「なあガイ、世界って、こんなに綺麗だったんだな……」
お前がそう言ったのを、俺は何度か聞いたことがある。
一度は、思いがけずに屋敷から放り出された帰還の旅で、水平線に広がる夕景を見たときに。もう一度は、レムの塔で障気を消した後、晴れ渡った青空を見上げながら。
夜の闇の中で、白い花々はフラフラと長い首を揺らしていた。滝の流れ落ちる崖に左右を囲まれた空の向こうに海。海辺に、崩れ落ちたエルドラント――レプリカホドの残骸が黒々とうずたかまっているのが見える。崩壊し、沈黙した今は、それは単なる瓦礫の山に過ぎない。
渓流に落ちる水の音と、涼やかな虫の声がしんしんと響いていた。あの時と同じね、と呟く声が聞こえたので、記憶を探って首をかしげると、
「私とルークが初めて出会って、超振動を起こして……二人でここに吹き飛ばされたの」
と彼女は言って微笑んだ。
そうか。それなら、俺の記憶にあるはずはない。今まで、俺が夜にここに来たことはなかった。
「ねえティア、歌ってよ」
丈の長い草に胸下まで埋もれた格好になりながら、アニスが言う。
「え? それは構わないけど……」
どんな歌がいいかしら、と訊ねるティアに、「ユリアの大譜歌」とアニスは求めた。
「だって、結局あの時にしか聴けなかったもんね。あの時はゆっくり聴いてる暇なんてなかったし。……駄目?」
「……いいわ」
ティアは、草の海に突き出た岩の一つに腰掛けたまま、両目をゆっくりと閉じる。すう、と息を吸い、歌い始めた。
トゥエ レィ ズェ クロア リュオ トゥエ ズェ……
クロア リュオ ズェ トゥエ リュオ レィ ネゥ… リュオ ズェ
相変わらず綺麗な歌声だ。聴いている方も透き通っていくような心地になれる。
母の愛に満ちた大地。響き渡る壮麗な天使の歌声。星の未来を司るというローレライよ、この愛に震えてほしい。この星の子らを守っておくれ。
そんなユリアの願いが込められているのだと、かつて教えられたことがある。――ヴァンデスデルカ。あの頃はまだ俺の従者であり、友であり、よき兄貴分だった。
ヴァ レィ ズェ トゥエ ネゥ トゥエ リュオ トゥエ クロア
リュオ レィ クロア リュオ ズェ レィ ヴァ ズェー…レィ
手をさし伸ばし、歌うティアの姿は
ああ。二千年前にユリアがローレライを召喚するのに用いたという大譜歌よ。あいつを呼び戻してくれ。あいつはローレライの同位体なんだろう? だったら、あいつを呼んでくれよ。
ヴァ ネゥ ヴァ レィ… ヴァ ネゥ ヴァ ズェ レィ…
クロア リュオ クロア ネゥ トゥエー レィ クロア… リュオ ズェ レィ ヴァ
レィ ヴァ ネゥ… クロア トゥエ、 レィ レーィ……
「よろしかったの? 公爵家で行われるルークの成人の儀に、あなたも呼ばれていたのでしょう」
静かに息を吐き終わった、神の像のようなティアの背に、ナタリアが言った。現実に引き戻される、無粋な問いだ。
「ルークのお墓の前で行われる儀式に……興味はないわ」
振り向かないままティアは答える。アニスが彼女からナタリアに視線を巡らせて言った。
「二人とも……そう思ったからここに来たんでしょ?」
ナタリアは正装をしている。俺も最初はそうだった。だが結局俺たちは式典を蹴り、こうしてここにいる。ティアがどうしても行きたいと言った、このタタル渓谷に。
「あいつは戻ってくるって言ったんだ。墓前に語りかけるなんて……お断りってことさ!」
俺は吐き捨てた。
かつて、あいつはこの日を心待ちにしていたものだった。成人の儀を迎え、軟禁を解かれて自由になる日のことを。……それは、たった三年前のことだ。だが、それから一年で全ては変わってしまった。世間の穢れというものを殆ど知らずにいたあいつは外に投げ出されて血にまみれ、重すぎる罪と責任を背負い。
必ず帰るよという約束を残して、あいつが崩壊するレプリカの大地に消えていってから、もう二年が経つ。……二年、経ってしまった。
公爵夫妻があいつとそのオリジナルの墓を建て、その前で成人の儀を行うというのは、一つのけじめなのだろう。客観的には、二年は、諦めるには充分な時間だ。二年も待ってしまったことは、逆に、周囲の眉を顰めさせるだけの行為だったのかもしれない。
……分かってはいる。頭では分かっているんだ。でも、まだ俺たちは……俺は、奇跡を待っている。あいつが戻ってくるのを。約束を果たしてくれるのを。
「……そろそろ帰りましょう。夜の渓谷は危険です」
一人、みんなからやや下がった位置で見つめていたジェイドが言った。
