マルクト帝国首都、グランコクマ。その壮麗な宮殿の広い応接の間に、各国の要人の姿があった。マルクト帝国皇帝ピオニー九世、キムラスカ・ランバルディア王国国王インゴベルト六世、ユリアシティ市長テオドーロ。彼らと同じテーブルのやや離れて向かい合うような位置についているのはジェイド、ガイ、アッシュ、ナタリア、ティア、アニスの六人である。その他の要人の従者たちは席につかず壁際に立って控えていたのだが、各国にそれぞれの立場を持ち、五年前に世界を変えた英雄でもある六人は、こうして同じ席につくことを許されている。

「第二のエルドラントか……」

 僅かに顔を歪め、呟いたのはピオニーだ。豪華な椅子の背にもたれて天を仰ぐ。

「まさか、そんなもんが出てくるとはなぁ……」

「ホドの複製情報は消去されてはいなかったということですな」

 テオドーロが言う。インゴベルトが苦渋の表情を浮かべて低く声を落とした。

「レプリカたちがこのような行動を取るとは……迂闊であった」

「お父様。全てのレプリカがヴァン・レプリカに従ったわけではありません! レプリカ自治区に残り、わたくしたちに協力してくれた人々もいます」

「そうです、陛下。……レプリカは、生まれ方が違うだけの、けれど私たちと同じ人間です。レプリカだからとひと括りにするのは早計ではないでしょうか」

 娘とテオドーロ市長の孫娘の声を聞いて、「案ずるな」とインゴベルトは首を振った。

「無論、わしにも分かっておる。……ルークの遺したこと、その意味を無駄にするつもりはない。残ったレプリカたちの保護は、より手厚く続けよう」

「しかし、今回の件が一般に知られれば、レプリカの立場はますます難しいものになるでしょうね」

 ジェイドが言った。ガイが考え深げな目をして頷く。

「そうだな。この間の連中のような、レプリカをただ一律に蔑んで、簡単に殺してしまおうとする奴らが現われないとも限らない」

「あの。今回の件……出来るだけ、世界には知られないようにすることは出来ないんですか?」

 伏せていた視線を上げ、アニスが訴えた。

「ムシがいい考えかもしれないけど……でもっ、これからもレプリカの人たちと、みんなで一緒にっ、……生きていくためには……」

「アニス……」

 言いながら再び俯いてしまったアニスの肩を、ティアが軽く抱く。

「我々としても、いたずらに人心を惑わすような真似がしたいわけではない」

「だがなぁ……。このままレプリカ連中を放っておいて、どんどんレプリカを増やされてみろ。下手すれば五年前のように擬似超振動で大地を削られるかもしれんし、地殻が液状化したらレプリカとの共存どころの騒ぎじゃない」

 インゴベルトが言い、ピオニーが大仰な仕草で予想できる事実を告げた。そう。事態はそこまできてしまっている。

「第二エルドラントの現在位置は?」

 ジェイドが訊ねた。壁際に控えていた、ユリアシティの長衣をまとった男が答える。

「我々の調査によれば、第二エルドラントはラジエイトゲートから記憶粒子セルパーティクルに押し出されるような形で出現、アベリア大陸を縦断して我がユリアシティ近辺――中央大海へ向かっています」

「大陸を縦断、か。……これじゃ目に付かないってわけにはいかないな」

 ガイが言ったが、キムラスカの軍服をまとった女将軍――ジョゼット・セシルが首を振って返した。

「夜の間にイニスタ湿原の上を通ったために、殆ど人の目には触れていないようです。意図的なものなのかは分かりませんが」

「彼らもまだ、おおっぴらに行動を起こすつもりはない……ということでしょうか?」

 ティアがこころもち首をかしげる。

「――奴らが何を考えていようと、俺たちがやるべきことなど決まっている。これ以上何かをしでかす前に、あいつを……ヴァンのレプリカを倒す! それだけだろうが」

 両腕を組み、アッシュが倣岸に言った。

「……だから、そのための方法を今ここで話し合ってるんだろうに」

 呆れたようなガイの声がこぼれた。小さなものだったが、ピクリとアッシュの眉間が震える。どうにも、この二人の間に流れる空気はぎこちない。レムの村から戻って以降、それは微妙に増しているのかもしれなかった。「もう、二人とも……」と、ナタリアが二人の幼なじみを交互に見やって溜息を漏らしている。

「そうですね。とにかく、アルビオールを飛べるようにしないことには何も出来ません」

 それた空気を戻すようなジェイドの声に続いて、ユリアシティの研究者が口を開いた。

「問題は他にもあります。観測データを見る限り、第二エルドラントの周囲には、プラネットストームに似た強い音素力フォンパワーの流れが起こっています。周囲の音素力を強力に吸収しているためだと思われますが、それに伴って気流が動き、防壁のように周囲を覆っている」

