二度と返らない、過ぎ去ってしまったもの。『今』の歴史においては、存在さえしなかった瞬間とき

 それでも、その光景は胸に焼き付いている。

 

 探しあぐねて歩き回り、どこにいるのかと思えば、軍港の突端に積まれたコンテナの上に腰掛けている姿を見つけた。

「何してるんだルーク、探したぞ」

 言外に身勝手な行動をたしなめる響きを込めてはみたが、案の定、伝わったようではない。視線を向けることすらせずに生返事だけを返し、相変わらず海を見つめている。

 まあ、それだけ珍しいのだろう。記憶を失ってから、海を間近に見たのは初めてだったはずだ。彼の故郷バチカルは港町だが、遥か高台の屋敷から一歩も出ない生活を送っていたのだから。

 かしましい鳴き声をあげて、海鳥が頭上を飛んでいく。西に面した海原には、そろそろ熟れきった太陽レムが落ちていこうとしていた。ねぐらへ帰るのか、貪欲に本日最後の狩りにいそしむつもりなのか。

「……なんか、グラグラするよなー」

 ぽつりと少年が言った。僅かに顎を上げた動きにつれて、長い髪の先がサラサラとコンテナを滑る。

「ん?」

「すっげー広い。区切りとか、全然ねぇだろ」

「……そうか」

 七年間少年が見ていた空は、周囲を囲む屋敷の棟の形に区切られた、中庭から見上げられるだけのものだった。

 思いがけない形で始まってしまった帰還の旅は、後半月もすれば終わりを告げることだろう。綺麗で頑丈なあの鳥かごの中へ、少年は帰る。扉を閉ざして元の通りに。解放をもたらす成人の日に焦がれながら、区切られた空を見上げ続けるのだ。

(その日が来れば、俺はお前を殺すんだろう)

 彼が解放される、その日まで待てと、かつての守り役であり今や復讐の同志である男は言った。今はまだ早い。復讐には相応しい時節があると。

(……待つ必要があるのか?)

 自然と、手が腰の剣に触れた。

(あの鳥かごの中で。このまま緩やかに朽ちていくのなら……)

 指先が鍔をまさぐる。それを押し上げようとした、刹那。

「……なあガイ」

 呼びかけられ、はっとして表情を取り繕った。

「な、なんだ?」

「世界って、こんなに綺麗だったんだな……」

 朱に染まった空を惹かれるように見上げる横顔は、やはり赤く照り映えている。それに目を奪われた気がして、剣に掛けていた手を後ろめたい気分で下ろしていた。

「そうだな。……それより、もう飯の時間だぞ。みんな待ってる。行こうぜ」

師匠せんせいも?」

「ん? ああ。グランツ謡将もジェイドもイオンも、女の子たちもな」

「っと。そっか。師匠を待たせる訳にはいかねーもんな」

 少年はコンテナから下りたが、それでも名残惜しそうに赤い空と海を返り見た。

「ルーク。そんなに気にしなくても、明日っからたっぷり見られるぜ。船の修理は今夜中には終わる。それに乗るんだからな」

「分ーかってるっつーの。行くぜ」

 唇を尖らせて大股になった少年に苦笑して、後を追う。上空を横切った海鳥の声に、ふと振り返った。

 空は赤い。果てなど見えず、世界はどこまでも大きく広かった。

(鳥は、空にいる)

 浮かんだ思いはくだらないものだ。鳥は飛んでいるべきものなのだから。






 記憶は、いつも赤と金に彩られていた気がする。




 風を切り、鳥は彼方の西へと向かおうとしていた。

 金色からゆっくりと血の赤に染まっていく景色の中に、彼はまっすぐに立っている。空の色を映して、周囲の何もかもが赤く燃えていた。眼下に広がる街。低く轟き、ひび割れ崩れていく神殿。

 

『……でもさ、思ったんだ。ガイ、俺たちは預言スコアを妄信する世界を否定してるけど……最初から、本当に結果が分かっていたなら……例えば、俺が「ルーク」に関する預言を全部知ってたなら、……もっと違う道も選べたのかなって』

 

 あれはいつ交わした会話だったのだろう。最後の戦いに挑む前夜だっただろうか。……いや、もしかしたら夢だったのかもしれない。彼の夢は何度も見た。戻ると信じて待っていた頃も、伸ばした手に虚空を掴んだことを思い知らされてからも。



「――ティア!」

 返り見て足を止めてしまっていた彼女に呼びかけたのは、自分自身が思い切るためでもあった。今は行かねばならないのだ。この崩壊する大地に彼一人を残して。

 声をかけるために自身も振り向いた刹那、彼の姿が視界に入った。

 赤い空を背負って、彼は揺れる神殿の高い場所に立っている。名残を惜しんでいるようではなかった。こちらを見てはいない。よどみない動作で音叉型の剣を振り上げ、石の床に突き立てている。

 かつて古代の塔の上で見たものと同じ動作だった。思えば、あの時も彼に駆け寄ろうとする彼女を引き止め、取り押さえていたのだ。振り向かない彼の背を見ながら。それが、彼の望みだったから。

(ひどい奴だよ)

 剣を突き立てた床に譜陣が広がり、溢れ出した光が彼を足元から照らしている。剣は音素フォニムとなって消え、譜陣に乗ったまま、ゆっくりと彼の姿は地の底に沈んでいった。それを見る少女の肩が震えているのが目に入る。駆け戻りたいのを必死でこらえているのだろう。

(何もかもを置いて、一人で行っちまって)

 手厚く育てていたはずの子供は、腕をすり抜けて行ってしまった。さっさと大人になって、永遠に手の届かぬ遠くへ。振り向くことなく、己の信念のままに。

 

『約束……とうとう守ってくれなかったわね』

 夜陰に白く浮かぶ墓碑の前で。こうべを垂れて、少女の頬には透明な涙が伝っている。

 暖める手もかける言葉も、己は持ちはしない。少年の背にも。少女の涙にも。いつも傍で見ているだけだ。

 

(本当にひどいのは俺だ)

 彼の重荷を分かち合うつもりだった。共に生き抜いていきたかった。

 こんなことになるのなら。いっそのこと、鳥かごの口を硬く閉ざしておくべきだったのだろうか。彼の両親がかつてそうしていたごとく、厚く庇護の翼で覆って。傷つかぬように、飛び立てぬように。

 後悔をいくつ重ねても取り戻せない。過ぎ去った時は返ることがない。

 だから。もう一度それを手にする奇跡を得た時、誓ったのだ。今度こそ手を離すまい。命かけて護り抜こうと。




 碧緑の瞳を上げて、少年の視線がこちらを射抜いてくる。

『俺は、変わらなくちゃいけない。――変わりたいんだ』











 海上には艦隊が集い、波に揺れていた。船体を真紅に塗った一団と青蒼の一団とがあり、西と東に分かれて陣を布いている。扇状に展開した前方には、そそり立つ光の壁が見えた。

「エルドラントより音素フォニム反応。来ます!」

  真紅の一隻の艦橋ブリッジで。兵士が計器を睨みながら鋭い声をあげている。艦長席から、真紅の軍服をまとった壮年の男が朗々たる声を落とした。

「来たか。譜術障壁起動」

「了解。譜術障壁起動!」

 戦艦の舳先から譜術の光が発し、艦全体を覆う。間を置かず、光の壁の向こうから撃ち放たれた光弾がぶつかり、四散して艦を揺るがした。激しい閃光と衝撃に乗員たちは耐えている。静まるのを待ち、艦長席から指示が飛んだ。

「砲門を開け。こちらからも攻撃を開始する」

「了解。砲門開放! 目標、エルドラント」

「撃て!」

 光弾が無数の筋となって光の壁へと向かう。他の多くの艦からも同じように攻撃が始まっていた。その殆どは光の壁に阻まれて消えていたが、これは想定されていたことだ。

「撃て、撃て! 間断を入れるな! 殿下たちが突入を果たすまで、奴らを引き付けるのだ!」



 光と爆音が交わされている戦場の、彼方上空。陽光を弾いて、銀の翼が飛翔していた。

「始まりましたね」

 窓から見下ろしてジェイドが言う。

「ああ。『前』と比べれば砲火はかなり少ない。譜業砲の製造が間に合わなかったんだろうな。それでもアルビオール一機だと、ここまで近付くのは容易じゃなかっただろうが」

 やはり窓の外に視線を向けてガイが言った。

 そこは、操縦席や座席の据えられた機室キャビンから扉一つ隔てた、後部に当たる空間だ。金属製の階段が一つ、天井ルーフに向かって伸びており、その半ばにアッシュが立っている。機体が大きく揺れたのを手すりを握ってやりすごしたが、じきに揺れがなくなった。

「砲火の死角に入れたようです」

 ジェイドがそう言ったのとほぼ同時に、伝声管から操縦士のギンジの声が響く。

『作戦地点に到達しました』

 アルビオールは光の壁の間近、かなりの高空に垂直浮遊ホバリングしていた。

「プラネットストーム状の障壁のおかげで気流は乱れている。死角内で静止できるギリギリの地点を見極めることが出来るとは、流石はギンジですね」

 そうジェイドが呟く中、アッシュは靴音を響かせながら階段を上り始める。

「アッシュ。ドジ踏んで落っこちるなよ」

「誰に向かって言ってやがる」

 壁に据えられたレバーを引き上げて言ったガイを返り見て、アッシュは顔をしかめてみせた。その背後の天井が開いていき、風が流れ込んで彼の長い髪や衣服をなびかせる。

 四角く開いた上部昇降口ハッチを通って、アッシュはアルビオールの上に立った。目の前の一面を、噴き上げ続ける光の奔流が覆い尽くしている。

「……っ」

 両手を構え、意識を集中するように軽く目を伏せた。その全身が金色に輝き始め、それが構えた手の先に集中する。見る間に、凝った光は白い巨塊となった。そこから風が吹き出しでもしたように、アッシュの髪が激しくなびく。

「うおぉおおぉおっ!」

 雄叫びと共に。

 鋭い目を上げ、アッシュは白光を撃ち放った。まっすぐに飛んだそれは光の壁に衝突し、巨大なあぎとで一口に齧り取る。



「壁に穴が開いたよ!」

 アルビオールの機室キャビンで。広い風防ガラス越しにそれを見ていたアニスが歓声をあげた。傍らのイオンの腕の中で、「すごいですの!」とミュウも騒いでいる。

「アッシュの超振動……。話には聞いていましたが、凄まじい威力ですね」

 そう呟くイオンの背後で、それらの光景を見ながらナタリアは表情を翳らせていた。彼の体調は未だ万全ではない。それが分かっていたからだが、アッシュは何としても足を止めようとはしなかった。事実、彼の超振動がなければエルドラントへの突入すら不可能とされていたのだから無理もないが。

(そう。やるべきこと、出来ることを今は行うだけ……ですのに)

 ナタリアは手のひらを胸できゅっと握る。それだけのはずなのに、どうしてこんなにも不安になってしまうのだろう。どうして。

(あんなにも哀しそうなのですか? アッシュ……)

 七年間、離れていた。今は一緒にいる。それなのに彼が遠い。背を向けて拒み、再び遠くへ行こうとしている、ような。

(どうして……)

 そして、それは彼だけではないのかもしれなかった。七年間を共に過ごした、焔の髪を持ったもう一人の幼なじみ。彼は今。

 激しく咳き込む音が間近に聞こえて、ナタリアはハッと意識を浮上させた。背後の座席に腰を下ろしていたティアが、口元を押さえて苦しげに背を曲げている。

「ティア! 大丈夫ですか?」

 慌てて近寄り、背をさする。青ざめた顔を上げ、それでもティアは微笑んでみせた。

「大丈夫……。ちょっとむせてしまっただけ」

 そう言った彼女が口元から離した手のひらに赤く濡れた部分を見つけて、ナタリアは顔を強張らせる。

「ティア、あなた……!」

 ベルケンドの医者は何と言っていたのだったか。

 障気蝕害インテルナルオーガン。障気は内臓に蓄積され、風邪のような咳と激しい痛みをもたらす。進行と共に内臓は破壊されていき、やがて衰弱して死に至る、と……。

「平気。私は行かなくちゃならないんだもの。エルドラントへ。あそこには――」

「穴が縮んじゃいますの!」

 甲高いミュウの声が聞こえた。光の壁に丸く開いていた巨大な穴が、じわじわと光に浸食されていきつつある。

「突入します。しっかり掴まっていて下さい!」

 操縦席からギンジが告げ、がくんと加速重がかかった。



 ギンジの声が伝声管から聞こえた刹那。艇内へ戻ろうとしたアッシュはずるりと足を滑らせた。力の抜けた足が自分の体重を支えそこなったかのごとく。直後、加速したアルビオールから外に吹き飛ばされそうになる。

「アッシュ!」

 浮き上がりかけた体から伸ばした手を、ガイの手が掴んだ。そのまま引きずり落とされ、間髪入れずに昇降口ハッチが閉ざされる。

「どうやら突入成功です」

 引き下ろしたレバーに右手を掛けたまま、ジェイドが窓の外に目を向けて言った。そこから見える眼下には、空をぐるりと光の壁に囲まれた白い街が広がっている。――遠い昔に滅んだホドの街。その影を映したレプリカが。

「……またここに……還ってきたのか……」

 我知らず、そんな呟きをガイは落としていた。幾人もの『家族』との永訣を迎えてきた場所だ。流された血の中で。一面を染めた夕景の中で。今見下ろしている模造の街は、未だどの赤をも知らず、白々と静まり返っている。

「……ガイ。分かっているとは思いますが、優先すべきはアルバート式封咒の解呪と外殻の全降下です」

「分かってる。だが、ここにはあいつが……ルークがいるはずなんだ」

 窓の向こうから視線を外さずに言うガイを見つめ、アッシュは先程ガイに掴まれた手を握り締めると目線を逸らした。

 ルークが姿を消してから十日ほどが経つ。

 アッシュの休息のためにバチカルのファブレ邸に滞在した、その日に彼はいなくなった。門を守っていた白光騎士の報告により、一人で屋敷から出て行ったことはすぐに分かったが、それきり戻らない。しまいに屋敷の使用人たちまで駆り出してバチカル中を探し回ったが、見つからなかった。

 そんな中、街を警備しているバチカル守備隊から情報がもたらされたのだ。ルークらしき赤毛の少年の姿を港で見かけたと。ただし、彼は一人ではなかった。ストールを巻いて顔を隠すようにした女性と連れ立っていたのだと言う。その女性の身体的特徴を聞いてすぐに、『教官……!』と、ティアが呻きを落とした。アニスがうろたえた声をあげる。

『それってどーゆーこと!? ルークは、リグレットにさらわれちゃったの?』

『いえ。話を聞く限り、無理やり連れられていったようには思えません』

『大佐。それは……』

 眉を曇らせて、ナタリアがジェイドを見つめた。淡々と彼は結論付ける。

『ルークは、自らの意志でリグレットに従った……ということでしょう』

『馬鹿な!』

 怒鳴ったのはガイだった。『どうして、そんな……』と、ティアが震える声を落としている。

『彼が何を思ってそうしたのかは、この際、問題ではありません』

 誰もが顔色を沈めた中、ジェイドの感情の薄い声が続いた。

『懸念すべきは、彼が単独で超振動を操る能力を有しているということです。不完全ながら……いえ、不完全だからこそ脅威が大きいと言える。一度は打ち棄てたルークを今またヴァンが引き入れた。それだけの利用価値があるということです。彼は、我々にとって厄介な敵になったのかもしれない』

『そんな。敵だなんて……』

 イオンが弱々しく抗議したが、ジェイドはにべもなかった。

『その覚悟はしておかなければなりません。これが、今の現実なのですから』

 ダン、と音が響いた。ガイが無言で拳を机に打ちつけた音だ。

『……エルドラントへ行くぞ』

『アッシュ?』

 低く言ったアッシュに、ナタリアが顔を向けた。

『ヴァンはエルドラントにいる。奴がルークの超振動を使うつもりなら、手元に呼び寄せているはずだ』

『ですがアッシュ。あなたは、まだ身体が……!』

『グズグズしていられる暇なんてねぇんだよ。――そうだろう?』

 アッシュが向けてきた険のこもった目を見返して、ジェイドは己の瞳を伏せると眼鏡を軽く押し上げた。

『……確かにそうですね。

 アルビオールをお借りします。ピオニー陛下に、エルドラントへの早期進軍を提言しなければ。インゴベルト陛下には、ナタリア、あなたからお願いできますか』

『わ、分かりました』

 こうして仲間たちはすぐに動き出したが、それでも三勢力と足並みを揃えて全ての準備を整えるまでに十日かかった。

 そして今、彼らはエルドラントへ乗り込んでいる。



「ホド神殿に降りるんだったな」 

「ええ。正確にはその手前、ガルディオス邸前の広場を予定しています。ガイの話を聞く限り、恐らく、パッセージリングはホド神殿のどこかにあると推測できますから」

 ジェイドの答えを確認すると、アッシュは扉をくぐって機室キャビンへ戻って行った。ガイは、まだ窓の外を見つめている。

「――ガイ」

「分かってるって。また殴られたくはないからな」

 ジェイドに顔を向け、ガイは苦笑を浮かべてみせた。無意識なのか、左頬を軽くさすっている。

 

『あなたの知る「以前の私」がこうしたことがあるのかは分かりませんが……痛いですか?