二年の間、どんなに願っても夢が叶えられることはなかった。奇跡は滅多に起こらないから奇跡なのであり、その恩恵にあずかれる者はごく少ない。祈る前に、俺たちは歩かなくてはならない。まずは、ファブレ邸に戻って公爵夫妻に謝罪しなければならないだろう。マルクト帝国所有の量産型アルビオールまで借りておきながら、名代としての役もあった式典を勝手に抜け出してしまったのだから、ピオニー陛下への言い訳も必要か。
そんなことを考えながら草原から立ち去りかけた俺は、岩から降りたティアが、そこからちっとも動こうとしないことに気がついた。彼女もまた、現実へ立ち返ることを拒んでいるのだろうか……そう思い、視線を向けて、愕然とした。
彼女の見ている先。月の光に照らされた白い花の波の中を、ゆっくりとこちらへ向かって歩いてくる人影がある。月明かりで幾分くすんで見えたが、腰まで伸びた髪は鮮やかな緋色をしている。
……幻、なのだろうか。
彼は、ティアから三メートルほど離れた位置まで来ると歩みを止めた。伸びた前髪が顔に散らばっていて、表情はよく見えない。
「どうして……ここに」
ティアが言った。先程までの美しい歌声が嘘のような、かすれた、絞り出された声だった。
幻なら、答えはしないだろう。そう思ったのに、彼は身じろぎし、確かにこう声を返した。
「ここからなら、ホドを見渡せる」
あいつの声だ。幾分低く、こもったように聞こえるけれども。懐かしい、耳に馴染んだ声。
「それに……約束してたからな」
「…………っ」
ティアが喉を引きつらせている。泣くのだろうか、叫びだすのだろうか。駆け寄って抱きしめるのかと思ったが、彼女は縫いとめられたようにそこにいた。……静かに泣いていたのかもしれないが、俺には分からない。俺の目もまた、彼女と同じように、そこに佇む影に吸い寄せられていたからだ。
一歩、二歩と近付く。ナタリアも、アニスも同じように引き寄せられていく。その時、風が渡った。ざあっと白い花々が顔を揺らし、奴の羽織っていたマントがひらめく。腰にはあいつと共に消えたはずの剣――ローレライの鍵があった。あいつ独特の、腰の後ろに真横に鞘を渡した剣の差し方。風はまた、奴の長い前髪をも払っていた。碧の瞳が見える。硬い――やや眉間にしわを寄せた、暗いと言うべき表情が露になる。
俺の足が止まった。
傍らで、ティアがすすり泣いている。ナタリアの戸惑う声が聞こえた。
「ルーク……? いえ……、まさか、アッシュ……ですの?」
「――俺は『ルーク』だ、ナタリア」
静かに奴は答えている。
「……アッシュと呼ばれていた方のな」
奇跡は起こった。ローレライのもとから、『ルーク』は帰ってきた。
「エルドラントで別れる時、あいつと……ルークと約束した。絶対死なない、必ず生き残ると。だから戻った」
だが、戻ってきたのは俺の待っていたルークではない。果たされた約束も、俺たちが交わしたものではない。
今、ルークは本当に死んだのだ。――いや、ルークが戻るという夢が死んだ。
生還した『奴』を抱きしめるナタリアを視界に入れながら、俺はそんなことを考えていた。
「……
「ええ、恐らくは。完全同位体のみに起こりうる現象で、私も無機物レプリカで観測した一回と、ディストの研究していたワイヨン鏡窟のチーグル、そしてルークとアッシュの例しか知りません」
問い返すと、ジェイドは頷いてこう答えた。こいつが冷静なのはいつものことだが、それが今は何だか憎らしい。
「恐らくは、って、あんたにしては不確かなんだな」
「そもそも、完全同位体が存在する確率自体がひどく小さいのです。フォミクリーで姿が同じものは作れても、
「ごたくはどうでもいい。……とにかく、完全同位体である以上、いずれ必ずその
生還したアッシュを連れて戻れば、当然ながらファブレ邸は大騒ぎになった。奥方は殆どヒステリーのようになって息子にしがみついてキスの雨を降らせ、あの公爵ですら、掛けた言葉は「よく帰ったな」の一言だったものの、息子を固く抱きしめた。執事のラムダスは喜びの震えを堪えながらも抑えきれない笑みを漏らし、白光騎士団は歓呼し、泣き出すメイドもいた。この二年、空虚な悲しみを抱え込んでいた屋敷は、ついに光を取り戻したのだ。報せはただちにバチカル城にも走り、インゴベルト陛下は涙ぐんで、「そなたにも子爵の位を。成人の儀の式典をやり直し、キムラスカの英雄の帰還を世に知らしめよう」と言ったものだ。
今、屋敷は一人息子の二度目の成人の儀の準備に忙殺され、慌しい。生還したばかりであれだこれだと予定を押し付けられたアッシュは少しばかり気の毒だが、この先を思えば、ファブレ公爵子息の生存の披露は各界に速やかに行われるべきものだ。しばらくは我慢するほかないだろう。