「それは……五年前にエルドラントをプラネットストームが守っていた状況と同じなのか!?」

 アッシュが強い目で見やる。

「それよりは弱いでしょう。現在の強化型のアルビオールのパワーなら突破は可能なはずです。……ただ、そのためには飛行エネルギーが充溢していなければなりませんが」

「結局は、欠乏した惑星燃料の問題を片付けなけりゃどうにもならないってことか……」

 ガイが己の金髪を片手でかき混ぜながら息をついた。横目で隣に座る男を見やる。

「なぁ旦那、なにかいい案はないのか?」

「既にプラネットストームは稼動しているわけですからね。これ以上の音素力を生み出す方法となると……」

 ジェイドは顎に手を当て、赤い瞳を閉じてこころもち顎をそらした。眉根を寄せて考え込んでいる。

「ふん……これは、我が国から出た、まぁ、優秀な研究者が言っていたことなんだがな」

 不意にそんなことを言い始めたのは、ピオニーだった。

「プラネットストームを通しているのはセフィロトだが、この星のフォンスロットはセフィロトだけじゃない、と」

「どういう意味ですの?」

 ナタリアが首をかしげる。が、ジェイドは「……なるほど」と頷いていた。飲み込めない様子のナタリアに視線を送る。

「ご存知の通り、プラネットストームは、セフィロト――つまり、この星の特に強い十のフォンスロットのうち、最も強力な二つを星を包む音譜帯と繋げたものです。記憶粒子セルパーティクル音素フォニムを循環させることでそれらを結合させ、惑星燃料フォンパワーを生み出しているわけですね。

 今、全てのセフィロトはヴァン・レプリカに抑えられていると考えられます。プラネットストームを停止させることができれば、あるいは第二エルドラントの活動を止めることが出来るかもしれませんが、それは難しいでしょう。しかし、今のままでは我々が活動するための音素力フォンパワーが足りない。――けれども、星のフォンスロットは、なにもセフィロトだけではありません」

「つまり……セフィロト以外の星のフォンスロットからも、音譜帯へ道をつなげば音素力が得られるかもしれない……ということですか?」

「そうです、ティア。――それに、セフィロトを含め、星の全てのフォンスロットは地核の中で繋がっています。小さくとも、プラネットストームに別の流れを作ることが出来れば、あるいは現在第二エルドラントを覆っている音素力の防壁をも弱める効果を期待出来るかもしれません」

 これに気付かなかったとは、うっかりしていましたね。悔しいですが、監獄の中の『優秀な研究者』に後で果物籠でも差し入れてやることにしましょうか、とジェイドは笑った。その視線を受けて、ピオニーもフッと笑う。

 しかし、ガイはまだ困惑顔をしていた。

「話は分かったけどな。だが、どうやって星のフォンスロットと音譜帯をつなぐんだ?」

「そうですわね。セフィロトには既に記憶粒子の噴き上げを強化する創世暦時代の音機関――パッセージリングが設置されていましたけれど……他のフォンスロットもそうだというわけではないのでしょう?」

「タルタロスをユリアシティから外殻へ上げる時、音素フォニム活性化装置を取り付けただろう。あれと同じものを星のフォンスロットに設置すればいいんじゃないのか?」

 ナタリアの疑問に、アッシュがこう返す。が、テオドーロが首を横に振った。

「確かに、あの装置でセフィロトツリーを伸ばすことは出来るだろうが、音譜帯にまで到達させることは出来ぬ。それに、セフィロト以外のフォンスロットは、噴き上げる記憶粒子セルパーティクルの量もそう多くはないはずだからな」

「万事休す、か……」

 ガイが呟く。暫く、場に沈黙が満ちた。

「……創世暦時代の人々は、どうやってセフィロトと音譜帯をつなげたのでしょうね」

 ふう、と息をついて言ったナタリアは、続いたティアの答えに目を丸くした。

「言い伝えでは、特殊な譜術を用いたとされているわ」

「まあ。では、カーティス中将は何とかできませんの? それに、今まではローレライの鍵でゲートの開閉をしていましたわよね。もしかしたら、アッシュがどうにかできるのではありませんか?」

「……な、何っ?」

 婚約者に無邪気な期待の目を向けられて多少うろたえた青年を見やって、「どうでしょうねぇ」とジェイドが失笑した。

「譜術を用いたと伝わっていても、具体的にどんなものなのかはまるで分かりません。ゲートの開閉の制御にローレライの鍵を用いることは出来ましたが、その制御譜陣の理論も我々には未だ不明です」

「……あのぅ、中将。タルタロスを外殻に打ち上げた時、バビューンって、ものすごい勢いで上がりましたよね。ホントに音素活性化装置だけじゃダメなんですか? やるだけやってみたらどうでしょう」

 おずおずとアニスが提案する。

「――そうか、打ち上げか!」

 大きな声を上げたのはガイだった。

「ガイ?」「どうしたんです?」

 ぎょっとした仲間たちのうち、彼はジェイドに顔を向ける。

「なあ旦那、その物体と同じ固有振動数をぶつければ、共鳴が起こるものだよな。その時、二つの物体の間には振動という繋がりが出来る」

「? ええ、確かにそうですが……」

「だから、地上のフォンスロットと天の音譜帯の両方に同じ震動を放つ譜業装置を置いて、その上でパッセージリングと同様の方法で音素を活性化してやれば、記憶粒子と音素の流れを結ぶことが出来るんじゃないか?」

