「――成功です。ツリーが再生しました」

 ジェイドの声が聞こえる。

 立ち昇り続けていた光の粒――記憶粒子セルパーティクルの勢いが一気に増し、巨大な音叉型の音機関の中心に浮かぶ丸い譜石が強く輝いた。周囲に現われた光の譜陣がクルクルと回転を始める。

 息を吐き、アッシュは開いた本の形をした制御板から手を下ろした。

「お疲れさま、アッシュ」

 傍らからナタリアが笑顔を見せる。「ああ」と頷いて、アッシュは眉根を寄せるとパッセージリングを見やった。

「しかしヴァンの奴、相変わらず面倒なプロテクトを仕掛けていやがる」

「そうですね。さすが文武兼備で知られるグランツ謡将。しかしそれを解除するのですから、あなたも大したものですよ」

「何を言っていやがる。実際に解いているのはお前だろうが」

「ですが、私は第七音素セブンスフォニムが扱えません。あなたほど演算機に精通し、かつ第七音素の放出に耐えられる人間でなければ、こうしてパッセージリングを操作することは難しかったでしょう」

 制御板の前で語り合う二人を見ながら、アニスが「これで、再生させたセフィロトツリーも二つ目だね」と両腰に手を当てた。「ああ、そうだな」とルークが声を返す。

「最初にシュレーの丘のセフィロトに入って、セフィロトツリーが消されてるのを見た時は、どうすりゃいいんだってすげぇ焦ったけど……」

 セフィロトツリーはヴァンの手によって既に消されていた。パッセージリングそのものはティアが起動させることが出来たが、リングのプログラムが書き換えられて簡単にツリーを再生できないよう弁を閉じる設定が組まれ、更に、書き戻しが出来ないように複雑な暗号で保護されていたのだ。『暗号、解けないですの?』と問うたミュウにジェイドは答えた。

『私が第七音素を使えるなら解いてみせます。しかし……』

 彼が言葉を濁らせた時、声をあげたのはアッシュだった。

『俺がやる。俺は第七音譜術士セブンスフォニマーだ。演算機の扱いにも少々の自信はある。もっとも、あんたの手助けが必要にはなるだろうがな』

 アッシュはジェイドの指示を受けながらリングの端末を敏速に操作して、見事ツリーの再生を成し遂げた。セントビナーは崩落を免れたのだ。

「あなたに演算機の操作を教えたのはグランツ謡将でしたね。優秀な弟子を手放して、彼も悔やんでいることでしょう」

 ジェイドが失笑してみせたが、アッシュは「……どうだかな」と呟いただけだった。その会話を聞きながら、ルークは僅かに目を伏せる。

「――にしても。今回もイオン様はいなかったし、六神将は待ち伏せてたし」

「薔薇のディストですわね」

 アニスの声に返したナタリアに向かって、「死神だろう」とアッシュが静かなツッコミを入れた。

「あーあ。イオン様にはいつになったら会えるんだろう……」

「このままセフィロトを巡っていても、兄の後を追うだけの結果になって、埒があかないかもしれないわ」

「どこかで先手を打つ、ということですわね」

「……どうした、ルーク」

 仲間たちの会話を他所にして、ガイは視線を落とした親友を気にかけている。

「うん? いや、まあ。……俺って何の役にも立ってないよな、って思って」

 そう言って、「今更何言ってんだって話だよな」と、誤魔化すように笑った。

「そんなことないだろ。戦闘も、買い物も、料理も、色々と頑張ってるじゃないか。それだけじゃない。ここのところずっと、第七音素の制御法をティアに訓練してもらってるの知ってるぞ」

「ありがとう。だけど、結果が出せないんじゃ全然だ。アッシュは何でも出来るのにな。……やっぱ俺、みんなと一緒にいても、足手まといで……」

「ルーク」

 息を落として、ガイはぐしゃぐしゃとルークの赤い髪を掻き混ぜる。抗議の声は聞き流し、「焦るなよ」と笑顔を見せてやった。

「アッシュは十七年生きてる。だがお前はその半分にも満たない。一人一人違うんだ、安易に誰かと比べる必要はないよ。お前はお前の速度で成長していけばいい。……分かるだろう?」

 覗き込んで優しく言ってやると、手のひらの下でうっすらと赤らんだ顔がこくりと頷く。自立心が芽生え、変わると宣言したところで一足飛びに成長出来るわけではない。その表情が未だ幼く見えることにどこかで安堵する自分がいるのを感じて、ガイは内心で苦笑した。

『前』は、第七音素が扱えない自分には操作が出来ないとジェイドが言った時、声をあげたのはルークだった。自分の超振動で直接プロテクトの消去が出来ないかと。演算機の知識が無かった故の突飛な発想で、しかもルーク自身の超振動の制御はその時点で不安定、失敗すれば二度とリングの操作は出来ないという不安な状況だったが、彼はそれを見事に成し遂げた。

 この一件がルークの自信となり、仲間たちがルークを認める基盤となり、彼を大きく成長させたのは間違いがない。……が。無理な操作はパッセージリングを蝕み、連動した全てのリングがルークの超振動以外の操作を受け付けなくなって、結果的に彼に大きな負担をもたらすことになった。

 それを思えば、『今』はこれでいいのだと考える。無理に追い詰めて急激な成長を強いなくてもいい。英雄の称号はアッシュにくれてやればいい。

「……おや? 警告、と出ていますね」

 上空に投影された図像に赤く浮かんでいた文字を見上げて、ジェイドが呟いている。だがその表示はすぐに消えたらしく、ただ眉宇を顰めた。

「ここでの用は終わった。次へ行くぞ」

 アッシュが言い、赤い髪をなびかせて歩き始める。後に従いながらアニスがぼやいた。

「はぁ〜。またお日様ギンギンの砂漠を歩くのかぁ。そりゃ、こんな息苦しい地下にいるよりはマシだけど」

「今からでは、今日中にケセドニアへ戻るのは無理ですね」

「ええ。オアシスの村で一泊するのがいいでしょう」

 ティアにジェイドが返している。再びアニスが言った。

「アルビオールで直接ここまで来れたら楽だったのに〜」

 苦笑してガイは言う。

「仕方ないだろ。今のアルビオールの装備じゃ砂地みたいな柔らかい場所には降りられないんだ。いや、ギンジの腕なら降ろす事は可能かもしれないが、下手すりゃ発進出来なくなる」

「ぶー。オアシスまで半日以上掛かるじゃん。その後、アルビオールを停めてあるケセドニアまではもっと掛かるし。紫外線ビシビシで、アニスちゃんの珠のお肌が荒れちゃう」

「アニスは元から色黒なんだから、多少日焼けしたって変わらないだろ」

 ぼそりとルークが呟くと、耳聡いアニスは目と口を大きく開けて喚いた。

「はぅあ! ルークがセクハラ!」

「はぁ!? なんでそうなるんだよっ。つーか、セクハラって何だ?」

「乙女の身体的コンプレックスを突くのは性的嫌がらせセクハラなんですぅ。ルークひどいひどーい!」

「まあルーク、あなたアニスにセクハラをしましたの?」

 先を行っていたナタリアが振り向いて口に手を当てた。その前でティアも冷たい目をする。

「ルーク。あなた最低だわ」

「えええっ」

 焦るルークの隣で、アニスは合わせた両手を頬に当てて言葉を続けた。

「アニスちゃん傷ついちゃった。損害賠償として、遺跡から出るまでの間、ルークは私をおんぶすること」

「な、なんだよそれ!」

「どうしても嫌なら、保護者のガイにおぶってもらうんでもいいけど……」

 少女にチラリと視線を送られて、ガイは頬を引きつらせると後ずさる。

「い、いや。俺は……」

 だいぶ緩和されてはいたものの、未だ女性に触れられることへの恐怖心を完全には拭えていない。

「う〜〜……。分かったよ! 俺がおぶえばいいんだろっ」

 やったー、と歓声を上げて、アニスは屈んだルークの背に飛びついた。先頭からアッシュが怒鳴る。

「おい、いつまで無駄話してやがる。置いていくぞ!」

「はいはーい。さ、ルーク。細かい事は抜きにして、とにかく元気出していこー!」

「ご主人様、がんばるですの」

 アニスを背負うルークの足元で、ミュウが激励の声を上げている。

「ちぇっ。仕方ねぇなぁ……」

 ルークの体力では、小柄な少女とは言え人一人背負って地下遺跡を踏破などできないだろう。そもそも、魔物が徘徊していることを思えば、無駄に隙を作る体勢を続けるわけにもいかない。そんなことは、アニスには充分分かっているはずだ。

 ブチブチ言うルークの顔がむしろ明るくなっているのを見てとって、ガイはふ、と笑みを浮かべた。

『前』とは、形は様々に違ってきている。それでも、受け止める手はきっと『ここ』にもあるのだ。








 砂漠の夜は冷える。

 吐き出した息が、ケテルブルクでのように白く流れていた。白い息を吐き出しながらナタリアは夜空を見上げる。オアシスの泉の上に広がる、無数の銀砂を撒いたかのような星空を。