この「とっちらかった」状況の中で、無遠慮に屋敷に居座っている客人は放置されがちになっている。だが、かえってそれがありがたい。喜びに溢れる連中に混じって笑顔を見せることは、今の俺には苦痛だった。――かつてこの屋敷に仕えていた十四年ほどの間、繕った笑みを浮かべるのは大の得意だったのに。いつの間にか弱くなってしまったのか、ワガママになったのか。
「……音素振動数が同一の存在が並ぶというのは、異常なことなのです。自然ではありえない。そのため、完全同位体が並ぶと、オリジナルはレプリカから情報を回収しようとします。そして、
「混じり合う……コンタミネーション現象か」
「ええ。音素乖離を始めたオリジナルは、緩やかに体力や譜力が低下していきます。……どうやらアッシュは、この時点で自分が間もなく死ぬと勘違いをしていたようですね」
そういえば……外殻を降下させた後のアッシュは、妙に生き急いでいるようなところがあったな、と俺は思い出す。互いに死にたくなんてなかったくせに、自分の命を犠牲に障気を消そうと、ルークと二人、ローレライの剣の取り合いまでしていた。あれは、自分が間もなく死ぬと思っていたからだったのか。
……は。えらく滑稽だ。
「やがて完全に音素乖離したオリジナルは消滅します――が、それはレプリカと一体化したということでもあります。この辺りははっきりしませんが、チーグルの例を見る限り、レプリカとオリジナルの音素・元素が混ざり合い、結果、レプリカは肉体を……いえ、存在を失うことになるようです」
「それは……どういうことなんだ」
「つまり、今の『ルーク』は……レプリカのルークを下地にオリジナルルークを書き直した状態、ということになるでしょうか。レプリカのルークが持っていた癖や傷などの情報も、あるいは再現されているかもしれない。しかし、人格はあくまでオリジナルのルークのものということです」
ドクン、と俺の心臓が脈打った。そうだ。確かに……。剣を腰の後ろに真一文字に装備するのはルーク独特のやり方で。アッシュの方は、当たり前に左腰に剣を帯びていた。なのに、帰ってきたあのアッシュは、ルークのやり方で剣を装備していたのだ。……そういえばアッシュは右利きで、ルークは左利きだったが、あのアッシュはどうだっただろう? いや。元はと言えばアッシュも左利きで、子供の時分に矯正したんだったから、それは問題にならないのだろうか。
俺は考えを巡らせたが、じきに馬鹿馬鹿しくなった。確認したところで意味はない。所詮、中身が違うというのなら。……いや、本当にそうなのか?
「ジェイド。あんたの言う
確かにその可能性もありますが……と言って、ジェイドは眼鏡を軽く押し上げた。
「エルドラントで一度アッシュが死んだとき、私はルークに尋ねました。『あなたに何かが入ってくる感じはしませんでしたか?』と。ルークは『全身に暖かなものが降って来た気がした』と答えていました」
ああ……そういえばそんなことがあったな、と俺は思い出した。シンクと戦う直前だったか。確かその後、ジェイドは続けて「では、何かが出ていく感じは?」と訊ねて。
「ジェイド。あれは……
ルークは、「何かが出て行く感じは別にしなかった」と答えていた。
「あの時の彼は、まだ『ルーク』でした。第二超振動が使えるようになったのですから、アッシュの一部が既に侵食を始めていたのは確かなようですが」
「知っていたなら! あの時から大爆発のことを知っていたなら、どうして何も言わなかったんだ!」
「言っても意味がない、と思ったからです。大爆発は未だ未知の現象で、それを止める手立てはありません。それに……私が気付いた段階で、もう手遅れだったでしょうから」
俺は歯噛みした。この男がそう言うのなら、そうなのだろう。ルークにこのことを伝えたところで、ただ
「ルークが……何も出て行く感じはしなかったと言ったら、あんたが気落ちしている風だったのは何だったんだ」
「
残る人格はアッシュではなく、ルークになるのではないかと。
「ですが……。ディストの研究報告どおりでしたね。
正直、個人的に残念に感じる部分もありましたがね、と言ってジェイドは口を閉じた。
「それは、結局……ルークは、アッシュに食われた、ってことなのか……」
アッシュの存在を食った。居場所を奪った。ルークはそう悩んでずっと苦しんでいたというのに。
命も、心も、肉体も。何もかも奪われたのは、お前の方だった。ルーク。
「……ガイ。ルークの記憶は……」
俯いて肩を震わせる俺にジェイドは何かを言いかけた。が、「なんだよ」と問い返すと「……いえ。何でもありません」と口を閉ざした。この男がこういう言い方をするときは、大抵ロクでもないことなのだ。問い詰めるべきか。……いや、問い詰めたところで言わないだろう。