 ジェイドは赤い目を瞬いた。

「なるほど……。確かに可能性はありそうですが。――どうやって同じ震動を放つ装置を音譜帯に上げるのですか?」

 よくぞ聞いてくれた、と言わんばかりにガイはニヤリと笑ってみせた。

「ロケット爺さんだよ!」

 ジェイド、アニス、ティア、ナタリアがハッとした顔になった。アッシュだけが、「ロケット爺さん……? なんだそりゃ」とますます眉間のしわを深くしている。

「シェリダンの外れにある塔に住んでおられる方ですわ」

 と、ナタリアが説明した。

「そうそう。アルビオールの初期開発にも携わった人なんだよ」

 アニスが続ける。

「イエモンさんとも約束していたそうなの。必ず宇宙船を開発するって。そのためにずっと頑張っている人よ」

 ティアが後を継いだ。ジェイドが顎に手を当てて頷く。

「そうですね……彼なら、有人ロケットはまだ無理でも、譜業装置を音譜帯まで打ち上げるぐらいは可能なのかもしれません」

「ああ。この間 話しに行ったときに、小型ロケットの打ち上げ実験に成功したって言っていたからな」

「って……。ガイって、最近でもシェリダンに行ってるんだ」

「今はマルクト貴族ですのにねぇ」

 高揚した調子で語るガイを前にしながら、なにやらジト目になっているアニスとナタリアである。共に旅をしていた頃から五年経ったが、彼の音機関好きは健在らしい。いや、貴族になって様々な点で使用人時代よりも自由になった分、悪化……もとい、強くなっているのかもしれなかった。

「なるほど……。それでは、こちらからはフォンスロットに取り付けるための音素活性化装置を提供しよう」

 テオドーロ市長はそう言ったが、ユリアシティの研究者がおずおずと口を挟んだ。

「あの、市長……。それが、無理なんです」

「何?」とテオドーロが声をあげ、「どういうことだ?」とアッシュが問うた。

「部品が足りません。――音素活性化装置は創世暦時代の遺物です。部品の幾つかは複製が可能ですが、中心となる部分は今の我々の技術で作り出すことは敵いません。肝心の音素増幅機関が、もう残っていないんです」

「そんな……」と、アニスが息を呑む。

「どうにかなりませんの? ほら、例えばセフィロトのパッセージリングから取ってくるとか……」

「でも……今のセフィロトへ行くのは危険だわ」

 ナタリアの提案にティアが返す。ジェイドも同意した。

「そうですね。あれだけの魔物をかわしながら精密な作業をこなすのは難しいでしょう」

「だが、他に方法がないならやるしかない。違うのか?」

 アッシュの低い声が場に落ちた。

「まあ、少し落ち着け、アッシュ」

 変わらぬ鷹揚なピオニーの声が聞こえた。

「いざとなったら、一個師団でもつけてお前らが部品回収する間守らせてやる。――が、まだ他に方法がないわけでもないし、やることもあるだろう」

「うむ。本当に在庫がないのか、もう一度確かめさせよう。それに、その他の部品も用意するのに暫くは掛かる」

 テオドーロも頷いた。インゴベルトも言う。

「キムラスカからは、震動装置と打上げ用の小型ロケットとやらの製作の支援を行おう。――それにしても、まずはシェリダンに使いを送り、話を通さねばならないが」

「お父様、では、シェリダンへはわたくしたちが参ります」

 ナタリアが名乗りを上げた。ジェイドも頷く。

「そうですね。どうやら、この件で最も話を通しやすいのはガイのようですし。私も、ついでに調べ物をすることにします。――アッシュも、いいですね?」

「……ああ」

「じゃ、決まりだな」

 まずは動き出すことだ。ガイの声を合図に、会談の場は閉じられた。






「いいだろう。その話、引き受けた」

 アルビオールで海を走り、キムラスカ王国領シェリダンの塔を訪ねれば、思いの他簡単に『ロケット爺さん』の了承は得られた。アッシュを除く全員が五年前から彼とは顔なじみであったし、ガイが今でもこまめに訪ねて顔をつないでいた効果もあっただろう。

「なに、願ってもないことさ。存分に腕を振るって、今までの研究成果を生かせるんだからな」

「それに、費用は国持ちじゃしのぅ。ふぉふぉふぉ」

 ロケット塔に詰めている『ロケット爺さん』の仲間たちも大いに張り切っている。

 一方、固定震動数を同じくする二つの装置は、アストンら、元「め組」の流れを汲むチームに任せることになった。

「お前さんたちの頼みじゃ。断れんし、断る気もないわい」

 任せるがいい、とアストンは胸を叩いた。

「今のシェリダンの発展は、お前さんたちのおかげでもある。それに、イエモンやタマラや……街のみんなが命を張って作った平和じゃ。それを壊されるなど、黙ってはおれんからの」

「そうですよ! おいらも協力します。何でも言ってください」

 アストンの隣で、アルビオールのパイロットスーツを着込んだギンジも勢い込んだ。

 アルビオールやタルタロス級陸艦を設計・製造した「め組」の技術力は疑いようがないが、ロケットによる打ち上げという方法を考えれば、何より重要になってくるのは重さである。そのため、『ロケット爺さん』のチームと連絡を密にとって製造を行うという。

