この世界で歌は多くの意味と力を持つけれど、結局は、力なんて無いに等しいものなのかもしれない。

 始祖ユリアは音素フォニムの意識集合体たちとの契約の証である譜歌を歌って事象を操り、ローレライの力を借りて星の未来の預言うたを紡いだという。その力で世界を変革し、全ての命を救ったのだと。

 私たちはその力を受け継いでいると、周囲の人々は言う。ユリアの子孫。ユリアの譜歌の歌い手。時を越えて伝えられた、偉大な力を持っていると。

 ユリアの血と力を引く。そのこと自体は事実だと言える。けれど、それで私たちは何を行うことが出来たと言うのだろう。

 歌うことしか出来ず、それで何一つ変えることも出来ずに。多くの命を無為に手のひらからすり抜けさせて。崩壊した大地と共に、ただ魔界クリフォトの底に落ちてきた私たちなのに。




『お前らだって何も出来なかったじゃないか! 俺ばっか責めるな!』

 無垢で愚かで残酷な。

 その断罪の声は無数の刃を持って深淵に響く。




断罪の声


 

「――それでは、普段の処置は先程説明した通りに」

「分かりました。私も神託の盾オラクル騎士団に所属する治癒術師ヒーラーとして、一通りの教育は受けていますから」

「そうでしたね。では……」

 開いたままの自動扉から出て行こうとした医師は、近付いてきた人影に気付いて動きを止めた。

「これは、テオドーロ市長」

「お祖父様。お帰りなさい」

「ああ、ただいまティア。先生は今お帰りですか」

「はい。栄養点滴と治癒術による賦活方法についてご指導致しました。さすが、ティアさんは優れた治癒術師ですね」

 そう答えて、この都市の人間が好む独特の長衣を着た医師は、通路に並ぶ譜業の光に照らされながら立ち去っていく。暫くその背を見送ってから家に入り、老人は孫娘に目を移して問うた。

「ティア。例のレプリカの少年の看護は、引き続きお前がすることにしたのかね」

「ええ。彼が目を覚ますまで……」

「しかし、お前一人が背負い込むことでもあるまい。まだ目覚めないというのは、何か身体的な問題があるのかもしれない。医師に任せた方がよくないかね?」

「お医者様は、身体には問題はないと仰っていたわ。それにお祖父様。彼を、……生み出して利用したのは、ヴァン兄さんだわ。だから、その世話を引き受ける義務が妹の私にはあると思う」

「……お前は言い出したら聞かない。その点はヴァンとよく似ているな。神託の盾騎士団に入ると決めた時も、外殻に第七譜石を探索する任務を引き受けた時も」

「ごめんなさい。お祖父様に迷惑は決してかけないから」

「迷惑などとは思ってはいない。ただ、お前に無理をしてほしくないだけだよ」

 老人は手を伸ばし、幾分伏せられた孫娘の頬にそっと触れる。以前よりも白く、ほっそりしたように思えた。外殻の都市の一つが崩落し、一万近い命が死滅する場に居合わせた。しかも、それを行ったのは彼女の実の兄だったのだ。――その体験は、余程この少女の心を削いだと見える。

 やはり、まだ言う訳にはいかぬな、と老人は思った。その都市の崩落は二千年も前から予告されていた、起きて然るべきものであり、それを行ったヴァンの行動もまた、歴史を予定通りに動かす監視者としての活動に過ぎなかったのだと。

 ――ただ、その為に預言スコアに詠まれぬレプリカの少年を作り、駒として使用したということが引っかかりはするのだが……。

 それは些細なことなのだろう。ユリアの預言は絶対のものだ。それを守ることこそが人類の繁栄を招く。このユリアシティの人間はその為に世界を導く、誇り高き人類の監視者なのだから。

 しかし、この孫娘は未だ幼く、ひどく清廉な性格だ。監視者としての使命とはいえ、意図的に外殻の多くの命を犠牲にしたのだと知れば、怒り苦しむことだろう。

「お祖父様、ありがとう」

 しわの寄った優しい手に自分の手を添えて、少女は血の繋がらない祖父を青い目で見上げる。

「とにかく、彼のことは私に任せて。それが、私の負うべき責任なんだから」




 階段を上ると、直接部屋に繋がっている。大きな飾り窓から見えるのは、セレニアの青白い花が群れ咲く中庭だ。

 遥か昔、ティアがまだひどく幼くて、兄がこの都市に住んでいた頃、ここは兄妹の部屋だった。十一、歳の離れた兄は、物心付く前に両親を亡くしたティアにとって親代わりだった。養祖父のテオドーロは多忙だったし、今思えば、あの頃はヴァン自身が妹を他人の手に委ねることを拒んでいたようにも思える。

