空は青く、磨き上げた一枚板のように輝いていた。雲一つないとはこのことを言うのだろう。
「……」
襟足に落ちた赤毛の尻尾を揺らし、少年は開いた窓から幾分乗り出すようにしてそれに見入っている。
「何か見えましたか、ルーク」
声をかければ、振り向いた碧緑と視線がぶつかった。今まで読んでいたものを持つ手を下ろし、ジェイドは幾分笑みを含めた、いつもの表情で言葉を継いでみる。
「随分と熱心に見ているようでしたが」
「いや、別に。ただ、今日はすげぇいい天気だなーって思ってただけだよ」
そう言うと、ルークは窓枠に半ばもたれるようにして室内に向き直った。
「そういえば、ジェイドは何を読んでるんだ? いつもの書類じゃないよな、それ。なんかちょっと大きいし」
「新聞ですよ。宿で売っていたんです」
「しんぶん?」
「おやぁ? まさか、ルークは新聞も読んだことがないと言うんですか? いけませんねぇ。社会の一員として情報は出来るだけ多く仕入れておかないと、いざという時の判断に困りますよ」
「うっ、うっせーな! しょーがねぇだろ。そんなもん、今まで見たことがなかったんだから!」
相変わらずの単細胞だ。顔に血の気をのぼらせてルークが喚くと、ジェイドは大仰にすくめてみせていた肩を下ろして怪訝な顔をした。
「見たことがない? やれやれ、ファブレ公爵家はどういう教育を……」
ふと、言葉が途切れる。
「な、なんだよ」
「……いえ。まあ、新聞は読んでおくに越したことはありませんよ。低俗なゴシップ記事も多いですが、世間の動きが掴めます」
「ふーん……」
ジェイドが差し出したそれを、ルークは受け取った。しばらく目を通して、唸りをあげると傍らのベッドに転がる。
「駄目だ。頭が痛くなる……」
「経済記事はあなたには難しすぎましたか。では、読み易い所から読んではいかがですか。もっと身近で些細なニュースや、あなたの好きそうな小説なども載っていますよ」
「あ、ホントだ。――なんだこれ、料理のレシピまである。へえー、結構色んなことが載せてあるんだな」
「ええ。教団発表の毎日の気象
「あ! あれってこれに載ってたんだったのか」
ルークは身を起こした。
「いつもメイドかガイが言ってきてたから、そんなもんなんだって思ってた」
「思考停止ですね」
「へ?」
「何故、どうして。それを考えずにいると、人は何も見えなくなり、結果として動けなくなる」
「……うん」
ルークは僅かにうつむく。やがて口元に苦笑とも言える笑みが浮かび、窓の外を見やると口を開いた。
「俺さ、少し前まで……あ、屋敷にいた頃のことだけど。気象預言聞くのがあまり好きじゃなかったんだよな。明日は一日快晴です、っつーの」
「……雨が嫌なのではなく?」
「ああ。っと、
目が覚めて空が青くて、音譜帯がキラキラ光ってて、鳥が飛んでて」
ルークは一度言葉を切る。ジェイドを見やると問いかけてきた。
「晴れてるとさ、空ってすっげー広くなるだろ?」
「非論理的ではありますが……そうですね。分かります」
「広くて、どこまでも青くて、どこにでも行けそうで。……だから苦しかった」
「……」
「空が晴れてても曇りでも、俺には関係なかったからさ。俺はずっと変わらない。もう見たくねぇって思ったこともあったけど、見るものなんて他になかったから。毎日空ばっか見上げてた」
「――井中より、天をのぞむ、か」
ジェイドは呟いた。
「なんだよ」
「いえ。それで、今も苦しいんですか?」
ルークはジェイドを見返す。一拍の後に、ニッと笑った。
「――いや。ワクワクするな!」
鏡に映したように、ジェイドのそれにも薄く同じ色が浮かんでくる。
「なあジェイド、今日は一日、自由時間があるんだろ?」
「はい。平和条約締結の状況を整えるために急がねばなりませんが、取り戻した飛行譜石の組み込みにも時間がかかります。ケセドニアは
万が一、途中で墜落しても困りますし、と笑ったのを聞いて、ルークは顔をしかめた。
「ジェイドってホントに一言多いよなー」
「よく言われますよ」
ジェイドはまるで悪びれない。
「ちぇっ」とルークが舌打ちした時、部屋の扉がノックされる音が響いた。
「ルーク、いる〜?」
「ああ、いるぜ。入れよ」
促すと、扉を押し開けて、アニスを先頭にした仲間たちがぞろぞろと入ってきた。