 これらの話をまとめてシェリダンの集会所から外に出ると、ジェイドが一同を見渡して言った。

「いずれにせよ、完成するまでには暫くかかりますね」

「じゃあ、今日はとりあえず宿で休むか?」と、ガイが言う。

「でも……結局、音素フォニム増幅機関は見つかってないままなんですよね?」

「そうですわね。見つかったという報せを持った鳩は来ていないようですわ」

 アニスの問いにナタリアが答えた。腕を組んでアッシュがむっつりと口を開く。

「シェリダンでも、流石に音素増幅機関の新規製造は難しいという話だったな」

「そうね。ユリアシティでも長年出来なかったことなんだもの」

 そんなティアの声を聞いて、ガイが微笑って言う。

「飛行機関と同じように、数年研究すれば、原理を解明して製造できるようになるのかもしれないけどな」

「数年も待てん!」

 憮然としてアッシュが返した。

「まあとにかく、今日はこれで解散しましょう。これまでかなりの強行軍でしたからね。骨休めしていてください」

「って、中将はどこかに出かけるんですか?」

 アニスがジェイドを見上げる。

「ええ。私はこれからベルケンドへ行ってきます。セフィロト以外の星のフォンスロットについて調べておきたいですからね」

「一人で行くのか? 俺たちも付き合うぜ」

 ガイがそう言ったが、ジェイドは「一人で充分ですよ」と笑って辞退した。

「明日には戻ります」

 日が暮れる頃、ジェイドはそう言って、ベルケンドへ通じるルーク橋を渡る辻馬車に乗って出かけていった。




 シェリダンの宿はこぢんまりとしている。一階は酒場になっており、宿はその二階だ。内装もかなりシンプルである。なのに、何故か宿代は高かった。豪華な造りのベルケンドの宿より高いというのは何故なのだろう。

 まあ、一階が酒場だというのが、あるいはポイントなのかもしれない。猥雑さを嫌う者もいるだろうが、宿泊客には幾ばくかの値引きもされるし、便利といえば便利だ。

 乾燥し、礫漠化の進んでいるこのラーデシア大陸は、昼は暑いが夜は寒い。酒場の扉を押し開けて外に出ると、アルコールで火照った体が外気で冷やされて心地よかった。そのまま階段を上って宿に戻ろうとしたが、見慣れた人影がフッと街角をよぎった気がして、足を止め、ガイはそちらへと向かっていた。

「やっぱりナタリアか」

 街外れの、ロケット塔を臨む展望台に彼女はいた。「ガイ」と名を呼んで、少し驚いたように見返してくる。

「こんな時間にどうしたんだい? 女の子が出歩く時間じゃないぜ」

「ティアを探していたんですわ。散歩に行くと言って少し前に宿を出ましたから」

 それより、あなたお酒くさいですわねぇ、とナタリアはジト目になって睨んだ。

「あ、いや……」

「ま、いいですわ。殿方には色々と、お酒を飲みたくなるようなこともあるのでしょうし。……明日の行動に差し支えなければ」

 少し困った顔で頭をかいて、ガイは「そういえば、アッシュの奴はどうしてるんだ? キミを放っておいて」と訊ねた。

「宿にいます。アニスと何か話し込んでいるようでしたから、邪魔をしてはいけないと思ったのですわ」

「それで、黙って出てきたのかい? それはいけないな」

「あら、どうということもありませんわよ。すぐに戻りますわ」

「ナタリア。今回の誘拐の件で、あいつがどんなにキミのことを心配してたと思ってる?」

 分かるね、と優しく言うと、「そ……そうですわね」とナタリアは口ごもった。

「宿に帰りますわ。ティアも、もう戻っているかもしれませんし……」

「そうだな。一緒に帰ろう」

 ガイは微笑み、二人は並んで宿への道を辿り始めた。

 夜の街は、譜石の街灯で淡く照らされている。

「……ガイ。あなたは、前はこんなにお酒を飲んだりしませんでしたわよね」

 ふと、ナタリアが言った。

「ん。ま、俺もトシを食ったからねぇ。酒で誤魔化す悩みも尽きないってヤツだな」

 なんてな、と明るく笑ったが、ナタリアはニコリともしなかった。

「……ルークのことを考えていたんですの?」

「………」

 ガイは黙りこむ。

「あの時……レムの村でアッシュに重なって見えたのは、ルークでしたわよね?」

 足を止め、ナタリアは揺れる瞳でガイを見上げた。

「どういうことなのでしょうか。ルークは……ルークは、今でも……?」

「……俺にはわからない」

 返されたガイの声は低かった。痛みをこらえるように、その青い双眸は僅かにすがめられている。

「だが……そんなはずはないんだ。あいつは、今はアッシュの………いや」

 言いかけて、何でもない、と口を閉じる。だが、ナタリアの声がその先を続けていた。

「ルークの記憶は、今はアッシュの中にある……。だから、あれがルークのはずはない。……そういうことですの?」

 驚いて、ガイはナタリアを見返した。

「っ! ……知っていたのか」

 アッシュの奴に聞いたのか? と尋ねると、「いいえ、彼は何も言いませんもの」と彼女は首を横に振った。

「ですが、一緒にいれば分かりますわ。何かの折に彼が漏らしてしまうルークの記憶、ルークしか知らないはずの思い出……。わたくしは、アッシュともルークとも、ずっと共に過ごしてきたのですもの」

