それは始まりに近い、私が小さな頃の記憶。

 路地裏を走り回って友達と遊んで、喉が渇いて家に戻った。台所に入ったら、パパとママが俯いて椅子に座ってたの。

 それまでも何度か、二人がそうしてるのは見たことがあった。ほら、タトリンの夫婦はお人好しだからねぇ。そんな風に近所のおじさんやおばさんが声を潜めて笑ってたのも知ってる。だから私、訊いたんだ。『どうしたの、パパ、ママ。また誰かにダマされたの』って。

 パパはいつもみたいに私の頭を撫でて言った。

『騙されてなんかいないよ。きっと、あの人もどうしようもなかったんだね。私たちが払うお金であの人を助けることが出来たんなら、それは素晴らしいことじゃないか』

『でも……ごめんなさいね、アニスちゃん。私たちはこの家を出なくちゃならないの』

 ママがそう言ったから、私はびっくりした。どうして? ここを出てどこに行くの? お友達とは会えなくなるの? そんなことを訊いたら、パパとママは少し悲しい顔になって、ぎゅっと私を抱きしめた。

『どこへ行くかは決まっていないんだよ』

『自治区の外れに小さな街があるでしょう。そこがいいんじゃないかと思っているの』

 ダアトには三十三の地区があるけれど、そのどこにも属さない街があるのは知ってたよ。でもそれは、普通の街には住めないような、すごく貧乏な人たちだけが集まっている場所なんだ。ああ……私もパパもママも、今日からあの中に入るんだ、って思った。

『大丈夫だよ、アニス。信じれば道は開けると、今年の預言スコアでも詠まれたからね。何も心配は要らないさ』

『そうねぇ。それにあの街に住んでいるのは敬虔で気のいい人たちばかりよ。きっとアニスちゃんも仲良くなれるわ』

 そんな風に、パパとママは私の頭を撫でながら笑ってた。

 貧民街に引っ越しても、パパとママはやっぱり騙されてお金を取られていたし、それでもニコニコ笑って働いていた。ママは端切れを集めて、私のためにヌイグルミを作ってくれた。目はボタンでギョロっとしてて、口は縫い目でじゃぎじゃぎしてるヤツ。可愛いでしょうアニスちゃん、ってママは笑う。夜遅くにそれを縫って、目の下に隈を作りながら。誕生日に一つずつ。一年ごとに違う大きさのが増えていった。

『他のものを買ってあげられなくてごめんなさいね。でも、私たちは幸せなのよ。沢山の人に助けていただいて、こうしてなんとか暮らしているでしょう。これも全てユリア様とローレライのご加護ねぇ』

 ヌイグルミが四つに増えた年、私たちはダアトの中央にある教会に引っ越すことになった。そこに住み込みで働くことになったんだ。大詠師モース直々の慈悲なんだよ、私たちを救って下さったんだって、パパもママも嬉しそうにしていた。

『アニスちゃんは、神託の盾オラクル騎士団の士官学校へ入れて下さるんだそうよ。モース様はアニスちゃんのことも知っていてね、譜術の才能があるから、学校で技術を磨けば、導師守護役フォンマスターガーディアンにだってなれるって仰って下さったの。すごいでしょう』

 普通は、いくら敬虔な信者だからって、教団が借金を肩代わりするなんてありえない。まして、どーしてタダで学校に入れてくれるんだっちゅーの。タダより高価いものはないんだから。すっごくアヤシイ話だったけど、パパとママは相変わらず頭っから信じちゃってたし、勝手に契約まで結んでしまっていた。二人は教会で働いて、私は神託の盾オラクル騎士団士官学校の幼年部に入るって。

『ね、いいお話だろう?』

 私は、軍人になりたかった訳じゃない。

 でも借金が帳消しになったのは本当で、パパとママが借金取りの奴らに殴られた痕を見ないで済むようになったのは嬉しかった。それに騎士団に入れたら、酒場の皿洗いとはお給金だって段違いだ。

 まあ、いっか。

 本当に導師守護役フォンマスターガーディアンになれたら経歴にだってハクが付くし。玉の輿だって狙えちゃうかもしれないモンね!





ガーディアン


「へぇ〜。じゃあ、もう正式配属されたんだ」

「すごいじゃん! 最年少でしょ」

「あはは。まぁねー。伊達に成績優秀で卒業したわけじゃないし」

「じゃあ、今日はあんたのおごりだね。なにせ花形部署なんだから」

「ぶー。冗談でしょ! 難関突破したお祝いに、みんなが私にご馳走してくれるんでなくっちゃ」

「さっすが、アニス。財布の紐は固いわねぇ」

「にゃはは。しっかりしてるって言って♥」

「アニス、導師守護役フォンマスターガーディアン就任おめでとう!」

 宗教自治区ダアト。中央のローレライ教会に併設された神託の盾オラクル騎士団本部の食堂の片隅に、少女たちが群れ集っていた。全員がまだかなり若い。いや、いっそ幼いと言っていいだろう。中心にいるのは癖のある黒髪をツインテールにした、十一歳ほどの少女兵だ。

「それで、近くに仕えてみて、イオン様ってどう?」

「んー。まだあまり口もきいてないけど……。なんかなー。ボーッと……あわわ。ちょっと大人しい感じの方かも」

「えーっ。イオン様ってそうなの?」

「あれぇ? でも、私の先輩が前期の導師守護役フォンマスターガーディアンだったけど、違うこと言ってたよ? イオン様、怖いって」

「怖い?」

「うん。聡明なお方なんだけど、その、少し冷たいとか……容赦がない、とか……」

「はへ? そなの? そんな感じには見えなかったけどなー」

「やっぱり、大病をなさった後だもの。弱っておられるのよ」

「療養してたのは三ヶ月だっけ? その間は執務も大幅に減らしておいでだったものね」

「あ……ちょっと!」

 ぱたりと少女たちのさえずりが止まった。少女たちだけではない。食堂にいた全ての人間が会話をやめ、息を詰めて見守っていた。――部屋に入って来た一人の少女を。人々の注目を受けて、少女はヌイグルミを抱える腕に力を込め、顔を埋めるようにする。その背後には一頭の大きなライガが従っていた。

 ライガは魔物として区分される四足獣で、その幼獣は人肉を好むことでも知られている。よって、通例では即座に討伐の対象となるものなのだが、この少女の連れ歩く魔物に関してだけは、特例としてダアトへの自由な立ち入りが許可されているのだ。

「アリエッタだ……」

 誰ともなく漏れ落ちた呟きを聞き咎めたように、アリエッタと呼ばれた少女は足を止め、群れている少女たちに顔を向ける。

「……な、何ですか?」

 その視線は、少女たちの中心にいた黒髪のアニスに向かっていた。

「…………今、聞こえた……」

「え?」

「あなたが、新しい……導師守護役フォンマスターガーディアン、だって」

「そうですけど……。それが何か?」

「…………」

 ピキ、とアニスのこめかみに青筋が立った。

「何なの? 言いたいことがあるなら言いなさいよ!」

 周囲の少女たちが「ちょ、ちょっとアニス」と宥めるような声をかける。しかしアリエッタは何も言わず、背後のライガをけしかけるようなこともせず、肩を震わせて嗚咽を漏らすと、そのまま食堂を駆け出て行ってしまった。後を追うライガの尾が戸口の向こうに消える。

「なに、あれ。こっちがイジメたみたいじゃん。話ぜんぜん通じないっちゅーか、暗いっちゅーか。アリエッタじゃなくて根暗ッタかっつーの」

 肩をすくめてアニスは言ったが、周囲の少女たちは恐ろしそうに固まったままだった。

「ほら、あの子、今期からイオン様付きの導師守護役フォンマスターガーディアンを外されたじゃない。きっとそれが気に食わないのよ」

「でも導師守護役フォンマスターガーディアンって、もともと時期交代制でしょ」

「あの子、イオン様に特別に贔屓されてたもんねー。あの子だけは継続配置されるんじゃないかって言われてたでしょ。でも外されちゃったから……」

「それで新しくイオン様付きの導師守護役フォンマスターガーディアンになったアニスを恨んでるんだ! うわぁ、アニス、ヤバいんじゃない?」

「どーってことないっしょ。返り討ちだよ。譜術なら負けないもん」

 背に負った小さなヌイグルミを揺らし、アニスは薄い胸を張ってみせた。ヌイグルミは不揃いのボタンを目にし、大きく開いた口はじゃぎじゃぎと太い糸で縫われている。

「そういえばさ、アリエッタって今度六神将に入るんだって。知ってた?」

 少女の一人が言った。

「げっ、マジ!? あの根暗女が一個師団率いる訳? ありえないっつの」

「まぁ、実質は魔物の軍になるんだろうけど……。あの子何歳だっけ?」

「確か、十四だよ」

「嘘ぉ? 年上なんだ。十歳くらいかと思ってた」

「赤ん坊の時、フェレス島の津波で生き残って、魔物に育てられたんだって。だから成長遅いんじゃない?」

「……へぇ。そうなんだ」

 アニスは真顔で呟く。その時、不意に大声が響いた。

「ああ、全く嘆かわしい。グリンピースなど食べるに値しない食品です。オムライスにはグリンピースを必ず添えるだなんて、既成観念にとらわれた料理人の怠慢ですとも!」

 それは、眼鏡を掛けた銀色の髪の男の声だった。一般の教団兵とは異なる派手な服を着て、食堂のものではない豪華な椅子に座っている。オムライスランチセット(旗付き)の皿を手に持ち、椅子ごと宙を滑って(混んでいるので、周囲には嫌な顔をされている)、キョロキョロと見回しながらこちらへ近づいてくる。