「眠らないのか」

 耳に馴染んだ声がした。暗闇の中から血のように赤い色が滲んで、近寄ってくる。

「アッシュ……」

「明日も砂漠越えだ。しっかりと休んでおいた方がいい」

「……急がなければ、時間はどんどん過ぎ去ってしまいますわね」

 ナタリアは目を伏せる。

「シュレーの丘のパッセージリングを操作してからもう十日近く。グランコクマではピオニー陛下に外殻崩落阻止を頼まれましたのに、未だにヴァンに追いつくこともできず、世界は危険にさらされたまま」

「立憲君主制の難点だな。自国の領土が崩落を始めてたってのに、議会の反対で皇帝が軍を動かせないとは」

「我がキムラスカとて変わりはありませんわ。世界が滅亡しようとしている、こんな時に宣戦布告をするなどと。……お父様は何を考えているのでしょうか」

 苦しげに眉を寄せたナタリアを、鏡に映したような表情でアッシュはしばらく見つめた。

預言スコアに踊らされているんだろう。アクゼリュスの崩落がもたらした……この戦争で勝利することによって未曾有の大繁栄が訪れると、ユリアの預言に詠まれているんだからな」

「だからといって! 無辜むこの民を犠牲にし、見殺しにするなど、為政者として間違っていますわ。たとえ始祖ユリアの言葉であろうとも。唯々諾々と従うだけなどと、それでは何の為に生きているのか分からないではありませんか」

「……ヴァンもそう言っていた」

「アッシュ……」

 目を上げて、ナタリアはアッシュを見つめる。苦いものを噛み締めたようなその顔を。

「何も考えず、ただ二千年前の言葉に頼っている、今の世界は愚かだと。だから……それを破壊してでも、人間の自由と尊厳とを勝ち取るのだと。預言に虐げられた人々への、それが救済の道なのだと。だから、俺は……」

「アッシュ……――ルーク」

 その手を両手で包み、彼の真の名をナタリアは口にした。

「ヴァンとわたくしたちの目指すものは、形だけ見れば同じなのかもしれません。ですが、彼はそれを破壊によってもたらそうとしている。結果的に全てを犠牲にして。その方法を、わたくしたちは認めることが出来ない。――あなたもそうなのでしょう? ですからこうして……わたくしの元へ戻ってきてくれた」

「ナタリア」

わたくしは、諦めません。どうしようもない歪みがあるとしても……破壊ではなく、修正を。そうしたいと……望みます」

 しばらくの間ナタリアを見つめて、アッシュはふっと笑みを浮かべる。懐かしさと痛みを半ばさせたように。

「お前は変わらないな。あの頃から。民を想い、何より、世界を愛している」

わたくしにその力を与えてくれたのは、あなたですわ」

 手を離してナタリアは言い、驚いて見返す碧い瞳に笑顔を見せた。

「覚えていまして? あの言葉。あなたがわたくしにくれた、約束の言葉……」

 しばらく押し黙り、アッシュは言葉を落とし始める。

「……いつか俺たちが大人になったら、この国を変えよう。貴族以外の人間も貧しい思いをしないように、戦争が起こらないように」

 彼と目を合わせて、ナタリアも声を重ねた。

「「死ぬまで一緒にいて、この国を変えよう」」

 二人は互いを見つめる。星空の下のその姿は、鏡のような泉にも映っていた。やがてゆっくりと、ナタリアは目を伏せて胸で両手を合わせる。

わたくしは忘れません。ですから……諦めることは出来ない。崩落も、戦争も、許すことは出来ないのです。

 ……お父様に、やはり直接会ってお話したい。ケセドニアの領事館から文書で崩落の危険性について伝えてはありますが、動きが変わった様子は見えませんもの。ガイはそれよりも崩落の阻止を優先すべきだと言いますが、本当にこれでいいのでしょうか」

「ガイか……」

 アッシュは考えに沈んだ。

 シュレーの丘のツリーを再生させた後、グランコクマで皇帝に謁見した。ジェイドとは幼なじみだという皇帝は大国の君主としては破天荒な人物で、敵国の王族である自分やナタリア、挙げ句レプリカの言葉さえも特に屈託なく受け入れ、ガイとティアにはホド崩落について詫びた。それでも、キムラスカからの宣戦布告もあり、議会の反対があって崩落回避のためには兵を割けない、というのが結論だ。崩落回避の件はお前たちに頼んでいいか、とは虫のいい話であったが、もとより単独でも行動するつもりだったのだ。それは構わない。

 だが、キムラスカからの抗議文書の内容を知らされたナタリアが、『父は誤解しているのです! やはりバチカルに戻って直接事情を説明しなければ……』と言い始めた時、『それはまずい』とガイが止めたのは引っかかった。

『まずいって、何で? キムラスカの王様はナタリアのお父さんなんだし、それが一番早くて効果があるでしょ』

『あ、ああ……そうだが。しかし、崩落の件も急を要するだろう。ナタリアは治癒術の使える第七音譜術士セブンスフォニマーで、貴重な戦力だ。セフィロトには魔物も多い。それに、ナタリアを溺愛しているインゴベルト陛下のことだ。今帰ったら、きっと二度と城から出してもらえないぜ』

 首を傾げるアニスにガイがそう返すと、ナタリアは素直に『まあ、それは困りますわ! わたくしにはまだまだやるべきことがありますのに』と眉を下げた。

『そうだろう? 崩落の危険性については、領事館辺りから報せればいい。それでもナタリアの意思は充分に伝わるはずだ』

『そうかもしれませんが……』

『……イオン様がいれば、停戦を求める導師詔勅の発令も可能になります』

『そうね。このまま兄を追って、イオン様を助け出せれば、戦争を回避できるかもしれない』

 ジェイドとティアが言い、この時は話はこれでまとまったのだ。しかし、次に向かったザオ遺跡に導師の姿はなかった。

(あいつ……何を考えてやがるんだ)

 アッシュは思う。かつて自分の守り役でもあった若者の顔を思い浮かべた。

(色々理屈をこねちゃいるが、俺たちが……いや、ナタリアがバチカルへ帰ること自体を忌避しているようじゃないか?)

 含みがあるような気がする。彼はヴァンの企みに精通しているが、それだけではない。もっと大きな……何かの筋書きに沿って自分たちを動かそうとしているかのような。そんな風に思える時さえある。ファブレ家の使用人としてバチカルから殆ど動かなかったはずなのに、自分を含めた同行している軍人たちと比べてもいやに戦い慣れしていることといい、得体が知れない気がした。以前からそうだっただろうか?

 考え込んでいた視界の端、泉の水面に、白いものがチラついた。ハッとしてそちらに顔を向けたが、それは裾をひらめかせて潅木の茂みの向こうに姿を消す。

「チッ……」

「アッシュ?」

 不思議そうな声を聞いて、アッシュはナタリアに目を戻した。

「いや……。頭の赤いネズミが一匹いただけだ」

「まあ。砂漠にもネズミがいますのね」

「……。と、とにかく。もう休め。天幕まで送っていく」

「ええ。……ふふ。ねえアッシュ、知っていますか?」

 歩き出しながら、ナタリアはアッシュを見て笑う。

「なんだ?」

「大人になったら、こうしてあなたと二人で星の下を歩いてみたい。それが子供の頃のわたくしの夢の一つだったのです」

「……そうか」

「本当に綺麗な星空ですわね。一晩中灯りのあるバチカルでは見られないような本当の闇と、一面の煌き……」

 微笑んで、ナタリアは空を見上げている。




 見つかった、と思って逃げ出した。ひどくばつが悪い。盗み見るつもりなどなかったのだ。ただ、ナタリアが一人で女性陣の天幕から出て行ったのに気付いて、その表情が暗いように見えて気になっただけで。泉の前に佇むナタリアに追いついて、声をかける前にアッシュが来て。そのまま立ち去るタイミングを逸してしまっただけだった。

「きゃっ!?」「うわ!?」

 夜の闇の中で走るうちに誰かにぶつかって、ルークはたたらを踏んで足を止める。「わ、悪い」と言って前を見た。幸い、ぶつかった相手も転んだりはしていないようだ。長い髪を垂らし、細身で、しかし胸は豊かでメロンのような――。

「ティア?」

「ルーク……」

 驚いたように見返してきた顔が青く見えるのは夜の闇のせいばかりではない気がして、ルークは思わず「大丈夫か?」と訊ねる。「え?」と不思議そうに首を傾げた少女に、「その……。パッセージリングを起動させて、障気を吸ってるんだろ」と言った。

