「へーっ、今日もいい天気だなっ!」

 陽光に目をすがめて、彼は言った。

「なんつーの? 九死に一生を得て、生きることの素晴らしさを実感したというか。……まあ。生きてるのって悪くないよ」

 振り向いて、少し照れくさそうに、それでも晴れ晴れとした笑みを浮かべる彼の向こうには、どこまでも広く、澄んだ青空が広がっている。








 水路を巡らせた街並みは美しく、閑静だった。この都市の玄関口たる商業区や、同じ居住区でも一般市民の住む辺りと趣が違うのは、流石に貴族や要人の住む特別区域だからなのだろう。マルクトにはキムラスカほどの階級意識はないと聞いているが、あくまで比較級だ。差は歴然としてある。

 そんな街並みの中で、この屋敷の門構えは大きいとは言えなかったが、決して見劣りはしていなかった。どことなくこざっぱりとした明るさがあるのは、主人の気質が滲み出たものか。訪れたのは初めてだというのに、踏み込んだ庭に懐かしさを感じた。恐らく、この庭を形作っている者が、かつてバチカルの屋敷のそれを担っていたせいなのだろう。

 赤い髪をなびかせてアプローチを歩いていくと、片隅の花壇の前にうずくまっていた人影が驚いたように立ち上がった。

「あれ、アッシュ!?」

 日よけなのか大きな麦藁帽を被り、汚れた手で構わずに汗を拭ったのだろう、泥が付いてしまっている自分と同じ顔を、ジロリとアッシュは見返した。眉間に皺が寄るのが自分でも分かる。……ナタリアには、それはおやめなさいと口を酸っぱくして言われていたのだが。

「……貴様、何をしている」

「何って、ペールの手伝いだよ。草取り。これって結構大変なのな。何日か目を離しただけですぐ新しいのが生えてきちまうし……」

「そうじゃねぇ! なんでお前が庭師の真似事なんかしてるんだと言ってるんだ、この屑が!」

「く、屑って、そんな言い方しなくたっていいだろ! このくらい手伝うのは当たり前じゃんか。俺は今、この屋敷に世話になってるんだから」

「あいつが、そうしろと言ったのか?」

 アッシュの表情が更に険悪に歪んだ。 

「あの野郎……!」

 肩を怒らせて屋敷へ向かい始めたアッシュの様子を見て、ルークが慌てたように追いすがった。

「待てよ、アッシュ! ガイは何もしなくていいって言ったんだ。だけど俺がどうしてもやりたいって頼んだんだよ」

「だからって使用人の真似をさせるのか! 仮にもファブレ家の――『ルーク・フォン・ファブレ』に!」

「『ルーク』はお前だろ!」

 叫びが返って、アッシュは足を止める。強張らせた手を握り締め、麦藁帽の下で目線を落としている相手を見やった。

「俺は……そりゃ、他に呼び名もないし、ルークって名乗ってるけど…………レプリカだ。それに、もうファブレの家だって出てるんだし……」

「っ……! 貴様は、何を!」

「玄関先で騒ぐのはやめてもらえないか」

 激昂は、差し挟まれた苦笑混じりの声に押し止められた。玄関口にこの屋敷の主人が現われている。「ガイ……」と、ルークがその青年の名を呼んだ。

「はるばるキムラスカから呼び出してすまなかったな、アッシュ。中に入ってくれ。ジェイドはもう待ってる」

「ああ……」

 頷きを返し、身を翻し際にジロリとルークを一瞥すると、アッシュはガイの横を通って邸内へ消えた。それを見送ってから、ガイは残っているルークに顔を向ける。

「ルーク。すまないが……」

「分かってる。キムラスカとマルクトの間の大事な話があるって言うんだろ。約束どおり、邪魔はしないって」

「悪い」

 笑って言ったルークに申し訳なさそうな笑みを返すと、ガイは扉を閉じて邸内へ入った。




「……こいつに書いてあるのは本当のことなのか」

 応接室の扉を閉ざすなり、バサリとアッシュはテーブルの上に封筒を投げ落とした。一度剥がされた赤い封蝋に刻まれているのは、ガルディオス家の紋章だ。

「ああ」

「っ……! ふざけるな!! それが本当なら……!」

「あなたも虚言だとは考えなかったから、依頼にも応じ、ここをこうして訪ねて来たのでしょう」

 ガイに食って掛かりかけたアッシュに、ジェイドの静かな声が掛けられる。彼はソファに腰を下ろすと、赤い封蝋の封筒と一緒に投げられていた大きな封筒を取り上げ、書類を取り出していた。表書きに『ベルケンド第一音機関研究所』の文字が見える。

「シュウの診断書と、スピノザの所見ですか……」

 しばし文面に目を走らせ、軽く書類を揃えてから告げた。

「問題は無いようですね。現段階では、完全同位体のコンタミネーションの発症は認められません」

「そうか……!」

 ガイが安堵したように笑みを広げたのを見て、アッシュは小さく舌を打って激情を飲み込んだ。

「……あいつの方はどうなんだ。当然、検査したんだろうが」

「ああ。こっちに連れてきた時に適当に理由をつけてな。異常はなかった」

 なあジェイド、と確認するガイに、すげない態度で赤い瞳の男は頷きを返している。

「ええ。通常の疾患もありませんでしたし、音素フォニムに増加も減少も見られませんでした」

「……。この為に、あいつをファブレの屋敷から連れ出しやがったのか」

「まあ……、それだけって訳でもないけどな」

 アブソーブゲートでヴァンを倒し、三勢力から集まっていた仲間たちはそれぞれの場所へ帰還することとなった。半ばナタリアに引きずられるようにしてアッシュは七年ぶりにバチカルに戻ることになり、引き換えるように、ガイとその後見人のペールはグランコクマへ立ち去ることとなった。彼はマルクトの伯爵家の人間だったのだ。世界を救った功績によって爵位が戻され、屋敷も用意された。ガイがそこへ移り住むのは当然と言えたが、旅立ちの際、彼はルークまでもを連れて行った。

 と言っても、ルークの籍がマルクトへ移ったと言うわけではない。公的な意味が与えられているわけでもなく、あくまで『友人の家に私的に滞在している』という扱いだった。これは、ガイが半ば強引にルークを連れ出したためでもある。

 オリジナルルークが帰還した手前、レプリカルークの立場が曖昧に――ファブレ家にとって一種の重荷になっていたのは確かではあった。それ故に強引に連れ出せたのだ。しかし……。

「手紙くらい、あの屑に書かせろ。父上も気にしているし、母上が寂しがっている」

 アッシュはそう言って、「……ナタリアもな」と幾分悔しげに付け加えた。

「くそ。これじゃ俺があの屑を追い出したみてぇじゃねぇか。胸クソ悪ぃ!」

 吐き捨てるアッシュの様子を見ながら、『今』ルークをバチカルに帰らせたらどうなるのだろう、とガイは考えた。『前』は、ルークは帰ってこないアッシュにいつか居場所を奪われることを恐れ、挙句自分を卑下して萎縮し、孤立してしまっていた。その後悔もあり、『今回』はルークを手元に置いてみたのだが。長い目で見れば、家族と引き離したのは残酷なことだったのではないかとも思う。事実、懐いていた母親に手紙すら書けずにいるとは、家から追い出された気分にでもなっているのかもしれない。

「強引な真似をして悪かった。そうだな。お前からも勧めてやってくれ。あいつ、気にしすぎてるんだよ。自分がレプリカだってことをな」

「……ケッ」

「家族ドラマもいいですが、同位体のコンタミネーションについての解決策が見つかるまでは、同じ場所での生活は控えた方が無難でしょうね。物理的距離の短さや接触が発症に繋がる確証はありませんし、今はまだ何事もありませんが、いつ何のきっかけでコンタミネーションが起こり始めないとも限りませんから」

 ジェイドが言った。

「同位体のコンタミネーション現象――大爆発ビッグ・バン理論を最初に提唱したのは私です。ですが、生物サンプルによる実測データが取れている訳ではない。この現象は様々な点で未知なのです。理論通りに完全な形で起こるとも限りません。実験室のような人為的に作った環境や……そう、地核の中などであれば、他の音素フォニムの干渉をほぼ受けることはありませんから、理論通りに運ぶ可能性が高いでしょう。しかし、現実にはそれは難しい。被験者オリジナルが音素化した後、うまくレプリカの情報を取り込めないかもしれない。再構築に失敗するかもしれない。人格が混じり合って精神汚染を引き起こす可能性もありますし、場合によっては、被験者とレプリカ、双方が消滅することもありえます」

 黙って、アッシュとガイはフォミクリー技術の生みの親の話を聞いている。ジェイドは僅かに苦笑をみせた。

「二人とも。そう深刻な顔をしないで下さい。確かに、一度現象が起きてしまえばそれを完全に止める手立ては未だありません。しかし現時点で発症してはいないのですから」

 そう言うと、ジェイドはアッシュに赤い目を向ける。

「アッシュ。あなたは同調フォンスロットを通じてルークに意識を繋ぐことが出来ましたね。ですが、今後はそれは控えて下さい。

 ガイの『記憶』によれば、この時期には既にコンタミネーションが発症していたはずでした。しかし現実にはそうなっていない。恐らく、同調フォンスロットが完全に繋がっていないおかげでもあるのでしょう。ガイの知る歴史では、ディストがコーラル城の機器を使ってルークの同調フォンスロットをあなたに向けて繋いでいたそうですから。

 フォンスロットの接続は危険です。ただでさえ同位体は同調や共振を起こしやすい。フォンスロットを繋げば、そこに音素フォニムの『道』を作ることになる。そうなれば物理的距離など殆ど関係なくなります。……分かりますか、アッシュ。あなたの音素がルークに流れやすくなるんですよ」

「『前』は別行動だったが、その分回線を多用していた。『今回』は全員で一緒に行動したからな。回線を使う必要がなかったのも幸いしてたって訳だ」

 ガイが言う。アッシュが幾分胡乱な色を浮かべて幼なじみに目を向けた。

「それも手紙に書いてあったが。……本当なのか。お前が『もう一つの未来』から来たとかいうのは」

「ああ。本当だよ」

「胡散臭ぇ」

 にべなくアッシュは吐き捨てる。

「だが、お前がさんざ事態の先読みをしていたのは確かだ。忌々しいが、それが的を射ていたのもな。コンタミネーションの話も、スピノザやジェイドの話を聞く限りは嘘じゃねぇ。……ヴァンがまだ生き延びている可能性があるというのなら。奴との決着を完全につけるためにも、今はお前の話に乗っておいてやる」

「悪いな、アッシュ。頼む」

「フン」

「ところでアッシュ。ローレライからの連絡は未だに何もないのですか」

 ジェイドが訊ねた。ガイの言う『歴史』が正しいならば、ローレライはヴァンに取り込まれ、音譜帯への解放を託して二人のルークに『鍵』を送って来ているはずだ。

「何もねぇな。声も聞こえないし、あれ以来頭痛もない」

「そうか……」

 ガイは考え込む。

 ヴァンは地核に消え、モースはリグレットの逮捕をきっかけに失脚。代わって導師イオンが力を強めた教団の体制下で査問会にかけられ、先だってパダミヤ大陸東の島にある施設に収監されたところだ。だが、他の六神将たちの行方はようとして知れず、彼らに従った多くの神託の盾オラクル兵たちも姿をくらましたままだった。建前上、それを警戒する理由でキムラスカにもマルクトにもセフィロトや地核の監視・観測を怠らぬように進言してある。が、この二ヶ月弱ほどの間、何一つ目に付く動きは起きてはいなかった。