(私、兄さんが大好きだった。兄さんは強くて、優しくて、賢くて……)

 ティアが三歳の頃に彼は外殻の士官学校に入り、そのまま神託の盾の騎士になったが、それでも暇を作っては妹に会いに来た。

 料理や裁縫、譜歌も。全て、教えてくれたのは兄だった。ティアにとって兄は誇りであり、理想であり、最も信頼と愛を注ぐ対象だった。

(なのに、どうしてなの……? どうしてあんなことを。兄さん……)



 セレニアの咲く中庭で。密談していた兄とリグレットにティアは詰め寄った。

『兄さん! リグレット教官!』

『ティア……お前はいつも、思いがけないところに現れるな』

『兄さん。外殻の住人を消滅させるって、どういうこと?』

『む……』

『あの超振動の実験と関係があるの?』

『それは……』

 士官候補生訓練のために滞在していたダアトで、兄が超振動の実験に携わっていることを、ティアは知ってしまった。

『やっぱりあるのね? そうなんでしょう!』

『……答える必要はない』

『私には聞く権利があるわ!』

『ティア……』

『兄さん、言ってたじゃない。預言スコアや超振動を必要としない、理想の世界を作るって。どこで変わってしまったの? どうしてそうなってしまったの!? 答えて、兄さん!』

『……私は初めから、何も変わっていない』

『兄さん……?』

『私はただ、自らの理想を実現しようとしているだけだ』

『理想って?』

『お前には何度も話しただろう。預言に囚われた人類を解放することだ。ローレライに踊らされるままの生き方に、何の意味がある? 今こそ人類は、預言を捨て、新たな一歩を踏み出すべきなのだ。それを自らの手で成し遂げることこそが、私の理想だ』

 そう言うと、ヴァンは妹をじっと見つめた。

『お前なら分かるだろう? ティアよ』

『そんなの、分からないわ!』

 

(分からない)

 

 ずっと幼い頃にも、そう言われたことがあった。ユリアシティに帰省した兄は、セレニアの中庭の見える窓辺に立って、『ホドを見捨てた世界を許さない』とよく語っていた。

『ティア、これだけは覚えておいてほしい。僕たちの故郷、ホドが消滅したのは、預言と、超振動のせいだ。僕は許さない。預言に縛られ、ホドを見捨てた世界なんか、絶対に許すものか。それだけじゃない……。許さないのは、預言を成就するために使われた、忌まわしい超振動も一緒だ。預言も超振動も、必要ないんだ。なくなってしまえばいい……。なくなってしまえば……!』

 あれは、ティアがまだ五歳、ヴァンが十六歳の頃だったろうか。

『僕が神託の盾オラクルに入ったのは、理想を実現するためだ。預言や超振動を必要としない、理想の世界を作るためだ。今の人類は預言に囚われすぎている。預言がなければ何ひとつ出来もしない、そんな生き様に何の意味があると言うんだ? 人類は預言から解放されるべきなんだ。こんな状態を続けるのは間違ってる』

 そう言い、兄は幼いティアを見つめた。どこか縋るように。

『分かってくれるだろう、ティア?』

(分からないよ、お兄ちゃん……)

『僕と同じ悲しみを背負うティアなら、きっと分かってくれるはずだよ』

(分からない! 兄さん……!)



「ティアさん。お医者さん帰ったんですの?」

 可愛らしい声が聞こえて、ティアは思いを浮上させた。

「ええ。ミュウ」

 答えながら、部屋に置かれたベッドに近付く。それは普段ならティア自身が使うものだったが、今は一人の少年に占拠されていた。

 端正な顔立ちをしている。寝息は微かだった。燃えるような赤い髪を腰まで伸ばしている特異さもあって、こうして眠る姿は人形のようにさえ見える。

「ご主人様……なかなか目を覚まさないですの」

 ベッドサイドの小卓にちょこんと座り、青いチーグルが可愛らしい顔を曇らせて呟いている。

「そうね。いつになったら目を覚ますのかしら」

 眠る少年を覗き込んで、ティアもそう呟いた。

「ルーク……」




 この少年――ルーク・フォン・ファブレにティアが初めて出会ったのは、三ヶ月ほど前のことだ。

 どんなに訴えても、力で引きとめようとしてさえ、兄は聞く耳を持とうとはしなかった。やがて何食わぬ顔で外殻へ戻って行った彼を見送ることしか出来なかった自分を嫌悪して、考え続けて。そして決めたのだ。