 この痛みは現実のものです。夢なら、痛みも感じられない。

 現在いまを見なさい、ガイ。未来の――ああ、あなたにとっては過去ですか。その記憶にいつまで囚われているつもりなのですか。それでは預言スコアに囚われ、それを回避するために暴走しているヴァンと変わりありませんよ』

 

 ルークがヴァンの元へ向かった。だが、突入の手はずは数日を経ても整わない。そんな状況に焦ったガイは、単身でエルドラントへ向かおうとした。何を置いてもルークを失う訳にはいかないと。そんな彼をついに殴り、ジェイドはそう言ったのだ。

「確かにそうなのかもしれないな。俺とヴァンのやることに違いなんてないんだろう。むしろ俺のやったことは……歴史を、悪化させるだけのことだったのかもしれない」

 苦い笑みのまま呟いたガイを、ジェイドは赤い瞳で見つめている。

「……自分の蒔いた種から芽吹いたものを刈り取ることすら出来ない。私も、その程度の人間ですよ」

「ジェイド」

「来るべき結末へ向けて、何の対処も見つけられない。目の前の僅かなことを片付けるので精一杯だ。――だからといって、そこで立ち止まっていては前へ進めない。過ちを認め、出来ることをやっていくしかない。違いますか」

 ガイは軽く目をみはった。

 

『昔のことばっか見てても前へ進めないだろ』

『ガイに信じて欲しいからさ。俺が変わるってこと』

 

 よぎったのは、遠い昔に聞いた少年の声だ。

「ああ……そうだ。そうだったな」

 噛み締めるように呟く。――その時、けたたましく警報が鳴り響き、男たちは顔を上げた。

「何だ!?」



 機室キャビンでは、鳴り響く警報に仲間たちが緊張した視線を巡らせていた。

「な、なに? 一体どうしたの」

 アニスの声に、操縦席からギンジが強張った声を返す。

「魔物の群れが向かってきます!」

「何だと!?」

 アッシュが叫んだ。その背後の扉が開き、ガイとジェイドが駆け込んでくる。眼前に広がる、左右から天井までを覆う風防ガラスの向こうの空。その彼方から無数の飛行魔物たちの影が見えてきたかと思うと、たちまち周囲に群れ集って、鋭い鉤爪やくちばしを打ちつけ始めた。中には爪で掴んでライガを運んできたグループもあり、アルビオールの上に落とされたライガが太い腕で機体を殴っているのだろう衝撃が伝わってくる。

「みなさん、掴まっていて下さい!」

 ギンジが声を高くした。次の瞬間、アルビオールが大きく旋回し、きりもみ状態から再び飛翔する。機体にしがみついていた魔物の殆どが振り落とされた。

「流石はギンジ、だな……」「でも、目が回ってるけどぉお〜」「グルグルですの〜〜」

「危ない!」

 しがみついていた座席から上げた目を見開き、鋭くティアが叫ぶ。風防ガラスの前面いっぱいに巨大猛禽フレスベルグの姿が近付いていた。それは激突し、鉤爪でガラスを粉々に砕く。風とガラスの破片が雪崩れ込み、あちこちで悲鳴が起こった。

「炸裂する力よ。エナジーブラスト!」

 ジェイドが放った閃光に撃たれ、フレスベルグは羽を散らして吹き飛んでいく。揺れる艇内をどうにか走って、ガイは操縦席に呼びかけた。

「ギンジ! 大丈夫か!?」

「は、はい……」

「大変ですの! 血がいっぱい出てますの!」

「待って下さい。今、治癒術をかけますわ」

 続く警告音の中、甲走るミュウの前を通ってナタリアが近付こうとする。

「おいらは平気です。額が切れて血が出ただけですから」

 ギンジがそう返す間に機体がぐらりと揺れた。「なっ、なぁにぃ!?」と、アニスが不安な声をあげる。

「くっ……。目に血が入って……見え……」

 不安定にアルビオールは揺れていた。一度は振り切っていた魔物たちも再び追いすがろうとしている。体当たりされたのだろう、何度か鈍い振動が走った。

「俺が代わる。ナタリア、ギンジを看てくれ」

 言うと、ガイは手を伸ばして操縦桿を握る。ギンジが退いた席に座って出力を上げた。割れたガラスの向こうから直接風が吹きつけていたが、目をすがめてそれに耐える。グリフィンが一頭、ザアッと羽を鳴らして前に回りこんできた。

「旦那、もういっちょ頼む!」

「やれやれ、人使いが荒いですねぇ。ま、いいでしょう。――終わりの安らぎを与えよ。フレイムバースト!」

 宙空で炎の爆発が起こり、グリフィンが吹き飛んでいく。「あ、私も〜っ」と声をあげ、アニスも譜文を唱え始めた。

「食らえ、光の鉄槌! リミテッドー!」

 次々と光に貫かれて落ちる魔物たちの間を縫ってアルビオールは高度を下げていき、やがて目前に神殿が迫ってくる。

「よし、降ろすぞ!」

 垂直離発着型機であるアルビオールは、僅かな空間にでも着陸させることが可能だ。普段なら揺れも感じずに済んでいたことだろう。だが今回は、ドン! とまるで段差から落下でもしたような衝撃があった。

「みゅうぅう〜っ……」

 イオンの腕からすっぽ抜けて、ミュウが床に潰れて鳴いている。その近くにぺたりと座り込んで、アニスは両手で口を押さえていた。

「ぶ〜、舌噛ひははんじゃっはよ〜」

「悪い。ギンジみたいにはいかなかったな」

「いえ、大したものですよ。まさか、ここまで静かに着陸させられるなんて」

 ナタリアにもらったのだろう、上質なハンカチで顔の血をぬぐっているギンジに苦笑を返すと、ガイは席から立ち上がる。割れた風防ガラスの向こうに見える空に、神殿の方へ飛び去っていく残りの魔物たちの影が見えた。

「来るなら来い、ってことか……」

「誘い込まれているようなのが気に入りませんが、いずれにせよ、我々は行かねばなりません」

 ガイの呟きにジェイドが返してくる。

「……行くぞ!」

 身を翻して一言を残し、アッシュが昇降口ハッチへ向かった。








 アルビオールの周囲には、先程譜術で落とした魔物の死骸が転がっている。

「みゅうぅ……怖いですの……」

「この魔物はレプリカじゃないんだな」

 足元で震えるミュウの声を聞きながら、ガイは言った。『以前』エルドラントに進攻した際には、そこで待ち受けていた魔物も兵も殆どがレプリカであり、倒すと光となって消えていったものだったが。

「じゃ、やっぱり……」

 顔色を沈めてアニスが言った時、けたたましい魔物の鳴き声が聞こえた。

 左右に白い棟を連ならせた広い道。最奥にそびえる神殿を背にして、ヌイグルミを抱きかかえた少女が待ち受けている。その周囲には数頭のライガたちが、頭上には鳥型の魔物たちが群れていた。

「妖獣のアリエッタ……!」

「あいつ、まだヴァンに従っていやがったのか……」

 その名をナタリアが呼び、アッシュが苦虫を噛み潰す。

「ここを通してくれ。キミには悪いが、俺たちは先へ行かなければならないんだ」

 ガイが言ったが、アリエッタは道を空けはしない。ヌイグルミに埋めていた顔を上げ、少女には似つかわしくない、硬く歪んだ表情を見せた。首からペンダントのように下げた大きな牙が、彼女の動きにつれて揺れている。

「ここから先へは、行かせない……です。総長の邪魔は、させない」

「アリエッタ。どうしても戦わなければなりませんの?」

 ナタリアは辛そうに訊ね、アニスが憤りをぶつけた。

「総長はオリジナルの世界を消してレプリカと替えようとしてる。オリジナルは一人だって残されない。あんただって消されちゃうんだよ。それでもいいの!?」

「うるさい!! そんなのもう、分かってる!」

「だったら!」

「だってもう、アリエッタには誰もいない。総長しか残っていないんだもん!」

 頭を振ってアリエッタは叫ぶ。

「それに、お前たちはママを殺した。ママの仇。この仔たちも、お前たちが憎いって言ってる。だから……!」

 周囲の若いライガたちを示し、両手でヌイグルミを突き出すようにして構えた。

「総長のため、ママの仇を討つため。お前たちを殺す! ……です!」

 それを合図にしたように、魔物たちが躍りかかって来る。

「仇討ちか……。気持ちは、よく分かるけどな」

 ガイは剣を抜いた。若いライガは動きが読み易い。踏み込めば、一刀で斬り裂けた。肉も毛皮も未だ柔らかい。ライガの女王を殺した時、アリエッタにまとわりついていた仔ライガたちを思い出した。

「危ない!」

 一方で、イオンに襲い掛かろうとしたライガをアニスのヌイグルミが殴り飛ばしている。そのままアリエッタをも殴り伏せようとしたが、彼女は躍り込んだ別のライガの背に乗って逃れた。

「イービルライト!」

 その上でヌイグルミを掲げ、光線が一直線に地を走る。

「アリエッタ。お願いです、やめて下さい!」

 イオンの声を聞いて、少女は悲しげな目を向けてきた。

「イオン様……。ううん。あなたはイオン様じゃない」

 ヌイグルミをぎゅっと抱きしめ、首を左右に振った。

「総長はフェレス島とアリエッタの家族を蘇らせてくれるって言った。イオン様は、ずっと一緒にいるって約束してくれてた。でも……。イオン様は死んだ。アリエッタの家族も、ずっと昔に、死んじゃった。ライガママはお前たちに殺された! フォミクリーを使ったって、誰も、本当は生き返らない!」

「そうだよ。この人は、アンタのイオン様じゃない」

 巨大なヌイグルミの背の上から、アニスが容赦なく怒鳴り返す。

「当たり前でしょ。違う人間なんだから!」

「う、うぅ〜……うあぁああっ! アニスのバカ! 大嫌いっ!」

「私だってそうだよ! 根暗ッタ!」

「アニス! アリエッタ!」

 ライガと巨大ヌイグルミがぶつかり合った。それぞれの背の上から立ち上がり、少女たちは掴み合っている。

「いつまでもグダグダ恨みごとばっかり言うな!」

「アニスなんて嫌い。みんな嫌い! なんでっ! 本物のイオン様は、もういないのに」

「うるさぁーい!」

 アリエッタの爪で深く引っかかれながら、アニスはアリエッタの頬を平手で殴りつけた。

「っ。なんで、ニセモノは、生きてるの!? イオン様の場所を、奪って! イオン様を、消して!」

「イオン様は、ニセモノじゃないっ!」

 巨大ヌイグルミがライガの顔を殴る。一緒に吹っ飛んで、悲鳴をあげながらアリエッタは地に転がった。ヌイグルミの上から、アニスが肩で息をつきながら見下ろしている。

「う……うぅ……」

「アリエッタ……」

 肩を震わせるアリエッタの側に、イオンが近付いた。

「僕は、あなたをずっと欺き続けてきた。許してもらえるとは思っていません」

「……」

「でも、僕はずっとあなたに言いたかったんです。オリジナルの代わりだった僕には、言う資格がないと思っていたけれど」

 イオンはアリエッタの傍らに膝をつく。

「笑って下さい、アリエッタ。悲しい顔をするのではなく。あなたにはいつも笑っていて欲しい」

「……ムリ、です。そんなの。だって、イオン様はいない。もう、いない。アリエッタの前から、みんな消えちゃう!」

「オリジナルのイオン様がどういう人だったのかを、私は知らない。でも、あんたは知ってるんでしょ」

 巨大なヌイグルミの上から、アニスが言った。

「あんたが覚えてる限り、オリジナルのイオン様は消えないんだよ。あんたが、この世界で生きている限り!」

「……」

 唇をわななかせて、アリエッタは顔を伏せる。首に下げられた牙がゆらゆらと揺れた。

 その時だ。ヌイグルミに倒されていたライガが起き上がったのは。崩れた顔面から血を滴らせ、身悶えるようにして雄叫びをあげる。鋭い爪を備えた前足を振り上げて、アリエッタとイオンの間に叩き付けた。

「きゃ!」「あっ……!」

 地面に亀裂が走り、二人が左右に倒れる。更に振り上げられた前足を見て「ダメ……!」とアリエッタが命じたが、動作は止まらなかった。

「このおっ!」

 アニスがヌイグルミの腕で阻む。ライガは雷の息を放ち、まともに食らったアニスの苦鳴が響いた。

「アリエッタの命令を聞かない……?」

「怒りと痛みで我を忘れているんだわ!」

 ナタリアとティアの声、アッシュの舌打ちが聞こえる。最後のグリフィンを貫いた剣を引き抜き、ガイも走り出したが。

「アニス!」

 アニスを呼ぶ声に反応して、手負いのライガがイオンに向かう。その爪が、力強く振り下ろされた。

「――あぁあっ!!」

 あがった悲鳴は、少女のもの。

 イオンを庇うように飛びつき、背をライガの爪で引き裂かれた。アリエッタの。

「アリエッタ!」

 血を撒き散らして吹っ飛んだ少女の姿を目の当たりにして、顔色を変えてイオンが叫ぶ。駆け込んだガイ、そしてアッシュが、暴走するライガを左右から斬り捨てた。

「アリエッタ。しっかりして下さい!」

 イオンが懸命に呼びかけている。だが、少女は動かなかった。その様子を見て取ったように、残っていたライガの一頭が長く吼える。すると魔物たちは戦いをやめ、一斉に周囲に散った。別のライガが駆け寄ってきて、血まみれのアリエッタを大事そうにくわえると風のように駆け去っていく。

「アリエッタの指揮をなくして撤退したようです。魔物ながら、いい判断ですね」

 ジェイドが言って、手の中に槍を戻した。

「アリエッタ……」

 血溜りに立ち、アリエッタをくわえたライガが駆け去った方を、イオンはずっと見つめていた。

「……大丈夫ですよ、イオン様。あいつ、きっと生きてます。なにせ、凍った海を自力で渡っちゃった奴ですもん。生命力ありまくりの体力バカですから」

「アニス。……ええ。そうですね。きっと……」

 イオンは微笑んでみせる。

「しかし、妨害はこれだけではないでしょう」

「他の六神将も待ち受けている……ということですわね、大佐」

「そうです。気を引き締めて――」

 ナタリアに頷いてジェイドが言いかけた時、ティアが鋭く注意を促した。

「待って。誰かいるわ」

 前方にそびえる白い神殿。そこへ上る階段の中ほどに、すらりとした女性が現れていた。兵士ではない。街なかで見かけるようなごく普通の服装は、この廃墟めいた街には酷く不釣合いだ。

