉が止まった。見上げると、師匠は屋敷の方を見ている。釣られて俺もそっちを見て、ドキッとした。

「……父上」

 回廊の所から父上がこっちを見ていた。公務から帰って来たんだ。師匠が頭を下げて、父上もそれに返している。でもやっぱり俺の顔は――見ない。

「ほら、ルーク」

 不意に、柔らかいタオルで顔をこすられた。ガイが側に来ていて、「汗が目に入ると痛むだろ」と俺の顔を拭いている。言われてみれば、ぬるぬるして気持ち悪かった。大人しくガイに拭かれることにする。

「お前、剣の稽古になると本当に熱心だよな。他の教科もこれぐらいやってくれたらいいんだが」

「ジョーダン! あんなつまんねーことやってられるかっつーの」

「その分のしわ寄せが俺に来ることになってるんだがなぁ……」

 確かに、逃げ出した後で出される宿題を片付けるのに、いつもガイを付き合わせてるのはちょい悪ぃと思ってるけど。

「お前が俺に付き合うのは当たり前だろ」

「ま、確かに私はあなたの使用人ですからね、ルークお坊ちゃま」

 ガイは肩をすくめて笑っている。俺はちょっとムッとして、ガイの髪を掴んで頭を引き寄せた。

「そうじゃねぇだろ! 確かにお前は俺の使用人だけど。そうじゃなくて……。お前は、俺の友達じゃん!」

 ガイはすごくびっくりした顔をしている。髪を引っ張られて痛かっただけかもしれないけど。それでも俺はなんだか焦った気分になって、早口でまくしたてた。

「ペールが言ってた。友達ってのは、好きで、一緒にいると楽しくて、大事だって思える人のことだって。中でも一生一緒にいられるような人のことを親友って言うんだって。――お前は俺の使用人だから、ずっと俺と一緒だろ。だからお前は俺の、親友……じゃんか」

 ガイが何も言わないので、顔を伏せた。なんか、苦しくなったから。

 まずいことを言ったのかもしれない。最近はあまり見なくなったけど、ちょっと前までは、ガイもよく俺の嫌いなあの表情かおをしていたし。母上やナタリアみたいに、ホントは、俺のこと……。

「ルーク」

 くしゃりと髪の毛がかき混ぜられた。顔を上げると――ガイが笑っている。

「そうだな。お前は俺の――親友だよ」

「ガイ……!」

「そうでもなけりゃ、一年765日、朝から晩までお前に付き合うなんて芸当、出来るはずないからなぁ」

「な、なんだよそれっ」

 ぷっと頬を膨らませたら、向こうから「ルーク」と師匠せんせいが呼んだ。

「私は少し公爵様と話さねばならないことがある。すまないが、今日の稽古はここまでにしておこう」

「えーっ!? そんなぁ。まだ全然じゃん!」

「ふふ、そう拗ねるな。また明日来る。続きはその時見てやろう」

 そう言うと、師匠はゆっくり屋敷の方へ歩いていってしまった。

「あーあ、師匠行っちまった……。父上と何の話があるって言うんだよ」

「ケセドニア北部での紛争が続いているからな。ケセドニアはダアトと関わりが深いし、導師イオンが停戦を求める導師詔勅を出すって噂だ。それに関することなんじゃないか?」

「はぁ? 訳分かんね。それと師匠と何の関係があるんだっつーの」

 そう言ったら、ガイはチラリとあの表情かおをした。だけど、俺が嫌な気分になるより早く、いつも宿題に付き合ってくれる時の口調で話し始める。

「ヴァン謡将は神託の盾オラクル騎士団の主席総長だろ」

「神託の盾騎士団ってので一番偉いんだよな」

 さっすが俺の師匠だぜ! と言うと、ガイは「厳密には、その上にモース奏将と導師イオンがいるんだがな」とか言った。めんどくせーな。「まあ、実質的に神託の盾騎士団を統括しているのは確かだ」って言うんだから、ごちゃごちゃ言わなくてもいいじゃん。

「神託の盾騎士団ってのは建前上はローレライ教団の警備組織だが、実際には強大な軍隊だ。謡将はそれをまとめ、指揮しなければならないんだよ。……お前が記憶を失う以前ならともかく、この職に就いた今となっては、本来なら月の半分もダアトを離れて、お前に剣の稽古を付けていられるはずはないんだがな」

「そ、それってどーいうことだよ……」

 月の半分だって少ないって思ってるのに!

「そうだ! なら、師匠せんせい神託の盾オラクル騎士団を辞めて、ウチの使用人になればいいんだよ。そうしたら毎日剣の稽古つけてもらえるじゃん!」

 凄い名案を思いついたのに、ガイは感心するどころかぷっと吹き出した。降参とばかりに両手を挙げてみせる。

「参った。お前って、ほんっとーにヴァン様が好きなんだなぁ」

「当たり前だろー? だって、師匠はさ……」

 言いかけて、俺は口をつぐんだ。

「ん? なんだよ」

「やっぱお前には言わねー」

「なんだそれ。こら、俺はお前の親友なんだろ? 親友に隠し事する気か」

「うるせぇな。この話は終わりだ終わり! それよかガイ、師匠の代わりに稽古に付き合えよ。まだ物足りねぇ」

 そう言って予備の木刀を一本放ってやると、片手で受け取ってガイは肩をすくめた。

「はいはい。気が済むまで付き合ってやるよ、ルーク」

「おう! 行くぜ」

 ガイは俺の親友だけど、時々、俺をあの表情かおで見る。でも師匠せんせいだけは違ったんだ。

 最初っから、一度だって。

 師匠せんせいは俺のこと。――悲しそうな、がっかりした表情かおで見たりはしなかったから。






 それだけのこと。ただそれだけのことでヴァンを信頼したのかと、人は笑うのかもしれない。だが、俺にとってはそれは重要なことだったのだ。

 元々、俺はヴァンが嫌いではなかった。その剣の腕、知識、立ち居振る舞いは尊敬に値するものだったし、掛けてくれる言葉は力強く温かで。何よりも、そこに媚がないことが気に入っていた。周囲を気にせず、あくまで師と弟子として、様付けではない『ルーク』と呼んでくることも含めて。

 俺は――ヴァンに『ルーク』と呼ばれるのが好きだった。

「ヴァン師匠せんせい神託の盾オラクル騎士団主席総長就任おめでとうございます」

 祝辞を述べると、ヴァンは穏やかに笑って俺を見返してくる。その身にまとう法衣は以前とは異なるものだ。

「ありがとう、ルーク。……はは、だがおかしなものだな。私は今日、お前を祝いに来たはずなのだが」

 そう。その日は俺の十回目の生誕の日。屋敷ではそれを祝う式典が行われていた。

「ですが、師匠せんせいが就任されてからお会いするのは初めてですから」

「そうだな……。導師エベノスが病に伏されてからもう半年近く。色々と気ぜわしくて、こちらに来る暇もなかった」

 ホド戦争を停戦に導いたことで有名な導師エベノスが倒れ、未だ八歳の次期導師イオンが代行に立って以来、ローレライ教団には大変革の波が起こっていた。ヴァンが神託の盾オラクル騎士団の主席総長に就任したこともその一つだ。弱冠二十歳の彼がその地位を得たことに猛反発したやからも少なくないと聞く。以前は綺麗に剃られていた髭が彼の顎に伸び始めているのを見て眉を顰めると、「見苦しくてすまんな。今、伸ばしているところなのだ」と彼は笑った。少しでも貫禄を付けたいということらしい。

「馬鹿な話です。年齢など、能力には関係ないのに。師匠せんせいにはそれだけの力があった。だから選ばれたというだけのことだ」

「……ふ、確かにそうだな。自らの意志を持ち、己の能力を正しく磨いた者こそが望む場所へ行くことが出来る。年齢や、慣例や、カビの生えた古い言葉に従おうとするだけの者は……ただの屑だ」

「……師匠せんせい?」

 いつになく尖った言葉に、一瞬、何かを感じて俺は目を瞬かせた。だが、次にヴァンが発した言葉でそれは霧散してしまう。

「ルーク。お前もそうだ。お前はまだ幼いが、誰よりも努力し、己の能力を磨いている」

師匠せんせい

「私はちゃんとそれを知っている。……そしてまた、お前には優れた才能がある。他の誰にも備わっていない偉大な力だ」

 ヴァンは続けた。俺の目を真っ直ぐに見下ろして。

「その力は、これからの世界を変えるために必要なものだ」

「分かってます、ヴァン師匠せんせい。俺はキムラスカの王になり、この国を変える」

 そのためにも、もっともっと己を磨かなければならない。王者として、治める者に相応しく。――そうすれば、きっと……。

「ふふ。最近はよく街へ出ているそうだな」

「は、はい。国の真の姿を知るためには、自分の目で見て、自分の足で確かめるべきです。バチカルの上層に閉じこもっていては、この国の政治は何も変わらない」

「だが、ナタリア王女まで連れ出して騒ぎになった。……公爵様が立腹しておられたぞ」

「……」

 黙り込んだ俺の頭を、くしゃりと大きな手が掻き回した。そしてポンと背中を叩く。

「……師匠せんせい。主席総長になられたからには、もうこちらへは滅多に来られませんよね」

 俺はヴァンが好きだった。剣の師として一人の男として尊敬できると思っていたし。掛けてくれる言葉は力強く温かで。

「公爵様にも話すつもりだが、お前の剣の指南は続けたいと思っている」

「……え? でも……」

「以前のように頻繁というわけにはいかないだろうがな。

 お前は私の唯一の弟子だ。ルーク。私はお前を手放したくはない。……不満か?」

「――い、いえっ!」

 俺は、ヴァンに『ルーク』と呼ばれるのが好きだったのだ。――父上が決してそうは呼ばない、強く優しい声色で。

「ルーク。お前に会わせたい者がいる」

 微笑みの顔のまま、不意にヴァンは言った。

「え?」

「これからの世界を変えるには必要なことだ。だが、出来れば公爵には――公爵家の面々には知られないようにしたい」

 一人で街に出てこられるか、とヴァンは囁く。「勿論です」と返すと、奴は満足げに笑った。






 雨がじとじとと降っている。

 その中で、剣を打ち合う。二度、三度と。しずくを跳ね飛ばし、やがて力が拮抗して、噛み合せたやいばを境にして睨み合った時、俺はぎょっと息をつめてあいつの顔を凝視した。

「お前……!?」

 自分でも馬鹿みたいだと思えるほどに声が震えた。力の抜けた剣を押し返されて、よろめいて身を離す。それでも、そいつの顔から目が離せなかった。

「アッシュ! 今はイオンが優先だ!」

「わかってる!」

 背後から掛かったシンクの声に答えて、あいつは剣を腰の鞘に戻す。それから俺を憎々しげに睨んで、腹の底から響く声で吐き捨てた。

「いいご身分だな! ちゃらちゃら女を引き連れやがって」

 そして背を向けて、停まっていた黒い陸艦に乗り込んでいく。

 なんだ……なんなんだよ……。

 神託の盾オラクル騎士団六神将、鮮血のアッシュ。

 けぶる雨の向こうに消えていく陸艦を見送りながら、俺は頭の中でそればかりを繰り返していた。

 なんで、あいつ……。俺と同じ顔をしてるんだ……!?






