ベルケンドを飛び立ったのは真夜中過ぎだったが、レムの村に入れたのは翌日の夕方近かった。村に入ると、明らかに様子が違う。人々の――レプリカたちの視線がまるで刺すようだ。

 修道院の前に至ると、背の高い人影が待っていた。白い法衣が、傾きかけた日差しを受けて仄かなサフラン色を帯びている。

「フローリアン……」

 アニスがその名を呼ぶと、青年は微かに表情を歪める。アニスが更に言葉を継ぐ前に、アッシュが一歩前に出て睨みすえた。

「ここに、ナタリアがいるな」

「……はい」

 うろたえることも誤魔化すこともなく、青年はただ頷く。

「申し訳ないことをしたと思っています。ですが、キムラスカを牽制するには必要だと、彼が……」

「彼……? それは一体、誰なの?」

 ティアの問いにフローリアンが答えるより早く、アッシュが苛ついた声で怒鳴りつけた。

「それより、さっさとナタリアを返しやがれ!」

 びくり、とフローリアンの体が震える。「ちょっとアッシュ、怒鳴ることないでしょ」と言いかけたアニスは、「いたっ」と悲鳴をあげて言葉を飲み込んだ。パラパラと、彼女たちにめがけて小石が投げつけられてきたからだ。

「イ……イオン様を苛めるな!」「イオン様は私たちの大切なお方よっ」「帰れ、オリジナルめ!」

 異句同音に罵りながら、レプリカたちが辺りの石を拾っては投げているのだった。

「やめて下さい、みなさん。ボクは大丈夫ですから」

 「でも、イオン様……」と不安げな目を向けるレプリカたちを、フローリアンは懸命に宥めている。そんな彼の背に、額に滲んだ血をぬぐってアニスが言った。

「違う。イオン様じゃない。あなたはフローリアンだよ」

 フローリアンの動きが止まった。目を見開いたまま表情が固まり、その横顔がうつぶせられる。

「フローリアン、ねえ、帰ろうよ。イオン様を演じるなんて……おかしい。あなたはあなたでしょ?」

「……くせに」

「え?」

 俯いた顔からポツリと落とされた言葉に、アニスは眉根を寄せる。

「アニスだって、ボクのことをイオンの代わりだと思ってるくせに!」

「フローリアン……!!」

 愕然として、アニスは目の前の激情に瞳を揺らす青年を見返した。

「ボクが分かっていないと思ってた? アニスの目は、いつもボクを通り越してどこかを見てた。――ボクを通じてイオンを捜していたんだ。ボクはいない、アニスの中に。……いや、誰の中にもいない。だったら、ボクがイオンになって何が悪いんだ! ボクは……っ、――アニスがそう望んでるんじゃないか!!」

 アニスは言葉もない。青ざめ、目を見開いて口を両手で押さえていた。まるでそうしないと悲鳴でも迸り出てしまうという風に。

 言葉をなくしたのは、他の仲間たちも同様だった。二人を見やってただ固まる。空虚な沈黙が満ちた時、ギィ、と修道院の扉が開く音が響いた。見れば、数人のレプリカに連れられて出てくる人影がある。

「ナタリア……!」

 アッシュがその名を呼ぶと、彼女はにっこりと微笑んでみせた。その笑顔に陰はない。怪我をしているわけでもないようだ。周囲を囲むレプリカたちには、今は拘束の意志はないらしく、彼女は小走りに駆け寄ってくる。