 なお、ワイヨン鏡窟深部の施設はキムラスカの手で封鎖され、浮島として漂っていたフェレス島はマルクトの調査団によって発見、占拠されている。各所のレプリカ機器が稼動している様子はなかった。気がかりといえば、現時点でどこかに幽閉されているはずのフローリアンの安否もあるのだが、「モースに幽閉されたレプリカがダアト周辺にいるはず」とイオンには伝えてある。ザレッホ火山の施設をローレライ教団が大規模に調査したと伝え聞いているし、きっと近いうちに見つけ出してくれることだろう。

 多くの事物が順調に、何事もなく流れているように思える。全ては杞憂なのか。ヴァンはあの時確かに死に、それ故に六神将も動けず、ローレライも解放を求めてはこないのだろうか。だとすれば――後はただ、ルークをあの残酷な運命から――大爆発ビッグ・バンから救う、それだけに邁進まいしんしていればいいことになる。

 窓の外に目を向けると、麦藁帽をかぶったルークの姿が遠くに見えた。花壇の前にしゃがみこみ、ミュウとなにやら言葉を交わしているようだ。

「……おい、ガイ。お前、あいつには何も話さねぇつもりなのか」

 アッシュの声が聞こえる。

「ナタリアやヴァンの妹に言わねぇのは分かる。余計な心配を抱え込ませることになるからな。だが、これはあいつ自身の問題だ」

「ルークに知らせるつもりはないよ。少なくとも、解決策が見つかるまでは」

「おい……!」

「いつ、どんなきっかけでコンタミネーションが始まるのか分からない。一度始まってしまえば止める手立てもない。そして、大爆発の結果が完全だろうと不完全だろうと、ほぼ間違いなく『レプリカは死ぬ』。――それを知らせろって言うのか」

 静かに、しかし強い声音でガイは応えた。

 自分自身の意志ではどうしようもない。ただ『完全同位体のレプリカとして生まれた』、その理由だけで不可避に与えられた遠からぬ死。……苦しませるだけだ。

 

『……まあ。生きてるのって悪くないよ』

 

「あいつの……あんな表情かおを、俺は、二度と見たくはない」

 あんな。――空に溶けてしまいそうな、哀しい笑顔は。

「お好きなように、としか言えませんが、本人に隠したままでは色々と限度がありますよ」

 黙りこんだアッシュに代わるようにジェイドが口を開く。

「庇護するのは結構でしょう。しかし、あまり過ぎると後々子離れに苦労――」

「今でも時々、これは夢なんじゃないかって思う」

 揶揄しかけたジェイドは、構った様子のないガイの声に口を閉ざした。

「ルークがいる。生きている。ルークだけじゃない。みんなが……世界がここにある。どういう奇跡なのかは分からない。だが再び手にした以上、俺はもう、手放すつもりはないんだ」

「……」

 胸の前で両手を握り、ガイは再び窓の外に視線を送る。その背を、ジェイドは赤い瞳でじっと見ていた。




「ご主人様、これでここの花壇の”ざっそう”は全部抜いたですの」

 小さな青いチーグルが、草の一株を抱えてチョコチョコと走ってくる。

「うん。ご苦労、ミュウ」

「みゅー! ご主人様に褒められたですの!」

 ミュウは嬉しそうにくるくると跳ね回った。腰に穿いたリングが陽の光を弾いてチラチラと光っている。

「だけど、不思議ですの。フーブラス草は、柔らかくて甘くて美味しいですの。ネコニン草は、ちっちゃいけど可愛い花が咲きますの。でも、”ざっそう”ですの? 花壇に生えてると、ペールさんが困りますの」

「……そうだな。考えてみれば、花壇の花も雑草も、どっちも同じ植物なんだよな。要るか要らないか、人間に決められてるってだけで……」

「みゅうぅう……。ご主人様、元気ありませんの」

「そんなことないけど……」

 下から見上げてくる大きな丸い目から幾分目を逸らして言うと、「パパさんとママさんのお家に帰りたいですの?」と真顔で言われた。

「んなことねーって言ってるだろ」

「でも、なんだか悲しそうですの。パパさんやママさんに会えないから、寂しいですの?」

「だから違うっつーのに! あーっ、今日のお前、なんかウゼェ!」

「みゅうぅ〜……」

「大体、俺があそこに帰れる筈ないだろ。……あそこは、俺の家じゃないんだから」

 赤い髪をかきむしっていた手を下ろして、ルークは声を落とす。

「あそこはアッシュの家なんだ。俺はレプリカで、アッシュの身代わりでしかなくて……。本物が帰ってきたんだから、もう、俺があそこにいる必要ないじゃんか。母上は優しいから何も言わないけど、本当は困ってただろうし。父上やラムダスや屋敷のみんなだって、きっと……。

 ……嫌なんだ。みんなを困らせるなんて、そんなの。だから……」

「ご主人様……」

「ガイに甘えてここに来ちまったけど……。ここでも俺、役立たずのままだよな」

 強張った自嘲をルークは口元に浮かべた。

「みゅ? そんなことないですの。ガイさんは、ご主人様がここにいてくれて嬉しいって言ってましたの」

「でもガイは、ずっと俺に何か隠してる。……本当に大事なことは、俺には言わない」

 頑なな声をルークは出す。アッシュとジェイドを迎え、ルークの前で扉を閉ざした時の、申し訳なさそうなガイの顔を思い浮かべた。もはや主人と使用人ではない。なのに、気遣いあやす態度をガイは崩さない。以前の自分だったら、或いはそれに気付かなかったのかもしれない。本当に馬鹿で子供だったから。だが、今は感じ取れた。――ガイは何か、言うべき本音を隠している。

「仕方ないんだけどな……。俺、役に立たないから」

 ガイたちが『大切な相談』をしているという部屋の方を見やると、窓辺に、かの金髪の若者の姿が見えた。こちらを見ているように思えたが、ルークは咄嗟に顔を伏せて、気付かなかった振りをしてしまう。

(なにやってんだ、俺……)

 これでは、バチカルの屋敷にいた頃と同じだ。――中庭にいて、回廊から父が見ていることに気付くと、どうにもいたたまれずにメイドやガイの陰に隠れてしまっていたものだった。

 父に認めて欲しかった。だが父の求める『ルーク』にはなれず、その痛みから逃げて、代わりにヴァンやガイにすがっていた。しかしヴァンには打ち捨てられ、今はガイの目からも隠れようとしている。どこまでも進歩がない。情けない。

 

『お前は、役立たずの失敗作だ』

 

「ホント。師匠せんせいが言ってた通りだよな……」

 呪詛のように、師の言葉が耳の底にこだまして消えることがない。弱く駄目な自分。きっと、ガイの重荷になっている。

(ガイも。いつか、父上や師匠みたいに、俺にがっかりするのかもしれない。要らないって、思うのかもしれない)

 それでも、自分にはもう、かりそめにでも与えられたここ以外に、存在を許された場所がない。

(俺には、どこにも居場所がない……)

 頼りない足元がグラグラと揺れた気がした。

「――っ!?」

 いや、違う。ルークはハッとした。本当に大地が揺れているのだ。

「地震……?」

 今年に入ってから地震は多かったが、アブソーブゲートでヴァンを倒して以降は静かなものだった。振動中和装置で外殻大地を安定させたからだ。なのに……。

 程なく大地の震えは鎮まる。転がってしまったミュウを助け起こしてやりながら、ルークは不安げな視線を辺りにさまよわせた。








「そういえば、ナタリア姫から文書が届いていたぞ」

 ついでのような口調で言われて、こちらも「そうですか」とすげなく返した。

 軍靴で踏みしめた青い絨毯は厚く上等だったが、ほんの僅かな隙間を残して本やら武具やらクッションやら、ついでにぶうぶう鳴く耳の長いぶちの生き物やらで埋め尽くされている。足の踏み場もないほど取り散らかされたこの部屋が、オールドラントの北半球を支配するマルクト帝国の皇帝、名君として知られるピオニー・ウパラ・マルクト九世の私室であると、どれほどの人間が信じるだろうか。

預言スコアの取り扱いについて国際的な会議を開きたいという提案でな。導師イオンを交えて、ダアトで行ってはどうかと」

「妥当ですね。導師イオンが預言の詠み上げを禁じたとは言っても、昨日今日でハイそうですかと人々の意識が変わるわけではない。預言に代わる、人々の心の拠り所となるものが必要になります」

「そんなものが一朝一夕に見つかると思うか?」

「簡単ですよ。陛下が、より国民に愛される皇帝になってくだされば宜しい」

 だらしなくクッションにもたれたまま一瞬目を丸くして、ピオニーはハハッと声を上げて笑った。

「簡単か。言ってくれるな、そっちのジェイドは」

 身を起こし、傍らを歩き過ぎようとした一頭のブウサギ――首輪には『ジェイド』と刻んである――の首を、笑いながら抱き込む。ぶうぶうと怒ったように鳴くそれを放さずに鼻面を撫でた。諦めたのか、やがて大人しくなったそれを胸に引き寄せる。

「しかし、大したものだなナタリア姫は。この宮殿を初めて訪ねて来た時、『国に関係なく民のために尽くすのが王族の務め』と言い切ったのには、流石に驚いたぞ」

「生まれながらの……いえ、魂の王者とは、彼女のような人間を指すのでしょうね。キムラスカの国民の絶大な人気も得ています。彼女が王位に就けば、心強い隣人であり、厄介な敵になることは間違いがないでしょう」

「まだ十八かそこらだろう。俺があのくらいの歳だった頃に、あんな風に考えていたものかね」

「まるで違っていましたね」

 ジェイドは軽く失笑を落とした。フンと鼻を鳴らして、ピオニーは面白いことを思いついた顔で笑う。

「あのくらいしっかりした女性が側にいれば、俺は楽でいいかもしれんな。いっそ、ナタリア姫を嫁にもらうか」

「アッシュが怒りますよ」

「アッシュか。ふむ。ナタリア姫には婚約者がいたんだったな」

「ええ。彼も神託の盾オラクル六神将の一人でしたから、ローレライ教団の査問会への出頭を命じられていたようですが、キムラスカ王室の働きかけと導師イオンの計らいで、神託の盾騎士団を退役することで話がついたようです。よってバチカルに戻っていますが、今は丁度、ガルディオス伯の屋敷を訪ねて来ていますから」

「怒りっぽい奴だからなぁ。女を挟んで刃傷沙汰になってもつまらん。残念だが、諦めるか」

「それが賢明でしょう。――とはいえ、臣としては少々残念ではありますね」

「うん? なんでだ」

「陛下が結婚を口にするなど、稀なことでしたから」

「そうだったか?」

 そらとぼけた口調で、ピオニーは腕の中のブウサギの毛並みを撫でる。

「もう陛下も四十に手が届くお年でしょう。いつまで独り身でいるおつもりなのですか?」

「お前に言われたくはないな」

「私はいいんです。しかし、国父たる陛下には世継ぎの問題もありますから」

「世継ぎねぇ……」

「水面下では、かなり騒がしいことになっていますよ」

 軽く――それでも普段よりは深めに息をつくと、ピオニーはブウサギを抱いたままクッションに背を沈めた。

「世継ぎなんて、作らなきゃいけないもんかね」

「陛下」

 咎めるように言った懐刀に、笑みを返してみせる。

「ガキばかり作ったところで、血で血を洗って数を減らしていくだけだ。俺は自分のガキどもが殺し合う様を見るなんてゴメンだね。……世襲は、俺の代で終わらせてもいいんじゃないかって思ってるんだ」