「いずれにせよ、完全同位体である以上、大爆発は避けられないものでした。むしろ、七年間無事だったということの方が奇跡的です。ファブレ邸とダアト、遠く離れた場所に隔離されていたからなのでしょうね。……しかし、二人は出会ってしまった」
「……っ! じゃあ、あいつは! ルークは、最初からアッシュに吸収されるだけの、それだけの生しかない存在だったのか! 七年が奇跡的だと!? ふざけるなっ、たった七年だ! あいつは七年しか生きていなかった。あいつは……」
あいつは、あんなに『自分として』生きたがっていたのに……。
「……すまん」
瞬間的に発した怒りは見る間にすぼまり、俺は、ジェイドに掴みかかっていた手を離す。
「いえ……。これも、私の愚かさが招いた結果なのですから……」
怒るでなく。むしろやや目を伏せて、フォミクリーという技術を発案し、数十体の生物レプリカを作製したという男は呟いた。
「そうですね。個という存在は、肉体や命、……記憶だけでは成り立たない。レプリカには記憶がない。ある程度 知識や思い出を刷り込むことは出来ても、オリジナルと同じ人間にはならない。……『心』が必要なのです。それは……どんなに研究しても、作り出すことは叶わないものでした」
「……それは、あんたが甦らせようとしたネビリムという人のことかい?」
かつて戦ったことのある、ジェイドの恩師のレプリカだという女のことを思い出して、俺は言ったのだが。
「………私は、本当に愚かです。一度思い知ったはずなのに、また同じ
ジェイドは何を言いたいのか。頷くでも否定するでもなく、こんなことを言った。
ルークの墓は、バチカルの上層の一角にある。
実を言えば、今まで一度もここに出向いたことはなかった。認めたくなかったからだ。あいつがもう戻ってこないということを。
だが……今は、そんな意地を張るのも無意味なように感じる。
墓石は二つ並んでいた。どちらの銘も『ルーク・フォン・ファブレ』。俺たちはオリジナルの方をアッシュと呼び習わしていたが、両親にとってはどちらも『ルーク』だったというわけだ。
縁起が悪いというので、一つは近々撤去される話になっている。アッシュの奴はそのままでもいいとか言ったようだが、周囲に押し切られたらしい。
墓が建っているのは、ファブレ家代々の墓地の中でも開けた場所で、緑の芝生が綺麗に刈り込まれている。昼に来ればなかなか気持ちのいい所なのだろうが、今は夜だ。それも真夜中に近い。だから誰もいなかったし(そのためにこの時間を選んだ)、真っ暗だ。それでも、墓石の側には夜に咲くセレニアの花が一群れ、青白く揺れていた。そういえば、ペールがティアから譲り受けた花をここに植えたと話していたっけな。
「ルーク……」
俺は墓石の前に立った。ルークの墓前に語りかけるなんて真似、絶対したくないと思っていたんだがな。
けど。お前が悪いんだぞ、ルーク。
どうして戻ってこなかったんだ。お前まさか、例によって俺はレプリカだから、罪人だからと気弱に笑って、アッシュに道を譲ったんじゃないだろうな。
もしもそうだったら……俺は、お前を許さない。
「許さないぞ、ルーク!」
俺は墓石のヘリを叩いた。複雑な彫刻の施されたそれの鋭い角が、俺の手を傷つける。何度も、何度も叩き付けた。グローブの下の皮が破れ、血が滲み出しても。
「くそっ……。何でだ。何でなんだ!」
俺はひどく自分勝手で残忍だ。生還したアッシュを見た時からずっと胸にわだかまっていた思いが、今、溢れ出しそうになっている。
「なんで……帰ってきたのがお前じゃなく、あいつなんだよ!」
ああ。言ってはならない暴言だ。けれど、今の俺の偽らざる本音でもある。
分かっているさ。アッシュは何も悪くない。むしろ、一度死んだあいつが甦った奇跡を大いに喜ぶべきなのだ。この先アッシュは公爵の位を継ぎ、かねての予定通りナタリアと結婚して、恐らくはキムラスカの王となるだろう。あの二人なら民のため国のため政治に献身するのは間違いがない。全てが期待されていた通りに運び、まさに「聖なる焔の光はキムラスカ・ランバルディアを新たな繁栄に導く」。彼らはマルクト帝国ともよい関係を築き上げるだろう。それは、マルクトとキムラスカ、双方の血を引く俺にとっては願ってもないことのはずだ。
なのに……今の俺には全てが他人事だ。長くアッシュを失っていた間のナタリアの悲しみも、孤独の中で一度死を迎えたアッシュの苦しみも。そんなものはどうでもいい。勝手にすればいい。
他の誰が苦しんでいても、嘆いていても。……俺は、お前にこそ帰ってきてほしかったんだよ、ルーク!