「久しぶりね」

 プラチナブロンドのショートヘアを揺らして、彼女は微笑った。

「元気そうで安心したわ。ここまで来るのは大変だったでしょう。でも、あなたならここまで来れるだろうって、先生、信じていたわ。あなたはとっても優秀な子だったもの。ね、ジェイド」

「え? 大佐の知り合い?」

 アニスが目をしばたたき、「先生、とは……?」と、ナタリアが戸惑った顔で女性の年若い姿とジェイドを見比べている。

「ジェイド……」

 唯一、彼女が何者なのかを悟ったガイが気遣わしげに呼びかけた。ジェイドは硬い表情を崩していない。その視線の先で、女性は何の気負った様子もなく言葉を続けていた。

「どうしたの、ジェイド。二十数年ぶりに会えたのに、挨拶もしてくれないのかしら。……ああ、あの事だったら気にしなくていいのよ。あれは事故だったの。あなたはまだ小さかったのだし、ほんのちょっと失敗しただけ。

 あなたは、なんにも悪くないわ。

 だって、私はこうして、ここに帰ってきたんだから……」

 数瞬の沈黙の後で。

「……ふ。ははっ」

「大佐っ?」

 肩を震わせて笑いの息を落としたジェイドを見上げて、アニスが不安な声で問いかけた。

「すみません……大丈夫です。あまりに可笑しかったものですから……」

 幾分伏せた顔を覆っていた右手を下ろし、ずれかけた眼鏡を押し上げてから女性を見やる。

「笑えますね。私は、こんなものを望んでいたというのか。まったく……。愚かにも程がある!」

「ジェイド?」

 眉を曇らせた女性に向かい、「ああ。失礼。あなたに言ったのではありません」と言い足した。

「いいのよ、ジェイド。何も気に病まないで。さあ、先生と一緒にケテルブルクへ帰りましょう。また私塾を開くわ。そうすれば、何もかもが元通りよ」

「あなたは私の先生ではありません。あの人は死んだ。――私が殺したのですから」

 冷徹な響きを聞いてガイ以外の仲間たちが驚きに目を見開いたが、構わずに声を張り上げる。

「悪趣味なことはやめなさい。ディスト! ――いや。サフィール!!」

 神殿の入口の柱の奥から、紫の影が動いた。宙を滑る豪華な安楽椅子に腰掛けた男が現れて、赤い唇で喚きたてる。

「ジェイド! あなたはまたワガママを言って! どこが悪趣味だと言うんですか。完璧じゃないですか!」

「完璧?」

「完璧ですよ。姿も、声も、喋り方も。思い出話だって出来る。なにもかも元のまま。全く同じです。私たちのゲルダ・ネビリム先生が生き返ったんですよ! 何の不満があるんです!」

 椅子の上に立って腕を振って訴えるディストを、ジェイドは冷たい目で見やった。

「では、今からあなたを殺してレプリカを作りましょう。あなたの名をつけ、あなたの代わりにする。それでも同じなのですね?」

 ディストは顔を歪める。

「失われたものは二度と戻りません。時間も、命も」

「……」

 頑としたジェイドの声を聞きながら、ガイは己の左頬に触れた手を下ろすと、ぐっと握り締めていた。

「……そんなことは。そんなことはありません! 私は諦めませんよ。何度でも……。そうです。このレプリカが気に入らないと言うのなら、何度でも作り直してみせます! ヴァンが持っていた先生のレプリカ情報は手に入れた。私はもう一度、あの時代を取り戻してみせる! 輝いていた、あの頃を……!」

「……十三年前に袂を分かった時点で思い知っているべきでしたか。今まで見逃してきた私が甘かったようです」

「なんですって?」

「過去は、二度と取り戻せないからこそ過去だ。お前と私の道は、二度と交わることがない!」

 語気強く放たれた声を聞いて、ディストは喉を詰まらせる。ドサリと椅子に身を沈めると頭を垂らし、肩を震わせた。

「本当に……本当に見捨てると言うのですね……。私を。先生とあなたと共に過ごした、先生を取り戻すことをあの広場で誓い合った、あなたの親友であるサフィールを」

「過去は消えない。捨てられるものでもない。ですが、それに固執するのは愚かだと言うだけです」

「……認めません。そんなことは。あなたに否定させはしない!!」

 腕を振り上げたディストの動作に呼応したかのように、天空からプロペラを備えた譜業兵器カイザーディストが降りてきて、ズシン、と辺りを振動させた。丸いボディが開き、ディストを乗せた椅子が舞い上がって収容される。ボディが閉じると、一つ目のように見えるレンズ部分に光が入り、くるくると腕の先のドリルが回転した。

『この私の最高傑作、カイザーディストXXで目にもの見せてあげます。覚悟なさいっ!』

 譜業兵器を前にして右手を伸ばし、ジェイドは手の中に現出させた槍を握り締める。

「さようなら。サフィール」

『この、私を否定したことを、後悔するがいい!!』

 ディストの声が響くなり、譜業兵器は腕からレーザーを放った。「散開しろ!」とガイが指示し、仲間たちはそれぞれに距離をとる。剣を抜いたアッシュが駆け寄ったが、譜業兵器はプロペラを使って舞い上がると、腹部に装備されたバルカン砲を撃ち放った。ティアが護りの譜歌を詠い始める。

「いっけぇー! 空破特攻弾!」

 巨大なヌイグルミに乗ったアニスが回転しながらジャンプしたが、際どいところでかわされた。

「はぅうう〜、届かない〜〜」

「譜術を使え! ――氷の刃よ。降り注げ。アイシクルレイン!」

 怒鳴り、アッシュが剣を掲げて譜を解き放つ。降り注いだ氷の雨は、しかしまたもかわされた。

『はーっはっはっはっは! カイザーディストXXの機動力を甘く見てはいけませんねぇ。食らいなさい!』

 腕から放たれたレーザーが地を走る。ガイたちが素早く避けた中、取り残されていたネビリム・レプリカはまともにそれを受けて瓦礫と共に吹き飛んでいた。ガイたちはハッとしたが、ディストは頓着した様子がない。

「大変ですの!」

 離れた位置に退避しているイオンの腕の中でミュウが騒いだ。ガイは怒鳴る。

「彼女はお前とジェイドの恩師のレプリカだろう。巻き込むな!」

『ええ。アレは今までの中でも最高の出来でした。ですが、やはり失敗作です。認めてはもらえなかった。ついでですから屑は廃棄して、今度こそ完璧な存在を作ってみせますよ!』

「……馬鹿野郎がっ!!」

「ピアシスライン!」

 ナタリアの放った矢が、カイザーディストの一眼に突き立ってヒビを入れた。

『んおっ!? メ、メインカメラが……』

 空中でよろめいたカイザーディストに、ヌイグルミに乗ったアニスが向かう。

臥龍撃ガリョウゲキ!」

 下から殴りつけられて大きく揺らいだ。そこに空中を回転しながらガイが突っ込む。

「裂空斬!」

 二基のプロペラの一つを斬り落とした。がくん、と高度を下げたそれに、アッシュが雄叫びをあげて剣で向かう。

「うぉおおおっ! 食らいやがれ!」

 跳躍して斬り込み、残るプロペラを分断した。ガァン、と音を立てて完全に地に落ち、カイザーディストはもはや飛び立てない。

『こ、このっ……。待ちなさい、飛べなくともカイザーディストXXにはまだまだ超絶機能があるんですからねぇっ』

 細い足で立ち上がってレーザーとドリルを装備した腕を振り上げようとした時、朗々たる声が響いた。

「雷雲よ、我が刃となりて敵を貫け。――サンダーブレード!」

 轟音を立てて雷の剣が突き立ち、譜業兵器は雷光に包まれる。

『ぎゃあああああっ!!!』

 爆雷が静まったが、薄い煙を上げながらカイザーディストは未だ立っていた。辺りに濃密に満ちた第三音素サードフォニムの中で、ジェイドは再び譜を唱え始める。

「これで終わりにしましょう。サフィール」

『ジ、ジェイド……。あなたは、あなたは本当に、私を……』

「――聖なる意思よ、我に仇なす敵を討て。ディバインセイバー!」

 冷徹なまなざしでジェイドが片手を差し伸ばした、刹那。

 白い影が、よろめきながらカイザーディストの前に駆け込んだ。

「ダメよ、ジェイド、サフィール。ケンカはいけま――」

 ディストを庇うように両腕を広げたネビリム・レプリカの声は、最後まで聞こえることはなかった。一撃目とは比べ物にならない雷の雨。その轟音にかき消されて。

 やがて静けさが訪れる。焼け焦げて床にうずもれ、煙を立ち昇らせながら沈黙したカイザーディストの前には、人らしき痕跡は何一つ残ってはいなかった。音素フォニムとなって雷光の中に消えてしまったのだろう。

「ジェイド……」

 歩み寄ってきたイオンが呼びかける。ジェイドは応えなかった。だが、やがて身を翻すと神殿へ向かって歩き始める。

「行きましょう」

 その声に、揺らぎはなかった。








 神殿の内部の階段を上る。魔物の姿は見えなかった。

「……あれ? もしかしてあれって……パッセージリング!?」

 いくつもの階段を上った先にそれを見出して、アニスが声をあげる。宙に浮いて緩やかに上下する音叉型の部品と、そのまたの間に浮かぶ大きな丸い譜石。音機関の周囲を透き通った通路が環状に取り巻いている。確かに、今まで目にしてきたパッセージリングを思い起こさせるものだ。

「いえ……、それにしては規模が小さいですね。これは……」

 遠目に見上げてジェイドが言いかけた時、後方に立っていたアッシュが顔をしかめて頭を押さえた。

「ぐっ……!」

「アッシュ!?」

 ナタリアが慌てて覗き込む。殆ど同時に、環状の通路の向こう、浮かぶ巨大な音叉の陰から、同じように頭を押さえてたたらを踏んだ人の姿が覗いた。

「ご主人様っ?」

 甲高くミュウが叫ぶ。全員がハッとしてそちらを見やり、ティアも声をあげた。

「ルーク!」

「……っ」

 全員の視線を受けて、その少年はたじろいだように身をすくめる。好んでいたいつもの白い上着ではなく、赤を基調とした見慣れぬ服を着てはいたが。

「やっぱりご主人様ですの!」

 大きな瞳を歓喜に潤ませて、ミュウが矢も盾もたまらぬ様子で走り出した。しかし。

「来るな!」

 強く一喝されて、「みゅっ」と、弾かれたように尻餅をついてしまう。

「ご主人様……?」

 不安げに呼びかける生き物から目を逸らすようにして、ルークは小さく吐き捨てた。

「……なんで。ここまで来たんだよ」

「なんでって! そんなの決まってるでしょ。今の世界を滅ぼしてレプリカと入れ替えようとしている、総長の計画を阻止するためじゃん。ルークだって、その為にずっと頑張ってきたんでしょ!?」

 両拳を握ってアニスが憤りをぶちまけた。イオンが一歩進み出て声を出す。

「ルーク。あなたの無事な姿を見て安心しました。ですが、聞かせてもらえませんか。一体何があったんです。どうしてあなたはそこにいるのですか」

「……俺は」

 声を詰まらせたルークに苛立ったように、アッシュが睨みつけた。

「今更ヴァンに懐柔されたか。てめぇがレプリカだからか! レプリカの世界を創るっていう、ふざけた奴の計画に、お前は!」

「アッシュ!」

 咎める声でガイが押しとどめる。ナタリアが訴えた。

「ルーク。あなたにそうさせたのは、わたくしたちに至らないところがあったからなのかもしれません。ですが、わたくしたちの思いは一緒だったはずです。今を生きる人々の住むこの世界を護る。その為に、力を合わせて努力してきたのではありませんか」

「……だけど、そうして護った世界に、俺の居場所はない」

 低くルークは呟く。

「ルーク? 何を言っているの。そんなことは」

「だって俺はもうすぐ死ぬ! 完全同位体として生まれた、レプリカは!」

 戸惑うティアを遮るように、ルークは叫んでいた。

「ルーク……!」

 睨まれ、皮肉な笑みを向けられて、ガイは愕然として喉を引きつらせる。

「そうだろ、ガイ。同位体のコンタミネーション。大爆発ビッグ・バン。俺はアッシュに食われて死ぬんだ。お前はそれを知ってたんだよな。ジェイドも。……ああ。アッシュも知ってたのか? 知ってて、俺には何も教えなかった!」

大爆発ビッグ・バン……? コンタミネーションって、大佐が腕から槍を出す、アレのこと?」

「一体、何の話なの? 死ぬって。ルーク!」

「どういうことなんですの?」

 少女たちがうろたえる中で、ガイもまた動揺を抑えきれずにいた。

「どうして、お前がそれを……」

 ルークが手元から離れた時点で予測していなかった訳ではない。だが。

師匠せんせいが教えてくれたんだよ。師匠は、俺に隠さない。全部を教えてくれて、俺の力を必要としてくれている」

 アッシュが怒鳴った。

「馬鹿が! あいつはお前を利用しているだけだ!」

「っ。そんなの分かってる! それでも、師匠は俺に任せてくれたんだ。俺の超振動で。レプリカ世界が完成したら、師匠ごとローレライを消滅させてくれって」

「そんな。兄さん……!」

 ティアが悲痛に呻き、一瞬、ルークは怯んだ表情を浮かべたが、言葉を続ける。

「ローレライを消滅させるほどの力を使えば、劣化レプリカの俺は、その反動で確実に消える。だけど、どうせ俺は死ぬんだ。だったら、役に立ちたい。誰かに、必要とされたい!!」

「ルーク……」

 イオンが哀しげに呻いた。

「それで? 自分が消える前にオリジナルを全て殺すと?」

 ジェイドの冷たい声が響く。

「そうすると言うのなら、世界の敵として、私はあなたを殺します」

「……っ」

 ルークは喉を震わせる。が、ぐっと唾を飲んで腰の後ろに渡した剣を抜いた。

「ルーク! やめて!」

 ティアが叫んだが、切っ先を下ろすことはない。アッシュも剣を抜いた。

「やるってのか。ああ、大爆発が起きる前に俺かお前が死ねば、コンタミネーションは止まるのかもしれねぇな」

 言って、唾を吐き捨てる。

「俺だってお前の情報を取り込むなんざごめんだ。お前みたいな、屑野郎の記憶なんてな!」

「……くっそぉおお!!!」

 喚き、ルークは斬りかかった。少女たちが悲鳴をあげる中、猛攻は幾度も続く。それをアッシュは受けてしのいでいたが、じりじりと押され始めた。

「ぐっ……」

 僅かに体制を崩す。その隙を逃さずに向かった剣を、ガイが鞘に収めたままの剣で阻んだ。

「やめろ、ルーク! ……アッシュはコンタミネーションが進行してる」

 睨む目の強さはそのままに、片膝をついて息を荒げているアッシュを、ガイは険しい顔で背に庇っている。ぶたれた子供のような目をして、ルークは剣を下ろすと肩を震わせた。

「お、俺は……」

「……言ってもらえなかったとか必要としてもらえなかったとか、そんなところにしかお前の価値はねぇのかよ」

 睨みながら、荒い息の下から低くアッシュが言う。

「知りたかったなら、言うまでただせ! 必要とされたいなら、そうなるまでてめぇで動きやがれ! 欲しけりゃ自分の手でむしり取れ。思い通りにならねぇからって拗ねて意地を張ったところで、どうにもなりゃしねぇんだ。一人で悲壮ぶってんじゃねぇよ、屑がっ!!」