「そう、か……」

「でも……アッシュはアッシュです。記憶があっても、ルークではない……」

 ナタリアは苦しげに緑の目を伏せた。彼女にとって、アッシュは最愛の男性だ。そうと知らぬ間に引き離され、再会してみれば死を告げられた。その苦しみの果てに、思いもよらぬ形で彼は帰ってきた。――その奇跡に歓喜しているのは確かだけれども、一方で、癒えぬ傷が常にじくじくと血を流してもいる。もう一人。七年間、愛する男だと信じていた彼。今は大切な幼なじみだと認識出来るようになったルークを、アッシュという存在は思い出させる。――彼を犠牲にした上に自分たちの幸せは成り立っているのだと。それを忘れるな、と痛みを伴う声は深淵から投げかけられ続けている。

「それでも……アッシュと共にいることを望み、幸せだと思ってしまうわたくしは……罪深い女ですわ」

「ナタリア……」

 ガイは呆然と彼女の名を呼び、そして己の顔をうつ伏せた。

「そうだよな……。キミも……奴だって、苦しんでいないわけじゃないんだ。俺は……自分が、情けない」

「そんなことはありませんわ!」

 ナタリアは声を大きくした。

「あなたがルークを忘れないでいてくれるということが、救ってくれてもいるのです。……いえ、わたくしはひどく残酷なことを言っています。でも……。信じて、信じ続けることが、ルークの戻る場所を、その形を保っている……そんな風にも思うのですわ。わたくしも……多分アッシュも、まだ、どこかで諦めきれないでいるのですから……」

「………」

「ガイ……? あなた泣いていますの……?」

 街灯の仄かな明かりの下、俯いて立ち尽くす男の顔を見上げて、女は小さく問いかけていた。




「ティアさん?」

 ぼんやりと夜道を歩いていたティアは、かけられた声に足を止めて振り向いた。

「やっぱり。どうしたんですか、こんな時間に」

 駆け寄ってきたのはノエルだった。兄のギンジと共に試作型アルビオールの操縦士であり、その卓抜した操縦テクニックで五年前の旅を大いに助けてくれた。操縦士役に徹していて、戦闘や探索を共にしたわけではないが、もう一人の旅の仲間と言ってもよい。

「特に理由はないわ。ちょっと散歩をしていたの」

「こんな時間に女性の一人歩きは危険ですよ」

 ティアさん、美人なんですから、と言ってくるノエルの言葉に僅かに赤面して、「ノエルだって綺麗じゃない」とティアは返した。実際、ノエルはなかなかの美人だし、何よりもスタイルがいい。ツナギ型のパイロットスーツが、彼女の強弱のハッキリした体型を更に際立たせている。

「私は大丈夫です。ここは私の街ですし――ほら、この部品を集会所に届けるだけですから」

 そう言って、ノエルは小脇に抱えていた薄い金属製のケースを示してみせた。

「私も大丈夫よ。これでも、一応神託の盾オラクルの騎士だから」

 それは事実で、そこいらの無頼漢はおろか見上げるような魔物であっても彼女の前には身を伏せるだろうことをノエルは知っていたが、それでも笑って、「そうですか……。でも、私は少し心細いかもしれません。よろしければ集会所の前まで一緒に来てくれませんか」と言ってみた。この街で唯一の宿は、集会所の裏にある。

 ノエルの気遣いに、ティアはすぐに気付いただろう。僅かに困ったように眉を下げて、それでも微笑んで「そうね」と頷いた。隣り合って夜道を歩き出す。

「……また、世界に大変なことが起きようとしているんですね」

 ノエルが言った。

「ええ……そうね」

「五年前に、みなさんがあんなに苦しんで、傷ついて、やっと掴んだ平和を、どうして覆そうとするんでしょうか」

「……平和の定義は一律的なものではないから」

 怒りを含んだノエルの声に、ティアは考えながら、冷静な声で答えていく。

「私たちにとっての平和と……彼……あの人のそれは違うものだったんでしょうね」

 そして、フローリアンを含めた多くのレプリカたちは、彼に従うことを選んだ。

「私たちが選んだものは……押し付けだったのかしら」

 ティアは瞳を伏せた。

(兄さん……)

 もはや「思い出」として淡い情景の一つになろうとしていた兄の姿を、彼――ヴァン・レプリカは強烈に引き戻した。故郷を滅ぼした自分に絶望して、それを知りながら見過ごした監視者たちに憤怒して、ユリアの願いを都合よく捻じ曲げて預言スコアに盲従する人々を軽蔑し、全ての根源となったローレライを憎悪して。それでも、世界を救い、存続させようとしていた兄。――それは、本物オリジナルを破壊して贋物レプリカと入れ替えるという、捻じ曲がり狂ってしまったものだったけれど。

(私は、兄さんの考えには決して賛同は出来ない……。でも今、兄さんの亡霊が現われて、また同じことをしようとしている。……兄さん。兄さんはまだ、オリジナルの世界を憎んでいるの? 間違っているのは私の方だって……そう伝えようとしているの……?)

