黄金きんの変奏


 部屋を出ようとした刹那、微かに共鳴音を聞いた気がして、ルークはギクリと身を強張らせた。いつもの頭痛の前兆だと思ったのだ。だが、あの強烈な痛みは襲ってこず、音は速やかに遠のいていった。

「気のせいか……?」

 所構わず襲ってくる頭痛は、七年間――ルークの記憶にある限り全ての時間、彼を苦しめ続けている。その原因だという誘拐を目論んだ『マルクト帝国の奴ら』に内心悪態をつきながら、ルークは部屋のドアに手を掛けた。――と。

「うわっ!?」

 突然ドアが開いて、ルークは驚いて声を上げた。ノックもせずに、この屋敷の子息の私室のドアを開ける者がいようとは。だが、驚きが怒りに変わる暇は与えられなかった。

「ガ、ガイ? どうしたんだよ」

 ドアを開けた者――ルーク付きの使用人にして親友のガイ・セシル――は、肩で息をしていた。ここまで走ってきたのだろうか。そのくせ顔色はどこか青ざめていて、まさに『血相を変えた』という表現が相応しい。

 この幼なじみがこれほどに取り乱すことは、滅多にあるものではなかった。そもそも、こんな風に礼を欠いて正面から部屋に飛び込んでくること自体、初めてではないだろうか。最近は執事のラムダスや父の公爵があまりいい顔をしないため、私用がある時は窓からこっそりルークの私室に入ってきていたくらいで。

 そんなルークの困惑は、次の瞬間には更に増していた。無言のままルークを見つめた後、ガイが抱きついてきたからだ。

「ちょ……。なんだよ、ガイ! 苦し……力入れすぎだっつーの!」

「ルーク……。お前、生きて……生きてるんだな……!」

「……はぁ?」

 何言ってんだこいつ。確かに今は朝だけど、まだ寝ぼけてんのか? 毎朝俺よかよっぽど早起きで、憎たらしいくらいすがすがしい顔してるくせに。

「ガイ、あのな。とにかく、放せよっ」

 そう言い掛けた時、ガイの背後で閉まっていたドアが軽くノックされた。思わず、二人は背を強張らせる。ドアの向こうから、聞き慣れたメイドの声が聞こえた。

「ルーク様、よろしいですか?」

「なんだ」

 わざと不機嫌そうにルークは返した。そう振舞えば、メイドはドアを開けない。ガイがここにいる以上、ドアを開けさせるわけにはいかないからだ。

「あ、あの……。旦那様がお呼びです」

「親父が? ……はぁ、面倒くせぇなあ」

 厳格な父親が言うことといえば、説教くらいしかない。思わずルークが漏らすと、「グランツ謡将がお見えになっています。それで、お話があるのだとか」と声は続けられた。ぱっとルークの声が高くなる。

師匠せんせいが!? 分かった、すぐ行く! さがれ」

「はい」

 メイドの気配が立ち去ったのを確認してから、ルークはガイに嬉しそうな笑顔を向けた。

「おいガイ、ヴァン師匠が来てるんだってさ、今日は稽古の日でもねぇのに! 話って何だろうなぁ……。とにかく、これで今日は退屈しないで済むかもしんねぇ!」

 だから、悪ぃけど今はお前の相手してる暇はねぇや。すぐ行かねーと。そう言ってさっさと出て行きかけたルークの腕を、ガイの手が掴んだ。強い力で引き戻されて、ルークはまず驚き、次いでむっと眉根を寄せた。