 何が行われようとしているのかは分からない。だが、それが例えどんなに困難なことであろうと、犠牲を伴うものであろうとも、兄ならきっとやり遂げてしまうのだろう。

 外殻の人々の命を救うためには、兄を殺すしかない。

 そう思いつめて、慣れない外殻世界を旅しながら兄を追い続けた。やっと追いついて、後先考えずに飛び込み、剣豪として知られる彼に刺し違える覚悟で立ち向かって――ルークは、そこに割り込んできたのだ。

 

『何なんだよ、お前はぁっ!』

 

 キムラスカ・ランバルディア王国の公爵家子息。兄が十年近く剣術指南役を務めてきたお坊ちゃま。驚いたことに、彼はティア自身と同じ第七音譜術士セブンスフォニマーであり、その音素フォニムの干渉は擬似超振動を引き起こした。二人諸共に、ファブレ公爵家の庭から隣国のマルクト帝国まで吹き飛ばされてしまったのだ。

 世間の常識どころか、自分の持つ力の名前すら知らない。彼は、驚くほどに愚かで幼稚で不遜な少年だった。それでも、彼を安全な屋敷から、いつ命を奪われてもおかしくない敵国へ連れ出してしまったのは、他ならぬ自分だ。だから彼を無事に屋敷まで送り届ける責任と義務がある。そう考えて、ティアはルークを連れて不安な旅を始めたのだった。

 

『お前さ〜、なんで屋敷に乗り込んで来たのか、とか、ヴァン師匠せんせいに襲い掛かったか、とか、話さねーの?』

 

 しかし、そこまでの関係だ。自分と兄との問題に踏み込ませたくはなかったし、巻き込む気もなかった。そうしたところで、この愚かな少年に理解できるとも思えなかったし、意味があることとは思えなかったから。

 

『……なんか後味悪いな』

 

 少年は本当に愚かだった。目先の情に囚われ、大局を見ようとはしない。

 人間を襲う魔物であるライガ。今まさに自分たちを殺そうと向かってくるそれを前にして、その卵を潰すことをためらった。戦いが終わると、潰れた卵の前に座り込んでじっと俯いていた。

 愚かだ。卵のうちに潰しておかなければ、生まれたライガの子供は大勢の人間を襲って食い殺すというのに。

 

『……冷血な女だな!』

 

(私だって、何も感じていない訳じゃない!)

 生きるために、その他を切り捨てなければならない時がある。殺さなければ殺されるのだから。

 生きるために。……生かすために、殺すのだ。

 この世界に生きる全ての人間――小さな子供ですら当然のように知っていることわりを、この赤毛の少年は拒んだ。真正面からなじり、自分だけは綺麗な場所にいる顔をして断罪した。

 彼の理屈は確かに正論で、あまりに夢想めいて美しい。

 

『お前、何で師匠と仲良くできねえんだよ。兄妹なんだろ?』

 

 それ故にえぐられた。無知で純真で、だから残酷で容赦のないその非難の声に。抉られた傷が痛くて、同じ強さで抉り返した。

 

『今はここが私たちの戦場よ。戦場に正義も悪もないわ。生か死か、ただそれだけ』

『そんなの俺には関係ない! 俺はそんなこと知らなかったし、好きでここに来た訳じゃねぇ!』

 

 そうだ。彼を、綺麗で安全な場所から引きずり出したのは。







「ティア!」

 声をかけられて、ティアは足を止めて振り返った。譜業の光に照らされた通路を、独特の長衣を着て金色の髪を結った女性が歩いてくる。

「レイラ様……」

 ティアは軽く頭を下げた。ユリアの譜石の管理研究機関の責任者でもあるその女性は、ティアが抱えた薬品の入った袋を一瞥して、「外殻から来た彼、まだ目覚めていないのね」と眉を曇らせる。