「――やめて!」
何度目なのか、もう分からないくらい拳を打ちつけたとき、不意に柔らかな手に拳を抑えられた。
「ティア……」
「もうやめて、ガイ。手がボロボロになっているわ」
悲しそうに言って、彼女は俺の手を両手で包み込んで癒しの譜術を使った。
優しい手の感触に、刹那、姉上の死に顔を思い出して、反射的に離れてから俺は問うた。
「ティア、キミ、どうしてここに? 今は女の子が出歩く時間じゃないぜ」
「あなたと同じよ、多分」
「ああ……」
彼女も、今まで決してルークの墓へ行こうとはしなかった。誰にも見咎められずにルークの墓に来たかった、ってことか。
ティアはルークの墓前に立つ。そっと、刻まれた銘を指でたどった。
「約束……とうとう守ってくれなかったわね」
呟く。
「ううん。無理な約束をさせて、あなたを縛っていたのは私の方。でも……縛ることで、強引にでも引き戻したいって、そう思っていたの。……馬鹿よね」
僅かに目を伏せ、笑みを漏らす。愚かな自分を哂う笑み。あるいは、失ったものを懐かしむ笑みだ。彼女の瞳から透明な涙が一筋、二筋と白い頬を流れ落ちるのを、俺は神聖なものを眺める思いで見つめていた。
「ルークは……ひたむきな人だったわね」
涙をぬぐってティアが言う。ああ、と頷くと、くすりと笑った。
「最初は、こんなにワガママで世間知らずな人間がいるなんて信じられないって思っていたんだけど」
「はは、筋金入りの箱入りお坊ちゃまだったからなぁ」
「でも……彼は変わった。本当に変わりたいなら変われるかもしれないとは言ったけれど、私は正直、半信半疑だったわ。依存心が強くて責任逃ればかりしていた彼が、本当に変われるものかと」
「だが……あいつは本当に変わったな」
「ええ」
ティアは目を伏せる。
「誰よりもひたむきで、懸命で。苦しみながらも立ち止まることはなかったわ。最後まで……。彼の姿に、私もまた教えられた。人は自らの意思で未来を……可能性を選び取ることが出来るのだということを……」
ああ。俺も教えられたよ。存在しない過去の記憶を取り戻すことばかり要求されていた頃、「昔のことばっか見てても前へ進めない」と、過去とは違うルークとして生き始めた姿に。何もかもを失って、それでも「変わりたい」とユリアシティを出て歩いてきた姿に。消滅を目前にして……脅えを押し殺して立ち止まらず、生きてるっていいな、と笑っていた、その笑顔に。
あいつは、どんな痛手からも立ち直ることを諦めようとはしなかった。それが俺には眩しかったし――そんなあいつが弟分で、主人で、親友だということが、とても、誇らしかった。嬉しかったんだ。
「ルークは決して立ち止まらなかった……だから、私もそろそろ歩き出さないと、ね」
「ティア?」
思いに沈んでいた頭を俺は上げた。ティアは少し陰はあるものの、微笑みを浮かべてルークの墓碑を見つめている。
「私は私の道を歩くの。ルークの分も生きる……なんて言わない。彼は彼、私は私だから。でも、彼のしてきたことを無駄にはしたくないもの」
「……キミは、強いね」
ふ、と笑みが漏れていた。強い。なんてしなやかで、強靭なんだろう。ヴァンにルーク、リグレットと。あの戦いで立て続けに愛する人を亡くしていたというのに。誰の支えも得ず、歩いていくというのか。
「ふふ、ルークにも言われたわ。『お前強すぎ』って。そうなのかしら」
「ルークに賛成、だな。俺にはキミも眩いよ。ティア」
「ガイ……」
「俺は……駄目だ。まだ、ここから動けそうにない……」
「………」
ティアはしばらく無言でいたが、やがて一歩俺に近付くと(俺の体質を慮ってか、それでも少し離れていたが)、一冊の小さなノートを差し出した。
「これは……?」
「ルークの日記よ」
「!?」
息を呑み、俺は手の中のそれを見た。
ルークが毎日のように、それどころか何か気がついたことがある度に日記に書き込みをしていたのは知っていた。まだ彼が記憶障害を起こしているのだと信じられていた頃、医者がつけるようにと言ったのだ。また、いつ記憶を失っても困らないように、毎日思ったこと感じたことを書き留めておきなさい、と。「めんどくせー」が口癖になっていたルークが、それでも欠かさずにつけていたのだから、あいつなりに自分の記憶について思うところがあったのかもしれない。もっとも、過去の記憶など存在しなかったと分かってからも続いていたから、単に習慣化してしまっていたのかもしれないが。
「どうしてこれが……。残ってたあいつの荷物にはなかったし、あいつと一緒に消えちまったかと思ってた」
「ルークがね、ミュウに渡していたっていうの」
「ミュウに……?」