「んだよ。今はお前の相手してる暇はねぇっつったろ?」

「時間がない。ルーク、よく聞くんだ」

 だが、ガイはルークの機嫌など意に介していなかった。そこにあるのは、ひどく真剣な目と声色で。

「ガイ……?」

 いつものガイじゃない。ようやくそれがはっきり身に染みてきて、ルークはまじまじと彼の顔を見返す。その目を覗き込んで、彼はこう言った。

「一緒に行こう。ルーク、お前をこの屋敷の外へ連れて行ってやる」








「導師イオンが行方不明……? そんな!」

 ようやく拘束から解放された手首をさする手を止め、ティアは声を上げていた。

「嘘ではない。今朝方、大詠師モースから鳩が来た」

 彼女の前に立ち、静かにヴァンはそう言い放つ。――つい先程、殺意をもってナイフを向けたばかりの男だ。ティアの実の兄にして同じ神託の盾オラクル騎士団の主席総長、ヴァン・グランツ。

「私が今日この屋敷を訪れたのも、導師捜索のためダアトへ帰国する旨を伝えるためだった。……だが、問題はそれだけではなくなったようだ」

「え?」

 目を瞬かせたティアに、傍らに立っていた赤い髪の男――恐らく、この屋敷の主であるファブレ元帥なのだろう――が厳しい声で言った。

「キミも、我が息子をかどわかした一味の一人なのではないのかね?」

「……な、何のことですか? お話がよく分かりませんが……」

「ファブレ公爵の一人息子、ルーク殿が姿を消したのだ」

 戸惑う妹に向かい、ヴァンが告げた。

「同時に、息子の世話係をさせていたガイ・セシルも行方をくらませた。息子はこの屋敷の外のことを一切知らぬ。出るすべも持っておらぬ。間違いなく、ガイが連れ出したのだろう。――ティア・グランツ、キミが我が屋敷を守る白光騎士団を譜歌で眠らせている間にな」

「そんな……! 私は知りません! 私はただ、兄を……」

「公爵。妹はご子息の件とは全く関係ありません。これは故郷を出てきたばかりで、ご子息ともガイとも全く面識がない」

「ならば、貴公の差し金だと考えてもよろしいか」

「ご冗談を。そんなことをして私に何の利があります」

 ヴァンは目を伏せて薄く笑った。

「ともあれ、妹の行動が場を混乱させたことは確か……。妹にこのような不始末をさせてしまったのも、兄としての私の至らなさのためでしょう。どうです、ご子息捜索に我ら兄妹も参加させていただけませんか」

「なに?」

「ガイがどんな思惑でご子息を連れ出しかのかはともかく、これはキムラスカ国王の意向に逆らうということ……。あの男は愚かではない。相応の覚悟をしているに違いありません。であれば、いつまでもキムラスカ国内に留まっているとも思えません。ですが白光騎士団やキムラスカ軍ではマルクト帝国へ捜索に入るわけにも行きますまい。しかし、我々は神託の盾の騎士だ。どの国に入っても咎められることはありません」