「……くそっ」

 陸艦に乗り込んで、悪態を吐いた。濡れて落ちた前髪から、ぽたぽたとしずくが散る。

 あいつ、まるで起き上がった死人でも見たようなツラをしていた。青ざめて、ぽかんと抜けた感じに口を開けて。――そうだな。俺には手に取るように奴の気分が分かる。

 ゾッとして、ムカついて、吐き気すら覚えて。

 別に、先だってディストに開かせておいた同調フォンスロットのおかげだという訳ではない。――俺自身がそうだったからだ。初めてあいつの顔を見た、七年前のあの時。

「あなたは……」

 傍らから、俺たちと同じように濡れそぼった白い法衣の少年が声を出した。導師イオンと呼ばれている、ローレライ教団最高指導者の立場を持った人物だ。神託の盾オラクル騎士団に属する俺たちにとっては、本来は護るべき主人であるはずなのだが、今は俺たちの手によって捕らえられ、虜囚となっている。

「やはり、あなたが……彼のオリジナルなのですね」

「……そうだよ」

 皮肉に笑って返してやると、イオンは苦しげな顔をした。

「ですが、彼は何も知らない……」

「そうだ、あいつは何も知りやしない。あの出来損ないはな!」

「そんな、出来損ないだなんて」

「出来損ないだろうが! 何も知らねぇ、知ろうともしねぇ、暖かな場所でただぬくぬくと過ごしていただけの、屑だ!」

 髪に染み込んだ雨水がまた一滴ひとしずく、額をつと流れ落ちる。

 あの日も、雨がじとじとと降っていた。

 濡れながら市街地を抜けて久しぶりに入った屋敷は薄暗く、響く雨音が逆に静けさをかもし出していた。まるで屋敷全体が眠りに入っているかのように思える。

「これは、グランツ謡将」

「お久しぶりですな、ラムダス殿。……いえ、お気になさらず。バチカルへ立ち寄る用事があったものですから」

 執事とヴァンの会話を他所に、俺は狭い視界から食い入るようにそれを見ていた。大きな窓の向こうに見える、雨に濡れた中庭。その奥に見える扉。俺の部屋の扉だ。

 俺がいた場所。いるべきだった場所。

「――それで、ルークの様子はどうですか」

 その響きに、意識が引き戻された。見上げれば、ラムダスがなんとも苦渋に満ちた、困ったような顔を見せている。

「それが……。この一年ほどの間にだいぶ回復をされはしたのですが、まだ、記憶は……」

「記憶は戻ってはいないのですか」

「はい。あの時、誘拐されたルーク様を発見したのはグランツ謡将でしたからお分かりかと思いますが……。自分の名前や、旦那様や奥方様のお顔はおろか、言葉も、歩き方すらお忘れになっている状態で……」

 その時、窓の向こうに見える扉が勢いよく開いた。中から転がるように駆け出してくる姿がある。

 父上のように背中まで伸びた赤い髪を垂らしていた。目は母上や伯父上と同じ緑石の色で。たどたどしい足取りで、その子供はきゃらきゃらと笑いながら中庭のタイルの上に出来た水溜りを跳ね飛ばして回っている。

「こら、ルーク!」

 続いて、開いた子供部屋の扉の中から飛び出してきた人間を見て、俺は心底驚いた。水溜りの中に両膝をついて、金色の髪の少年が赤い髪の子供を抱きしめるようにして捕まえる。何が嬉しいのか、それだけで子供はまたきゃらきゃらと笑った。

「これは……! 何をしておるのだ、ガイ! ルーク様が雨に濡れる」

 窓を開けて、ラムダスが中庭に向かって怒鳴った。

「すみません、ルーク様が急に飛び出したものですから」

「ああ、早くお部屋へ入れて差し上げろ。旦那様が留守の間に風邪でも引かれたらどうする! おい誰か、ルーク様にタオルを……」

 窓から離れて、ラムダスは使用人棟の方へ声を掛け始めた。開いた窓の向こうに見える光景に、俺は釘付けにされる。

「がい」

 ひどく舌足らずな、まるで赤ん坊のような声で、赤い髪の子供は金の髪の少年を呼んだ。抱きとめられたまま手を伸ばして、少年の頬に触れる。

「駄目だ、ルーク。濡れて体が冷えるだろう。雨の日は、部屋の中で大人しくしているものなんだ」

 そう言うと、少年は子供を抱いたまま立ち上がる。不満げに「うー」と唸って、ジタバタと子供が暴れた。

「わっ……ちょっと待て、ルーク!」

 暴れる子供が腕からずり落ちそうになって、少年は慌てて抱え直そうとし、体勢を崩した。子供を膝の上に抱えたまま、濡れた石畳の上にバシャッと尻餅をついた格好になる。もう、すっかりずぶ濡れだ。

 きゃはははと子供が笑った。

「ったく……お前は」

 最初は憮然として、それからゆっくりと苦笑が、次第に明るさを増しながら少年の顔に広がっていく。

「ホントに、どうしようもない悪ガキだよ」

 ガイとは、七年間一緒にいた。俺のお守り役で、使用人で、幼なじみで。

 だが、こんな表情かおは知らない。俺が見知っていた、使用人の鑑みたいなそれとは、違う。

「がいー」

「ん? ……ああ、雨が上がったな」

「あー! あー!」

 子供が目を輝かせて空を指差した。日の射し始めた空に、大きな七色の弧が浮かび上がっている。

「虹か」

「にじ?」

「ああ、そうだルーク。あれは虹っていうんだ。綺麗だろう」

「にじ、きれい!」

 子供は立ち上がって空に向かってはしゃぐ。ようやくタオルを抱えたメイドたちがやってきて、逃げようとする子供を追いかけ始めた。

「まあ……随分賑やかね」

 懐かしい声が聞こえて、俺はドキリとする。たおやかな影が中庭に下りてきていた。

「ははうえ!」

 声をあげると、子供はその女性に飛びつく。「駄目ですよ、ルーク様」「奥様、お召し物が濡れます」とメイドたちが騒ぐ声がしたが、女性は穏やかにそれを止めた。彼女の声や仕草、まなざしは、記憶にあるものとまるで変わらない。

「ははうえ、にじ」

「あら……本当ね。綺麗だわ」

 空を見上げてから、女性は子供の頭を優しく撫でる。

「教えてくれてありがとう。ルークは優しい子ね」

 母上は変わらない。いつか俺に掛けてくれた声と同じ優しさ、声色で。

 ――あそこにいるのは、何だ?

 母上に撫でられている。メイドたちに取り囲まれて、ガイに抱き上げられて。タオルでぐるぐる巻きにされながら運ばれていく、幸せそうな子供。人間ではないはずの、けれど限りなく人にしか見えないもの。

 ぐっ、と腹の底から何かがこみ上げた。叫びだしたい。だが、出来なかった。この、顔に被せられた仮面のせいで。

 ゾッとして、ムカついて、吐き気すら覚えているのに。その表情を見せることすら出来ない。

「――大丈夫か?」

 誰も気にかけない俺の異変に気付いたのは、ヴァンだけだった。答えたくとも声は出ない。奴に被せられた仮面に掛けられた譜術で、今は俺の声は封じられている。

「おや、お連れの方がどうかされましたか」

 近付いてきたラムダスに、ヴァンは落ち着いて「少し体調が悪くなったようです」と告げた。

「それはよくありませんな。医者をお呼び致しましょうか」

「いえ、お気遣いなく。教団の修道院には治癒術師ヒーラーもおりますから」

 そう言って、ヴァンは俺の仮面を見て僅かに眉を顰めたラムダスにしゃあしゃあと語る。

「この子供は、先の戦乱で家族を失い、自身も顔にひどい傷を負いましてな。喋ることも出来ません。仮面を着けたままのご無礼をお許し下さい」

「そ、そうでしたか……。しかし、そんな子供を引き取っているとは、流石はローレライ教団ですな」

「今の世は、傷を負った子供ばかりですよ」

 笑い、ヴァンは言った。

 

「――どうだ。これで私の言っていたことが真実だと分かっただろう」

 バチカルからダアトへ戻る船の中で、ヴァンは俺に言った。

「お前の身替わりにレプリカを造った。お前の周りにいた人間は、誰一人としてお前が偽者と摩り替わったことに気付いてはいない。奴らはアレに満足している。――あそこには、もはや、お前の居場所はないのだ」

「……」

「この一年近く、お前は実に頑固だったな。バチカルへ帰ることを決して諦めなかった。……その意志の強さこそが、私が必要としているものだ」

 ――必要……?

 見上げた俺の視線を受け止めて、ヴァンは笑う。バチカルの屋敷で剣の稽古をつけてくれていた頃と変わらぬ優しい顔で。

「ルーク。今こそお前に真実を語ろう。お前は、あのままバチカルにいたとしても、決して王になれることはなかった。お前はキムラスカの武器として死ぬために、あそこで飼い殺されていたのだからな」

「……!?」

「ユリアの第六譜石の預言スコアにこうある。

 ND2000。ローレライの力を継ぐ者、キムラスカに誕生す。其は王族に連なる赤い髪の男児なり。名を聖なるほむらの光と称す。彼はキムラスカ・ランバルディアを新たな繁栄に導くだろう。

 ND2018。ローレライの力を継ぐ若者、人々を引き連れ鉱山の街へと向かう。そこで若者は力を災いとし、キムラスカの武器となって街と共に消滅す。しかる後にルグニカの大地は戦乱に包まれ、マルクトは領土を失うだろう。結果キムラスカ・ランバルディアは栄え、それが未曾有の大繁栄の第一歩となる。

『聖なる焔の光』とは、お前も知っての通り、現代のフォニック言語では『ルーク』と読む。つまり、これはお前のことだ。インゴベルト王をはじめ、キムラスカの中枢の人間はみんなこれを知っている。そう……お前の父、ファブレ公爵も例外ではない」

 ヴァンが両手を伸ばした。奴にしか外すことの出来ない仮面に手をかけ、ゆっくりと取り外す。

「………うそだ」

 やっと自由になった声で、俺はそれだけを呟いた。

「嘘ではない。だからこそ、公爵はお前のことを気に掛けなかったのではないか? お前は跡継ぎにはなり得ないと知っていたのだから」

 仮面の下でずっと封じられていた涙が溢れ出し、流れ落ちた。

「ユリアの預言スコアは一度も外れたことがない。ただの一度もだ。キムラスカも、来るべき繁栄の為に預言を確実に成就させようとするだろう。

 だがルーク、私はお前を救ってやりたい。そのためにお前を誘拐し、レプリカと摩り替えたのだ」

「え……?」

「奴らはレプリカをお前だと思い込んでいる。インゴベルト王は『ルーク』を成人まで屋敷から出さないという勅命を下した。六年後に預言通り死ぬのは、あのレプリカだ。お前は死なずに済む」

「だ、だけど……。なんで、そんな……」

 戸惑った声を出した俺に、ヴァンは微笑みかけた。

「強引な方法を取ってすまなかったな。だが、私を信じて欲しい。蒙昧な連中に甘やかされ、預言スコアを成就させるために死ぬだけの役なら、あの劣化レプリカでも充分に果たせる。だが、私が求めているものは違う。強い意志と超振動という稀有な力。それを持っているのはルーク、世界でお前だけだ」

 生まれてから十年間育った屋敷。あそこに俺の居場所はなかった。

 俺と同じ顔をした、あのレプリカに奪われた。

(ガイは笑っていた。俺には見せなかった明るい顔で)

 ――いや、最初からなかったのか?

(父上と伯父上は、俺が繁栄と引き換えに死ぬことを知って――望んでいた)

「私は預言スコアを守る為に人を殺す、この愚かな世界を変えたいと思っている。私と共に来てくれ。他の誰でもない、私には、お前が必要なのだ」

「……っ、ふっ……」

 涙がぼたぼたと落ちる。子供じみた嗚咽は、一度漏れ出すと止まらない。肩にそっと置かれたヴァンの手を拒む力は、もう、俺にはなかった。

 

『ルーク。わたくしたち、大人になったら王様とお妃様になるのよ。死ぬまで一緒にいて、この国を……』

 

 金の花のようなナタリア。俺はお前の所へは帰れない。この男の手を取ってしまう俺は、もはや、あの天空の都市の陽だまりで、お前と一緒に光を浴びることは出来やしないのだから。






 俺は悪くねぇ。

 俺は悪くねぇ、俺は悪くねぇ! そうだ、師匠せんせいが悪いんだ。だって師匠が言ったんだから。あそこで超振動を使えば障気を中和できる、みんなを助けることが出来るんだって。みんなを助けられたら俺は英雄になって、そうしたら自由になれる。いいこと尽くめだ。

 俺の存在はユリアの預言スコアに詠まれてた。俺はローレライの力を継ぐ者で、キムラスカの武器になるんだって。父上も、伯父上も、俺を武器として使い、戦争を起こすために軟禁していたんだ。

 武器として使われるなんて、ごめんだ。この先もずっと家に閉じ込められて、人を殺す時だけ外に出されるなんて、そんなの嫌に決まってる。俺は人を殺したくない。もう殺したくないんだよ!