 口汚く怒鳴りつけ、しかしふとナタリアと目が合って、何故なのかアッシュは気まずげに顔を背けた。

「……ルーク。剣をしまって下さい。アッシュも、僕たちも、あなたと戦いたい訳ではありません」

 イオンが呼びかける。しばらく押し黙り、ようやくルークはのろのろと剣を腰に収めようとした――が。

 びくりとルークの全身が震えた。動きが不自然に止まり、収められかけていた剣がシャッと鞘から引き抜かれる。

「ルーク!?」

 悲鳴のような叫びをティアがあげていた。迷いのない動きのまま、ルークの剣が側にいたガイに振り下ろされたからだ。咄嗟に鞘で受けたが、ガイはうろたえた顔をしていた。

「おい!? どうしたんだ」

 ルークは応えない。ただ、渾身の剣を振るい続ける。

「やめろ、ルーク! やめるんだ!」

「この音素フォニムの波動……。まさか、カースロットでは」

 緊張をはらんだ声でイオンが言った。ジェイドが確かめる。

「カースロット……。人体のフォンスロットに施す特殊な譜術でしたか」

「ええ。脳細胞から情報を読み取り、そこに刻まれた記憶を利用して人を操る。本来はローレライ教団の導師にのみ伝えられるダアト式譜術の一つですが、今は、その力はイオンレプリカたちに引き継がれている」

「くっ……。シンクか!」

 ついに鞘から剣を抜いて刃を受け止め、ガイは歪めた顔に様々な思いを滲ませていた。容赦のない攻撃を、双方傷つかないように受け流すのは流石に難しい。気絶させようにも、動きは予想以上に隙がなかった。

「近くに術者がいるはずです。カースロットは、術者との距離が効果を左右しますから」

 仲間たちはそれぞれに辺りを見回す。だが、それらしき人影は見つけられない。

「みゅ、みゅううぅう〜〜。このままじゃご主人様とガイさんが大変ですの〜!」

 大きな頭をキョトキョトと振っていたミュウは、目をぐるぐると回し、バランスを崩して仰向けにひっくり返った。そして叫ぶ。

「みゅっ。見つけましたの!」

 視線の先――部屋の高い天井に渡った太い梁の陰に、イオンとよく似た少年の姿があった。もはや仮面は着けていない。

「そこですわ!」

 素早くナタリアが矢を放った。ところが、シンクは天井を身軽に駆けてそれをかわす。

「げっ。なんでアイツあんなとこ走れんの!?」

「ノクターナルライト!」

 目を丸くしたアニスの後ろからティアがナイフを投げ放ち、ミュウが炎を吐いた。

「ミュウファイアですの!」

 ナイフは深く天井に突き立ち、炎は届かない。

「成る程……。そういうことですか」

「ほえ? 大佐!?」

 ジェイドが大きなモーションで槍を構え、それをパッセージリングに似た音機関に投擲したので、アニスが驚きの声をあげた。シンクともルークともまるで関係ない位置だ。だが、音素をまとわりつかせた槍が突き立って轟音と共に譜石が砕けると、それまで天井を走っていたシンクがくるりと足を下に向けて飛び降りてきた。

「どういうことだ?」

「あの音機関は、この部屋の重力を制御していたのです」

 アッシュに答えながら、ジェイドは音素に戻した槍をもう一度手の中に現出させ、今度はシンクに向けて投げつける。

「ぐっ……!」

 飛び退いたが肩を抉られ、シンクが悔しげな苦鳴をあげた。同時に、ガイに攻撃を続けていたルークが身体を震わせ、がくりとその場に両膝をつく。

「ルーク!」

 ガイが近寄ったが、名を呼ぶ声に反応したかのように剣を振った。掠められてガイのシャツに真一文字の裂け目が走る。

「ガイ!」

「アハハハハ……! そいつはよっぽどお前に近付いて欲しくないんだね」

 血の流れる肩を押さえ、ティアの悲鳴を心地よさげに聞きながらシンクが笑った。

「カースロットは、被術者を意のままに操る術じゃない。ああ、お前は知ってるのか。この術は人の記憶の中の負の感情を掘り起こし、理性を麻痺させるもの。つまり、そいつはお前を殺したいほど嫌ってるのさ!」

 その間にルークは立ち上がり、再びガイに向かって剣を振るっている。

「それでもアンタがやらせてるんでしょ! 趣味悪過ぎっ!」

 アニスがヌイグルミで殴りかかったが、シンクは身軽に避けた。トンボを切り、音機関の巨大な音叉の上に立つ。

「人聞きが悪いな。ボクは少し後押ししてやっただけだ。どっちかが死ぬまで殺し合えばいいのさ。そいつが死んだらヴァンの計画に支障が出るかもしれないけど、ボクの知ったことじゃないね」

 シンクが刀印を結ぶと、ルークのうなじの辺りにひときわ赤く、瞳をかたどった禍々しい譜紋が輝いた。痙攣でも起こしたかのように彼の身体が震えてたたらを踏み、剣を振り上げる。

「ルークーっ!!」

 その正面で、声を限りにガイが叫んだ。次の瞬間。

 仲間たちが目にしたのは、予想だにしなかった光景だった。

 刀身を伝って、ぽたぽたと血が床に飛沫を散らしている。――それは、ガイの血だ。

 ルークの剣が振り下ろされた刹那、彼は両腕を下ろし、刃をそのまま受けていた。

「ガイ!!」

 仲間たちが叫んでいる。そしてルークは、カースロットが発動してから初めて、人間らしい反応を見せていた。

「……っ」

 目を見開き、膝をついたガイを見下ろして怯んだように一歩下がる。

「ルーク、っ」

 ガイが声を出したが、痛みがせり上がったようにぐっと唇を噛んだ。傷は致命的なものではないが、決して浅くはない。

「どうした、手を止めるな。そいつの顔を見るのも嫌だったんだろう? 逃げ出したいくらいにね。だったら、ほら、消しちゃいなよ。

 さあ、ルーク。お前の望みを果たせ!」

 音叉の上で印を結んだままシンクが嗤った。うなじに浮かぶ譜紋が揺らめき、ルークは顔を歪めて額を押さえる。

「……違う」

 手で隠れて、その表情は見えなかったが。唇が言葉を紡いでいた。

「ガイが嫌なんじゃない。俺は…………自分が嫌いなんだ。ティアも、ガイも。誰も助けられない。必要とされるだけの力がない。……だけど、それ以上にっ。……そんなことで拗ねて、逃げて、みんなを裏切った………情けない俺が、世界で一番!」

 剣を掲げる。刃先を己に向けて柄を両手で握った。自身の欲望に忠実なままに。最も憎む存在を消し去ろうと。

 力を込めて己に沈めようとした刀身は、しかし動かなかった。絡みついた十本の指が、それを止めている。

「――なん、でっ」

 グローブが切れて、その中の指から血が溢れ出している。新たに生じた赤を目にして、ルークが引きつった声を落とした。その間にも、ガイは剣を握る指に力を込めている。それが決して振り下ろされぬように。血が刀身を伝って床に散っていく。

「うあ……。あ、あ、あぁあっ」

 怯えた、そして混乱に揺れた声を漏らすルークの全身が淡い金色に輝いた。キーン……と微かな共鳴音が響いて髪や衣服を躍らせ、光は見る間に強さを増していく。

「いけない。ルークの超振動が、また……!」

 ティアが叫んだ。音叉の上でシンクが笑う。

「超振動の暴走か。丁度いい。全部消しちまえよ! お前たちも、ボクも。何もかもが一緒に消えればいいんだ!」

 そして、白光が辺りを覆った。

「くうっ!?」

 シンクが呻く。光はルークが発したものではなかった。立っていた巨大音叉を破壊され、地に落ちたシンクの向こうで、糸が切れたように倒れたルークがガイの腕に抱きとめられている。そのうなじに浮かんでいた赤い紋様は瞳を閉ざし、輝きをなくしていた。

「お前か……!」

 放ち終えた譜術の光を身体にまとわりつかせて強い目で見据えてくる人物を、シンクは忌々しい思いで見返す。自分と同じ顔をしている。同じ身長、同じ体格の、白い法衣をまとい音叉を模した法杖をついた少年。――七番目のイオンレプリカ。

「体力の劣化したお前が譜術を使えばどうなるか。分かっていない筈はないよね」

「シンク。僕の友人たちへのこれ以上の暴虐は許しません。ダアト式譜術が導師にしか受け継がれないのは、悪しき目的に使われることを避けるため。もう、ルークたちを苦しめさせはしない!」

「ハッ。ご立派な理屈だね。流石は導師様だ。オリジナルイオンの威を借りただけの、偽者のくせにっ!」

 シンクが繰り出した回転蹴りを、イオンは杖を前に出して受けた。揺らいだが、どうにか耐える。

「シンク……。僕たちはレプリカです。ですが、偽者ではない。オリジナルに囚われる必要はないんです。だから……!」

「だから? オリジナルを皆殺しにして、レプリカの世界を作ろうか。それも悪くないかもね。ハハハ!」

 次々と拳を打ち出してきたが、それもまた、何とか杖で受けた。

「イオン様……!」

 二人が近接しているために割り入ることが出来ず、アニスが狼狽した様子で見つめている。アッシュの声が聞こえた。

「ダアト式譜術は、本来、譜術と体術を組み合わせたものと聞く。シンクに比べれば、導師の動きは遅いが……」

「うっ!」

 拳や蹴りの猛襲を受けつつジリジリと退がっていたイオンの手から、ついに杖が弾き飛ばされた。ぺたりと床に座り込み、はあはあと肩で息をつく。

「これでおしまいかい。七体作られたイオンレプリカの唯一の成功作が。とんだ出来損ないだったね」

「分からない、んですか……」

 荒く息をつきながら、イオンが言った。

「なに?」

「オリジナルだとかレプリカだとか、用意された役割だとか名前だとか……そんなことは、関係ないんです。生まれてきた以上……僕は、僕だ……!」

 座り込むイオンを中心にして、床面に光の譜陣が丸く広がる。

「これは……、しまっ」

「アカシック・トーメント!」

 譜陣の中心にイオンは右手を叩き付けた。下から照らされていたシンクを、噴き上げた更に強い光の奔流が覆う。

「あぁあああああっ!!!」

 その威力は凄まじいものだった。溢れ出した力はシンクを打ちのめし、その背後にあった音機関をも巻き込んで崩壊させた。環状の床が砕け、瓦礫が遥か下まで崩落していく。

 光が消えると、辺りは静かになった。

「っ、はぁっ、はぁっ」

 呼吸で喉を鳴らしながら、イオンはぐったりと座り込んでいる。

「イオン様!」

 ヌイグルミから降りて駆け寄ったアニスを手で制すと、よろめきながらも立ち上がって足を動かした。ガイの膝の上で未だ気を失ったままのルークの側に屈み込み、右手を胸に下げた音叉に、左手をルークのうなじに触れて目を閉じる。淡い光が生じてイオンとルークの身体を繋いだ。

「痣が……消えた」

 イオンを支えるようにしていたアニスが呟く。ルークの後ろ髪の下に隠れていた赤い譜紋が、見る間に薄れて消えうせていた。

「……」

 ルークが緩く目を開く。

「ルーク! 気がついたのか」

「………ガ、イ?」

「カースロットを、解呪しました……。これで、もう、大丈、夫……」

「イオン様!」

 手を下ろして微笑み、ぐらりと身体を傾けさせたイオンを見て、アニスが慌てて支え直す。

「……譜術を使い過ぎたみたいだね」

 声がした。もはや聞こえるはずがないと誰もが思っていたものが。

「シン、ク……!?」

 確かめるように、アニスが震える声を落とした。瓦礫の中から立ち上がったもの。それは人らしき形をしていたが、もはや半分以上が光となり、粒となって四散しつつあった。

「笑えるね。やっぱりボクは廃棄品ってことか。譜術と譜業で散々強化を施されていてもこのザマだ」

 顔面も光となって崩れつつあり、まるで、かつて金の仮面を着けていた頃の姿を思わせる。

「シンク……あなたは」

「同情なんてしてる場合かい、イオン。くだらない」

 皮肉に吐き捨てて、「……だけど、一番くだらないのはボクだ」とシンクは低く呟いた。

「生まれた以上、自分は自分だって? 違うね。ボクは、生まれたくなんかなかった!

 この意味のない命を生んだ預言を消してくれるなら。こんな愚かしい世界を滅ぼしてくれるというのなら。ヴァンでなくてもいい。誰でもよかっ」

 声は不意に途切れる。光が彼の口も喉も食い尽くしていた。そのまま全てが光となり、細かくバラけて崩落した床の方へ吸い寄せられると、一直線に天に立ち昇っていく。

「音素の流れが……。セフィロトはこの下にあるようですね。パッセージリングの位置までは分かりませんが」

 ジェイドが冷静に指摘を落としたが、応える者はいなかった。それほどにシンクの死に様は衝撃的だったのだ。

「シンク。あなたにもきっと……見つけられるはずだったのに」

 呟いたイオンの身体がくたりと伏せられる。自分の上に倒れてきた体を支えて、ルークはその軽さにぎょっとなった。

「イオン様っ?」

 アニスが顔色を変えて呼びかけている。彼の体からも、シンクのように光の粒が立ち昇り始めていた。

「……すみません。無理を言ってここまで同行させていただいたのに。最後まで、行けなかった……」

「イオン! お前、何言って……なんだよこれ。なんでこんな……!」

「ルーク……。僕は、あなたの生きる姿が、羨ましかった……。レプリカであっても、あなたは誰よりも人間らしい。そんなあなたの姿を見ていると……僕も、変わっていけそうで……」

 半身を起こしたルークの腕の中で、イオンは微笑んでいる。その顔色はますます白く感じられたが、血の気が失せていると言うより、全てが光になろうとしているのかもしれなかった。

「俺なんか。違うだろ。イオン、お前の方が、ずっと……」

「今までありがとう、ルーク。あなたに会えて……本当に、よかった」

 淡い光をまとってイオンは言う。様子を見守っていたティアが目を伏せ、静かに譜歌を口ずさみ始めた。美しい旋律を聴いて、イオンは柔らかな微笑みを浮かべる。その顔をアニスに向けた。