「押し付けだなんて……! ……いえ、確かに、何が正しいのかなんて本当は誰にも分かりません……よね」

 ノエルの声が聞こえた。

「でも、みなさんはこの道を選んで……私は、それが間違っているとは思えません。私は、みなさんが迷って、考えて、この道を選んでいった姿を見てきたんですから」

「ノエル……」

 少し驚いて見やったノエルの顔には、微かに泣き笑いのような表情が浮かんでいった。

「それに、間違っていたなんて言ったら、ルークさんが泣いちゃいますよ」

 ティアは僅かに目を見開く。ノエルは小さく笑った。

「……五年ぶりにティアさんと会えた記念に、一つ告白しちゃいますね。――私、あの頃、ルークさんのことが好きでした」

「え……」

「まさか、あのまま帰って来ないなんて……思いませんでした。もう二度と会えないんだったら……告白、しておけばよかったなぁって、後で随分悔やみましたよ」

「………」

「あれからもう五年も経つなんて、不思議ですよね。世界の時間は確かに動いていて、変わったことも多いのに……私は今でも、ルークさんがどこかにいるような気がする時があるんです。

 この街とベルケンドをつなぐ橋にはルークさんの名前がついていて。兄も、アストンおじいちゃんもルークさんのことを忘れてはいません。……いいえ、きっとアルビオールで飛び回って出会った、世界中の人たちが忘れていない」

「ルークは……みんなの中では生きている……ということ、かしら……」

「ええ。……でも、それだけじゃない。もっと確かな何かがある気がするんです。……って、おかしなことを言ってますよね」

 生真面目な瞳に照れたような色を浮かべて、ノエルは笑って言葉を切った。

(ルーク……)

 ティアは、レムの村で見た、彼の幻を思い出した。

 見えたのはほんの一瞬で、だから本当に幻覚だったのかもしれない。……それを確認するのが怖くて、この話は仲間の誰ともしていなかった。

(本当に……本当に、もしも、ルークの存在がまだ消えていないのなら………引き戻すことができるのかしら……?)

 けれど、そんな方法は想像もつかないものだった。何もかもが不確かで。また絶望することを思えば、踏み出すこともためらうような。

「ティアさん……頑張りましょうね。この世界を、ルークさんが遺した平和を守りましょう。兄ともども、私も全力で協力しますから!」

 ノエルが力強く言う。いつの間にかたどり着いていた集会所から漏れる明かりに影を落としながら、「ええ」とティアも頷いた。




 一階にある酒場で食事を済ませ、しばらく飲んでいくと言うガイを残して宿に引き上げると、女たちはさっさと自分たちにあてがわれた客室に入ってしまった。ジェイドもベルケンドへ出かけているので例によって独りになったが、それでいい、とアッシュは思う。下手に色んなことを問われたくはなかった。――自分にもよく分からないのだから。

 ベッドの縁に腰掛けて、じっと意識を集中してみた。己の内へ意識を凝らす――かつて、レプリカに意識を繋げる時にしていた要領で。……しかし、何も捉えられない。

 レムの村で譜陣に捕らわれた時、聞こえたのは確かにルークの声だった――ような気がする。その後(かつて自分がルークを操った時のように)身体が勝手に動き、ローレライの鍵を使って、それで……?

 その後の記憶もはっきりしているが、記憶の質が違うというのか、どこか違和感がある。ちょうど、頭の中のルークの記憶を『思い出す』時のような感じだ。自分のものであり、けれど自分のものではないと区別されている。とはいえ、温めたバターの中でまだ溶けずに漂っているバターの一欠けのような、実にあやふやで危なげなものなのだが。

 いずれは全て溶けて混じってしまうのかもしれない。そうすれば、あるいは楽になれるのかもしれなかった。己の内の異物など、心地よいものではないのだから。だが、決して混じらせてなるものかと、意固地に区別を続ける自分がいることも知っている。

(これもそれも、あいつがグズグズしているせいだ。いるならいるで、早く出て来いってんだ、屑が……!)

 最近では口に出して言わなくなった悪態を頭の中でついて、アッシュは立ち上がった。どうにも、くさくさする。酒場でガイと顔をつき合わせる気は毛頭ないが、ボトルを買ってきて部屋で飲んでやろうか。そんな風に思って廊下に出ると、出入り口とは反対の突き当たり、ソファやテーブルが置かれた小ぢんまりとした喫茶スペースに、緩やかな黒髪を垂らした小柄な背が見えた。

 僅かに眉間のしわを深めたものの、アッシュは結局、出口へ向かうのはやめて、彼女の背に近付いた。

「おい、そこで何をしている」

 一歩間違えれば詰問とも取れそうな口調で呼びかけると、アニスは大きな琥珀の目で見返して「あ、アッシュ……」と言った。アッシュの眉間のしわが更に深くなる。声の調子に今ひとつ覇気がない。