「ああ……。ありがとう。私は大丈夫よ」

「だけどなんか顔色悪ぃし、無理してるんじゃないのか?」

「無理なんてしてないわ」

「本当かよ。お前、辛くても平気な顔してばっかりだし、あまり信用できないっつーか……」

 目線を逸らしてぶちぶちと呟くと、ティアの声音がムッと不興を帯びる。

「信用できなくて悪かったわね」

「そ、そんな言い方することないだろ。俺はただ、お前がいつも無理ばっかしてるから……」

「………ごめんなさい。そうね。心配してくれたのに、私が変だったわ。苛々しているのかもしれない」

「……キツいのか?」

「身体は大丈夫よ。苛々していたのは……少し、考え事をしていたから。それに、パッセージリングは残りまだ六つあるのよ。こんなところで弱音を吐くわけにはいかないわ」

「……あんま無理するなよ」

 眉を下げたルークに、ティアはふっと微笑む。

「平気よ。……それよりルーク、こんなところでどうしたの? もう夜中よ。眠っていると思っていたんだけど」

「お、俺は……。お前はどうなんだよ。何でこんな所にいるんだ?」

「私は、ナタリアを探していたのよ。一人で天幕を出て行ったようだったから」

 そう言って、ティアはルークの顔を見ると、「どうやらあなたも同じだったみたいね」と苦笑した。

「ナタリアは、アッシュと一緒にいる」

「そう……。それなら心配はないわね」

 そう言うティアの前で、ルークはじっと黙り込んでいる。何だろう。鳩尾の辺りにひどくモヤモヤとした、鈍く重いものがある。

「ナタリアが さ」

 ぽろりと声が出ていた。

「いつも言ってたんだ。約束の言葉。早く思い出してくれって」

「約束の言葉……?」

「ガキの頃の。プロポーズの言葉なんだってさ。ほら、俺、記憶障害だってことになってたから。二人の大切な想い出だから、絶対思い出して欲しいって……。だけど、どんなに思い出そうとしても何も出てこなかった。当たり前だよな。俺、『ルーク』じゃなかったんだから。思い出せないのに思い出せって言われるのが嫌で、そのことで悲しい顔されるのはもっと嫌で……。だから俺、あいつに邪険な態度を取ったりもしてた。

 ひどいよな。ナタリアは、何も悪くなかったのに。俺がずっと騙してたのに」

「それは仕方のないことだわ。あなただって何も知らなかったんだもの」

「ああ。俺は何も知らなかった。変だなって思うことはあったけど、それ以上考えようとはしてなくて。それで色んな人を苦しめてたのに、それも見ないようにして、結局分かってなかった」

「ルーク……」

「俺、何の為にここにいるんだろう……」

 俯いて両手を握り締め、その呟きをルークは落とした。

「俺はレプリカで、オリジナルより劣ってて、本来なら生まれるはずのない命で。自分の力も制御できないでアクゼリュスを落として、ジョンを死なせて。こうしてみんなと旅をしていても何の役にも立てなくて。こんなの、意味がないだろ。それどころか、いるだけでみんなを苦しめてる。俺が生まれなければ、アッシュは家も名前も無くすことがなくて、父上も母上もナタリアも、ずっと幸せで……」

「あなたが生まれなかったら、アッシュはルークとしてアクゼリュスで死んでいたわね」

「ティア……」

 返った声音の厳しさに驚いて、ルークは目を上げてティアを見る。

「自分が生まれなかったらなんて仮定は無意味よ。あなたは、あなただけの人生を生きてる。あなただけしか知らない体験、あなただけしか知らない感情。それを否定しないで。あなたは、ここにいるのよ」

「……そう、なのかな……」

「私は、あなたが役立たずだとは思わないわ。でも、あなたがそう思うのなら……これから、満足できるように変わっていけばいいじゃない。焦らないで。落ち着いて、ゆっくりと。――ね?」

「うん……。ありがとう」

 そろそろ使うのに慣れてきた感謝の言葉を笑みとともに押し出すと、ティアの頬は僅かに血色を取り戻したように見えた。が、そこで口元を押さえて咳き込み始める。

「ティア!?」

「だ、大丈夫よ……。ちょっとむせてしまっただけ」

「だいぶ空気が冷たくなったからな。もう天幕に戻った方がいい」

 その時、向こうから長身の影が歩いてきて言った。「ガイ」と、ルークが名前を呼ぶ。

「そうさせてもらうわ。それじゃ、おやすみなさい。二人とも」

 そう言うとティアは歩いていった。見送るルークは不安げに眉を下げる。

「あいつ、大丈夫かな」

「そうだな。まだ殆ど障気の影響は出ていないはずだと思うが……」

(俺は、彼女に何もしてやれない)

 言いながら、ガイは内心を刺す感情に苛まれていた。病ませる事は分かっていたのだ。なのに、むざむざと同じ轍を踏ませている。このまま、またあの死に瀕した状態にまで追い詰めてしまうのか。『前』と同じならば、『この時点』の彼女は目的のために命を削ることを躊躇はしないだろう。だがそれでは――何より悔いている、『今度』は絶対に回避したいと願っている、かつて彼に強いたのと同じ、世界のための供犠を再び行うことになるのではないか。

 誰かを犠牲にして世界を救う。そんな選択を。

「俺が代わってやれるんならよかったのに……」

 傍らでルークが言うのが聞こえて、ゾッと水を浴びた心地になった。思わず、「ルーク」と非難めいた声音を出してしまう。

「ティアが心配なのは同じ気持ちだが、代わるとか、馬鹿なことを言うな」

「でも。俺は何の役にも立ってないだろ。もし出来るんなら、せめてそれぐらいはしたいんだよ」

 ガイは小さく息を吐いた。ルークを見て言葉を出す。

「お前がティアの身代わりになるんなら、俺がお前の身代わりになって障気を吸うな」

「ば、ばっか。お前、何言ってんだよ」

「……ほらな。そんなことされてお前、嬉しいか?」

「う……」

「ティアの事は辛い。だけど、他の誰かを身代わりにしたって同じことだ」

「でも俺は……レプリカだし。もし誰かが死ななきゃいけないんだったら、俺が一番……」

「こーら。卑屈になるなって」

 ごち、とガイは拳で軽くルークの頭を叩いた。「いて」と呻いて非難がましい目になった少年に笑いかける。

「お前、さっきティアに言われてたんじゃないのか? 焦らずにゆっくり変わっていけばいいって」

「そうだけど……」

「だったらそうしろよ。

 お前はお前だ。贋物レプリカだとか本物オリジナルだとかは関係ない。ワガママで、甘ったれで、だけど諦めずに変わっていこうとしている。俺のルークだ」

「………おっまえ、いちいち言うことが恥ずかしいよなぁ」

 ルークは顔を逸らしている。「そうか?」と笑いかけて、ガイは言った。

「とにかく。俺にとってのルークは、お前だけってことさ」




 砂漠にも雨が降ることがあるとは言うが、それは一年のうちほんの限られた時期のことで、まず旅人が遭遇することはない。オアシスにまばらに生えた椰子の木の上に広がる空は今日も真っ青で、一枚板のように輝いている。

 寝不足で腫れぼったい気がする目をこすりながら、ルークは村の中央にある井戸に向かって歩いていた。そこが仲間たちとの集合場所だ。村は騒がしい。砂漠の道の中継点でもあるこの地には多くの隊商が訪れるが、彼らの出発のざわめきだ。空気が冷たいうちに距離を稼ぎたいのだろう。まだ朝も早いのに忙しない。

「……おかしい。騒がしすぎないか?」

 傍らからガイが言った。「え?」と見上げた時、井戸の周りに集まっていた仲間たちから声が掛かる。

「あ! ルーク、ガイ!」

「ご主人様、大変ですの!」

「どうしたんだ?」

 駆け寄って訊ねると、アニスとミュウは口々に騒ぎ立てた。

「戦争が始まっちゃったの!」「ですの!」

「なんだって!?」

「とうとう……と言うより、やっと、と言うべきでしょうね。キムラスカの宣戦布告から半月近い」

 ジェイドが感情の薄い声で述べている。そこに、ティアが慌てた様子で駆けて来た。

「ナタリアがいないわ!」

「え!? いないって、どういうことだよ」

 訊ねたルークに「分からないわ」と返して、「村中探したけれど、姿が見えないの」と眉を下げる。ハッとしてガイが辺りに視線を巡らせた。

「そういえばアッシュもいないな」

「アッシュと一緒にどこかに行っちゃったってこと?」

「そんな。俺たちに黙って、どこに行くって言うんだよ」

 言い合うルークたちの様子を、ジェイドは黙って見つめながら何か考えている。そこで、通りかかった村人らしい男が「あれ、あんた」と目を丸くしてルークの前で足を止めた。

「あんた、さっきの隊商と一緒に出発しなかったのかい? てっきりもう行ったもんだと思ってたよ」

 きょとんとした顔になったルークの頭を見て、「ん? 髪を切ったのか。ま、確かに暑いからなぁ。俺も切ろうかなぁ……」などと言っている。ガイが訊ねた。

「待ってくれ。その、こいつとそっくりの髪の長い奴……隊商と一緒に出て行ったのか?」

「ああ。そうか、あれはこの兄ちゃんの兄弟か何かかい。そうだよ。金髪の綺麗な嬢ちゃんを連れてな。急いでバチカルに行かなきゃならないって言っていたが。確かに、こんな時だからな」