「アニス……。一緒に、教団を変えていこうという約束……守れないで、ごめんな、さい……」

「イオン様。やだ。こんなの。やだぁああ!」

 光に食われていくイオンの姿を見て、アニスが悲鳴じみた泣き声をあげる。抱く腕に力を込めて、ルークは泣きながら叫んでいた。

「駄目だ、イオン。……駄目だーっ!!」

 その、刹那。

 黄金きんの光が輝いた。ルークの腕の中で。――いや。輝いたのは光になろうとしていたイオンだけではない。抱いていたルーク自身も、また。

「ルーク!?」

 光が消え、そのままルークが倒れたのを見て、ガイが声をあげた。

「イオン様……。イオン様がっ?」

 アニスは泣いていた。笑いながら。

 ルークの腕の中に、イオンは消えずに存在していた。胸が微かに上下している。――生きている。

「乖離した音素が……戻った?」

 信じられない思いでガイは呟く。ティアが安堵に声を緩ませた。

「イオン様……。よかった……」

「ご主人様は大丈夫なんですの?」

「……大丈夫。気を失ってるだけみたいだ」

 確かめてガイはミュウに答える。一方で、アッシュが額を押さえてしきりに頭を左右に振っていた。

「……なんだ、今のは。また、あの夢が……?」

「アッシュ? どうかしましたの?」と、ナタリアが気遣わしげに声をかけている。

「……しばらく休憩して各人の治療を済ませましょう。今のままでは戦力的に不安です」

 そんな仲間たちの様子を一通り眺めてから、ジェイドが提案した。








 黄金きんの焔が揺れている。

 上も下も、右も左もそれだった。だが、恐ろしさは感じない。

 歩いているのか、止まっていたのか。判然としないほどにどこまでもうねり続いていた焔の中に、何か、形のようなものが見えた気がした。

 ただの火焔の一つようでもある。しかし、人の姿のようにも思われた。

「お前……」

 それと対峙して、見つめ合う。

 ――その時。どこからか、歌が聞こえた。




 歌声の中でまぶたを開く。頭を動かすと、頬に草が触れた。室内のようだったが天井が吹き抜けており、視線を上げれば青い空が見える。

「ご主人様が起きたですの!」

「――ルーク! 目が覚めたのね」

 歌が途切れ、声が投げかけられた。すぐ側に腰を下ろし、膝に青いチーグルを抱いた少女が、安堵の色を浮かべて覗き込んでいる。

「ティア……。ここは……」

「ユリアの墓所よ。ここなら兄さんは攻撃を仕掛けてこないはずだって、ガイが」

「ユリア……。――っ、そうだ、イオンは!? それにガイも……!」

 ルークは身を起こした。そこが丁寧に手入れされた芝の上で、空間の中央に花に囲まれた白い墓碑、その向こう側に他の仲間たちが散らばっていて、思い思いに体を休めているのが分かる。

「イオン様はご無事よ。今は休んでいるわ。ガイも大丈夫。治療は済んで、傷もふさがった。彼は戦える」

「……」

 安堵の息を吐いて身体を弛緩させて、けれどルークは俯いた。ミュウの声が聞こえる。

「ご主人様……?」

「……主人なんて、呼ぶなよ。俺は、みんなを……」

 裏切った。

 ここまでの苦楽を共にしてきながら、土壇場で。自分の身勝手な劣等感を理由にして。

「みゅう……」

 哀しげなミュウの鳴き声が聞こえたが、ティアの声は聞こえなかった。そうだよな。俺は最低だ。憎まれて呆れられて、見放されたって当然じゃないか。顔を上げられないまま奥歯を噛んだルークの耳に、静かなティアの声が届いた。

「……そうね。あなたのしたことは、それだけのことだわ」

「…………、ごめん」

「あなたが兄さんたちの方へ行ってしまったと分かった時、悲しかった」

 変わらぬ調子でティアの声が続く。

「あなたにとって私たちとの絆はそれだけのものだったの。思いを共有し合えてはいなかったのって。……ううん、違うわ。ただ………。

 あなたが。いなくなってしまったから……」

「ティア……!」

 その声が大きく震えたのを聞いて、ルークは驚いて顔を上げた。いかなる時も冷徹であろうとしていたティアが、顔を手で覆って俯いている。

「本当にごめん。俺……!」

「……ガイも、本当に心配していたわ。たった一人で飛び出してエルドラントへ行こうとしたくらい。大佐に止められたけれど」

 表情を繕って上げられたティアの顔を、胸を突かれた思いでルークは見つめた。離れていたのは十日ほどのはずなのに、以前よりやつれたように見える。ガイはどうだっただろう? だが、もう一度顔を合わせるのはためらわれた。

「ごめんな、ティア。俺……やっぱ、駄目な奴だ。ガイにも、お前やイオンやみんなにも迷惑かけるばっかで。こんな奴が、みんなと一緒にいる資格なんて……」

「そうやって、あなたはまた、ここから逃げ出してしまうの?」

 ティアは声音を強めた。

「周囲に目を向けて他人の中の自分を知るのも大切なことだわ。でも、誰かに必要ないと言われたとしたら、それだけでもう、あなたは価値がない人間なのかしら。

 ルーク。あなた自身を計ることを投げ出さないで。最終的に自分の価値を決めるのは、自分自身よ」

「ティア……」

「それに、あなたは必要とされていない訳じゃない。側で見ているとよく分かるもの。……ガイにとって、あなたはとても価値ある存在なんだわ。だから、あなたに自分を卑下してほしくない」

「………だけど、俺。アクゼリュスの時も、今も。ホントに最低で……。だから嫌われても、当然……」

「そんなことばかり言うご主人様、キライですの!」

「ミュ、ミュウ!?」

 傍らにいた小さな生き物。そのいつにない言葉と剣幕に驚いて、ルークは声を呑んだ。

「ミュウは、ご主人様が好きですの。大好きですの。ティアさんも、ガイさんも、他のみなさんだって。だから、だから……」

「ミュウ……」

「ミュウの言う通りよ、ルーク」

 半泣きで震える生き物を見つめていたルークに、ティアが再び声をかけた。

「完璧な人間なんていない。そうじゃないから悪いなんてことじゃない。迷っても、間違っても、前に進んで変わっていこうとしているあなただから。だから私………、私たちは、あなたが」

 ティアは最後まで声を出せなかった。無言のまま、ルークが抱きしめてきたからだ。

「ル、ルーク?」

 どぎまぎと声を震わせたティアの肩口に顔を押し付けたまま、幾分くぐもった声で彼は言った。

「ありがとう、ティア」

 体を離し、ミュウに顔を向ける。

「ミュウも、ありがとうな」

 柔らかい毛並みを撫でてやってから立ち上がった。

「ルーク?」

 心臓の上を押さえていたティアの物問いたげな顔に、明るい笑みを返す。

「ちゃんと、腹割って話してくる」

 不思議そうに「ご主人様のおなかはもう割れてるですの」と言ったミュウは、少し強めに頭を撫でくり回された。




 腰を下ろして壁に背を預けていたガイは、馴染みある気配に気付いて閉じていた目を開けた。

「……ガイ」

 側まで来て立ち止まり、ルークが幾分硬い声を落としてくる。

「……」

「……」

 互いに押し黙った。こんなことは初めてかもしれない。

「……その、な。俺……」

「ごめんな、ルーク」

 言い終わる前に落とされたガイの声を聞いて、ルークはカッと顔を紅潮させた。

「なんでだよ。謝んなきゃならないのは俺の方だろ。……お前、まだ俺をガキ扱いすんのかよ。そりゃ、確かに俺はガキだし、頼りにならないのかもしれないけど。だけど、俺はっ」

「違うんだ。……俺はずっと、自分の気持ちしか見てなかったんだな。それを謝りたかった」

「……ガイ?」

 怪訝な目になったルークに苦笑を返して、ガイは言葉を続ける。

「俺は、怖かったんだ。お前が行っちまうのが。……行っちまわせることになるのが、か。だから、全てにおいてお前の盾になってやるつもりだった」

「……そんなの」

「ああ。俺はお前を背に護ってるつもりで、縛りつけちまってた。俺の後ろからどこにも行かないように。それに腐心して、いつの間にかお前の顔を見るのも忘れてしまっていたんだろう。……さっきの、カースロットの時のお前を見て、よく分かった」

「ごめん。俺、あの時お前にひどいこと……」

「おいおい。あれは俺が自分でやったんだ。剣を受けたのも、刃を掴んだのもな。俺が馬鹿やったってだけで、お前が気にすることじゃないよ」

「けど、それは俺が。カースロットってよく分かんねぇけど、結局俺のやったことだろ」

「いいんだ。『前』は、俺がお前に斬りかかったんだからな。両成敗ってことさ」

「へ? 『前』? ……って、そんなこと……」

「もう一つの歴史の話。……俺はな、ルーク。『未来』を知っていたんだ」

 眉をひそめるルークに、ついにガイは明かしていた。

「『未来』って……。第七譜石の預言スコアのことか?」

「いや。そうじゃない。ユリアが詠んだのとは別の『未来』だ」

「え? お前って、預言士スコアラーだったのか?」

 困ったようにガイは笑ってみせる。

「そういう訳じゃないんだけどな。……そんな顔するなって。どういうことなのかは俺にも分からねぇよ。だけど、その記憶は……いや、体験は鮮明なんだ。

 その歴史では、俺は隠していた復讐心をシンクに利用されて、カースロットにかかってお前に斬りかかった。お前は、そんな俺を許して、信じてくれた。お前のおかげで、俺は本当に復讐に拘泥していた自分から逃れられたんだ。……なのに、ヴァンとの長い戦いの果てに、俺はお前を……………失った」

「……大爆発ビッグ・バンで、か?」

「………そういうことに、なるんだろうな」

 曖昧に返して、ガイは目を伏せた。

「だからこそ、今度は絶対に護りたかった。救ってみせる、『未来』を知っているんだから変える事だって出来るはずだって。高い場所にいるつもりになっちまってたんだろう。……結果は、このザマだが」

 自嘲するように言って口を閉じたガイを、ルークは見ている。かなりの沈黙が落ちた後で、ゆっくりと声を出していた。

「……俺ってさ。ホント、すげぇ欲張りなんだ」

「ルーク……?」

「辛いとか、なんでこんな目に遭わなきゃならないんだとか、心の中でずっと思ってた。いきなりレプリカだって言われて、人を殺して。殺さなきゃならなくて。力も、経験も、色んなことでアッシュに敵わない。……ナタリアがあいつをアッシュって呼ぶのを聞くと苦しかった。本当は、あいつがルークなんだから。俺はレプリカなのに、あいつの名前を奪ってる。そのくせ劣化品で、だからみんなにも頼りにされない。それが嫌で、苦しくて。

 だけど、そうじゃないんだよな。あいつのレプリカでいることが辛いんなら名前なんて捨てればいいし、人を殺すのが嫌なら剣を棄てればいい。ただ、俺にはそれが出来なかったってだけで」

 軽く目を伏せ、ルークは握っていた拳を緩める。

「俺は全部を欲しがってる。なのに、そんなこと出来るはずがないって、自分で諦めちまってた」

「……俺だって変わらないさ。自分の価値観で決め付けて。お前の意思や可能性を、結果的に、信じてなかったんだからな」

 ガイが苦く懺悔すると、ルークは目を上げて見つめ、やがて小さく笑いかけてきた。

「ガイ。ガキの頃に、お前がガラス玉をくれたことがあったよな。覚えてるか?」

「ん? ……ああ、そういうこともあったっけな。お前、やたらと気に入って、大事に箱に詰めたりしてたっけ」

「うん。母上が調子のいい日に見せてくれた宝石みたいで、キラキラしてて好きだった。俺の宝物だったんだ。また母上が元気な日が来たら見せよう、絶対喜ぶなんて思ってさ。ガラス玉と本物の宝石は違うって誰かに言われて、つまんなくなっていつの間にか忘れちまったけど。……でも、本物じゃなくても良かったんだ」

 ルークは眼差しをまっすぐにガイに向ける。

「価値を決めるのは俺だ。雑草だって誰かが決めても別の誰かにはそうじゃないように。ガラス玉でも、俺がそう思ってるんなら、それは宝物だった。

 だから……。レプリカでも、命が短くても。俺の人生の価値は、俺自身で決められる」

 碧緑の瞳に宿る光は強かった。『前』も『今』も。何度も見て、その度に目を奪われてきたもの。

「……やっぱりお前は、『ルーク』だな」

 自然に表情が緩むのを感じる。ガイが言うと、ルークは胸を張って笑った。

「おう。俺は『ルーク』だ。オリジナルのルークとは、違うルークだけどな」 

 少し離れた場所に背を向けて座っていたアッシュが鼻を鳴らし、「当然だ」と吐き捨てる。ナタリアが傍らで優しく瞳を緩ませた。

「それで、ルーク。あなたはこれからどうするつもりなのですか?」

 ジェイドが問うてくる。

「ムシがいいってことは分かってる。それでも俺は、みんなと一緒に師匠せんせいを止めに行きたい」

「あなたとアッシュのコンタミネーションは進行しています。それを防ぐ手立てを我々は持たない。たとえヴァンを倒せたとしても、あなたはそこで消滅してしまうのかもしれません」

「大佐!」

 ナタリアが非難めいた声をあげたが。

「それは、スゲェ嫌だけど。だからって震えて恨みごと言ってたって仕方ないだろ。……いや。さっきまではそうだったんだけどさ」

 少々気まずげに頭を掻いて、しかしルークは落ち着いた様子で仲間たちを見渡した。

「俺、やっぱりみんなが好きだ。だからこの世界を消したくない。みんなに生きていて欲しい。それで、俺も、ここで生きていたい。それが俺の本当の望みだって気が付いたから。結局、消えちまうんだとしても、みんなの前で胸を張れる自分でいたいんだ」

 仲間たちはルークを見ている。

「……行きましょう、ルーク」

 言ったのは、ヌイグルミをクッションにして横たわっていたイオンだった。自力で立ち上がる。

「イオン。だけど、お前は……」

「だいぶ調子がいいんです。ルークのおかげですね」

「俺の……?」

 戸惑った顔になったルークの前で、アニスが困ったように笑って肩をすくめてみせる。「イオン様は、言い出したら聞かないんだから」と言いたげだった。

「まーとにかく。散々心配かけてくれたんだし、ルークには頑張ってもらわないとね」

「そうですわね。ルーク。わたくしたちは仲間です。あなたが一緒に来てくれて本当に心強いですわ。ね、アッシュ」

「……フン。ここまで来てまだグズグズ言うだけだったら、本当の屑だがな」

「アッシュ。お前は、体は……」

「お前に心配されることじゃねぇ。ヴァンは強敵だ。外殻大地が落ちる前に奴を倒し、取り込まれたローレライを解放するには、超振動を使うしかないだろう。……力を、出し切るだけだ。悔いが残らねぇようにな」

「……うん。そうだな」

 ミュウを抱いたティアが歩み寄って来ていた。一度彼女に向けた視線を戻し、ルークは座るガイに手を差し伸ばす。

「行こうぜ、ガイ」

 

 刹那、かつて自らが行った儀式の光景が重なった。

『――生涯の忠誠を捧げることを、ここに誓う』

 そう言いながら、それは一方的な所作に過ぎなかったのだろう。

 

「ああ」

 自ら手を伸ばし。ルークの手を借りて、ガイも立ち上がった。








 シンクと戦った部屋を通り過ぎ、階段を上る。そこは屋上で、広い空から風が吹きつけた。

「ここまで来たか」

 立っていたのは一人の女だ。金色の髪を結い上げ、腰の後ろのホルスターに二挺の譜銃を収めている。

「リグレット教官……!」

 声を押し出したティアを、チラリと彼女は見やった。アッシュが低く問いただす。

「ヴァンはどこにいる」

「私を倒せば、閣下はお前たちの前に姿をお見せになることだろう。大地のレプリカ情報を全て抜くのが先か、お前たちがここで死ぬのが先か。……どちらにせよ、私は閣下にお前たちを会わせるつもりなどないがな!」

 言うなり、リグレットは譜銃を抜き放つと連続して光弾を撃ち放った。

「イキナリすぎっ!」

 巨大化させたヌイグルミを盾にイオンを守りながら、アニスが叫ぶ。

「俺たちには、ゆっくり手続きを踏んでいられる時間がない。悪いが、こっちも手っ取り早くいかせてもらうぜ!」

 ガイが剣を抜いて斬り込んだ。トンボを切って、鋭い切っ先を皮一枚でかわしたところにナタリアの矢が飛び、横に飛びながら光弾で弓を撃って跳ね上げる。そこでジェイドの譜術に打たれたが、こらえて、口の中で唱えていた譜文を解き放った。