「……ナタリアたちはどうした。部屋にいないのか」

「ティアは、さっき散歩してくるって言って出かけていったよ。ナタリアは部屋にいるけど」

 答えて、アニスはニヤッと笑うと「ナタリアの所に行くのはいいけど、節度はわきまえてよね。婚約者とはいってもまだ婚礼前なんだしさぁ」とからかい口調で言った。

「ばっ……!! な、何を言っている! 別に、ナタリアに用事があるわけじゃねぇっ!!」

 顔面を見事に朱に染めて怒鳴り返すと、「冗談だよぅ。アッシュってば、相変わらずガッチガチだよねぇ。面白いけど」とアニスは肩をすくめた。

「なっ、ぐっ……」

「あはは。ごめん、ちょっとからかい過ぎた? ……私の心配をしてくれたんだよね」

 ありがとう、と言って、アニスは視線を前に戻す。彼女の座ったソファの後ろに立ったまま、アッシュは少し困った気分で腕を組んだ。

「フローリアンのことを考えていたの」

 やがて、アニスは話し始める。

「五年間、あの子とは一緒にいて、何でも分かってるって思ってた。フローリアンも、私の言うことを分かってくれるって。……でも、違ったんだなぁって」

 僕を通してイオンを捜してる。そう言われて返す言葉がなかったよ、とアニスは苦い笑みを落とした。

「そうしてるつもりはなかったけど……そうだったのかもしれない。だってやっぱり、考えちゃうもん。イオン様のこと……。同じ顔をしていて、同じ声で。そりゃ、イオン様は十四歳で死んじゃったから、今のフローリアンとは違うけど……。イオン様が生きていたらこうなったのかなぁとか、……考えちゃうよ。だけど、それが、フローリアンを傷つけてたんだね」

 アッシュは黙ってアニスの背を見つめている。

「私は、私がフローリアンを見てイオン様のことを考えてるってこと、フローリアンが気付いてないって思ってたみたい。ううん、気付いてたとしても、それで彼がどう思うかなんて考えたことがなかった。……考えないようにしてたのかな。それで、分かったんだ。……私は、フローリアンをいつまでも子供のままだって思ってたのかも、って。見かけよりずっと無邪気で、純粋で、かくれんぼやシチューが好きで。そんなフローリアンが大好きだったけど、でもそれは……。

 結局、私はもうずっと、フローリアンを一人前の人間として見ていなかったのかもしれない」

「……あいつが、レプリカだから、か?」

「そんな! 違う!」

 パッと振り向いて叫び、しかし、アニスはやがて力なく視線を落とした。

「違う……と思うけど、……そうなのかな」

 レプリカだから。無邪気で、まっさらで、世の醜い物思いなど知らない。永遠に『彼の人の面影を宿した子供』のままで。

「……やっぱり、私のせい? 私が、ちゃんとフローリアンに接しなかったから……だからフローリアンはイオン様になろうとして………。行っちゃうなんて。やだよ、こんなの……」

 腕組みをしたまま、アッシュはぐっと顔を歪めて舌打ちをした。

「泣くな! くそっ……。そういうことじゃねぇんだ!」

「え……」

 見上げてくるアニスを、アッシュは碧の目で見返す。

「……自分が何者か、その生きる意味は何か……そういった疑問は、いずれ誰もがぶつかるものだ。オリジナル、レプリカ関係なくな。……あいつがレプリカであることは変わりがない。レプリカという存在が、誰かと重なったものであることも含めてだ。だが……その意味は自分で思考し、結論をつけていかなければならない。『イオン』という存在に依存して生きるか、そうでないか……。手前てめぇの価値は誰かに決めてもらうものじゃないからな」

 あいつも、自分でそのことは分かってるはずだ。だからお前が責任を負うことじゃねぇんだよ、とアッシュは言った。

「ただ……あいつがそれを決めた時、受け入れる場所を作ってやっていて欲しい……それが、あいつらレプリカを生み出した、俺たちオリジナルの責任だろう」

「うん……」

 静かにアニスは頷いていた。アッシュを見上げる瞳は微かに揺れて、けれど澄んでいる。

「でも、変な感じ。アッシュってば、ずっと一緒にいた私より、よっぽどフローリアンのこと分かってるみたい。……まるで、レプリカの気持ちを知ってるみたいに言うんだもん」

 虚をつかれて、アッシュは口を閉ざした。

「でも、ルークならきっと……同じように言ってくれたよね」

 一度目を伏せて笑ってから、アニスは再びその視線にアッシュを捕らえた。

「ねぇアッシュ。レムの村で譜陣の罠に捕まった時――」

 しかし、彼女の言葉はそれ以上続かなかった。いつの間にそうしていたのやら、ソファの背に登って来ていた一匹のネズミが、チチッと鳴きながら彼女の肩に駆け登ったからだ。

「ひっ!? いやぁあああああああ!!!」

 アニスは叫び、無我夢中の態で立ち上がって肩のそれを引っつかむと、ぶん投げた。哀れ、ネズミは勢いよくすっ飛んで行き――しかし、深緑のものにポスンと柔らかく当たって無事に済んだ。その深緑のものは布で出来ていて、金の縁取りがある。物語で海賊が被るような形の帽子だ。そして実際、その帽子を被った男は海賊の扮装をしているかのようだった。片目に黒い眼帯を着けている。アッシュが目を丸くした。