 師匠は、俺を助けてくれるって言った。ダアトに亡命させてくれて、ずっと一緒にいてくれるって。

 師匠は、いつも優しかった。剣を教えてくれた。誉めたり叱ったりしてくれて、俺が知りたい事はちゃんと教えてくれた。昔のことを思い出せとは言わない。知らないからって馬鹿にしたり、前は出来たのにってがっかりもしない。何もかもを隠して俺だけを除け者にしたりもしないんだ。記憶を失った可哀想なルークじゃない、何も知らない馬鹿なお坊っちゃんでもない、今の俺を見てくれた。俺は俺のままでいいんだって認めてくれた。俺が必要なんだって。

 なのに、なんで。

(考えたくない)

(だって、あれが俺のせいなんだとしたら)

(みんな死んだ。壊れて、砕けて、泥の海に沈んで行った)

(償えない。取り返しなんてつかない。どうすればいいんだ? ――死んで詫びるのか?)

(嫌だ)

(怖い……。怖いよ……)

『ここにいると馬鹿な発言に苛々させられる』

『記憶を失ってからのあなたは、まるで別人ですわ……』

『こんなサイテーな奴、ほっといた方がいいです!』

(なんだよ。やめろ。俺を責めるな。そんな目で見ないでくれ!)

 失望されるのは嫌いだった。その時に人の顔に浮かぶ色を見るのが、苦しくて。

 ――悲しそうな、がっかりしたような、呆れたような、軽蔑したような、……無関心な。

 どんなに頑張っても誘拐される前の記憶は取り戻せない。みんなが待ち望んでいる『ルーク』になれない。

 

『私には、お前が必要なのだ』

 

(怖いよ……)

(一人に、なりたく、ないのに)

『ルーク……あんまり幻滅させないでくれ』

『少しはいいところもあるって思ってたのに……。私が馬鹿だった……』

 違う。俺は悪くねぇ。俺は悪くねぇっ。俺は悪くねぇっ!

 そうだろ。師匠せんせいが悪いんだ。だって、俺が必要だって、私の元へ来ないかって言ったくせに。

 なんで。どうして……俺を見捨てて行っちまったんだよ!






「教えてやるよ。『ルーク』」

 にやりと笑って、俺は言ってやった。舌なめずりをしたい気分だ。

「アッシュ! やめて!」

 ヴァンの妹だというティアという女が叫ぶ。お優しいことだが、やめてやるつもりはさらさらない。

「俺とお前、どうして同じ顔をしていると思う?」

「……し、知るかよ」

 青ざめて、それでもあいつは俺を睨み返してくる。俺と同じ目で。――虫酸が走る。

「俺はバチカル生まれの貴族なんだ。七年前にヴァンて悪党に誘拐されたんだよ」

「……ま……さか……」

「そうだよ! お前は俺の劣化複写人間だ。ただの模造品レプリカなんだよ!」

「う……嘘だ……! 嘘だ嘘だ嘘だっ!」

 殆ど血の気のなくなった顔で叫んで、あいつは腰の後ろから剣を抜いた。

「……やるのか? レプリカ」

「嘘をつくなぁーーっ!」

 斬りかかって来る。俺も剣を抜き、それを受け止めた。

 少し前には人を殺してへっぴり腰で震えていたくせに、大した馬鹿だ。

 俺が初めて人を殺した時は、あんなにみっともなく震えたりはしなかった。この世界で剣を学ぶからには相応の覚悟が要る。それが最初から分かりきった『常識』だ。――だから、俺は。

 

 ガキィン、と重い手応えを剣から腕に感じる。その刃を弾き、すぐさま腕を返して鋭く斬り裂いた。赤い血潮が飛ぶ。飛沫がピシャッと頬に当たった。倒れ伏した体から俺の足元の方へ血溜が広がってくる。

「――よくやった、ルーク」

 肩で息をつく俺の後ろから、ヴァンの声が聞こえた。

「見事な太刀筋だ。流石は我が弟子だな」

 誇らしい気分で、俺は肩越しに振り向いてヴァンを見上げた。もうすっかり神託の盾オラクルの主席総長に相応しい貫禄を身に付けた男がそこにいる。更にその背後にいるのは、神託の盾騎士団の幹部であり、俗に神将と呼ばれている連中だ。第一師団師団長ラルゴ謡士、通称・黒獅子のラルゴ。第二師団師団長ディスト響士、通称・死神ディスト。そして最近ヴァンの副官となった、第四師団師団長リグレット奏手、通称・魔弾のリグレット。

「この男は改革派の先鋒の一人だった。これで当分、奴らの頭を抑えておくことが出来るだろう」

「だけど、ヴァン。俺たちは預言スコアを廃した世界を目指しているんだろう? だったら、こいつらと俺たちの目的は同じなんじゃないのか」

「違うな。改革派は、預言スコアそのものを否定しているわけではない。保守派ほど盲従はしないというだけのことで、結局のところ、自分の都合のいい預言を利用するのは変わらないのだ」

「奴らは総長閣下のお命を狙っていた。それだけで、殺すには充分な理由だ」

 ヴァンの傍らから、硬質な声でリグレットが言う。

預言スコアで髄まで腐ったこの世界を変えるには、生半可な変革では足りぬのだ。……そのためにも、今はまだ、我らは雌伏しておく必要がある。モース傘下の保守派としての顔を隠れ蓑にな」

「……分かった」

「それよりルーク、そろそろお前にもちゃんとした役職を与えるとしよう」

 ちょうど席も空いたことだしな、とヴァンは笑った。

「だが『ルーク』の名を表に出すのはまずいか……万が一にもキムラスカの連中に感づかれてはならぬからな」

「名前を変える、ということか?」

「そうだ。――『アッシュ』という名はどうだ?」

アッシュ?」

 俺は目を見開く。――灰。燃えかす、か。

 ふ、と口元に笑みが浮かんだ。そうだな、俺には相応しい。『聖なる焔の光ルーク』ではいられなくなった、今では光の射さないダアトの地下を住処とするこの俺には。

「気に入ったようだな。では、今からお前は『アッシュ』だ。神託の盾オラクル騎士団特務師団長、アッシュ響士。――『鮮血のアッシュ』」

 血塗れた床に立って、俺はその言葉を聞いていた。

 あのレプリカを見た日から確かなものの一切を失っていた俺は、この時、新たな名前と立場を手に入れた。

 ――人を殺すことによって。

 だが、それでいい。闇を歩き、全身を血で汚すことになるのだとしても。あの馬鹿馬鹿しい預言スコアから世界を解放し、これ以上――。

 ヴァンが、俺の思いを読んだかのように声を出した。

「これ以上、お前のような思いをする者を出さないためにも。我らは世界を変えねばならぬ。我が理想の実現の為に力を貸してくれるな、アッシュ」

「――ああ。ヴァン」

 新しい名前。新しい立場。新しい、生きる目的ゆめ。それを与えてくれたのは、ヴァンだ。ヴァンに認められるのなら、俺は……。



『――ヴァンは確かに世界を変えるつもりさ。……綺麗サッパリと、ね』

『どういう意味だ、シンク』

『知らないのはあんたとアリエッタくらいじゃないの? ……そんな目で睨むんじゃないよ。どうせ僕らはみんな……ヴァンの理想に乗っかって、利用されているだけの、同じ穴のムジナなんだから』



「――……くっ!」

 剣を突き立てようとした時、「やめて!」と叫んでティアが駆け込んできた。

「勝負はついたわ。ルークを殺す気なの!?」

 倒れているあいつを庇うようにして俺を睨み上げてくる。

「そいつは俺の身替わりにアクゼリュスで死ぬために造られた人形だ。もう役目は終わった。生かす価値なんてねぇんだよっ」

「何を言っているの!? 確かにルークはあなたのレプリカかもしれない。でも、生きてる。あなたとは違う人間だわ!」

 ヴァンと同じ目と髪の色をした女は、全身でレプリカを護っていた。

 変わった女だ。アクゼリュスで初めて直接言葉を交わした時もそう思ったが。



「急げ。ヴァンがルークに何かをさせようとしている。このアクゼリュスがどうにかなっちまうようなことをな」

 腰に剣を収めながらそう言うと、ティアは戸惑った顔で、だが睨むようにして俺に問いかけてきた。

「待って! どうして私を助けてくれたの?」

「お前を拘束した神託の盾オラクル連中はヴァンの指示で動いていた。どうやら、お前だけは逃がすつもりらしいな。

 ヴァンと共にアクゼリュスに入ったキムラスカの救援部隊が殺されていたのは、お前も見ただろう。奴はここで何かをするつもりなんだ。――俺はその真意を確かめるために、お前たちを囮にしてヴァンの行動を探っていた」

 そう言って、俺は意識を同調フォンスロットに集中させた。強制的に回線を繋ぐと、レプリカの揺らぐ意識が感じられ、坑道の景色が見える。――あれはザオ遺跡で見たことのあるセフィロトの扉だ。そして、その前にいるのは。

「そこから先に行くのはよせっ!」

 俺はレプリカを怒鳴りつけた。

「奥に行くんじゃねぇ! 取り返しがつかねーぞっ! 言うことを聞きやがれっ!」

 ――うるさい。お前なんかに命令されてたまるか!

 苛立たしいことに、そう怒鳴り返すとレプリカはよろよろとヴァンに近寄っていく。

「アッシュ? 何なの?」

 舌打ちした時、傍らから怪訝な顔でティアが見ているのに気が付いた。俺は一旦同調から意識をそらす。

「ヴァンがセフィロトの扉を開けた。ルークをそこに連れて行くつもりらしい」

「え……!? まさか……兄さんはパッセージリングを……? それで外殻大地を消滅させるつもりなの!?」

「……? お前、何か知っているのか?」

「ユリアシティで兄さんとリグレット教官が話していたのを聞いたの。外殻の住民を消滅させるって……。

 セフィロトの奥には創世暦時代の音機関――パッセージリングがあるわ。それが形成するセフィロトツリーによって、この外殻大地は支えられている。もしもパッセージリングが停止してツリーが消えれば、アクゼリュスは三万メートル下の魔界クリフォトに崩落するわ!」

 そう言って、ティアは「でも、パッセージリングはアルバート式とユリア式、二つの封咒で封じられている……いくら兄さんでも手を出すことは出来ないはずなのに」と呟いた。俺はハッとする。

「まさか……!? そうか、そのためにレプリカを連れて行ったのか!」

「レプリカ? レプリカって……」

 眉を寄せるティアに向かい、俺は皮肉な笑みを浮かべてみせた。

「……お前たちは疑問に思わなかったのか? 何故あいつと俺が同じ顔なのか。俺の声があいつに聞こえ、体を操ることが出来たのか。……フォミクリーのことは知っているだろう」

「あなたは………。それじゃ、ルークは!?」

「そうだ。俺はかつて『ルーク・フォン・ファブレ』という名前だった。お前の兄貴に誘拐されるまではな。お前たちと旅をしていたルークは、俺から抜いた情報でヴァンが造った、俺の劣化レプリカなんだよ!」

 愕然とする女の顔が、ひどく小気味よい。

「俺には一人で超振動を操る力がある。どうやら、あの屑にも一応はその力があるようだな。恐らく、ヴァンはそれを利用するつもりだ。封咒も何も関係ない……。パッセージリングを丸ごと超振動で消しちまうつもりなんだろうよ」

