「とにかく、良かったですよぅ。追手は本当に来ないみたいですし」
「以前抜け出した時も、海に出ると追ってきませんでしたからね」
「あの時は、総長と六神将がダアトを空けてましたから。今回は、モースの奴もちょうど出かけてくれましたしね」
リグレットと一緒に、と続けるアニスに微笑みを返しながら、イオンは
「大丈夫です。むしろ、海の香りがして気持ちがいいくらいですよ」
「そうですか? それならいいんですけど……。――あれ? あそこにいるのってルーク?」
目を丸くしたアニスと同じ方向に目を向けると、半円状の甲板の中ほどに、つくねんと立っている青年の姿が見えた。俯いたうなじにかかった、今は短く切られた髪が、夕闇の中でいつもよりくすんだ色に見える。
「ルーク、どうかしたのですか?」
「……」
返事はなかった。身じろぎすらしない。
「ルークっ!」
アニスの大声で、やっと弾かれたように顔を上げる。
「あ、え、アニス? どうしたんだよ」
「それはこっちの台詞。イオン様のお声も聞こえないなんて。ボーッとし過ぎでしょ」
「わ、悪ぃ」
「ルーク。具合でも悪いのですか?」
どこか歯切れの悪い様子が気になって尋ねたが、ルークは頭を左右に振った。
「いや、そういう訳じゃないよ」
「もー、しっかりしてよね。俺変わるんだー、崩落を止めるんだーって大騒ぎしてたくせに。ボンヤリしてるだけなら、ユリアシティに籠もってたってよかったんだよ」
両腰に手を当てて言ってのけたアニスに「そうだな」と苦笑を返すと、ルークはいつの間にか下げていた顔を再び上げる。
「俺、しっかりしないとな」
カシャカシャと、皿や
「はぅ〜。いつになったら保存食じゃないご飯が食べられるのかなぁー」
フォークを握った手を下ろして、アニスが大きな息を落とす。
「プウサギとウオントの肉を練り合わせたランチョンミートはまだいいとして、このほうれんそうの缶詰。ぐっちゃぐちゃじゃん。茹で過ぎだっちゅーの。もう少しいいお野菜がないと、イオン様のお体にもよくないし」
「僕は大丈夫ですよ、アニス」
「確かに、あまり美味しいものではありませんわね」
片頬に手を添えてナタリアが言い、「けれど、戦場の兵士たちはいつもこのようなものを食べているのですわね……」と真面目な顔になっている。
「えーっ。
「そうなのですか?」
「そうそう。マルクト軍の食事は不味いって、噂には聞いたことあったけど」
「栄養的には問題ありませんよ」
ジェイドが薄く笑った。
「仕方ありません。ユリアシティからこちら、殆ど物資の補給ができませんでしたから」
「ユリアシティは物資が乏しいんです。自給率は無いに等しいですし、外殻からの輸入に頼るしかありませんから」
少し気まずげにティアが言う。ユリアシティを出るタルタロスに、シティは物資の援助を行わなかった。タルタロスに不足ない程度の備蓄が残っていたからでもあるが。
「グランコクマに帰れば、補給はできますよ。それまでは我慢してください」
気にした様子もなくジェイドは言い、「後どのくらいかかるのでしょうか?」と尋ねたナタリアに、「三日後を予定しています」と返した。
「以前、同じ海路を通った時よりも時間がかかるようですが」
思わずイオンが口を挟むと、「あの時は高速艇でしたからねー」とアニスが返してくる。
ほんの四ヶ月ほど前、マルクト皇帝の使者として現れたジェイドの説得に応え、イオンはアニスと共にダアトを出奔、船でグランコクマへと向かったのだ。そこからタルタロスに乗り換え、ルークやティアと出会い……。今また、同じようにモースの軟禁から抜け出してグランコクマを目指しているのだから、これもユリアの紡ぐ因縁というものかもしれない。
「ええ。それに、タルタロスは元々陸艦です。水上走行も可能ですが、戦艦に比べても足が遅い。まして、
そうジェイドが語る一方で、ガイが隣席のルークの手元を覗いて声をかけていた。
「ルーク、どうした? 全然食べてないじゃないか」
「え?」
ルークが顔を上げる。アニスが意地悪くからかった。
「あ、もしかしてまた偏食〜? おぼっちゃまはこれだから」
「っ、ちっげーよっ」
「そうだよな。昨日も、今朝も、頑張って野菜も全部食べてたし」
頷いてガイが言う。
「体調でも良くないの?」
「もしかして、またあの頭痛ですか?」
ぐっと身を乗り出したティアと、以前からすれば幾分遠慮がちなナタリアに尋ねられて、ルークは「あ、いや……」と、しどろもどろに言葉を濁した。
「本当に大丈夫か?」
「みゅうぅ。ご主人様、おなか痛いですの?」
ガイやミュウが眉を下げた向こうから、ティアが気遣わしげに言葉を落としてくる。