「ええ。ミュウなら日記の続きを楽しいことで埋めてくれるだろうからって、ルークが言ったんですって。……私、去年、ミュウをチーグルの森へ送って行ったでしょう。その時にミュウが渡してくれたのよ」
『ミュウは、これからも日記を書いていくですの。ご主人様の代わりに、楽しいことをいっぱいいーっぱい書くですの。でも、ご主人様の日記は、ティアさんに持っていてほしいですの。その方がご主人様もきっと喜ぶですの!』
ミュウはそう言って、ルークの日記をティアに渡したのだという。
「……旅をしていたときにね、ルークが言っていたのよ。『いつか大人になった時、この日記を読み返して、俺って変わったんだなぁと思えるようになりたい』って」
「………」
「その日記には、ルークの思いが詰まってる。彼の生きた証とも言えるものよ。ガイ、それはあなたが持っていて」
「え? いや、でもティア。これはキミにとっても大切なものだろう。それに、ミュウはキミに渡したんじゃないか」
「いいの。……私は今日、その日記をルークの墓前に返そうと思って来たのよ。今、その日記を一番必要としているのはあなただと思うわ」
ミュウも怒ったりしないと思うわよ、とティアは微笑んだ。
俺はノートのページをめくった。月の淡い光の中に浮かぶ、そんなに上手ではない、けれど案外細々としたあいつの手跡。懐かしい。ペンの持ち方も知らなかったあいつに、一つ一つ、俺がフォニック文字を教えてやったんだったな。
ルークが書いた最終のページの日付は、エルドラントに突入したその日になっていて、最後の最後まで几帳面に日記をつけていたんだな、と思うと少しおかしかった。それから後のページは、ルークよりもう少し個性的な、たどたどしい文字が並んでいる。きっとミュウが書き足したものだろう。魔物が人間の文字を書けるというのは驚きだが、ルークは「ミュウの奴、時々俺の日記に勝手にラクガキしやがるんだ!」とプンプンしていたっけ。
ミュウの筆跡は、「ごしゅじんさまは、きょうはまだかえってこなかったですの。でも、きっとかえってくるですの。ミュウは、たのしいことをいっぱいいっぱいかくですの。はやくごしゅじんさまにみせたいですの」と読めた。二年前の日付だ。
まるで俺はこの日記のようだな、と思った。過去に封じ込められている。ティアも、ミュウも、ルークのことを忘れたわけじゃない。けれどそれぞれに折り合いをつけて、歩き出してるっていうのに。
「ガイ……?」
日記を開いたまま俯いた俺の背に向かって、ティアが心配そうに声をかけてくる。
ごめんな。キミだって辛いはずなのに。
「……もうとっくに日付は変わってる。ティア、キミはもう帰った方がいい。……俺は、もう少しここにいるから」
心配しなくとも、もう墓石を殴ったりしないよ。送っていってやれなくて悪いな、とぎこちなく笑うと、「大丈夫。街中に強い魔物は出ないわ」と、少しずれた返答が返ってきた。
俺はルークの墓石にもたれていた。
ルークの日記を読めば読むほど、あいつがどんなに孤独に震えていたか、どんなに懸命に生きようとしていたかが伝わってくる。
「ルーク……」
涙が溢れた。女々しいとは思う。ルークに対しては、「ウジウジするな」とあれほど偉そうに注意してたっていうのにな。全く情けない。
こぼれる涙をぬぐい、嗚咽を抑えようと背を丸めた時、微かに、砂利を踏みしめる音がした。ティアが戻ってきたのだろうか、と墓石越しに視線を送る。
闇の中でくすんだ、緋色の髪が見えた。
「ル……!? ………アッシュ」
「――ガイ、か」
俺は度肝を抜かれたが、奴はもっと驚いたようだった。そうだろう。夜半をとうに過ぎ、時刻はむしろ明け方に近い。こんな時間に墓地に来る奴なんか、そうそうはいない。
「どうした? こんな所に来て。夜遊びはやめて帰って寝ていたらどうだ。お坊ちゃまは、明日の予定もビッシリ詰まってるんだろう?」
抑えようとしても皮肉めいた響きが混じる。もはや染み付いていてどうしようもない。アッシュはムッと眉根を寄せたが、怒鳴るでもなく「お前はどうなんだ。休んだ方がいいんじゃないのか」と言ったので、俺はおや、と意外な気持ちにうたれた。なんだか丸くなったもんだ。よくよく見れば、雰囲気も少し柔らかい。以前はガチガチに肩を怒らせているようだったが、今はそれほどの緊張を感じない。
名前を変え立場を偽り己の命を削るという生活から抜け出せて、本来の、家族との穏やかな生活に戻れたことがもたらした変化なのだろうか。
……その暖かな居場所は、確かに元々お前のものだ。だが、ルークのものでもあった。ルークからお前が奪ったものだ。それを、お前は認識しているのか?