「みんな! やはり来て下さいましたのね!」

「ナタリア!」「無事だったか!」

 ティアとガイが声を上げる。「ええ、この通り」と笑って、彼女は己の婚約者を見上げた。

「レプリカの皆さんは随分と紳士的でしたわ」

「……すまん、遅れた」

 安堵の色を瞳に滲ませて言ったアッシュに、彼女は朗らかな顔のまま返す。

「必ず来て下さると思っていました。でも、少々待ちくたびれてしまいましたわよ、ルーク」

 アッシュは微かに目を見開いた。次いで、いぶかるように目元が歪められる。

「――お前は誰だ」

「え?」

 彼女は緑の目をしばたたいた。

「ナタリアは……あいつは、俺のことをルークとは呼ばない。――三年前からは、決してな」

「あ、そ、それは……少しウッカリしただけですわ。なんですの、そんな怖い顔をして」

 彼女は困ったような曖昧な笑みを浮かべたが、アッシュの眉間のしわは更に深くなった。

「あいつはそんな風には笑わない。……誰なんだ? お前は」

わたくしは、ナタリアです!」

「違う!」

「お、おいおい、二人とも……」

 睨み合う二人を、困ったようにガイが交互に見やる。それらの様子を怪訝な目で見ていたティアが、ハッとして声を上げた。

「危ない!」

 『ナタリア』が懐からナイフを取り出し、アッシュに切りかかったのだ。

「ぐっ!?」

 致命傷を受けるようなことはなかったが、庇った右腕を深く傷つけられ、アッシュは血を流した。

「アッシュ!」

「ナタリア!? ……じゃ、ないのか?」

 アニスが叫び、ガイが彼女に剣を向けかけて、しかし困惑する。その隙を突くように、ナタリアにしか見えない彼女は再びナイフを振りかざした。

「いけない!」

 ティアが叫び、第一音素譜歌ナイトメアを歌い始める。それは対象を深い眠りの淵へ誘う――それだけの効果のもののはずだった。

 ――しかし。

 キィーン……と微かな共鳴音が響いた。アッシュが腰に差していた剣――ローレライの鍵が震動し、金色に淡く輝く。ナイフを片手に持った『ナタリア』が、ビクリ、と震えた。見る間に、その全身が同じ金色の光に包まれる。

「う、あ………? ――きゃああああああっ!!」

 悲鳴を残して、光の粒となり、一瞬で彼女はその場から霧散していた。

「……!!」

 アッシュは愕然として目を見開いた。あれはナタリアではない。そう確信していたが、ナタリアそのままの姿をしたものが目の前で消滅したのだ。恐ろしいほどの衝撃を受けていた。ぐらりと体が傾いだほどだ。

「な……っ」

「ナ……ナタリア?」

「うそ……!」

 それは、他の仲間たちにしても同じことだった。ガイとアニスは呆然とし、ティアは譜歌を紡ぎ出した自らの口元を押さえて青ざめている。その手が小刻みに震えていた。

「気にすることはない」

 その時、場に声が響いた。深く張りのある、けれど傲慢な響き。仲間たちの誰もがその声を知っていた。

「あれは所詮急ごしらえのレプリカだ。情報は保管されているから、何度でも作り直せる」

 レプリカたちが道を空けた。その人波の向こうから、ゆっくりと歩み寄ってくる背の高い影がある。灰褐色の髪を高く結い、右腰に剣を差していた。

「――……ヴァン!!」

 搾り出すようにその名を叫んだのは、ガイだった。

「お前、本当に……っ!」

「これは、ガイラルディア様。……随分とお久しぶりですな」

 ニヤリと鋭利な表情を歪めたその男の名は、ヴァン・グランツ。本来の名をヴァンデスデルカ・ムスト・フェンデといった。五年前までは神託の盾オラクル騎士団を統括する主席総長を務め、ティアの実の兄であり、ガイの従者にして兄代わりであり、アッシュとルークの剣の師でもあって。――その全てを裏切り、世界をレプリカと摩り替えようとして偽りの大地で滅んでいった……そんな男だった。

 そう。滅んだはずだ、彼は。あの時、ルークの剣に切り裂かれ、第二超振動の力で分解されて。

「兄さん……!? そんなっ」

 ティアが細く悲鳴のような声を上げる。

「まさか……また戻ってきたというの!?」

 五年前に一度、彼はルークたちとの戦いで致命傷を負ったまま地核に転落して行ったことがある。通常なら助かるはずもない――が、彼は戻ってきた。己の内に地核に封じられていたローレライを取り込み、肉体の再構築を行う、という形で。まさか、今回もまた、彼は黄泉路を戻って来たというのか。