 ――ふと、曖昧に同調していたレプリカの視界がよぎった。ヴァンの後に付いてセフィロトの中へ入っていこうとしている。

「やめろ! 行くんじゃねぇっ! アクゼリュスを滅ぼすつもりか!」

 怒鳴りつけたが聞く耳を持たない。逆にセフィロトの中へ駆け込んで行ってしまった。

 くそっ、なんで言う通りにしやがらねぇ! 俺から取った型で作った人形のくせに。

 それなら体を操ってやろうと思ったが、けたたましい叫びを上げて二頭のグリフィンが飛び込んできたので、集中は途切れさせられた。

「魔物っ」

 ティアが杖を構える。舌打ちして、俺はその前に立って剣を抜いた。

「アッシュ?」

「お前は先に行け。行って、あの馬鹿を止めるんだ。でないと崩落が起こって、俺たちも街の連中も、全員が死ぬ!」

「――分かったわ。絶対に……兄さんを止める。私は、元々そのために外殻大地へ来たんだもの」

 この女がヴァンと敵対しているということは、タルタロスで拘束した際にリグレットから聞いていた。乱れた今の世界でも、肉親に――愛する者にやいばを向ける覚悟を持てる者は多くはない。

 ――……俺は。



「ルーク。ルーク、しっかりして!」

 倒れたレプリカに、ティアは懸命に呼びかけている。だが、目覚める気配はなかった。俺はこいつに致命的なダメージを与えてはいない。というより、戦っていた最中に勝手にぶっ倒れたというのが正しいだろう。青白い顔をしていたのは、あるいは度を超えた超振動を使ったからなのかもしれない。複写人間には負担が過ぎたのか。

「……何をしている」

「このままここに置いておく訳にはいかないでしょう?」

 ティアが横たわるレプリカの下に手を差し入れて、女の細腕でなんとか抱え起こそうとしているのを見て、俺は小さく息を吐いた。眉間の皺が深まったのが自分でも分かる。

「貸せ。どこへ運べばいい」

 レプリカの肩を支えてそう訊ねると、「あ……ありがとう……」と戸惑った顔で礼を述べて、ティアはすぐに生真面目な顔を繕った。

「私の――市長の家へ。他のみんなもそこで待っているはずだわ」

「分かった」

 肩を支えたレプリカの体は暖かかった。当たり前に血が通っていて、鼓動が感じられる。

 ――人形のくせに。

 気分が悪い。胸の奥がザラザラして、俺は顔を伏せ、チッと舌を鳴らした。






 ひらひらと揺れている。キラキラと眩しいものが差し込む四角い枠に掛かった白いもの。ひらひら、ひらひら。

 気になって手を伸ばすのに、あと少しで届かなくて、もどかしくてじりじりした。あそこに行きたい。触りたい。手足を動かす。体が前に動いた。同時に、視界が反転する。

――危ない!

 たった今まで柔らかな布の上にあった体は、今はしっかりとした腕の中にあった。ほーっと吐かれた息が頬に掛かる。

全く……。ろくに歩けもしないのにベッドから降りちゃ駄目でしょう

 これは、よく聞く響きだ。覚えのある声と、匂いと、暖かさ。

「ああ、うー」

……まるっきり赤ん坊、か。惨めなもんだよな。あれだけ貴族然としていた奴が。今じゃ着替えも、食事も、排泄すらも人の手を借りなければ出来やしない

「うぅー」

今なら、お前を殺すのも簡単だろうな。……いや、その前に苛めてやろうか? 喋れないんだから、誰にも告げ口なんて出来ないよなぁ。くく、痕を残さずにいたぶる方法なんて幾らでもあるんだよ、お坊っちゃん

 さらさらと揺れている。覗き込んでいる頭から垂れている金色のもの。

てっ!? こ、こら、やめろ! 髪を引っ張るな!

 響きが大きく近くなって、なんだか楽しくなって笑った。

笑うなって……。はいはい、遊んで欲しいんだな。分かったよ、ルーク」

「う?」

「そう、お前の名前だよ、ルーク。……それで俺の名はガイだ。ガイ・セシル」

 ひらひらと揺れている。風に煽られて、木々や、カーテンや、髪や。雲は流れて太陽レムの光を途切れ途切れに投げかける。周りに広がる、一繋がりになった事象。見えるものも、見えないものも。

 ――世界は、こうして始まった。






「ルーク! 止めないのですか?」

「その名前で呼ぶな。それはもう俺の名前じゃねぇんだ」

 咄嗟に拒絶を吐くと、ナタリアは「でも……」と美しい顔を曇らせた。

「……奴の好きにさせればいいさ。お前も、あのレプリカのところに行きたければいつでも行くんだな」

「……わたくしは……」

 俺は、傷ついているのだろうか。

 ガイはあのレプリカの元へ去った。ナタリアも迷っている。

「……迷いもするでしょうね。ルークがレプリカだからといっても、彼と過ごした七年という時間や思い出は、消えたわけではありませんから」

 フォミクリーの発案者だという男が、訳知り顔でほざいている。タルタロスで拘束した時、何故殺さないのかと思ったが、そういうことだ。ヴァンはこいつの頭脳を利用したがっていたのだろう。

 ヴァンの元を離れ、こいつらに全てをぶちまけた時。俺はどこかで期待していたのかもしれない。これで元に戻れる。闇から抜け出し、日の当たる場所に再び立てるのではないかと。だが――そんなはずはなかった。手遅れだ。七年という時間は、全てを喰い荒らしていた。

 いや……喰われるだけのものなんて、最初からなかったんじゃないのか? 父上や伯父上がそうだったように、ガイは……。



「ガイの奴……レプリカには、あんな顔を見せてた……」

 ダアトへと向かう連絡船の船室で。肩を抱くヴァンの手の暖かさに溢れる涙を抑えきれず、俺はつい、そんな言葉までもを漏らしてしまっていた。

「ガイか。彼もまた、我々の同志だ。厳密には、あの方はあの方で復讐を為そうと動いておられるのだがな」

「……どういうことだ?」

「ホドのことは知っているな。十年前にお前の父が攻め滅ぼしたマルクト領の島だ。あの方は、ホドを治めていたガルディオス伯爵家の嫡男なのだよ」

「なっ……!? そ、それじゃ……」

「そうだルーク。ガイはお前を殺すつもりで側に仕えていた。……もっとも、あの方には気の優しいところがある。お前をレプリカと摩り替えたことは教えていないが、未だ手出しはしていないようだな」



 ガイは俺を殺そうとしていた。当り散らしても、跳ね除けても、にこにこ笑って側に控えていたあの顔は、偽りだった。

 だが……。だったら、あのレプリカに対してはどうなんだ。あれが俺ではないことを知らなかったくせに!

『本物のルークはこいつだろうさ。だけど……俺の親友はあの馬鹿の方なんだよ』

 去り際にガイは言った。ユリアシティからこっち、ずっと俺に向けていた暗いそれとは打って変わった穏やかな目で。

 繋げていたレプリカの意識から、感激が伝わってくる。――ひどく惨めだ。

(奪われた。完全に取られた。俺が持っていたもの、得るはずだったもの、欲しかった全てを)

 ……違う! 惨めなんかじゃねぇ。俺は自分から捨てたんだ。世界を変えるために。俺を殺そうとしていたあの場所を、『ルーク・フォン・ファブレ』という名前を。捨ててやった。甘やかされるしか能のない屑レプリカに、くれてやったんじゃねぇか!



「ルーク!」

 あの頃よりももっとあでやかになった、咲き誇る金の花のようなナタリアが呼ぶ。

「そんなことありませんわ! わたくしには分かります。あなたは……やはりルークなのですわ」

「……その名前で呼ぶな、と言わなかったか? 俺はアッシュだ。聖なる焔の……ルークの燃えかすだ!」

 光の当たる場所を捨てた。身を寄せた闇からも離れた。信じていた理想ゆめのどれもを失って、灰になった俺の手の中には、何も残ってはいない。

 いないんだ、ナタリア。






 窓の向こうに中庭が見える。花が咲き誇る花壇、周囲を巡る水路。空は青い。――ああ、今日はきっと一日いい天気だな。今じゃ教団の気象預言スコアも出ないから、確かなことは分かんねぇけど。

「――聞いているのか、ルーク」

「……はい、父上」

 俺は意識を目の前に戻した。険しい顔で、父上が俺を見ている。

「あの戦いが終わって一月近い。だがお前は毎日を自堕落に過ごしている。そんなことでどうするのだ。公爵家の嫡男として、恥ずかしくない行動を心がけなさい」

「…………はい」

「……話はそれだけだ。下がりなさい」

「失礼します」

 アブソーブゲートでヴァン師匠せんせいを倒し、屋敷に戻って以来、父上はこうして俺に小言を言うようになった。『公爵家の嫡男として』だなんて、前は全然言わなかったのに。

 前は、父上に期待されていない感じなのが辛いと思う時もあった。でも今は、期待されることが苦しい。……いや、違うな。いたたまれないんだ。だって俺は……。

「きゃっ!?」

 考えながら歩いていたら、メイドに肩をぶつけてしまった。

「あ、悪ぃ……」「ひぃぃっ!」

 メイドは悲鳴をあげた。「お、お許し下さい……!」と頭を下げて、真っ青な顔でがたがたと震えている。

 まるで化け物でも見たみたいだ。――だけど、仕方がない。実際、俺は人間じゃない。

 使用人たちが俺に怯えていて、今にも暴れだすんじゃないか、怪物に変身でもするんじゃないかとビクビクしていることは知っている。白光騎士団の連中が、なんでこいつはここにいるんだって目で俺を見ていることにも気付いている。だけど、仕方がない。俺はレプリカだ。本物の『ルーク・フォン・ファブレ』の偽者で――本当はここにいるべき存在じゃないんだから。

 他に行く場所はない。自分の部屋に閉じこもるために中庭に出ると、花壇の前に座り込んでいる老庭師の姿が見えた。

「ペールは今日も土いじりか」

 この老人は今でも俺を恐れないし、色眼鏡で見ない。だから以前のような調子で声を掛けると、「これはルーク様」と穏やかに笑顔を向けてきた。

「花の手入れは日々手を抜けませんからな。生きているものですから」

「そっか。……だけどそれ、何してるんだ? 抜いてるみたいだけど」

「花の時季が終わりましたので抜いているのですよ。これから咲くものと植え替えるのです」

「へぇ……。そういえば、花壇の花っていつも綺麗に咲いてたよな。そうして植え替えてくれてたんだよなぁ」

 俺が感心すると、ペールはにこにこと笑って、「ルーク様、宜しければ一つ、頼まれては下さいませんか」と言った。

「え? 何だ?」

「これからこの花を裏に運んで、新しい花の株と換えるのですが、どうも最近、力仕事が辛ぅございましてな。手伝っていただけましたら助かるのですが……」

「分かった、手伝うよ。これを運べばいいのか?」

 抜いた花の詰まった木箱を俺は抱え上げた。父上やラムダスは、ペールたちと話すだけでもぶつぶつ言うんだけど、構うもんか。

 考えてみれば体を動かすのはかなり久しぶりで、裏に着く頃には少し息が上がってしまった。軟禁されてた頃だってもうちょっと運動してたのにな。師匠せんせいに誉められたかったし、ガイだっていたから……。

「ありがとうございます、ルーク様」

「……前はガイがペールを手伝ってたんだもんなぁ、そういえば」

 木箱を下ろして、俺は呟く。

 生まれた頃からずっと一緒だったガイは、今はこの屋敷にいない。あいつは本当はウチの使用人なんかをやる人間じゃなかった。悲願だったガルディオス家復興を成し遂げて、今はマルクトのグランコクマに自分の屋敷を構えている。出て行く時、「一人で大丈夫か?」なんて言ったあいつに「俺はもうガキじゃねーっつーの!」と言い返したりしたけど、全然駄目だな、俺。毎日部屋に閉じこもってばかりいる今の俺を見たら、きっとガイは黙っていないだろう。……あ。