「はい……」

「顔色がよくないわ。ティア、大丈夫なの?」

「私は大丈夫です」

「でも、彼が意識不明になってから、もう十日は経っているでしょう」

「……」

「あなた一人が抱え込むには、荷が重いんじゃないのかしら。市長も心配してらしたわ。もしかしたら……」

 少し前に医師に言われた言葉が、ティアの脳裏をよぎった。



『それはどういうことなんですか、先生』

『ですから。脳波などのデータを見る限りでは、彼は既に覚醒していると言えるんです』

『でも、彼は眠っています。目覚めてはいません』

『ええ。何故意識が戻っていないのかは分からない。……ただ、彼は普通の人間ではない。レプリカですから。

 我々はレプリカを診た事はありませんし、過去の臨床例もありません。現時点で、他のレプリカもいない。これが彼がレプリカであるために引き起こされた特殊な症状だとしたら、我々にはどうすることも出来ないかもしれない』

『そんな……。それじゃ、ルークは』



 レイラは言った。

「彼はもう、目覚めないのかもしれない。だとしたら、あなたが背負うには重すぎるもの。それなら……」

「ルークは目を覚まします。必ず」

「ティア」

 頑なに言い切った少女を見下ろして、レイラは僅かに眉を曇らせた。だが、やがてふっと息を吐いて、僅かに力を抜く。

「……そうね。あなたが付いているんですもの。きっとユリアとローレライのご加護があるわね」

 そう言って微笑むと、ふと思いついたように声音を高くした。

「そうだわ、譜歌を歌ってみてはどうかしら」

「譜歌を、ですか?」

 目を瞬かせたティアの前で、レイラはどこかうっとりとした口調で続けている。

「あなたたちユリアの子孫にしか歌えない、ユリアの譜歌。その全ての旋律を揃えたユリアの大譜歌は、ローレライを召還すると言うわ。ローレライ、すなわち第七音素セブンスフォニムは癒しの力を司る。もしかしたら、それで彼を回復できるかもしれない」

 うきうきとした様子のレイラの前で、ティアは僅かに目線を落としていた。

「でもレイラ様。私はまだユリアの譜歌を殆ど理解出来てはいません」

「ああ……そうだったわね。だったら、ヴァンならどう?」

 ビクリと、ティアの身体が震えた。

「彼は決して七番目の譜歌を私たちの前で歌おうとはしないけれど……彼なら全ての譜歌を歌えるはずだわ。そうね、外殻に派遣された監視者として多忙なようだけれど、彼を呼び戻して……。

 彼が譜歌を歌う場面を見られるかもしれない。素晴らしいわ。外殻の出身ながら、彼は誰よりも深くユリアについて理解している。監視者としても今は彼に敵う者はいないわね。流石はユリアの血を引く者だわ。

 二千年もの間行方不明になっていたユリアの子孫が、こうしてユリアシティに戻ってきた。これもきっと、ローレライの定めに従ったユリアの導き……」

「兄さんのことは言わないで下さい!」

 遮るようにティアは叫んでいた。言葉を呑んだレイラの様子に気付いて、気まずげに声を詰まらせる。

「す……すみません」

 少し前までは、誰かが兄を褒め称える言葉を聞くのは誇らしく、嬉しいものだった。ティア自身、兄を尊敬し、憧れてやまなかったのだから。

 

(兄さんは優しかった。何でも教えてくれた。私のことを分かってくれていて、いつも見守ってくれていた……)

『師匠はそんな風に俺を馬鹿にしなかった! いつも俺に優しかった! 俺の知らないこともちゃんと説明してくれた! 師匠は……』

 

「けれど兄さんは……兄は、譜歌を歌うことはないと思います」

 ティアは目を伏せる。

 人形になってしまったかのように眠り続ける、愚かな少年。

 この都市の人々は、未だそれをはっきりとは認識していないのだろう。だが、彼をそうしたのは――そのためだけに作り出し、利用して、打ち捨てていったのは。誰よりも優しかったはずの、兄なのだ。

「………そう。ごめんなさい、何か余計なことを言ってしまったようね」

 ほんの少し瞳を翳らせてレイラは言った。

「とにかく、無理はしないで、ティア。あなたは一人ではないのだから」

「はい……。ありがとうございます、レイラ様」




 自宅の階段を上ると、変わらない光景がそこにはあった。

 ベッドの上で赤い髪の少年は眠っている。ただ、傍らにいつも付き添っている青いチーグルは、今は枕元に座り込んでこっくりこっくりと舟をこいでいた。無理もない。昼も夜も付きっ切りなのだ。すっかり疲れているのだろう。

 ティアはベッドに近付くと、眠る少年の顔を見下ろした。

 

(これは、私の罪なんだわ)

 

