懐かしいと思った。初めて訪れた場所なのに。

 渓流に沿って登った道の先で、視界が不意に開いた。左右に見える高い崖を流れ落ちていく幾筋もの滝。それらが流れ込み、日の光に波紋を煌かせているのは深い紺色の海原だ。その情景を見通すこの場所には深く草が茂り、無数の白い花々が首を伸ばして揺れている。

「この花って、お前んちの庭に咲いてたのと同じやつだよな」

「セレニアの花ね」

 訊ねると、後方にいた少女が声を返してきた。片手で抑えた長い灰褐色の髪が、渓谷を吹き抜ける風に靡いている。

「セレニアは、星のフォンスロットに群生する性質があるとされているの」

「そっか。ここにはセフィロトがあるんだもんな」

 ルークは頷いた。

 アベリア大陸から中央大海に向けて突出したイスパニア半島。その豊かな自然の奥に隠されたタタル渓谷。その最奥に、惑星の十大フォンスロット――セフィロトの一つがあるのだ。

 全外殻の緩やかな一斉降下。ジェイドの示した提案に従って、再び集った三勢力の仲間たちは世界各地のセフィロトを巡る旅をしている。以前、ヴァンに連れさらわれた際にイオンが開かされたセフィロトは、シュレーの丘、ザオ遺跡、アブソーブゲートの三箇所。これらはパッセージリングの操作まで既に済ませた。その他のセフィロトのうち、ホドとアクゼリュスとメジオラ高原は崩落して消えており、残るはザレッホ火山、ロニール雪山、タタル渓谷、ラジエイトゲートの四箇所となる。ロニール雪山の封咒解呪とセフィロトの操作は先日済ませたばかりだ。

「でも、ここのはみんな花が閉じてるみたいだけど……」

「セレニアは夜に咲く花だもの。魔界クリフォトで自然に咲かせることができるのは、あの花だけ」

 そう言って、ティアは風で幾分ほつれた髪をかき上げる。

「ふーん。昼と夜で随分感じが違って見えるよな」

「そうね。でも、どちらも同じ花の姿よ。多分、あらゆるものがそうなのだと思う。一つの顔、一つの姿……。それで全てではないのね」

 何を思うのか。目を伏せてそう言った彼女を見つめ、ルークは呟いた。

「お前みたいだな」

「え?」

「あ、いや、ほら。お前って、なーんか冷たそうって言うか、ツンツンしてるっつーか、無愛想っつーか」

「……悪かったわね」

「あ、違うって! そうじゃなくて、や、そうなんだけど違くてっ。……その。俺、お前には感謝してるから」

 泡を食って、次に赤くなり、ルークはもごもごと告白する。

「だからさ。俺、前はお前の一面しか見てなかったけど。そうじゃなかった。それで……お前はセレニアの花みたいだなって、そう思って……」

「ルーク……」

 なんとなく俯いて、若い二人は押し黙った。風が吹き抜け、それぞれの髪が熱を帯びた頬をくすぐる。

「……なんかさ。変な感じなんだ。ティアがいて、セレニアの花に囲まれてて………波の音が聞こえて。俺、ここに初めて来たはずなのに、すげぇ懐かしいって思う。……やっと、ここに帰ってこれたんだな、って」

 微笑ってルークは顔を上げ、彼方の景色に目を向けた。

「おかしいよな。なんでなんだろう」

 何もない海岸線は広々と開け、渓谷から水は流れ落ち続けている。やがて戻した視線をティアの顔の上で止めると、ルークは眉を曇らせた。

「……なあティア、お前、本当に大丈夫か? パッセージリングを起動させるごとに、お前の身体には障気が溜まってる。ベルケンドで薬はもらってるけど、治せるわけじゃねぇし。このままだと……」

「心配いらないわ。私は大丈夫よ」

「いつだって、お前はそう言うよな。……だけど。お前が命を削ってるっていうのに、俺、何にも出来なくて……。情けないんだよ! 自分が!」

 両拳を握って吐露したルークを、ティアは見つめる。

「あなた……変わったわ」

「……え?」

「以前のあなたは、誰かに依存するばかりで、周囲を見ようとはしていなかった。でも今は、こんなにも他人を気遣っている。……私のことを心配してくれている」

 一度伏せた目を上げ、柔らかくティアは微笑んだ。

「ありがとう、ルーク」

「……っ」

 耳までルークは朱に染める。そんな彼に向けていた目をふと真摯なものに変えて、ティアは言葉を続けた。

「でもね、ルーク。周囲に目を向ける、それも大切なことだけれど。忘れないでほしいの。あなたはあなただということを」

 ルークの顔色が変わった。まるで、深い場所を抉られでもしたかのように。

「……な、なんだよそれ」

 落ちた声が揺らいでいる。目線を逸らし、ぶっきらぼうに口調を早めた。

「おかしなこと言うなよ。当ったり前だろ、そんなの。元々、俺は俺だって」

 ティアは何かを言おうとするように口を開いたが、言葉が発されるより早く、アニスの高い呼び声が響く。

「二人ともーーっ、もう行くよーーっ!」

「ああ、すぐ行く!」

 やや離れた場所で休憩していた仲間たちは、浅い渓流を渡って道を進もうとしていた。そちらに声を投げ返し、ルークは気まずい視線をチラリとティアに戻す。

「――行こうぜ」

 さっさと歩き出した背を見つめ、数瞬表情を曇らせると、ティアは黙ってその後に従った。




「――終わったぞ」

 制御板から手を下ろしてアッシュが言った。その向こうには稼動しているパッセージリングの譜石の輝きが見える。

「さすが、手際がいいですね」

「おべんちゃらはいい。次はザレッホ火山か?」

 薄く笑うジェイドにそう言うと、もう身を翻してセフィロトの出口へ向かう背を見て、アニスが不満げに訴えた。

「アッシュ。もう少しゆっくりしてよ。イオン様はダアト式譜術を使って疲れてるんだから」

「アニス。僕は大丈夫です」

「でもぉー」

 アニスは口を尖らせる。その傍らを歩み抜けながら、ガイが言った。

「そうだな。今は少しでも先を急がなければならない時なんだ。悪い、イオン」

「いいえ。気にしないで下さい。――行きましょう、アニス」

「うぅー。ホントに、無理しないで下さいね」

 一行は歩き始める。ナタリアが言った。

「ですが、今回は邪魔が入らずに済んで、よかったですわね」

「ああ。ロニール雪山では、リグレットが邪魔しに現れたけれど……」

 ルークが応えると、アニスが小首を傾げる。

「あれは邪魔しようとしたんじゃなくて、ティアを止めに来たんじゃないかなぁ」

「そっか……。リグレットは、ティアの教官だったんだよな。俺にとっての師匠せんせいみたいなものか」

 ルークは表情を曇らせた。傍を歩きながらティアは黙っている。



『無駄なことだ。ティア。それ以上自分の身を犠牲にするな』

 ロニール雪山のセフィロトに現れたリグレットは、パッセージリングを起動させようとしたティアの足元に光弾を撃ち込んでそう言った。

『教官!』

 ティアが緊張をはらんだ声で呼ぶ。その脇から、アッシュが剣を抜き放ちながら飛び出した。トンボを切ってリグレットはそれをかわし、続いて飛んだナタリアの矢を避ける。更に飛び出そうとしたルークやガイに向かって二挺の譜銃から光弾を放った。が、それを障害とはせずにガイが踏み込む。ガキン、と銃の一挺で刃を受け止め、逆らわず投げ捨てることで間合いを取った。

『やはり分が悪いか……』

 リグレットが指笛を吹くと、飛行魔物グリフィンが一頭、翼を鳴らしてセフィロトの中に飛び込んでくる。それを背にして立ち上がると、リグレットはもう一度教え子を見据えた。

『目を覚ましなさい、ティア。この世界はそうまでして守る価値のあるものではない』

『そんなことはありません! この世界の命は、この世界にしか存在しない。新しい世界を作るのだとしても、この世界を消すなんて間違っています。兄の考えは極論過ぎる。それを止める事が出来ない自分も歯がゆいけど、止めようともしないあなたも……軽蔑します!』