「なに、あれ……」と少女たちが言い合う一方で、アニスは「げ……」と、表情を強張らせた。

「ああ! アニス! ここにいたんですか。探しましたよ」

 アニスを見て顔を明るく輝かせ、男はいそいそと同じテーブルに陣取った。

「おや? 今日はその他大勢も一緒ですか。し、仕方ありませんね。特別に、この美しい私との同席を許可してあげましょう。いいえ、いいのですよ。我が『友』である、アニスのためならば」

「ディスト響士……」

 げんなりした顔で、アニスがこの痩せた中年男の名を呼ぶ。

「ディスト? 六神将の死神ディスト!?」

 途端に、周囲の少女たちがざわめいた。

「薔薇ですよ。バ・ラ!」と、不満そうに男が口を挟む。

「へ、へえ〜。アニスって死……薔薇のディスト様と仲が良かったんだ」「エリートが好きだって、前から言ってたもんね」

「え? ちょっと……」

 席を立ち、潮が引くように去り始めた少女たちを見て、アニスはうろたえる。

「私たち、訓練に行かなきゃならないから」「それじゃあね、アニス」「ごゆっくり!」

「みんな!? おごりの話は……って、行っちゃった……」

 差し伸ばした片手を下ろして、アニスは項垂れた。他に誰もいなくなったテーブルでは、ディストがオムライスを頬張りながら「アニスはまだ食べていないのですか? いけませんね。昼の休憩時間もあと少しですよ。特にあなたは導師守護役フォンマスターガーディアンなのですから、フラフラしている訳にはいかないでしょう。今日のオムライスはなかなかですよ。グリンピースはいただけませんけれどね」などと、一方的に喋り続けている。

「はぁ〜。着任初日に、うっかり相席しちゃったのが運の尽き、かぁ〜……」

「さて、今日は私とオムライスの話をしてあげましょう。あれは私が紅顔の美少年だったころ、勿論、当時から天才譜業科学者としての才能を見せていた訳ですが、あの陰険眼鏡が……」

 もはや日課となりつつある。男の話は尽きることなく続くのだった。




 パパとママって、ホントにしょうがない。

 私は自分で食べられるくらいは稼ぎ始めたし、その分楽になったんだから、服くらい新しいのを買ってもいいと思うでしょ。でも、久しぶりに会いに行ったら、まだボロい服着てるんだよ。

『まあ まあ まあ アニスちゃん。そうねぇ、アニスちゃんのおかげねぇ』

 ママはそんな風に笑う。月のお給金を全部教団に寄付出来たって。なんでそんなコトするのって怒ったら、『私にはお金なんて必要ないのよ』って。そんなこと言って、病気になったらどうすんの。老後だってあるんだよ。私にだって何が起こるのか分からないんだし。誰かが助けてくれるなんて限らない。いざって時に頼りになるのはお金だけなんだからね。

 でもパパもママも笑う。

『そんなことないわ。大丈夫よ、アニスちゃん』

『そうとも、アニス。私たちはローレライの教え通りに、日々預言スコアに従って生きているからね。「もしも」なんてことは起こらないさ』

『それにね、アニスちゃん。教団に寄付すれば、それでどこかで困っている人を助けることが出来るでしょう』

『私たちも困っていた時にモース様と教団に助けていただいた。これも恩返しなんだよ』

 ……雀の涙のお給金で朝から晩まで働かされていて? そりゃ、預言を信じて最低限の暮らしが出来ればいいっていうのがダアトじゃ普通の考え方だし、教団員には支給品もあるから、なんとか暮らしていけるけどさ……。

 教団員の間でだって、二人が陰で笑われてるってことを、私は知っている。「あの」オリバーとパメラ。「アレ」だからダメだ、って。

 パパとママってホントにしょうがない。

 やっぱり、私が何とかしなくちゃいけないんだよね!




 軽く扉をノックして室内に入った。部屋の主は、こちらを気にしようともせずに窓の外をじっと見やっている。

「イオン様? 何か面白いものでも見えるんですか」

 持って来たトレイをテーブルに置いて、アニスは脇から窓の外を覗き込んだ。だが、特に変わったものは目に付かない。ようやく気配に気付いたように、白い法衣の少年が振り向いた。

「あ、アニス……。すみません。雲を見ていたんです」

「雲、ですか?」

「ええ。あんなにどんどん流れていって……」

 アニスはいささか困った顔をする。少し考えて、「ああ、イオン様はずっとご病気で、空だってあまり見られなかったんですもんね」と理屈付けた。

「ほら〜、病み上がりなんですから座って下さい。お茶をお淹れしますから」

「はい」

 素直に頷いてイオンは席につき、アニスがティーポットから注いだお茶を口に含んだ。二度三度とカップを口に運んでから、ポツリと呟く。

「……アニスのお茶は、なんだか他とは違いますね」

「そ、そうですか?」

「ええ。苦味がなくて、香りがふわっとしていて……」

 アニスの顔がぱっと輝いた。

「美味しいですか!?」

「『美味しい』……」

 反芻するように呟いて、イオンはアニスの顔を見返す。ぼやけていた表情の中に、ふわりと少女と同様の色が浮かんだ。

「はい、美味しいです」

 アニスは軽く目を見開く。

「イオン様、今、笑いましたね」

「え?」

「その方がいいですよ、絶対。笑ってた方がかわい……あわわ、素敵ですもん!」

「そう……ですか?」

「そうですよぉ」

「……分かりました」

 イオンは微笑む。それを見るアニスの笑みも深くなった。

「えへへ……。あ、お菓子も召し上がって下さい」

「これもアニスが?」

「え。……は、はい」

「アニス?」

 急に歯切れの良さを失った少女を、イオンは不思議そうに見つめる。逡巡したように視線をさまよわせ、「すみません!」とアニスは頭を下げた。

「本当は、ちゃんと教団が用意したものがあったんですけど、駄目にしちゃって……。これは、私が今朝、パパたちのために焼いたものなんです」

「……」

 イオンは皿に盛られた焼き菓子をつまむと、静かに口に運んだ。

「……これも、とても美味しいです」

「イオン様……!」

 アニスは目を見開いた。緊張していた表情が安堵に緩み、額の汗を拭うような仕草をする。

「よかったぁ……。えへへ。実は自信作だったんですよ」

 ふと、イオンが眉根を寄せた。

「アニス? それはどうしたんです」

「え?」

「腕が……。赤くなっていますよ」

「あ。これは、さっきあいつらに転ばされた時……って、なんでもありませんっ」

「でも……」

「だぁーいじょうぶです。このくらい、すーぐ治っちゃいますから。大したことないから、しっかりお護りできます。イオン様は、なんにもお気になさらないでください」

「『なんにも』……。……そう、ですね」

 何故だろう。少年の目が再び彼方の空へ遠ざかった気がして、アニスは薄い不安にとらわれた。

「イオン様……?」

 澄んだ泉の底を必ずしも見通せるわけではないように、彼の思いはアニスには見えない。アニスが、己の抱える幾つもの重い塊を、誰にも受け渡すべきではないと考えているように。

 それでも、思わず覗き込もうとしたアニスの前で、彼はもう穏やかな笑みを浮かべている。

「いえ。……それより、そう、このお菓子もお茶も、本当に美味しいです」

「ありがとうございます。といっても、私は料理専門だから、作れるお菓子はこのクッキーくらいなんですけどね」

「ふふ。アニスは、料理上手なんですね」

 重ねて褒められて、少女の頬がうっすらと赤らんでいく。誤魔化すように身をよじった。

「ま、まぁ……。これも花嫁修業ですからっ。オトコを落とすには、やっぱ料理上手っていうのが一番効果的でしょ。玉の輿を狙うには不可欠じゃないですか〜♥ ……って、はわわわ!」

 ぱっと両手で口を塞ぐ。だが、恐る恐る見返したイオンの微笑みは絶えておらず、全く動じた様子がない。

「そうなんですか。アニスは頑張り屋なんですね」

「へ、いやぁ……。あは、あははは……。あ、ありがとうございます……」

 ホッとアニスは息をついて、少し決まり悪げな顔をした。

「玉の輿を狙ってる、なーんて言うと、引かれちゃうことが多いんですけどねー」

「そうなんですか?」

「え、だって、結婚相手なんて預言スコアを詠んでもらえばすぐ判るでしょ、って。でも万が一ってこともあるかもしれないし、大体、預言スコアを詠んでもらうようなお金もないしー……。