 それに気付いて、俺はペールを見た。そうか。

「ありがとな、ペール。俺のこと心配してくれたんだろ?」

「体を動かせば、少しは気鬱も晴れましょう」

「ああ……。ちょっとはスッキリしたかも」

 風が汗を引かせていく。見上げると、流れる雲の向こうに譜石がチラチラと輝いて見えた。

「……なあ。ペールはここにいていいのか? ガイのところに行かなくても……」

「……そろそろお暇をいただこうとは思っております」

「そっか……」

 ペールはガイと同じ、ホドの生き残りだ。元々はガイの家に仕えていた騎士で、復讐を望んだガイに従ってこの屋敷にやって来たんだという。だから、ガルディオス家が復興した今は、この屋敷にいる理由なんてないのだ。

 変わらないままのものなんてない。俺が屋敷から投げ出されて、変わらなきゃならないって思ったように。ずっと変わらないように思えてた屋敷の中だって、みんな変わっていく。

「……あれ。こっちの花壇は何だ? 何も植わってねぇみたいだけど」

「それは苗床です。種から花の苗を育てているのですよ」

「へぇ……」

 その、何もない耕された場所を見ていたら、ペールが「ルーク様も種を蒔いてみますか?」と言った。

「え、いいのか?」

「勿論ですとも」

 俺はペールに教わった通りに花の種を蒔いた。肥料を鋤き込んで、地面をくぼませて、種を置いて、土を掛けて水を撒いて……。ずっと昔にもガイにねだって鉢で花を育てたことがあったけど(結局ガイに任せた)、これで芽が出て花になるってのは不思議な感じだよな。ちょっと楽しみになって「いつ咲くんだ?」と訊ねたら、「これは咲くまでに時間のかかるもので」とペールは答えた。

「しかし、赤い見事なものが咲きますよ。そうですな……ちょうどルーク様の生誕の日の頃でしょうか」

「俺の……」

 俺の(正確にはアッシュの、だろうけど)生誕の日は、年の終わりだ。そして今は秋の始まり。――すごく先のことに思える。

「俺……その頃までここにいられるのかな」

 ぽつりと呟いてしまった。ペールが顔を曇らせたのが分かる。

「あ、悪ぃ。……変なこと言っちまったな」

「ルーク様……。わしは、この花が咲くまではこのお屋敷にお仕えしていようと思っております。ご一緒に花を見ることを楽しみにしておりますよ」

「うん……」

 だけどさ、ペール。俺は本当に、その頃までこの屋敷にいられるのか分からない。

 だって明日にもアッシュが――本物の『ルーク』が帰ってくるかもしれないんだから。勿論、ここは元々あいつの家だし、父上も母上も何も言わないけど待ってる筈だし、使用人たちも望んでる。あいつは当然帰ってくるべきなんだけど。でも……そうしたら、俺は、どうなるんだろう?

 俺はあいつのレプリカだ。アクゼリュスであいつの身替わりに死ぬために造られた。だけど死ななかった俺は。

 

『死ぬべき時に死ねなかったお前には、価値がない。私が必要としているのは、アッシュ……ルーク・オリジナルだけだ!』

 

 俺は本当はここにいるべきじゃない。でも、ここ以外に行く場所がない。

 今、俺がここにいられるのはアッシュが帰ってないから。アッシュの身替わりなんだ。アッシュが帰ったら俺の価値はなくなる。

 そう思ったら、怖くて、何も出来なくなった。だって何をしたって仮初めなんだ。本物が帰ってきたらおしまいで、俺のしたことなんて意味はなくなる。だからって閉じこもってじっとしていたって仕方がないってことは分かってる。この家を出ることになったって、なんとか一人で生きていけばいいんだとも頭では思う。だけど。

(怖いんだ)

 父上と母上に捨てられたら。いらないって言われたら。

師匠せんせいがそう言ったみたいに。あの冷たい目で)

 俺には、帰る家も、家族も、名前も、立場も、何もかもがなくなっちまう。それどころか、俺の手も足も目も声も、全部がアッシュからの借り物で。俺のものは何もない。

 そんな事考えても駄目だって分かってる。分かってるよ。情けないけど。だけど。

(怖い)

 怖くて、ここから一歩も先へ進めない。






「……ローレライが言ってただろう? よく思い出してみるんだな。それでなくても俺は、お前の尻ぬぐいをやらされてるんだ! これ以上俺に面倒をかけるな。役立たずのレプリカが!」

 怒鳴りつけると、「そんな言い方しなくたっていいだろ!」とレプリカは反発してきた。

「うるせぇっ!」

 一ヶ月だ。ヴァンが地核に落ち、俺がラジエイトゲートでローレライの最後の通信を受けてから。その間、動いていたのは俺だけだった。てっきりレプリカにはローレライの声が届いていなかったのかと思っていたが、聞いてはいたらしい。ただ、それを理解する脳みそがなかったというだけで。

 チッ、全く忌々しい。なんでこいつはこうも抜けてるんだ? 俺を元にして作られた人形のくせに。俺と同じ顔で、姿で、どうしてこうも馬鹿なんだ! ヴァンを倒しきることも出来ず、間抜け面で俺の後を追ってきて、とんちんかんなことを言ってやがる。お前なんかの面倒を見ている暇はない。そんな時間は……俺には残ってねぇんだよ!



「レプリカと被験者オリジナルの間に同調以外の現象が起きるか、じゃと……?」

 二ヶ月ほど前、ベルケンドから逃れたスピノザを捕らえた時、俺は奴にそのことを問いただした。

 思えば、この男との付き合いも長い。父上の視察に付いてベルケンドへ行った時、何度かこの男の所属する研究班の検査を受けたことがあったが、その頃はまるで気にとめていなかった。だが、ヴァンに誘い出されて屋敷を抜け出し、バチカルの市街でこいつに引き合わされて。俺は薬を飲まされたのだ。

 そこから、俺の記憶は十日近く飛んでいる。気付いた時にはダアトの地下に幽閉されていて、体中が痺れて、かなり長い間動けなかった。眠っている間に運ばれ、コーラル城でレプリカ情報を抜かれて、その後にダアトへ連れて来られたのだと知ったのは数ヶ月を経てからだ。

 レプリカを造られ、ダアトで暮らすようになってから、妙な頭痛を感じることがあった。たまにだったし、ごく軽いものではあったが、奇妙な共鳴音のようなものが聞こえるのが気になった。

『ローレライの影響かも知れぬな』

 何度目かの超振動の実験を受けていた時、俺がヴァンにそのことを漏らすと、奴はそんなことを言った。

『ローレライって、第七音素セブンスフォニムの意識集合体だろ。なんでそんなものが……』

『そうだな。お前は一人で完全な超振動を使うことが出来る。それはお前が、人でありながら第七音素セブンスフォニムと同じ音素フォニム振動数を持っているからだ。そのためにローレライの干渉を受けているのだろう』

 そう言って、ヴァンは口の中で呟く。

『だが、何故この時期に……。――を造るために地核から力を吸い上げ始めたためか。……なるほど、レプリカルークの幻聴というのも、恐らくは……』

『え?』

『いや、気にするなルーク。それはお前が心配するものではない。気を強く持て。お前は強い。干渉を遮断できる』

『分かった。ヴァンがそう言うなら……』

 実際それ以上何事もなく、気に掛けていなかったものが、ここ最近――アクゼリュスが崩落した頃から激しくなった。それだけではない。眩暈がするような、『自分』が掻き回されて拡散していくような、そんな奇妙な感覚を覚えることがある。

 レプリカと意識を繋げたことが関係しているのか?

 そう思い、レプリカを呼び出して問いただしてみたが、おかしなことは何もないと言われた。しかし、そのうちに疲れ易くなってきたことに気がついた。体力が低下している。――レプリカ情報を抜かれることで被験者オリジナルに悪影響が出ることがあると、フォミクリー発案者のジェイドは言っていた。それはレプリカ情報採取直後に現われるもので、七年も経っているなら問題はないと言われはしたが。

「通常なら、悪影響は情報採取直後に出る。七年も経っているのだから問題はないはずじゃ」

 同じことをスピノザは答えた。

「じゃが……。そうじゃな。完全同位体のレプリカには特殊な現象が起こるという仮説がある」

「何? それはどういうものだ」

「コンタミネーション現象じゃ。同じ音素フォニム振動数を持つ同位体が並ぶと、より強い振動を持つ方――オリジナルは、もう一方の情報を回収しようとする。そのために自ら音素フォニム化して情報の放出を開始し、レプリカと混じり合おうとする」

「具体的に……何が起こるんだ」

「あくまで仮説じゃが……数ヶ月を掛けて被験者オリジナル音素フォニム乖離していき、体力や譜術力は緩やかに低下していくはずじゃ。最終的に訪れる大爆発ビッグ・バンに向けて」

「……」

 ぞっとした。

 あの出来損ないが俺と音素フォニム振動数まで同じレプリカだということは、コーラル城でディストに同調フォンスロットを開かせた時から知っていた。だから回線を通じて操ることが出来たし、あいつも超振動を使うことが出来る。だが。音素化して混じり合うだと!? つまり――俺はあいつに吸収されて消える……。死ぬ、ということか。

「おい! それは本当なのか。でたらめを抜かしやがったら承知しねぇぞ!」

 思わず襟首を掴み上げると、スピノザは悲鳴をあげた。

「か、仮説じゃ! 完全同位体のレプリカを人為的に造ることはほぼ不可能じゃから、実際は分からん! じゃ、じゃが、ネイス博士がチーグルで臨床実験をしていると聞いておる!」

「ディストの野郎が……? まさか、ワイヨン鏡窟か!」

 ハッとする。以前ヴァンの動向を探るために訪れた時、二つの檻の中にそれぞれ一匹ずつ、被験者オリジナルとレプリカのチーグルが入れられているのを見た。

「そ、そうじゃ……。お前さんのレプリカを造った時に起こった事故の記録を元に、完全同位体のチーグルのレプリカを作製したと……」

 檻の中の二匹のチーグル。一匹は炎を吐く力が弱っていて、しかしそれこそが被験者オリジナルだった。――今の、体力の落ちた俺のように。

「……その……大爆発ビッグ・バンってのを止めることはできねぇのか」

「現状では無理じゃ……。なにしろ、完全同位体の生物レプリカというものが殆ど存在しとらん。大爆発ビッグ・バンは未知の現象じゃ。対処しようにも方法が分からんのじゃからな」

 俺の手から力が抜け、スピノザがどさりと床に尻餅をついた。



 俺にはもう、時間がない。

 この後、現われたシンクとラルゴによってスピノザは奪われ、俺はそれを追いながらヴァンの動向を探り続けた。そして、再度訪れたワイヨン鏡窟で、檻の中の被験者オリジナルチーグルが消滅し、レプリカだけが残っているのを見た。――俺は死ぬ。もうすぐ消えてしまう。期限が近いということなのか、回線を繋いでもいないのに、レプリカ野郎は「お前が呼んだんじゃないのか。いつもの頭が痛くなる音がしたぜ」なんて抜かしてノコノコとやって来やがる。

「……ありがとう。お前、俺のこと憎んでいるのに色々協力してくれて……」

「勘違いするな! 俺の目的のためにお前を利用しているだけだ! お前のためなんかじゃねぇ! 二度とそんなこと言ってみろ。殺してやる!」

 本気で言ったが、奴は何を考えたのか、こんなことを言い出しやがった。

「……なぁ、アッシュ! 一緒に師匠せんせいを止めに行かないか? お前と俺で師匠を……」

「……断る!」

「どうして! アッシュ! ……おい、腹から血が……!? お前、ワイヨン鏡窟で師匠に斬られた傷が、まだ……!」

「……くそっ! こんな体でなければとっくに俺がアブソーブゲートへ向かっているっ! ……お前がヴァンを討ち損じた時は俺が這ってでも奴を殺すがな」

「……分かった。俺、必ず師匠を止める」

「止めるんじゃねぇ! 倒すんだよっ!」

「分かった……」

 相変わらず甘っちょろいことを言うレプリカを睨みながら、腹の傷の痛み以上に、憎しみと怒りで全身が焼けつくようだった。

 ――殺せるものなら殺してやりたい。

 こいつは、俺から何もかもを奪った。そして俺を喰い殺す。






「――これ以上俺に面倒をかけるな。役立たずのレプリカが!」

「そんな言い方しなくたっていいだろ!」

 思わず言い返したら、「うるせぇっ!」と怒鳴られた。そしてアッシュは背を向けて、そのままセフィロトから出て行ってしまう。

「――……おい、ルーク。そんな顔してないで、元気出せよ」

 不意にガイに言われて、「そんな顔?」と俺は聞き返した。

「泣きそうな顔してるぞ」

「な、泣いてなんてないよ」

 慌ててそう言ったけど、ガイは「分かった分かった」と言って優しく笑う。

「とにかく気を取り直していこうぜ」

「うん……」

 今までだって、アッシュには何度も「劣化レプリカ」とか「屑」とか「出来損ない」だとか言われてきた。やっぱり悲しかったけど、前は腹の立つことの方が多かった気がする。それは、本当は俺はアッシュに劣ったりしてないし、屑でも出来損ないでもないって、心の中で思ってたからなんだと思う。