 男は笑みを浮かべたまま、無遠慮にティアを眺め回した。

「メシュティアリカ、か……。会うのは初めてだな」

「え……?」

「お前は、やはり……!」

 ガイが前に出た。その青い瞳には怒りに近い、様々な感情が渦巻いている。

「レプリカ、なんだな? ヴァンデスデルカの!」

 ティアが、アニスが、アッシュが息を呑んだ。

「一体いつ……いや、誰に作られた! ディストか?」

 笑みを浮かべたままの男は、フンと鼻で笑った。

「私はあんな男の手で生み出されたのではない。――いつ作られたか? そうだな、まだそのヴァンの妹が生まれていなかった頃だ」

「なんだと……?」

 虚をつかれた顔になったガイに、男は皮肉に笑いかけた。

「気付かないのか? そもそも、私は貴公と会うのは初めてではない」

「……!?」

「貴公が幼い頃――ホドの大地が健在であったあの時代に、ガルディオスの屋敷で何度かお目にかかっている」

 ガイの目がゆっくりと見開かれた。

「……どういう、こと、だ?」

 ヴァン・レプリカは一堂に視線をめぐらせた。

「お前たちは、ホドがどのようにして崩落したか知っているのか」

 ガイは言葉を失っている。代わるようにアッシュが答えた。

「フォミクリーの研究記録を消すために、マルクトが第七音譜術士セブンスフォニマーであるヴァンと特殊な装置をつないで擬似超振動を起こし、結果的にセフィロトツリーを消したと聞いている」

「そうだ。だが、一つ間違いがある。ヴァンがつながれたのは装置ではなかった」

「! まさか……」

「フ。そうとも。ヴァンと繋がれ、超振動を起こさせられてホドを消したのはこの私。ヴァンデスデルカ・レプリカだよ」

「そんなっ……!」

 ティアが両手で口元を押さえ、息を呑んだ。ひゅっ、と喉が笛のように鳴る。

「ホド島では大地と住民全員の複製情報が採取されていたが、元々行われていたのは、より完全な生物レプリカの作製実験だった。――人格、すなわち心の複製だ」

「心、だと……?」

 アッシュが唸る。「バカな!」とガイが吐き捨てた。

「フォミクリーでは記憶や心は複製されない。たとえ記憶を与えたところで、それは別の人間だ!」

「そうだ。心とは後天的に育つもの。――そこで行われたのは、レプリカをオリジナルと同じ環境で育てる試みだった」

「なんだって……!? まさか、それじゃ……!」

「そうだ、ガイラルディア」

 かつての同志と同じ顔をした男はニヤリと笑った。

「私はオリジナルと同じことを学び、同じ仕事をさせられた。――あの頃、貴公が……いや、お前がヴァンデスデルカだと思っていたうちの一体どのくらいが、交代していた私だったのだろうな」

 言葉をなくすガイを満足げに見やって、男は言葉を継ぐ。

「ヴァン・オリジナルがフォミクリー実験に協力したのは、ガルディオス家を――ひいてはフェンデ家の守るユリアの譜歌と墓所、そして第七譜石を守るためだった。しかし、キムラスカはホドの大地を蹂躙し、マルクトは見離し、裏切ったのだ。ペールギュントにも見捨てられ、私たちは逃れられずに擬似超振動を起こさせられた。……ヴァン・オリジナルは、この時私が死んだと思っていたのだろう。奴は身重の母親のために崩落するホドに留まり、譜歌を用いて魔界クリフォトへ落ちた。だが、私はその前に脱出する島民にたまたま発見され、気を失ったまま島の外へ運び出されていた」

「それって……でも、もう二十年以上も前のことなんでしょ。なんで今頃になって出てくるワケ!?」

 アニスが叫んだ。

「……私がレプリカだったからだ」

 男は答える。

「私は闇に生きねばならぬ存在だった。――ガイラルディアよ、光の中に生きるべきお前ですら、ホドの崩落後はあちこちの街にかくまわれ、キムラスカはおろか、マルクトの目からも逃れていなければならなかっただろう。マルクトにとって、ホドは忌まわしい傷だった。自国の民を滅ぼしたなど……愚かにもほどがある! それを隠すためにもホドの生き残りは狩り尽くされ、息の根を止められるべきものだった。