「お邪魔してすみません」
「イオンまで。どうしたんだよ、みんなで」
ルークが不思議そうにすると、「いや、まあ、成り行きでな」と、ガイが苦笑している。構わずにアニスが声をあげた。
「ねえねえルーク、今日は一日、ここにいるでしょ。ついでに買い出しもしておこうってことになったんだけど。ルークとティアで行ってきてよ」
「俺が?」
「い、いいわアニス。私一人で。ルークは買い物当番じゃないもの」
アニスに片手を引かれて、ティアは何故だか慌てているように見える。
「だーめ。今回はたくさん買い出してもらうンだから。ティア一人じゃ大変でしょ」
「でも……」
「ふーん。いいぜ、俺は別に」
「よしっ、そうこなくっちゃ男の子!」
アニスは笑って指を鳴らし、ティアはうっすらと赤くなった。
「はい、これが買い出しメモ。買い漏らしがないようにヨロシク〜♥」
「げ。マジでこんなにあんのかよ!」
「マジです。でね。宿の人に聞いたんだけど、今日は集会所の前に旅芸人が来るんだって。ついでだから二人で見てきたら? どうせ今日は時間あるんだし」
「へえ、結構面白そうだな。だけどそんなのが来てるなら、みんなで一緒に見に行く方がよくないか?」
「もうっ! ルークってば鈍い」
アニスがムッと口を尖らせた。
「はぁっ? なんだよいきなり」
「ホント、にぶにぶー! いいからっ。今日は一日、ティアをエスコートしてあげること!」
腕を引っぱられてティアの隣に押しやられ、ルークは目を白黒させている。
「ミュウも行くですの」
ベッドの上にいたミュウが、耳を立てて訴えた。
「あ、そうよね。ミュウも……」
「却下。今日は、ミュウはお留守番」
ティアが頷いて腕を伸ばしかけたが、アニスが先に抱きあげてしまう。
「みゅうぅうぅ〜〜」
ジタバタしてべそをかきそうな小動物を見やって、ガイが笑って言った。
「楽しんでこいよ、お二人さん。だけど夕方までには帰ってこいよな。今晩は、買って来てもらった食材でガイさま特製料理を作る予定だから。ミュウにも特製サラダを作ってやるぞ」
「まあ、それでは
「「――はっ、いいからっ!」」
ナタリアが言いかけたのを遮るように、アニスとガイが青ざめて声を揃えていた。
「ですが、
「ほ、ほら、ナタリアはインゴベルト陛下と仲直りしたばっかじゃん。バタバタしてて、そのお祝いもしてなかったしー」
「そうそう。だからナタリアは主賓としてどっしり落ち着いていてくれよ」
二人は必死にナタリアを宥めている。
「……おーい。なんなんだよ〜。マジで俺たちだけで行っていいのか?」
「ルーク」
憮然としていたルークに、ジェイドが声をかけた。
「天をのぞみ、己の不足を知る。目をそらしたくて、それでも見続けて苦しいと感じていたなら。あなたはまだ、健康だったんですよ」
ルークは目を
「いいじゃないですか、存分に楽しんでくれば。今のあなたは見ているだけではない。……変わったんでしょう?」
「ジェイド……。――うん。そうだよな」
ルークは頷いた。傍らのティアの手を取って笑う。
「よし。行こうぜ、ティア」
「あ……! ル、ルーク」
ルークに手を引かれたティアの姿が戸口から消え、足音が遠ざかると、アニスが小さな肩をすくめて分別臭く息を吐いてみせた。
「全く。世話が焼けるんだからぁー」
「楽しんで来てくれるといいですね」
「ええ。お父様とのことでは、ルークにもだいぶ苦労をかけましたもの」
「ティアもな。ヴァンとのこともある。
「みゅうぅ……。ミュウはご主人さまとティアさんと一緒にいたかったですの」
イオン、ナタリア、ガイ、そしてミュウが語り合っている端で、アニスがふと思い出したようにジェイドを見やった。
「そういえば大佐、さっきのって何だったんですか?」
「何がですか?」
「ルークに何か言ってたじゃないですか。天がどうとか」
「大したことじゃありませんよ。
……そうですね。晴れた青空に胸躍らせたことのない者は、変われるのだろうか。……それだけのことです」
「ほえ〜? 意味が分からないですよぅ。なんですかそれ」
「秘密です♥」
ぶー、と頬を膨らませた少女に笑ってみせると、ジェイドは窓の外の広い空を見やった。
終わり
08/04/21 すわさき
*08/3/16のレス板から移動。……これはほのぼの話でいいのだろーか。