 だけど……違ったんだな。俺、やっぱり劣化したレプリカなんだ。アブソーブゲートで師匠せんせいを倒した時に聞こえた、ローレライの声。俺には途切れ途切れにしか聞こえなかったし、意味も分からなかったけど、アッシュにはちゃんと伝わっていた……。

 一ヶ月、俺がグズグズしていた間に、アッシュはちゃんと動いていたんだ。

 俺がローレライの言葉を理解できなくて、ローレライの宝珠も受け取り損ねたために、世界は再び危機に陥った。障気が復活し、イオンは命を落として。最初から師匠せんせいが生きていることを知らせることが出来ていて、みんなで動けていたら、きっとこうはならなかったのに。

 俺は劣ってる。出来損ないのレプリカだ。それを認めなくちゃならない。辛いけど、それが現実だった。

 だから、アッシュとは協力すべきなんだ。俺じゃ駄目だ。レプリカの俺じゃ役に立たない。そうだろう? 何をするにも、オリジナルのあいつの方が確実だ。あいつは俺の本物オリジナルで、昔から父上も母上も使用人たちも、みんなが待ち望んでいた『ルーク』なんだから。

「……気付いてないのか」

「え?」

 何度アッシュに誘いを掛けても跳ね除けられて、何でこうなるんだろう、とがっくりしていた俺にガイが言った。

「前のお前にはあったが、今のお前には欠けているものがある。……それがアッシュを苛つかせてるんだよ」

「なんだよ、それ」

「『自信』だよ。お前、卑屈になってる」

「卑屈……?」

 だけどガイ。俺がレプリカなのは本当なんだ。

 俺、自分がレプリカだと知ってからずっと考えてきた。俺は何者なんだろう。どうして生まれて、何のために生きてるんだろうって。それで思ったんだ。レプリカは、本当は存在しちゃいけないものなんだって。

 でも、俺はここにいる。

(見捨てられたくない)

 いちゃいけないのに。沢山の人を殺して、災いを呼んで。役立たずのくせに。

(一人に、なりたく、ないんだ)

 俺はどうすればいいんだろう。本当はいちゃいけない俺が、ここにいるためには。みんなに認めてもらうためには。

 

『平和を守った英雄として、お前の地位は確立される』

 

(――……師匠せんせい!)






 どうせ死ぬのなら、命を有効に使ってやろうと思った。

 あの屑レプリカが、命を引き換えにすれば超振動で世界を覆う障気を消せると言ったのだ。

「……それで? お前が死んでくれるのか?」

 そう言ってやると、レプリカはあからさまに怯んだ顔をする。

「レプリカはいいな。簡単に死ぬって言えて」

「……俺だって死にたくない」

「……。ふん、当然だな。俺も……まだ死ぬのはごめんだ」

 死にたくはない。だが、放っておいても間もなく俺は死ぬのだ。このレプリカに喰われて。無駄に死ぬくらいなら、障気と一緒に心中してやる。そうすれば……ナタリア。お前とキムラスカは生きるのだから。






「お前っ! 自分が死ぬってことがどうでもいいことな訳ないだろっ! 大体宝珠が見つかってもお前がいなきゃ、ローレライは解放できねぇだろーがっ!」

「お前こそ馬鹿か? お前は俺のレプリカだぞ。こういう時に役立たなくてどうする。ローレライの解放はお前がやれ! ルーク! 俺の代わりにな!」

「アッシュ! 待てよ! お前を死なせる訳には……いや、死なせたくないんだ!!」

「くどいっ!! もう、これしか方法がねぇんだ! 他の解決法もないくせに勝手なこと言うんじゃねぇよっ!」

「だったら……。だったら俺が! 俺が代わりに消える!」

「代わりに消えるだと……!? ふざけるな!! いいか、俺はお前に存在を喰われたんだ! だから、俺がやる。お前、そんなに死にたいのか!?」

「……違う! 俺だってお前と同じだ。死にたくない! だけど俺はレプリカで能力が劣化している。ローレライを解放するには宝珠を預かることもできなかった俺じゃなくて、お前が必要なんだ。

 それならここで死ぬのは……いらない方の……レプリカの俺で十分だろ!」

「……いい加減にしろ! いらないだと!? 俺は……いらない奴のために全てを奪われたっていうのか!! 俺を馬鹿にするな!」

 

(俺は死ぬ。帰る場所もない。全てはこいつに喰らわれた。だったら、せめてこの命を使ってやる。後のことはお前がやれ! そのための身替り人形レプリカだろうが!)

(俺はレプリカだ。オリジナルより劣った代替品だ。だったら、俺が死ぬしかない。それが俺の存在価値だから。みんなに認めてもらえる方法だから。俺はきっと、この為に生まれてきたんだ。後のことはアッシュがやってくれる。俺よりもずっと上手く)

 それしか方法がない。他に道がねぇんだ!

 ――だけど。

 ……死にたくない。死にたくない。死にたくない! 死にたくないっ! 『俺』は……俺はここにいたい!

 

 生きていたい。

 

 

 

 

『――愚かだな。何かの為に生まれなければ、生きられないのか?』






「行くのですね、ルーク」

「……はい」

 頷くと、母上は少し悲しそうな、でも優しい顔で笑った。

「いってらっしゃい。けれど……必ず帰ってくるのですよ」

「……」

 少し困る。だって……俺はもう。それは既に分かっていることだから。

 だけど。

「……帰ります」

 俺は無理だけど、きっと『ルーク』は帰ってくる。だから、これは嘘じゃない。

「しっかりやってきなさい」

「はい、父上」

 二人に頭を下げて、俺は部屋を出る。長い回廊を歩いて玄関ホールに出ると、そこに使用人たちが集まっていたのでぎょっとした。

「ど、どうしたんだ? みんな」

「ルーク様をお見送りしたいんです!」

 使用人たちは口々に言う。

 メイドたち、洗濯婦、料理人、給仕人、白光の騎士たち。ペールもいる。何故なのか、ガイまで混じっていた。

「ルーク様のお帰りを、私ども一同も心待ちにしておりますよ」

 執事のラムダスの声を聞いて、俺はなんだか顔が上げられなくなってしまった。

「あ……ありがとう……」

 まだ過ぎて一年にも満たない昔、この屋敷は俺の世界の全てだった。外に投げ出されて、世界は広がったけど。それでも、やっぱりここは世界の始まりで――俺の、帰る家いばしょだった。

「行って来る。みんな――父上と母上を頼むな」



「――もう、いいのですか?」

 屋敷の門を出ると、広場に旅の仲間がいるのが見えた。城に泊まっていたティアにナタリアにアニス。ジェイドが近付いてきて、俺にそう確かめる。

「ああ。母上たちへの挨拶も済ませたし。充分に休めたから」

 俺は答えて、少し申し訳ない気分で笑った。

「でも、よかったのかな。決戦の前にバチカルまで戻ったりして。こうしてる間にも師匠せんせいが何かするのかもしれなかったんだし……」

「我々にはアルビオールがあります。日程的にはさほど遅れをとらない。変に焦るよりも、しっかりと英気を養っておいた方がいい。ヴァンに勝つためにも……あなたの、万に一つの『生き残る』という可能性を生み出すためにも」

「万に一つ、か……。そうだよな」

 ジェイドは歯に衣を着せない。でも、だからこそ言ってることは嘘じゃない。

「分かった。ありがとう、ジェイド」

 そう言うと、ジェイドは微かに笑みを深めた。

「……確かに休養は出来たようですね」

「うん。……でも、屋敷のみんなが見送ってくれたのは、ちょっと驚いたな。俺、レプリカだから、みんなを気味悪がらせてた頃もあったのに」

「人は変わります。あなたが変わったように」

「……うん」

「周囲の目を変えたのは……あなた自身ですよ」

「え?」

「分かりませんか。あなたの生きる姿、周囲への接し方、為した事……。それが『レプリカ』に対する見る目を変えたんです。

 社会全体を見れば、まだまだレプリカへの偏見は大きいでしょう。ですが、あなたはそれを変える一歩を作った」

「そう、なのかな……」

「そうですよ」

 そんなことを言っている間に、ガイが屋敷の門から出てきた。こいつもこいつで、みんなと挨拶を交わしていたんだろう。

「待たせたな。じゃあ、行くか」

 ガイが笑う足元で、ミュウがぴょんぴょん跳ねている。

「行くですの!」

「ああ。行こう」

 俺は頷く。

師匠せんせいのいるエルドラントへ乗り込むために――ケセドニアへ!」






 認められない。認めたくない。

 みっともねぇ感情だと自分で分かっていたが、どうにも治まらなかった。

 馬鹿で、グズで、どうしようもない出来損ないだったレプリカが、それでも死なずに障気を中和し、アブソーブゲートからヴァンを退けた。屑は屑なりに頑張っているようだ。――常にあいつを不良品呼ばわりしていたヴァンすらも、『見るべきところはある』と誘いの声を掛けたほどに。

 ……。

 ……まぁいい。使えるようになったのなら好都合だ。俺の存在を喰らうこいつには、これから俺の代わりを果たしてもらわなければならないのだから。

 だが、ローレライ解放を託すために奴に会いに行ってみれば、いきなり俺に宝珠を渡してきやがる。ローレライ解放はオリジナルの仕事だと言うのだ。

「俺はみんなと一緒に全力でお前を師匠せんせいの元へ連れて行く。お前はローレライを……」

「……ろう」

「……え?」

「馬鹿野郎!! 誰がそんなことを頼んだ!」

「何を怒っているんだよ。一緒に師匠を止めないっていうのか? 俺がレプリカってことがそんなに……」

 的外れなことを言い募ってきやがるので、ますますはらわたが煮えくり返った。

「うるせぇっ! 大体いつまでも師匠せんせいなんて言ってるんじゃねぇっ!」

「……アッシュ」

「しかもこの期に及んでまだ止めるだぁ? いつまでもそんなことを言ってる奴に、何が出来る! お前甘過ぎなんだよ! あの人は……本気でレプリカの世界を作ろうとしてるんだ。それが正しいと思ってる、確信犯なんだよ。

 俺が馬鹿だった。もしかしたら……こんなレプリカ野郎でも協力すれば奴を倒す力になるかもしれねぇって。

 お前は俺だ! そのお前が自分自身を劣ってるって認めてどうするんだ! 俺と同じだろう! どうして戦って勝ち取ろうとしない! どうして自分の方が優れてるって言えない! どうしてそんなに卑屈なんだ!」

 以前から、何かと『俺はレプリカだから』『お前はオリジナルだから』と言ってくるこいつの卑屈根性には嫌気がさしていた。確かにこいつはレプリカだ。そして俺より劣っている。だが、屑は屑なりに使えるところもあるって、この俺が認めてやろうかって時に、まだそれを言いやがるのか!