 あ、いえ、すみません! 別に預言スコアを否定してる、とかいうわけじゃなくて……」

「そうですね。預言スコアは絶対の未来ではありません。自分の目指す未来に向けて努力するのは、素晴らしいことだと思いますよ」

「イ、イオン様!?」

 アニスは目と口をぽかんと開けて叫んでいた。イオンが不思議そうな顔で見返してくる。

「驚きました。まさか、導師がそんなことを言うなんて」

「そうですか? 僕はそう教わってきましたから」

「教わった……?」

 預言スコアの絶対視と遵守こそが教団の教えであり、導師が説くべきものだ。アニスが怪訝に眉根を寄せると、初めてハッとした顔をして、イオンは取り繕う言葉を出した。

「あ、いえ……。日々、様々な物事に触れるうちに、自然とそう教えられた……ということです」

 大きな病気もしましたから。そう言うと、少年は僅かに視線を落とした。




 導師イオンって変わってる。

 それが最初の印象だったのは本当。

 だって、ボーッとしてて、ぽわ〜んって感じで。導師なのに、預言スコアは生活の道具に過ぎません、なーんて、おかしなコトを言うんだもん。

 元々、教団の中にはイオン様みたいな意見の一派がいて、今の大詠師モース体制下の『預言スコアは絶対的に遵守するものだ』って考えに対抗してたんだけど。前は改革派と保守派って呼ばれてたのが、いつの間にか導師派と大詠師派なんて呼ばれるようになってる。改革派は前は過激で、保守派の幹部を暗殺しようとしたなんてことも結構あったらしいけど、改革派が導師派って呼ばれるようになってからは、それもなりを潜めた。イオン様は穏健志向だから。

 まあ、ぶっちゃけ、私はそんなのどうでもいいんだけどね。

 大病をされたせいで、イオン様はお体が弱ってる。前は、体術でも譜術でも、教団内で一、二を争う実力だって噂されてたくらいだけど、今じゃ少し歩いただけで息が上がる。なのに疲れたって言わないし、無理するから、放っておくと倒れちゃう。もー、これじゃ全然目が離せないよ。導師守護役フォンマスターガーディアンって、ほーんと大変。

 そういえば、アリエッタのヤツは相変わらず暗い。会う度にじとーって、泣きそうな顔で睨んでくるんだよね。ろくに口もきかないし、キモいっつの。この間は、イオン様と廊下を歩いていた時に出くわした。

『イオン様! あの、あの……』

『あなたは……アリエッタ……』

『何の用件ですか。イオン様に対して無礼ですよ』

 駆け寄ってきたアリエッタとイオン様の間に立って、私は言ってやった。だって、イオン様が少し困ってるように見えたから。でも、根暗ッタのヤツは私を無視した。ムカつく。

『あの。イオン様、アリエッタと、前に約束……』

『……ごめんなさい、アリエッタ。僕は今、用事があって……急いでるんです』

『え』

『本当にすみません。――行きましょう、アニス』

『は、はい』

 アリエッタのヤツはムカつくんだけど、この時はちょっと……ちょっとだけ可哀相な気がした。

『あの……いいんですか?』

 だからイオン様にそう言ったら、俯いて、『……ええ』とだけ言った。

 導師守護役フォンマスターガーディアンだった頃のアリエッタとイオン様がどんなだったか、っていうのを私は知らない。でも。何年か先に私が導師守護役フォンマスターガーディアンから交代したら。やっぱり、こんな風にイオン様とはお話しすることも出来なくなっちゃうのかな。……それってちょっと寂しいな。




「あいったぁ……」

「あらあら、ごめんなさぁい。あんまり小さいから見えなくってぇ」

 尻もちをついたまま、アニスはぶつかった鼻を押さえていた。その前に立ちはだかってニヤニヤ笑う少女たちは、アニスより四つ五つ年長で、導師守護役フォンマスターガーディアンの揃いの制服を身にまとっている。

「イオン様を迎えに行く途中なんでしょ。もうじき詠師会の時間だもの」

「あら、じゃあ急がなきゃいけないんじゃなぁい? こんなところで転んでないで」

「ホントにどんくさい子。どうしてイオン様はこんな子供がお気に入りなのかしら」

「そうよね。幼年学校出たてで実績もない。ビンボーでお金もない。つるぺたで色仕掛けって訳にもいかないのに」

「なにせ、『あの』オリバーとパメラの娘ですものねぇー」

「やめなさいよ。そんなにはっきり言っちゃ可哀想じゃない、『アニスちゃん』が」

 声をあげて笑い合う。

「……もう、いい加減にしてもらえませんか」

 座り込んで俯いたまま、ぼそりとアニスが言った。

「え? 何か言った、『アニスちゃん』」

「大体、生意気なのよ。ちょっと譜術が使えるだけの子供のくせに」

 ママが縫ってくれただか何だか知らないけど、いつも人形なんて背負ってさ、と鼻を鳴らす。

「この貧乏くさい人形、まだ背負ってるのね」

「また破いてやれば?」

 少女の一人が、無造作にヌイグルミに手を伸ばす。

 次の瞬間。

 指先を弾かれ、少女たちは声にならない悲鳴をあげていた。

 大きなボタンの目に、ジャギジャギした縫い目の大きな口。アニスの背負っていた小さなヌイグルミが、見上げるほど巨大に膨れ上がっているではないか。

「な、なな、何……!?」

 巨大化したヌイグルミは不気味だ。その背にはアニスが乗って両腕を組んでいた。

「こないだアンタたちが破いたトクナガを、ディストが拾って縫い直してくれた。ついでに、私の音素フォニム振動数に反応して大きくなるようにもしてくれたの」

「ディストって……死神ディスト!? あの変人譜業科学者の!」「だからって、なにそれ。どういう仕組みなのよ!」

 口をパクパクさせながら、どうにか言った少女たちを見下ろし、にい、とアニスは笑う。

「それは……、乙女の秘密ですっ☆」

 鋭い爪を生やした丸太のような腕が振り下ろされた。

「ひいっ!」

 咄嗟に避けた少女たちの間の地面を叩き、ズゥン、と地を響かせる。

「うわ。これ結構スゴ……。うーん。不本意だけど、ディストの奴にもう一遍ぐらい特製オムライスを作ってやらなきゃかも」

 ヌイグルミにぶんぶん腕を素振らせつつ、アニスはブツブツと呟いている。そして、腰を抜かしてへたり込む同僚らに、すわった目で告げた。

「今度から、文句があるなら休憩時間に言ってきてください。受けて立ちます。

 だけど、これ以上仕事の邪魔をするんだったら……ブッ潰す!

 少女たちはただただ頷く。

 そして、この日からアニスは、人形士パペッターとも呼ばれるようになったのだ。




 これは、パパやママは知らないこと。士官学校の友達も、うっとうしい同僚も。それからきっと、イオン様も。

 教会の片隅に、使われていない資料室がある。その奥側の本棚の仕掛けを動かすと、転移の譜陣がある隠し部屋が開く。譜陣で跳んだ先はザレッホ火山の地下につながっていて、牢屋だとか音機関の研究設備だとかが色々と並んでる。

 そう、ここは地下に隠された神託の盾オラクル本部より、もっとずっと深いところ。決して表には出せないローレライ教団の闇の顔なんだ。

『ふん。来たか、アニス・タトリン』

『……はい。大詠師モース』

 ぐらぐら煮えた空気を吸って、いつもの場所に行くと、モースが待っていた。

『近頃は、六神将のディストと懇意のようだな。人形士パペッターなどと名乗りよって』

『別に、懇意って訳じゃ……』

『まあよい。その力、いずれ役に立つだろう。お前の使命を果たすためにな』

『……』

 初めてここに連れてこられた日のことを思い出した。士官学校の幼年部を卒業して、導師守護役フォンマスターガーディアン抜擢の内示を受けた夜のこと。

『アニスよ。お前に特別任務を与えよう』

 初めてまともに顔を合わせたモースは、いきなり私にそう言った。これから、イオン様の動向を監視して報告しろって。

 びっくりしたよ。だって、導師は教団の最高権力者じゃん。それを監視しろだなんて。

『世界の繁栄のために、預言スコアは何よりも尊重すべきものだ。しかし嘆かわしいことに、導師は愚かな考えに囚われておる。あれは、世界を破滅に導く悪魔の思想だ。導師お一人のことならばまだしも、それを利用しようとする輩は後を絶たぬ。これでは、いずれ導師ご自身の身も危険にさらされることになろう。導師をお護りするためにも、その毒手から遠ざけねばならぬのだ。……分かるな?』

『でも、それって……。間者スパイになれってことですか?』

『ふん。お前たち一家を教団に保護した恩、忘れたわけではあるまい。そもそも、お前を士官学校に入れて導師守護役フォンマスターガーディアンに据えたのも、こうして役立てようと思ってのこと』

『え……?』

 何か思惑があったのだとしても、パパとママがモースに助けられたのは本当のこと。だから逆らえる筈なかった。

 イオン様を騙すことになるのは苦しかったけど……報告することなんて殆どないし。公務以外で人と会うことすらないみたいなんだもん。うん、大丈夫。このくらい、どうってことない。

 それに、導師守護役になればお給金が出る。モースがどう言ったって、私が最年少成績優秀者エリートなのは事実だ。自分のことは自分で解決しなくちゃならない。頑張って働いて出世して、お金を稼いで、貯金をする。そうしたら……!