『……ティア。お前は知らないのだ。滅亡を定められた運命の過酷さを』

『え……?』

 リグレットは魔物の足に掴まって舞い上がる。数歩踏み出して追いかけ、ティアは叫んだ。

『待って下さい、教官! 兄は――兄さんは、本当に生きているんですね?』

『これ以上閣下を悲しませるな』

 声を残し、魔物に掴まった影はたちまち飛び去った。



「師匠は、第七譜石の預言スコアを知ってるんだよな。そこに書かれた滅亡を防ぐために、この世界を預言に囚われないレプリカと入れ替えようとしている」

 セフィロトの出口へ近付けば、前方に射し込む自然光が見え、微かに渓谷のせせらぎが聞こえてくる。

「だけど! それって結局、人類を滅ぼすってことじゃん。病気で死にそうな子がいるからって、その子を殺して別の子と入れ替えたって、誰も救われたことにはならない」

 ルークとアニスの交わす声を聞きながら、イオンは目を伏せていた。先頭からアッシュの声が聞こえる。

「奴が唱えているのは狂人の正義だ。……それを否定する俺たちが掴む未来も、結局はろくな結果には終わらねぇのかもしれないがな」

「……それでも変えるべきなんだ。生きるために。未来を掴むためには」

 語気強く返したのはガイだった。

「当然だ」

 短く吐き捨てると、アッシュは一度も視線すら向けないまま足を速めていく。

「なーんか、おかしな空気ですよね〜。こないだから」

 イオンに歩調を合わせて最後尾を歩きながら、小声でアニスが囁いた。

「いつもアッシュべったりだったナタリアが離れてるし、アッシュやガイはピリピリしてるし、ルークはうじうじ暗いし、大佐は相変わらず怪しいし」

「みんな、胸に抱えた思いがあるのでしょう」

 イオンが応えた。

「多分、誰もが何かを抱えているんです。……僕だって」

「ほえ? イオン様がですか?」

 意外そうに大きな目を丸めた少女を見て、イオンは表情に翳りを乗せた。

「アニス。アブソーブゲートでヴァンを倒した後、あなたは謝ってくれましたよね。モースの指示で僕を見張っていたって」

「――は、はい」

「でも僕もずっと、あなたを騙していたことがあるんです」

「え……?」

 イオンは足を止める。彼の顔を見たままアニスも立ち止まった。他の仲間たちは先に進んでいる。

「もっと早く言うべきでした。でも、出来なかった。怖かったんです。あなたに嫌われるのが」

「……な、何言ってるんですかぁ。イオン様を嫌うだなんて、そんなことないです」

 アニスは笑ってみせたが、イオンは再び表情を翳らせた。

「アニス。『導師イオン』は――」

ティア!

 声はルークの叫びに遮られた。見れば、セフィロトの出口付近に仲間たちが固まっており、その中心にはうずくまった少女の姿がある。

「どうしたんですか!」

 アニスと共に駆け寄ったイオンに、ガイが難しい顔で「ティアが倒れたんだ」と答えた。

「ティア、しっかりしろ!」「ティアさん、大丈夫ですの?」

「……大丈夫よ、ルーク。ミュウも。ちょっとめまいがしただけ」

「大丈夫って……お前、真っ青じゃねぇか」

「平気。薬が切れたのね。ごめんなさい、心配かけて。体調管理もできないなんて、軍人として失格だわ」

「軍人だとか、そんなこと関係ありませんわ。無理するのはおやめなさい」

「ありがとう、ナタリア。でも、今は無理をしてでも進まなければならない時なのよ」

「ティア……」

「彼女の言う通りです。今は一刻でも早く降下作業を進めなければなりません」

 眉を曇らせたナタリアの背後から、感情の薄い声をジェイドが投げかける。

「まだザレッホ火山とラジエイトゲートのパッセージリングが残っています。ティア、歩けますか?」

「はい。大丈夫です、大佐」

「ジェイド!」

「ルーク。いいの。――行きましょう」

 ルークたちの前を通り、ティアは出口へ向かった。外光に照らされた顔は、ひどく白い。








預言スコアは星の記憶――か」

 呟いて、手の中のグラスに目を落とした。琥珀の液体が揺れている。

「しかし、星の記憶ってのは何なんだろうな。この星の上で起こること、生まれる命、その全てが最初から記憶されてるって言うんなら……その記憶は、どこから現れたものなんだ?」

「あらゆる生物の肉体は、その遺伝子に刻まれた情報によって構築されています。一説には、遺伝子にはその生物の一生の軌跡が予め記されている、と」

 傍らの席から男が返した。彼のグラスの中身も相当減っていたが、言動も、顔色さえも常と変わっていない。どんな術を使っているのかと思ったが、追求するのはやめておいた。無駄だろう。あらゆる意味で。

「その伝でいけば、この星が生まれたときから、何もかもが決まってたってことになるな。ユリアの行動も、ローレライの存在も、ホドが滅んだのも、陛下のブウサギがぶちのない仔供を産んだのも」

「そうなりますね」

「だが……あいつはそうじゃなかった。そうだろう? あいつは、少なくとも二千年前の預言には詠まれていなかった。イオンが詠んだ新たな惑星預言プラネットスコアが……あいつの決断が。違う道を作ったんだ」

「あれから七年……いえ、もう八年になるんでしたね」

 彼が消えてから。その言葉に目を伏せて、一口、グラスの中身をあおる。

「星の記憶は存在し続けているのでしょう。しかしローレライは音譜帯に去り、年々第七音素セブンスフォニムの総量は減っている。そうしようとしたところで、預言を詠むのも困難になっているはずです。我々はこれから本当に、羅針盤のない海原に漕ぎ出さねばならない」

 なかなかに不安な航海ですがね、と言うのを聞いて苦笑した。情けないようにも思えるが、それがこの世界の誰もが抱く偽らざる本音だろう。二千年間存在していた預言を否定することは、常にあった大きな保護の手を失ったにも等しい。

「そうだな。……明日から貴族院の爺さん連中と渡り合いだ。星の未来のためにも、今日はもう寝るか」

 グラスを置いて立ち上がり、部屋を出て行こうとしたところで、「ああ、そういえば星の記憶のことですが」と呼び止められた。

「先日アッシュに会った時に面白いことを言っていました。星の記憶は、ローレライが見ている夢だと」

「アッシュが?」

「確かに、預言は地核に充満する記憶粒子セルパーティクルと、その変異した第七音素から得られます。第七音素の意識集合体であるローレライがプラネットストームの刺激によって生まれた星の意識そのものなら、そう言っていいのかもしれません」

「星の見ている夢……か」

「できれば、ローレライにはいい夢を見せてあげたいものですね」

「あんたにしては、随分とロマンチックな物言いだな、旦那」

 苦笑する。目の前の男は相変わらずの柔和な笑みを浮かべた。これもポーカーフェイスと言うのだろう。

 

『ジェイドってホント、何考えてんのか分かんねーよな』

 

 多分いつか聞いた。『彼』の声が響き。

 それに揺さぶられた気がして、ガイは目を覚ました。

 駆動音が低く響く艇内は暗い。アルビオールを操縦し続けているギンジには申し訳ないが、ダアトに着くまで全員で仮眠を取っているところだ。

 視線を巡らせ、座席に寄りかかって目を閉じているジェイドの上で止める。

『今』、この男と酒を酌み交わしたなら。かつてと同じように語り合えるのだろうか。

 ふと、そんなことを思った。








 パダミヤ大陸のセフィロトはザレッホ火山の地下にある。道は火口から繋がっているが、危険で長いそれを使わずとも、ダアトの教会に設置された転送の譜陣を使えば一瞬で近くまで行くことができる。

「なんだか、以前来た時よりも人が増えている気がしますわね」

 教会へと続く第一自治区の街並みを歩きながら、ナタリアが言った。確かに通りを歩き回る人々の数は多い。とはいえ、以前のような憧れの聖地をついに訪れたという喜びや陶酔は感じられず、誰もが顔色を曇らせ、瞳を暗く翳らせているように見えた。

「定期船は航路を変えて復旧したみたいだけど、最近、地震も増えてるもんね」

「みんな不安になってる、ってことか……」

 アニスの声を聞いてガイもまた表情を曇らせる。

「ティア、あと少しで教会だからな」

「ええ。大丈夫よ、ルーク。今日は調子がいいの」

 ルークはティアの後ろについて、時折声をかけていた。笑みを作ってそれに応えていたティアは、教会への長い階段の途中で足を止める。先頭のアッシュが立ち止まっていた。彼の険しい視線の先、教会の扉の前には人だかりがある。

「このままじゃ世界の終わりだ! なんとかしろ!」

「どうすれば助かるの。預言スコアを詠んでちょうだい!」

「……どうせ死ぬなら、せめてユリアの御許で……」

「嫌だ……死にたくない……。教会なら、ユリアとローレライのご加護があるだろう? きっとここは崩落しないんだ。どいてくれ、俺は教会に入りたいんだ。扉を開けてくれ!」

「ユリアよ、お救い下さい!」

 人々は口々に叫んでいた。教団を責める者、押しのけてとにかく中へ入ろうとする者。騒ぎを押しとどめようとしているのは扉を守る神託の盾オラクル兵たちと、詠師トリトハイムだ。