 ……島を崩落させた当事者であり、隠匿すべき技術そのものである私は決して表に出ることが許されなかったのだ。生きるためには」

 男は手を握り、その目を伏せる。

「名を偽ってとはいえ光を浴び、復讐を行うことが出来ていたヴァンが妬ましかったとも。私にはそれすら許されていなかったのだからな」

「あなたは……兄の復讐を継ぐつもりなの?」

 ティアが問うた。その声は、まだ微かに震えている。

「ある意味ではそういうことになる。私はレプリカの世界を創るつもりだ」

「ってか、今はレプリカの作りすぎのせいで地核が震動してるんだよ!? 地殻が液状化したら、レプリカだって生きて行けないじゃない!」

 アニスの再びの叫びに、男は軽く笑った。

「問題はない。――我々は薄汚いオリジナルどもの大地を離れ、新たに生み出した栄光の大地に移り住むのだから」

「なんだと……?」

 アッシュが眉根を寄せた時、「そんなことをすれば、自分の首を絞めることになるのはあなたがたでしょう」という声がした。

 マルクト軍の軍服をまとった細身の影が歩み寄ってくる。

「中将!」

「ジェイド。追いかけてきたのか」

 そう言ったアッシュをチラリと見やり、彼は「やれやれ、悪い子ですねぇ。先走らないようにと言いませんでしたか?」と苦笑を見せた。眼鏡の位置を軽く直し、ヴァン・レプリカに顔を向ける。

「今、世の第七音素セブンスフォニムは極度に欠乏しつつあります。大量の第七音素を消費するレプリカ製作はすぐに行き詰まり、下手をすれば第七音素で構成されているレプリカ同士が存在を食い合い、消滅しかねない」

 ティアがハッとした。

「それで、さっきナタリアのレプリカが……!」

 第七音譜術士セブンスフォニマーであるティアは、譜術を使用する際にどうしても第七音素セブンスフォニムをもフォンスロットから吸収・放出してしまう。ティアが第一音素譜歌ナイトメアを発動しようとしたことにより生じた第七音素の流れに巻き込まれ、耐え切れずに分解したのだろう。

 アッシュの持っていたローレライの鍵の力――第七音素の集結拡散を強化させる――もあったのだろうが、あれほど容易く分解されてしまうとは。レプリカたちにとっては見過ごせざる危険な事態のはずだ。

 だが、死霊使いネクロマンサーに見つめられた男は、いっかな動じることはなかった。

「それがどうした? 既にプラネットストームは起動させている。後はローレライを完全に地核に捕らえればいいだけのこと」

「なに……?」

 怪訝に目元を歪めたジェイドに構わず、男は軽く手を挙げて背後に何かを指示した。レプリカたちに囲まれて現われたのは――またもナタリアだ。ただし、今度は強引に引き立てられていたが。

「ナタリア!?」

「心配するな。今度は本物オリジナルだ」

 ヴァン・レプリカは彼女を乱暴に引き寄せる。が、アッシュが怒気に顔を染めるより早く、彼の方へナタリアを突き飛ばした。

「きゃっ」

 短く声を上げて、ナタリアはアッシュの腕の中に倒れ掛かり、抱きとめられた。

「どういうつもりだ……」

 ガイが呟いて睨む。ナタリアを人質として使うつもりではなかったのか。ヴァン・レプリカは薄く笑った。

「簡単なことだ。――お前たちは、自分たちが敵地におびき寄せられたのだということを忘れているのではないか?」

 その声を聞いて、ジェイドがハッとした。

「いかん! みんな、離れなさい!」

 が、その警告は遅過ぎた。

 ギュン、と大地に光の輪が走る。複雑な文様が走って回転し、アッシュたちの足元に大きな譜陣が現われた。光が立ち昇る。

「ぐぅうううっ!?」

「罠っ?」

 仲間たちは全員、その譜陣の光に捕らわれていた。彼らだけではない、アニスの側にいたフローリアンと、数人のレプリカも巻き込まれている。

「な、なんだこれは……。力が抜けていく……!?」

「これは……音素フォニムが吸収されている?」

 砕けそうな膝を必死に支えようとしているガイやジェイドを眺めつつ、ヴァン・レプリカは悠々とした笑みを浮かべていた。

「その譜陣は全ての属性の音素を奪い取っていく。早くどうにかしなければ、お前たちもレプリカのように消えてしまうかもしれんぞ」

「ア、アッシュ……」

 己の胸にしがみついて苦しげに顔を歪めるナタリアを、アッシュは焦燥の気持ちで見やった。このままでは、保たない。

「くっ……」

 彼はナタリアを片腕で抱いたまま、一方の拳を握り締めた。そこに白光がこごっていく。――ルークの記憶にあった。かつてエルドラントで同じように譜陣の罠に捕らわれたとき、第二超振動を用いて譜陣のみを消したことがあったと。……が。