「体調が悪いのなら、今晩の超振動特訓はやめておきましょうか?」
「な、なんでそーなるんだよ! なんともねーって!」
慌てたように叫ぶと、ルークは勢いよく皿をつかんで一気に掻き込んだ。ごくんと嚥下したのを見て、ガイもまた慌てて食卓の上にあったカップを差し出す。
「おいおいっ、無茶するなよ。ほら、お茶」
「んぐっ、〜〜……。へ、平気だっつの」
周囲は少し呆気にとられていたが、ややあってティアが微笑んで話を変えた。
「でも、食事を早く食べられるようになるのはいいことだわ」
「あら、でも、食事は適切に時間をかけて食べるのが礼節ではなくて?」
「え? そ、そうなのかしら?」
不思議そうなナタリアの声を聞いて、ティアは蒼い目を丸くして戸惑っている。アニスとジェイドが話を続けた。
「ティアのは軍隊式だよね。軍に入ると、食事は早く食べるようにって訓練されるから」
「礼節は勿論、健康の面でもゆっくり噛んで食べる方がよいのでしょうが、軍人は、何事も手早く済ませることを要求されますからね」
「まあ、そうなのですか」
「俺たち使用人も、食事は早く済ませるようにしてたな。仕事が詰まってたし」
ナタリアに向けてガイは言い、「だからって、丸呑みは良くないぞ、ルーク」と、ポンと傍らの赤毛に手のひらを載せた。
「いつも言ってただろ。ゆっくり、よく噛んで食べないと腹壊すからな」
「う……。わ、分かったよ」
「イオン様も、ゆっくり食べてくださいね」
アニスに釘を刺されて、自分の皿に目を落としていたイオンは微苦笑する。自分があのような丸呑みなどしたら、場合によっては息が詰まって、彼女たちにまた余計な心配をかけてしまうかもしれない。
「そうですね。僕には難しそうです」
ティアが生真面目な息を落とす。
「何事も、推奨されるやり方は一つではないということなんですね」
薄く笑みを刷いてジェイドが言った。
「ええ。しかし、世の中には一つの方法しか選べない局面も、幾らでもありますがね」
上部甲板に続く自動扉が開くと、サッと潮風が流れ込んでくる。
朝の風はどこでも清々しい。胸一杯に息を吸い込んで、イオンは半円形の甲板に歩を踏み出した。見やれば、オールドラント大海の水平線は遥かに広がり、その一端を
上部甲板の中ほどで、俯きがちにしている赤い髪の青年。
「ルーク?」
歩み寄って声をかけると、今回はすぐに視線を向けた。
「イオン」
「おはようございます。早起きですね」
「……ああ。まぁな」
苦笑を浮かべた顔の中で泳いだ目線と、僅かにくすんだ目の下を見て、イオンも顔を曇らせる。
「……もしかして、眠っていないのですか?」
タルタロスは現在、自動操縦によって航行している。が、流石に完全に手放しというわけにもいかないので、交代で
「えっと、……うん。眠らなきゃいけないってことは分かってるんだけどさ」
「そうですか……」
「……イオン、アニスは?」
「まだ眠っています」
そう言うと、ルークはちょっと小気味良さそうに表情を緩めた。
「マジかよ。あいつ、
「いいんですよ。むしろ、僕が起きるのが早すぎるんです。こうして、人が寝静まったままの朝の風景を見るのが好きなので」
アニスには、一人で出歩かないで下さいと止められているんですが、と苦笑してイオンは続ける。
「ほら、こんなに綺麗な朝焼けも見ることができますから」
東の空を赤く染めた光が強さを増していた。目を輝かせたイオンの傍らで、「……昨日の夕焼けもさ。凄かっただろ」と、呟くルークの声が聞こえる。
「ええ。綺麗でしたね」
「辺り一面が真っ赤で……。それで思い出したんだ」
その声音に重いものを感じて、イオンはルークを見た。
朝焼けに染まった空気の中で、彼の髪が、より赤く照り映えている。目を伏せて、静かにその言葉は紡がれた。
「ここは、……俺が初めて人を殺した場所なんだ」
イオンは目を見開く。
「イオンは、あの時、六神将に捕まってたからな。
身を守るため……って言うにもお粗末でさ。ティアが譜歌で眠らせてた兵士を腹いせに蹴飛ばして……斬りかかられて。夢中でやっちまった」
「ルーク……」
「情けねーよな。こんなことで飯も食えねーなんて」
「そんな。誰かを手に掛けて恐れるのは、人として当たり前のことです。僕は、それを忘れずにいるあなたが、情けないとは思いません」
「イオン……」
だが、ルークの顔に浮かんだ苦味は消えず、更に深まった。小さく首を振る。
「違うんだ。……思い出した、って言ったろ?」
「え?」
「俺は、忘れてた。ここで初めて人を殺したんだってこと。いや、考えないようにしてたってことかな。アクゼリュスから色々あって、やらなきゃいけないことも、考えなきゃいけないことも沢山あって……そんなのも言い訳だな。とにかく、もう一度タルタロスに乗っても何も感じなかった。……昨日、ここで思い出すまでは」