「落ち着きなさい。落ち着くのだ。今、教団は預言の詠み上げを行ってはおらぬ」

「こんな時に預言を詠んでくれないなんて。教団は何を考えているの? 散々お布施をしてきたのよ。今になって何もしてくれないだなんて、ひどいわ」

「世界は滅ぶんだろう。預言にそう詠まれていたんだ。だから預言の詠み上げを禁じたんだな!?」

 その叫びを聞いて絶望の呻きが湧き起こり、人々の波はますます乱れる。

「死ぬんだ。もうみんな死ぬんだ!」

「嘘だ! 俺たちを騙して、お偉い連中だけ助かろうとしているんだろう」

「私の子はまだこんなに小さいのよ。お願いします、どうかこの子だけでも……!」

 その時だ。進み出たイオンが大きな声を発したのは。

「落ち着いて下さい。みなさん、落ち着くのです!」

 振り向いた人々の視線が彼に集まる。それから守るように、アニスが前に出て声を張り上げた。

「導師イオンの御前ですよ。静まりなさい!」

「導師イオン」「おお、イオン様!」

 人々がその名を口にする中、アニスを従えたイオンはゆっくりと階段を上り、トリトハイムと並んで教会の扉の前に立った。

「安心なさい。世界は、滅びたりはしません」

「でも、イオン様、ラーデシア大陸が!」

「ルグニカ大陸も沈みかけてるんでしょう。エンゲーブやセントビナーの住民は、みんなグランコクマに避難してるって言うじゃないですか。ここも地震ばかりだ」

「確かに今、世界には未曾有の危機が迫っています。ですが私たちも、そしてキムラスカやマルクトも、安穏とそれを許している訳ではありません。世界を守るために動いているのです」

「でも預言には滅亡が詠まれているんでしょう」

「違う! 預言を詠めば助かる方法が分かるはずなんだ。どうして詠んでくれないんです」

「預言に何が詠まれていようとも、滅亡は回避せねばなりません。私たち自身の手と頭で」

 揺るがぬ声を聞いて、人々は戸惑ったように言葉を呑む。互いに目を見交わし、導師の顔を窺った。

「始祖ユリアは、闇に惑っていた人類に灯火を掲げて下さいました。二千年間、私たちはその恩恵を受けてきた。ユリアの慈眼は今でも私たちの上にある。ですがもう、自分の足で歩かねばならない時がきたのです。――どうかみなさん、受け入れて、信じて下さい。自分自身の手で、未来は掴み取れるのだということを」

 人々は押し黙っている。「そんなこと言われても……」「だって、預言がなければどうしたらいいのか分からないわ」という囁きが聞こえたが、大きくなることはなかった。

「まあ、イオン様がそう仰るのなら……」

「お願いしますよ。世界が滅ばないというなら、預言が分からなくたってなんとか我慢出来るんです」

 そんなことを言いながら、人々の波は引いていく。「ケッ。勝手な事を言ってやがる」とアッシュが吐き捨てた。

「無理もないですね。人は、そう簡単に生き方を変えられるものではない」

 ジェイドが言う。「預言は生きる指針であり、支えそのものだったんですもの……」と、ティアが呟いた。

「辛いことがあっても、それが定めならばと諦められる。失敗しても、自分のせいじゃないと言うことが出来る。不安な時も、それで間違いないよと肩を支えてもらえる……」

「人は弱い」と、ジェイドが言葉を重ねている。「常に楽な道を探してしまうのでしょう。自分の罪や責任を見つめ続ける。その重さから逃れるために」。

「ですが、イオンの言う通り、これからは預言に頼らない世界を作らねばならないのですわ。その為にも、預言をどうしていくのか、国際的な取り決めが必要になります」

「国際預言会議の開催は、明日だったか?」

 ガイが訊ねると、「ええ」とナタリアは頷いた。セフィロトを巡る合間を縫って打診を続けた結果、三勢力の話し合いをここダアトで行うまでに漕ぎつけたのだ。全外殻を降下するには人心と保安の面でも準備が必要であり、その打ち合わせも兼ねていた。

「会議にはわたくしも参加を許していただきました」

「私も末席を汚させていただくつもりですが……。その前に、ザレッホ火山のセフィロトの作業を済ませておきましょう」

 ナタリアにジェイドが言う。イオンがトリトハイムとひとことふたこと言葉を交わし、一行はセフィロトへ続く通路へ向かった。








 視界一面に揺らぐ黄金きん色は、うねる火焔のようだった。

『――……。……』

 うるさい。

 途切れ途切れに聞こえる奇妙な音色と、それと入り混じった声とも雑音ノイズともつかない響きは、いやに神経に障って苛々した。

『……! ………』

 何かを叫び、やがて諦めたように遠ざかっていこうとする。いつしか澄ましていた耳にそれを感じ取り、尚の事苛立つ。

 うぜぇんだよ……。

「言いたいことがあるんなら、はっきり言いやがれ!」

 怒鳴りつけた瞬間。黄金色は霧散し、”目が覚めた”。

「アッシュ? どうかしたのか」

 目の前に鏡がある。――いや。レプリカだ。自分と同じ造りの、しかしどこか間の抜けた顔。

「っ……。何でもねぇ!」

 言い捨てた視線の先に、もの言いたげなナタリアの顔が見えて、咄嗟に身を背ける。

「このパッセージリングの操作もこれで終わりですね。問題なく動作しています」

 リングの上空に浮かんだ図像を見ながらジェイドが言った。この惑星に存在する十のパッセージリングを示す円は、消滅した三つを除き、もはや全てがラインで繋がれてある。その中で未起動の暗い円で示されているのは、星の南極に位置するラジエイトゲートのみだ。

「後はラジエイトゲートのリングを起動させて、全降下の操作をするだけだな」

 同じように図像を見上げてガイが言う。

「ええ。全てのパッセージリングは連動しています。中でも最も強くエネルギーを噴出させている第一セフィロト、即ちラジエイトゲートから出力低下の指示を行うのが理にかなっているでしょう。イオン様、ティア、それからアッシュには、もうひと頑張りしてもらうことになりますよ」

「任せて下さい」「分かっています」「……ああ」

 イオンは白い顔で微笑み、ティアは硬い表情で頷き、アッシュは無愛想に返した。

「は〜。イオン様もティアも心配だけど、あと一箇所だもんね」

「そうだな。地震が増えて、世界中の人が不安を募らせてる。なんとか無事に終わらせたいよ」

 アニスとルークが声を交わしている。

「では、ダアトへ戻りましょう。そろそろ陛下たちも到着している頃だと思います」

 ジェイドが言い、仲間たちは歩き始めた。珍しく先頭に立たずに止まっていたアッシュが、脇を通り抜けたガイに向けて呟く。

「……お前は、俺を憎むんだろうな」

 足を止めたガイは不思議そうな顔をした。よく聞こえなかったのかもしれない。黙ってアッシュは歩き始めた。

 身体が重い。意識は飛ぶどころか、白昼夢を見る始末だ。

 だが、それを伝えたところで意味はないのだと思えた。一度始まったコンタミネーションを止める手立てはない。それに今や世界は崩れかかっている。イオンやティアがそうしているように、何かを惜しんで立ち止まっている余裕は、誰にもありはしないのだ。




 溶岩に照らされた道を戻り、譜陣を使う。だが、転移したところで誰もが身を強張らせた。周囲を武器を構えた神託の盾オラクル兵たちに囲まれている。譜術の光をまとった譜術士兵ルーンも多数おり、一瞬でこちらを消し炭に出来る構えだ。

「何事です。導師に向かって無礼ですよ!」

 イオンを庇うように前に出てアニスが叱りつけたが、兵たちは嘲笑った。

「導師が聞いて呆れる。偽者め!」

「……はぁあ? 何それ。あんまくだらないこと言ってると潰すぞゴルァ!」

「その導師は偽者。それは、本人が一番よく知っているのではありませんかな?」

 新たな声がした。兵士たちが開けた場所に、法衣を着た恰幅のいい男が進み出てくる。

「モース……!」

「どうしてお前がここに!」

 アニスが青ざめ、ルークが鋭く問うた。

「私は監視者だ。教団にいてどこがおかしい」

「あなたへの処断は既に下されたはず! 大人しく収容所へ戻って罪を償いなさい!」

「黙れティア! 裏切り者め。第七譜石探索もこなせぬ無能な女よ。ふん。もはやそれも必要ないがな」

 そう言うと、モースは少し身体をずらして場所を開けた。その背後にいた人物の姿が露わになる。白い法衣をまとい、華奢な体つきをした、少女と見まごうような十四、五歳の少年の――。

 その前に立つイオンと。まるで合わせた鏡のような。

「イ……オン、様?」

 ぱくぱくとアニスは口を開け閉めし、ハッとしたように「あ……、シンク!?」と叫ぶ。うろたえてナタリアが訊ねた。

「シンクがどうしましたの、アニス」

「前にシュレーの丘で見たの。あいつの顔、イオン様にそっくりだった……」

「ボクならここにいるよ」

 生意気そうな声が響く。金の仮面を着けた少年が歩み出てきて、モースの隣に並んだ。

「シンク! どういうつもりなんだ」

 怒鳴るガイにチラリと視線を向けて、「どういうつもりもなにも」と失笑を浮かべる。

「お前たちの考えることなんて、こっちにはとうにお見通しって事さ。ラジエイトゲートから外殻を降下して障気を封印しようとすることも、預言会議のことも」

「な……?」

「――ヴァンには、それが分かっている。いや、知っているということですか」

 赤い目の中に何かを抑え、静かにジェイドが問うた。

「ヴァンの知っていることが何ほどだと言うのだ。奴の持ってきた第七譜石の預言スコアは正しいものではなかった。世界が滅亡するなどありえぬ。人類には永遠の繁栄が約束されているはずなのだ。