『聞いているのか、アニス!』

『――は、はい!』

 ハッとして、私は身を正した。ヤバい。モースが怒ってる。

『先日、また導師と共に勝手に街に出たそうだな』

『それは、イオン様がどうしてもって……。それに、何も危険はありませんでした。私が、ちゃんとお護りしています』

『余計なことはさせるな』

 細い目でモースに睨まれて、身がすくんだ。まるで蛇に睨まれた蛙みたいに。

『導師は、公式行事の出席と書類の決裁だけをしておればいい。それ以外は存在する必要がないのだ。……よいな?』

『……モース様の、お心のままに』

 いつの間にか噛んでいた唇が痛かった。

 働こう。

『ありがとう、アニス。あなたがいてくれて、本当によかった』

 せがまれて断れなくて、仕方なく初めて街にご案内した日。イオン様は私にこう言った。

『街の人たちの顔を見ていると、分かるような気がしてくるんです。……導師とはどういうものか。導師であるためには、どうすればいいのかって』

 働いて頑張って出世して、副業バイトもして、玉の輿だって狙っちゃって。それでお金ができたら、モースに従わなくていい。間者スパイなんてやらなくてもよくなる。

 そうしたら。こんなに、苦しい思いをしなくて済むのかな。嘘ばかりついていなくてもよくなるのかな。

 ――そんな風に思ってた。あの日までは。

『お初にお目にかかります、導師イオン。私がジェイド・カーティスです。――いえ、今回はカーティス家の人間としてではなく、マルクト皇帝ピオニー九世陛下の名代としてまいりました』

 この時、私はまだ全然知らなかった。大詠師モースの思惑も、この世界のことも、アリエッタのこと、イオン様のこと……。本当のことは何一つ。

『昨今、世界には再び開戦の気運が高まっています。しかしピオニー陛下はこれ以上の争いを望んでおりません。そこで、キムラスカのインゴベルト陛下に平和条約締結を提案するべく親書を送ろうと考えておられるのです。しかし、それを妨害しようと目論む勢力は数多ある。……導師、どうか我々と共に来ていただきたい。中立の立場を持つ使者として、この世界に平和をもたらすために』

 そして、私自身がもうとっくに身動きできない渦の中に囚われて、抜け出すことなんて出来なくなっていたんだっていうことを。




「お前、何で師匠せんせいと仲良くできねえんだよ。兄妹なんだろ?」

「言ったでしょう? 信用できないからよ。兄はまだ何か隠している気がするもの」

 腰まで焔のような髪を垂らした少年と、それよりも短い灰褐色の髪の少女は言い争っている。少女の兄であり、少年の師であり、神託の盾オラクル騎士団の主席総長であるヴァン・グランツがこの宿の一室を立ち去ってから、ずっとだ。

 そんな二人の様子を、イオンはベッドに腰掛けて眺めている。その側に立って、アニスは呆れたように肩をすくめてみせた。

「ルーク様とティアさんって、いつもケンカしてますよね」

「そうですね。……でも、二人は本当は仲がよいのだと思いますよ」

「むー。それじゃ困るんですよねぇ」

「ルークと結婚して玉の輿に乗るためには、ですか?」

 傍らからジェイドが笑った。

「まぁ、そうですけど。なんといってもルーク様♥ はキムラスカの公爵子息♥ ですしぃ」

 目を閉じてうっとりと両手を組むアニスを見て、イオンがくすくすと笑う。

 そこは、マルクト帝国とキムラスカ・ランバルディア王国の国境地帯、カイツールにある宿泊施設の一室だった。マルクト皇帝からキムラスカ国王への親書を携えた一行は、今は導師イオン、導師守護役フォンマスターガーディアンのアニス・タトリン、マルクト帝国軍大佐ジェイド・カーティス、神託の盾オラクル騎士団響長ティア・グランツ、キムラスカ公爵子息ルーク・フォン・ファブレ、その使用人で護衛のガイ・セシル、おまけで人語を喋る聖獣チーグルのミュウ、といった顔触れになっている。そしてつい先程、神託の盾騎士団主席総長ヴァン・グランツが加わったところだ。

「でも、まさか主席総長が大詠師派じゃなかったなんて思いませんでした。びっくりですぅー」

 先程までヴァンを交えて行われていた会話を思い出し、アニスは言った。

 教団内では、ヴァンは公に大詠師派とみなされている。実際、大詠師モースの目を盗んでダアトを抜け出したイオンを急襲したのは、ヴァン直属の部下である六神将のうちの四人――黒獅子ラルゴ、魔弾のリグレット、鮮血のアッシュ、妖獣のアリエッタだった。だが、ヴァンは己が大詠師派であることを否定したのだ。六神将は自身の関知しない動きをしているのだと。

 何故なのか、ヴァンの実の妹だというティアは、この説明に懐疑的だった。彼女は兄を疑っている。反対に、ルークはヴァンを全肯定していた。これだけではなく、あらゆる点でこの二人の意見は合わない。しょっちゅう二人で睨み合っては角を突き合わせている。

「でも、ヴァンが大詠師派ではないことは確かですよ」

 イオンが言った。

預言スコアは盲従すべきものではないと、僕に教えてくれたのは彼ですから」

「え……そうだったんですか!?」

「ええ。ですから、この件では彼を信用してもよいと思います」

 アニスは何か考え込んでいる。イオンは彼女を見つめていたが、「ところで、アニス」ともう一度口を開いた。

「な、なんですか?」

「あまり無茶はしないで下さい」

「……え?」

「親書を守って、タルタロスの窓から落ちたでしょう。アニスだからきっと無事でいてくれるとは思っていましたが……やはり、心配でしたから」

「……はい」

「親書は確かに大切ですが、あなたの命もかけがえのないものなのですよ。どうしてあんな無茶を」

「だって……私のせいだから

 口の中の呟きは、周囲には届かなかった。不思議そうな顔になったイオンに向かい、アニスは「てへへ。あの時は、つい夢中になっちゃたんですぅ」と誤魔化すように笑ってみせる。

「でもでも、おかげで親書もバッチリ守れちゃいましたし、イオン様もご無事でしたし。こうなったら絶対バチカルに辿り着いて、平和条約を結ばせなきゃ、ですね!」

「ええ。そうですね」

 イオンが微笑んだ時、「どうやら、あちらの痴話喧嘩も終わったようですね」とジェイドが言うのが聞こえた。ルークとティアの口喧嘩はひとまず終了したらしい。二人を仲裁していたらしいガイが、明るい調子で「じゃ、みんな行こうぜ」と声をかけてくる。

「行きましょう、イオン様」

 促して、アニスは立ち上がるイオンに手を貸した。




 こんなことになるなんて、思ってなかった。

 イオン様の手を引いて長い通路を駆け抜けながら、私はずっと頭の中でそれを繰り返してた。

 周りには、赤黒い血が沢山飛び散っている。魔物に食い散らかされた体の欠片なんかも。転がってるのは知ってる顔。名前を知ってた人。ダアトを飛び出してから、この陸艦タルタロスでずっと一緒に旅をしてきた人たちだから。

 マルクトのジェイド大佐がイオン様に一緒に来て欲しいって言って、イオン様は行くって言って聞かなくて。ほっとく訳にはいかないから、私も一緒に付いて行った。

 ダアトを出て、私たちは皇帝の親書を受け取るためにマルクト帝国のエンゲーブに向かった。親書の到着が遅れたせいで、一晩そこに留まることになって。私は、そこから大詠師モースあてに報告書を送った。だって、導師が行方不明だって騒ぎになってるって聞いたし、どこにいるのかくらい報告しなくちゃマズいって思ったから。

 モースがイオン様を外に出したがらないってことは知ってたよ。でも……まさか、イオン様を奪い返すために、神託の盾オラクル騎士団でマルクトの陸艦を急襲するだなんて!