「あぁあああっ!」

「フローリアン!?」

 不意に叫んでがくりと膝をついた青年を見て、アニスが悲鳴をあげた。ハッとしてアッシュは白光を霧散させる。

「いけません……! 今、この譜陣の中は更に第七音素が欠乏している。ここで超振動を使えば、フローリアンたちは確実に消えてしまいます」

 片膝をつくジェイドの苦しげな声が聞こえた。同じように座り込んでいるガイが言う。

「じゃあっ……、どうすればいいんだ?」

「く……」

「方法はある」

 そう言ったのは、譜陣の外に立つヴァン・レプリカだった。

「アッシュよ、お前はローレライの力を継ぐ者――ローレライの完全同位体だ。鍵を用い、ローレライと己のフォンスロットをつなげるがいい。そうすれば第七音素は補充され、超振動を使っても誰も消えることはないだろう」

「なん、だと……?」

 ぐったりと地面にうずくまったナタリアを支えながら、アッシュはその男を睨んだ。

「どういうつもり……だ」

 睨みあげてくる碧の瞳を面白そうに見返して、彼は笑った。

「私の意図など詮索する余裕はないのではないか? そら、仲間たちはもう起きてもいられないようだぞ」

 アッシュは周囲に視線を走らせた。ヴァン・レプリカの言うとおりだ。眉根を寄せて目を閉じ、決意したように開くと、彼は腰の剣――ローレライの鍵へ手を伸ばす。

 だが、その手に白い手が重ねられ、弱々しく押し留めた。

「ナタリア」

 もう気を失っているのだとばかり思っていた。驚きと心配の入り混じった目でアッシュは彼女の緑の目を見つめる。

「いけません……わ、アッシュ。あのヴァンが、どんな目的でそうさせようとしているのかは分かりませんが、嫌な予感が……」

 ナタリアの言うとおりだ。全てはヴァン・レプリカの意図どおりに進められていた。そうして得られる結果など、恐らくはロクでもないものに違いない。だが……。

 迷いと焦燥に意識を揺らした時、不意に、アッシュは殴られたような衝撃を頭の中に感じた。

「っ、ぐ……!?」

 耳障りな共鳴音と、ガンガン響く痛みに顔をしかめる。「アッシュ?」と、驚きと不安の表情で見上げるナタリアを視界に納めながら、刹那、アッシュは脳裏に鮮明なその声を聞いていた。

 ――だけど、そのままじゃダメだ。アッシュ、俺を呼べ!

「――!?」

 次の瞬間、起こったのは異様な事態だった。アッシュは立ち上がる。左手が腰のローレライの鍵を抜いて、右手を添えて頭上に掲げた。――彼自身の意志とは無関係に。

 剣先の触れた宙にもう一つの譜陣が現われ、鍵を差し込んで回した時のように刀身がカチリと回った。そこから、黄金の光が迸る。

 光は水の流れのように剣を掲げるアッシュの周囲を駆け下りた。そして再び昇り、彼の背後で形を変える。それは人の姿をしていた。両目を閉じ、水に映った像のように揺らめきながら両腕を緩く左右に広げている。襟足で切りそろえられた赤い髪が炎のように揺らいでおり、けれど背後の黄金の光と混じり合って、長く伸びて背を覆っているようにも見える。

 その姿が浮かんだのは一瞬で、吸い込まれるようにアッシュと重なった。その全身が淡く輝き、掲げた剣全体が白光に覆われていく。そして、やや伏せられていた目線を上げた。碧の双眸に強い光が宿っている。