 預言会議にケリをつけたら、お前には惑星預言プラネットスコアを詠んでもらう。出来損ないでも、一度なら詠める程度の力はあるだろうからな」

 モースが言い、ジロリとイオンを見やる。「譜術封じの牢に放り込んでおけ!」とシンクに命じ、もう一人の『イオン』を連れて部屋を出て行った。

「どういうことですの……? 預言会議で何をしようと言うのです」

 ナタリアが不安な声を落とす。

「モース、おっと。モース”様”は、ユリアの預言を成就しようとしているのさ」

「今更だろ! もう預言は歪んじまってるんだ」

「さあ、どうかな?」

 シンクは嘲りの笑みをルークに、そしてガイに巡らせた。

「とにかく、大詠師サマは帳尻を合わせる気でいる。預言を守るためにね」

「……まさか!?」

 ジェイドが声をあげる。珍しく顔色を変えた様子にシンクは口を歪めて笑い、「拘束しろ!」と兵たちに命じた。




 廊下を歩いていくモースと、その後ろに従う法衣の少年に、パタパタと足音を響かせて少女が駆け寄った。

「イオン様!」

 足を止めたのはモースの方だった。従って止まった少年に、オバケのヌイグルミを抱えた少女は懸命に話しかける。

「あの、あの、イオン様。アリエッタは……」

 少年は少女を見た。ぼんやりと、幕の向こうの世界を眺めるかのように。ガラスめいた瞳に映った自身の姿を認め、少女は息を呑んで僅かに身を引いてしまう。

「フン。行くぞ」

 鼻を鳴らしてモースは歩き始める。従って歩いていく少年の背を、少女はなす術もなく見送った。








 三勢力の首脳陣を揃えた会議は、ローレライ教団本部の会議室で執り行われていた。

「――では、以上合意で宜しいですかな」

 そう言ったのは、ユリアシティの市長であり教団の詠師でもあるテオドーロだ。上座に位置する彼の隣席には白い法衣の少年が腰を下ろしており、大テーブルの左にはインゴベルト王、アルバイン内務大臣以下のキムラスカ廷臣たち。右にはピオニー皇帝、ゼーゼマン参謀総長以下のマルクトの廷臣たちが座っている。

「何事もなく降下が終わってくれればよいのだが……」

「そこは、彼らを信じるしかないでしょうな」

 深刻な顔をするインゴベルトに気安い調子で言って、ピオニーはふと首を傾げた。

「そういえば、ジェイドの奴はどうしたんだ? 会議には列席すると言っていたんだが」

「うむ。ナタリアの姿も見えぬ」

「既にザレッホ火山のセフィロトからは戻っているはずですが……。――イオン様?」

 会議の間ずっと黙り込んでいた少年が立ち上がったのを見て、テオドーロが怪訝な顔をする。少年の方は顔色一つ変えず、淡々とした声音で言い放った。

「この会議は無効です」

 ぎょっとした人々の前で、起伏の乏しい声は続けられる。

預言スコアは世界の真理。絶対に遵守すべきものです。それから外れることは世界の滅亡を招くこと。ユリアの使徒たるローレライ教団の導師として、これを許すわけにはいきません」

 荒々しく会議室の扉が開き、神託の盾オラクル兵たちが雪崩れ込んできた。その中にモースとシンクの姿を見て、テオドーロが目を剥く。

「モース! それにシンク謡士! お前たちは既に罷免されたはずだぞ」

「黙れ。世界を滅ぼす悪魔どもに惑わされた愚か者め」

 軽蔑の目で吐き捨てると、モースはインゴベルトに目を向けた。

「ご安心を。あなたの首は取りませんよ。キムラスカはこれから未曾有の大繁栄を遂げる。……遂げねばならぬのですからな」

「それで? 俺の首を取るつもりなのか」

 武器を構える兵たちに囲まれた席で腕を組んで、ピオニーはふてぶてしく問う。

「繁栄どころか、世界は乱れるぞ」

「結構ではないか。戦争こそ、預言に詠まれた、起きるべき歴史だ。少々順番は狂ってしまったが、帳尻が合えばそれでよい。キムラスカとマルクトは争い、マルクトの皇帝は死に、キムラスカは繁栄する。それこそがあるべき歴史だ。歪んだ世界に落とされた人類を救済する、唯一の道なのだ!」

 しかし、モースの演説はそこで終わりになった。部屋の扉付近にいた兵たちが吹っ飛ぶ。譜術エナジーブラストを唱えたジェイドが間髪入れずに手の中に取り出した槍で斬り込み、剣を持つガイやアッシュ、ルークがそれに続いた。

「遅いぞジェイド。だが、パーティーには間に合ったな」

「申し訳ありません」

 ニヤリと笑うピオニーにそう返すと、ジェイドは槍を振って血を払い、眼鏡のブリッジを軽く押し上げる。

「お、お前たち! どうやってここに……!」

「アリエッタが助けてくれたのですわ!」

 うろたえるモースにナタリアが返し、その背後から薄い朱の髪の少女が現れた。

「ぐぬぅう……裏切りおったか、アリエッタめ!」

「裏切ったのはそっち! アニスたちはママの仇だけど、イオン様まで牢に入れて、惑星預言プラネットスコアを詠ませようとするなんて許せない。そのイオン様はニセモノだモン!」

 叫び、アリエッタは席で立ったままの法衣の少年を指差す。己の背後に、彼と瓜二つの少年を守りながら。

「アハハハハハハ!」

 けたたましい笑い声が響いた。モースの隣で、金の仮面を着けた少年が身をよじり、狂ったように笑い続けている。

「傑作だねイオン。本物だって。アハハハハハ!」

「何がおかしい!」と、アッシュが怒鳴った。

「おかしいよ。本物のイオンなんて、ここには――いや。この世界のどこにも、もういない!」

 自身の仮面に手をかけ、投げ捨てる。床に落ちた仮面が高い音を鳴らした。露わになった『イオン』と同じ顔に兵たちや首脳陣、ルークやナタリアが息を呑んだ中、嘲笑いながら吐き捨てる。

被験者オリジナルのイオンは二年前、とうの昔に死んだんだ。ここにいるのは全員、その代用品。ただの偽者レプリカなのさ!」

 大きな目を見開き、アリエッタは一歩下がった。救いを求めるように、視線を背後の『イオン』に向ける。

「イオン様……」

 だが彼は瞳を揺らし、苦しげに顔を歪めて目を伏せた。

「許して下さい、アリエッタ……」

「イヤ……。イヤ。イヤ。イヤぁ。イヤぁああ〜〜〜!!

 ゆっくりと首を左右に振り、次第にその動きを早めて、アリエッタは叫ぶ。それは悲鳴だった。魂の奥深い場所を引き裂かれたような、そんな。

「イオン様、イオン様ぁあ!!」

 ヌイグルミを抱きしめ、うずくまって泣き叫ぶ。

「本物のイオン様は……私が導師守護役フォンマスターガーディアンになる前に、死んでた」

 衝撃のあまりか感情が抜け落ちた声でアニスが呟いていた。ルークも愕然としている。

「イオンが……レプリカ。俺と同じ……」

 周囲を囲んでいた神託の盾兵たちがざわめき始めていた。

「偽者?」「レプリカって……。なんだよ、それは」「俺たちはどうすればいいんだ?」

 そんな中、じりじりともう一方の扉の方へ下がっていこうとしていたモースに向かい、ガイが剣をかざす。

「おっと。逃げようったってそうはいかないぜ」

「ぐうっ……!」

「モースよ。我ら監視者は、確かにユリアの預言に従って世界を動かしてきた。だが、世界は変わったのだ。もはや、預言通りに動かしても繁栄は得られぬだろう」

「黙れ! 監視者としての誇りを忘れたか、テオドーロ! 預言は絶対だ。正義は私にあるのだ!」

「やめて! もうやめて下さい、モース様!」

 ティアが悲痛に叫んだ。

「あなたは世界の長久と繁栄を願う、素晴らしい方だった。お願いです。これ以上はもう、やめて下さい」

「間違っているのはお前たちであろう! 私は何としてでも世界を救う。お前たちの狂った行動から、あるべき繁栄へと導き戻す! 世界を滅亡させはしない!!」

「……くだらないね。本当にさ!」

 声がした。いつの間にかモースの背後に移動していたシンクが発した。

「ぐぼぉっ!」

 間を置かず発されたのは、モースが喉を震わせた音だ。息と、そして鮮血によって。血は口からだけではなく、彼の胸からも溢れている。ナックルを着けたシンクの拳が背後から突き破った、その傷口のものだった。