「ふむ……」

 考え込んだ公爵の前で、ティアは慌てて声を荒げた。

「何を言っているの、裏切り者ヴァン! 私は、あなたを殺すために……!」

「落ち着け、ティア。お前は誤解しているのだ」

「誤解……?」

「私はユリアの預言を信じ、それに基づいて世界を繁栄させることを望んでいる。……それが真実だ」

「ほ、本当に……? だって兄さん、外殻……」

「ティア」

 緩くたしなめるような声音で名を呼ばれて、ティアは口をつぐんだ。

「とにかく、我々の問題のために子息が行方知れずになったことは確かだ。その責任は取らねばならぬだろう」

「そうね……」

 ティアは考え込むように視線を伏せ、頷いた。

「公爵。そういうことでよろしいか。妹はまだ若いが、腕は確かです。きっとお役に立てるでしょう」

「……いいだろう。国内は白光騎士団に捜索させるが、その他を任せる。――だが分かっているだろうな。息子を生きて連れ戻せなかったならば……」

「分かっております。ご子息は必ず無事に連れ戻しましょう」

 そう請けあうと、公爵は眉間に皺を寄せたまま部屋を出て行った。

「兄さん……」

 立ち上がり、ティアは兄を見上げる。

「全く、ややこしいことをしてくれたものだ」

 ヴァンは口元を歪め、皮肉に笑った。

「ご、ごめんなさい……」

「いや、そう気にするな、ティア。お前を不安にさせた私も悪いのだ。……だが、まさかガイがルークを連れ出すとはな。……一体何を考えている?」

 ヴァンは考え込む口調になった。そして胸のうちで独りごちる。

 ――それに、このタイミングも気に掛かる……。まるで、ティアが今日この屋敷を訪れ、譜歌を歌うことを知っていたかのようではないか。

 先を読んで行動しているかのように思えた。まるで、このための預言スコアでも予め詠んでいたかのように。








「イオン様ーっ。どこですかぁー!?」

 アニスは人ごみの中を走り回っていた。流石、商業都市としても有名なケセドニアだ。人の多さは半端ではない。

「もぉー、どこ行っちゃったかなぁー。目を離すとすーぐいなくなっちゃうんだからぁ」

 またエンゲーブの時みたいに、一人で勝手にどこか危ない所へ行っちゃったのかも。でも、あの時は大佐が間に合ったから良かったけど、危うくライガの群れに食べられちゃうところだったんだからね! 体が弱いのに、あんなに無鉄砲な人だったなんて思わなかったよ。

 そんなことを思いながらキョロキョロと辺りを見回した視線が、見慣れた白い法衣らしきものを捉えた。

「あ。イオン様!」

 アニスは叫び、駆け寄る。イオンは青ざめた顔でぐったりと腰掛けていて、その体を支えるようにしている、イオンよりやや年長の少年の姿があった。

「ちょっと! イオン様に何してるんですかっ!?」

 ローレライ教団の最高指導者に馴れ馴れしい。カッとして叫ぶと、少年は少し驚いたようにこちらを見た。この猥雑な街に似合わない、かなり整った容貌をしている。そのことにアニスは一瞬気を呑まれたが、ぐっとこらえて睨みつけた。

「何だ? お前」

 容貌に似合わぬぞんざいな口調で少年が声を発する。

「何って、私はイオン様の護衛ですっ! あなたこそ誰なんですか。イオン様に何するつもり!?」

「ちょっ……。何だよ、このガキ。俺に文句でもあるのか!?」

「ガキとは何よぅ! 私にはアニスって言う可愛い名前があるんだから!」

「落ち着いて下さい、アニス。僕なら平気です」

「イオン様……!」

 イオンがうな垂れていた顔を上げて言った。その顔色は間近で見てもやはり青白い。

「ちょっと、人ごみに当てられてしまったようで……。そうしたら、この方が声を掛けてくださったんです」

「はへ? そうなんですか?」

「そうです。親切にして下さって……。すみません、しもべが勘違いをして失礼を致しました」

 そう言ってイオンが見上げると、少年は「フン」と鼻を鳴らして顔を背けた。

「アニス! ……ああ、イオン様、ここにおられたんですか」

 そこに、人ごみを掻き分けてジェイドが近付いてきた。ダアトを出奔して以来、行動を共にしているマルクト軍人の姿を認めて、アニスは僅かに肩の力を抜いた。譜術と知略に優れ、皇帝の懐刀とまで呼ばれる男だ。譜術の方は今は封印術アンチフォンスロットで抑えられていたが、拿捕された陸艦タルタロスから逃れ、僅か三人でここまで来ることができたのも、この男の力が大きい。

「ご無事ですか?」

「はい。少し気分が悪くなっていたのですが……この方が世話をしてくださって」

「おや……、あなたは?」

 ジェイドが少年を見やる。少年はぶすりと表情を腐らせたが、それでも「ルークだ」と名乗りを上げた。

「ルーク・フォ……っとと、いけね」

 言いかけて、何故か慌てて自分の口を押さえる。

「どうしました?」

「なんでもねーよ! それより、人に名乗らせといてお前は名乗らねぇのか?」

「これは失礼しました。私はマルクト帝国軍第三師団師団長ジェイド・カーティス大佐です」

「私は神託の盾オラクル騎士団導師守護役フォンマスターガーディアン所属、アニス・タトリン奏長です」

 続いてアニスが名乗りをあげ、イオンを示して「そしてこの方はローレライ教団の導師イオン様であらせられますよ!」と誇らしげに言った。

「ふーん?」

 だが、少年は驚くでもひれ伏すでもない。鈍い反応にアニスは拍子抜けし、不快になった。

 なにこいつ……。なんかおかしいんじゃないの?