ルークは、床の一点に目線を落とした。
「ショックだった。吐き気がした。自分や周りを守るために戦う、そのために誰かの命を奪うことになっても……そう決心して、責任を背負うって誓ったはずなのに、俺はもう、忘れようとしてた。……アクゼリュスのことも。絶対忘れない、生涯をかけて償い続けたいって思ってるけど、もしかしたら、いつか忘れちまうのかもしれない。考えることをやめて、見えないふりをして」
握りしめた手は白く、小刻みに震えている。
「俺は、怖いんだ。自分のしたことを忘れちまうのが。……だけど。だけど本当は、忘れないでいるのも怖い。いつも、夢で」
何か言いかけて、ルークは口をつぐんだ。
「ルーク?」
「……何でもない。とにかく、自分が情けないんだ。ビビってばっかでさ。そんな場合じゃない、崩落も、戦争も、待っちゃくれないって解ってるのに。
他のみんなだって、アクゼリュスを落としちまった俺ほどじゃないけど、戦って、命を奪う責任を背負ってる。ティアや、ガイや、ジェイドは分かんねーけど、アニスも、みんな苦しんでるんだと思う。ナタリアも、そのうち同じ思いを背負うことになっちまうのかもな。そうさせたくねえけど、あいつ、絶対逃げないから。
でも、みんなはやるべきことをちゃんとやってる。だから俺も、負けたくないんだ。負けるとか負けないとかって話じゃないんだろうけど」
朝日はゆっくりと昇っていき、赤みを帯びていた光は金色に変わりつつある。その光の中で、ルークの碧緑の瞳も柔らかな金色を帯び、風になびいていく広い
「みゅっ。ご主人様、見つけたですの〜」
甲高い声がして、金色の環を穿いた小さな生き物がチョコチョコと駆けてくる。
「ミュウ。あなたも早起きですね」
「はいですの。目が覚めたらご主人様がいなかったから、探してたんですの」
ピョンピョンとルークの足元で跳ねて訴えた。
「そっか。ごめんな、心配かけちまって」
「みゅううう、とんでもないですの」
「イオン様のことも、アニスさんが探してましたですの」
「そうですか。どうやら僕も戻った方がよさそうです」
「ああ」と頷いて、ルークはもう一度イオンに目を向けた。
「なあイオン、さっきの話、他のみんなには黙っててくれないかな。……その、カッコ悪ぃからさ」
「分かりました」と微笑んで頷いてから、イオンはもう一度口を開く。
「でもルーク。僕はやはり、あなたが情けないとは思いません。罪を受け止めようとしているあなたは強い。そして、優しい人だと思います」
ルークは目を見開いた。その頬から耳までが紅潮していく足元で、ミュウが甲高い声で騒ぐ。
「ご主人様は、強くて優しくてカッコいいですの! ミュウの命の恩人ですの!」
「〜〜っ、うるせっ、ブタザル!」
「みゅっ」
首をすくめたミュウを置き去りにして大股に歩き、数メートル先で立ち止まると、ルークはばつの悪そうな顔で振り向いた。
「話聞いてくれて、ありがとな。行こうぜ。……おら、ミュウもっ」
「はい」
微笑んで、イオンはミュウを抱き上げて歩き出した。
終わり
09/11/13 すわさき
*原作序盤の《おにぎりのレシピ》イベント。ティアは軍人だから早食いで、ルークは貴族だからスローフードだって対比だったのかなぁと、最近思うようになりました。四年も経ってて今更かい。で、ルークによく噛んで食べるよう言い聞かせたのはきっとガイだよね、とか。これは四年前から(笑)。
ルークたちがタルタロスに搭乗している期間は、全体からすると多くはありません。でも、
……という妄想を、形にしてみました。
まだセントビナー救出作戦を行う前、それどころかケテルブルクにすら行っていない時期なので、アニスのルークへの言動をキツめに描いています。
あと、マルクト軍の食事が不味いってのは、サブイベント《大料理長様》がネタ元です。つまり、アニスちゃん自身が半年くらい後に味の改善指導することになるってことで(笑)。
それと、ものすごくどうでもいいことですが。私ずっと、ダアトからグランコクマへ行くときは東に出て中央大海を回るように想定してたんですけど(自分がプレイした時そのコースだったから)、『シナリオブック』の小説に「西へ向かって進んでいる」とあったので、つまりオールドラント大海(?)側に行って北に回ってグランコクマに入るコースなのかーと今更知ったので、今回はそっちのイメージで書きました。が、読む人にはマジに「そんなこと言われても何が違うの」ですね。書く私の気分が違うだけの話でしたハハハ。(^▽^;)