彼を殺したのは私なのに、それでもこうしてここに来てしまうのは、きっと私の弱さなんだろう。
ガラス張りのドームから空が見える。ガラスの粉をまぶした真っ黒いビロードのような星空。その下で、今日もセレニアの青白い花は花弁を開いている。
この庭を初めてもらった時は、嬉しくて、悲しかった。嬉しかったのは、私だけの場所をもらったから。悲しかったのは、兄さんが傍にいなくなってしまったから。
兄さんがダアトの士官学校に入ることになって、それまで自分の修練に使っていた庭を私に譲ってくれた。お前が好きなように使っていいんだよ、と言って。私はお祖父様に手伝ってもらって、水を引いて土を入れて、植物が育てられるようにした。
夢はなかなか叶えられなかった。色々な失敗をした。外殻から帰省してきた兄さんが、セレニアの花の株を贈ってくれた時までは。夜に咲くというこの花は、多くの光を必要とせず、私の
セレニアの花でいっぱいになった庭を見て、喜んでくれた兄さん。いつかこんな場所で眠りたいと微笑んだ兄さん。
彼を殺したのは私なのに、それでも私はこの場所に墓標を建て、ここに戻る度にその前に佇んでしまう。
「兄さん……『ルーク』が帰ってきたのよ」
墓標に向かって、私は語り掛けた。
この庭と同じセレニアが咲く渓谷に、ルークと私が擬似超振動で飛ばされてから、もう……三年になる。私たちはそれから一年近く一緒に旅をして、兄さんと戦って……。必ず帰るよ、という約束を残してルークが消えてから二年が過ぎた。
それから、何度この墓標の前に立ったのだろう。弱い自分を叱咤するために。鼓舞するために。
きっと帰るって信じてた。ずっと待ってるって言った言葉は嘘じゃないわ。
でも苦しくて、何も見えなくなりそうな日もあって。
『……必ず帰ってきて! 必ず。必ずよ。待ってるから。ずっと。ずっと……』
『……うん、分かった。約束する。必ず帰るよ』
馬鹿な私。最後の最後まで、彼にちゃんと言えなかった。私の気持ち。本当に言いたかったこと。
だから、罰が当たったのかもしれない。
彼が消えて二年と少しが過ぎた去年の暮れ、彼の二十回目の生誕の日に、『ルーク』はセレニアの花の咲く渓谷に現われた。
『それに……約束してたからな』
耳に残っていたままの声。口元に浮かんだ懐かしい微笑み。初めて出会った頃と同じ、緋色の長い髪。
あの瞬間、私はルークが帰ってきてくれたのだと思った。そして、それは真実だったのだと今でも思う。
ルークは帰ってきたのだ。約束を果たすために。
けれど……。
「ティア」
呼び声が聞こえて、私は顔を上げた。部屋の戸口にお祖父様の姿が見える。
「まだ起きているのかね。お前も今日バチカルから戻ったばかりで、疲れているだろう」
この年の暮れ、私は仕事の待つダアトにも、お祖父様のいるユリアシティにも戻っていなかった。
「ごめんなさい、お祖父様。戻るのが遅くなったのに、あまりお話もしないで……」
「それは構わんが……」
タタル渓谷で『ルーク』を迎えて、私はそのまま二週間ほど、バチカルの彼の屋敷に滞在していた。かつての旅を共にした他のみんなもそう。なにしろ二年ぶりの再会で、離れがたかったからなのだけれど……。
いいえ、きっとそれだけじゃなかったわね。
『ルーク……? いえ……、まさか、アッシュ……ですの?』
『俺は「ルーク」だ、ナタリア。……アッシュと呼ばれていた方のな』
渓谷に帰って来たのは確かに『ルーク』だった。
けれど、私が待っていた、私に約束してくれたルークじゃなかった。
それを認識して見れば、仕草も、表情も、何もかもが違う。
現実は受け入れなくてはならない。それでも、愚かな私は期待をやめられなかったのかもしれない。彼の中に『ルーク』の欠片が見えないか。これは何かのまやかしで、本当は、帰ってきたのはあの彼なんじゃないか、って。
……馬鹿ね。本当に馬鹿。
欠片のようなものを見つけたとしても、苦しくなるだけのことだった。アッシュはアッシュ。ルークはルーク。同じ顔で声をしていても、彼らは違う人間なのだもの。