 こんなことになるなんて、思ってなかった。

 叫び声が聞こえた。イオン様を庇うようにしんがりを守ってくれていたマルクト兵が、ライガに噛み裂かれて粉々になっていく。撒き散らされた血の霧の向こうに、ヌイグルミを抱きかかえた根暗女が立っているのが見えた。

『アリエッタぁ! あんた……なにしてんのよっ!!』

『アニスが悪いんだモン! アリエッタのイオン様を勝手に連れ出して……!』

『アリエッタ! やめて下さい』

『イオン様……。だって……だって……。どこにも行かないって……ずっと一緒にいるって……約束、したのにぃ……』

『アリエッタ……』

『アニスのせいだ。アニスが、イオン様を取っちゃったから!』

『ふざけんなぁっ!!』

 むちゃくちゃムカついて、私は大きくしたトクナガの背に飛び乗った。アリエッタを守って飛びかかってくるライガを殴りつける。アリエッタが悲鳴をあげた。

『わぁああっ、アニスのバカバカぁーっ!』

『馬鹿はお前だっちゅーの!』

『アニス! 後ろです!』

 イオン様の声で咄嗟に振り向くと、後ろから巨大な猛禽のフレスベルグが襲ってきてた。何とか避けたけど爪に引っ掛けられて、弾みで懐から親書を入れた筒が飛び出す。それは軽い音を立ててアリエッタの足元に転がった。

『ヤバっ……!』

 トクナガから降りてそれを拾おうとした時、イオン様が『アニス!』って叫んだのが聞こえて。私は、体当たりしてきたフレスベルグに窓の外に吹き飛ばされていた。

 それからしばらく、意識が飛んでる。咄嗟にトクナガを操ってクッション代わりにして、見つからないよう隠れてから気を失っていたみたい。タルタロスはどこかに走り去っていて、不安だったけど、予め大佐と決めておいた合流地点に一人で向かうことにした。大丈夫。イオン様が命を奪われることは、絶対ない。……大佐やルーク様も、きっと生きてる。

 本当は、私が六神将と戦う理由なんてなかったのかもしれない。だって、イオン様の居場所を報せたのは私なんだから。イオン様と一緒にダアトに帰れば、多分それでもよかったんだ。

 だけど、どうして私は親書を大事に持ってるんだろう。大佐に言われたとおりに、神託の盾オラクルから隠れて、魔物と戦って、たった一人で合流地点に向かってるんだろう。

『大佐。タルタロスに乗っていた他のみんなは……?』

『全員死にました。事を公にしないためにも、六神将が生き残りを出したとは思えません』

 合流した後で訊ねたら、大佐は簡単にそう答えた。 




「ルーク様ぁ♥ いますかぁ?」

 扉を開けてアニスは船室を覗いたが、中にいたのはミュウを抱いたティアだけだった。

「チッ……」

 思わず低く舌打ちする。ガイと廊下ですれ違ったから、今ならルーク一人だと踏んでいたのに。

「っていうか、なんでティアがルーク様の部屋にいるわけ?」

「え、あの、ごめんなさい……。ミュウが一人きりで、寂しそうだったから……」

 赤面してしどろもどろに説明して、「ルークなら甲板に行くって言ってたわよ」とティアは言った。「ティアさんとお喋りしてたですの」と、腕の中で青いチーグルが笑っている。

「ティアって、ルーク様の動向を把握してるんだ」

 面白くない、という顔でアニスは言葉を投げた。

「そんなことないわ。たまたまよ」

「本当にぃ〜? ルーク様のことが好きなんじゃないの?」

 胡乱げな目で窺うと、ティアは面白いほどに赤くなった。

「ち、違うわ! あんな子供、趣味じゃないわよ。アニスこそ、ルークのどこがいいの?」

「そりゃ、公爵子息だし♥ お金持ち♥ 権力♥ 社交界の華♥ うはうはっしょ♪」

「……呆れたわ」

 軽い溜息と共に言われて、アニスは不機嫌そうにむっと頬を膨らませる。

「なによぅ。玉の輿は女の子の夢じゃん。ティアってば、頭カタいよね」

 背を向けて船室を出て行きながら、「……お金のある人には分かんないよ」と、口の中で小さく呟いた。




 覚えている限りウチは貧乏だったし、お金に困らない生活っていうのが想像つかない。

 一緒に旅をして驚いたのは、ルーク様がまともに買い物も出来ないってことだった。品物が高いとか安いとかが分からないみたい。これって結構バカっぽい? って思ったけど……うん、まあ、これが上流階級ってヤツなのかも。

 バチカルの港に着いたら、キムラスカ軍がズラッと並んで頭を下げてきたからちょっと驚いた。ローレライ教団の導師を迎えるんだから当然だよね。でも、落ち着いて『ご苦労』なんて言っているルーク様を見て、ようやく、この人って王族なんだなぁ、って思えた。それからルーク様の案内でバチカル城に入って、王様に親書を渡したんだけど……そこには、大詠師モースも来ていた。

『アニスよ。何故、あれ以降報告をしなかったのだ』

 ルーク様のお屋敷から城に戻った後、モースに捕まった。

『マルクトの死霊使いネクロマンサーなどと一緒になって、親書など届けおって。何が平和条約か、愚かしい』

『でも、モース様。戦争が本当に回避できるのなら、そうした方がいいんじゃ……』

『馬鹿め。戦争の発生は預言スコアに詠まれているのだぞ。それこそが世界に未曾有の繁栄を呼ぶ方法なのだ』

『でもっ。だからって、あんなに沢山の人を殺すなんて……!』

『ふん。目先の犠牲に惑わされるとは、導師に毒されおったな』

 そう言って、モースは細い目で私を睨んだ。

『そもそも、お前が導師の出奔を許したからこそ、あのようなことになったのだぞ。しかし六神将め、派手にやりおって。そこまでやれとは命じておらぬわ。……まあよい。結局は、全て第六譜石の筋書き通りに運んでおるのだ。これもまた、ローレライの導きということであろう』

 どういうことですか、って訊ねたけど、『お前には知る意味のないことだ』って返された。

『それよりも、明日になったら導師を連れてダアトへ戻るのだ。今度こそ不逞の輩に惑わされぬよう、しっかりお守りするのだぞ、よいな』

 はい、って私は頷いたんだけど……。

 次の日になったら、部屋にイオン様がいなかった。六神将に連れさらわれちゃったんだ。

 なんで? 六神将はモースの指示で動いてたんじゃないの? 『勝手なことをしおって』ってモースは怒ってる。『絶対に連れ戻せ』って私に言った。

『お願いです、ルーク様。イオン様を捜して下さい。ついででもいいですから!』

 ルーク様たちはマルクトのアクゼリュスへ救助活動に向かおうとしてたんだけど、頼み込んで一緒に行ってもらった。砂漠の地下の遺跡でやっとイオン様を見つけて、取り戻して……。良かった、無事だった、早くダアトへ戻ろうって思ったのに、イオン様はルーク様たちと一緒にアクゼリュスへ行くって言う。ルーク様はやたらとカリカリしていて、『砂漠で寄り道なんてしなけりゃよかった』って言った。『今はイオンがいなくても俺がいれば戦争は起きねーんだし』って。

 なに、それ。バッカじゃないの。公爵だか親善大使だか知らないけど、ローレライ教団の導師イオンを舐めんなっつの!!

 イオン様は悲しそうな顔をして、それでもあいつに謝ってる。ムカムカする。

『イオン様。あんなヤツに頭を下げる必要なんてありませんよぅ』

 デオ峠で休憩した時にそう言ったけど、イオン様は困った顔で首を振った。

『僕のワガママで、みなさんに迷惑をかけているのは確かですから』

『ワガママだなんて。そんなことはありませんわ』

『ありがとうございます、ナタリア。ですが、ルークは一刻も早くアクゼリュスへ行きたいのでしょう。僕は、その足を引っ張ることになってしまって……』

『確かにあいつ、なんだか焦ってるみたいだな。だけどイオンが気に病むことはないぜ。先遣隊はもうとっくに着いて救助活動を始めているはずだ』

『そうですよ。あんなお馬鹿、ほっとけばいいんです。一人でいい気になって、イオン様をないがしろにして!』

『僕のために怒ってくれているんですね。ありがとう、アニス。でも、ルークが僕のためにザオ遺跡まで来てくれたのは、本当のことですから』

『それは……』

『それに、彼は……』

 言いかけて、イオン様は不自然に口をつぐむ。周りのみんなが不思議そうな顔になったことに気付いて、『いえ……。アッシュの声に苦しめられているようですし』って言った。

『これからもきっと……大変でしょう。ですが、僕は彼に何もしてあげることが出来ませんから……』

 イオン様はなんだか悲しそうだった。あのお馬鹿の方はって言うと、『おい、もういいだろ。いつまで休んでるんだ。アクゼリュスで師匠せんせいが待ちくたびれてるんだからな!』なんて喚いてるのに。

『はい。お待たせしてすみません、ルーク』

『イオン様!』

『僕はもう大丈夫です。行きましょう、アニス』

『むー……』

 治まらない気持ちのまま峠道を降りて、私たちはアクゼリュスに入った。そして……。




 譜業の光に照らされた幾何学的なデザインの港に、アニスたちは並んで立っていた。

「そろそろ出発するぞ。……ガイはどうした」

 停泊しているタルタロスのタラップに姿を見せ、赤い髪を腰近くまで垂らした若者が不機嫌そうに訊ねる。

「ティアの家に行っていますわ。出発前に、ルークの様子を見てくると……」

 答えたのは金色の髪を肩で切り揃えた少女だ。ナタリア・ルツ・キムラスカ・ランバルディア。キムラスカの王女である彼女は、ルーク・フォン・ファブレの従姉にして婚約者でもある。

 アクゼリュスまでの旅の間、彼女の目は共に旅をしてきた『ルーク』を見ていたものだ。だが……今、彼女の目の前には、もう一人『ルーク』がいる。

「ルークは目を覚ましたのですか?」

 イオンが訊ねた。「……いや。まだ眠っている」と、まるで見てきたように赤髪の若者が返す。彼の顔立ちは『ルーク』と同じものだった。目の色も、背格好も、声質も。

「眠りこけているヤツに別れの挨拶とは、馬鹿げた話だな」

「ルー……、アッシュ!」

 鼻で笑って艦内に戻っていった若者をナタリアが追っていく。

 ルークたちがキムラスカの親善大使として到着した日、鉱山都市アクゼリュスは粉々に砕け、三万メートル下の魔界クリフォトに崩落した。今、彼らは魔界唯一の都市であるユリアシティにいる。