「二人だけでバチカルに帰っちゃったってこと?」

 アニスが言う。ジェイドが失笑して、「ガイの頑強な制止に業を煮やしたようですね」と肩をすくめた。

「しまった……!」

 ガイはバチカルの方角を見やる。己の失態を呪ったところで、もはや遅かったのだが。








「おい、読んだか?」

「ああ。読んだ!」

 手に手に握った紙をひらめかせて、人々は口々に騒いでいる。

「しかし、これは本当のことなのか。ナタリア殿下が無実の罪で処刑されようとしているなんて。公爵家のルーク様も一緒に」

「ナタリア様とルーク様は、アクゼリュスでマルクトの連中に謀殺されたんじゃなかったのか?」

「それは流言でしょう? ご無事だと聞いていたわ。なかなか帰って来て下さらなかったから心配はしていたけれど」

「そういえば、城勤めの知り合いから、近々処刑が行われるって話は私も聞いたよ。だけどそれは、殿下たちの名を騙った偽者だって話だったけどねぇ」

「それじゃあ、ここに書かれている事は本当なのか。ナタリア様が王家の血を引いていないっていう……」

 石や金属の装飾で美しく飾られ、天空客車の支索が張り巡らされた光の王都バチカル。そのあちこちで市民たちが声を交し合っている。文字の書かれた幾枚もの紙が未だ舞い落ちてくる空の上、遥か上方のバチカル最上層よりも更に高みの天空で、銀の鳥のような影がキラリと光を反射した。




 押し込められたのは罪人部屋ではなかった。それが、せめてもの温情だったのだろうか。

 本来なら王女の私室。その豪華な扉の外側に急遽鍵を取り付けた。滑稽な話だ。それが開錠される音が聞こえた。すぐに兵を引き連れた男が入ってくる。ナタリアを背に庇って睨みつけようとして、アッシュはギクリと身を強張らせた。

「父上……」

 赤い髪を背まで垂らし、苦虫を噛み潰したような顔をした男は、黒い瞳で己によく似た面差しの若者を見つめてくる。睨み合いはどれほど続いたのか。

「……成る程。確かに違うな」

 やがて小さな息とともにその言葉が吐き出された。

「アレがレプリカだったという話は真実か……。お前は間違いなく、七年前に誘拐された『ルーク』だ」

「叔父様……ファブレ公爵! これは一体どういうことなのですか。どうしてわたくしが拘束されねばならないのです」

 庇われていたナタリアが前に出る。

わたくしは父に会わなければなりません。一刻も早く停戦をお願いしなければ」

「ご自分の立場がまだお分かりではないようですな。殿下……いや、メリル・オークランドでしたか」

「メリル? 何を言っているの?」

 ナタリアが怪訝な顔をする一方で、アッシュはハッとした目をしていた。

「十八年……いや、もう十九年になるか。死産だったナタリア王女を、後にあなたの乳母となった女がすり替えたのです。王妃陛下のお側役だった自分の娘、シルヴィアが数日前に生んだ赤ん坊とな。ローレライ教団の大詠師モースがそれを告発した」

「そ……そんな……。そんなはずはありませんわ」

「既に乳母は捕らえ、自白させている。証言した場所から嬰児の遺骨も発掘されたのです」

「……」

「もとより、王女でありながらあなたが王家の赤い髪を受け継いでいないことは疑念の対象にはなっていた。……国王陛下は出来るだけ苦痛の少ない死を、と望んでおられる。執行は明日になるでしょう。覚悟を決めておきなさい」

「馬鹿な! それが本当のことだとして、こいつのどこに罪があるというんだ!」

「まるで他人事のような口振りですな」

 怒声を上げたアッシュに声をかけて、小柄な樽腹の男がファブレ公爵の後ろから出てきた。「アルバイン内務大臣……」と、ナタリアが呟く。

「あなたも共に処刑されるのですぞ。アクゼリュス崩落の共謀者として」

「共謀者……? 一体、何のことです」

「メリル・オークランド。あなたはアクゼリュスへの旅の中で自身が王女ではないことを知り、実の両親と引き裂かれたことに恨みを持った。そして神託の盾オラクル騎士団六神将アッシュ響士。あなたはレプリカに公爵子息ルーク・フォン・ファブレとしての地位を奪われたことを恨み、幼なじみであったメリルと共謀して、マルクトのアクゼリュス崩落の陰謀に加担。我が国の親善使節団の抹殺を謀った。その罪は重い。王国はそなたらから王位継承権を剥奪し、処刑を行う!」

「な、何を言っているのです! 違いますわ! そんなこと、わたくしたちは……!」

「無駄だ、ナタリア」

「ルー……アッシュ」

「こいつらは口実が欲しいだけだ。戦争を起こし、『聖なる焔の光』を消滅させて、ユリアの預言スコア通りに歴史を進めるための。……そうなのではありませんか?」

 七年ぶりに再会した息子の刺すような視線を受けて、公爵は僅かに渋面を深めた。

「……ユリアの預言は二千年間、一度とて外れたことはない。そこにキムラスカの――いや、オールドラントの未曾有の大繁栄が詠まれ、約束されているというのだ。国に仕える者として、どうしてそれを踏み外すことが出来ようか」

 ぐ、とアッシュは奥歯を噛み締める。予想通りの答えだ。今更だったが、その口から聞きたくはなかったのだと思い知る。

「……世界のために。俺たちに死ねと仰るのですか。父上!」

 その時だ。開いた扉の向こうからざわめきが聞こえてきて、俄かに城内の空気が騒がしくなったのが分かった。甲冑を鳴らしながら兵士が一人駆けて来て、扉の前に敬礼して止まる。「何事だ」とアルバインが問うた。

「はっ。それが、城門前の広場から……え、ええっ!? ル、ルーク様? どうしてこちらにも……」

 報告しかけていた兵士は、何故かアッシュの顔を見て言葉を詰まらせる。「何だ、どうした」とアルバインが苛立たしげに問い重ねた刹那、アッシュは公爵の脇をすり抜けるとアルバインに蹴りを入れていた。たまらずに倒れた彼の下敷きになった兵の腰から剣を奪い取る。

「ナタリア! 来い!」

「は、はい!」

 背に従うナタリアの気配を確かめながら走った。兵たちは、剥奪されたとは言え王位継承者に剣を向けることを恐れたのだろうか。特に攻撃してこない。

「げ、元帥!」

 兵が戸惑ったように公爵に指示を仰いだが、彼は黙って佇んでいる。倒れていたアルバインがよろよろと身を起こし、「に、逃がすな。追え、追えー!」と叫んだ時には、二人は兵たちの間をとうに抜けていた。ようやく動き始め、兵たちは二人を追おうと走り始める。――が。

「な、何事……だ……?」

 大広間の方から、透き通った歌声が響いていた。兵たちやアルバイン、公爵すらも眩暈を起こしたように頭を押さえ、そのままへなへなと床に伏してしまう。

「この歌は……!」

 聞き覚えのあるその歌声の主にナタリアが思い当たった時、「ナタリア! アッシュ!」と呼ぶ声がした。

「ルーク!」

 大広間の絨毯を蹴って、白い上着の裾をひらめかせたルークが駆けてくる。その後ろにはガイ、ティア、アニスに、ジェイドまでいた。開いたままの城の扉の向こうに、広場に停まっているアルビオールの銀の機体が見える。

「アルビオールで直接最上層まで乗り込んできやがったのか」

 無茶をしやがる、とアッシュが息を落とすと、ルークが言った。

「無茶なのはそっちだろ。二人だけで黙って行っちまいやがって」

「ホント、大変だったんだよー」とアニスが肩をすくめて続ける。

「隊商の馬車には徒歩じゃ追いつけないし、仕方ないからケセドニアまで戻ってアルビオールに乗って追いかけたんだけど、バチカルに着いたら二人が処刑されるって噂を聞いて」

