アダルトがお好きですか


「モース様……」

 切なげな吐息と共に、美しい唇からその名がこぼれ落ちたのを、ルークは確かに耳に聞いた。

「ティアっ」

 声をかけると細い背が震え、蒼い瞳がこちらを向く。灰褐色の髪が肩から背を滑って、絹糸のように見えて美しかった。

「ルーク。ごめんなさい。少しぼんやりしていたわ」

 もう出発なの? と問われて、「いや。まだ時間はある筈だけど……」と曖昧にルークは笑う。休憩時間に姿の見えなくなった彼女が気になって捜し回っていただなんて、正直に言うのは何だかカッコ悪い。理由は自分でもよく分からないが。

「モースのこと、考えてたのか? ――悪ぃ。聞くつもりはなかったんだけど、聞こえちまったから。その……」

「ええ」

 言い訳じみるルークをよそに軽く肯定を返して、ティアは再び憂いに沈んだ、切なげとも言える顔をする。思い返せば、こんな風に彼女があの男の名を呟くのは初めてではなかった。知る限りでも数度は繰り返されていたではないか、と今更ながら気付く。

「……ティア。あの、さ」

 こくりと唾を飲んで、ルークはその疑念を口にのぼらせた。

「お前。もしかしてモースのこと、好きなのか?」

「え?」

「あ、いや、答えたくねーんならいーんだけどっ」

 バタバタと両手を振るルークを、小首を傾げてティアは見ていたが、すぐに、落ち着いた態度でこう答える。

「そうね。尊敬していたわ」

「!」

神託の盾オラクルの入団式で、あの方のお話を伺って胸が震えた。始祖ユリアの教えに従って、世界を恒久の繁栄に導くため命を捧げるのだと。それが騎士として目指すべき理想の姿だと、ずっと信じていたの」

(そして、同じ理想を、兄さんや教官も持っているんだって……。そう思い込んでいた)

 ほんの一年ほど前のことなのに、なんて遠くなってしまったのだろう。

 そんな風に、ティアは過去に想いを馳せかけていたのだが。

「だ……っ、だだ、駄目だろそれって!」

 大声に耳朶じだを打たれて、驚いて目をしばたたかせた。

「ルーク? ど、どうしたの」

「や。俺が言うことじゃないんだろうけど、だけどその、あいつは目下、俺たちの敵だし。マズいだろやっぱ。どーにもならないっつーか、なったら困る、じゃなくてっ。だってあいつはえーと、目は細いし腹も出てるし足も短そうだし帽子の下はハゲてるかもしんねーし。そ、そうだよ、歳だってすっげー離れてるだろ!」

「歳……?」

 不思議そうにオウム返しをしたティアは、しばし沈黙した後、不意に目をみはるとカーッと赤くなって大声を上げた。

「ち、ち、違うわ! 好きってそういう意味じゃなくて! そそそそりゃ、年上は好きだけどっ」

「やっぱり好きなのか!」

「違ぁ〜〜う! もうっ、何言ってるの!?」

 耳まで真っ赤になったまま、先程のルークに負けない勢いでバタバタと両手を振っている。

「だって年上が好きなんだろ?」

「そ、そうだけど。違う、違うのっ。それは兄さんが。――ひげっ」

「ひげ?」

「そうなの。モース様には髭がっ、ないもの!」

 ないものっ、ものっ、もの……と、絶叫が辺りに響き渡る。

 長く伸びた音の尾が消えていった頃、砂利を踏み鳴らして人影が近付いてきた。

「お、いたいた。おーい、ルーク、ティア」

 ガイが人好きのする笑顔で片手を振り、その後ろでジェイドが薄く笑っている。

「二人とも、そろそろ出発時間です。時間に遅れると、ナタリアとアニスに何をされるか分かりませんよ?」

「おいおい。何かするとしたら、アンタだろう……」

 ジト目でガイが呟いたが、「何か言いましたか? ガイ」とこの上ない笑顔で言われて、「な、なんでもない!」と顔をひきつらせている。

「それより、二人ともこんなところで何してたんだ? ひげ、とか何とか聞こえたけど」

「……ガイ」

「ん? どうしたルーク。そんな思いつめたような顔して」

「俺、髭を生やそうかな」

「は?」

 顎に手を当ててそう言った幼馴染みを、ガイはぽかんとした顔で見返した。

「髭だよ髭! やっぱカッコいーよな。男の貫録ってやつ? 俺も髭を生やしたら、大人の男になれるっつーか、一皮も二皮もムケて、もっとイケてる感じになるんじゃね? な? そうだよなガイ。そうだと言ってくれ!」

「お前まだムケて……って、ちょ、おい。分かった、分かったから落ち着けってルーク!」

 詰め寄ってきたルークを押しとどめてから、ガイはしばし思考を巡らせる顔をする。

「うーん……。髭はやめとけ、ルーク」

 何を想像したのか、なんとも困ったように笑顔をひきつらせた。

「なんでだよ! いーだろ、髭!」

「お前にはまだ早いよ。手入れだって大変だし。第一、あれは生え揃うまでかなり薄汚いぞ。ヴァンもそうだった」

「だ、だけどよぉ」

 不満げに唇を尖らせて、彼は退く気がないらしい。

「ふむ。それなら、これはいかがですか?」

 そう言うと、ジェイドが懐から取り出したものを、ぴたりとルークの鼻の下に貼りつけた。

「こ、これは?」

「付け髭です。手軽に髭のおしゃれを楽しめる、素晴らしいアイテムですよ」

 両端がくるんと丸まった、いわゆるカイゼル髭と言うものが、ルークの口元に現れていた。とは言え、頭髪の赤に対して黒毛で色が合っていなかったり、大仰な形が若い顔立ちを際立たせ、むしろ子供の仮装のように見えたりしていたが。

「これはまた、想像以上な……。って言うか、なんでこんなもの持ってるんだよ、旦那」

「軍の余興用です」

 ガイの突っ込みに澄まして返し、「大人には付き合いも色々とあるんですよ。こういうものが大変お好きな、困った上司も持っていますからね」と肩をすくめる仕草をしてみせる。

「とにかく、これであなたも立派な髭男ですよ。良かったですねぇ、ルーク」

「お、おおっ。そうか。そうだよな。――ティア!」

 思わずガッツポーズをキメてから勢いよく顔を向けた彼の目に映ったのは、弾かれたように背を向けて俯き、わなわなと身を震わせ始めた少女の姿だった。顔を両手で覆っている。

「ティア? あの……」

「だ、駄目っ。それ以上こっちにこないで。駄目なの!」

 声まで震えている。まるで笑いでもこらえているかのように。

「チックショーーーーッ!!」

 唐突に走りたい気分に駆られて、ルークは泣きながらダッシュした。青春の疾走である。

「あっ、待てルーク! せめて、その髭は外していけーっ!」

 そう呼びかけながらガイが追って行った後、伏せた顔を真っ赤にして震えていた少女の口からポロリと、抑えきれなかった言葉がこぼれ落ちていた。

「お、おひげ………っ。もうっ。――か、かわいい♥

「やれやれ。チョロ甘ですねぇ」

 ジェイドが肩をすくめ、実に愉快そうに笑った。



 余談。

 その日のルークの日記には、『モース倒す。絶対倒す』という剣呑な文言と共に、『ひげ』という謎の語句が大量に書きなぐられていたという。






おしまい

'10/03/08 すわさき


*2010年の新年特設ページに置いていた小説です。衝動的に書きました。

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