 アクゼリュスが崩落したのはそれを支えていた柱をルークが消滅させたからであり、ルークにそうさせたのはヴァン・グランツだった。最も信じていた人間に利用され、捨て置かれて、その上に『自分』をも失ってしまったルークは、意識を失ったまま丸二日近く目を覚ましていない。

「それにしても、びっくり。まさか、六神将の鮮血のアッシュの正体がバチカルの貴族で、ルークがそのレプリカだったなんて」

 肩をすくめてアニスが言った。ユリアシティに辿り着いた時、現われたアッシュ自身の口から明かされた事実だ。

 フォミクリーという、物質を複製する技術がある。生物フォミクリーは禁止されているが、七年前、ヴァン・グランツがルーク・フォン・ファブレを誘拐し、そのレプリカを作って摩り替えた。レプリカルーク自身、自分の正体を知らないまま七年を過ごしていたというのだ。

「でも、言われてみればそうかもって感じですよね。ルークって、お坊ちゃまにしたって、あんまりお馬鹿過ぎでしたしぃ。……それにしても、大佐とイオン様はこのことを前から知ってたんですよね? もう、教えてくれればよかったのに〜」

「軽々しく口に出来ることではありませんし、言ったところで意味がある訳でもないでしょう」

 ジェイドが薄く笑う。アニスは膨れて「そんなことありませんよぅ」と訴えた。

「だって、これって騙されてたってことじゃないですか。なんか損したって言うか。公爵家の御曹司だって思ってたのに、偽者だったなんて」

「――アニス」

 不意にイオンに呼ばれて、アニスは口をつぐんだ。その声音は穏やかだったが、どこか咎める響きが入っている気がしたからだ。

「そんなことを言わないで。……たとえレプリカであっても、ルークはルークでしょう」

「そ、それは……そうですけど……」

 少し気まずげにアニスは目を伏せる。ジェイドは、赤い瞳でイオンをじっと見ていた。




 腰まであった髪を短く切ってから、ルークはよく『ごめん』とか『ありがとう』って言うようになった。これって誰かに似てるなって思ったけど、イオン様と同じなんだよね。

『そうか? ……そうだな。俺、前はこんな当たり前のことも言わないでいたんだよな』

 って、いちいちしょんぼりされても困るんですけど。

 俺、変わりたい。アクゼリュスを崩落させた償いを少しでもいいからしたいんだ。そう言ってルークがまた私たちと一緒に旅をするようになってから、二ヶ月以上が過ぎていた。まあ、お馬鹿なのは相変わらずだけど、前よりちょーっとは認めてやってもいいかな、って感じ。買い物の腕は、やっぱりアニスちゃんの足元にも及ばないけどね。

『だけど、三十ガルドもまけてもらったんだぜ。店のおじさんが、特別だって』

『だからぁ、これは定価がもっと安いの。あちこちの街を回ってるんだから、商品の底値くらい覚えてよね』

 ルークってホント、騙されやすい。この前も、道端でどう見てもガラクタの響律符キャパシティコアを買おうとしてたから、慌てて止めた。

『だって、あれが売れなきゃ病気の子供の薬代もないって言うからさ』

『そんなの、物売りの常套句でしょー? 今時そんなのに騙される人間がいるなんて信じらんない』

『う……。だけど、本当かもしれないじゃんか』

『もー! パパたちみたいなこと言わないでよね』

『へ? パパ?』

『……と、とにかく! お金がないのは首がないのとおんなじなんだから。将来無一文になって泣いたって知らないよ!』

 そう言ってイオン様にするみたいにルークの手を引いて歩いたら、『アニスってほんと、しっかりしてるよなー』って、息をついてルークは笑った。

『ルークはお馬鹿だよね』

『う。きっついなぁ』

『まあ、お金の計算は速いから、お馬鹿でも勉強が出来ないって訳じゃないんだろーけど』

『なんだよそれ……』

『……ルークはさ、騙されて悔しいとか腹が立つとか、ないの?』

『え? そりゃ、俺だって騙されるのは嫌だけど』

『だったら騙されないようにすればいいじゃん。簡単に人のこと信じちゃってさ。そんなだから……』

『………』

『………ごめん』

『……いや。俺が騙されてばっかなのは、ホントのことだもんな』

 少し前にベルケンドで主席総長に会って、ガイが元は総長の仲間だったことが分かったばかりだった。ガイがルークの命を狙ってたってことは、それより前にカースロットで判ってたんだけど。その時も今も、ルークはガイを責めなかった。騙されてたのに。

 一番傍で忠誠を誓うふりをして、ずっと裏切っていたのに。

『……どうしてルークはガイを信じるって言うのかな』

 ポツリと呟いたら、側にいた大佐が『おや? アニスはガイを信じていないのですか?』って笑った。

『ち、違いますよぅ。私だってガイのことは信じてますっ。でも、ルークを裏切ってたのも本当じゃないですか。なのに、ルークってば一度も責めないんですもん。……なんでなのかなぁ、って思って……』

『そうですねぇ……。それはルークに訊くしかありませんが。お互いが信じる、信じて欲しいと言っているんです。二人がそう望んでいるのですから、それでいいのではないですか?』

『でも……。また裏切ることがあるかもしれないのに』

『それを承知で、それでも手放したくはないのでしょう』

 そう言って、大佐は赤い目で私を見下ろした。

『どうもアニスはこの手の話には過敏ですね。なにか気になることでもあるのですか?』

『はぅあ!? そ、そんなことありませんっ』

『そうですか? この間ザレッホ火山のセフィロトへ行った時も、何か隠していたでしょう』

『か、隠してなんかいませんってば。アニスちゃん清廉潔白、隠し事なんて一つもありませんから!』

『……まあ、いいでしょう。話せるようになったら話してもらいますよ』

『………』

 話せるわけ、ないよ。

 本当は、私にはガイとルークのことをあれこれ言う資格なんてない。だって、シンクたちがテオルの森で待ち伏せていて、ガイのカースロットを発動させたのも、私がケテルブルクでモースに報告書を送っていたせいだから。

 パパたちは私が学校に入れることを喜んで、モースと契約を交わした。でもその契約は私たちを縛ってる。それがなかったとしても、すぐに騙されてばかりのパパと天然のママは、教団を出たらきっと暮らしていけない。私も、神託の盾オラクルを出されたら、二人を養うほどお金を稼げない。私たちは、生きていくためにモースに逆らえない。

 私は、モースに操られてる人形だ。

 こんなこと、みんなには言えない。イオン様に、知られたくないよ。

『ごめんなさい。アニス。僕はあなたを騙していたのです』

 地核の底で、自分が本物の導師イオンのレプリカだってことを打ち明けて、イオン様は私に謝った。

『ううん。そんなことないです。だって……私にとってのイオン様は、あなた一人ですから』

 謝らないで下さい、イオン様。

 

「だって、これって騙されてたってことじゃないですか。なんか損したって言うか。公爵家の御曹司だって思ってたのに、偽者だったなんて」

「アニス。そんなことを言わないで。……たとえレプリカであっても、ルークはルークでしょう」

 

 私は、あの時酷いことを言った。ルークにも、イオン様にも。

『僕をまだ、イオンと呼んでくれるのですか。――アニス、ありがとう』

 お礼なんて言わないで。感謝なんてされる資格、私にはないんです。

 私は、裏切り者だから。今も何も打ち明けないで、あなたを裏切り続けているんだから。

 無理に聞き出そうとしない大佐やみんなに、私は甘えてる。このまま総長を倒して、世界を変えて、黙ったまま全部終わらせようなんて考えてる。

 もしも話したら、みんなは、やっぱり怒るのかな。

 イオン様は、私を嫌いになっちゃうのかな……。




「おや、アニスじゃないか。今日も元気そうだね」

「パパ!」

 声をかけられて、アニスは父であるオリバー・タトリンの側に駆け寄った。

 ここはダアトの教会の広間だ。同じ教会で働いてはいるが、神託の盾オラクルの寄宿者で寝泊りしているアニスは、両親と顔を合わさずに終わる日もよくある。

「パパ、今日は誰にも騙されてないでしょうね」

「はっはっはっ、大丈夫だよ。パパはいつも幸せ一杯さ。今日は素敵なものをプレゼントしてもらってね」

 そう言うと、オリバーは抱えていた小さな鉢植えを娘に示してみせた。

「なに、これ」

「幸運の木さ。育てるだけで幸せになれるって言うんだよ」

「……また騙されてる」

 アニスは息を吐いた。

「そんなことはないよ。これは善意でいただいたんだから。ただ、この木を育てるには特別な肥料が必要だと言うことでね。五千ガルド払って買ってきたよ」

「もー! どうしてそんなにすぐに騙されちゃうの!!」

 アニスが眉を吊り上げた時、「あら あら あら アニスちゃん、それにあなた。二人でどうしたの」と言いながら、アニスの母のパメラ・タトリンが歩いて来た。

「アニスちゃん、世界が変わって、イオン様は毎日お忙しいでしょう。無理をなさらないよう御守りして差し上げてね」

「うん、分かってる。それより、ママも体は大事にしてよね。一度死に掛けたんだから……」

「ふふ、大丈夫よ。ナタリアさんに治していただいたもの」

 二ヶ月ほど前、まだアニスがルークたちと共に外殻大地を降ろす旅をしていた時、アリエッタの率いるライガに襲われたイオンを、パメラが身を挺して庇ったことがある。雷に撃たれて酷い火傷を負い、一時は危険な状態にすらなったのだ。だが、あの時も今も、全くこだわる素振りなく彼女は笑っていた。