「こ、このレプリカめが……ぐふぅう!」

「劣化した偽者に殺される気分はどうだい。モース”様”」

 貫いた拳を無造作に引き戻してシンクが嗤う。

 朱をぶちまけて床に倒れ込んだモースを見て、顔色を変えてルークがシンクに怒鳴った。

「お前の仲間だろう!」

「仲間。劣化レプリカにはそんな感情はないのかもね」

「そんな……!」

「ボクは空っぽなのさ。何もない。誰にも必要とされない。……代用品としてすら。人の形をしているだけのゴミなんだよ」

「そんなことを言わないで下さい。シンク。僕たちはレプリカだけど、にん――」

「人間だって言うのか。おめでたいね。流石は必要とされてるレプリカだ。所詮は代用品だけどさぁ!」

 打たれたような顔をしてイオンは押し黙る。シンクはいびつに笑った。

「どうせ世界は消える。世界そのものがからになるんだ。お前たちも、そしてボクも、なにもかもが。今こうして存在しているだけ無駄なのさ」

 言い捨てるとシンクは身を翻す。ルークが追う動作を見せたが、直後にがくりと膝をついたので、他の仲間たちはそれに気を取られた。

「ルーク、どうしたの!?」

 ティアが駆け寄る。その数瞬でシンクは姿を消していた。

「逃げられましたか……」

 駆けつけた新たな神託の盾兵たちが、部屋に押し入った兵たちを拘束する様子を見ながら、ジェイドは手の中に槍を消している。うなじを押さえて顔をしかめ、ルークはティアに声を返していた。

「つっ……。なんか首の後ろが……。いや、なんでもない」

 手を離して立ち上がったが、顔色は冴えないように見える。ガイが近付いて声をかけた。

「そういえばお前、前からたまにそこを押さえてたよな。見せてみろ」

「いいよ。もう痛くないから」

「いいから、ちょっと見せろって」

「いいって言ってるだろ!」

 触れようとした手を音がするほど強く払いのけて、しかしルークは自分が驚いた顔をした。気まずげに顔を背ける。

「わ、悪ぃ……。ホントに平気だから」

「そうか……。だが、調子が悪いんならすぐに言えよ?」

 少し寂しそうに笑って離れたガイの背を、チラリと目で追った。

 一方で、倒れ伏すモースに治癒の光を当てていた教団の治癒術師ヒーラーが手を下ろし、首を左右に振っている。

「モース様……」

 ティアが傍らに膝をついた。うわごとのような言葉を、まだ彼は発している。

「預言を……人類を、繁栄、に…………まも……」

 声は掠れて、途切れ。微かに上下していた身体は、間もなく動かなくなった。

 沈黙の中、ティアは手を伸ばして自らの指先を血で汚し、開かれたままだったモースの目を閉じる。

「この方はこの方なりに………。懸命に、世界を救おうとしておられた……」

「……預言に従うのが当たり前で正しいことだって。それが、教団の教えだったんだもんね……。こいつ、馬鹿だけど……ホントに馬鹿だったけど。でも、まっすぐだったのかな。考えを曲げないで、信じて……」

「人は誰もが己の意志を――『信念』を持っています」

 アニスの呟きの後で、ジェイドが言った。

「彼には彼の信念があった。それが独善的で、一義に固執しすぎていたのだとしても」

 イオンは、うずくまって嗚咽を漏らし続けているアリエッタに近付いている。

「アリエッタ……」

 逡巡の後、手を伸ばして肩に触れようとした瞬間、少女は弾かれたように身を離して叫んでいた。

「触らないで! ニセモノ!」

 イオンの、そしてルークの顔が強張る。席に立ったままだったもう一人の『イオン』が微かに震え、ぼんやりした目を向けた。

「ちょっと根暗ッタ! あんたねぇ、そんな言い方はないでしょ!」

「いいんです、アニス!」

「で、でも。イオン様……」

「いいんです。……僕をまだ『イオン』と呼んでくれてありがとう」

「……」

 複雑な表情でアニスは押し黙る。うずくまっていたアリエッタが、よろりと立ち上がった。ヌイグルミを固く抱きしめ、フラフラと扉へ向かっていく。ナタリアが誰に言うともなく確かめた。

「行かせてよいのですか?」

「引き止めても無駄でしょう」

 すげなくジェイドが返す。「そうね」とティアが意を重ねた。

「自分の気持ちは、自分自身で整理するしかないんだわ。苦しくても……」

「……それでどんな道を選ぶのかは、あいつ次第だ」

 アッシュが言う。廊下にアリエッタの背が消えていく様子を見ていたルークは、小さな声に気づいてそちらに顔を向けた。ぽつんと残されたもう一人の『イオン』が、壊れた音譜盤フォンディスクのように同じ言葉を呟き続けている。

「……にせもの。ボクは……にせもの……」

「――……くそっ!」

 ルークは吐き捨てた。だが誰も、彼やイオンにかける言葉を持たない。

「ラジエイトゲートへ行きましょう」

 常と変わらぬ、しかし幾分強くも思える声音でジェイドが言った。

「時間は待ってはくれません。崩落の時は近付いている」








 あの頃、名を呼ぶと、少年は本当に嬉しそうに笑ったものだった。

 そんなに喜ばれると少し照れるな。キミに会うのも久しぶりだけど。そう言うと、名前を呼ばれるのが嬉しいのだと言う。

『名前を呼ばれると、ボクはボクになる。そんな感じがするから』

 幽閉されていた二年間のことを、彼は殆ど語ろうとはしない。ただ、『あの頃のボクは、ヒトじゃなかった』と言ったのを聞いたことはある。『息をして、食べていただけ……』と。

『名前をもらって、初めてボクはボクになった。だから嬉しいんだよ。ボクの名前は――』



「――フローリアン!」

 アニスが言ったその言葉を聞いて、ルークが小首を傾げている。ジェイドが「古代イスパニア語で『無垢な者』という意味ですね」と説明していた。

「そっか……。うん、ぴったりじゃね?」

「いい名前だと思います」

 イオンは静かに微笑む。そんな彼にテオドーロが顔を向けて言った。

「レプリカであっても、今はあなたが導師であることに変わりはない。どうかお気をつけて」

「ありがとう、詠師テオドーロ。留守中、教団とフローリアンを任せましたよ」

 そう言うと、イオンは音叉型の長い法杖をつきながら飛晃艇のタラップを上っていく。

「あ、待って下さいよイオン様!」

 追おうとしたアニスは、「アニス、行っちゃうの?」という声を聞いて足を止めた。同じ顔のはず――いや、イオンの話を聞く限り、先に製造されたのはこちらのはずなのだが、ひどく幼く見えるフローリアンに向き直る。

「うん。まだやらなきゃならないことがあるから。でも、また帰ってくるからね。そうしたら、もっとちゃんと遊ぼう」

「本当!?」

「ああ。全部終わったら、アニスもイオンも戻ってくるよ。俺も顔を見に来るからさ」

 フローリアンはこくりと頷いた。ルークが手を振ったのを見て、真似をして振り返している。

 それらの情景を遠目に見ながら、掠めた既視感に思いを馳せた。『前』にもこんな光景はあったのだったか……。

(……ああ、そうか)

 ガキだった頃のルークがあんな感じだったんだよな、と思い出し、ガイは小さく笑った。




「ありがとう、アニス」

 アルビオールは星の南極点、ラジエイトゲートへ向かっている。その機室キャビンの座席に着いて、イオンは近くに座るアニスに微笑んだ。

「ほえ? なんですか、いきなり」

「色々と。フローリアンにも優しくしてくれて、名前まで付けてくれましたし」

「ああ、それは……。えへへ、そんなの大したことじゃないですよぅ」

「僕も。付けてもらおうかな」

「え?」

「アニスに。名前を」

 イオンはアニスに緑の目を向ける。驚いたようにそれを見返して、けれど笑うとアニスは首を横に振った。

「イオン様は、イオン様ですよ」

「でも……。僕はレプリカです。本当はイオンじゃない」

「根暗ッタの言ったことなんて気にすることないです!」

「アリエッタが悪い訳じゃない。……僕が彼女をずっと騙してきたのは本当のことなんですから」

「イオン様……」

「オリジナルイオンの死を隠すことを、僕はモースやヴァンに命じられていました。でも、言う機会はいくらでもあった。僕は……恐れていたんです。真実を明かすことで、自分の居場所を失うことを」

「……私だって、ずっと内緒にしてました。モースの命令であなたを見張っていたこと」

 イオンはハッとした顔をする。そんな彼に向かってぎこちなく笑うと、「でも、悔やむだけだと、いつまでも前へ進めない」とアニスは言った。

「イオン様がレプリカでも、それをずっと黙っていたんでも、そんなの関係ないんです。私はオリジナルのイオン様のことを知りませんし。そもそも、違う人でしょう? ルークとアッシュだってあんなに違うんですもん。