「少し難しいかと思ったが、ギンジの腕なら最上層にも直接下りられると踏んだんでね」

 ガイが笑って言った。背後からジェイドが冷静な声を投げる。

「無駄話はそこまでにしましょう。今のうちに退散した方がいい」

「お待ちになって! お父様に……陛下に会わせて下さい! 陛下の真意を……聞きたいのです」

 しかし、ナタリアはそう叫んでいた。アッシュが吐き捨てる。

「無駄だ。どいつもこいつも、預言で髄まで腐ってやがる」

「アッシュ……」

「そうだよ。事情はよく分かんないけど、王様はナタリアを殺そうとしてるんでしょ。話なんて聞いてもらえないんじゃないかなぁ」

「ですが……」

「……俺は、伯父上……陛下に会った方がいいんじゃないかと思う」

「ルーク」

 驚いたように、ナタリアは俯けていた顔を上げてルークを見た。

「陛下がナタリアを本当に殺そうとするなんてこと、ないと思うんだ。それに戦争を停めるためにも、陛下とは話をしないといけない」

「フン。甘い奴だ」

 アッシュが鼻を鳴らす一方で、ガイは笑って同意を落とす。

「そうだな。俺も、ナタリアはインゴベルト陛下に会っておいた方がいいと思う」

「しかし、危険ですよ」

 ジェイドが赤い瞳でガイを見やった。が、彼は変わらずに笑う。

「大丈夫さ。多分な」

「……いいでしょう。あなたの楽観に乗ってみましょうか」

 肩をすくめながらも、どこか面白そうにジェイドは笑い、ティアが「譜歌の効果はそう長くは続かないわ」と生真面目に報せた。

「よし。じゃあ急いで行こうぜ。陛下は多分、謁見の間にいるはずだ」

「ええ」

 眠りをむさぼる衛兵たちが転がる中、一行は長い階段へと続く絨毯を踏みしめる。








 ぐらぐらと溶岩が煮立っていた。その輝きが洞穴を照らし、全てを赤く見せている。

「こっちですの! セフィロトの力を感じるですの」

 言いながら、ミュウがちょこちょこと先を走っていた。「何であいつはあんなに元気なんだよ……」とぼやいて、ルークが流れ落ちてくる汗を拭っている。

 熱気遮断の譜術効果のある装備は各自用意していたが、完全に遮断できるものではない。何しろここは火口の中。世界最大級とされるザレッホ火山の奥底を辿る岩道なのだから。

「まさか、こんなところから教団本部へ繋がる道があっただなんて……」

「誰も気づかないでしょうね。知っていたとしても、実際に通ろうとするのは余程の変人だけでしょうし」

 ティアにジェイドが薄く笑って返している。「俺たちは変人かよ……」と目をすがめて、「って、変人はお前だろ。ジェイド。何でお前だけそんな涼しい顔してるんだよ」とルークが喚いた。

「いえいえ。涼しくなんかありませんよ。呼吸するだけで喉が焼けるようです」

「嘘だ……」

「絶対何か仕掛けがあるよな。ま、疑問に思ったところで無駄だろうが」

 同じように憮然としながら、ガイは諦めたように息を落としている。装備を引っぺがして洗いざらい調べてやりたい気がしたが、そんなことをしても恐らく無為だ。十年の経験はそう告げていた。ジェイドはそういう奴なのだ。……と、納得しておくしかない。

「ダアトの教会まではどのくらいかかるのでしょうか……」

「俺もこの道を使うのは初めてだからな。正確なところは分からん。だが、ザレッホ火山の火口の底にセフィロトがあり、その近くにヴァンやモースが使っていた拠点の一つがある。そこにある譜陣を使えば、目立たずに教会の内部へ入れるはずだ」

 ナタリアに答えてアッシュが言った。黒衣で全身をしっかり覆った彼は、さぞや暑いことだろう。実際、額には珠のように汗が浮いていたが、ルークのように暑い暑いと口にしない辺り、流石の矜持の高さだ。

「教会に保管されているという創世暦時代の禁書を持ち出せれば、シェリダンで地核の震動を抑える装置を作ることが出来る。やっとキムラスカとマルクトが和平を結ぶことが出来たのですもの。わたくしに任せて下さったお父様の期待に応えるためにも、大地の安定を一刻も早くもたらさなければ」

 ナタリアが瞳に決意を滲ませている。

 バチカル城で国王インゴベルトと対面したナタリアは、彼との和解に成功していた。とはいえ、戸惑い恐れ、それゆえの拒絶をぶつけてきた王に、ナタリアもまた最初はぐらついたのだ。同席していたモースも、偽者めと散々に罵ってそれを煽り立てた。だが。

『それでもナタリアはあなたの実の娘として育てられたんだ。突然誰かに本物の娘じゃないって言われたからって、それまでの絆まで消えてしまう訳じゃない。血が繋がっていなくても、共に過ごした時間は本物のはずだ!』

 ルークがそう言ったのだ。インゴベルトは『そんな事は分かっているのだ!』と苦悶の顔で憤り、モースは『黙れ、レプリカめが!』と侮蔑の顔で怒鳴りつけた。

『身替りの人形の分際で、大きな口を叩きおって!』

『お黙りなさい、下郎!』

『な、なに……』

『ルークは人形ではありません。フォミクリーという技術で生まれただけの、歴とした人間ですわ』

『ナタリア……』

 怒りがそれをもたらしたのか。驚いて見つめるルークの前で、ナタリアは覇気を取り戻して語り始める。

『お父様。……いえ、陛下。わたくしを罪人と仰るなら、それもいいでしょう。ですが、どうかこれ以上マルクトと争うのはおやめ下さい。今、世界は滅亡の危機に瀕しています。導師はかどわかされ、その力を用いて、ヴァンが世界の消滅を目論んでいます。このまま争っていては、世界の全てがアクゼリュスのように崩落してしまうのですわ!』

『どういうことだ? そんな未来は聞いたことが……』

 戸惑ったようにインゴベルトはモースに視線を送る。『戯れ言だ。騙されてはなりませんぞ、陛下』と彼は返した。

『全世界が崩落だと? そんなことはありえない。預言スコアには世界の繁栄が詠まれているのだ』

『ですが、大詠師モース。兄が外殻大地を支えるセフィロトツリーを消していたのは事実です。辛うじて再生に成功しましたが、あのまま放置していれば、南ルグニカやザオ砂漠は崩落してしまうところでした。こんなことはユリアも預言には詠んでいなかったはずです』

 ティアが訴えたが、モースは嘲りを返す。

『それがどうした。たとえ一箇所や二箇所大地が崩落したところで、大したことではない』

『モース様!?』

『預言に詠まれていないことが起こる。それは問題ではないのだ。――預言に詠まれていることに逆らう。それが何よりの罪ではないか。預言に詠まれたことさえ守れば、それは成就されたことになるのだ。戦争は起こさねばならん。さすれば、約束された大繁栄がもたらされる。「ルーク」がアクゼリュスと共に消えなかったことは少々問題だが、今からでも帳尻は合わせられる』

 ティアが顔色を失った時、『へ、陛下! 大変ですぞ、市民たちが……』と言いながら、アルバインが謁見の間に入って来た。その後ろにはファブレ公爵もいる。ナタリアたちを認めて、アルバインが『む!? お、お前たちここにいたのか。ええい、衛兵、何をしておる』と喚いたが、『黙れ。それより、何の騒ぎだ』とインゴベルトに一喝されて恐縮した。

『そ、それが……』

 言い淀むアルバインの後ろに開いた扉の向こうから、いやに大きく喧騒が聞こえてくる。窓から外を見てナタリアは息を飲んだ。城を市民たちが取り囲んでいたのだ。

『ナタリア殿下とルーク様の処刑をやめろー!』

『ナタリア様が王家の血を引かなくったって関係ない。俺たちの雇用を増やすために港の開拓事業を行ってくれたのは、ナタリア様だ』

『療養所を開いて下さったのもナタリア殿下よ』

『わしら戦争はごめんですじゃ。ナタリア様なら、きっと戦争を止めてくださる!』

 口々に叫びながら、広場を埋め尽くす群衆は城門で衛兵と睨み合っている。

『これは……』

『みんな、王家の血じゃなくてナタリアが好きなんだよ』

 ガイが笑んで言った。アニスが両腰に手を当てて声を出す。

『ナタリアが無実の罪で処刑されようとしてるぞ、みんなで助けよーっていうビラをアルビオールから撒いておいたんだよ。作るの大変だったんだから』

『生まれがどうでも、お前はお前だ。ナタリア。みんながそれを認めてる。――そうだろ、アッシュ』

『フン。お前に言われるまでもない』

 目を潤ませてルークとアッシュの二人を見つめたナタリアの足元から、『ナタリアさんは人気者ですの』とミュウが高い声をあげた。途端に、『チーグルが喋った!?』と、モースたちがざわめく。

『む、むう。あの響律符キャパシティコアは、まさか伝説のユリアのソーサラーリングでは……? いや、そんなはずはない。彼奴らは偽りのユリアの使徒だ。私こそが真のユリアの使徒なのだ。私は正しい。預言は遵守せねばならぬ!』