「受けてみろ! ホーリーランス!」

 頭上に光の矢が現れ、雨あられと降り注ぐ。抉られ砕けた床が土煙となって視界を覆い、悲鳴と怒号が響いた。

「――壮麗たる天使の歌声」

 ティアが譜歌を詠おうとする。が、ぐっとこみ上げた何かをこらえるようにして口を押さえ、次いで咳き込んだ。

「知っているぞ、ティア。お前の体はもう、ボロボロなのだろう」

 リグレットの声が聞こえる。土煙の向こうから現れた銃口は、ぴたりとティアに向けられていた。

「愚かな……。大人しく忠告を聞いていれば、余計な苦しみを味わうこともなかったのだ」

「教官……。あれから、ずっと考えていました。あなたや兄は、どうしてこんなことをするのだろうと」

 口を覆う手を下ろし、ティアは言う。

「何かを失うことは恐ろしい。それを本当に私も知った。……兄さんは目の前で故郷を失って、だから滅びの運命を回避するために、世界をレプリカに換えようとした」

「そうだ。私自身、預言スコアによって弟を失った。喪失がもたらしたのは、憎しみと悲しみと、圧倒的な孤独だ。閣下とその理想を愛して、私は孤独から救われた。だから、決めたのだ。あの方のために生き、そして死のうと」

「それが教官の意思……。信念だと言うんですか。自分の望む世界のために、全てを滅ぼして死ぬことが」

「ティア。確かに、人は自分の手で、このままの世界の未来を変えられるのかもしれないわ」

「え?」

 不意に、軍人としてではない口調で語りかけられて、ティアは目を瞬いた。

「でも、そうして変えた未来が望み通りのものとは限らない。ローレライを取り込むことで、あの人はそれを知ったのよ。だからこそ私たちは、私たちの選んだ形で未来を変えることを、決して諦めはしない」

「私たちだって同じです。あなたや兄さんの哀しみは理解できる。でも、許すことは出来ない。私も、諦めません!」

「……いいだろう。だが、その体で戦い抜き、勝ち取ることが出来るか!」

 再び軍人としての口調でよろい、リグレットは銃を向ける。

「やめろ!」

 横合いから刃が薙ぎ、リグレットは跳んでかわした。

「レプリカルークか」

 その剣の主を軽蔑の目で見据える。

「仲間を裏切り、挙句閣下に与えていただいた役目も放棄して、再び寝返るとは。とんだ恥知らずだな。付和雷同で己の意思も信念もない。所詮は出来損ないの人形ということだ」

 言って、左手の譜銃でアニスたちに向けて弾幕を張った。右の譜銃で斬り込んで来ようとしていたガイを牽制し、彼に銃口を向けたままで言う。

「この男に付いたところで、お前は運命を変えられない。この男も、その仲間たちも、誰もお前を救えはしない。悔しくはないのか。人形であろうとも、お前にはそれだけの意思もないのか!」

「……確かに俺は迷ってばかりだった。それをなじられても仕方がないよ。だけど、それと俺がレプリカだってことは関係ない」

 ルークは言った。

「理不尽なことが悔しくないわけじゃないし、今だって納得できちゃいない。それでも、もう恨もうとは思わない。少なくとも、ここにいるみんなはそうしなかった。だから俺は変わりたいって思ったんだ」

「……ルーク」

 驚いて、ガイはルークを見やる。他の仲間たちの表情にも同じ色が浮かんでいるようだった。

「俺は自分の意思を持っている。だから迷うし、変わっていける。信念は、人を縛るためのものじゃない!」

「……縛るのも、また、自分の意思だ!」

 リグレットは譜銃の床尾から何かを取り出すと、頭上に投げ上げた。それに銃口を向ける。

「まずい! 音素フォニム爆弾です!」

 ジェイドの警告が聞こえたが、反応する間もない。譜銃から放たれた光弾がそれを貫き、神殿の上で巨大な爆発が起こった。



 衝撃は圧倒的だった。音として認識できたものも、そうでないものも。

 跳ね飛ばされ、細かく砕けた瓦礫がパラパラと降ってくる。

「……あ、焦ったぁー」

 アニスが言って、床から起き上がった。側に転がるヌイグルミは小さく戻っている。

「目の前真っ白になったもん。もう絶対死んだと思った!」

「みんな、無事か?」

 同じように身を起こして、ガイは周囲を見回した。衝撃に弾かれ広い範囲に散らばってはいたが、全員の動く姿が確認できる。

「教官……」

 ティアの沈んだ声が聞こえた。座り込む彼女が見つめる辺りの床は抉れており、リグレットの姿は見えない。

「おかしい……。あの型の爆弾なら、半径50メートル圏内は跡形もなくなる筈なのですが」

 ジェイドの声を聞いていたガイは、少し離れた場所に膝をついているアッシュの体が淡く金色に光っていることに気がついた。

「アッシュ。お前がやったのか」

 超振動は、あらゆる物質を自在に分解する。完全な超振動になると、音素の干渉をも断つという。

「……俺だけじゃねぇだろう」

 それだけ返すと、アッシュは立ち上がる。その視線を追うと、ルークの側にいたチーグルがピンと耳を立てるのが見えた。

「音素ですの! 下から、すごい音素が近付いてきますの!」

 その声が終わるか終わらないかという時、神殿がグラグラと揺れた。奥の、やや高くなっている場所に光の柱が立ち昇り、眩く光る。

「私の中のローレライの抵抗が激しくなっている……。やはり、お前たちを倒しておかぬ限りは、私の望みを果たすことはできないようだな」

 堂々たる声がした。光の柱が消え、一人の長身の男が姿を現す。

「ヴァン……!」

 その男の名を、ガイは呼んだ。








 ヴァンは何も変わっていないのだろうと思っていた。だが。光の中から現れた姿は。

「お前……それは」

 ガイは問う。普段は高く結っていた髪を下ろしている、それは些細なことだ。目を引くのは彼の右肩。服と肉が一体化し、ひび割れた岩のようになっている。変質は腕まで続き、肘辺りまでが黒く固まっていた。

「貴公に砕かれた肩……。どういう訳か、これだけは再生しなかったものですからな」

 ヴァンは左手で軽くそれに触れる。ひびの中に光が走ったが動きはしなかった。右腕は完全に死んでいるということなのだろう。

「つまり、今のあなたは、もはや剣を使えない……ということですね」

 ジェイドが言った。ルークやアッシュは衝撃を受けた顔をしたが、ヴァンは悠々と笑う。

「それでも、私には譜術がある。ローレライの力を取り込んだ、な。死霊使いネクロマンサー殿。あなたをも凌ぐ譜力を私は得ている。七つの音素フォニム、その全てを従えて」

「兄さん。どうしても戦わなくてはならないの?」

「やつれたな、メシュティアリカ。お前をそこまで苦しめるつもりはなかった。いっそのこと、もっと早く、苦しみを知らないうちに手にかけておくべきだったのかもしれん」

 氷のような兄の視線を受けて、ティアはぐっと身を強張らせた。しかし逸らしはしないでいる。ふ、とヴァンは笑った。

「……だが、認めるべきなのだろうな。お前は私とは違う意思と、信念を持っている。異なる未来を目指しているのだと」

 ガイが再び声を出した。

「ヴァン。お前は……『未来』を知っているのか。第七譜石の預言スコアに刻まれたものじゃない、俺が体験したものと同じ未来を」

「地核へ落ち、私の体は音素乖離を起こしながらプラネットストームに吸い込まれていった。消えるのだと、そう思った時にユリアの譜歌を思い出し、口にしたのだ」

 静かにヴァンは語り始め、その言葉を口にする。

「レィ、ヴァ、ネゥ、クロア、トゥエ、レィ、レィ」

「フォニスコモンマルキス。――まさか。それは、七番目の旋律?」

 顔色を変えたティアを見やり、口元を笑ませたまま続けた。

「それが契約の言葉だった。ユリアの契約に応え、ローレライが反応した」

「お前はローレライを取り込み、その力で乖離しかかっていた自分の音素を引き寄せ、再構築した……」

「そうだ」

 確かめたガイに頷き、チラリとルークを見やってから、「知っての通りにな」と嗤う。

「ローレライは星の記憶を知っている。いや、星の記憶はローレライの見ている夢だとでも言うべきか。

 ひと連なりだと思っていたそれに、幾つかの異なる道筋が生まれていることを、ローレライを取り込んだことで私は知った。繰り返し見る夢が、必ず同じ筋になるとは限らないように。二千年前にユリアが見た道筋が薄れ、新たな未来が存在していた。だが、それもまた滅びの道に過ぎなかったのだ。――そうでしたな、ガイラルディア・ガラン」

 仲間たちの目がガイに集中した。「滅びの道……?」と、アニスが戸惑った声を落とす。

「この世界を存続させたまま、星の記憶を変える。お前たちは私を倒してその望みを叶える権利を勝ち取った。だが、十余年を待たずして世界は滅んだのだ。ユリアの預言に詠まれていたよりもずっと早くにな。ならば……今こうして、私の計画を阻止するのは無意味ではないのか?」

「ガイがユリアの詠んだものとは異なる未来を知っている、ということは先ほど聞いていましたが……」

「十年で……滅ぶ?」

 ナタリアとティアが動揺の滲んだ声を交わした。ガイは黙っている。何かを言おうと口を開きかけた時、ジェイドが言った。

「まあ、そんなところだろうと思っていましたよ」

 軽く肩をすくめ、ガイに目を向ける。

「あなたが具体的に語った『未来の記憶』は、エルドラントでヴァンの計画を阻止したところまでです。その後何が起こったのか、どうして歴史の変更にこだわるのかは、話してはくれませんでしたが」

「……すまん」

「いえ。それでいいのだと思いますよ。どんな滅亡が待っているのかを知る必要はない。以前と同じ轍を踏むのでさえなければ」

「愚かな。定まった滅亡へ向かうと言うのか」

「お前がやろうとしてるのも同じだろうが!」と、アッシュが吐き捨てた。ヴァンは嗤う。

「違うな。レプリカ世界に星の記憶は適用されない。未来は未知数だ」

「同じことだよ、師匠せんせい

 静かにルークが言った。

「レプリカ世界に星の記憶が適用されないなんて、どうして分かるんです。レプリカだって、この星に生まれた命だ。レプリカがこの星で生きて行くんなら、ユリアが詠んだのとは違うだけの、また別の記憶が生まれるだけじゃないんですか? ……俺たちは、預言は絶対だという教団の教えを否定した。師匠は、預言は絶対に変えられないから世界をレプリカと入れ替えようと考えた。そして、実際に歴史は変わったんだ」

「変わってはいない。滅んだのだ」

「そうじゃない! 人も星も、いつかは必ず滅ぶ。その道を、誰でも手探りで歩いてるんだ。それは誰かに頭ごなしに決め付けられるものじゃない。結果的に滅ぶとしても、それは、そこに生きる命が、自分で決めなきゃいけないことだ」

「ヴァン。俺も結局、お前と同じだった」

 ガイは言葉を落とす。

「未来の記憶に囚われ、それを変えることにだけ固執して、『今』を見ていなかった。――でも、それじゃダメなんだ。

 未来は今を積み重ねた先にある。今をないがしろにしては、どんな未来も作れはしない」

「十年で滅んだとしても、確かに歴史は変わった。未来は本当に変えられる。だったら、今からでもいくらでも変えていけるってことでしょう? 師匠。だって世界はまだ、滅んじゃいないんだ!」

 ルークの叫びを、ヴァンは黙って聞いていた。

「兄さん……。お願い。こんなことはもうやめて。人も未来も、変えられる。変えていくことが出来るのよ」

 ティアが訴える。ヴァンの口元に笑みが浮かんだ。

「フ……。もはや言葉は必要あるまい」

 笑いながら目を伏せる。その全身が金色に輝き始めるのを、ガイたちは見た。

「ヴァン!」

「私の目指す未来と、お前たちの信じる未来。どちらがそれを掴み取れるか。ただ、全力でぶつかり合うまでだ!」

 その言葉が終わるのとほぼ同時に、ヴァンの足元から光り輝く譜陣が広がった。左手をそれに叩きつける。

「星皇蒼破陣!」

 生じた音素の奔流に、逃れる間もなく巻き込まれて、ガイたちは悲鳴をあげた。

「散りなさい!」

 鋭く指示してジェイドが槍を出そうとした時には、その前にもうヴァンが迫っている。胸を突こうとした手を咄嗟に槍で受けたが、そこに生じた譜術の爆発で吹き飛ばされ、槍は音素に分解した。「ジェイド!」と離れていたイオンが叫ぶ。

「イオン様はミュウと一緒にそこにいて下さいっ」

 言い置いて、アニスが巨大化させたヌイグルミに飛び乗った。

「こぉーのぉおおお!」

 ヌイグルミの拳を叩き込もうとしたが、跳んで避けられる。空振りしてぐるぐると回るヌイグルミの前で、アッシュが雄叫んで斬り込んだ。その刃を、金に輝く掌でヴァンは軽く受け止める。

「何!?」

「遅い!」

 剣を掴まれたまま、強く蹴りを入れられた。後ろから駆け寄ってルークが斬りつけようとしたが、石のような右肘を叩き込まれて跳ね飛ばされる。

「ぐぅっ……」

 捕えられたアッシュの全身が白光に覆われた。

「超振動か……。だが、未熟だ!」

 ヴァンの体もまた白く輝く。掴まれていた剣が粉々になって砕け、アッシュは弾き飛ばされて、起き上がろうとしていたルークに背中から激突した。

「アッシュ! ルーク!」と、ナタリアが補助譜術の詠唱を中断して叫ぶ。

「お前たちは己の力の意味すら知らない。それでは、私を傷つけることすら出来んぞ」

「バニシングソロゥ!」

 ティアが杖を振って輝きを放った。

「その程度。ネガティブゲイト!」

 渦巻く闇に巻き込まれてティアが苦鳴をあげる。その脇を駆け抜け、ガイがヴァンの前に滑り込んだ。剣を鞘走らせ、居合いの姿勢で斬り裂こうとする。だが、直前で輝く左手を向けられた。

「グランドダッシャー!」

 床から噴き出した地の力に打ちのめされる。なんとか退こうとした瞬間、ジェイドが完成させた譜を解放する声が聞こえた。

「この重力の中で悶え苦しむがいい。――グラビティ!」

 ヴァンを包んで重力場が発生する。過大な重力は彼を押し潰すはずだったが。

「はあっ!」

 気を発すると、ヴァンの体から白光が迸り、難なく重力場は消えうせた。

「詠唱無しの譜術ですか……。おまけにこちらの譜術を無効化するとは。まいりましたね」

 下がって間合いを取り直したガイの耳に、ジェイドの飄然とした声が聞こえた。見やれば、口調とは裏腹に表情は厳しい。

「師匠……。剣は使っていないのに、なんて強さなんだ」

「でも、諦めるわけにはいかない。パパやママや、フローリアンが待ってるんだから」

「ええ。わたくしはキムラスカの全ての民の命と信頼を背負っています。彼らのためにも、退くわけにはまいりません」

 アニスとナタリアが決意を叫んだ。

「普通の譜術や剣じゃ、奴を倒せねぇ。もう一度……」

 ルークの側で、アッシュは既に肩で息をしている。立ち上がろうとしたが、がくりと片膝をついた。

「!? アッシュ、お前……!」

 ルークは目を瞠る。アッシュの全身が淡く明滅し、小さな光の粒が立ち昇り始めていた。「くそっ。間に合わねぇ……のか」と、悔しげにアッシュは唸る。

「音素の流れがめちゃくちゃですの。第七音素セブンスフォニムがぐるぐるして怖いですの」

 戦いの様子を見守りながら、イオンの腕の中でミュウが怯えたように訴えた。

「ヴァンの中のローレライの影響でしょうか」

 イオンが言う。何かが引っかかったように「ローレライ……」と呟き、ハッとして叫んだ。

「そう、譜歌です!」

「――そうか! ティア。大譜歌を詠うんだ」

 その声を聞いて、ガイがティアに呼びかける。

「あの歌はローレライとの契約の証。奴が強引に取り込んでいるローレライを活性化させることが出来れば、制御を狂わせ、隙を作ることも出来る筈だ」

「分かったわ」

 杖を構え、ティアは息を吸い込む。旋律が流れ始めた。

 トゥエ レィ ズェ クロア  リュオ トゥエ ズェ

「詠うかティア。その傷ついた肺腑で」

 決して美しい声とは言えない。搾り出すように詠う妹の方へ向かおうとしたヴァンの前に、アニスとナタリアが立ちふさがる。

「ここは通さない!」

「ティアの邪魔はさせませんわ」

 クロア リュオ ズェ トゥエ リュオ レィ  ネゥ  リュオ ズェ

「失せろ!」

 腕の一振りでなぎ倒された少女たちの後に、ジェイドが入り込んだ。

「私は、人の信念などというものに興味はないんですよ。ただ、私の愚かさから生じたものは、私の手で摘み取らせてもらいます」

 ヴァ レィ ズェ トゥエ ネゥ  トゥエ  リュオ トゥエ クロア

「そう。あなたの生み出したフォミクリーが超振動の研究を加速化させ、ホド消滅を引き起こした。 そして同時に、世界を預言から解放する手段となっている。ある意味では、あなたが元凶だ。バルフォア博士」