「完全民主制にでも移行させるおつもりですか」

「それもいいんじゃないか? つまり、俺は『マルクト最後の皇帝』って訳だ」

 楽しそうに言うと、ピオニーは腕の中のブウサギの毛皮に頬を埋めた。

「俺には厄介な国民どもと可愛いこいつらだけで充分だ。なあジェイド」

「可愛い方に同意はしかねますが。……まあ、以前よりは毛艶が良くなったようですね」

「新しい世話係の腕がいいからな」

「まめな男のようですから」

 ジェイドは軽く肩をすくめた。

「アレは、根っからの世話好きなんでしょうね。バチカルから引き取った客分の面倒も、ここの”ルーク”に対する以上の熱心さでみていますよ」

「ははっ、そりゃいい」

 カラカラとピオニーは笑う。

「ガイラルディアと言えば、お前、面白い事を言っていたな。――『未来が視える』、とか」

「はい。現在までのところ、彼の言う『未来』の情報はことごとく的を射ています。……注意すべきは、彼は視た通りの未来を実現するのではなく、回避することに重きを置いている、というところですが」

「導師イオンの考え方と同じだな。――『預言スコアは遵守するものではない。悪い預言なら、回避する努力をすべき』か。ガイラルディアは、さしずめ、ユリアに代わる新たな預言士スコアラーってところか?」

「いえ……。それが、ガイは第七音譜術士セブンスフォニマーではないのです。預言は通常、星から噴き出した記憶粒子セルパーティクルに刻まれた星の記憶を、その変異物質である第七音素セブンスフォニムを介して読み取ることで行われます。しかし、彼にその能力はありません」

「ん? するってぇと……。それはどういうことになるんだ?」

「それは……」

 ジェイドが何かを言いかけた時、私室の扉がノックされた。「なんだ」とピオニーが問い返すと、「ノルドハイムです、陛下」と太い声が返る。

「構わん、入れ」

 ピオニーの許しを得て、マルクトの蒼い軍服をまとい、金の髪を垂らした強面の大男が部屋に入ってきた。

「カーティス大佐もここにいたか」

「将軍。何か」

「かねてより陛下が指示を下しておられた地核の振動の観測数値に、異常が見られたのだ」

「それは……!」

 ジェイドの顔色が変わる。それを横目に見ながら、ピオニーは立ち上がるとノルドハイムに問うた。

「異常の程度は」

「相当に激しいようです。カーティス大佐がアブソーブゲートに装置を沈めた、それ以前より激しいほどだと」

 皇帝の腕から解放されたブウサギは部屋の隅へと逃げる。他のブウサギたちとひとかたまりになって鼻を鳴らした。




「地核が再び振動を始めた、だって……!?」

 その報せを、ジェイドは自らガルディオス邸に足を運んで伝えた。応接室で出迎えたガイ、アッシュ、そしてルークとミュウがそれぞれに顔色を変える。

「ええ。以前より激しく振動している。恐らく、振動中和装置は破壊されていることでしょう」

「しかし、地核の振動に関しては継続的な監視が行われていたはずだ。少しでも前兆があったなら……」

「これほど急激な振動数の増加は、通常では有り得ません。この時期に起こったタイミングも含めて、人為的なものでしょうね」

 ガイに返されたジェイドの声を聞いて、ルークが疑問をあげた。

「ま、待てよ。人為的って……。地核って、人為的にそこまで揺らしたり出来るものなのか? セフィロトは監視されててパッセージリングは動かせないはずだし、そもそも、それを扱える師匠せんせいは、もう……」

 他の男たちの無言の視線が集まる。怯んで口を閉ざしたルークに向かい、ためらいがちにガイが口を開いた。

「ルーク……。これはまだ推測なんだが」

「な、なんだよ」

「ヴァンは……生きているかもしれない。いや。生きているだろう」

「な……!?」

 一瞬思考が空白になったような顔をして、ルークは掴みかかりそうな勢いで詰め寄ってこようとする。――その刹那。

「うわぁあっ!?」「ルークっ!」

 激しく大地が揺れ、転倒しかけたルークを咄嗟にガイが抱きかかえた。その間も鎮まることなく辺りは揺れ続けている。天井に吊るされている音素フォニム灯が振り回され、挙句に落ちてきてテーブルの上で砕けたが、幸いにも誰かに当たることはなかった。屋敷のそこかしこから、何かが壊れる音、使用人たちの短い悲鳴が聞こえてくる。

「……」

 随分長く感じたが、やがて揺れは鎮まり、騒音も消えていった。

「……大きかった、な」

 アッシュが動揺を滲ませた声を落としている。確かに。これほど大きな地震は、少なくとも新創生暦のオールドラントでは珍しいだろう。ガイ自身、これほどの揺れを体感したのは――数度に過ぎない。アクゼリュスが崩落した、あの場での揺れ。ここまでの大地の震えは、あれ以来の……。

「ガ、ガイ……」

 不安げな瞳でルークが見上げているのに気付き、ガイは安心させるように笑いかけてやる。自分自身の動揺を抑えながら。

「嫌な予感がします」

 珍しく、ジェイドは眉を寄せていた。軍服の長いカラーを翻し、軍靴を鳴らして歩き始める。

「軍本部の私の執務室へ行きましょう。セフィロトと地核に関する全ての情報を集めるように指示しています」








 ぽっかりと開いた空隙の底に、海水は瀑布となって流れ落ちていた。ラーデシア大陸の大半が、南西の一部を除いてスッポリとない。流石にこれはもう、人の手ではどうしようもない。遠く海上に浮かぶタルタロスの艦橋ブリッジからそれを眺めながら、マルクトの災害救助隊の面々はそう思うしかなかった。

 第一報が届いたのは、グランコクマが大きな地震に襲われた、その日遅くだった。今回の地震で、キムラスカ側にも大きな被害が出たようだと。しかし、この時はまだ詳しい状況は分からなかった。アッシュも自分に情報を流すようにキムラスカ側に指示を出し、そうして翌日に届いた第二報は、流石の男たちを慄然とさせたのだ。

 ラーデシア大陸が崩落。その東端に位置していたキムラスカの職人都市シェリダンは、丸ごと消失したと。

「そ……そんな……」

 もうもうと上がる瀑布の水蒸気を目に映しながら、ここまで同乗して来たルークが愕然とした顔で声を震わせている。

 シェリダンには、これまで幾度か訪れたことがあった。ユリアシティを出て最初にアルビオールを借り受けに行った時。振動中和装置の作製を持ちかけに行った時。神託の盾オラクルの襲撃を防いだ時にも。街の顔役である老技術者たちとも顔見知りだった。

「イエモンさん……タマラさん……アストンさんも。ま、街の人たちは、みんな……!」

「――おい、どうした!?」

 同じように動揺した瞳で崩落跡を眺めていたアッシュが、取り繕わぬ声で慌てた。

「ガイ!?」

 その場に膝をついた親友の姿を見て、ルークも高く声をあげる。俯いたガイの顔色は紙のように白かった。

「――上空より急速に接近する物体があります」

 彼らの様子を見ていたジェイドは、探査機の前に着いた兵からの報告を聞いてそちらに顔を向ける。

「敵か」

「いえ、魔物にしては速過ぎますし、大き過ぎます。これは――」

「距離二千。目視できます!」

「師団長! あれを」

 側に控える副官の声が聞こえた。ジェイドは艦橋の大きな窓から空を見やる。青く晴れた天空にキラリと陽光を反射して、銀色の巨大な鳥が、推進装置から薄く光の尾を引きつつ舞い降りて来るところだった。

「アルビオール……」




「まさか、本当に預言スコアに詠まれぬことが起ころうとは」

 片手で顔を押さえ、老いた市長は苦しげだった。

「テオドーロ市長……」

 硬い座席に着いて、ナタリアは眉を曇らせる。その隣の席にはアッシュが座り、大テーブルを挟んだ向かいの席にはジェイドの姿があった。ここは障気渦巻く魔界クリフォトの泥の上に浮かぶドーム都市、ユリアシティ。その中枢たる中央監視施設の会議場だ。

「ヴァンがあのようなことになり、導師イオンの取り決めによって監視者の鑑であったモースが罷免されてなお、どこか信じきれない気持ちでおったのだ。預言に詠まれぬ世界が訪れるなどと」

「……ヴァンは第七譜石の預言を知っていた。ユリアの預言通りに運んだところで、待っているのは近い未来の滅亡だ」

 腕を組んでむっつりとアッシュが言う。

「そうでしたな。ティアもそう言っていた」

「そういえば、ティアはどこに……? 姿が見えませんわ」

 ナタリアが問うと、テオドーロは憔悴した顔を上げた。

「シェリダン崩落の報を受けてすぐに、シティを飛び出していきました。もしもヴァンの計画の亡霊が蠢いているのなら、なんとしても阻止せねばならないと……」

「我々とは行き違いになったようですね」

 軽く肩をすくめてジェイドが言う。「ヴァンの亡霊、か……」とアッシュが呟いた。

「確かに、キムラスカで投獄中のリグレットや生死不明のアリエッタはともかく、ラルゴやシンクやディストの野郎の行方は知れねぇからな」

 ナタリアがハッと表情を強張らせる。

「その話なのですが……。実は先日、アッシュがバチカルを発った後で、リグレットが収容所から脱獄しました」

「なんだと!?」

「その報せも送った筈でしたが、この騒ぎで届かなかったのですわね」

「キムラスカの失態ですね」

 ジェイドが言った。ナタリアは悔しげに唇を噛み、しかし大人しくこうべを垂れる。

「返す言葉もありませんわ……」

「リグレットの脱獄、地核の大振動、崩落……。やはり、これらの事象は裏で一繋がりになっていると見るべきでしょうね」

「ヴァン……。やはりあいつ、生きていやがるのか……」

「お待ちになって! ヴァンが生きているとは、どういうことなのです!」

 アッシュの言葉を聞いて顔色を変えたナタリアに向かって、ジェイドが調子を変えずに言った。

「簡単なことです。我々はヴァンが地核に落ちる様子を見ましたが、死体を確認した訳ではない。何らかの方法で彼は生き延び、再び行動を開始した……そういうことでしょう」

 テオドーロが複雑な表情で呻きをあげる。

「ヴァンが生きている……? ではヴァンは、本当に外殻を落とし、星の記憶を消して、この星の全ての命をレプリカと替えるつもりなのか……」

「そんなこと、断じてさせるわけには参りません!」

 こぶしを握ると、ナタリアは席から立ち上がった。

「……そうですな。我々は監視者だが、世界を滅亡に導きたいわけではない。ユリアの言葉に背くことは恐ろしいが……導師イオンの意志に従い、我らも立ち向かわねばなりますまい」

「心強いお言葉ですわ」

 ナタリアが頷く。テオドーロはそれでも晴れぬ顔色をしていたが、ふと気付いたように話題を変えた。

「そういえば、ガイ殿の調子は宜しいのでしょうか。随分と顔色が優れない様子でしたが」

 ナタリアは戸惑った顔をし、アッシュは黙り込む。しかしジェイドは変わらぬ様子でこう言った。

「大丈夫でしょう。お気になさることはありません。……ただの気鬱ですから」




 ユリアシティには出入り口が二つある。

 一つは、中央監視施設の奥に設置された、遥か三万メートル上空の外殻大地へと繋がる転送の譜陣、ユリアロード。もう一つは障気の海へ向けて開いた港だが、普段は厚いシャッターで厳重に閉ざされ、まれに調査船が出入港する以外に使われることはない。