 ……私にとって、イオン様はあなただけですから」

「……ありがとう」

「もういいですってばぁ。それよりイオン様、お体は大丈夫ですか? ザレッホ火山のセフィロトでも倒れかけたんですから。くれぐれも無茶はしないで下さいね」

「ええ。でも、次で最後ですから」

 そう言って一度言葉を切り、イオンは打ち明け始める。

「……七体作られたイオンレプリカの中で、譜力の面では僕が一番劣化の程度が少なかった。それでも体力は大幅に劣化していて、少し譜術を使うと倒れてしまう。でも、僕はイオンの代わりだから……。力尽きるとしても役に立たなければならないと、そう思っていました。僕が死んでも、代わりはいくらでもいる。だから導師としての役目を全うすべきだって」

「イオン様……!」

 咎める目になったアニスに、イオンは苦笑を返した。

「大丈夫です。他のイオンレプリカたちと出会って、やっと分かったんです。僕はオリジナルイオンの代わりだけれど、シンクじゃない。フローリアンでもない。僕は僕なんだって」

「……」

「同じイオンのレプリカでも、僕たちはそれぞれに違う存在だった。能力だけじゃない。記憶も、経験も、考え方も。そしてそれは当たり前のことで、恥ずべきことではなかったんです。――これは、ルークが教えてくれたことでもある。そしてアニス、あなたにも」

「私?」

「僕はイオンだと。さっき、そう言ってくれたでしょう?」

 微笑みは何度も見てきたというのに、アニスはどぎまぎして頬を染める。それほどにその笑みは美しかった。

「不思議ですね。僕は今、本当の意味で『イオン』になった気がするんです。オリジナルイオンの代用品じゃない。違う場所に立っている、イオン」

 そう言って一度目を伏せ、イオンはアニスを見つめる。

「僕はレプリカだけど、一人の人間として世界を、導師として教団を変えていきたいと思っています。アニス、これからも僕を助けてくれますか?」

 アニスはイオンを見つめた。そして笑う。明るく、花のように。

「勿論ですよ! アニスちゃんにどーんと任せといて下さい!」

「頼みます」

 それを見たイオンの顔も輝いていた。




「おい、アッシュ」

 アルビオールの狭い通路で、ぼんやりと佇んでいた男に声をかけた。

「! ――ガイか。何の用だ」

「お前、最近よくぼんやりしてるよな」

「……!」

 ギクリとした様子のアッシュを見て、ガイは「あー、やっぱそうか」と頭を掻く仕草をする。

「言うか言うまいか、迷ってるんだろ」

「……気づいてやがったのか」

「ああ。お前、ロケットを持ってたからな」

「――何?」

 何故か目を剥いたアッシュに、「ナタリアとラルゴのことじゃないのか?」とガイは問うた。

「……そうだ」

「確かに迷うよな。この先、ラルゴとは戦うことになるだろう。場合によっては殺し合うことになる。奴が実の父親だということを、ナタリアにいつ告げるべきか……」

「あいつに教える必要はねぇ」

 にべなく言われて、ガイは僅かに表情を険しくする。

「確かに、知らないという幸せもある。だが俺たちがそれを知っている以上、いつかナタリアもそれを知る可能性があるだろう。知らずに父親を手にかけたと知ったら、彼女は尚更苦しむんじゃないか?」

「ラルゴは言うつもりがねぇんだ。だったら、俺たちが教えることでもない」

「しかし……」

「大体、お前だってあの屑に何も話してねぇだろーが」

 遮るように言われ、ぐっとガイは詰まった。その前で、アッシュは赤い髪を翻して背を向ける。

「俺はナタリアに負担をかけたくはない。……心配するな。いつか『結果』が出たとしても、恨みは全部俺が引き受けてやるよ」

 そう言って通路を歩いていく頑なな背を、ガイは立ち止まったまま見送った。

 ――その真意に、気づくことなく。








 ラジエイトゲートは、二千年の風雪と地殻の変動によって、表層部がかなり崩壊していた。イオンがダアト式封咒の扉を開けたが、その向こうが隆起した断層によって壁となっている。ミュウアタックと譜術を駆使して壁を破壊し、露出した古代の巨大生物の背骨を伝って、どうにか内部に入り込むことが出来た。

「イオン様ぁ、大丈夫ですか?」

「ええ……大丈夫です」

 杖に寄りかかるようにして歩くイオンの顔色は白い。幸いにもアブソーブゲートのような深さはなく、すぐにパッセージリングに到達することが出来た。ティアが前に立つと閉じていた制御板が開き、上空に図像が浮かんで譜陣が煌きだす。

「ティア!」

 糸が切れたように倒れたティアを、側で見守っていたルークが抱きとめた。

「ご、ごめんなさい……。これで最後だから、気が緩んだのね」

 ルークの膝の上で目を開けて、青ざめた顔で彼女は微笑んでいる。痛ましい思いでガイは言った。

「すまなかったな、ティア。安心して休んでくれ。今のところヴァンたちの妨害がないのが不気味ではあるが、早いとこやっちまおう」

 頷き、ジェイドがアッシュに目を向ける。

「そうですね。――ではアッシュ、お願いしますよ。これで総仕上げです。全てのリングに命令を送りますから、今までにないほどの第七音素セブンスフォニムの放出が要求されるでしょう」

「……ああ」

 一瞬、アッシュは表情を曇らせたように見えた。まるで何かに怯えるかのように。だがその色はすぐに隠され、制御板に指を走らせ始める。上空に浮かんだ図像のセフィロトを表す円、それらを繋ぐ線が輝き、『接続完了』の青い文字が浮かぶのをガイは見た。これで全降下を開始できるはずだ。

 だが。

「――なんだ!?」

 チカチカと図像が瞬く。『警告』と赤い文字が浮かんだ。同じように見上げていたジェイドが表情を険しくする。

「おかしい。操作が封鎖されています。これは……」

 惑星を示す大きな円と、その外周に並ぶセフィロトを示した小さな円。大きな円の内部にも小さな円は二つ描かれており、そのうちの一つ、星の中心に位置するセフィロト――今までは灰色で示されていた図像が、明るく輝いている。

「……第八セフィロトのリングが起動。アルバート式封咒発動により全セフィロトの操作に制限」

 図像に浮かぶ文字を読んで、ジェイドが愕然とした表情を作っていた。「なんだよ。それってどういうことなんだ?」とうろたえたルークに、やはり驚きに声を震わせながらティアが返す。