「うおぉおおおおおっ!!」

 雄たけび、彼は剣を大地に突き立てた。一瞬、譜陣から放たれていた光が増す。が、次の瞬間には地を走った白光に食い尽くされて弾ける。集結されていた音素が開放されたことにより生じた衝撃を周囲に撒き散らして、譜陣は消滅していた。

「ふっ……ははははは!」

 そして、笑ったのはヴァン・レプリカだった。

「現われたな、聖なるほむらの光――完全なるローレライよ。この瞬間ときを待っていたのだ!」

 ヴァン・レプリカは懐から小さな箱を取り出し、それを投げつけた。パン、と音を立て、中から細かな網のような光が降り注ぐ。それに覆われて苦悶の表情を浮かべ、がくりと膝をついた赤髪の青年の姿を見て、ナタリアが悲鳴をあげた。

「アッシュ!?」

「これは――封印術アンチフォンスロット? ――いいえ、結界術バインディングスロットだわ……!」

 地から身を起こしながらティアが言った。その間にも、光の網は完全に青年を覆い尽くしていく――その、前に。

 パキィン、と音がした。ガイが剣で光の網を放つ小箱を分断したのだ。

「く、しまった!?」

 刹那、怯んだヴァン・レプリカの前に、光の網から解放されたアッシュが駆け込んでいた。刃が閃く。切り裂かれた肉から血が飛び散った。

「ぐ、う……」

 傷を押さえ、ヴァン・レプリカは僅かに足をよろめかせる。額にうっすらと汗を浮かべ、切れ長の青い目で己が眼前の青年を見た。

「油断した、な……。利き腕は使えなくしてやったつもりだったが」

「あの世から戻って以来、両手が利くようになってるんだよ。生憎な」

 左手に持ったローレライの鍵を構えなおし、アッシュはそう言った。その体や刀身を覆っていた光は既に消え失せている。

「再び繋がりは断たれたか……まあいい。それでもその半身は我が手中にある」

「……なんだと?」

 どういう意味だ。眉根を寄せてそう訊ねようとしたアッシュの言葉は、しかし外に出ることはなかった。低く地鳴りのような音が響き、次いで大地が揺さぶられたからだ。

「また、地震!?」

 地面に座り込んだままアニスが悲鳴をあげた。ガイが剣を杖にして身を支える。

「くっ、地核の震動の影響か?」

「もうっ、なんでぇ!? 今は地核にはローレライはいないはずなのに!」

「――いえ、それは思い込みだったのかもしれません」

 言ったのは、片膝をついたジェイドだった。

「五年前、我々はローレライが地核から解放され、音譜帯へ去るのを見ました。――しかし、三年前にアッシュが帰ってきたように、事態は永遠不変ではない……」

「そうだ、死霊使いネクロマンサーよ」

 ヴァン・レプリカの声が響く。

「事態は常に動いている。――その事に今更気付いたところで、もはや遅いがな」

 そう告げる彼の背後、彼方の空にそれを見つけて、「あれは……!?」とガイが声を上げた。ゆっくりと――しかし実際には恐ろしい速度で近付いているのだろうそれは、天空に浮かぶ島だ。周囲を強化材で覆われて要塞化している。仲間たちの誰もが、その威容に見覚えがあった。

「エルドラント……!」

 かつて世界を滅ぼそうとした男が最後の砦とした、崩落したホド島の模造品ー―偽りの大地だった。

「セフィロトの地下――地核の中で製造していた、新たな大地だ。我らはレプリカの世界を創る。――オリジナルの世界は液状化でもなんでもすればいい」

 そう言い捨てると、傷を押さえた手を離し、ヴァン・レプリカは身を翻した。彼の周囲にサッとレプリカたちが集まり、守るようにして従う。中には神託の盾オラクルなどの軍装備を身に着けた者もいた。