 その港に今、外殻から崩落の穴を通って舞い降りた飛晃艇アルビオールは停泊していた。



 軽い圧搾音をたてて開いた扉をくぐり、ルークは機室キャビンに踏み込んだ。

「これ、ここに置いていいかな?」

 腕に抱えた荷物を示して言うと、パネルを外した操縦席の脇の隙間に突っ込んでいた頭を出して、青いパイロットスーツを着込んだ銀髪の青年が朗らかに頷く。

「ええ。ありがとうございます」

「アルビオールの整備も大変だな。俺がもっと手伝えればいいんだけど……」

 近づいて、ルークは作業を覗き込むようにする。複雑な配線や回路から成る音機関の煌きは、ルークには理解不能のものだ。

「そんなことありませんよ。これもおいらの仕事のうちですから」

「だけど、ギンジはずっと操縦もしてるだろ。寄港している間くらい、休んでた方がいいんじゃないか?」

「休息は、隙を見てちゃんととっています。……今は、身体を動かしてた方が楽なんですよ」

「あ……」

 ルークは口をつぐむ。

 アルビオールはシェリダンで開発された。専属操縦士であるギンジも、その街の住人だ。

 シェリダンは崩落した。完全に消失したのだ。本来ならば、外殻大地の下にはパッセージリングが生み出す薄い膜のような力場、ディバイディングラインがある。セフィロトツリーが消失したとしても、その力場に支えられ、数週間ほどなら耐えうるはずであった。しかし、現実には崩落は一瞬だった。

(俺が消しちまった、アクゼリュスと同じように……)

 ディバイディングラインの消失。ラーデシア大陸一帯を支えていたのはメジオラ高原にあったはずのパッセージリングだが、それが完全に停止していたということになる。

 メジオラ高原のセフィロトの入口は、ダアト式封咒で閉ざされたままだったはずだ。何らかの方法でそれを開けたのか。或いは――地核から、直接リングを破壊したのか。

師匠せんせい……)

 ヴァンが生きている。地核の中で、第七音素セブンスフォニムの意識集合体であるローレライを取り込んで。その可能性をガイが述べた後、ラーデシア大陸崩落の報を聞いて、以上の推測を示してくれたのはジェイドだ。

「――は格段にアップしているんですよ」

「え?」

 ハッとしてルークは意識を浮上させる。ギンジが何か話しかけていた。

「ご、ごめん。聞いてなかった」

 大げさなほどあたふたと謝る様子に柔らかい苦笑を見せて、ギンジは「アルビオールの性能の話ですよ」と言う。

「みんなで手を入れたんです。ナタリア殿下が、国際預言会議の為に正式にアルビオールを使いたいって文書で通達してこられて。爺さんたちも随分と張り切ったんですよ。……何が生き残る理由になるかなんて分からないものですね。殿下を乗せて飛んでいたから、おいらはこうして息をしている」

「……っ」

 漏れた息の震えに気づいたのか、手元に落としていた視線を上げて、ギンジはもう一度、困ったように笑った。

「そんな顔をしないで下さい。おいらは大丈夫ですよ」

「だ、だけど……」

「これ以上崩落なんて起こさせないために……。妹や、爺さんたちの分も、おいらが頑張らなくてどうするんですか」

 再び機器の間を覗き込んで手を動かし始める。一心不乱の様子に何をすることも言うことも出来ず、ルークはそっと機室キャビンから外に出た。




 タラップを踏んで港に降りると、閉ざされたシャッターに面した突端に、座り込んでいる若者の背中が見えた。見慣れた姿であるはずだ。しかし、幾分背を丸めた影は、まるで見知らぬ誰かのもののようにも思える。ルークの知る限り、彼はいつでも背筋を伸ばし、朗らかな笑みを浮かべているものだったから。

「ガイ……」

 近づいて呼びかけたが、反応を示さなかった。普段なら率先して動き、アルビオールの整備も嬉々として手伝っていたものだろうに。

 数瞬迷い、それでも胸を反らしてぎこちなく笑みを浮かべてみせると、ルークはからかう響きで声を続けた。

「……しょーがねぇなあ。お前が落ち込んでどーすんだよ」

 反応はない。

「ガ、ガイ!」

 ビクリと肩を震わせて、ガイは顔を上げるとルークに視線を巡らせた。

「あ、ル、ルークか。すまん、ボーッとしてた」

 柔らかく浮かべた笑みを向けてくる。

「心配かけちまったか? ごめんな。だけど、もう大丈夫だ。少し気分が悪くなってただけだから。はは、寝不足だったかな」

「ガイ……」

「お前も、こっちに残らないで、みんなと一緒にテオドーロ市長の話を聞きに行ってよかったんだぞ。ティアにも逢えるだろうし。今からでも……」

「……もういい!」

「ルーク……?」

 無意識に下げていた視線を上げて、ガイはルークを見た。白い上着の裾をなびかせて、市街の方へ駆け去っていく後ろ姿が見える。

「あいつ、なに癇癪起こしてるんだ……?」

 首を捻り、しかしガイは再び己の足元に視線を落とした。

「くそ……」

 手を握り締める。強く。

「くそ!!」

 ダン、とそのこぶしを床に叩きつけた。自分の膝に顔を伏せる。

(俺の、せいだ……)

 脳裏に浮かんだのは、先ほど謝った際のギンジの困惑した顔だ。

 そう。ガイは何もしていない。崩落を実行したわけでも、手引きしたわけですらない。

(だが、俺は知っていた)

 ヴァンが地核で生きていること。再び暗躍を始めるだろうことを。その行動を予測し、阻止できて然るべきだったはずなのに。

 何より。

(『前』は、こんなことは起こらなかった)

 こんな――途方もない惨劇は。

 シェリダンは滅んだ。あの都市に生きていた八万人が、一瞬で命を奪われた。八万人……。アクゼリュスの比ではない。八倍だ。出稼ぎの鉱夫たちが主だったあの鉱山都市とは違い、女性や老人、子供の数も多かった。

 

『妹は、ノエルって言うんです。しっかりしてて、おいらの方がよく説教されてしまうんですけど』

 

 とうとう『今回』は顔を合わせないままに終わった、理知と優しさを併せ持った旧知の顔を思い浮かべた。

 本来なら、シェリダンは崩落などしなかった。ノエルも死にはしなかった。エルドラントへの突入作戦を成功させ、生きて帰り。十年の後には、愛する伴侶を得、子供たちに囲まれて。少なくとも障気が新たに世界を侵す前までは、幸せな未来が確かにそこに約束されていたのだ。

(それを……)

 ノエルだけではない。八万人分の未来を。彼らが生み出すはずだった途方もない数の命を。

 救えたつもりでいた。神託の盾オラクルの襲撃で死ぬはずだった、イエモン、タマラ、多くの街の技師たち。だが……。

(俺は、何をした?)

 本来は死なないはずだった人々。生きて未来に繋がっていくはずだった命。

「俺が……」

 噛み締めていた唇から吐き落とす。

「俺が、殺した!」

 

 いつか見た黄金きんの焔の揺らめきが、固く閉じたまぶたの裏を掠め過ぎた気がする。




 港から市街へ続く通路の途中でルークは足を止めた。荒く息を吐く足元で、律儀に付いて来た青いチーグルが不安げな目で見上げている。

「ご主人様……」

 ぐっとつばを飲み、ルークは息を整える。腕で隠すように目元を押さえた。

「ガイは、俺には何も言う気がねぇんだ」

 本当の腹の底を、ガイは決して言おうとはしない。ルークをあてにはしていない。

 押さえた腕の下で顔が歪んだ。

「俺は……。必要じゃない」








 これからどう動くかという話になった時、真っ先にダアトへ行くことを口にしたのはナタリアだった。

 厳密には、『本来なら、国際預言スコア会議のためにイオンに相談に行く予定だったのですが……』と彼女が呟いたのを受けて、『では、ダアトへ行きましょう』とジェイドが決めたのだが。『ですが、世界のこの状況では、国際会議の開催は難しいのではありませんか』と訝しんだナタリアに、『無論、そうです。崩落の阻止が最優先課題となる』と彼は頷いた。

『ヴァンは今、地核にいる。恐らくはローレライを取り込んで。セフィロトを操作するなど容易い筈です。しかし、我々は現時点でその手段すら持たない。シェリダンが消失した以上、新たに振動中和装置を作るのは難しいでしょうし、再設置できたとしても再び破壊されるだけでしょうね。――だからこそイオン様と、そしてティアの力が必要になります』

『大佐。それは、まさか』

『ええ。イオン様にセフィロトの扉を開いていただき、ティアにはパッセージリングを起動してもらう。そうして、全外殻を魔界クリフォトに降下させます。

 恐らく、ヴァンは全外殻を一度に崩落させようとはしないでしょう。彼の目的は全世界をレプリカと入れ替えることで、全ての大地が消失しては、その作業も難しくなります。ラーデシア大陸を崩落させたのは、人々の心に恐怖と不安を植え付け、それによって目を逸らし、作業を行い易くするために過ぎない。しかし、それが我々の付け入る隙ともなるはずです』

『だが、魔界は障気に満ち、液状化した泥の海。外殻を降ろしたところで、地核が振動を続けるならいずれパッセージリングは機能を停止し、そうなればディバイディングラインすらも消失し、大地は泥に呑まれるだろう』

 テオドーロはそう言ったが、『いいえ』とナタリアは首を振った。

『大佐の言う通りですわ。それでも、いつ訪れるのか分からない崩落に怯え、翻弄され続けるよりは良い筈です。外殻を降ろし、一方で地核の振動を止め、障気を抑える方法を見つけることが出来れば』

『プラネットストームが地核の振動を助長しているという説もあります。機構を停止させるのも手段の一つですが、生憎、我々にはそれを操作するための”ローレライの鍵”がない』

『ユリアがプラネットストームの再構築に用いたという、伝説の譜術武器ですな。二千年前に、ユリアが地核に流したと伝わっていますが……』

 ジェイドの言葉に続いたテオドーロの声が途切れた後で、アッシュが口を開く。

『……地核を揺らすのはローレライだ。そして今はヴァンに取り込まれている。奴を地核から引きずり出し、倒す! そうすれば全てが解決するはずだ』

『そう単純に事が運ぶかどうかは分かりませんが、とにかく、今は我々に出来ることを成すだけです』

『そうですわね。それぞれが、自分の出来ることをやらなければ』

 そして一行はアルビオールに乗り、ダアトへ飛んだ。導師イオンはそこにいる。また、ユリアロードを使ったティアは、ダアトに程近いアラミス湧水洞に出たはずで、情報を集めるためにも教団本部に立ち寄る可能性が高いだろう。



「――ッシュ?」

 呼び声に引き戻されたように、アッシュは顔を上げて茫としかけていた表情を引き締めた。

「どうしましたの? ぼんやりして……。どこか具合でも悪いのですか」

「いや。なんでもない。行くぞ、ナタリア」

 いつの間にか最後尾になっていた。アッシュはナタリアを促して歩き出す。見上げれば、長い階段の上に聳え立つ、教会の巨大な尖塔があった。

 ローレライ教団総本山ダアト。七年間をその陰に隠れ住んだ、彼にとって忌まわしくも懐かしい、第二の故郷だ。




 導師守護役フォンマスターガーディアンは、その名の通り、導師を守護する特殊部隊だ。女性兵のみ、それも(事実上)歳若く見目麗しい者が選ばれる親衛隊で、一定時期で交代する。通常であれば三十名ほどで編成されるが、二年前に再編成されて以降、前大詠師モースの指示により大幅に人数が減らされ、現在では半分にも満たない。

「こちらです」

 その導師守護役の一人に案内されて、一同は教会の内部をイオンの私室へ向けて進んでいた。導師の私室へ外部の人間が入るのは珍しいことだが、イオンが彼らを友人として扱い、堅苦しい手続きを排して迅速に話を進める計らいをしてくれた結果である。