 たとえ殺してでも兄の凶行を止める。そう誓って外殻へ向かったのに、いざ兄と対峙すると心が揺らいだ。彼はあまりに彼のままで、本当にあんな恐ろしい計画を心に秘めているのか、実感が持てなくなったのだ。



『お前は勘違いをしている。許さないと言ったのはそういう意味ではないのだ。私は世界を滅ぼすつもりなどない。ユリアに誓って、な』

『本当に? じゃあ、この外殻大地を存続させるのね』

『前にもそう言っただろう。人の歴史は存続させる。何があろうとも必ずだ。だからメシュティアリカ。お前が心配する事は、何もないのだよ』



 ケセドニアへ向かう連絡船の中で問い質した時、兄は優しく笑ってそう言った。……その言葉を、ティアは信じてしまった。完全にではなかったが、安堵したがる心に従った。

 

(そうよ。兄さんは優しい人だもの。それを誰よりも私は知っている。兄さんは世界の平和のために働いているんだわ。大詠師モースがそう望んでおられるように……。私はそんな兄さんの役に立ちたくて神託の盾オラクル騎士団に――誰かを護る為に誰かを殺す、その道を、自分の意志で選んだのだから)

 

『……変な奴。無理して強がってる風にしか見えねーや』

 赤い髪の少年は、残酷に決意を一蹴する。






「……」

 ティアは少年の顔を見つめた。その寝顔は凪いでいて、哀しみも苦しみも怒りも喜びも、何もない。ただ、白い。悩み揺れ、死と汚濁と裏切りに満ちた世界を嘲笑うかのように、ひたすらに綺麗で清浄だった。

「……嘘つき」

 ティアの唇が震え、言葉が零れ落ちる。

「いつまでそうしているつもりなの。目を閉じて耳を塞いで、何も見ずに聞かずにいて。そうやって何も知らないふりをしていても、世界は消えて無くなったりはしない。誰かが、どこかで生きている限り」

 最初は呟きだった声は次第に高くなり、ティアは声を荒げていた。

「あなた、言ったじゃない。自分だけ隠れてなんかいない、戦うって。逃げ出さず投げ出さずにちゃんと責任を背負うって。あれは……あれは、嘘だったの!? ――ルーク!!」

「ティアさん……」

 小さな声が聞こえて、ティアは我に返る。

「ミュウ……。ご、ごめんなさい。起こしちゃったみたいね」

 ばつが悪い思いで枕元の小さなチーグルに視線を移した。

「ティアさん、泣いてますの?」

「え? な、泣いてなんかいないわ」

 軍人になると決めた時に。もう泣かないと誓ったのだ。

「でも、悲しそうですの……」

 ミュウは自分こそ悲しげに目を伏せて、「そうですの!」と垂れていた長い耳を立てた。

「ボク、歌いますの。元気になる歌ですの」

 そうして歌い始めたミュウの歌は、「みゅうみゅう」言うばかりのひどく調子外れなもので。けれど確かに、何か力を与えられたような気がしてくる。知らず口元に笑みが浮かんで、ティアは可愛らしいチーグルを覗き込んで微笑みかけた。

「ありがとう、ミュウ。それは、チーグル族に伝わる歌なの?」

「違いますの。今、ボクが作った歌ですの」

「そ、そうなの……」

「みゅうぅ? 駄目でしたの?」

「いいえ、たくさん元気をもらったわ。歌にはそんな力があるのね。……」

「ティアさん?」

 ティアは眠る少年に視線を戻す。軽く胸を押さえて息を吸うと、喉から旋律が流れ始めた。

 それは、彼女の家系だけに二千年間伝えられ続けた偉大な歌だ。

 六番目の旋律まで歌い終えたところで、ティアはふっと口を閉ざした。――眠る少年に、変化はまるで見えない。

「……駄目ね、やっぱり。第一と第二以外の譜歌の真の意味を私はまだ理解していないし……七番目の旋律は、知ってさえいないんだもの」

 ユリアの子孫。ユリアの譜歌の歌い手。

 そうもてはやされたところで、ティアに出来ることなど殆どない。

 歌を知らず、真理を知らず、惑わされて、止めることも護ることも出来ずに、ただ魔界クリフォトへ落ちて逃れてきた。

「ティアさん……。でも、すごく綺麗な声ですの。ボクはティアさんの歌、大好きですの」

「ありがとう。……ごめんなさい、私、少し中庭に出ていていいかしら」

「はいですの。ご主人様の事は、ボクがちゃーんと看てるですの」

 屈託なく請けあったミュウに甘えて、ティアは部屋から続く中庭に降りて行った。




 中庭は薄闇に包まれ、青白いセレニアの花群れに覆われている。

 この庭と花を贈ってくれたのも、兄だった。

(兄さん……)