『モース様』

 両手を胸に当てて、ティアが再び訴えた。

『預言に盲目的に従うことが、真にユリアが望んでいたことなのでしょうか』

『黙れ! ティアよ、そもそもお前には第七譜石探索の任を与えていたのではないか。その任務も忘れ、そのような罰当たりなことを口にするとは愚か者め。ユリアは繁栄の未来を詠んだ。第七譜石には、人類の究極の繁栄への道が詠まれている。第七譜石だ。それさえあれば、その預言を守りさえすれば……』

『繁栄の先にあるのが破滅であってもか』

 険しい声音が落ちる。驚いた人々の注視の中で、ガイは表情を揺るがさずにモースを見据えていた。

『馬鹿を言うな。破滅などない。第六譜石の最後で、ユリアは来るべき大繁栄の未来を詠んでいるのだぞ』

『俺はホドのガルディオス伯爵家の生き残りだ』

 彼がそう言うとモースは言葉を飲む。インゴベルトやファブレ公爵はぎょっと目を剥いた。

『ホドはユリアが産まれ、そして没した土地だ。島には彼女の遺した第七譜石が隠されていた。島ごと崩落して、今は地上のどこにも存在していないけどな。俺が直接詠み取ったことはないが、そこに詠まれた内容は知っている』

 ガイは語る。アクゼリュスの崩落がきっかけで起こるルグニカの戦争、皇帝の死によるマルクトの滅亡、その後キムラスカが未曾有の大繁栄を遂げること。だがそれは数十年で終わり、その後はマルクトから起こった死病が蔓延し、最終的には障気によって滅び去る。そんな滅亡の預言を。――それとはまた少し異なった『前』の結末を思い出し、苦くそれを噛み締めながら。

 流石にその場の誰もが黙り込んだ。……全ての人間が、世界そのものが死に絶えると言うのだ。それがこの星の近く訪れる結末だというのなら、あまりにも無惨すぎる。

『この預言をヴァンも知っている。だからあいつは大地と人間の全てを消し去り、レプリカとすげ替えてでも、預言に――星の記憶に影響されない世界に作り替えようとしている。外殻の崩落は、その下準備の一つに過ぎないんだ』

『……驚きましたね。グランツ謡将の凶行の動機はホド崩落への復讐だと思っていましたが、それさえも口実に過ぎなかったとは』

 ジェイドが言った。『そんな……そんな筈はない!』とモースが泡を飛ばして叫ぶ。

『預言は絶対だ。もし、それが真の惑星預言プラネットスコアならば、どう足掻こうとも世界は滅ぶのではないか。……いや、違う。詠まれているのは約束の繁栄のはずだ! でたらめを言うな! 陛下、こやつらは悪魔です。預言をないがしろにし、世界を破滅へ導こうとしている。惑わされてはなりません』

 ジェイドが息を落とすと冷たい目を向けた。

『やれやれ。ユリアの預言は絶対のもの。確かにそれが現代の常識ではありますがね。……しかし、既にユリアの預言は歪んでいるのではありませんか。新暦2000年の誕生を詠われた「ローレライの力を継ぐ者」は、アッシュ――オリジナルのルークです。ですが、2018年に人々を引き連れて鉱山の都市へ向かったのはこちらの――レプリカのルーク。預言には存在が詠まれていなかった、彼だ。そして、二人とも街と共に消えてはいない。ここに生きている』

 二人のルークは顔を見合わせる。ナタリアが父を見つめた。

『お父様! もはや預言に縋っても繁栄は得られません! 今こそ国を治める者の手腕が問われる時です。この時の為に、わたくしたち王族がいるのではありませんか? 少なくとも、預言に胡坐をかいて贅沢に暮らすことが王家の務めではないはずです!』

『……私に何をしろと言うのだ。マルクトと和平を結べとでも言うのか』

『伯父上、お願いします』とルークが訴えかける。アルバインが『売国奴どもめ!』と喚き立てた。モースも再び口を開く。

『騙されてはなりませんぞ、陛下。貴奴ら、マルクトに鼻薬でも嗅がされたのでしょう。預言に破滅が詠まれているなどやはり出任せ。所詮は王家の血を引かぬ偽者の戯れ言……』

『うるせぇ、黙りやがれ! 自分に都合のいいものしか見ようとしねぇ、屑が!』

 アッシュが怒鳴った。モースとアルバインは言葉を詰まらせ、それぞれ怒りで顔を紅潮させる。

『生まれながらの王女などいませんよ。そうあろうと努力した者だけが王女と呼ばれるに足る品格を得られるのです』

『……ジェイドの言うような品性がわたくしにあるのかは分かりません。でもわたくしは、この国を護りたい。王家の血を引くからではなく、この心の衝動のままに』

 己の胸を押さえて、玉座の父をナタリアは真っ直ぐに見上げた。

『お父様のお傍で育てられた十八年の歳月にかけて、わたくしは誇りを持って宣言しますわ。

 お父様を、そしてキムラスカを愛しています。

 わたくしは、この国の誰もに、笑顔でいられる居場所を持たせたい。貧しさや戦争に苛まれることのない暮らしを約束したい。それゆえにマルクトとの和平を望み、ヴァンの野望をくじきたいのです』

 インゴベルトは黙り込んでいる。だが、モースはわななきながら声をあげていた。

『く、くだらん! そのような戯れ言など……!』

『静かになさい、大詠師殿! 聞いたでしょう。預言に従っていても滅亡が待っていると言うのなら、そうすることに何の意味があるのか』

『こ、公爵!?』

 泡を食ってアルバインがファブレ公爵を見上げている。アッシュとルークも少なからぬ驚きの目を父に向けた。

『ナタリア』

 インゴベルトが呼ぶ。『はい』と答えた娘に、王は静かな瞳を向けた。

『お前は、私が忘れていた国を憂う気持ちを思い出させてくれた。……確かにお前は、私の血を引いてはいないかもしれぬ。だが……お前と過ごした時間は……お前が私を父と呼んでくれた瞬間のことは……忘れられぬ。

 ルークが言った通りだ。共に重ねた記憶は偽りなどではないのだな。お前は……確かに我が娘だ』

『お父……様……』

 ナタリアの声が震える。張り詰めていた気配が緩み、瞳から大粒の涙が零れ落ちた。

わたくしは……。王女でなかったことより、お父様の娘でないことの方が……辛かった』

 告白を落とすと、感極まったようにナタリアは玉座で両腕を広げた父の胸に飛び込んだ。モースは『私は信じないぞ。滅亡の預言などでたらめだ!』と罵っていたが、それでも足早に辞してキムラスカを去っていき、それからは速やかにマルクトとの和平と協力が進められたのだ。

 平和条約締結の会場には、ケセドニアの代表であるアスターの屋敷が選ばれた。キムラスカにもマルクトにも属さない中立の場が相応しかったのだが、モースと決裂した以上ダアトは使えない。ユリアシティはどうかという案も出たが、ティアが難色を示した。祖父テオドーロは預言から離れることに懐疑的だと言うのだ。未だ「預言に詠まれぬ崩落」などの決定的な事態は起きていない為、預言の歪みが実感できず、世界の破滅を訴えられても否定する決意がつかないのだ。ユリアシティの人々は、監視者として預言を守ることに何より腐心してきたのだから仕方がないのだとも言える。

 ともあれ、そんな経緯でキムラスカとマルクトの国境線上に位置する自由交易都市ケセドニアが選ばれた。アスターはこの都市を作り出した立役者で、大富豪であり、商人ギルドの長も務めている。快く引き受けて、『そんな重要な場に立ち会わせていただけるとは光栄なことです。イヒヒヒヒ』と奇妙な笑い方をした。

 つつがなく平和条約は結ばれ、インゴベルトとピオニーはサインを交わし、停戦と崩落阻止の協力が織り込まれた。しかし、ヴァンは今どこにいるのか。ザオ砂漠以降、世界のどこでも地盤沈下は起こっていないのだという。『ツリーを消しても俺たちに再生されるから、諦めたのかな?』とルークが言ったが、ガイは首を横に振った。

『そんなはずはない。あいつは頑固な奴だからな。諦める事はないはずだ』

『不気味ですね。しかし我々にはダアト式封咒を開ける術がない。せいぜい全てのセフィロトを監視して、開かれるのを阻止するか、開かれた後に駆けつけることしか出来ません』