「違う! そんなつもりじゃない」

 だが、返ったレプリカの言葉は思いもよらないものだった。

「第一、俺はお前とは違うだろ」

「……な、何……」

「俺はお前のレプリカだ。でも俺は……ここにいる俺は、お前とは違うんだ。考え方も、記憶も、生き方も」

 揺らいだ。何かが。俺の根幹をなしていたものが砕け、覆される。

「……ふざけるな! 劣化レプリカ崩れが! 俺は認めねぇぞ!」

 今までなら、こう言えばレプリカは傷ついた目をしていた。だが……何だ? 今の奴の目は。

「お前が認めようと認めまいと関係ない。俺はお前の付属品でも代替え品でもない」

(お前が。否定するのか? 人形が。俺から何もかもを奪い、これからも喰らい尽くすものが)

 ――俺を。俺の身替りであることを。

「おもしれぇ! ならばはっきりさせようじゃねぇか! お前が所詮はただの俺のパチモンだってな!」

 俺は嘲笑って凄んでみせた。だが、奴は挑発に乗ろうとしない。

「アッシュ、俺はお前と戦うつもりはない!」

「うるせぇっ! 偉そうに啖呵を切っておいて逃げるつもりか? お前はお前なんだろう? それを証明してみせろ! でなけりゃ俺はお前を認めない! 認めないからなっ!」

 言い捨てて身を翻した俺の背に、ナタリアの声が聞こえた。

「アッシュ! 待ちなさい! 今のあなたは言ってることがめちゃくちゃですわ!」

「うるせぇっ!」

「アッシュ……」

 身をすくめて、ナタリアは悲しげに瞳を翳らせる。レプリカが声音に怒りを乗せた。

「待てよ、ナタリアに八つ当たりするな。俺は……」

 本当にメチャクチャだ。何もかもが。なんでこうなっちまう。レプリカのくせに。捨て駒だったくせに。

 

『これは出来損ないでは無理だ。アッシュでなければな。――アッシュ、私にはお前が必要だ』

 

「あいつの――ヴァンの弟子は俺だ。俺だけだ! てめぇはただの偽者なんだよ」

「アッシュ! なんてことを!」

 ナタリアがはっきりと非難の声をあげた。その顔に憤りと失望の色が浮かぶのを見て取って、俺の中はますますぐちゃぐちゃになる。

「俺はあいつを尊敬していたんだ。預言スコアを否定したあいつの理想を俺も信じたかった。俺の超振動を利用したいだけだってことは分かっていたが、それでもいいと思ったんだ。

 あいつが人間全部をレプリカにするなんて、馬鹿なことを言い出さなけりゃ……あいつの弟子であり続けたいって……」

「アッシュ、お前……」

「エルドラントに来い! 師匠を倒すのは弟子の役目だ。どちらが本当の弟子なのか、あの場所で決着をつける」

 そう言い捨てながら、俺は惨めな気分だった。――何故なのかは分かっている。

 だが……認めたくねぇんだ!






「ご主人様、日記書いてるですの?」

 机の上に乗って広げたノートを覗き込むミュウに、俺は「ああ」と頷いた。

 アルビオールでティアと話してから宿に戻ってきたけど、同室のガイはまだ戻っていなかった。だから日記を書くことにしたのだ。

「毎日書いてて偉いですの」

「もう習慣になっちまってるからな。書かないと落ち着かないっつーか」

 そう言いながら、俺は日記のページをパラパラとめくる。現われては消えるのは、この一年ほどの間の旅の思い出。

 昔、まだ自分が記憶障害だって信じてた頃、日記をつけるのは記憶をとどめる作業だった。また記憶がなくなっても困らないように、いつもポケットに入れて持ち歩いてたし。だから屋敷から飛ばされた時にも持っていけたんだけどな。

「でもホント……俺って馬鹿だったよな」

「みゅ?」

「――あ、いや。日記を見てるとさ、自分が変わってきたのがよく分かるなって」

 丸い目で見上げてきたミュウに向かい、俺はちょっと誤魔化して笑った。ミュウは気にならなかったみたいだ。

「ご主人様の思い出がいっぱい詰まってるですの!」

「そうだな。これは、俺の記憶みたいなもんだよな」

 昔は、日記を残していれば記憶がなくなっても大丈夫だって思ってた。

「……なあミュウ、俺、アッシュの子供の頃の話、結構知ってるんだぜ」

「そうなんですの?」

「母上やナタリアやガイや……屋敷のみんなが話してくれたからな。だけど、俺は『ルーク』にはなれなかった」

 記憶はただの記録だ。与えられても、その人物になれるわけではないんだから。

「ご主人様……悲しいんですの? お腹すきましたの?」

「違うよ、ミュウ」

 心配そうに見上げるミュウに、俺は笑った。

「俺は、自分が自分だって事に気が付いた。馬鹿だから、そんな当たり前のことに本当に気付くまで、随分掛かっちまったけど。それに、みんながいてくれるってことにも」

「ミュウもご主人様と一緒にいますの!」

「ありがとな。お前は、ずっと俺の側にいてくれたもんな。今は、ティアも、ガイも、ナタリアも、ジェイドも、アニスも、ノエルも、父上や母上や伯父上や屋敷のみんなや……」

 さっき海に浮かぶアルビオールからティアと一緒に見たルナの丸い光を、俺は思い浮かべる。欠けることなく、満ちて夜空をあまねく照らしていた優しい輝き。

「だからさ。俺は今……幸せなんだ」






(なあ……レプリカ……)

(俺たちは………なんでこんなことになっちまったんだろうな……)

 鉛のように重い腕を振るいながら、俺は呼びかけている。

 もう何人倒したのか分からない。数は多いが、大半は一律的な動きしか出来ない急ごしらえのレプリカ兵だ。伊達に七年間も闇を這いずり回っていたわけじゃない。本来なら負けない自信はあったが……。腕だけではない。全身が重い。意識が拡散していく感じがする。

(限界、なのか……。いや……)

「お前らで、最後だ……!」

 目の前に立ち塞がっていた奴らを、渾身の力を込めて斬り伏せた。よろめいてたたらを踏んだが、踏みとどまる。腕を下ろし、荒く息をついた。

 やった……のか。消える前に片付けた。――間に合った。

「聞こえるか、レプリカ……」

 同調フォンスロットを開き、レプリカに意識を繋ぐ。――が、意識が散漫になっていたからなのか。新手が駆け込んで来たことに気付いていなかった。

「……覚悟!」

 神託の盾オラクルの甲冑を着た男の剣が、背中から俺の腹を貫いた。

「ぐふ……」

 焼けた鉄でも押し付けられたかのような衝撃で、一瞬、何も分からなくなる。

 どこに潜んでいたのか、数人の兵たちが俺を取り囲んで、左右から剣を突き立てた。

「くっ……!」

(俺を……舐めるんじゃ……ねぇっ!!)

 刹那、燃え上がった怒りが重い腕を動かした。薙ぎ払った剣が、今度こそ、周囲のことごとくを斬り伏せる。

 静けさが戻った。自分の荒い呼吸音だけが大きく聞こえる。腹に突き立った剣を一本、何とか抜き去ったが、ずるりと足が滑った。もう踏みとどまれない。

「……ちょっと……てこずったな………」

 柱に背を預けて座り込むと、僅かな苦笑が漏れる。溢れる鉄の味を感じながら、俺はかすんでいく意識の向こうに呼びかけた。

(後は……頼む…………)



 エルドラントで顔を合わせたレプリカは、相も変わらず俺に先を任せようとした。

「どちらか一人しかここを出られないなら、お前が行くべきだ。ローレライの鍵でローレライを解放して……」

「いい加減にしろ!! お前は……俺を馬鹿にしてやがるのか!」

「そうじゃない。俺はレプリカで超振動ではお前に劣る。剣の腕が互角なら、他の部分で有利な奴が行くべきだろう」

「……ただの卑屈じゃなくなった分、余計にタチが悪いんだよ!」

 冷静な顔で理屈を言うレプリカを、俺は忌々しい思いで睨み付けた。

「他の部分で有利だ? 何も知らないくせに、どうしてそう言える? お前と俺、どちらが有利かなんて分からねぇだろうが!」

 俺は間もなく音素フォニム化して消えるのだ。ヴァンの元に辿り着くまで保つかも分からない。

「だけど俺はどうせ……」

「黙れ!」

 何か言い掛けたレプリカを俺は遮った。聞きたくない。くだらない卑屈な言葉を吐くつもりに決まっている。

「アッシュ! 何を……」

 俺が剣を抜いてみせると、レプリカはうろたえた顔をした。

「どうせここの仕掛けはどちらか一人だけしか出られない。だったらより強い奴がヴァンをぶっ潰す! 超振動だとか、レプリカだとか、そんなことじゃねえ。ヴァンから剣を学んだ者同士、どちらが強いか……。どちらが本物の『ルーク』なのか、存在をかけた勝負だ!」

「どっちも本物だろ。俺とお前は違うんだ!」

「黙れ! 理屈じゃねぇんだよ……」

 訳知り顔で正論めいたことを言うこいつが許せない。かつて俺の居場所を奪い、これから俺の存在を喰らうくせに。

「過去も未来も奪われた俺の気持ちが、お前に分かってたまるか! 俺には今しかないんだよ!」

「……俺だって、今しかねぇよ。奪われるだけの過去もない」

 この罠の中で顔を合わせてから初めて、レプリカの顔に怒りが浮かんだ。やっと剣を抜く。

「それでも、俺は俺であると決めたんだ。お前がどう思ったとしても俺はここにいる。それがお前の言う強さに繋がるなら……俺は負けない!」



 俺は、間違っていたんだろうか。

「……約束しろ! 必ず生き残るって! でないとナタリアも俺も……悲しむからな!」

「うるせぇっ! 約束してやるからとっとと行け!」

 ローレライの鍵を手に、何度も振り返りながら駆け去って行ったあいつを見送って、俺は自問した。

 ――いや。もうとっくに分かっていた。グランコクマで、あいつに『俺とお前は違う』と言われた時に。

 

『辛いか? アッシュ。レプリカに本来のお前の居場所を奪われたことが。……だが、気にすることはない。アレは愚かで哀れな存在だ。どうして自分が籠の中に飼われているのか、己が何者かさえも知らずにいるのだからな』

 

 あいつは俺の身替りで、だから『ルーク』に相応しい存在でなければならなかった。だが同時に、俺から造られた人形なのだから、俺より下にいるべきだった。あいつは俺からあらゆる光を奪った仇敵で、同時に、失われた俺の未来を託すことの出来る、もう一人の俺だった。

 そのはずだった。――それは、間違いだったのか。

 ふ、と俺は唇を歪めて笑う。

 違うな。あいつが変わったのだ。己が何者かさえも知らない人形から、一個の人間へと。

 俺が、いつまでも一箇所に留まっていた間に。

 認めてやるよ、ルーク。お前が俺の代替品ではない『本物』だというのなら。お前を先に行かせたのは、それこそ、有利な奴を行かせるためだ。お前がレプリカだから俺の代わりに行かせた訳じゃねぇ。……共に戦う、仲間として。

「そこをどけ!」

「……断る」

 鍵を持ったルークを追おうとする神託の盾オラクル兵たちの前に、俺は立ち塞がった。

 そして、俺とお前が違う存在で、どちらも本物だというのなら。俺は、存在を奪われた訳ではなかったのだ。

「お前らの相手は、このアッシュ――いや……ルーク・フォン・ファブレだ。覚悟しな!」

 俺はずっと、俺だった。






 七色に輝く柱が網の目に手を結び合っている奇妙な空間を、俺は譜陣に乗ってゆっくりと降りていった。ここは地核だ。なのに、崩壊したエルドラントの残骸が降っている。

 そうか。エルドラントはホドのレプリカだもんな。師匠せんせいが死んで、捕らえられていたローレライの一部が本体のいる地核へ引き戻されて――それにエルドラントを構成する第七音素セブンスフォニムが引きずられてるってことなんだろう。俺は学者じゃないし、間違ってるかもだけど。

 ――ふと、共鳴を感じた。

 見上げると、遥か頭上から――人間が降ってくる。まるで人形みたいに手足を投げ出して、俺の周囲を覆っていた障壁に一度ぶつかり、するりと通り抜けて入ってくる。

(アッシュ)

 どうにか抱き止めて、俺は息吹の失われたその顔を見つめた。作り物めいて白く強張っている。

(俺たちは……なんでこんなことになっちまったんだろうな)

 お前には生きて帰って欲しかった。……帰せると思ってた。障気中和以来音素フォニム乖離を起こして、いつ消えてもおかしくなかった俺とは違って、お前には未来があるはずだったのに。

 だけど、そうだな。俺たちはそれぞれ、精一杯戦った。そして師匠せんせいとの最後の戦いに、第二超振動という形でお前は力を貸してくれた。

 ……ありがとう、アッシュ。

 俺は馬鹿で甘ったれた奴だった。

 自分が記憶障害だと信じていた頃は、記憶がないことが不安だった。周りの誰もが記憶のない俺に失望しているように感じて、それで師匠せんせいの言葉だけを聞くようになって、アクゼリュスを崩落させて……。それからは、償おう、取り戻そうと必死だった。みんなに見捨てられたくなかった。レプリカとして周囲に見られるようになってからは、生まれた意味を探した。誰かに必要とされたかった。お前には価値があると言って欲しかった。だから、命と引き換えに障気を消そうと考えた。――だって、命を捨てて世界を救うなんて、すごい英雄だろ?