 イオンの私室は、特殊な譜陣によってのみ到達できる階層の、更に奥にあった。

「導師イオン。お客様をお連れしました」

 ノックして、導師守護役の少女は室内に告げる。しかし応えは返らず、代わりに、厚い扉の向こうから何かを叫ぶような声と騒音が聞こえた。

「イオン様っ!?」

 顔色を変えて少女は扉を開けた。が、飛び込もうとした刹那に光弾に撃たれ、仰のけ様に床に転がる。たちまち走った緊張の中、それぞれの武器に手をやってガイたちは室内を見た。簡素ながら質の良い執務机や応接セット。それらの位置がてんでに歪み、上に載っていたものが床に散乱している。だが、それら以上に目を引くのは、不気味可愛い顔のヌイグルミだ。照明に頭をぶつけそうなほど膨らんだそれにアニスが乗り、背でイオンを隠すようにして金の髪を結った女と対峙していた。

「リグレットか!」

 アッシュの声を聞いて、女はチラリとこちらに視線を走らせる。直後に音素フォニムの輝きをまとわりつかせて飛んだ槍をバックステップで避け、二挺の譜銃から連続して光弾を撃ち放った。戸口に固まっていた一団のある者はそれを避け、ある者は剣で四散させる。その隙にリグレットは窓枠に上り、後ろ手でガラス戸を開け放った。室内に流れ込んだ風が、人々の髪や衣服をなびかせる。

「待ちやがれ! リグレット!」

「あと少しで導師を連れ出せたのだが。分が悪くなったようだな」

 アッシュの声に応えるように彼女がそう言った時、ガイが強い目で訊ねた。

「ヴァンは生きているのか?」

「……『預言スコアは絶対のものではない』」

「――!?」

 その言葉に覚えた違和感の正体を掴む間もなく。リグレットはガイの後方にいたルークに白々とした目を向ける。

「哀れなものだな。元々コマとして作られたとは言え、己の運命を知る権利すら奪われるとは」

「え?」

「天は、我らにこそ味方している」

 そう言い残すと、リグレットは背中から宙に身を投げた。その姿は下方に消え、しかし上昇してきた飛行魔物グリフィンと共に再び窓の向こうに現れると、見る間に遠ざかっていく。

「逃げられましたか」

 手の中の槍を霧散させ、蒼穹に消える影を見ながらジェイドが言った。その足元で導師守護役の少女に癒しの光を当てていたナタリアが立ち上がり、アニスの方へ行こうとして、アッシュの傍で眉を曇らせて足を止める。

「アッシュ? 本当に具合が悪いのではありませんか?」

 さしたる立ち回りがあったわけではない。なのに、耳に届いた呼気が僅かながら荒いように思える。

「……なんでもねぇ」

 しかしアッシュはそう言うと、腰に剣を収めて背を向けた。「てめぇも、なに辛気臭い顔してやがる!」とルークを怒鳴りつけている。

「大丈夫か、アニス。イオンも」

 ガイは二人に声をかけた。

「はい、僕は大丈夫です。アニスが守ってくれましたから」

 イオンが微笑む一方で、アニスは「信じらんない! もー、マジしつこい! ウザッ!」と憤慨している。

「もう教団の体制だって変わってるのに、まーだイオン様を狙ってくるなんて!」

「それだけ、彼らにとっても導師のお力は魅力的なのでしょう」

「それは分かりますけどぉ! でも、今更イオン様を誘拐したって、どうしようもないじゃないですか」

「新生ローレライ教団でも作る気なのかもな」

 ジェイドに続いてガイが呟くと、虚を突かれた顔をアニスは作った。その手を取って、ナタリアが血の滲んだ箇所に癒しの光を当てている。

「教団をホントに分裂させるってこと? 確かに、モースの考えそうなことだけど。イオン様が新しい教団を作ろうとしてるって時に、邪魔すんなっちゅーの!」

「アニス、じっとして」

「ちょっと待て。モースの野郎がなんだと?」

 アッシュが口を挟み、アニスは小首を傾げた。

「ほえ? みんな、そのことで来たんじゃないの?」

「昨日、モースは収容所から姿を消したんです。施設は破壊され、島にいた教団員は殆どが殺されました」

 イオンが説明する。

「生き残った者の証言によれば、巨大な譜業兵器が襲ってきたと……」

「ディストですね」

 ジェイドが言い、幾分んだように息を落とした。イオンが言う。

「六神将がヴァンの遺志を継ぐべく行動を開始し、モースを助けた……と僕たちは考えていたのですが、先程の話を聞く限り、ヴァンは生きているのですね」

「そう考えられる。いや、リグレットの態度を見る限り、間違いねぇだろうな」

 アッシュが答え、アニスが表情を暗くした。

「総長が生きてる……。それじゃ、シェリダンが消えちゃったのも、やっぱり!」

「ええ。彼の意思によるものでしょう。外殻崩落の阻止は難しい。その前に、我々の手で緩やかな外殻降下を行う必要があります」

「では、ダアト式封咒を解呪して、セフィロトを開放しなければなりませんね」

 ジェイドに向けられたイオンの声を聞いて、アニスが顔色を変える。

「イオン様! 教団を離れるのは危険ですよぅ。ダアト式譜術はお体に悪いですし」

「教団にいても六神将は襲ってきます。それに、これは僕にしか出来ない仕事ですから」

「うぅ〜……」

「しかし教団は今、預言に関する方針を変えたばかりで騎士団も再編中だ。イオンが離れて大丈夫か?」

 確かめてくるガイに「ありがとうございます」と微笑んで、それでもイオンは強い意思を見せた。

「確かに、導師としては僕は今教団を離れるべきではないのでしょう。ですが、やらせて下さい。教団の留守中のことは、詠師トリトハイムに任せたいと思います」

「はぁ〜〜……。もう、分かりましたよぅ〜。その代わり、私もご一緒しますからね! 放っておくと、イオン様はすぐ無理をなさるんですから」

「ありがとう、アニス。いつも面倒をかけますね。あなたが来てくれて心強いです」

 アニスに向かい、イオンは柔らかな微笑みを浮かべる。

「ところで、ティアがこちらを訪ねて参りませんでしたか?」

「ティア? うん。二、三日前に来たけど」

 アニスがナタリアに答えている一方で、イオンはふとルークの顔に目を留め、僅かに眉を曇らせていた。見られていることに気付きもせず、彼は暗く表情を沈め続けている。

「信者の間に、次はルグニカ大陸が崩落するって噂が流れてて……。それを聞いて、絶対阻止するって飛び出して行っちゃったんだよ。高速船に乗ったみたいだから、そろそろ向こうに着く頃なんじゃないかなぁ」

「よし、俺たちも行こうぜ」

 ガイが促した。性急に歩き出す。

「ルーク。僕たちも行きましょう」

「あ、ああ」

 イオンに声をかけられ、ルークも顔を上げると、仲間たちの後を歩き始めた。








「では、地盤沈下は実際に起きているのですね」

「はい。主に東ルグニカ平野――以前と同じ範囲で確認されています。まだ危険と言えるほどの状況ではありませんが、ラーデシア大陸の件もありますし、陛下の指示で首都への住民の避難を開始したところで」

 周囲に豊かな農場の広がる緑の村。その広場で、ジェイドが銀髪の若い将校に話を聞いている。

「分かりました。では我々はシュレーの丘のセフィロトへ向かうことにします」

「そちらはお願いします。住民の避難に関しては、我々にお任せ下さい」

 そう言った銀髪の将校に、傍らに立っていた恰幅のいい年配の女性が「ありがとうございます、フリングス少将」と頭を下げている。彼女が村の代表らしい。女性と将校が連れ立って去っていった後姿を見送って、アニスが身をくねらせてはしゃいだ。

「はわ〜♥ フリングス将軍って、”買い”じゃないですかぁ? イケメンだし、全然偉ぶらないし、結構お金持ちそうだし♥」

「そうですねぇ。資産はそれなりだと思いますが、ちょっと遅かったですね」

「はぅあ! 売約済み? う〜、アニスちゃんガッカリ」

 アニスは肩を落とすポーズをとっている。

 その様子を含めた周囲の情景を見回していたルークは、近付いて来たガイに笑われて僅かに表情を曇らせた。

「どうした、ルーク。そんなに物珍しそうな顔をして。まるで初めてここに来たみたいだぞ」

「ホントに初めて来たんだから、しょーがねぇだろ」

「ん? ……ああ、そうだったか」

 マルクト帝国領エンゲーブ。ルグニカ大陸中央部近くに位置する農業都市で、『食料の村』という通称でも知られている。その名の通り、豊富に産出される農作物と畜産物はマルクトのみならずキムラスカやダアトにも輸出され、もはやブランドとして認識されているのだ。一説には、世界中の人間の半数の胃袋をこの村の食料が満たしていると言われるほどである。

「もう連れて行ったことがある気になっちまってたな。今はこんな状況だが、普段はのんびりして、落ち着いた感じのいい村なんだぜ」

「ええ。僕も以前、親書を受け取るために滞在したことがありますが、みなさんよくして下さいました」

「ふーん……」

 気のない相槌をルークは返した。そんな彼らから離れ、小さな石橋の上にアッシュは一人で立っている。広場の外側を流れる用水路に架かったものだ。

「避難がスムーズに進んでいて、よかったですわね」

 ナタリアが近付いてくる。

「ああ。今回は前例があるからな。流石に、マルクトの議会の石頭たちも承認せざるを得なかったんだろう」

「避難先のグランコクマは大丈夫でしょうか……」

「ガ、……聞いた話だと、あの辺りは崩落しづらいらしい。それでも、時間の問題だろうがな」

「急がなければなりませんわね」

 瞳に強い光を込めて言ったナタリアが、アッシュの顔を見てそれを翳らせた。

「アッシュ」

「なんだ」

「本当に無理をしているのではありませんの?」

「……無理などしていない」

「そうでしょうか。――ねえアッシュ、わたくしには何も隠さないでいて欲しいのです。わたくしは」

「何も隠してなんざいねぇ。お前の取り越し苦労だ」

 遮るように言ってアッシュが半ば顔を背けた時、村の奥側の道から誰かが声をあげた。

「ルークさん! ルークさんじゃないですか」

 見れば、避難民なのだろう、両手に荷物を持った男が近付いてくる。中年だが、随分と体格がいい。その傍には、同じように荷物を持った小柄な女性が従っていた。思い出せない顔に親しげに呼びかけられてアッシュの眉間にしわが寄ったが、ナタリアは目を丸くして声をあげる。

「まあ、あなたは……。確かパイロープさんでしたわね」

「はい。ルークさん、ナタリア殿下も。アクゼリュスではお世話になりました」

 頭を下げてくる男から顔を背け、「俺じゃねぇ」とすげなくアッシュは言った。

「は?」

「人違いだ。お前が用があるのは、あっちの馬鹿の方だろう」

 己の肩越しにルークを示し、アッシュは上着の裾を翻すとパイロープの脇を通って奥へ歩いて行く。

「そこにいるのはパイロープ殿ですね」

 声を聞きつけたのだろう、入れ替わるようにイオンが近付いてきた。背後にはガイとルークも従っている。

「これは、導師イオン! またお会いできて光栄です」

「お元気そうでなによりです。そちらの方は……」

「ああ。こいつは自分の女房で……」

 パイロープが顔を向けると小柄な女性は頭を下げ、「ミリアムです」と名乗って微笑んだ。

「アクゼリュスでは本当にありがとうございました。キムラスカの使節団の方々が来てくださらなかったら、今頃主人は、街と一緒に消えてしまっていたでしょうから……」

 それを聞くイオンの表情が曇る。数瞬迷い、やがて重い口を開いた。

「……あの。ジョンのことは……」

 たちまち、パイロープとミリアムの顔が強張る。それでも笑って、パイロープは言った。

「すみません、導師にまでご心配をおかけしちまって」

「息子さんは、アクゼリュスからの避難の途中で姿が見えなくなったのでしたわね。結局、あのまま……?」

 詳しい事情を知らないナタリアが眉を曇らせて問いかける。「はい」と頷いてパイロープは言った。

「捜索隊も出してもらいましたが、見つからねぇままで……。何かの用事で一人で街に戻って、そのまま崩落に巻き込まれちまったんでしょう。皆さんにも散々迷惑をおかけして、……本当に。……どうしようもない、馬鹿な奴でさぁ」