「ママも、お給金はちゃんと貯金してよ。もう預言スコアも廃止されたし、教団だってこれからどうなるのか分からないんだから。自分の将来は自分でどうにかするしかないんだからね!」

「まさか、預言スコアを詠んでもらえない日が来るなんてねぇ。困っている人だって多いし、パパも、週に一回は詠んでもらわないと落ち着かないよ」

 鉢を抱えたまま、オリバーは不安げな顔を見せている。

「それに、モース様が大詠師職を追われ、ディスト様はマルクトで逮捕、他の六神将の皆様は行方不明……なんだか信じられない話さ。あの素晴らしい方々が、一体どうしてこんなことに……」

「……モースは、素晴らしい方なんかじゃない」

「まあ、アニスちゃん」

 尖った声で吐き捨てた娘を、パメラが驚いた顔で見返した。

「だって、そうじゃん。あいつが預言スコア通りに戦争を起こそうとしたから沢山の人が死んじゃったんだよ。それに……」

 何か言いかけてアニスは口ごもる。

「……パパもママも、馬鹿だよ。どうしてあんなヤツを今でも信じるの。あいつのせいで、みんな……!」

「アニス」

 優しい声がした。アニスが顔を上げると、両親が並んで微笑んでいる。

「パパとママは教団とモース様に恩がある。これは間違いのないことさ」

 オリバーは言った。

「だから、パパたちはその恩を返したい。生涯を教団に尽くしたいと思っているんだよ」

「でもね、アニスちゃん。あなたは、そうする必要はないのよ」

「え……?」

 アニスは大きな目を瞬く。

「アニスは、アニスのやりたいように生きればいいのさ」

「ママたちも、出来る限りアニスちゃんの応援をするわ」

 戸惑った顔で佇むアニスの頭に、どこからか飛んできた紙飛行機が軽快な音を立ててぶつかった。

「あいたっ。――ゴルァッ、今度は誰だ、ボケぇ!!」

 振り向いて怒鳴ったが、誰が飛ばしたのかは分からない。ブツブツ言いながら、アニスは先に重りの付いた紙飛行機を拾い上げた。

「手紙……?」

「おやおや、もしかしてラブレターかい? アニスは人気者だねぇ」

 呑気なオリバーの声を聞きながら、ざっと皺を伸ばして内容に目を通す。見る間にその顔から血の気が引き、青ざめた唇がわなないた。

「まさか……そんな……!」

「アニスちゃん?」

「どうしたんだい、アニス」

「全部終わったんだって……新しくやり直せるんだって、思ってたのに……!」

 震える声で呟いて、アニスはくしゃりと紙を手の中に握り締めた。




 何がきっかけでそんな話になったのかってことは覚えてない。多分、みんなに手紙を出したのにルークだけ返事をくれないとか、そんな話からだったんだと思う。

『ルークは強い人だと思います。僕は、彼を尊敬しているんですよ』

 そんなことをイオン様が言ったから、私はかなり驚いた。だってルークって子供っぽくてフラフラしてて、なんか危なっかしいなーって感じだったし。

『ルークは、誰に対してもレプリカであることを隠していないでしょう。ありのままの自分を見せているんです。ですが……僕は結局、導師のレプリカであることを公表してはいません』

『そ、それは、教団の方針が変わって混乱してますし、これ以上の騒ぎにならないようにするためじゃないですか』

『……本当は、ティアの障気蝕害インテルナルオーガンを癒す方法だって僕は知っているんです。多分、僕はティアを助けることが出来る。でも……そうする勇気がない』

 一番勇気がないのは、私だった。

 アブソーブゲートで倒したはずの主席総長が生きてるかもしれない。そんな報せを持って、ルークとティアとミュウがダアトを訪ねて来て。同じ日に、ガイもマルクト貴族院からの報せを持ってやって来た。ディストがグランコクマの収容所を脱獄して、拘留中のモースを助けて逃げたって。詳しいことはアッシュが知ってるはずだからってみんなでアッシュを探すことにして、途中で大佐やナタリアとも合流した。

 イオン様は教団のお仕事を抜けられなくて、ダアトに残っている。本当ならお側でお護りしなくちゃならないのに、私はダアトに戻るのが怖い。

『ティア!?』と、ルークが叫ぶ。

『……ご、ごめんなさい。少し眩暈がして……』

『私、イオン様を呼んでくる!』

 ダアトに帰ってすぐ、ティアが障気蝕害インテルナルオーガンで倒れた。急いでイオン様のいる執務室へ行こうとして、そこへ続く譜陣の前で、私は待ち伏せをされた。

『モース………様』

 逃げ出したモースがダアトに隠れていることを、私は最初から知っていた。

『待っていたぞ、アニス。グランコクマからの報告、ご苦労だったな』

『ど……どうしてこんな所まで出てきたんですか。見つかりますよ』

『ふん。いつまでもコソコソと隠れているつもりはない。一刻も早く預言スコア通りの筋書きに戻さねば、世界は破滅するのだからな。アニスよ、今すぐに導師を連れてくるのだ』

『――イオン様を? どうしてですか』

『歪んだ世界を元に戻すには、正しい預言スコアを知らねばならぬ。第七譜石を探していたが、これ以上は待てぬ。導師には、直接惑星預言プラネットスコアを詠んでもらう』

『え……? ま、待って。そんなこと、イオン様にさせたら』

 ユリアの譜石から預言スコアを詠み取るだけで、イオン様は酷く消耗する。ましてや、この星の記憶を直接詠み取る惑星預言プラネットスコアは、導師にしか出来ないって言われるほど大きな力を必要とするもので。

『構うものか。詠み終わるまで保てばよい』

『そんな……!』

『どうした。何をグズグズしておる。今更、逆らうのか?』

『アニス・タトリン。モース様のご命令に従うのだ』

 モースの後ろから、六神将のリグレットが出てきて言った。

『従わないと言うのなら、お前の両親がどうなるか、分かっているのだろうな』

『……!? リグレット、パパとママをどうしたのっ』

『あの二人は、ザレッホ火山の地下に拘束している』

 冷たい顔でリグレットは言った。……嘘。パパとママが。

『で……でも、みんなが待ってて……。すぐイオン様と戻らないと、怪しまれるし……』

『そんなことは構わぬ。早く連れてこい』

『お待ち下さい、モース様。これはよい機会かもしれません。――アニス・タトリン。奴らをここにおびき出すのだ』

『ふむ? どうする気だ』

『ローレライの鍵の情報も欲しいですが、これ以上、奴らにうろつかれては邪魔ですので。ここで殲滅します』

 打ち明ける機会は、沢山あった。出来ることだって、多分いっぱい。

 でも、私は逃げていた。自分の弱さを認めること、本当の自分をさらすことから。

『外が大変なんです! 障気がばーんと出てきてマジヤバですよぅ! イオン様、来て下さい!』

 ティアの容態を診ていたイオン様の手を引いて、強引に執務室から連れ出した。譜陣のホールに戻ると、そこには神託の盾オラクル兵を従えたリグレットやモースが待ち受けている。

『アニス……これは?』

 イオン様の顔が見られない。『アニスは、元より私の手駒であったのだ』とモースが笑うのが聞こえて、『ごめんなさい』って呟いた。そんなの、なんの意味も持たないけれど。

……はり、そうでしたか

『え?』

 イオン様の声が小さく聞こえて、私は顔を上げる。でも、イオン様は険しい目でモースの方を見ていた。

『アニスにこんなことをさせて、一体どうするつもりなのです』

『ふん。付いてくれば分かる』

 モースはそう言って、『導師を逃すなよ、アニス』と釘を刺して前を歩き始める。イオン様は逃げなかった。その背中を見ながら長い廊下を歩いて、使われていない資料室の隠し扉を開いて、ザレッホ火山の地下へ繋がる譜陣に踏み込もうとした時。『待て!』って呼びかけながらルークたちが駆け込んで来た。

『どうしてここにモースがいるんだ! それにアニス、これは一体……』

 リグレットに待ち伏せをされたはずなのに、ルークたちはすぐに私たちを追ってきた。後で聞いたけれど、アリエッタが逃がしてくれたんだそうだ。

 アリエッタはずっと、イオン様のことを想ってた。それは被験者オリジナルのイオン様のことで、今のイオン様とは違う人だったんだとしても。

『うるさいな! 私は元々、モース様にイオン様のことを連絡するのが仕事なの!』

 みんなの視線が痛かった。怒鳴って譜陣に飛び込んだら、先に転移していたモースが譜陣の端を消して、『これで追って来れぬわ』って笑った。

『アニスちゃん』『イオン様!』

『パパ、ママ』

 檻の中にパパとママが閉じこめられてる。『オリバー。パメラも。なんという酷いことを』って、イオン様が少し怒った声で言った。モースは全然構わないで、振り向いて厭な感じに口元を歪めてる。