この庭を埋め尽くすセレニアの花。この花だって、咲いているものは毎日違う。
あの日、彼がここに立っていた時の景色と同じように見えるけれど、違うのだから。
世界の全ては変わっていく。目を閉じても耳を塞いでも、それを動かすことはできない。
「ティア」
再びお祖父様の声が聞こえる。
「あ……。ごめんなさい、ぼんやりしていたわ」
「本当に大丈夫かね? もう休みなさい」
「平気よ。私は……」
反射的に強く言いかけて、私は口をつぐんだ。
『無理するなよ。キツかったら言えよ』
眉を八の字に下げて、心配そうに言っていた彼の表情と声が掠める。
『お前ってすぐ無理するから、信用できないっつーか……』
「……」
「……どうしたね? ティア」
「いえ……ううん、そうね。もう休むことにするわ」
そう言うと、お祖父様は目に見えてホッとした顔をした。
「……お祖父様」
「なんだね?」
「ありがとう」
そう言うと、少し驚いた顔をして、ふっと笑う。お祖父様のそんな顔を見るのは珍しい気がして、私も少し驚いた。
「お祖父様?」
「いや……。ティア、お前の笑顔を久しぶりに見たと思ってな」
「え? 私……笑っていなかったかしら……?」
「抜け殻の笑顔だったよ。ヴァンが死んでから……。いや。ルークがいなくなってから、か」
「…………そう」
「……さあ、本当にもう休みなさい。グズグズしていればすぐに時は過ぎる」
「ええ」
背を向けて家の中に入っていくお祖父様を追って行きかけて、私はふと足を止めた。振り向いた視界の先には、セレニアの花群れが青白く広がっている。
花の中に、幻が見えた。あの日の彼の姿。自ら切り落とした長い髪を片手に持って、懸命な面持ちで私を見つめている。
『これからの俺を見ていてくれ、ティア。それで、判断してほしい。……すぐには上手くいかねぇかもしれない。間違えるかもしれない。でも俺……変わるから』
「私も……変われるかしら、ルーク」
人は変われる。彼が身をもってその道筋を示してくれたように、……私も変わりたい。
――二度と、こんな後悔を、しないためにも。
「だから……私のこと、見ていてね」
花の中の少年は何も言いはしない。けれど、優しい碧の瞳で私を見ていてくれている。
微笑んだ拍子に、一筋、目の端から零れ落ちた熱いしずくを感じながら、私は背を向けてゆっくりと歩き始めた。
終わり
06/07/07 すわさき
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『彼』という存在はいなくなってしまったけれど、その輝きは胸に在り続ける。
ティアは、名前からして「涙、悲しむ、仲を引き裂く」って意味があったり、「悲劇」のイメージが強いキャラですよね。そういえば彼女の本名は「メシュティアリカ・アウラ・フェンデ」ですが、「アウラ」には確か何かの精神疾患系の意味があったと記憶してます。てんかんとかヒステリーの前駆症状でしたか。「気」とか「そよ風」って意味もありますけど。
ギリシャ神話に、アウラと言う名前の妖精の話があります。ディオニュソス神が彼女に恋して追いましたが、彼女は風のように足が速くて捕まらなかった。そこで愛の女神アフロディテはアウラを発狂させしめ、ディオニュソス神は想いを遂げて、彼女に双生児を産ませた。しかし狂っていた彼女は子供を殺し、自らも河に身を投げて死んだ。大神ゼウスは彼女を哀れんで泉に変えた…。
ディオニュソス神は一般には酒と芸術の神と紹介されますが、要するに抗いがたい情動とそこから来る狂気を司る神です。意訳すれば、ドロドロして激しい欲望の神。そんな愛に捕えられ、狂って死んでしまった女の名前です。
(細かいことを言えば、ディオニュソス神は「殺され、犠牲となって、後に復活することで世界を富ませる者」でもあるので、この神に関わって死ぬというのは「犠牲死」と「死からの復活」を暗示していますが。)
……って、ティアとは正反対…ですかね。ティアはアポロン(理性)的かなぁ。
でも、ヴァンとルークに関することではたまに取り乱しますし、意外に情動の大きな女性なのかもしれないとも思います。