「しかし、あなたの髪は見事な赤毛ですね」

 こんな奴の側からさっさと離れたい。そう思ったのに、どういうわけかジェイドはそんなことを言い始めている。

「ん? そうか?」

「ええ。緑の目によく映えています。長くても似合いそうですね」

「ああ、こないだまで伸ばしてたんだけどな。ガイが、長いと目立ちすぎるからって……」

 その時、人ごみの向こうから声が掛かった。

「ルーク!」

 ルークより幾つか年上だろうか。金髪の青年が人ごみを器用に縫って駆け寄ってきた。

「ガイ!」

 ぱっとルークの顔が輝く。まるで小さな子供のように。

「何やってんだ。来るのが遅ぇよ、お前」

「おいおい、迷子になったのはそっちの方だろう? ったく、どれだけ探したと思ってるんだ」

 その言葉に偽りはないようで、ガイの額には汗が流れ落ち、息は少し荒くなっている。

「とにかく、さっさと行くぞ。旅券の手配は済んだから、早く船に乗って……――って、ジェ……!?」

 息を整えながら顔を上げ、ルークの周囲にいる人物を目に捉えた途端に、ガイは叫び、声を詰まらせていた。ジェイドが眉根を寄せる。

「……? どこかでお会いしていましたか?」

「いや、知らない。全然会ったことはない! ほら、行くぞルーク」

「え? ちょ、ちょっと待てよガイ」

「そうですよ。折角ですし、宜しければお茶をご馳走させていただけませんか?」

 引き止めたのはイオンだった。「えぇー!?」とアニスは不満そうな声を上げたが、意外にもジェイドも「そうですね」と口を添えている。

「う……。悪いが、俺たちは先を急ぐんだ。船が出るんでな」

「この時間なら、まだ出航までに時間がありますよ。マルクト側とキムラスカ側、どちらを使うとしてもね」

 ジェイドの言葉に反応を返したのはルークの方だ。

「なんだ、じゃ、焦ることねーじゃん」

「おい、ルーク」

「っせぇな。俺、喉カラカラなんだよ」

「ケセドニアは暑いですからね。あちらに冷たい飲み物を出す店を見かけましたよ」

 微笑むイオンの言葉を聞くと、ルークは「マジ!? やりぃ!」と笑顔で拳を振り上げた。反対に、ガイは片手で顔を押さえ、がくりとうな垂れている。

「……これも運命って奴なのか……」

「何ブツブツ言ってんだよ。ガイ、行くぞ!」

 上機嫌のルークは、イオンと並んで人ごみを歩き始めている。その二人の間を割るようにして一人のいかつい男が通り抜け、ルークは少し体をぶつけられて顔をしかめた。

「いてっ。何すんだよ!」

「失礼したでゲスよ」

 そう言って男は立ち去りかけたが、「お前は漆黒の翼の、確かウルシー!」とガイが叫んだので、その場で飛び上がった。

「何故それを……! だが、財布は返さないでゲス!」

「へっ? ……あーっ、財布がねぇーっ!!」

 ルークの叫びを背に、ウルシーは走り出していた。

「くそっ、待て!」

 叫び、ガイはそれを追おうとする。だが人ごみの中では上手く走れない。危うく女性にぶつかりそうになってたたらを踏み、「ひっ……! あ、す、すみません」と悲鳴を飲み込んだ。その間にウルシーの姿はどんどん遠ざかっていく。