「ホドよ。ホドのパッセージリングが復活しているんだわ。でも、ありえない。だってホドは十六年前に崩落して消えているのに」

「エルドラントか……!」

 ガイが呻きを落とした。

「だが、このタイミングで。まさかこんな使い方をしてくるなんて……!」

「全てはヴァンの力だ」

 朗々たる声が響く。歩くと共に無骨な鎧を鳴らし、漆黒の大鎌を携えた巨漢が姿を現した。

「ラルゴ……!」

 全員が緊張して身構える。「お前が来たのか」とガイが睨んだ。

「その鎧……。相当の覚悟をしてきたってことだな」

「その通り。今回は足止め程度では済まさんぞ」

 ラルゴは大鎌を構える。

「ラルゴ! あなたやヴァンが何を企もうとも、それを許す訳には参りません。世界を変える。それは破壊で成されてはならないことなのです」

 ナタリアが強い目で言った。ラルゴが兜の下の目を向ける。

「それがお前の『信念』か? お姫様」

「勿論です」

 言い切って弓を構えようとしたナタリアの前に、ガイがスッと手を伸ばして押しとどめた。

「ナタリア。キミは戦わない方がいい」

「ガイ?」

「ふん……。相手が誰であろうとも、俺は容赦はせぬぞ!」

 低く嗤うと、ラルゴはゴウと音を立てて大鎌を振るう。飛ばされた炎気をガイが居合いで飛び散らせたのを皮切りに、戦いが始まった。

 複数の刃が幾度も打ち合う。ヌイグルミの太い腕から繰り出される殴打。その間隙に放たれる譜術。大鎌の軌跡に沿って大地から噴き上がる炎に焼かれ、癒しの譜が唱えられる。

「地龍吼破!」

「きゃ……!」

 ラルゴの技が砕いた床の破片に脛を打たれ、ナタリアが転倒した。ジロリと見やり、ラルゴは雷気をまとわりつかせた大鎌を槍のように突き出す。

「紫光雷牙閃!」

 放たれた雷の牙をまともに受けそうになったナタリアの前に、赤い髪をなびかせて男が駆け込んだ。

「アッシュ!」

「ぐうぅっ!」

 剣を構えて耐えたが、がくりと片膝をつく。ラルゴがせせら笑った。

「どうした。この程度で膝をつくとは、随分と弱くなったようだな」

「黙れ!」

「アッシュ、今、わたくしが……!」

 ティアが癒しの譜を唱えていた。痛みに顔を歪めながら弓に矢をつがえようとしたナタリアは、「お前は手を出すな!」と怒鳴られて動きを止める。

「な、なんですの……?」

「こいつは……俺が倒す!」

 剣を杖のように使って立ち上がり、アッシュはラルゴに斬りかかった。「アッシュ、無茶するな!」とルークが叫んだが、止まらない。

「ぐぁっ!」

 幾度かの打ち合いの後、大鎌に押し負けて床に転がった。「アッシュ!」と仲間たちが叫ぶ。ガイはラルゴに怒鳴った。

「ラルゴ! 本当にこれでいいのか。ヴァンに従えば全てが消える。あんたも、あんたが守るべきものも! 生きるって選択肢はないのかよ!」

「ヴァンの理想に共鳴した時、俺は惜しむことをやめたのだ。奪うことも失うこともいとうまいと。何があろうとも……それは変わらん!」

 振り上げられた大鎌が、まだ立てずにいるアッシュに向かう。――その刹那。

「ぐっ!?」

 風を切り。一本の矢がラルゴの脇腹に当たったが、鎧に弾かれて床に落ちた。

 ラルゴは見る。頑強な鎧にひびを入れた、その矢を放った少女を。少女もまた、ラルゴを見ていた。

「……どうしたお姫様。以前より腕が鈍っているようだぞ。怖気づいたのなら、今からでも城に戻って閉じこもっていたらどうだ」

わたくしを馬鹿にしないで。わたくしはお父様に倣い、ランバルディア流弓術を極めた者!」

 そう言い、ナタリアは新たな矢をつがえる。

「やめろ、ナタリア……。お前は、手を汚すな……!」

 立ち上がれないままアッシュが呻きを落とした。僅かに瞳を揺らし、しかしナタリアは構えを解くことがない。

「父に倣った、か……。あくまでこの世界を――キムラスカを守ることを選ぶか」

「ええ。血の繋がりではない。絆と、それがもたらした誇りがわたくしにそうさせる。……あなたが何者であろうとも……」

 弓を引き絞る手に力を込めた。

わたくしはそのために。勝ち取るためにここに来たのですから!」

「ふっ。ははははは! よく言った!」

 笑い、ラルゴはナタリアに大鎌を向ける。

「ならば見事俺を討ち取ってみせろ!」

「ラルゴ!」

 限界まで張り詰め、つがえられたナタリアの矢の先が、雷気を帯びて眩く輝いた。対して、ラルゴもまた大鎌に紫雷の輝きをまとわりつかせる。

「雷光よ貫け! 紫光雷牙閃!」

 獰猛にラルゴが吼えた。

「聖なる雷よ! ――ヴォルテックライン!」

 高らかにナタリアが叫ぶ。

 水平に走った二条の雷は正面からぶつかり合い、轟音を響かせて閃光が炸裂した。が、その中を突き抜ける! ―― 一本の矢が。

「ぐっ……。ぐぉおおっ!」

 咄嗟に盾のようにかざした大鎌、そして鎧までもを打ち砕かれ。貫かれた胸を押さえて一度こらえはしたものの、巨体は地響きを立ててその場にくずおれていた。

 微かに、焼け焦げた匂いが漂っている。

 うつ伏せに倒れたラルゴに近付いたナタリアは、彼の襟元から零れ落ちている銀のロケットに気がついた。蓋は開き、中の写真が露わになっている。

「これは……。……『新暦1999年。我が娘メリル誕生の記念に』……。――まさか!?」

 否定を望むがごとき目を向けられて、しかし、アッシュもガイも目を伏せた。ナタリアの体が震え始める。

「………くだらない、ことだ……」

 低く声が響いた。倒れ伏すラルゴが僅かに目を上げ、呟いている。

「俺は、十九年前に何もかもを失った……。その空虚を、埋めるために……ヴァンの計画に、乗ったのだ。……ヴァンの計画はイカれている……。だが、そうでもしなければ……世界は、変えられない……。それが、俺の信念……。そして、お前は……世界を存続させたまま、変えることを目指した……。それが、お前の信念……。ここにあるのは、信念と信念のぶつかり合い………ただ、それだけなのだ……」

「それぞれの、信念……」

 呟いたナタリアに、「そうだ」と掠れた声で返すと、ラルゴは言った。

「ヴァンは、エルドラントに……レプリカホドにいる。大地の情報を抜き、……いずれ外殻が崩落すれば、レプリカ大地を生成するだろう……」

「パッセージリングごと……。ローレライが消えれば地核も振動しない。そうして新たな外殻大地を作るという訳ですか」

師匠せんせい……。本当に、レプリカ大地が完成したら、ローレライも、自分自身も消しちまうつもりなのか?」

 ジェイドの声を聞いて、ルークが暗く呟いている。

「……敵への情に囚われるな……。そんなことでは、あいつには勝てぬ……ぞ」

 ラルゴは言った。その息が絶える、間際に。

「さらば……だ……。……メリル……」

 落とされた微かな声が消えていくのに合わせたように、物言わなくなったラルゴの体は輝き、光となって拡散していく。

音素フォニム乖離……」

 ガイが呟いた。

「ここはプラネットストームの発生地点です。死によって異常をきたした音素が引きずられ、物質崩壊を誘発したのでしょう」

 ジェイドが言う傍らで、イオンは目を伏せてじっと祈りを捧げている。そしてナタリアは。

 ナタリアは消え去ったラルゴを見下ろす位置に、その姿勢で立ったままだった。

「…………お父、様……」

「ナタリア……」

 囁きのような声を聞きとがめて、ティアが眉を曇らせる。

 ラルゴと共に彼が身にまとっていた衣服や鎧も消失していたが、ナタリアが手に取っていたロケットは残っていた。それを握る手にもう一方の自身の手を重ね、ぎゅっと胸元で握り締める。

 そんな彼女から目を戻して、アッシュは「音素乖離、か……」と口の中で呟いた。その視線は、次にルークへと向かう。

「冗談じゃねぇ……っ」

「ちょっと、アッシュ!?」

「おい!」

 アニスとルークが叫び、ナタリアはハッとして顔を上げる。床に倒れ、血の気のない顔で完全に意識を失った彼の姿を認めて、悲鳴に近い声で叫んだ。

「――アッシュ!!」








 中庭の花々は美しく咲いている。ペールの跡を継いだ庭師がよくやっているのだろう。

「――で、どうなんだ?」

 与えられた来賓用の一室で。ガイは窓から視線を移して、赤い瞳の男に問うた。

「アッシュが本格的な検査を頑として拒んでいますから確かとは言えませんが……。恐らく、コンタミネーションが進行しています」

「くそっ……、やはりそうか……!」

 歪んだ顔を伏せて、ガイは窓枠を拳で叩いた。

「以前から自覚症状があったのでしょう。私も迂闊でした。彼の注意が散漫になっていたことには気づいていたのですが」

「あいつ、なんで言わなかったんだ!」

「言えなかったんでしょう。現状では、同位体のコンタミネーションを止める手立てがない」

「だが、このままだとルークは!」

「ガイ。アッシュを責めるのはお門違いですよ」

 冷たい声でジェイドはガイを黙らせる。

「それよりも、ルークにも検査を受けさせましょう。これ以上隠していても無意味です。一切を話して、彼自身に……」

「駄目だ! ルークには知らせない!」

「ガイ……」

 ジェイドはガイを見る。片手で眼鏡の位置を軽く直した。

「あなたはいつか言いましたね。『前』は不本意な結果に終わった。だから『今』は夢かもしれないと思うと。ですが、これは現実です。あなたの夢ではない」

「……ジェイド」

 滅多に見せない彼の険しい表情を前に、ガイは怯んだ思いで言葉を飲む。

「いつまで未来の幻影に縛られているつもりなのですか。いい加減に目を覚ましなさい、ガイ!」




 目を開けると天井が見えた。見慣れない――まだ慣れない、自分の部屋のもの。

 かつて自分がこの部屋を使っていた頃は、これとは違うものだった。子供の成長に合わせて細やかに改修され、壁紙を張り直された天井は、七年間ここを使っていた主の影を色濃く宿して、いつまで経っても落ち着かない。

「目が覚めましたのね、アッシュ」

 間近で声がした。見れば、ベッドサイドに置いた椅子から腰を浮かせてナタリアが覗き込んでいる。

「よく眠っていましたわ。もう午後も遅いですわよ」

 ラジエイトゲートで倒れた後、アッシュはすぐに意識を取り戻したのだが、ナタリアは勿論、ジェイドやガイがそのまま旅を続けることに難色を示した。それでも、勧められたベルケンドでの精密検査は拒み通し、バチカルでしばらく休息を取ることでなんとか合意したのだ。そんな暇はない、と内心忸怩たる思いでいたが、身体の方は実際、休息を求めていたらしい。

「あ、リンゴを召し上がりませんか。先程剥いたのがありますのよ」

「まさか、お前が剥いたのか」

「剥いたのはメイドですけど……。わたくしが剥いたからといって、味まで変わるわけではありませんわ」

「す、すまん……」

 むくれてみせたナタリアに謝ると、彼女は淡く微笑んだ。

「……お父様に、ラルゴの話をしました」

「……そうか」

わたくしはとても恵まれていたのですわね。お父様は血の繋がらないわたくしを、それでも娘として受け入れて下さった。ラルゴも、殆ど話はできませんでしたが……」

 リンゴの皿をアッシュの手に渡して、ナタリアはポケットから銀のロケットを取り出す。中に入っているのは赤ん坊の写真――産まれたばかりの頃のナタリアの寝顔だ。大切にしていたのだろう。二十年近い年数を経て、写真は全くと言っていいほど痛んではいない。

