それは甘く


 ガイ・セシルは困っていた。

 涙と鼻水でベタベタになって、頬をパンパンに膨らませつつ眉根を寄せているこの子供を、一体どうしてやろうかと。

「……そんな顔をしたって駄目ですよ。今日の分の書き取りを済ませるのが先でしょう?」

「うぅー」

 こちらを睨みながら、時折「ぶー」とか「うー」とか意味のない唸り声を漏らす辺りは、赤い毛を逆立てた猛獣の仔みたいだ。

「うーうー言ったって駄目です。大体、先生が宿題を出したのは、ルーク様がお勉強の時間に暴れたからじゃないですか。おやつは書き取りの後です」

 ガイは子供にペンを握らせる。だが、ポイとそれは投げ捨てられた。黙って拾い、再びそれを握らせる。が、また投げ捨てられた。部屋に敷き詰められた上等の絨毯に、点々とインクの黒い染みが付く。

「ルーク!」

 思わず声を荒げると、子供は今度はインク消しを掴んで投げつけた。避けた拍子に背後にあったワゴンにぶつかり、皿の上の焼菓子が転げ落ちる。

「あー!」

 砕けて散らばったそれを見て、見る間に子供の目に涙が盛り上がった。大きな泣き声が響き渡ってすぐに、部屋の扉が開いてメイドが入ってくる。

「どうしたの!?」

「すみません……。ルーク様が」

 言い訳をするまでもなく、散らばったペンや焼菓子を見て事情は察したらしかった。僅かに肩を落とすと、メイドはしゃがんで片付け始める。

「あまりルーク様を泣かせないでね。ラムダスさんもいい顔をしないし。それに、奥様のお加減がまた悪くなるわ」

「……そうですね」

 子供の母親は体が弱い。泣き声を聞けば心痛でますます具合を悪くする。子供の顔を見に来ることすらたまにしか出来ないくせに、厄介なことだ。

「ルーク様、泣かないで下さい。いい子いい子ですよ〜。すぐに新しいお菓子をお持ちしますからね」

 メイドにあやされて泣きやんだ子供を、ガイは白々とした気持ちで見下ろした。

 自分が子供だった頃は――今でも大人ではないが、もっとずっと小さく、家族が生きていた頃の話だ――そう簡単に菓子など与えてもらえるものではなかった。貧しかった訳ではない。爵位こそ劣るが、屋敷は壮麗で広く、この天空の邸宅にも決してひけはとらないものだった。

 

『あまり甘いものを食べたがるものではありません。虫歯になりますよ』

 

 その気になれば毎日それを出せたはずだが、屋敷の年長者たち、特に姉のマリィベル・ラダンはそうすることを好まなかった。甘い菓子は特別な時にしか食べられず、だからこそ、その日が来ると心底嬉しかったものだ。

 

『お前はガルディオス家の跡を継ぐのです。心も体も強い男になりなさい、ガイラルディア』

 

(姉上……)

 目を伏せれば、凛とした笑顔や流れる金色の髪がありありと浮かんだ。

 年が離れた姉だった。ガイが生まれるまでガルディオス家の直系は彼女だけで、だからこそ家名を担う者としての使命感を強く持っていたのかもしれない。

 ガルディオス伯爵家。マルクト帝国ホドの領主。

 白い街並みの上に広がる青い空と、同じ色を映した海が思い浮かぶ。

 だが、まぶたを上げれば目の前にあるのは赤い色だ。

 ガルディオスを滅ぼした赤。

 憎むべきファブレの跡継ぎは、一年前に頭と心を赤ん坊に戻してしまった。独りで歩けるようにはなったものの、言葉は未だ片言で、読み書きすらおぼつかない。

 いずれは記憶が回復する。屋敷内に当初あったそんな楽観も薄れ始め、再教育のための教育課程も組まれたが、どこまで真剣に考えられているものやら。

(馬鹿馬鹿しい)

 メイドが置いていった新しい菓子を前にご満悦の子息様を見やって、ガイは胸の中で冷たく独りごちた。

 ファブレの連中が好きでしていることだ。

 幾らでも甘い菓子を与えて、その場その場で適当にご機嫌を取って砂糖漬けにしていく。それでこの子供がどうなるかなんて、気にしてやる必要などないではないか。

(好きにさせておけばいいんだ)

「……」

 むっつりと目を伏せた鼻先に、不意に甘い香りが香った。驚いて目を上げれば、赤い髪の子供が握りしめた菓子を一つ、無言で差し出している。

「……」

 少々面食らいはしたが、それを殆ど表には出さず、ガイは黙っていた。

「うー……」

 差し出し続けていた子供の顔が歪み、手を下ろして背を向ける。どうするのかと思えば、机の前の椅子に腰を下ろしてペンを握った。インク壷にペン先を付け、危なっかしい手つきで一つ一つ、用紙にフォニック文字を書き取って行く。

 一枚の紙が全て埋まるまで、ガイは黙って見ていた。

「……」

 席についたまま、子供がこちらを見上げてくる。揺れ動くみどりの目を見返して数拍の後に、ガイは苦笑ともつかない息を落としていた。

「……よく書けたな、ルーク。偉いぞ」

 子供がやっと笑った。釣られるようにガイも、やっと本当に笑う。手を伸ばして赤い髪の毛を撫でてやると、互いの笑みはもっと明るく大きくなった。

「よし。もうおやつを食べてもいいからな」

 そう言ってティーポットを手に取ろうとした鼻先に、再び菓子を握った手が突き出された。

「ルーク?」

 見れば、子供は頑固なまでの表情でそれを受け渡そうとしている。

 主人のための菓子を使用人が口にするなど、許されないことだ。ましてや、このような手渡しでは。以前の彼なら決してこんなことはしなかっただろうが。

 僅かばかり困惑して、やがてガイは表情を緩めた。

「ありがとう、ルーク」

 小さな手からそれを受け取る。

 久しぶりに食べた菓子の味は、とても甘かった。








終わり

07/09/22 すわさき


*07/08/16のレス板から移動。

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