『結局、後手に回るしかないということですね……』

 ティアが顔色を沈める。ジェイドは目を上げてガイに訊ねた。

『ガイ。あなたはどう動くべきだと思いますか』

『なんだ? あんたが俺にそんなことを訊くなんて珍しいな、旦那』

『そうですか? 我々は最初からずっと、あなたの指示に動かされてきたように思うのですが』

 眼鏡の下から赤い瞳でジェイドが見やってくる。離れた場所に座っていたアッシュも同じような眼をしていた。『そうだったかな』とすげなく返すと、ガイは語り始める。

『俺の意見を言わせてもらえば、地震が気になっている。新しいセフィロトが開かれてはいないし、地盤沈下も起きてはいないが、微弱な地震は観測され続けているだろう?』

『……内部で何かが起きている、と?』

『ああ……。もう一度シュレーの丘のパッセージリングへ行こう。ジェイド。そこであんたに調べてもらいたいことがある』



 シュレーの丘のパッセージリングの図像に浮かんだのは、『負荷増大』という警告字句だった。地核から放出される記憶粒子セルパーティクルの流れが強さを増しており、パッセージリングに掛かる負荷が極度に増していたのだ。このままでは数ヶ月で耐用限界に到達し、いずれパッセージリングが壊れてしまいかねない。そうなればセフィロトツリーが消失して、全ての外殻が崩落してしまうことだろう。ジェイドはそう結論付けた。『そんな!』とアニスが声をあげる。

『今のうちにパッセージリングを操作して、昇降機のように緩やかに外殻を降ろすことが出来れば、崩落は免れるとは思いますが……』

『ですが、魔界クリフォトは障気に満ち、大地は液状化していますわ。そんなところに外殻を降ろせますの? それに、入口の開いているセフィロトは二箇所だけです』

 ジェイドの言葉にナタリアが疑問を投げかけ、アッシュが口を開いた。

『ヴァンは、全てのパッセージリングは繋がっていて、離れたセフィロトからも操作出来るのだと言っていた』

『しかし、起動させないことには連動させることも出来ない。封印されたパッセージリングは休眠状態になっています』

『何とかならないのか? このままじゃ、外殻大地は全部崩落しちまうんだろ?』

 ルークが焦った顔色で見渡し、『イオン様がいれば……』と、アニスが唇を噛む。アッシュは腕を組んで考え込んでいたが、やがて顔を上げると言った。

『……なあ。どうして記憶粒子の流れが強くなっているんだと思う?』

『記憶粒子が噴き出しているのは地核です。そこに原因があるのだとは思いますが……』

『ヴァンに聞いたことがある。地核にはローレライがいるのだと』

『………ローレライ?』

 どこかぼんやりした顔でルークが呟いている。

第七音素セブンスフォニムの純粋な塊――意識集合体ですね。ユリアの伝説に語られているだけで、実際に観測された記録はまだありませんが』

『魔界の大地は液状化しているが、それは外殻を引き剥がしたせいだけではなく、地核が揺れているためだと。地核を揺らしているのはローレライなのだと言っていた』

『どうして、ローレライがいると地核が震動するの?』と、アニスが訊ねた。

『さあな。だが、第七音素を過剰に消費すると、ローレライはその分を取り戻そうとしてプラネットストームを活性化させる。そうすると地核の揺れも大きくなるんだそうだ。よく分からんが、プラネットストームに何かのひずみがあるせいらしい。――そして、ヴァンは計画には大量の第七音素が必要なのだと言っていた』

『レプリカは第七音素で製造する。グランツ謡将が世界をレプリカとすり替えようとしているのなら、さぞ大量に消費することでしょうね』 

『待って。つまり兄がレプリカ大地計画を進めれば進めるほどプラネットストームは活性化し、記憶粒子の噴出がより激しくなって、パッセージリングに負荷がかかるということ?』

『そういうことだな』

 仲間たちは黙り込む。それぞれに事態解決の方法を探しているのだ。しかし誰も声を出せずに沈黙が続いた後、『……地核の震動を中和させる方法に心当たりがある』と言ったのはガイだった。またこいつか、と言いたげに睨んだアッシュを無視して、『その方法とは?』とジェイドが促す。

『創世暦時代の歴史書だよ。地核の震動を中和する計画の草案と、使用する音機関について書かれてある。禁書として、ローレライ教団の本部に保管されているはずだ』

 その内容が教団の思想に反するとされた本は、禁書として始末され、教団に回収される。当然ながら閲覧など許可されるものではなく、ましてや、今はキムラスカ、マルクト共、内実的には教団――厳密には大詠師派――とは断絶に近い状態があった。イオンがいれば話も違ったのだろうが、彼は行方不明のままである。

 禁書を入手する方法について色々と話し合った中で、アッシュがザレッホ火山の火口を通る進入路の存在を思い出した。教会に直接侵入し、密かに禁書を持ち出すのだ。

 既にシェリダンの職人たちと、譜業都市ベルケンドの研究者たちには話が通されてある。禁書を持ち帰ればすぐに作業に取り掛かれる手はずは整っていた。必要になるだろう地核の震動周波数の計測にも、別班が向かっているはずだ。

「ここはヴァンやモースの拠点だったのですわね……」

 溶岩の間の道を長く歩いて、やがて古い巨大な譜石や机や椅子、書類やカップなどが散在した、生活感の見える場所に辿り着いた。「何かの研究でもしていたのでしょうか……?」と、穿った岩壁に作られた檻を見やってナタリアが言う。アッシュは無言だった。代わるように、アニスがいやに空々しい笑みを作って声をあげる。

「あれー、あんな所に譜陣があるよー? えっと、多分あれが教会に繋がってるんじゃないかなぁ。みんな早く行こーう」

「どうしたんだ? アニス」と、ルークが不思議そうに訊ねた。

「え!? 何が」

「何がって……」

 困惑したように声を途切れさせた隣から、「アニース」と、ジェイドがにこやかに呼びかける。

「な、何ですかぁ、大佐」

「火口に入ってから、どうもあなたの様子は変ですね。やけに大人しかったかと思えば、急にそわそわしだして」

「そ、そんなことないですよぅ。ただ、こんな所にいたって仕方がないじゃないですか。ここにはなんにもありませんし。さあ、さっさと教会に行きましょ〜!」

 ルークやティア、ナタリアはますます怪訝な顔になる。ガイは少し困った、どこか痛ましそうな顔をしていた。まるで助け舟を出すように、「そうだな。いつまでもこうしていても仕方がない。行こうぜ」と促して歩き出す。従うルークたちの背を見ながら、ジェイドは小さく失笑を落とした。

「やれやれ。このパーティーには隠し事のある人が多いようですね」

「ア、アニスちゃんに隠し事なんてありませんってば。全然、全く、完璧にないですから」

「ま、いいでしょう。話せる時が来たら話してもらいますよ」

 そう言って、ジェイドも転送の譜陣に向かう。その姿が消える様子を見届けて、自分も譜陣へ向かおうとしたアニスは、背後から「おい、クソガキ」と声をかけられて足を止めた。アッシュが残っていて、実に不機嫌そうな顔で睨んでいる。

「……なによぅ」

「俺は、お前が誰と繋がっているのかを知っている」

「……!」

 大きな目をアニスは見開いた。

「俺自身、ヴァンの配下だったんだ。それを今ここでとやかく言うつもりはない。導師が連れさらわれて以来、連絡を取っている様子もなかったからな。……だが、下手なことをしてみろ。容赦なく斬り捨てる」

 剣の鍔を指で押し上げてカチリと鳴らしてみせると、アッシュは髪をなびかせて譜陣へ向かっていく。彼も転移して消え、残ったアニスは立ちすくんで唇を噛み締めていた。








「あらぁあ」

 悲鳴をあげて転倒した彼女に駆け寄り、アニスは懸念と呆れを半ばさせた声音で言う。

「もう。ママ、大丈夫なの?」

「まあ まあ まあ アニスちゃん。大丈夫よ。心配させてごめんなさいね」

「しっ、心配なんてしてないし。大体ママは邪魔なの。私たちは急いで禁書を探さないといけないんだから。さっきから転んだりひっくり返したりしてばかりじゃない」

 無事教会に侵入した一行は、禁書が収められているのだろう図書室へと向かった。司書は中立派で、そもそも教団深部の内情からは縁遠い末端教団員だ。導師守護役フォンマスターガーディアンのアニスが導師の名を出すと、簡単に閉架への立ち入りを許した。途中で出会った、教団に住み込みで働いているというアニスの母、パメラも加えて、八人(と一匹)で目的の禁書を探していたのだ。

「もういいから戻って。ママにだって他にも仕事はあるでしょ。パパだって忙しそうだし。そ、それに、こんなところをモースに見つかったりしたら……」

 最後の方は口の中でもごもごと言い、恐ろしそうに首をすくめたアニスの後ろから、「おや? ちょっと、その本を見せて下さい」とジェイドが身を乗り出した。転んだパメラの前に散らばった本の中、開かれたページに目を落とす。何ページかをパラパラと繰って。