 その時だ。

 ヒュッ、と風を切って何かが飛んだ。それは走るウルシーの足元に突き刺さり、彼を転ばせる。慌てて起き上がろうとした首元に、スッとナイフが突きつけられた。彼の足元に突き立ったそれと同じものだ。

「財布を返しなさい。そうすれば傷つけないわ」

 一体いつ側に立ったのか。冷たい声でそう言った女――ティアに向かって財布を放り出すと、ウルシーは球が転がるように逃げて姿をくらました。

「くそっ、逃げやがった!」

 やっと追いついてきて悔しがっているルークに「これは、あなたのものね」とティアは財布を手渡す。

「あ、ああ……」

 気を呑まれ、曖昧に頷いただけで受け取ると、ティアはふと目元を歪めた。

「随分ぼんやりしているのね。剣士のようだけれど……そんなことでは生き残れないわよ」

「んなっ……なんだとぉ!?」

 喚くルークの後ろから、駆けて来たイオンが「ルーク! 大丈夫ですか」と声を掛けた。

「ルーク……?」

 ティアがハッと青い目を見開いている。しげしげと顔を覗き込まれて、ルークは僅かに頬を赤らめた。

「なんだよっ」

「赤い髪……緑の瞳……。あなた、ルーク・フォン・ファブレね?」

「!? お前、なんでそれを知って……!」

 語るに落ちている。反射的にそう返したルークから、ティアは傍らの金髪の青年に視線を移した。

「あなたはガイ」

 予め兄に聞いていた身体的特徴を踏まえてティアはそう言ったのだが、何故かガイはひどく驚いた顔をした。

「俺の名を知ってる……? ティア、まさか、キミもなのか!?」

「え? どうしてあなた、私の名を知っているの?」

 問い返すと、ガイはハッと口をつぐむ。

「私は、兄と一緒にあなたたちを探していたのよ。仕える主人を誘拐するなんてどうかしてる。一緒に来てもらうわ」

「くっ……。逃げるぞ、ルーク!」

「え、あ!?」

 訳の分からぬまま、ガイに腕を引かれてルークは走り出そうとする。――が。

「アニース♥ ガイを引き止めてあげてください」

「ほへ、私がですか? まあいいや。分っかりましたぁ!」

 朗らかにジェイドに命じられたアニスが身軽にガイの前に回りこむ。小柄な少女を前に、何故かガイは身をすくめて足を止め、悲鳴を飲み込んだ。

「ひっ!? や、やめろ。頼むからどいてくれ!」

「むっ? なによその態度。可愛い女の子に向かってぇ」

「うわぁあああ!! く、来るな。触らないでくれぇえ!!」

「ガイ!」

 青ざめてヘナヘナとうずくまってしまった女性恐怖症の親友に駆け寄ろうとしたルークは、耳に届いた歌声にふと意識を奪われた。

 澄んだ声が奏でるその歌は――どこか懐かしいような気がする。いつか、どこかで聴いたような……。しかしそれを思い出そうとする間もなく、彼の意識は闇に閉ざされ、深い眠りの淵に落ちていた。

 狙いを定めた二人の若者が眠りに落ちたのを見届けてから、ティアは第一音素譜歌ナイトメアを歌い終えた。いくら軍人としての訓練を受けているとはいえ、女一人で男二人を取り押さえるのは難しい。だが、ティアにはこの譜歌があった。だからこそ兄も、二手に分かれてそれぞれ単独で捜索する道を選んだのだろう。

「良く眠っている。これは、ただの譜歌ではありませんね。もしや、ユリアの譜歌……?」

 眠っている二人の息を確認していたイオンが立ち上がり、ティアを険しい目で見て言った。どこかで見た覚えのあるその少年の姿に、ティアはハッとする。

「あなたは、導師イオン!? どうしてここに。行方不明だとお聞きしていましたが」

「行方不明? うわぁ、まずいですよぉ。そんな噂になってるんですか」

 側で頭を抱えたアニスをティアは見やった。

 この子は導師守護役フォンマスターガーディアンだわ。ということはご公務でここにおられるのかしら……? でも、兄さんは確かに……。

「ルーク・フォン・ファブレ……。キムラスカ王家と姻戚関係にあるファブレ公爵家の御曹司ですか。キムラスカの王族は赤い髪を伸ばし緑の目をしているのが特徴だと聞いていたのでもしやとは思いましたが、まさか誘拐とはね」