「世界が落ち着いたら、今はケセドニアで働いているばあやに会いに行こうと思っているのです。お父様もそう勧めて下さいました。ラルゴや、もう亡くなっているそうですが、わたくしを産んだお母様――シルヴィアさんと言うのだそうですけれど、彼女たちの話を聞くために」

「ああ、そうすればいい。……お前はお前だ。父親が王でも、そうでなくても」

「ありがとう。ありのままを受け入れようと、今は思えるようになりました。――ルークのことも」

「……」

わたくし、どうしても心のどこかでこだわってしまっていたのですわ。けれどルークはルーク。わたくしの大切な幼なじみであることに変わりはないのですものね。そして、あなたが彼とは違う、わたくしにとって特別な……」

 最後まで言えずにナタリアは口を閉じた。幾分俯かせた頬は淡く染まっている。

「……ホドはどうなった?」

 空気を断ち切るようなアッシュの問いが聞こえ、ナタリアは顔を上げた。

「は、はい。マルクトの調査団が確認しました。かつてホドが存在していた海域に、確かに島が現れていると」

「間違いねぇのか……。ラルゴが言ったことが本当だとすると、そこには、ヴァンがいる」

「ええ。そして、ホドのパッセージリングで彼が復活させたアルバート式封咒を解かねば、外殻の降下は出来ずに……」

「世界は崩落して滅ぶ。――チッ。こんな所でグズグズしている暇はねぇ」

 ベッドから降りようとしたアッシュを、ナタリアが慌てて押しとどめる。

「待って下さい、アッシュ。今はまだ無理ですわ」

「そんなこと言ってられる場合じゃねぇだろうが!」

「あなたではなく! いえ、あなたもですが。ホドの周囲にはプラネットストーム状のエネルギー流が噴き上げていて、それが障壁となっているのです」

「何……!?」

「これをどうにかしない限りホドへは近づけません。プラネットストームを停止させようにも、その方法もありませんし……」

「くそっ!」

 悪態をつくアッシュの隣で、ナタリアは沈んだ目で続けた。

「そもそも、ホドへ入れたところで、アルバート式封咒の解呪方法もはっきりはしないのだと大佐は言っていましたわ」

「……フン。それは問題はねぇだろう」

「まあ、そうなんですの?」

「ホドとアクゼリュスが崩落することで、アルバート式封咒は勝手に解けていたんだ。つまり、もう一度リングを消しちまえば……」

「ホドを再び崩落させると言うのですか!? それは……!」

「ガイや、ティアには恨まれるだろうな」

 皮肉に笑い、アッシュは呟く。

「……何もかもが終わったら。お前もきっと、俺を恨むんだろう

「え……? 今、なんと仰いましたの?」

「何でもねぇ」

 鎧われた心はもはや顕れることはなく。アッシュは、不安な瞳のナタリアに背を向けた。




 花は変わらず美しいのに、どこかよそよそしく感じてしまうのは、この庭に立つのが久しぶりだからなのか。それとも、花も己の前に立つのが招かれざる客に過ぎないことを知っているからなのだろうか。

「ルーク」

 声をかけられて、ルークは花壇の花から視線をそちらに移した。白い法衣を着た華奢な少年が歩み寄ってきている。

「イオン。調子、だいぶ戻ったみたいだな」

「ええ。ゆっくり休養を取れましたから。ファブレ公爵家の方々のおかげですね」

 濁りのない微笑みを向けられて、ルークは僅かに目線を落とした。

「アッシュの具合はどうなのでしょうか」

「ああ……。今は寝てる。ナタリアがついてるみたいだけど」

「そうですか。……彼も、色々と無理をしていたのでしょうね」

「そうだな。あいつ、戦って、パッセージリングを操作して、父上や伯父上と連絡とって。大変だったもんな。俺は……」

 言いかけて、ルークは口をつぐむ。その様子にイオンは瞳を翳らせたが、気づかなかったように言葉を続けた。

「レプリカホド……エルドラントの存在が確認されたそうですね」

「あ、ああ。障壁があって、突入は難しいみたいだけど」

「でも、行かなくてはならない。……僕もご一緒させていただくつもりなんです」

「イオン! ……そりゃ、お前とはずっと一緒に頑張ってきたし、最後までそうできたらとは俺も思うけど……危険だろ!」

「危険は承知です。でも、僕は最後まで見届けたい。導師として、この世界に生きる一人の人間として」

 イオンはルークを見つめる。ルークはイオンを見返し、それを逸らした。

「……お前って、結構ガンコだよな」

「すみません」

「別に謝ることじゃねぇけど。ただ、同じレプリカなのに、お前に比べて俺は……」

「イオン様ーっ。なーにしてるんですかぁーっ?」

 小さなルークの声は、アニスの元気な声にかき消される。アニスと、その後ろからティアが近付いてきた。アニスは、手に赤や白のとりどりの花束を持っている。

「アニス、それは……」

「えへへ。奥様にお許しをもらって、庭から分けてもらっちゃいました」

 嬉しそうにアニスは笑った。「アッシュに持って行ってあげようと思って」と、ティアが微笑んで口を添える。しゃがむと、ルークの足元にいたミュウを抱き上げた。

「ティアさん。ティアさんは、お花いらないですの? 元気になったんですの?」

 長い耳を揺らして問いかける小さな生き物に微笑みかけて、「大丈夫よ。私もエルドラントへ行けるわ」と返す。

「ティア! 何言ってるんだよ。お前は、障気で体が……!」

「平気よ」

「そんな訳ないだろ! 一度障気に侵されたら、治す方法はないって」

「それでも行きたいの。兄さんや、教官と決着をつけるために」

 ティアの声は厳しく、視線は揺るぎがなかった。言葉を失ったルークを見て申し訳なさそうな笑みを浮かべ、「迷惑はかけないわ。自分の身を守るくらいはできるから」と言う。その表情を見ていられずに顔を背け、ルークは口元で苦笑した。

「強いな。お前は」

「そ、そうかしら……」

「ホント、強すぎ」

(俺の助けなんかなくても。ティアも、イオンも、……ガイも。誰も彼もみんな……)

 広い中庭の一角にある東屋風の部屋の扉が開き、空の皿を載せたトレイを持ってナタリアが降りてくる。こちらに気づいて声を投げた。

「あら、みなさんお揃いで何をしていますの?」

「ナタリア。アッシュの具合はどう?」

 手を振ってアニスが駆けて行き、イオンやティアもゆっくりその後に付いて行く。

 ルークは、その場に残っていた。

 話している仲間たちを見つめ、背を向けてフラリと歩き出す。



 特にあてがあったわけではない。ただ、いたたまれなかっただけだ。怖じることなく成すべきことを見つめ、確かな大地を踏みしめている、そんな仲間たちの側にいることが。

 バチカルの上層には、下層を見下ろすように張り出した展望台のような所が幾らもある。そんな場所の一つ。夕日に染まった空が広く見えるそこには、たまたま途絶えたのか、衛兵や他の市民の姿はなかった。鉄製の柵の側には木が一本あり、赤と黒のコントラストによって浮き上がって見える。

「――あの男は全てを高みから見ている」

 声が聞こえた。浮かぶ木の陰から、金の髪を結ったリグレットが姿を現す。

「所詮、お前も盤上のコマだ。都合よく動かされ、使い捨てられるだけの存在に過ぎない」

 どうやってこのバチカル上層まで潜り込んだのか。幾度も戦ってきたこの女をルークは見たが、剣を抜く気にはなれなかった。

師匠せんせいだって……。俺をコマとしてしか見てなかった」

「そうだ。だが、閣下はお前に選ばせてくれる。コマとしてのあり方を。あの男のように、お前を繋ぎ、目を塞ぐことはない」

「……」

 黙りこんだルークの前に、リグレットの手がさし伸ばされる。

「来い。今、閣下はお前を必要としている。閣下のもとで、お前は自分の成すべき役割を果たすのだ」




「ルークぅー! ルークってばーー!!」

 声が響いている。夕闇に沈みかけた中庭に下りて、ガイは大きな声をあげているアニスに問いかけた。

「ルークがどうしたんだ?」

「少し前から姿が見えないの」

 眉を曇らせて言ったのはティアだ。その腕から飛び降りて、「ボクもご主人様を探すですの」と、ミュウが走り始める。

「もう。どこ行っちゃったんだろ」

「そうだな。もうすぐ夜になるってのに。よし、俺も心当たりを探そう」

 俄かに騒がしくなった中庭の片隅に、一輪の花が落ちていた。以前にアニスの腕から零れ落ちていたのだろう。美しく咲き誇っていたはずのそれは誰かの靴で踏まれ、無残に赤い花びらを散らしていた。






07/04/30 すわさき


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