「……墓を見に来た。俺の墓石は明日には撤去されてしまうと聞いたんでな」
こちらに歩み寄る足を再び動かして、アッシュが言った。
「明るいうちにゆっくり見に来る暇もない、か。お忙しいな。キムラスカの英雄の披露を盛大にやらないと、って屋敷の連中が張り切っていたぜ」
墓石にもたれて奴に背を向けたまま、俺は言葉を紡いでいる。暗くてよかった。俺がどんな顔をしているのか、はっきりとは見えないだろうから。
「……だがな、忘れるなよ。確かにお前がいなけりゃ、外殻降下も障気の消去も出来なかった。それどころか、アクゼリュスで巻き込まれて、訳の分からないうちに皆死んでたかもしれない。しかし、お前が特別なんじゃない。ルーク、ティア、イオン、ジェイド、アニス、ナタリア……あの旅は誰が欠けても成り立たなかった。全員がいなければ何も成し遂げられなかっただろう。それに、エルドラントでヴァンを倒しローレライを解放したのは、お前じゃない。ルークだ」
何を俺は言っているのだろう、と思う。まるで駄々をこねる子供のようだ。こうなるのが厭で、コイツとはなるべく顔を合わさないようにしていたってのに。
「……確かにそうだな」
アッシュの声が聞こえる。
「それで? お前はルークの墓前にメソメソと愚痴をぶちまけにでも来ていたのか」
「なんだと?」
俺は振り向いて立ち上がる。その拍子に、膝に乗せていたノートが滑り落ちてバサリと音を立てた。
「ん? それは……」
「触るな! お前には関係ない。ルークの日記だ」
拒絶の言葉を吐いてノートを拾い上げた俺の耳に、「あれは、ミュウに渡したはずだが」というアッシュの呟きが飛び込んできた。
「――……!? 待て。どうしてそれをお前が知ってるんだ?」
しまった、という風に、奴が身をこわばらせるのが分かった。
「お前は……アッシュ、だよな?」
「……俺は『ルーク』だ。アッシュと名乗っていた方の、な」
「……」
「だが…………今の俺の頭の中には、もう一人のルークの記憶もある。どういう理由なのかは、俺には分からんが」
「な……!?」
俺は目を剥いた。まじまじと、目の前の不機嫌そうな顔の男を眺める。
「誤解するな。俺はあくまで……アッシュだ。あいつの記憶はところどころぼやけていて、夢の記憶のようにしか感じられない。……部分的にはひどく鮮明なものもあって、俺自身の記憶と混じって混乱することもあるがな」
アッシュの中に……ルークの記憶がある?
俺は、昼に
『……ガイ。ルークの記憶は……』
そうか。ジェイド、お前が言おうとしていたのはこのことだったのか。
ジェイドの言う理論は間違っていなかったのだろう。ルークはアッシュに吸収され――しかし、完全に消えたわけではない。記憶だけは残った。……記憶しか、残らなかった。
「……それが何だって言うんだ。ルークの思い出なら、俺たちだって持っている。記憶だけじゃ意味がないんだ。あいつが……あいつの心がなければ、何の意味もない!」
あの常人離れした天才のジェイドも、失われた『心』を再生することだけは叶わなかった。
「どうしてなんだ! お前はあの時もう、死んでいたんだろう? なのに、どうしてお前が生きてルークが死ぬ。確かに、ルークはお前の身代わりにアクゼリュスで死なせるためにヴァンが作ったレプリカだ。だが、これじゃ、まるで、ルークは……」
ルークはアクゼリュスでは死ななかった。障気の封印や消去はアッシュ一人では成し遂げられなかっただろう。そしてアッシュが倒れた後、ルークはローレライの解放を成し遂げ、……死んでいたアッシュを甦らせて帰還させた……。
これでは、まるで。
ルークは、オリジナルのルーク・フォン・ファブレを死の運命から回避させる、ただそのためだけに存在していたみたいじゃないか。
確かにあいつも、一時は求めていたさ。自分の生きる意味を、持たされた価値を。誰かのために、何かのために生まれた命であることを。
そうして生きることも間違っちゃいない。そんな生き方も確かにある。
だが……ルークは、違うだろう?