 だけど死ぬのはすげぇ怖くて、もしアッシュが「自分がやる」と言い出さなかったら、俺はきっと、自分じゃ踏み切ることが出来なかっただろう。

 そんなくだらない決意で、レプリカの人たちの命を喰らって、自分の命を捨てて……。アッシュが手を貸してくれたおかげで、この時は俺は消えなかった。一度本当に死に掛けて、俺は初めて心の底から思ったんだ。死にたくない、って。

 障気を消した俺に伯父上が勲章をくれて、俺は本当に英雄になったけど。そうしたら、そうじゃなかったんだってことがはっきり分かった。

 生まれて生きることに意味なんてなくてよかった。――それは、誰かのために何かが出来るのは素晴らしいことだと思う。そんな生き方があってもいい。だけど、誰かに必要とされなきゃ、決まった意味がなくちゃ、生きる価値がないってことじゃなかったんだ。

 生きる事に意味なんてない。ただ、生きたい。ここにいたいって。……それだけで、よかった。

 障気中和で無理な力を使ったために俺の体は音素フォニム乖離を起こして、あと少ししか生きられないと言われた。でも……だからかな。毎日を大切に生きたいって。そう思えるようになったんだ。

 そうしたら、気がついた。

 俺はずっと不安で、不満だらけだった。愛されたかった。いつもどこかで何かが足りないように思ってた。

 だけど、そうじゃなかった。

 母上やナタリアは、俺と本物のルークを比べてガッカリしたこともあっただろう。ガイは、復讐のために俺を殺そうと思ったことがあるだろう。ティアやアニスやジェイドは、俺を心底軽蔑したこともあるんだろう。

 でも、母上は俺を可愛がってくれてた。ナタリアは優しかったし、ガイは俺を支えてくれた。ティアも、アニスも、ジェイドも、俺を助けて色々なことを教えてくれた。……それは、本当のことなんだ。

 満たされなかったのは、俺がみんなに向き合っていなかったからだった。

 みんな、俺を見てくれていた。

 

『お前はお前、アッシュはアッシュ。レプリカだろうが何だろうが、俺にとっての本物はお前だけってことさ』

『あなたは、あなただけの人生を生きてる。あなただけしか知らない体験、あなただけしか知らない感情。それを否定しないで。あなたはここにいるのよ』

 

 ガイもティアも、ずっと前からそれを伝えてくれていたのにな。馬鹿な俺は、本当にはそれを理解できていなかった。



 地核の底から金色の光が立ち昇ってきて、俺の周囲を取り巻いた。――ローレライだ。輝く焔のようなそれは、不思議な声で語りかけてくる。

『世界は消えなかったのか……。私の見た未来が、僅かでも覆されるとは……驚嘆に、値する』

 そしてその輝きは解放され、星を取り巻く遥か上空の音譜帯へと去っていった。

(終わった……)

 俺の最後の仕事だった。地核からローレライを解放するっていう。

 なんだか、全身がフワフワする。ローレライと同じように、俺の体は金色に光っているようだった。

 

 ――アッシュ。

 お前に会って、お前のレプリカだって教えられて。すげぇ辛かったし、腹の立つこともあったけど。

 だけど、お前がいたから俺は変われたんだ。

 お前を見て、俺は自分の足りない部分に気が付けた。

 だから……お前は、俺にとって『鏡』だったってことになるのかな。




 どこかから声が聞こえる。

 

 ……生きて帰ってください――……待ってるからな。だから、さくっと戻って来いよ――……ちゃんと帰ってきてね!―……―あなたがあなたの人生を生きるため――……戻ってくるのを待ってるですの――…………待ってるから。ずっと。ずっと………!

 

 ―― や く そ く ………。

 頭がぼんやりしてくる。目を開けていられなくなってまぶたを閉じると、何故なのか、ひどく、眩しかった。

















「――それでは我々はこれで失礼しますよ」

「ああ……」

 死霊使いネクロマンサーの声に、俺は頷きを返す。

 ファブレ邸の玄関ホールに俺たちは立っていた。別れの挨拶をするために。

「じゃあ、元気でね、二人とも」

 背にヌイグルミを背負った少女が言った。

「次に会うのは婚礼の時かなっ」

 殊更に明るい口調で言われたそれに、傍らからナタリアが「まあ、アニスったら」と少し照れを含めて返している。

「そうね。やっとアッシュが帰って来たんだもの。二人には幸せになってもらわないと」

「ティア……」

 灰褐色の長い髪を垂らし、相変わらずの神託の盾オラクルの軍服に身を包んだ彼女は、確かに微笑っていた。――が。一瞬、ナタリアは辛そうな顔をする。

「それじゃ、私も行くわ。アッシュもナタリアも元気で。……さようなら」

 ズキリ、と『俺』の胸のどこかが痛んだ。しかし、何をすることも出来ない。そんな権利はありはしない。今、この仲間たちに繕った笑みを浮かべさせているのは紛れもなく俺だ。かつてお守り役だった幼なじみに至っては、こちらを見ようともしなかった。

 エルドラントで死んだはずの俺が、こうして生きて帰ってきてからニ週間ほどが経つ。祝典漬けの日々が終わり、気づけば年は変わって、新しいものになっていた。――あの戦いの日から丸二年と二ヶ月。年号だけで見れば一つ進んで三年。今は新創世暦2021年だ。

 俺の成人の儀が行われた夜、俺はタタル渓谷に立っていた。そこで再会して以来、屋敷に滞在していた仲間たちは、今、それぞれの場所へ帰って行く。

 何故、二年も経った今になって俺は戻ったのか。それは自分でも分からなかった。ただ、歌が聞こえた。――約束を果たさなければ。そう、強く思った気がする。

 だが……。それは何の。誰が交わした約束だったのだろう。



『浮かない顔をしていますね。……苦しいんですか?』

『ジェイドか……。何でもねぇ。気にするな』

『混乱している、といったところですか……。自分がアッシュなのか、それともルークなのか、と』

『……俺はアッシュだ』

『ええ。あなたは被験者オリジナルのルークです。……そういう現象なのですから』

『お前、まさか大爆発ビッグ・バンのことを知ってるのか!? だったら何故だ。消えるのは俺のはずだった』

『やはり、あなたは誤解していたのですね』

『誤解だと?』

『最終的な大爆発ビッグ・バンに向けて、被験者オリジナルの肉体は音素フォニム化し、体力や譜術力が徐々に失われていく……。そうして自分は消えて死ぬのだと。そう思っていたのでしょう? ですが、同位体の間に起こるコンタミネーションはそういうものではない。あれは、オリジナルがレプリカの情報を奪い、取り込んで再構築する現象なんです』

『な……!? だ、だが、ワイヨン鏡窟のチーグルは、被験者オリジナルが消えていたぞ』

『残っていたのは被験者オリジナルの方です。一度音素フォニム化して、レプリカが存在していた位置に再構築されていたのですよ』

『……馬鹿な……。それじゃ……』

『……今、あなたの中にはレプリカのルークの記憶がありますね?』

『……ああ』

『それが、あなたがコンタミネーションで取り込んだ彼の情報です』

『………』

『……』

『…………俺が……あいつを、喰ったのか』

『同位体のコンタミネーションは自然現象です。詳しいことは全く分かっていない。誰にもどうにも出来ないことだったんですよ。

 それに、ルークは障気中和の為に音素フォニム乖離を起こして、消滅を間近にしていました。そしてあなたも一度、神託の盾オラクル兵の剣に刺されて死んだ。

 あなたがこうして生きて戻ったのは、紛れもなく奇跡です。本当に……彼は、私の想定外のことをやってくれました。そのことを……喜び、感謝するべきでしょう』



「アッシュ。わたくしも城へ戻りますわ」

 ナタリアの声が聞こえて、俺は我に返った。金の花のような彼女は、大人びて、以前よりも更に美しい。

「ああ。――送って行くか?」

「心配要りませんわ。供もおりますもの。アッシュも、立て続けの式典で疲れているでしょう。ゆっくり休んで下さい」

「ありがとう」

 そう言うと、ナタリアは軽く目を見開いた。そして微笑む。――懐かしさと、僅かな痛みの篭もった緑の瞳で。

「それでは、また。ごきげんよう、アッシュ」

「またな」



 ナタリアを見送ってから中庭に下りた。俺の部屋の近くの花壇の前に庭師が一人座って、何か作業をしている。

「世話をかけるな」

 声をかけると、「こ、これはルーク様! 私のような者にお声をかけてくださるとは」と、見慣れぬ庭師はしゃちほこばって頭を下げた。二年の間にペールはここを去り、今ではグランコクマのガイの屋敷に仕えていると聞く。

「構わん、そう硬くなるな。何をしているんだ?」

「は、はい。花の植え替えを。前任の庭師からの申し送りで、この時季には必ずこの花を咲かせるようにと……」

 それは見知らぬ花だった。だが赤い花弁は見事で、美しい。

「ルーク様!?」

 庭師が慌てた声をあげた。俺の頬を伝い落ちた涙を見て。

「どうかなさいましたか。な、何か私がご無礼を……」

「違う……」

 涙を流したのは俺だ。だが、泣いているのは俺なのだろうか。

 分からない。胸の奥で時折痛む感傷は、俺のものなのか。それとも、あいつが遺したものなのか。混じり込んだ記憶は合わせた鏡のように無尽に広がっていて、境界は曖昧だった。

 それでも、手を伸ばせば鏡面に阻まれて奥の景色に触れることは出来ないように、俺は俺でしかない。

 あいつにはなれない。

 

 ――お前は、俺にとって『鏡』だったってことになるのかな。

 

 あいつにとって俺がそうだったように、俺にとってもまた、あいつは鏡の向こうに立つ存在だった。

 胸の奥の鏡を、俺は見つめる。

 ――これから生涯、見つめ続ける。






終わり

06/06/13 すわさき


*ファミ通版小説『緋色の旋律 中』のあとがきの、「レプリカとオリジナル、どっちがつらいかといえば、案外オリジナルのほうかもしれません。ルークとアッシュの場合は特にそんな気がしますね。」という一文への感想として書きました。


 死んだ人間と生き残った人間、どちらが辛いかといえば、それは生きている方なのでしょう。死んだ人間はそこで止まる。苦しみや哀しみを感じるのは生きている人間だけです。しかし、生きた人間はまた、新たな喜びを感じることも出来る。不遇の七年間を過ごしたアッシュは、これから きっと幸せになっていけるだろうと思います。

 でも、時々はルークのことを思い出してくれると、個人的には嬉しい。
 死んだ人間が存在できるのは、生きている人間の記憶の中だけだからです。

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