「いいえ、違うんです」

 イオンは首を左右に振る。

「僕が……。僕がもっとしっかりしていれば」

「イオンのせいじゃない!」

 強い声がかぶさった。「ルーク?」と、ナタリアが戸惑った目で幼なじみを見つめる。

「俺のせいだ。ジョンが……アクゼリュスがあんなことになっちまったのは。俺がっ」

「避難の方々はそろそろ出発の時間ですよ。集合場所へ行っていただかないと」

 叫びかけたルークの声は、割り入った穏やかな声に遮られた。ジェイドが歩み寄ってくる。

「カーティス大佐。大佐にも、お世話になりました」

「いいえ、お気になさらずに。これも仕事ですから」

 すげなく言うと、「息子さんのことは残念でしたね」と話しかける。

「ですが、あなたは生き残った。……息子さんの分も、ご夫婦で生き抜かねば」

「………はい。そうですね……」

 ルークはまだ何か言いたげにしていたが、静かに頷いたパイロープの様子を見て口をつぐんだ。その様子を見上げて、ミュウが足元で「みゅう……」と小さな声をあげる。

「あら、そのチーグル……」

 鳴き声に顔を向けて、ミリアムが目を丸くした。

「まあ。息子が飼っていたチーグルですわ。父ちゃんに見せてやるんだって、アクゼリュスまで連れて行った……」

 ミリアムは手を伸ばしたが、ミュウは逃げてルークの背によじ登る。

「あ、こいつは……」

 肩まで登ってきて首にしがみついてくる様子に、ルークが決まり悪そうな顔をすると、ミリアムは笑って手を引いた。

「可愛がって下さっているんですね」

「……」

「いいんです。ルークさんたちには本当にお世話になったと主人から聞きました。あの子も、きっと喜ぶだろうと思います」

 ルークは何かを言おうとする。だが、言葉にはならなかった。その様子には気付かないまま、微笑みを浮かべてミュウを見つめて、ミリアムはふと口を開く。

「そういえば、近頃はチーグルも滅多に見かけなくなりましたわね」

 ミュウが顔を上げ、長い耳を揺らした。

「以前この村に来た時は、チーグルが村の食料を盗んでいるという話でしたが」

「ええ。ですが最近はそれもなくなりました。この村から出て北の方角にある森にチーグルの巣があるんですが、今ではそこにいるのはライガばかりで」

 イオンの問いにミリアムは答える。「近々、軍に討伐隊を組んでもらうって話だったんだがなぁ」とパイロープが言った。

「この辺り一帯が崩落するのなら、あの森も消えてしまうんでしょうね」

 ミリアムがそう言った時、村の出入り口の方からマルクト兵の呼ぶ声が聞こえた。

「おい、避難する者は集まれ! 出発するぞ!」

「ああ、いけねぇ。それじゃみなさん、自分たちはこれで」

 それぞれに頭を下げると、夫婦は荷物を抱えて去っていく。

「……そんなに気にするなよ、ルーク」

 夫婦の姿が見えなくなると、ガイが幾分丸くなったルークの背を叩いて言った。

「だけど、ジョンが死んだのは俺のせいなのに……。……謝ることも出来なかった」

「ジョンのことは、お前のせいじゃないだろう。あの子を斬ったのはヴァンだ」

「それでも、俺が超振動を暴走させなければ。アクゼリュスを落とさなかったら、治療して、助けられたかもしれない!」

「ルーク……」

 眉を曇らせてイオンが呼びかける。ジェイドが普段と変わらぬ口調で言った。

「謝罪して罪悪感を解消したいと思うのはご自由ですが。ここがマルクト帝国だということを忘れないで下さい」

「おい、ジェイド」

 咎めるガイには構わずに、「キムラスカの親善大使がアクゼリュスを落とし、子供が犠牲になった。そんなことが知れ渡ったら、どうなるとお思いですか?」と続ける。

「下手をすれば、折角結ばれた和平が無為になります。今は余計な騒乱を起こしている時ではありません」

 ルークは黙っていた。ややあって、「……そうだな」と呟く。

「自分の感傷なんて関係ない。……今は、やるべきことをやるしかないんだ」

(俺に何が出来るのかなんて。出来ることがあるのかさえ、分からないけど)

「みゅうぅう……」

 首にしがみついているミュウが、そわそわと耳を揺らしていた。

「ん? どうしたんだ、ミュウ」

「ボク……森が心配ですの」

 ミュウは言う。北の方角に丸い目を向けた。

「そうか……。チーグルの森は、ミュウの故郷だったな」と、ガイは言う。

「はいですの。長老も、みんなもいるですの」

「このままじゃ、チーグルたちも崩落に巻き込まれるかもしれないんだな」

 ルークは呟く。仲間たちに目を向けた。

「なあ。まだ少し時間があるだろ。チーグルたちも避難させてやらないか?」

「ルーク……?」

 仲間たちは驚いた顔をする。背後から「馬鹿かお前は!」と罵倒が聞こえた。戻ってきたアッシュが睨みつけている。

「チーグルを救うだぁ? 何を言ってやがる、くだらねぇ。俺に……俺たちに、そんな時間はねぇんだ!」

「だったら、俺だけ残るんでもいい! みんなは先にシュレーの丘へ行ってくれよ。……どうせ、俺にそこで出来ることなんてないんだし」

「貴様……!」

「よせ、アッシュ」

 ルークの胸倉を掴もうとしたアッシュをガイが止めた。険しい目でルークを見る。

「だがルーク、俺も反対だ。チーグルの森へ行くのも、お前一人が別行動するのも」

「ガイ……」

「今は時間がない。少しでも早く外殻降下作業を行うべきだ。でなければまた、死ななくていいはずの命が……死ぬ」

「っ。でも、俺は……!」

「……そうですわね。ミュウはわたくしたちの仲間なんですもの」

 凛とした声が聞こえた。

「ミュウの仲間の危機を、放ってはおくことはできませんわ」

「ナタリア」

 ルークの視線を受けて彼女は微笑む。

「それに、森にはライガが沢山いるのでしょう。ルーク一人で行くのは危険すぎます。わたくしも参りますわ」

「僕も行かせて下さい」

 次に口を開いたのはイオンだった。「イオン様!? なに言ってるんですか」とアニスが目を剥いている。

「チーグルはローレライ教団の聖獣です。導師として、見捨てることは出来ません。それに、僕は以前チーグルの森へ行って、結局何も出来ずに帰りました。今度こそ確かめたいんです。チーグルたちに何が起こっているのかを」

 ややあって。

「……もぉ〜、言い出したらきかないんですからぁ〜」

 アニスが肩を落とした。アッシュは舌を打ち、ジェイドは息を落とすと眼鏡を押し上げる。

「仕方ありませんね。手早く済ませて次へ進みますよ」

「みんな、ありがとう!」

 ルークの表情が明るく輝いた。その肩で、ミュウも大きな目をキラキラさせて「ありがとうですの、みなさん!」と感謝を叫んでいる。

「……」

 だが、ガイは黙っていた。

「ガイ……」

 ルークの視線に気付くと目を上げ、気まずそうに、それでも繕った笑みを浮かべる。

「そうだな。チーグルの避難なんて、ミュウが仲間にいる俺たちにしか出来ないことだろうし。よし、そうと決まればさっさとやるぞ」

「……うん」

 ルークも笑みを繕うと頷く。歩き出しながら、そっと目を伏せた。








 俗に『チーグルの森』と呼ばれるその森は、東ルグニカ平野の北部にある。人の手の殆ど入らぬそこには苔むした巨木が生い茂り、中央に位置する『チーグルの木』は、森の外からもはっきりそれと分かるほどに巨大である。巨木といえば、城砦都市セントビナーの中心に立つ樹齢二千年とされるソイルの木が有名だが、それに匹敵するほどの大きさだ。

 チーグル族の巣は、その巨木の幹に開いたうろの中にあると言う。ミュウの案内で踏み込むと、複数のチーグルが侵入を押しとどめようとするように群れ集まってきた。だが、その数はさほど多くはない。奥からしわがれた鳴き声が響き、見るからに年を取った一匹のチーグルが現れた。

「みゅう、みゅみゅうみゅうみゅみゅう」

「長老……。はいですの。ミュウは追放されたから、帰ってきちゃいけなかったですの。ごめんなさいですの……」

 ミュウは耳を垂らして震え、うなだれる。周囲のチーグルたちが騒々しく鳴いた。「な、何? どうしたの?」とアニスが辺りを見回す。

「みんな、ボクのこと怒ってるですの。ボクのせいでみんなライガに食べられてしまったって……」

「まさか、チーグルの数がやけに少ないのは、みんな食われちまったからなのか?」

 ガイもまた洞の中を見回して、愕然とした声を落とした。「一体何故そんなことに……」とイオンが呟く。

「みゅう、みゅみゅう」

「は、はいですの。分かりましたの」

 ミュウは長老に駆け寄り、その前にうつ伏せに寝転んだ。ミュウが装備している金色の腕輪に片手を触れ、長老は人間の言葉で喋り始める。

「人間たちよ。何故ここを訪れた。このミュウは一族を追放された身。二度と森へ戻ることは許されぬ。そのミュウと共に禁忌を犯し、我らの暮らしを脅かそうと言うのか」

「ち、違いますの!」

 寝転んだままミュウが言ったが、長老は人間たちを見ている。一歩進み出て、静かにイオンが言った。

「私はローレライ教団の導師イオン。我が教団の始祖ユリアがチーグル族と交わした約束を果たすために参りました」

「おお……お前たちはユリア・ジュエの縁者か」

「はい。助けを必要とする際には、必ずチーグル族に力を貸す。それがユリアの遺言ですから」

「この森は、もうすぐ崩落しちまうかもしれないんだ。今すぐグランコクマまで避難しよう!」

 イオンの脇から前に出てルークが訴える。だが、長老は頭を左右に振った。

「それは出来ぬ」

「まあ、どうしてですの?」と、ナタリアが訊ねる。

「我らは二千年間この森で生きてきた。ここを離れては生きていけぬ。何より、今はここから離れることが出来ないのだ」

「どういうことですか」と、イオンが訊ねた。

「今、この森は繁殖したライガで溢れている。お前たちは無事にここまで入れたようだが、我らはもはや、他の魔物たちが嫌う花粉を出す、この木の周囲から離れることすら叶わぬ。離れれば、たちまちライガに連れさらわれ、食べられてしまうのだからな」

「うげ。それってシャレにならなさ過ぎ……」

「俺たちが何事もなくここまで来れたのは、警戒されていたのか、誘い込まれていたのか……。どちらにせよ、ただでは帰れそうにねぇな」

 アニスが呻く一方で、アッシュは腕を組んで眉間にしわを寄せている。ジェイドは顎に手を当てて考え込む仕草をした。

「しかし妙ですね。元々、ライガはこの辺りには生息していなかったはずです。そういえば、今年の初めに北ルグニカで森林火災がありましたが、その影響でしょうか」

「みゅうう……」

 うつ伏せたミュウが小さく鳴いている。チラリとそれを見やってから、長老は人間たちに顔を向けた。

「その森を焼いたのは、ミュウだ。森を焼かれ住処をなくしたライガたちは大挙してこの森に棲みつき、仔を産んだ」

 人間たちは黙り込む。代わるように、チーグルたちの間からはみゅーみゅーと声があがった。人の言葉でなくても分かる。ミュウへ向けての怒りと怨嗟の声だ。

「ライガたちは食料を求め、チーグルをさらっては食う。我らはライガと交渉し、人間の作った食料を届けることでそれを緩和していた。しかし……ライガの仔が増えた今となっては、到底間に合わぬ。この森に残ったチーグルは、もはやここにいる、これだけだ」