「……少し前の私なら、それが可能だと言うならば、過去に戻って産まれたばかりの自分を殺したいと思ったことでしょうね」

「今は違う、と?」

 リュオ レィ クロア リュオ ズェ レィ ヴァ  ズェ レィ 

 答えずに、ジェイドは一気に踏み込むと音素を集中させた槍を突き出す。刺さったかに思われた穂先は白光に食われて消失し、ヴァンが全身から放った光に彼は弾き飛ばされた。しかし、すぐに後を埋めてルークが、よろめきながらもアッシュが道を塞ぐ。

「哀れだな。お前たちこそ、最も預言にふりまわされた犠牲者だろうに」

「ヴァン。俺は一度はお前の理想を信じた。どうにもならない現実への苛立ちも、理不尽な運命への憎しみも。お前が抱えていたものは、俺自身のものでもある。だが……!」

 ヴァ ネゥ ヴァ レィ  ヴァ ネゥ ヴァ ズェ レィ

「それでも、俺は諦めない。そう決めたんです。変わることも、変えることも」

 共鳴するように、アッシュとルークは交互に明滅を繰り返していた。二人を包む淡い光が手を伸ばし、一つになろうとしている。

「お前と俺は違う。お前に認められることが、俺の望みを果たすことじゃねぇんだ! 俺は……」

「俺は、哀れじゃない。誰にどう思われようとも、この命が消える最後の時まで、俺は俺だ!」

「……流石は我が弟子たちだ、と言っておくべきか」

 静かにヴァンは言った。

 クロア リュオ クロア ネゥ トゥエ レィ  クロア  リュオ ズェ レィ ヴァ

「認めよう。お前たちは私の手から離れた。自らの信じた思いを抱いたまま………消えろ!」

「師匠。――うおぉおおーーっ!」

 ルークが気合と共に剣技を叩き込む。ヴァンは白光で迎えうち、ぶつかった刃との間に光を弾かせた。「ルーク!」と、ガイが叫ぶ。その刹那。

 レィ ヴァ ネゥ  クロア トゥエ  レィ レィ

 最後の旋律が響き渡り、金色の光が爆発した。



「これは……?」

 ルークは呆然として自分や周囲を見回している。光は、彼とアッシュ、そしてヴァンを包んで広がっていた。そして床や空には青白く輝く譜陣が浮かんでいる。

「静かですの……。音素のぐるぐるが止まってますの」

 ミュウが言った。

「……だるさが消えた」

 明滅しない己の手を見てアッシュが呟く。一方で、ヴァンは身悶えて苦鳴をあげていた。

「ぐううぅぅっ! ローレライが……暴れるっ……! おのれ。やはり、お前はっ」

「――ヴァン!」

 一声の後に。

 ガイがヴァンの前に滑り込む。腰の剣に手を沿え、居合いの姿勢をとった。

「ぬうっ!」

 その刃を、ヴァンはまたも白光を手先に集中させて受け止めようとする。だが、直前で光が消えた。バランスを崩したように片膝をつく。

「おぉおおおっ!!」

 青く光る剣が振り切られた。ガイの手に、重い感触が直に剣から伝わる。

「ぐぅ……っ!」

 白光に食われることもなく、刃は、ヴァンの脇から胸を斬り裂いて深々と食い込んでいた。

「…………お見事です。ガイラルディア様……」

 苦痛に青ざめた顔に、自嘲と皮肉、それ以外の何かを含む笑みを浮かべた男を、やるせない思いでガイは見返す。

「ヴァンデスデルカ……」

 ローレライの力を失い、実体を保てなくなりつつあるのだろう。剣を抜かれた傷口から溢れる血潮は、端から光になって宙に溶けていた。

「兄さ……」

 駆け寄る仕草を見せたティアは、ぐっと喉を詰まらせると膝をつき、咳き込み始める。仲間たちの注意が彼女に集まった中で、ジェイドだけは別の方向へ視線を向けていた。

「閣下……」

 そちらから、右肩を押さえ、よろめき出てきた女がいる。

「リグレット!? あんた生きてたのっ?」

 アニスが警戒の姿勢をとったが、彼女は頓着した様子がなかった。譜銃も持っていない。片足を引きずりながら、一心に消えゆくヴァンを目指していた。

「リグレットか。……許せよ。我らの悲願を果たすことも叶わず、無様な姿を見せた」

「まだです、閣下! この歪んだ世界を変革するには、閣下のお力が必要です! ですから…………あ、あ……。駄目。お願い、消えないで!」

 ヴァンの前で膝を落として、縋るような仕草でリグレットは喚いていた。我を忘れた彼女の様を呆然と見つめていたティアに、ヴァンが目を向ける。

「ティア……。ここに」

 ティアはふらりと立ち上がった。周囲の仲間たちが心配げな顔をしたが、引かれるように兄に近付く。差し出された手に自分のそれを伸ばすと、強く握られた。ヴァンを食っていた光が一瞬、彼女を覆い、驚いた様子でティアは一歩身を離す。

「お前の身体に蓄積した障気は、私が持っていく」

 手を下ろし、妹を見つめてヴァンは言った。

「兄さん……!?」

「音素は互いに引き合います」と、ジェイドが語る。

「乖離する自分の音素と共に、障気と結合したティアの第七音素を音譜帯へ運び去る……という訳ですか」

「そういうこと、だ……。もう一つの『歴史』から得た方法だがな……」

 皮肉に口元を歪めると、ヴァンは弟子たちに目を向けた。

「安堵するのは早いぞ。……お前たちのコンタミネーションが止まっているのは、今、この空間にいるからこその…… 一時的なものに過ぎん」

 アッシュは眉根を寄せる。

「…… 一つ、教えてやろう。ローレライは第七音素そのもの。そして、お前たちは、その……完全同位体だ」

「そうか。『鍵』は……!」

 言ったのはジェイドだ。

「え……?」

 怪訝そうに眉根を寄せたルークをじっと見ると、ヴァンは再び皮肉に嗤った。

「己に……手足があることを知らねば、歩くことも出来ぬ……ぞ……。ぐっ……」

「閣下!」

 分離していく光を押し留めようとするかのごとく手を伸ばして、リグレットが叫ぶ。

「リグレット。お前は、生きろ」

 信じられないという風に目を見開き、リグレットは顔を歪めると首を左右に振った。

「いやです! あなたが逝くと言うのなら、私も!」

「お前は生きて……見届けるのだ。我らを打ち倒した者の選んだ、道の先を……。そこに……真の変革と、自由が……あるのかを……。誇りを持って、生きよ」

 光にヴァンは食われていく。口元で笑った。

「我が理想を信じ、力を尽くした……。悔いはない。さらば……だ!」

 光は四散する。

「……っ。ヴァーーン!!」

 震えるリグレットの叫びを聞きながら、ガイは舞い上がる光の粉を目で追って呟いた。

「ああ。……さらばだ。ヴァンデスデルカ」




 空は淡く金色に色づき始めている。アッシュとルークを包んでいた金の光が強さを増した。

「これは……」

 アッシュが呟く。「うん」と頷いて、ルークは耳を澄ますように目を伏せた。

「ローレライの声が聞こえる……」

「ローレライは何と言っているんです?」

 訊ねたジェイドに答える。

「このまま、ここから封咒を解いて外殻を降ろそう、障気も消しちまおうって」

「そんなことが出来るのですか?」

 驚くナタリアに笑顔を向け、「出来る」とルークは言った。

「俺一人じゃ無理だと思う。多分、アッシュだけでも。でも、俺と、アッシュと、そしてローレライがいれば。――な。アッシュ」

「フン……。お前と協力するっていうのは気に食わねぇがな」

 そううそぶきながらも、アッシュはルークと並んで立つ。それぞれが手を前にさし伸ばすと、身体を覆っていた光が手先に集まって形を取った。アッシュの前には音叉の形をした剣。ルークの前には紅く輝く響律符キャパシティコア。それらを手に取り、顔を見合わせると、二人はそれを一つに合わせる。

「ローレライの鍵……」

 完成した剣を眺めて、教団の伝承に伝わるその名をイオンが呟いた。アッシュは右手。ルークは左手で、重ねてその剣の柄を握る。

「ティア。詠ってくれよ」

 そうルークに言われて、ティアは目を瞬いた。

「え?」

「お前が詠うと、すっげぇ元気が出るからさ」

「ルーク……。ええ、分かったわ」

 まだ強張りながら、それでも確かに微笑んで、ティアは譜歌を詠い始める。伸びやかな声で。

 歌声の響く中、アッシュとルークはローレライの鍵を掲げた。夕空の朱金に負けないほどにそれは輝き、光は雲を貫いて立ち昇ると天地を結ぶ。地鳴りが聞こえ、二度、三度と地の底から白光が溢れて空を走った。封咒で縛られていた全てのパッセージリングが譜陣を輝かせて起動し、定められていた出力の低下を自動的に開始する。

「空が……」

 金色のそれを見上げて、アニスが言った。

「遠ざかっていきますわ……」

 ナタリアも瞳を揺らして見上げている。遥か天空から惑星ほしを見下ろす者がいたならば、それを窺うことが出来ただろう。光に変わった障気を地割れ部分から漏れ輝かせ、全ての大地がゆっくりと降下していく。

「『約束の時』……」

「え?」

 呟きを聞きとがめて、ガイはジェイドを見やった。

「以前、ティアが言っていたでしょう。パッセージリングは三つの封咒で封印されている。最後の封印であるユリア式封咒は、『約束の時』が来れば自動的に解けると言われていると。我々は今まで、リングの制御板をユリアの血によって封じていたものがユリア式封咒で、それ以上のものではないと思い込んでいました」

「そうじゃなかったって言うのか?」

 大地と空が低く高く音を響き合わせている。イオンが耳を澄まして呟いた。

「星が……歌っている」

「二千年前、ユリアはローレライの力を宿した鍵を用いて世界を変革したと言われています。彼女はまた、譜業科学者としてパッセージリングの建造にも深く関わった。……いつか地核からローレライを解放し、大地を再び降ろす。それが最初からユリアの意図したことだったとするならば……」

 アッシュとルークと、その掲げる剣を中心にして、焔のように揺れる光が渦巻く。

 膨れ上がった黄金きんの焔は爆発し、視界を覆い尽くした。




 一面が黄金に満たされている。

 決して身を焼くことのない焔に包まれた、無限の深淵。その彼方に立つ人の姿を、ガイは認めた。

 裾の長い白い上着。明るい赤い髪は周囲の焔と混じり合って燃えている。『今』の彼に比べれば大人びているように見えたが、碧緑の瞳に宿る光の強さは変わりはしない。

(ああ……そうか)

 鏡のように、彼と同じ表情を浮かべていく自分を感じながら、理解する。

 全てが終わったはずだった。なのに、この輝きに導かれ、得るはずのない機会を得た。

(お前だったのか……)

『今』が『前』とは違う、けれど確かな現実であるように。失われたものは二度と返らない。時間も、命も。決して戻りはしないのだ。

 全てを包んで焔はうねる。そして、急激に遠ざかった。








「イオン様ーっ」

 教会の廊下に少女の声が響いた。黒いツインテールを揺らして小走りにしながら、アニスは時折立ち止まって周囲に呼びかけている。やがて、白い教団服をまとった華奢な少年を見出して声をかけた。

「あっ、フローリアン。イオン様を見なかった?」

「イオン? ううん、見てないけど……。お部屋にいるんじゃないの?」

「それがいないんだよね。もー、どこ行っちゃったんだろ」

 唇を尖らせてぶちぶち言っているアニスに、フローリアンは笑顔を見せた。

「戻ってるかもしれないし、ボク、イオンのお部屋を見てくるね」

「ありがと、フローリアン。私は向こうを探してみるから」

 忙しなくアニスは駆け去っていく。その背を見送ってから、フローリアンは歩き始めた。



「イオン様!」

 散々探し回った後で、アニスはようやく目的の少年を発見する。手すりの前で、階下の大ホールを見下ろしていた彼の側に駆け寄ると、両腰に手を当てて軽く睨みつけた。

「こんなところで何してるんですかぁ。もうすぐ詠師会のお時間ですよ」

「すみません、アニス。少し散歩をするだけのつもりだったのですが」

 言いながら、再び向けられた視線を追ってアニスも階下を見る。一般に公開された教会内は今日も賑やかで、大勢の教団員や信者たちが行き交っていた。

「……預言スコアを求める人は、まだ沢山いるんですね」

「ええ。生きていれば、誰もが不安に襲われる時がある。預言以外の力でそれを乗り越えていく、その手助けとなるための教団作りを、僕たちは目指していかなければなりません。難しいでしょうが、諦めずに、少しずつでも」

「そうですね。変えていかなくっちゃ」

 アニスは言い、「どっちにしても、そのうち預言は詠みにくくなっちゃう筈ですし」と苦笑する。

「アッシュとルークがローレライを解放したから、これからは第七音素セブンスフォニムは音譜帯に集中していく。今はまだそんなに変わらないけれど、数年経ったら能力の低い第七音譜術士セブンスフォニマーは困ることになるだろうって、大佐が言ってましたもんね」

「世界は変化しています。僕たちも、変わらなければ」

「全然変わらない奴もいますけどねー」

 イオンは少し不思議そうに首を傾げた。「ほら、マルクトから国際手配書が回ってきてたじゃないですか」と、アニスは苦笑する。

「ホント、ゴキブリなみ。大佐の苦労は一生ものかも」

 そう言った時、教会の尖塔に吊るされた鐘の音が響いた。飛び上がってアニスは慌てる。

「はぅあ! イオン様、もうお時間がありませんよぅ」

「分かりました。急ぎましょう」

 連れ立って二人は歩き始めた。しばらく廊下を進んだところで、フローリアンと行き会う。

「あ。アニス。イオン、見つかったんだね」

 笑う少年の腕の中に、先程はなかったものを認めて、アニスは目を見開いた。

「フローリアン。それ……!」

「さっき拾ったの。イオンのお部屋の前にあったんだ」

 それは、数匹のオバケをチグハグに縫い合わせたような、不気味とも可愛いともつかないヌイグルミだった。

「これを誰が……。誰か近くにいませんでしたか!?」

 珍しく勢い込んだイオンの様子に目を瞬いて、けれどフローリアンは「ううん」と首を横に振る。ヌイグルミだけが導師の執務室の扉の前に置いてあったのだと言った。

「そうですか……」

「イオン様……」

 複雑な表情で呼びかけたアニスの前で一度目を伏せると、顔を向け、イオンは微笑みを作る。

「いえ……。いいんです。彼女が生きて、自分の意思で歩いていくのなら。それで」

「……そうですね。それで、きっと」

 アニスも微笑った。




「いやあ、意外でした。あなたが模範囚になっているとはね。魔弾のリグレット……いえ、神託の盾オラクル騎士団からはとうに除隊されていたのですから、ジゼル・オスローと呼ぶべきですか」