『さあ、導師イオン。今ここで惑星預言プラネットスコアを詠んでもらいましょう』

『それは……』

 さすがに、イオン様は表情を硬くして声を詰まらせた。でも、モースが檻の中のパパとママを指差して嗤う。

『あそこにいるのが誰だか分かりますな? 彼らをザレッホ火山の奥に投げ捨てたらどうなるでしょうな』

 胸の奥が裂かれたような気がして、私は体に力を込めた。そうしないと倒れてしまいそうだったから。追い詰められた今のモースならやりかねない。今でさえ、パパもママも傷だらけでボロボロだった。貧民街で借金取りに殴られていた頃みたいに。

 あの頃は、私が譜術でパパとママを守ってた。貧乏で学校へは行けなかったけど、近所の譜術道場をこっそり覗いて覚えて。

 ああ、だけど。もしかしたらそのせいで、モースは私に目をつけたのかな。ちょっと磨けば使える、便利な手駒として。

 今の私は、あの頃よりもっと強くて沢山の譜術が使える。使えるのに……!

『……アニス』

 囁くような声が聞こえたような気がした。イオン様が私を見てる。顔色が真っ青だ。

『……きっとルークたちが来ます。だから……』

 少しでも安心させたくて、そう小声で言いかけたら、『何を話している! アニス!』って、モースに怒鳴られた。

『なんならお前の手で、両親を殺すか?』

『……っ!』

『やめさない、モース』

『大人しく従うのなら、あれ以上の危害は加えぬ。さあ導師、惑星預言プラネットスコアを詠むのだ』

『……分かりました』

 ゆっくりと目を伏せたイオン様の周りが、第七音素セブンスフォニムの光で輝く。

『……やがてそれがオールドラントの死滅を招くことになる。

 ND2019、キムラスカ・ランバルディアの陣営はルグニカ平野を北上するだろう。軍は近隣の村を蹂躙し、要塞の都市を囲む。やがて半月を要して、これを陥落したキムラスカ軍は、玉座を最後の皇帝の血で汚し、高々と勝利の叫びを上げるだろう』

 イオン様が預言スコアを紡ぐたびに、その前に光が射して、半透明の譜石が固まっていった。ユリアは預言スコアを詠んで山のような大きさの譜石を七つも作ったというけれど、イオン様の前の譜石もどんどん大きくなっていく。

『ND2020、要塞の街はうず高く死体が積まれ、死臭と疫病に包まれる。……ここで発生する病は新たな毒を生み、人々はことごとく死に至るだろう。これこそがマルクトの最後なり。以後数十年に渡り、栄光に包まれるキムラスカであるが……』

 大きくなる譜石と引き換えみたいに、イオン様の顔色はどんどん白くなっていって、息も荒くなっていった。苦しそうに両手を譜石についている。

『おやめ下さい、イオン様。お体が……』

『そうですわ。私たちのことなど気にしないで』

 檻の中からパパとママが叫んでる。でも、私は声が出なかった。喉は震えるだけで、手足が冷たくて、凍りついてるみたいで。苦しそうなイオン様を、ただ見ているだけ。

『……かくしてオールドラントは障気によって破壊され、塵と化すであろう。これがオールドラントの最期である』

『なんだこれは。これが正しい預言スコアのはずがない! ええい、レプリカめ、もう一度詠み直すのだ』

 モースが何か喚いてる。

『……ND2019、キムラスカ・ランバルディアの陣営はルグニカ平野を北上するだろう。軍は近隣の村を蹂躙し……』

 ――やめて。

 譜陣に駆け込んだ時、私はみんなに向かって、メッセージを持たせたヌイグルミを投げつけていた。モースの目を盗んで走り書きしておいた、譜陣を通らずにこの場所へ来るための方法。

 みんなはきっと、ここに来てくれる。私は何も出来ないけれど、みんなはきっとイオン様を助けてくれる。

『ここで発生する病は……新たな毒を生み、人々はことごとく死に至るだろう。これこそが、マルクトの……』

 ぜいぜいと荒いイオン様の息が聞こえた。声が揺らぎ始めている。心臓が波打って、私の息も苦しくなった。

 ――ルーク、大佐、みんな。

 お願い。お願いだから、早く来て。このままじゃイオン様が死んじゃう。死んじゃう! 死んじゃうよぉ!

『やめろ、イオン! やめるんだ!』

 ルークが駆け込んできて、ふらりと倒れたイオン様の体を抱きとめた。

『イオン! しっかりしろ!』

『……ルーク。そんな顔をしないで下さい。僕の代わりは沢山います』

『そんなことない! 他のレプリカは俺のこと何も知らないじゃないか! 一緒にチーグルの森に行ったイオンは、お前だけだ!』

 イオン様は、ルークに抱きかかえられて弱々しく微笑んでいる。

『ティア、こちらに……。僕が……あなたの障気を受け取ります。第七音素セブンスフォニムは互いに引き合う。僕の第七音素の乖離に合わせて、あなたの汚染された第七音素も貰っていきますよ』

 ティアの手を握ったイオン様の体が金色に輝いた。『イオン!』ってルークが泣きそうな声で叫んでる。

『……いいんです。ほら、これでもうティアは大丈夫……』

 イオン様の体はどんどん金色になっていく。まるで光になっていくみたいに。

『……イオン……様……』

 震えるだけだった喉から、声が出た。……イオン様の目が、私を見る。

『もう……僕を監視しなくていいんですよ……アニス……』

 ――どうして。

 イオン様は怒らなかった。私を責める目をしなかった。優しく笑って、包み込むみたいな暖かい声で。

『ごめんなさい、イオン様! 私……私……』

『今まで……ありがとう。僕の一番……大切な……』

『……イオン様っ!』









 キラキラと光を反射するそれを手の中でもてあそんでいると、「ん? それ、なんだい」と、金髪の青年が声をかけてきた。

「イオン様の譜石の欠片。ルークに貰ったの」

「……へえ、そうか」

 ザレッホ火山の地下でイオンが光となって消えた後、モースは再び逃走した。ルークたちはイオンの遺した預言スコアを手がかりに、飛晃艇でベルケンドへ向かっているところだ。

『私、もう少しみんなと一緒にいて、考えたいんです。私がこれからどうしたらいいのか』

 そう願って再び旅の仲間に加わったアニスを、仲間たちは拒まなかった。責める言葉一つなく受け入れている。

「……どうしてかな」

「どうした?」

 呟きに問いを返されて、アニスは「なんでもない」と首を振る。しばらく沈黙が落ちた後、「ねぇ、ガイ」ともう一度傍らに呼びかけた。

「もしカースロットを掛けられなかったらさ……。復讐のこと、ずっとルークに黙ってた?」

「……」

「……ごめん。変なこと訊いちゃったね」

「いや。構わないさ」

 青年は緩く笑う。

「そうだな。黙ってたかもしれない。一生、隠したままで……。だけど、それも苦しかっただろうと思うよ」

「……そうだね……」

 アニスは目を伏せた。小さく呟く。

「どうして笑えるのかな、って思ってた」

「ん?」

「騙されて、裏切られたのに……。笑うから」

「ああ……」

 ガイは声を落とす。

「馬鹿だよな、確かに。どうしてそんなに……って、俺も思うさ。

 だけど、あいつが笑うから……。それで俺は、自分を許せたのかもしれない」

 アニスは、手の中の譜石を見つめた。それは透き通り、ひたすらに美しい。




 どうしてイオン様は笑ったんだろう。ありがとうなんて言えたんだろう。

『イオン様を殺した! アニスはイオン様を殺したんだ!』

 アリエッタの言う通りだ。私はイオン様を殺した。騙して、裏切って、殺しちゃったんだ。

 パパとママを守れるのは私だけだと思ってた。イオン様を騙すのは心苦しくて、せめて他のことからは全力で護りたかった。

『アニス、偉かったな』

 少しも偉くなんかないのに、ルークはそう言って私の頭を撫でる。泣き止むまで胸を貸してくれて、でもその手があんまり優しかったから、私はいつまでも泣き止むことが出来ないでしがみついていた。

 お人好しで天然で、馬鹿で弱くて騙されやすくて、でも綺麗で、ひたすらに優しい人たち。

 護らなきゃいけないと思ってた。守ってるつもりだった。

 でも、守っていたのは誰なんだろう。

 本当に護られていたのは、誰だったんだろう。






終わり

06/08/16 すわさき


*07/07/28、『キャラクターエピソードバイブル』の内容に合わせて一部修正。12/11/29、外伝漫画『dance! dance!! dance!!!』『EPISODE 00』に合わせて一部改稿。

 なんだかんだ言って両親が大好きなアニスは、だからイオンやルークも好きだったんじゃないかなーと思っていたりします。シビアな価値観の持ち主ですが、心の底で夢想・性善的なものに憧れていそう。

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