「それでエンゲーブから食料を盗んでいたんですね」

 イオンが得心の声を出し、眉を下げる。

「ライガって、アリエッタが連れてた、あのデカい魔物だろ」

 ルークが訊ねると、ジェイドが頷いた。

「そうです。強力な魔物ですが、加えて、幼獣は人肉を好みます。この森のチーグルを食べ尽くしたら、次はエンゲーブが襲われていたでしょうね」

「ミュウが悪いんですの。ボクがライガさんたちのお家を燃やしたから……」

「殺す……しか、ないのか」

「どちらにせよ、俺たちが生きてこの森を出るためには戦うことになるだろうな。俺は大人しく食われてやるつもりなんざねぇぞ」

 アッシュが言う。舌打ちし、「余計な面倒に巻き込みやがって」と吐き捨てたのを聞いて、ルークは顔を伏せた。

「そういう言い方はやめろ。提案したのはルークでも、俺たち全員が納得してここに来たんだからな」

 ガイがアッシュを睨み、ナタリアは生真面目に話を進める。

「そうですわ。そんなことよりも、ライガをどうするのかを考えましょう」

「ライガにも巣があるんでしょ。そこに乗り込んでぶっ潰すー、っていうのは?」

 いささか無謀な提案をアニスがした、その時だ。騒ぎが起こったのは。

 チーグルたちがざわめく。洞の外から「みゅーっ、みゅみゅーっ!」と激しい悲鳴が聞こえた。

「何だ!?」「ちいっ」

 ルークがハッとした一方で、アッシュは舌打ちすると外に飛び出す。追って飛び出た仲間たちが目にしたのは、数頭のライガと、それに襲われ、逃げ惑い噛み裂かれている無残なチーグルたちの姿だった。

「おお……ついにここまでライガたちがやって来たのか」

 並んで立つミュウのリングに触れながら、長老が震える声を落としている。

「うざってぇんだよ!」

 叫ぶと、アッシュは剣を抜いてライガに斬りかかった。

「閃光墜刃牙!」

 斬り上げて浮かし、連続した突きを見舞う。

「これ以上殺させるわけには、いかないんだ!」

 かぶりを振って剣を抜き、ルークもチーグルをくわえた別のライガに立ち向かった。仲間たちもそれぞれに武器を取る。

「真空破斬!」

 飛び掛ってくるライガに向かい、ガイは鞘から抜き放った剣で斬りつける。シグムント流が得意とする居合いの極意だ。血飛沫を上げてのけぞった巨体に追い討ちをかけようとした時、風を叩く翼の音が聞こえ、咄嗟に横に跳んだ。ダーツのように羽が地に突き刺さる。

「あの魔物は……!」

 長老たちと共に木の根元に固まっていたイオンが、宙を舞う蒼い巨鳥を見上げて言った。

「フレスベルグですわ。どうしてこのような所に……」

 弓に矢をつがえながら、ナタリアが不審そうな顔をする。あれだけ大きな鳥型魔物には、障害物の多い森の中は行動しづらい場所であるはずだ。事実、それ以上攻撃しようとはせずに上空を旋回している。一声、けたたましく鳴いた。戦っていたライガたちが顔を上げ、長い尾を揺らして藪を飛び越えると、木々の向こうへ駆け去っていく。

「撤退の通達――ということですか」

 ジェイドが呟いた。「追いかけるのか?」と訊いたルークに、「放っておく訳にはいかなくなったようですね」と小さく肩をすくめてみせる。ヌイグルミの背の上からアニスが促した。

「巣はあっちにあるんでしょ? 行こう!」

「ミュウも! ミュウも行きますの!」

 ミュウが叫ぶ。仲間たちは巨木の根元を返り見た。

「危険ですわ。ライガの巣ですのよ。イオンや長老と一緒に、ここでお待ちなさい」

「でも、行くですの。こんなことになったのは、ボクが、森を燃やしちゃったせいだから……。ボクが行かなきゃダメなんですの」

「ミュウ……」

 ルークはミュウを見つめる。その小さなチーグルを、イオンがそっと抱き上げた。

「そうですね。一緒に行きましょう、ミュウ」

「イオン様!? 駄目ですよぅ!」

「ごめんなさい、アニス。ですが、僕も確かめたいんです。それに、ミュウにはソーサラーリングがあります。ライガと交渉することも可能かもしれません」

「……行こうぜ。みんなで」

 ルークが言う。「はぁ〜。結局こうなるんだからぁー」と、アニスが肩を落とした。

「みゅー、みゅみゅうみゅう」

 長老がイオンの腕の中をミュウを見上げ、何事か鳴いて伝えている。頷き、ミュウは言った。

「はいですの、長老。行ってきますですの」




 ライガの巣は、枯れかけた巨木の根元のうろの奥にあった。チーグルの巣とは違い、地の底に潜っている。光苔でも生えているのか、ぼんやりと明るい巣の底に、ライガの女王がいた。ガイがルークに説明したところによれば、ライガは、一頭の強力な雌を中心に群れを形成するものなのだという。

 見上げるほどに巨大なその雌のライガは、全身の毛を逆立てて大きな尾を膨らませ、唸りを轟かせながら侵入者たちを睨んでいた。交渉どころではない。ここに入るまでにも何頭かのライガを倒していたから、当然なのだろうが。

「女王様……怒ってるですの。奥に子供が寝てるから、来るな、って」

 小刻みに震えながらミュウが言う。

「おかしいですね。今はライガの繁殖期ではないはずなのですが……」

「これ以上ライガを増やそうってのか。冗談じゃねぇ!」

 ジェイドは呟き、アッシュの手が剣の柄に触れた。呼応するように、女王が恐ろしげな声で咆哮する。ミュウが悲鳴をあげ、コロコロと後ろに転がった。小さな雷が発生し、バシバシと辺りに閃く。それに撃たれそうになったイオンを、咄嗟にアニスが身体で押しのけた。

「アニス!」

「くうっ……。イオン様は下がっててください!」

 顔を顰めながら言って、アニスは膨らんだヌイグルミの背に飛び乗る。他の仲間たちもそれぞれに武器を構え、最後にルークが剣を抜いた。

「来るぞ!」

 ガイが叫ぶ。女王が吐いた雷気の息をかわして散開し、戦いが始まった。

 ライガの女王は、流石に通常のライガよりも強力だ。牙や爪は鋭く、硬い毛皮は刃を阻む。――だが。

「大地の咆哮。は怒れる地龍の爪牙。――グランドダッシャー!」

 狭い巣の中では、巨大なライガは身軽には動き回れない。やがて完成したジェイドの譜術が放たれると、逃れる術もなく直撃を受けてズタズタになり、女王は肉の塊となって倒れ伏した。

 血の臭いが濃密に流れる。

「ルーク、大丈夫か?」

 足元のそれを黙って見つめるルークに、ガイが声をかけた。

「あ、ああ」

 顔を上げ、ルークは血を払って鞘に剣を収める。

「奥にまだ、仔ライガがいるはずだな」

 アッシュは剣を収めなかった。奥へ歩き出そうとする様子を見て、ルークが慌てた声を出す。

「ま、待てよ。何も子供まで殺しちまわないでもいいだろ?」

「はぁ? 馬鹿かお前は! 人間を食うのは仔ライガなんだぞ。それに、すぐに成獣する。くだらねぇ情に絡めとられるな! 禍根は予め断っとくべきだろうが!」

「……そうだな。生かしておけば、復讐しようとするかもしれない」

 ぼつりとガイが言った。小さな声だったが、アッシュはジロリと睨みつける。

「もーっ、そういう話じゃないでしょ。脱線反対!」

 アニスが両腕を振って喚いた。

「私たちの目的は、チーグルやエンゲーブの人たちをライガや崩落から守ることじゃん。それと、どうしてここにフレスベルグがいるかってこ――」

 言葉はそこで止まった。巣穴の奥に開いていた小さな穴。そこを潜って、数匹の仔ライガたちと一緒に、一人の少女が這い出してきたからだ。

「ママ……!」

 よれよれになったお化けのヌイグルミを抱いた少女は、手足に包帯らしきものを巻いていた。そこから覗き見える肌は、少し引きつれているように見える。まるで、重度の火傷か凍傷の治癒の跡のように。どこかおぼつかない足取りで肉塊と化した女王に近付くと、ペタリと血溜りに両膝を着いてすすり泣いた。

「ママ、ママぁ……。どうして? ひどいよ……」

「ママ?」と、ルークが困惑した顔をする。「彼女は人間ですわよね」とナタリアも戸惑いを漏らした。

「アリエッタはホド戦争で家族を失い、ライガに育てられたと聞いています」

 イオンが言う。「じゃあ、あのライガが……」と、ルークが目を見開いた。

「そう……。ライガママは、アリエッタを育ててくれたお母さん。今も、疲れてるアリエッタを守って、休ませてくれてた……優しいママ。そんなママを、どうして! どうして殺したの!」

「……、仕方ないでしょ。このままじゃみんな死んじゃうし、全然話聞こうともしなかったんだから」

「アニス。アニスがママを!」

 アニスに気付き、アリエッタの顔が憤怒に染まる。

「待って下さい、アリエッタ。アニスは、僕を守るために……」

「イオン様。どうしてアニスを庇うの? ……アニス、ばっかり。前は、アリエッタと一番にお話してくれてたのに。アニスが導師守護役フォンマスターガーディアンになってから。イオン様も、ママも、総長がアリエッタのために浮かべてくれたフェレス島も。みんな、みんなアリエッタの前からなくなっちゃう。……アニスがいるから。全部アニスがっ!」

 涙で顔をぐしゃぐしゃにしたアリエッタの激昂を見て、イオンは驚きと苦しみが入り混じったような顔をした。くっと唾を飲み、覚悟を決めたように何かを言い出そうとする。

「……聞いて下さい、アリエッタ。僕は」

 その時、ライガの巣の外壁が音を立てて内側に吹っ飛んだ。金属のアームで木の根をバキバキとへし折りながら、巨大な譜業兵器が入ってくる。

「ハーッハッハッハッハ! 咲き誇る美しき薔・薇、カイザーディストXX、推参ん!」

 お馴染みの声が響き、譜業兵器の丸いボディが開くと、唇を歪めて笑うディストの姿が現れた。

「またあなたですか。いつもながら、騒々しいですねぇ……」

 ジェイドが息を落とし、指でメガネのブリッジを押し上げている。

「おおっと! ジェイド、気の毒ですが、今はあなたに構っている暇はないのですよ。

 さあ、アリエッタ。迎えに来ました。あなたはまだ本調子ではない。魔物たちが付いていたとはいえ、アブソーブゲートからシルバーナ大陸まで、単身で凍った海を渡ったのですからね」

 アリエッタは屈むと、ライガの女王の肉片の中から牙を一本むしり取った。血の滴るそれを両手で掴み、仔ライガたちをまとわりつかせたまま、差し出された譜業兵器のアームの上に乗る。

「アリエッタ!」

 淡い朱の髪をなびかせ高く持ち上げられていく彼女を見上げて、イオンが呼んだ。少女は悲しげに顔を歪めて見下ろしてくる。

「イオン様……。イオン様と総長は、アリエッタの恩人。今は、アリエッタは総長のために戦います。――アニス」

 睨み付けられて、アニスはぐっと胸を反らすと睨み返した。

「アニスと、そこにいるアニスの仲間はママの仇。アリエッタは、お前たちを絶対に許さない。地の果てまで追いかけてでも……殺します! それで、イオン様は返してもらうンだから!」