「もはやここに留まる意味はない。――行くぞ、導師よ」

 ぼんやりと事態を見守っているように見えたフローリアンが、ビクリと目を見開いた。俯き、フラリと歩を踏み出す。

「フローリアン!?」

 駆け寄ろうとしたアニスの前に、遮るようにレプリカたちが立ち塞がった。

「――ごめん、アニス。でも、ボクは……」

 呟き、うな垂れたまま、彼は歩み去っていく。他の大勢のレプリカたちと共に、彼らを迎えるように海岸に着水したエルドラントへ向かって。

「ま……、待ちやがれっ!」

 アッシュは叫び、人波の向こうに遠くなっていくヴァン・レプリカの背を追おうとした。が、不意に膝が崩れる。

「く……?」

 譜陣に音素を吸い取られたせいか、それとも結界術に捕らわれかけたせいなのか。全身の力が急激に抜けていく。

「アッシュ!」

 ナタリアの悲鳴を聞きながら、アッシュの意識は闇に閉ざされていった。






『ここは都市国家ホド。中央大海に浮かぶ小さな島国だよ』

 振り仰いだ顔に屈託のない笑みを浮かべ、少女は言った。その肩には丸い目の小動物が乗っていて、大きな耳をフリフリ揺らしている。元々は実験動物として飼われていたそれを、彼女は勝手に連れ歩いているらしい。そのため、研究所の他の職員たちにはあまりいい顔をされていないようだ。

『ユリアは、チーグルの恩人で友達ですの! だからぜーったい離れないですの。いつも一緒ですの』

 甲高い声で喋るその様子は、なんとなくムカついた。流石に、彼女が大事に肩に乗せているそれをぐりぐりするのは気が引けたので、思いとどまったが。

 いくら高い知能を持ち人間に次いで音素フォニムを操る術に優れるとはいっても、本来は人語を喋れないチーグルにこうして人の言葉を操る術を授けたのは彼女、ユリア・ジュエの才能だ。譜術士が普遍的に訓練に用いる譜術具・ソーサラーリングを利用している。こう見えて、彼女は研究所でサザンクロス博士に師事する者の中でもずば抜けた技量を誇っていた。

 研究所の近くにあるこの森は緑に溢れ、心地よい光と生命の脈動に満ちている。彼女はいつも、チーグルを連れてここにやってきた。以前からの習慣だったようだが、今はあなたに会うのも楽しみなんだよ、と言ってくれる。

 何者でもなかった自分を引き寄せたのは、この森で彼女が放っていた震動エネルギー――歌声だった。その旋律が、空気を震わせる響きが、音素の塊に過ぎなかった自分に何らかの変化をもたらした。

 これは感覚的なことだ。具体的に、どんな変化なのかは分からない。

 自分のことなのに? と可笑しそうに言われて、自分でも可笑しいと思えた。己という存在はひどく不確かで、曖昧としている。

『あのね、これはサザンクロス博士せんせいの説なんだけど……。この世界は六つの音素で構成されていて、それぞれの音素には意識集合体――自我を持った音素の塊みたいなものがいるの。第一音素ファーストフォニムがシャドウ、第二音素セカンドフォニムがノーム、第三音素サードフォニムがシルフ、第四音素フォースフォニムがウンディーネ、第五音素フィフスフォニムがイフリート、第六音素シックスフォニムがレム……っていう風に名付けられてるわ。でも博士はもう一つ、七番目の音素が存在してるんじゃないかって考えていたの。たまに――私みたいに、癒しの力を使える人間がいるけど、これは六つの音素に特定されない力なんだって。博士は、その七番目の力をローレライって呼んでいる』

 彼女がそんなことを言ったのは、幾度言葉を交わした後だっただろうか。

『あなたからは、六つの音素のどれでもない力を感じる……。もしかしたら、あなたはローレライなのかな』

 ローレライ。自分はそういう存在なのだろうか? そう言われてみれば、確かにそうだという気がした。けれど、そうではないという気もする。

 お前がそう呼びたいのなら、ローレライで構わない。

 そう答えると、彼女は少し首をかしげ、私が名前をつけていいのなら別の名前で呼んでもいいかな、と言った。構わない。そう答えると、青い瞳を輝かせる。

『本当は、最初からこう呼びたかったの。あなたを覆う光は、炎みたいでとても綺麗だから。――「聖なる焔の光」!』

 彼女が発した、そんな意味を持つ言葉。

 その音の響きは、「ルーク」といった。






 日が落ちかけて辺りは薄暗くなっていた。

 レムの村の民家の一室で、気を失ったアッシュをナタリアは看ていた。室内にはアニスとティアもいる。

「あの……水、を」

 細い声に視線を向けると、レプリカの女性が水の入った桶を運び込んできている。「ありがとう」と微笑むと、「いいえ」と首を振って、血で汚れた水の入った盥を抱えていった。アッシュの右腕の傷を清めた後のものだ。