最後には、あいつは言ったのだ。誰のためでもない。何のためでなくていい。俺は生きている。生きていたい。そう思うだけでよかったのだと。
「あいつは自分自身で生きていたかったんだ。お前を補助するパーツとして生まれたんじゃない!」
俺は何を言ってるんだろうな。そう、頭の片隅で冷静な自分が嗤った。こいつに言っても仕方のないことなのに。まだ、俺の中にはファブレ公爵家への暗い思いがたぎっていて、仇の息子であるこいつへ向けて噴き出しているのだろうか。
復讐心の歯止めはルークだった。だが、ルークはもういない……。
ふ、と苦笑した。
馬鹿だな。復讐なんて、今更出来るはずがないのに。
そんなことをすれば、まさに、ルークの生きた意味を無にすることになるじゃないか。
長い沈黙が落ちた。
もうアッシュは立ち去ったのかもしれない。俯いたままそう考えていた時、ぽつりと奴の声が聞こえた。
「………ごめん、な」
その口調が、声色が、あまりにルークを思わせたものだから、俺は驚いて奴を見た。視界に映ったのは、眉根を寄せた不機嫌そうな仏頂面だ。……ルークとはまるで違う、いつものアッシュの表情。
そうか。そういえば、誘拐される前、屋敷にいた子供の頃は、こいつでもこんな風な素の口調を漏らすことがあったかもしれない。それとも、たまに混乱させるというルークの記憶が言わせたものなのだろうか。
これは馬鹿馬鹿しい思索だ。いずれにせよ、こいつはアッシュであってルークではない。たとえ、その体の特徴にルークのそれが取り込まれ、ルークの記憶を保持しているのだとしても。心はアッシュなのだから。
ああ、なのに、どうして俺はこうも揺さぶられるのか。奴の中に垣間見えるあいつの面影を、俺は必死で探っている。バラバラに分解したルークのかけらが、何か一つでも多く残っていやしないかと。
これはもたらされた希望なのだろうか。それとも、永遠の責め苦なのだろうか。
いつの間にか、辺りは明るくなっていた。昇る日から差し込む光が、俺たちや二つ並んだ墓石の影を大地に淡く落としていく。朝日を囲む雲は鮮やかな朱と金に染まっていた。かつてのルークの髪のように。見事な朝焼けだ。
ガイ、と奴が俺を呼んだ。
「ガイ、俺は決して忘れることはない。この世界にもう一人、『ルーク・フォン・ファブレ』という男が存在していたことを」
生涯忘れることはない、と繰り返し奴は言う。そして朝焼けの空を見上げて目をすがめ、ふと呟いた。
「綺麗だな」
そう言う奴の横顔が、あの日、区切りのない空を染め上げる夕焼けを惹かれるように見上げていたルークの顔を思い出させて、俺はなんだか泣きたいような気分になる。
『なあガイ、世界って、こんなに綺麗だったんだな……』
ああ、そうだなルーク。
幻のルークの声に頷いて、俺も朝焼けを見上げた。
時は移ろっていこうとも、世界は変わらずに美しい。
終わり
06/01/31 すわさき
*ゲームをクリアしたとき、私は最後に帰って来たのはルークだと固く信じて疑っていませんでした。アッシュと融合したのだとしても、アッシュは既に死んでいましたし、人格は完全にルークだと。だから帰って来た彼は仲間たちに「約束してたからな」と言い、ティアは嬉し涙を流し、「アッシュとルークどちらか?」とでも言いたげに不審な顔をしていた大佐も最後には微笑んだのだ、と。
ところが『電撃PlayStation』という雑誌の記事で、実はシナリオライターさん的には「アッシュが帰って来た」という結末のつもりだったらしいと知り、大いに衝撃を受けました。確かにゲーム中に現われる
ルークは、死んだのか。あの、最後に目を閉じて
これを知ってから改めてエンディングを見直しますと、なるほど、ティアは泣くばかりで「彼」には近付かない。待ち望んだ相手ではなかったと知った悲しみの涙にも見える。ジェイドの顔も、微笑ではなく落胆、か。そして、最後にチラリと見える「彼」の顔つきは……アッシュ、のように見える。
ルークに帰ってきてほしいと願うあまり、今までは自分の目が歪んでいたのだと悟りました。
無論、「帰ってきたのはルーク、アッシュ、融合体、二人生存、幻……。どれでもプレイヤーが感じたとおりが正解で構わない」というのが、実際に公式に出された見解なのですから、アッシュがルークを吸収して帰ったという結末が「正しい」わけではありません。しかし、シナリオライターがそう意図していたということは、やはり重いと感じてしまいました。
二次創作の世界は自由ですから、これから私も、ルークが死なないような様々な未来の話を書いてみたいなと思っているのですが、その前に、まずこの話を書いておきたいと思いました。
この話は、私の、レプリカルークへの追悼の言葉です。