「……受けて立ってあげるよ!」

 譜業兵器はアリエッタを連れて穴を潜り、去っていく。木々をへし折る音はしばらく続き、やがて遠ざかって消えていった。




「そうか……。ライガの女王は、死んだのか」

 長老のその声を聞いて、洞の中のチーグルたちは嬉しそうな声で鳴き交わした。

「ご苦労だったな、ミュウ。これでこの森のチーグルは救われるだろう」

「みゅう……。ボクは何も出来なかったですの……」

「お前がユリアの縁者たちを連れてきた。そしてライガの女王を倒したのだ」

 リングを中央に立て、向かい合ったミュウと共にそれに触れながら、静かに長老は言う。

「チーグル一匹が森の外で生きるのは難しい。森からの追放は、死罪に等しいものだった。だがお前は生き延び、こうして我らを救いに導いた。――ミュウよ。お前はあがないを果たしたのだ。犯した罪に、自らの手で決着をつけた。さあ、森に戻ってくるがいい」

 ルークたちはハッとしたが、ミュウは頭を横に振った。

「長老。ボク、戻らないですの」

「なぜだ?」

「そうだぜ、ミュウ」

 ルークが口を挟む。

「戻って来いって言われてるんだ。帰る場所があるんなら……必要とされてるんなら、そこに帰った方がいいよ」

 それでも、ミュウは頭を横に振った。懸命なまなざしでルークを見上げて。

「でもミュウは、ご主人様やみなさんと一緒に行きたいんですの」

「ミュウ……」

 長老は黙ってその様子を眺めていたが、やがて静かに頷いた。

「よかろうミュウ。お前もいつまでも仔供ではない。行くがいい。……しかし、いずれはきっと、ここに帰って来るのだぞ」

「――はいですの。約束しますの!」

「だけど、その前にみんなで避難しないとね。この辺りは崩落しちゃうかもしれないんだから」

 アニスが言う。チーグルたちがみゅーみゅーと鳴き、長老が言った。

「我らはここを動かぬ」

「長老っ?」

 ミュウが驚き、「なんでだよ。もうライガに襲われないし、外に出られるだろ」と心外そうにルークが問う。

「我らはこの木と共に生きている。それにミュウ。話を聞く限り、お前と、お前の仲間たちは、崩落を防ぐために行動しているのだろう」

「そ、そうですの……」

「ならば、我らはお前たちを信じる」

「長老……」

 大きな瞳をゆらゆらとミュウは潤ませた。

「分かったですの。ボク、頑張りますの。絶対絶対、森を崩落させたりしないですの!」








 パッセージリングは幾重もの封咒で閉ざされている。ダアト式封咒、アルバート式封咒、ユリア式封咒。アルバート式封咒は現在は消失しているが、残り二つは未だリングを縛っている。それらを解呪できるのは、ダアトが創設した教団の導師であるイオンと、ユリアの血を引く者――ヴァンとティアだけだ。

「一箇所ずつ外殻を降下させる訳にはいかないのか?」

 シュレーの丘へ向かう飛晃艇の中で、ルークはそう疑問を漏らした。ティアには未だ出会えてはいない。だが、シュレーの丘のパッセージリングならば、既に以前彼女が起動させている。現時点で降下作業も可能のはずだ。

 しかしジェイドは、今回は演算機に命令文を打ち込むだけだと言った。全世界のパッセージリングは連動している。それを一つ一つ起動させて命令文を書き込み、その命令通りに、最後のリングから一斉降下を命じるのだと。

「時間的な面を考えれば、その方が良いのでしょうが……」

「何か問題があるのか?」

「パッセージリングは、セフィロトツリーを生み出すと共に、ディバイディングラインという力場を発生させています。外殻の裏に薄い膜があるとでも考えて下さい。全外殻を一斉に降下させることで、それを利用した障気の封印を行いたいと考えているんですよ」

「そんなこと出来るのか!?」

「ええ。『理論』上はね」

 言って、ジェイドはチラリとガイに視線を向けた。彼は窓辺の席に座り、何かの思いに耽っているように見える。両腕を組み、時折つま先をトントンと動かしていた。

「スピノザにも確認しました。彼は物理学の権威ですから」

「でも大佐、ラーデシア大陸はもう殆ど崩落しちゃってるじゃないですかぁ。それでちゃんと封印できるんですか?」

「そうですね、アニス。障気はディバイディングラインに吸着するはずですから粗方問題はないと思いますが、完全に封印することは出来ないでしょう。それでも、かなり濃度を薄くすることは出来るはずです。――もっとも、障気は地核の振動が生み出しているという説もある。このまま地核が振動を続けるのなら、いずれ外殻の穴から溢れ出した障気で元の木阿弥になってしまうでしょうが」

「はぅ〜……。世界は崩落しそうだし、外殻降下させても地殻は液状化してるし、障気はあるし、総長やモースたちはどこにいるのか分かんないし、ティアはまだ見つからないし、イオン様は相変わらずぽや〜っとしてるし、なんか頭痛くなりそう〜〜」

「ほらほら、いつまでも頭を抱えていないで、そろそろ降りる準備をして下さい。シュレーの丘に着いたようです」

「はーい」

 アニスたちのやり取りを見ていたルークは、気配に気付いて窓側を見やった。ガイはもう席を立っている。




 シュレーの丘を訪れるのは、もうこれで三度目だ。かつては封咒で閉ざされていた入口を潜り、細い通路の先にある最初の部屋に入ると、パッセージリングのある奥から何かが打ち合う高い音が聞こえた。

「剣戟の音だ」

 先頭に立っていたアッシュが足を止めて言う。

「誰かが戦っているのか?」

「――まさか」

 ガイが気配を探るようにした一方で、ルークはハッとした顔になると走り出していた。




「ノクターナルライト!」

 連続して投げ放たれたナイフは、しかし大鎌の一閃で撃ち落された。

「甘いな。――炎牙爆砕吼!」

 第五音素フィフスフォニムをまとった大鎌で突かれ、咄嗟にバックステップしたものの炎に焼かれる。悲鳴をあげ、うねる熱気にバランスを崩して、ティアは床に転がった。

「見極めと切り替えが遅い! リグレットが嘆くぞ」

「くっ……!」

「ティア!」

 その時、部屋の入り口からルークが駆け込んできた。走りながら腰の後ろの剣を抜き放つ。

「レプリカの方の坊主か」

「ティアから……離れやがれっ!」

 ルークが渾身の力で振り下ろした剣を、ラルゴは鎌の柄で受け止めた。力を込め、数拍の後に弾き返す。

「ティア、大丈夫か?」

 自分の側にまでティアが退いて来ているのを目の端に捉えて、ラルゴを牽制しながらルークが問うた。

「ええ、私は大丈夫よ。それよりルーク、あなたどうしてここに――」

「お喋りをしている暇はないぞ!」

 ラルゴの大鎌が閃く。しかし、振り下ろされることはなかった。一拍後、己の肩に突き刺さった矢をへし折り、ラルゴは部屋の入口を見やる。構えた弓に新たな矢をつがえるナタリアの横から、アニスが「ラルゴっ! あんたまだこんなことやってんの!」と怒鳴る声が聞こえた。

「生憎俺は融通の利かない石頭でな。お前やアッシュのように変わり身が早くはないのだ」

 ぐっと詰まったアニスの前に、イオンが進み出る。

「ラルゴ。武器を収めませんか。あなたは世界を滅ぼすことを望むような人間ではなかったはずです」

「導師。この世界は腐っている。血を流してでも腐れはすっかり取り除かねば、全てが腐れ落ちるのみ」

「どうあってもオリジナルの世界を滅ぼす……。やはり、それがヴァンの意志なのか」

 ガイが問うた。ラルゴのいかつい顔が彼に向けられる。

「そうだ。そうしなければ未来はないのだからな。

 ――ヴァンは、この星の滅亡の記憶を知っている。お前ごときの考えなどとうにお見通しよ」

「……!? どういう意味だ」

「さてな。いずれにせよ、勝つのは俺たちだ」

 ラルゴが身を翻す素振りをしたのを見て取って、「待て!」とアッシュが呼び止めた。ポケットから取り出した何かをラルゴに投げ渡す。

「あれは……!」

 呟いてガイが目を見開き、ジェイドがチラリと視線をよこした。銀色に輝くそれを片手でパシリと受け取って、「成る程。お前が拾っていたのか」とラルゴは呟いている。

「ラルゴ。てめぇは本当にそれでいいのか。今は違う名だとしても、お前の娘は生きているんだぞ!」

「……俺の最愛の娘はとうに死んだのだ。十九年前に奪われてな」

 浅く嗤うと、ラルゴは懐から白いガラス玉のようなものを取り出し、勢いよく床に叩き付けた。砕け散ったガラスの中から白い煙が吹き出し、充満して視界を奪う。

「マジックミストか……!」

 口元を覆いながらジェイドが言った。逃走補助アイテムとして知られる煙玉だ。

「覚えておくことだ。どれほどの屍を積み上げることになろうとも、俺は俺の信念をつき通すまで」

 煙の向こうから声が聞こえる。やがて視界が確保できた頃には、その巨体は消えうせていた。




「……そう。それであなたたちはここに来たのね」

 ルークから一通りの説明を聞き終えると、ティアは言った。

「私はセフィロトツリーの様子を見に来たの。ルグニカ大陸の沈下は始まっている。状況によっては、一人で降下作業をするしかないと思っていた。

 でも……そうね。障気の問題があるんだもの。大佐の考え通りでいいと思うわ」

「だけどティア……いいのか? これから世界中のパッセージリングを起動させることになったら、お前は障気に……」

「そうしなければならないもの。妹として、兄の犯した罪の責任を取るためにも」

 冷徹な顔で言い切り、伏せていた目を上げたティアは、ルークを見て苦笑を漏らした。

「私は大丈夫よ、ルーク。そんな顔しないで」

「……」

 唇を噛んでルークは押し黙っている。その後ろからガイが哀しげに、どこか悔しげでもある表情で言った。

「結局、ティアには負担をかけることになっちまったな。……すまない」

「どうしてガイが謝るの。これはやらなければならないことよ。それに……決めたのは、私自身の意志でもあるんだから」

 それらの会話の傍で、ナタリアは、離れて立つアッシュに近付いている。

「アッシュ……」

 ハッとしたように彼は顔を上げた。

「な、なんだ。ナタリア」

 取り繕ったような声音を聞いて、ナタリアは僅かに表情を沈める。

「話しては下さいませんの?」

「……何をだ」

「色々と。例えば、先程のラルゴとのやり取りの意味だとか」

「……お前は知らなくてもいい話だ」

「そうですか……」

 目を伏せたナタリアの背後からアニスが呼んだ。仲間たちの方へ戻っていく彼女の背を見ながら、アッシュは己の手を握り締める。

(完全同位体が誕生した場合の被験者オリジナルの負担……)

 休んでも疲れが完全に取れなかった。時折、意識が飛ぶこともある。何か大きな流れに掻き回され、引きずられようとしているかのように。

音素フォニム化による譜力と体力の緩やかな低下……か)

 ベルケンドでスピノザに、グランコクマでジェイドに聞いた説明が脳裏をよぎった。

 

『……徐々に低下していき、最終的に大爆発ビッグ・バン――劇的な消滅と再構築が起きるはずじゃ』

『同位体のコンタミネーションは未知の現象です。発生した場合、実際にどんな結末を迎えるのか。そして、それを止める方法も、現時点では確立できてはいません』

 

「糞がっ……!」

 小さくアッシュは吐き捨てる。

 パッセージリングの下のセフィロトツリーの輝きが、刹那、切れかかった音素灯のように微かに瞬いた。






07/04/19 すわさき


前へ/次へ


inserted by FC2 system