 いや、あの雰囲気だと家出……というより、いっそ駆け落ちでしょうか? とジェイドは呟いている。胡乱げなティアの視線に気付いて、にっこりと微笑んだ。このマルクト軍服をまとった不審な眼鏡男に、ティアは表情を変えずに訊ねる。

「あなたは?」

「『平和の使者』です♥」

 なんのてらいもなくそう言ってのけた男は、「あなたは、この二人をバチカルへ連れて行くつもりなのでしょう」と逆に訊ねた。

「え……ええ」

「では、私たちを協力者として一緒に連れて行ってもらえませんか。――王と謁見するのに何かつてが欲しいと思っていたところだったんですよ」

 そう言って、ジェイドは柔和に笑った。








 ガシャン、と鉄格子が開かれた。兵士に「出ろ」と促されて、ガイはぼんやりと顔を上げる。いよいよ処刑の宣告でも下ったか、と思った。

 ここはバチカル城の地下の罪人部屋だ。ガイがここに閉じ込められてから、恐らくは丸一日ほどが経つ。何しろ窓がないので、本当のところは分からなかったが。

 公爵子息を誘拐した。実際、それだけでその場で斬り殺されてもおかしくはなかった。

 ――ましてや、『ルーク』はキムラスカ王国にとって……いや、この預言スコア中毒の世界にとって特別な存在だ。

 なのに特に暴行も受けずにバチカルまで護送され、ここに閉じ込められるだけで済んでいるのは、ヴァンの口ぞえがあったのかもしれないし、逮捕者がティアだったからかもしれない。

 ふ、とガイの口元が歪んだ。

(まさか、彼女に捕らえられることになろうとはな)

 ユリアは、そしてローレライはどこまで皮肉な運命を用意しているのだろうか。――もしや、これは彼女たちが与えた罰なのか? 『彼』を奪い去った運命を……ローレライを憎み、呪いの言葉を放った自分を咎めるための。

「……ガイ」

 のろのろと鉄格子の中から出たガイは、『彼』の声を聞いてハッと我に返った。

「ルーク!? お前、どうしてここに……」

「もう大丈夫だ。悪かったな、遅くなっちまって。伯父上と父上にはちゃんと話ししたから」

 ルークは明るく笑っていた。

「聞いてくれよ、ガイ。俺って選ばれた英雄なんだってさ。ユリアの預言スコアに俺のことが詠まれてて、おまけに俺、第七音譜術士セブンスフォニマーっていうのなんだって」

「……!」

 息を呑んでガイは青ざめたが、ルークは気づかずに話し続けていた。

「なんか、ちょーしんどう? っつーのを俺は一人で使えるらしくて。それって凄いことらしいぜ? 俺、これからキムラスカの親善大使として、マルクトのアクゼリュスとかいう街に行くんだ」

「駄目だ!!」

 ガイは叫んでいた。ぎょっとして見返したルークの前で、いつもの笑顔も余裕もかなぐり捨てて、「駄目だ、行くな! 行っちゃいけないんだ!!」と叫び続ける。

「ど、どうしたんだよガイ。行くなっつっても無理だろ? 預言にそう詠まれてるっていうんだし、行かなきゃ街がヤバいっつーんだからさ。俺がアクゼリュスに行ったらマルクトとも仲良くなれるっていうんだから、いいことづくめじゃん。……それにさ、ガイ。父上と伯父上が約束してくれたんだ。アクゼリュスに行ったら、俺を自由にしてくれるって。それに、お前のことも赦すってさ!」

 そう言ってルークは笑った。俺がアクゼリュスに行くならガイを世話係として同行させて、その後も無罪放免しようって言ったんだ、と。

「……」

 ガイはルークを見つめ、そして視線を落とした。

(――現時点では他に道の選びようがない。……くそっ。どうあっても、この流れからは逃れられないのか?)