「これは……。これです。間違いない。これが目的の禁書です」

「本当か!? やったな!」「怪我の功名ですわね」「ですの!」

 ルークとナタリア、そして駆け寄ってきたミュウが顔を輝かせた。

「ああ。見つかってよかった。――大丈夫ですか、パメラさん。俺の体質のせいで手を貸してさしあげられないのが心苦しいのですが……」

 片手で頭を掻いてガイが微笑みかけると、「ガイの女嫌いも治らないよなぁ」と後ろからルークがからかってくる。

「俺は女嫌いじゃなくて、女性恐怖症だ。今はまだあまり触れないが、女性は大好きだぞ」

「まあ。ガイは、実は女好きだったのですわね」

「……ママ。ガイから離れて」

 アニスがパメラを自分の方に引っ張って立たせ、ルークを笑わせてガイを嘆かせた。

「くだらねぇことを話してないで、行くぞ。目的のものは見つかったんだ。長居の必要はない」

 輪から外れた場所で、むっつりとした顔でアッシュが言う。「そうね。急ぎましょう」と生真面目にティアが同意し、一同は図書室を後にしたのだが――。




「困りますねぇ。閉架の図書は持ち出し禁止ですよ」

 教会の大ホールには、神託の盾オラクル兵たちを従えたディストとモースが待ちうけていた。

「しまった。嗅ぎ付けられたか」

 身構えたガイの前で、ディストは腰を下ろした安楽椅子をゆらゆらと宙に浮かせて高く笑う。

「はーっはっはっは! お前たちがここに来る事などお見通しです。わざわざ自分から乗り込んでくるとは、つくづくお馬鹿さんですねぇ」

「忌々しい奴らめ。こんなところまで入り込んできおって。地核の震動のことなどどうでもいいが、キムラスカとマルクトに協力などされては困る。こうなったら、お前たちの首をそれぞれの国に送りつけて、再び戦争へ煽り立ててみせるわ。やれ、ディスト」

「お任せ下さい。それより約束の件、お願いしますよ。成功の暁には、ネビリム先生のレプリカ情報を……」

「任せておけ。ヴァンから奪い取ってやる」

「……っ。馬鹿なことを」

「ジェイド?」

 珍しく、強い感情を込めて吐き出したジェイドを見て、アッシュが眉を顰めた。

「お前は、まだ諦めていないのか!」

「お黙りなさい、ジェイド。あなたにとやかく言う権利などない! 私は諦めませんよ。先生を、あの黄金の時代を、必ず我が手に取り戻してみせる。――さあ、現われるがいい! 我が傑作の自律式譜業兵器、カイザーディストRXぅうう!!」

 途端に、大ホールの石の床を突き破って巨大なロボットが出現した。無惨な状態になった床を見て、モースが「な、何をするか!」と口をパクパクさせている。

「ご安心下さい、モース様。そのようなこと、このカイザーディストRXの華麗なる登場の前には些細な問題ですとも! さあ、奴らを殲滅しなさい!」

 ロボットが動き出し、装備されたドリルやチェーンソーで襲い掛かってきた。

「アニス、パメラさんを!」

 バックステップでそれを避けながら指示を飛ばし、ガイは剣を抜いてロボット目掛け斬り込んでいく。他に神託の盾兵たちもいたが、彼らはむしろ、ロボットの爆撃やレーザーに巻き込まれて逃げ惑い、右往左往していた。

「敵も味方もおかまいなしか。相変わらずイカれた野郎だぜ!」

 アッシュが叫んで技を叩き込む。ティアが杖を振って巨大な光球をぶつけ、ジェイドは槍を振るっていた。

第四音素フォースフォニムだ! 音機関は水に弱いからな!」

 ガイが指示を飛ばす。

「チッ。まあいいだろう」「了解」「そうですね。いいでしょう」

 それぞれに声を返して、仲間たちは水気の音素フォニムを己のフォンスロットに取り込んだ。

「氷の刃よ。降り注げ! アイシクルレイン!」

「凍て付く玩具よっ。こっ、コチコチハンマー!」

「慈悲深き氷嶺にて、凄烈なる棺に眠れ。――フリジットコフィン」

 立て続けにそれらを喰らって、ロボットは動きを止めるとぐらぐらと揺らいだ。腕の一本が折れてガシャンと床に落ちる。

「やりましたわね!」

 弓に矢をつがえる手を止めてナタリアが顔を輝かせた。

「ムキーッ! ザオ遺跡に引き続き、よくも私の可愛いカイザーディストをぉ!」

 椅子の上で手足を振り回しているディストに、剣を構えてルークが迫る。

「観念しろ! 俺たちは絶対に、この世界を守る!」

「んぐ……。ふ、ふふ……。無駄ですよ。たとえ禁書を持ち出せたとしても、震動中和装置は造れません」

「どういうことだ?」

 眉を顰めたジェイドの声で、ディストは再び高く笑った。

「どうして私たちが、お前たちがここに何をしに来るか予め知っていたと思っているんですか」

 怪訝な顔になったルークやティア、ナタリアの後ろで、アッシュが表情を強張らせて視線を巡らせる。

「お前、まさか!」

「ち、違う。私じゃない!」

 アッシュに睨まれて咄嗟に叫び返し、アニスはハッとしたように身をすくめた。仲間たちの視線が彼女に集まっている。

「アニス! そいつらを殺せ!」

 叫んだのはモースだった。

「導師を監視する任務も果たせずに停戦を進める愚か者どもの尻馬に乗りおって。厳罰ものだが、そやつらを倒したら許してやろう。どうだ? オリバーたちの借金も免除してやるぞ」

「アニス? どういうことなんだ」

 ルークが問い掛けたが、アニスは身を強張らせたままでいる。

 その時、煙を吹きながらゆらゆらと揺れていた巨大ロボットが、ギ、ギ、ギと動いた。丸い頭部の左右に着いていた耳のような造作の砲台が動き、照準を合わせようとする。ルークたちは左右に退いたが、アニスだけは強張ったままその場に立ち尽くしていた。

「危ない! アニスちゃん!」

 パメラが後ろから駆け出してきて、前に回り、アニスを抱きしめるようにする。

「ママ!?」

 直後に、ロボットが発した火の球が炸裂した。

 包み込むように炎が燃え上がり、もうもうと煙があがる。抉れた床の欠片がパラパラと降ってきて、ルークは顔を庇っていた腕を下ろし、呆然とそれを見つめた。次第に煙が流れて薄れていく。

「――ガイ!」

 煙の向こうから現われた金の髪の若者を見て、ルークは叫んだ。いつの間に駆け込んだのだろう。手に持った剣と鞘をかざし、身体の周囲にはうっすらと音素フォニムの輝きがあって、それは薄らいで消えていった。あれは身を守る奥義、粋護陣だ。とはいえ、その技は使った本人しか守ることが出来ない。ガイは己を盾として、その背後のアニスとパメラを爆撃から守ったのだ。

「う……」

 粋護陣は全てのダメージを弾く訳ではない。がくりとガイが片膝をついたのを見て、ルークとナタリアが慌てて駆け寄った。

「大丈夫か、ガイ。無茶しやがって……」

「待って下さい。今、治癒術をかけますわ」

 一方で、ジェイドはロボットを地に倒した槍を片手に、剣呑な瞳でディストを見据えている。

「馬鹿をのさばらせておくのも程が過ぎましたか。おしおきが必要なようですね」

「な、なんですか。そんな目で見たって、怖くなんかありませんからね。怖くありませんよ!」

 黙って、ジェイドは一歩踏み出した。

「ひぃ……っ! や、やめなさい。やめて。来るな。――ぎゃああああっ! ジェイド、ごめんなさぁあ〜〜い!」

 ジタバタと跳ねるディストを座らせたまま、ジェイドの譜術で炎に包まれた椅子は教会の外へ飛んでいく。

「う、うぬぅう……。覚えておれ!」

 歯軋りをしながら、モースもその後を追うように走っていった。

「大佐。逃げられてしまいましたが……」

「仕方ありません。今の我々にはあの二人を拘束する権限が無い」

「ふん。ダアトにはキムラスカもマルクトも力が及ばないからな。導師を取り戻しユリアシティと協調するまでは、放置しておくしかねぇか」

 ティアとジェイド、アッシュが話している一方で、ぐったりしていたガイにルークが手を貸して立たせている。

「ほら、ガイ。しっかりしろよ」

 その前にパメラが立った。両手を組み、心配そうにガイを見ている。

「あの、ガイさん……。大丈夫ですか?」

「ああ……。俺はもう平気です。パメラさんは?」

「ガイさんのおかげで、私も、アニスも何ともありませんわ。本当に、何とお礼を言ったらよいか」

 そう言って、パメラは両手でガイの手を握り締める。ルークは(あ!)と思い、ガイも一瞬身を強張らせたように感じられたが、手を振り払うような事はしなかった。震えることも、悲鳴をあげることもしない。パメラの方が、唖然としているルークやナタリアの視線に気がついて、やっとガイの体質に思い当たった様子で手を離した。

「あら あら まあ。すみません。ガイさんは、女性が苦手だったんでしたわね」

「いえ……」

 ガイは曖昧に笑っている。そして小さく呟いたのを、傍にいたルークは耳にしていた。

「……よかった。今度は、守れた」






07/01/28 すわさき


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