 かつては、この庭で兄を待っていた。外殻から帰省してくる彼を、その優しい顔や大きな手を待ち続けた。年月が過ぎ去るうちにそれだけでは飽き足らなくなり、兄と同じ騎士団に入ることを決意した。

 兄や祖父は、この都市で穏やかに暮らしていればそれでいいと言ってくれたのだ。けれど、護られているだけなのは嫌だった。兄の負う重荷の一部でも分かちたかった。

(私は……ここで何をしているのかしら)

 目覚めを拒んで眠り続ける少年を叱咤する権利など、きっとありはしない。

(こうしている間にも、兄さんはまた何か罪を重ねているのかもしれない……。それは、絶対に止めなければならないことだわ)

 三ヶ月の旅路を共にした仲間たちは、既に外殻大地へ戻っていた。兄の――ヴァンの動向を探るためだ。ヴァンの妹であるティアは、本来なら真っ先にそうする責任があるはずだった。彼を追い、今度こそ……。

 ティアは何かをこらえるように目を伏せる。

(けれど、兄さんがどこにいるのかは私には分からない。……お祖父様なら知っているのかしら。そうだわ、お祖父様に相談しよう。兄さんがアクゼリュスで何をしたのか、ちゃんと説明して……。

 でも、兄さんは外殻大地を崩落させてどうしようというの? ユリアは、このことを預言スコアに詠んでいたのかしら。第七譜石を詠めば、どうすればいいのか書いてあるの? ……そうだわ。大詠師モースに第七譜石探索の報告をしなければ)

 こうして深淵の底にうずくまっていても仕方がなかった。今は、動かなければならない時なのだ。――それが、この世界に生きる、自分が負うべき責任なのだから。

(……でも)

 

『あんま気にすんなよ』

 

 一ヶ月ほど前。強引に連れ出してしまった少年をファブレ公爵邸に送り届けた時。息子を心配するあまり病に伏せった公爵夫人の姿を見て、自分の犯した罪の重さを思い知った。罪悪感に苛まされる顔色を表に出したつもりはなかったのに、赤い髪の少年はティアを呼び止めてそう言ったのだ。

 

『母上が倒れたのは、元から体が弱いだけだから』

 

 無知で愚かで残酷で。けれど、無垢な輝きで不意に壁を飛び越えてくる。『無理して強がってる風にしか見えねーや』と顔を背けながら、怪我をした自分の、遠くも近くもない場所にじっと座っていた。

 ほんの僅かに触れた感触は、暖かなものだった気がする。厚い雲の向こうから時折射す、眩い太陽レムの光のように。

 

 眠る彼から離れたくはない。

 足をとどめるこの感傷は、何なのだろう。

 

(これは、私の責任なのかしら。それとも――)

 

 見つめる視線の先で、セレニアの花々がゆるく揺れた。

 扉が荒々しく開く音が響き、次いで、金属製のスロープをバタバタと駆け下りてくる足音が聞こえる。しかしその気配は、花の間に入ると逡巡したように立ち止まり、歩を緩めたようだった。

 長い旅を終えて戻った旅人のように、時折辺りを見回しながら少年が近付いてくる。薄闇の中で燃える焔の赤に目を奪われながら、ティアは花群れの中から立ち上がった。






06/10/24 すわさき

終わり




*06/10/11のレス板から移動。07/07/01に、『テイルズ オブ ファンダム2』の内容に合わせて、一部修正。

 ゲームはあくまでルーク視点中心なのですが、ティア視点で外殻大地編を見ればこんな感じかなぁと。
 アクゼリュスを落としたルークは『お、お前らだって何も出来なかったじゃないか! 俺ばっか責めるな!』と仲間たちを責めましたが、んなこたぁー、(少なくともティア、ガイ、イオンにとっては)言われなくても分かってること……だったのかもなぁ、と。

 長髪の頃のルークはティアに色々冷たくされたけど、ティアもルークにいっぱい傷つけられていました。この後、目覚めたルークがティアの思いの一端に気付くことで、自分の世界の外側を知り、内面的に色々と変化していった……と思ってみたり。
 自分の中の真実と、他人の中の真実は違う。それを摺り合わせていけたらいいですよね。

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