「ガイ。お前、屋敷を出る時に言ってくれたよな」

 視線を落としたままのガイの耳に、ルークの声が聞こえている。

「屋敷の皆のことも、成人したら外に出ていいって言う伯父上の約束も、ナタリアとの結婚の約束も……全部関係ないって。お前が知らないところでさせられた約束なんか守る必要はない、過去のお前のことなんて考えなくていい、俺が必要としている、親友と呼ぶルークは、今のお前だけなんだ、って」

 ガイは視線を上げた。ルークの声が震えたのに気付いたからだ。

「俺……俺さ。必要だなんて言われたの、初めてだったから……。お前も、昔の俺に戻って欲しいって思ってて、今の俺のことは、ホントは嫌なのかもな……って思ってたし」

「……そんなこと思ってたのか」

「だってさ、昔の俺ってすげー奴だったらしいじゃん? 幾ら考えても思い出せねぇし、前みたいに出来ねぇけど。……褒められたのは剣術くらいかな」

 それも、前と比べてホントはどうなのかってのは、俺には分かんねぇんだけどさ、とルークは苦く笑った。

「だから俺、父上たちと約束したんだ。前の俺じゃない、今の俺の約束だ。俺は自由になる。それで、お前と……これからも一緒に行きたい」

 ガイは暫く喉を詰まらせていた。ようやく笑みを浮かべて、「バーカ。何泣いたりしてるんだよ」と言ってやる。本当は、自分自身も泣きそうな気分になっていたのだけれど。

「な、泣いてねぇよ!」

「そうか?」

「泣いてねぇって! 泣いてんじゃなくて………へ、変だけど、俺、嬉しいんだよ」

(俺も嬉しいよ、ルーク)

 泣き出しそうな情動を抑え込みながら、ガイは胸のうちでそう独りごちた。

 お前が生きて、目の前にいる。そのことがこんなにも嬉しい。

 『前』は、そのことになかなか気付かなかった。何気なく過ごす時間の砂の一粒一粒がこんなにも貴重で、輝きを放っていたことを。粘ついた闇に囚われて、気付くのが遅すぎた。

「ああ、そうだルーク、今のうちに言っておく。――賭けはお前の勝ちだ」

「へ? 賭け?」

「ホントに忘れてるんだな」

 ガイは苦笑して、スッとルークの前に片膝をついた。ルークの片手を取り、その指先に口付ける。

「我が主、ルーク・フォン・ファブレに生涯の忠誠を捧げることを、ここに誓う」

 唱えてから笑って見上げてやると、呆気に取られたようなルークの視線とぶつかった。

「お、お前、なにやってんだよ!」

「何って、騎士の忠誠の儀式だよ。お前に一生、剣を捧げるってな」

「はぁ? っていうか、お前は元々俺の使用人だろ」

「そうだったな」

 立ち上がり、ガイは肩を揺らして笑う。口付けられた手を握り締めて憮然としているルークに顔を向け、促した。

「さーて、それじゃ行くか。お前自身の未来を掴むためにな」

 言われて、ルークはガイを見返す。そして今度こそ曇りなく、嬉しそうな笑顔で頷いた。

「ああ!」

 

(この事態がユリアの慈悲か、ローレライの呪いなのか、あるいは酔狂な悪夢の類なのか、そんなことは知ったことじゃない。悪魔の仕業だとしたって感謝を捧げてやるさ)

 ルークと並んでバチカル城の長い廊下を歩きながら、ガイは考える。

 今度こそ奪われない。しくじったりしない。

(そうだ。ルーク、お前を二度と………)






06/4/20のレス板より移動。06/07/07 すわさき


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