 自治区にいた大半のレプリカたちが、ヴァン・レプリカに従って出て行った。だが、全てがそうしたわけではない。村に残り、こうしてナタリアたちに家の一室を提供するレプリカもいた。

 それはそうだわ、とティアは言う。レプリカ、オリジナルと言っても、結局は生まれ方が違うだけで人間なんだもの。レプリカだからと言って全員が同じ考えを持つわけじゃないし、生まれの差異だけで一括りになんて出来るはずがないわ、と。

(でも……今回の件は、今後のオリジナルとレプリカの関係に、大きな影を落とすことになりますわね)

 普段の様子からは珍しく、口数が少なめなアニスの様子を見ながらナタリアは思った。

 いずれにせよ、レプリカたちの大半がオリジナルの世界を疎む気持ちを抱く、そんな状況を許してしまった。

 これは、己の力不足が招いたことなのだろう。

 エルドラントへヴァン・レプリカたちが去った時、ナタリアたちは何も出来なかった。実際、音素吸収の譜陣で受けたダメージはかなりのものだったのだ。それでも、体力が多少回復するのを待って、様子を見て来ると男性陣は村を出て行ったのだが。

 部屋の扉が開いた。ガイとジェイドが戻ってきたのだ。

「ダメだ。アルビオールが飛ばない」

 戻るなり、ガイの口から発されたのはそんな言葉だった。

「え……壊れちゃったってこと?」

「まさか、ヴァン・レプリカたちに破壊されたのですか?」

 アニスとナタリアの疑問に、彼は首を横に振る。

「そうじゃない。……燃料が足りないんだ」

「燃料……?」

 女性陣は揃って目を丸くし、首をひねった。なにしろ、今までアルビオールの燃料など気にしたこともなかったからだ。アルビオールを含め、この世界の音機関の燃料は全て大気中にふんだんに含まれる音素力フォンパワーを吸収することでまかなわれる。意識的に補給をする必要のないものだった。

「恐らくは、あの第二のエルドラントが原因でしょう。どうやら、現在稼動しているプラネットストームから放出されるものも含めて、大気中の音素力を吸収し続けているようです」

 あれだけの質量のものを飛行させているのですからね、とジェイドが言った。

「それに、第七音素の減少も続いている。――レプリカの製造を続けているようですね」

「でもでも、アルビオールを動かせないってことは、もしかしてここから動けないってことですか?」

 ここは大陸からは切り離された孤島だ。創世暦時代には半島だったそうで、今もそう呼び習わされてはいるのだが。

「落ち着けよ、アニス。飛ばないが、動かせないってわけじゃない。――五年前のプラネットストーム停止を受けて、音素力の減少を見越した非常用のエネルギーパックが装備されているからな。だが、飛ぶには足りないし、途中で尽きることを思えば危険すぎる。……でもまあ、水陸走行くらいなら問題ない」

 ガイは言った。

「中将をここに運んできたノエルには、先にシェリダンに戻ってもらった」

「それでは、私たちもシェリダンに行きますか? 飛べないことにはエルドラントをどうすることも出来ません」

 ティアがジェイドを見上げて言う。譜業の街と呼ばれ、アルビオールの製造元でもあるシェリダンであれば、燃料不足を解決する方途を見出してくれるかもしれない。

「いえ……グランコクマへ行きましょう」

 少し考え込む素振りを見せた後、ジェイドはそう言った。

「陛下にご報告と――色々と相談したいこともありますから」

「そうですわね。鳩を飛ばし、お父様もお呼びしましょう。出来れば、ユリアシティのテオドーロ市長も」

 アッシュを寝かせているベッドの傍らから立ち上がり、ナタリアが王女の目をして言った。

「これは――再び世界全体を覆った災いなのですから」



前へ/次へ

inserted by FC2 system