 面会室で向かい合うなり柔和に笑って言った眼鏡男を、囚人服を着た女は冷たい目で見返した。

「早くここから出るためだ。それ以外に意味は無い」

「出るのは難しいと思いますよ。なにしろ、あなたはこの世界を滅亡させようとした一味の一人だ。極刑に処せられなかったのは、ただの僥倖です」

「それでも、可能性はゼロではないだろう」

「随分と殊勝ですね。自らの愚行を恥じ、悔い改めている、と」

「……死霊使いネクロマンサー

 それだけで殺せそうな視線で、リグレットはジェイドを睨む。

「私は、お前たちに裁かれているつもりなど微塵もない。ましてや、閣下とその理想を恥ずべきものと感じたことは一度もありはしない。これからも、未来永劫ないだろう」

「ほう。では何故、大人しく刑に服しているのですか」

「言っただろう。ここから出るためだ」

「出られるのかどうか、分からなくても?」

「それでも、私は胸を張って正面からここを出る」

 リグレットの声には一分の揺れもなかった。

「キムラスカの収容所で演じたような、脱走劇を見せるつもりはないということですね」

 肩をすくめて笑ったジェイドを見て、リグレットは目を細める。

「なるほど。一体何の用かと思ったが、お前が気にしているのはあの男の方か」

「最近、騒がしいものですから。……ゴキブリなみの生命力だとは思っていましたが、プラナリアなみに認識を改めた方がよさそうです」

「あの男は、元々閣下の理想に共鳴していた訳ではない。従っていたのは研究のための環境の確保と、恩師とやらのレプリカ情報を得るためだ。今となっては、あれが私に接触する理由などないだろう」

 そう言い切ると、リグレットは落ち着いた声で語った。

「閣下がそう望んだのなら、私は、命に代えてでもその理想を継いだだろう。しかし閣下は私に、この世界の行く末を見届けよと命じられた。その為に今はただ、生きるのみだ。拗ねず、怖気ず、顔を上げて何からも身を隠さず。……あの人が、そう願ってくれたように……」




 封筒を受け取った執事が頭を下げて立ち去った後、入れ替わるように青いドレスを着たナタリアが入ってきた。

「今、ラムダスとすれ違いましたわ」

「ああ。……ちょっと手紙をな」

 どこか決まり悪そうな幼なじみの顔を見て、くすっとナタリアは笑う。

「ルークにですか」

「父上と母上が待っておいでだからな。絶対来いと釘を刺した」

「来ますわよ、必ず。彼も、ファブレの家族なんですもの」

 眉を開き、けれどすぐに苦虫を噛んで厳格さを繕ってみせたアッシュの様子は、その父によく似ていた。好ましい思いで見つめながら、ナタリアは話を変えて問いかける。

「ところでアッシュ。体調は大丈夫ですか?」

「大丈夫だ」

「本当に?」

 じっと見つめられて、アッシュは僅かにたじろいだ顔をした。

「本当だ。ベルケンドで検査もしたし、ジェイドの野郎も言ってただろうが」

 ベルケンドの第一音機関研究所でルークと共に受けた検査の結果は、二人共に音素フォニムの異常なし、というものだった。何故、消滅寸前まで進んだ乖離音素が戻ったのか、今後またコンタミネーションが起こる可能性はないのかという疑問に、ジェイドが答えたのだ。『鍵は、あなた方自身だったんですよ』と。

 

『どういうことだ』とアッシュが訊ねると、ジェイドは赤い瞳を向けた。

『同位体のコンタミネーションは、音素振動数を同じくする被験者オリジナルとレプリカの間に音素の流れが発生し、進行していく現象です。被験者の音素はレプリカに引かれるようにして乖離を起こし、しかし、完全に音素化すると、瞬間的にレプリカの音素構成を破壊、その情報の一部を奪って自身のみを再構築させる』

大爆発ビッグ・バン現象か……』とガイが呟く。頷いて、ジェイドは話を続けた。

『これを私は、緩やかなサザンクロス効果によって音素化された被験者が、純粋な音素になることでレプリカとの間に特殊な超振動――第二超振動を起こすために生じるものだと考えています』

『え? え? それってどういうことなんですか?』『難しくて分からないですの〜〜』

第七音素セブンスフォニム同士が干渉し合うことで生じる超振動は、物質を分解させる。けれど、超振動同士の干渉によって起こると予測されている第二超振動は、音素から物質を再構築するのではないかと言われている……。そのことですか、大佐』

 頭をぐるぐるさせているアニスとミュウの前から、ティアが言った。彼女もこの研究所で検査を受け、体内に蓄積していた障気が消えていることを確認してもらったばかりだ。

『そうです。いずれにせよ、起こるのは第七音素の動きによる変化だ。だが、人にはそれをコントロールし続ける術がない。ですから、我々には大爆発に対して打つ手がなかった』

『だけど俺たちは、こうしてここにいるだろ』

 ルークが言う。『そうですわ。アッシュとルーク自身が鍵とは、どういうことなのです』とナタリアが訊ねた。

『簡単なことです。第七音素の流れを操ることが出来るのは、第七音素自体であるローレライだけ。そしてアッシュとルークは、その完全同位体なんですよ』

『……二千年前、ユリアは剣と宝珠にローレライの力を宿し、第七音素の流れを自在に操った……。そういうことですか、ジェイド』

『イオン。そういうことって何だよ』

 ますます怪訝な顔になったルークの向こうで、『そうか……そうだったのか!』とガイが大きな声をあげている。

『くそ。俺は、なんてバカだったんだ。外殻降下も障気中和も、いつだって二人が力を合わせた時にこそ、ローレライの力を使いこなせていたんじゃないか』

『ルーク。あなたは今、ローレライの宝珠を。アッシュはローレライの剣を持っていますよね』

 イオンは確かめ、頷く彼らに明るく微笑みかけた。

『それはローレライからあなたたち二人が預かったものであり、同時に、あなたたち自身のものでもある。そういうことなんです』

 

「俺たちには元々、第七音素を操る素地があったんだ。ローレライ並みの力を使うには一人じゃ足りねぇがな。少なくとも、ローレライが置いていった鍵を正しく使えている限りは、俺たち自身の音素の流れもまた、コントロール出来る」

 アッシュはナタリアに言う。

「だから、俺たちは二度とコンタミネーションを起こすことはない」

「そうでしたわね。それを聞いて、本当に安心しましたわ」

 微笑んで、ナタリアはアッシュのごく間近にまで近付いた。

「でもアッシュ。わたくし、少し怒っているんですわよ?」

 どぎまぎしていたアッシュの顔が引きつる。脇腹の辺りを、きゅっとつねられたからだ。

「……もう、あんな隠し事はしないで下さい」

「ナタリア……」

「あなたの痛みを全て掬い上げられるなんて、思い上がってはいませんわ。ですがわたくしは、あなたと同じものが見たい。それが苦しみであっても、分かち合っていきたいのです」

 アッシュの上着の端を握ったままでいたナタリアの手にアッシュのそれが重ねられ、握られる。伏せていた顔を上げて、ナタリアは嬉しそうに笑うと目を閉じた。




 目を落としていた白い便箋に、一瞬、影が走る。

 顔を上げ、ティアは透き通ったドームの向こうの空を見やった。全ての大地があるべき場所へ収まった今、ユリアシティの上を覆う土の殻は存在しない。

「教官……。あなたは兄の理想を信じて、この世界で生きていくんですね」

 それも一つの生き方なのだろう。かつて弟の仇を討つためにヴァンの命を狙ったリグレットは、彼の過去に触れて変わり、自身の過去を捨てて理想に殉じる道を選んだ。

 認める認めないは別にして、他人ひとの信じる道を真に否定することは、結局のところ誰にも出来ない。選ぶのも、迷うのも、変わることも。全ては自分自身で行うことだ。

 便箋を丁寧に折りたたんで封筒に戻す。側に建っている墓碑に体を向けた。明るい太陽の光の中、それは無数の白い花のつぼみに囲まれている。

「兄さん……。世界は、時を刻み続けているわ」

 ユリアの詠んだ消滅預言ラストジャッジメントスコアは回避された。未来は変わる。だが、一度変えれば確実に望むままの未来が訪れるわけではないことは、ガイのもたらした未来の記憶によって、既に明かされている。

「私、不思議に思っていたの。どうしてあの時、兄さんはわざわざ私に七番目の旋律を教えたのかって」

 花群れの中を時折走る小さな影は、きっと空を飛ぶ鳥が落とすものなのだろう。かつては障気と泥しかなかったこの場所も、今は青いうしおをたたえ、鳥たちが行き交う豊かな自然に包まれている。

「兄さんは、全てを滅ぼしてしまおうとするくらい、預言スコアに縛られていたこの世界を憎んでいた。でも、世界と自分自身を犠牲にして、レプリカに換えてでも存続させようとするほどに、人の世を愛していた。だから……」




「――『だから、兄は試していたのではないかと思う。この世界と、そこに生きる私たちが、自分の理想を退けるだけの強さを持つものか。ユリアがこの世界のために遺した譜歌を、私に伝えることで』……か」

 読み終えた手紙を持つ手を膝に下ろして、ルークは顔を上げた。白い歩廊の奥の庭園の上に広がる空は晴れて、射し込む光はそろそろ西に傾こうとしている。

「ルーク」

 歩廊の床を踏む靴音が聞こえ、近付きながらルークを呼んだ。腰を下ろしたルークの隣に寄り添っていたミュウが、「ガイさんですの。お仕事終わりましたの?」と耳を揺らす。

「お帰り、ガイ。お疲れ」

「参ったよ。貴族院の連中がギャアギャア煩くてな〜」

 肩や首を回しながらぼやいてみせると、ガイはひょいとルークの手元を覗き込む仕草をした。

「なっ。勝手に見んな!」

 慌てて後ろ手に便箋を隠す様子を見て笑い、「さては、ティアからだな」とからかう。

「そ、そうだけど、そんなんじゃねぇしっ。くそ、しつこく笑ってんなよお前っ」

「ははは。悪かった。……で、何だって?」

「へ?」

「手紙だよ。他のみんなからも来たんだろ」

「うん……。イオンたちは、教団を変えるために頑張ってるらしい。こっちがアニスで、こっちがフローリアンの手紙。郵便代が安くなるからって、全部一緒の封筒に入れてきたんだぜ」

「はは。相変わらずアニスはしっかりしてるな」

「文章は目が滑るけどな。フローリアンは、今度遊びに来て欲しいってさ」

 そう言ってその封筒を置き、ルークは握り締めたままだった便箋を示した。

「ティアは、ユリアシティでテオドーロさんの補佐みたいな仕事をやってるって。身体の方は本当に大丈夫みたいだ」

「そうか。……よかったな」

 ルークの隣に腰を下ろし、しみじみとガイは言う。その横顔を見ていたルークに顔を向けると、優しく笑った。

「お前も。無事に済んでよかったよ」

「またそれかよ。お前、毎日言ってんじゃん」

 幾分ルークが憮然とすると、ガイは苦笑してみせる。

「そう言うなよ。俺は心底嬉しいんだからさ。お前が……生きて、この世界にいて」

「……ガイ」

「ん? どうした」

 遠くへさまよっていた目を戻して笑った顔を見て、ルークは口をつぐんだ。「なんでもね」と笑う。

「なんだ、おかしな奴だな。――で、そっちは?」

 軽く肩をすくめてから、ガイはルークが床に置いたままの二通を目で示した。それらの封筒を閉じていた封蝋に刻まれた紋章は、二人がよく見知っているものだ。

「もうすぐアッシュと、一応俺も十八になるだろ。生誕祭のパーティーを開くから、バチカルに帰って来いって」

「行くのか」

「うん」

 訊ねると、すぐに答えは返った。

「逃げてきちまったみたいなもんだから。ちゃんと話さなきゃいけないんだ。色んなこと。父上や母上や、アッシュとも」

「そうか……。そうだな」

 ガイはしばらく黙り込む。

「……それで、それが終わった後は? そのままバチカルに住むのか?」

「それなんだけどさ。……俺、旅に出てみようかなって思ってる」

 ルークは言った。

「少し前まで、俺、本当に何にも知らなかった。みんなと一緒に旅して分かったことも多いけど、知らないこともまだ多いだろ。

 俺、色んなことが知りたい。そうすることで俺自身についても分かるんだってことを、みんなとの旅で教えてもらったから。俺は俺を知って、それで考えたいんだ。俺がやりたいことは何か。これから、俺に何が出来るのかっていうことを」

 ガイは黙ってルークを見ている。やがて手を伸ばすと、赤い頭をいささか乱暴に撫でた。髪を掻き乱されてルークが不満げな声をあげる。

「なにすんだよ!」

「いいだろ。……これで撫で収めだよ」

 ガイは言い、手を下ろすと息を吐いた。

「俺も、お前の保護者役を卒業か」

「ガイ……」

 ルークはガイを見返す。何かを言いかけ、黙って。やがて笑みを作ると声を出した。

「ありがとう。今まで、本当に」

 それを聞きながら、ガイは表情を緩めている。寂しさはあったが、心地よくもあった。

 見上げれば空は茜に染まりつつある。赤と金に染まった世界は、日ごとに目にすることが出来る、ありふれた光景だった。彼方を飛んでいく影は、渡り鳥だろうか。

 鳥は空を飛ぶものだ。そして、どこへ行くのかはその意思に任されている。

「しかし、旅か……。それもいいよな。のんびり世界回って。うん。俺も一緒に行こうかな」

 空を見たまま呟いたガイの声を聞いて、「はあ?」と、ルークが口を開いて眉根を寄せた。

「なんだよ、付いて来る気かよ! 保護者役は卒業したんだろ」

「ああ。だから、俺はお前の保護者でも使用人でもなくて、心の友だろ。友達が一緒に旅しちゃいけないか?」

「い、いけないってことは……じゃなくて! お前は仕事があるじゃん」

「あー、まあな。ホドの領地の件に片が付くまでは待っててもらわないと。それから陛下に掛け合って何とか休みもらって……」

「ミュウも行くですの!」

 青いチーグルが嬉しそうに小さな手を挙げる。

「あ、あのなぁ。お前ら、勝手に決めんなっつーの。そういえばミュウ、お前いつまでここにいるんだよ。もうチーグルの森に帰れ」

「ダメですの。ボクは、ご主人様の側にいたいんですの。だから、これからも一緒ですの」

「一人旅はやっぱり危険だしな。マルクトとキムラスカの間に和平が結ばれたとはいえ、魔物や盗賊もいる」

「ボク、火を吹いてご主人様を守りますの」

「だぁあああっ、もー、お前らウゼェー!」




 声をあげて笑った時、ふと金の光が弾かれた気がして、ガイはもう一度空を見上げた。

 あの彼方の音譜帯に、黄金きんの焔は今でも揺れているのだろう。惑星ほしいだき、その全ての命が辿る新たな未来を夢見ながら。

(それを、少しでも幸せなものにしていけたらいい)

 陽は燃え落ちて、世界は次第に濃紺に変わっていきつつある。星が一つ、彼方の空に輝いた。






終わり

07/06/16 すわさき


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