「お前は……ヨークか!」

「お久しぶりでさぁ、アッシュの旦那」

 盗賊団・漆黒の翼の一員で、首領ノワールの片腕の一方。かつてアッシュが配下として雇い入れていた三人の盗賊のうちの一人であった。

「お話中失礼でしたが……お伝えしたいことがありましたんでね」

 「なんだ」と鷹揚に問い返すアッシュの隣で、立ち上がったままのアニスは「ほんっとーに失礼だよ! 何そのネズミ!? 信っじらんない!」と息巻いている。

「こいつは俺の可愛い相棒ですよ。おおよしよし、乱暴されて怖かったなぁ」

「いきなり肩に乗るからでしょー!? 大体、ネズミが相棒だとか、ありえないっつの!」

「だから、何だと訊いている!!」

 アッシュ一人キレて怒鳴ると、それた話はあっさりと元に戻された。

「そうそう。旦那たちが探している音素フォニム増幅機関ですがね。在り処が分かりましたよ」

「……何!?」

「えっ……ちょっと、なんで? なんでそんなことをあんたたちが知ってんのよ!」

「蛇の道はヘビ、ってね。俺たちには俺たちのルートがあるんだよ。……で、そのルートで見つけましたぜ。裏で取引されていたヤツを」

「裏って……。創世暦時代の貴重な遺物でしょー。ユリアシティにもないって言うのに、なんでそんなもんが裏で取引されてんのよ」

 アニスは胡乱げな目で睨んだが、ヨークはケロリとしたものだった。

「さぁ。なんでも、二十年ほど前に西ホド諸島辺りで回収された浮遊物だって話だけどな。俺たちには分からんさ」

「そうか……ホドが崩落した時に崩壊したパッセージリングの破片の幾らかが、外殻の海に流れたんだな」

 アッシュが呟く。アニスは不満げに眉根を寄せたまま、ヨークに顔を向けて尋ねた。

「んー……まあいいケドぉ。それで、どこにあるのよ」

「ケセドニアだ」

 ヨークは答えた。アッシュに顔を向ける。

「商人ギルド代表のアスターに話はつけてあります。訪ねて話を聞いてみることですね」

 それだけ言うと、彼はもう背を向けて歩き始めた。帽子にネズミを載せたまま。

「おい……待て、ヨーク」

 その背に、アッシュは声をかけた。

「お前たち……何故、俺にこんな情報を流す? 俺はもう、お前たちを雇っているわけではないんだぞ」

「気にするこたぁありません。ただ、俺たち盗賊にも仁義ってものはある。借りは返すってだけのことですよ」

「……借り、だと?」

 アッシュが怪訝に眉を顰めると、ヨークは顔だけチラリと振り向いた。

「五年前、最後の戦いの時、あんたは俺たちをエルドラントへ連れては行かなかった。……まあ、所詮金で雇われただけの関係といえばそうだったが、俺たちだって、ただそれだけであんたに付き合って世界中駆けずり回ってたってわけじゃあないってことさ」

 俺たちも、ノワール様も、最後まであんたに付き合っても構わなかったんですぜ? そう言い残して、盗賊の男は夜の闇の中へ滑り出して行った。






 中立都市ケセドニア。ザオ砂漠の西端、イスパニア半島との境にある商業都市である。

 翌日、ジェイドが戻るのを待って、一行はアルビオールで海を駆け、この都市へやって来た。

 ケセドニアは、数十年前までは国境で交易を行う小さな村だった。しかし、ここで得られた財をローレライ教団へ献金し続けた結果、教団はこの村の有用性を認め、キムラスカ・マルクト両国に働きかけて自治区として認めさせたのである。

 今でも、ザオ砂漠側はキムラスカ領、イスパニア半島側はマルクト領とされて各国の領事館が置かれてはいるが、実質の都市の運営は商人ギルドによって行われている。その代表者がアスターだ。彼こそが、ローレライ教団との繋がりを作り、小さな村を巨大な流通拠点へと変貌させた立役者でもあった。




「ようこそおいで下さいました、みなさん。またお会いできて光栄ですな。ヒヒヒ」

 国境をまたいで建っている、一代の財で築かれた彼の豪邸に入ると、すぐにアスターが現われてそう言った。ターバンを巻いた鼻の大きな小男だ。客人が座らされた席よりも一段高い場所に立っている。

「相変わらず悪人笑いだよねー……」

「しっ、アニス。聞こえますわよ」

 口に指を当てて注意するナタリアの声も充分に大きいが、聞いていないのか、それとも言われ慣れているのか、アスターは気にした様子もない。

「アスターさんもお元気そうで何よりです」

 ティアが言うと、アスターは神託の盾オラクルの軍服をまとった彼女に軽く頭を下げた。

「教団にはいつも便宜を図っていただいております」

「相変わらず、街もにぎわっておりますわね」

 ナタリアが言う。

「ありがとうございます。もっとも、最近は以前ほどの景気ではありませんな。キムラスカとマルクトの関係がかなりよくなりましたから」

「まぁ……戦争の時の方が物価は上がるからな」

「前はダアトを介した三角貿易もしてたけど、今はそれも出来ないもんね〜」

 ガイが少し困った顔で言い、アニスが肩をすくめた。

「ええ。ですから、その分もダアトには我々ギルドの受け入れ枠を増やして欲しいと、常々お願いしているわけですが」

 ローレライ教団は、ケセドニア商人ギルドを含めた全世界の信者からの寄付金によって運営されている。その見返りとして教団はケセドニアを自治区として認めさせたわけだが、その他にも、教団の本部のあるダアトでのケセドニア商人の独占的な商業活動をも認めている。現在は第一自治区に限定されているのだが、その活動許可地域をもっと広げ、多くの商人を受け入れて欲しいと、近年ケセドニア商人ギルドは要求していた。

「その件に関しては、大詠師トリトハイム以下、詠師の方々が相談して決められることになると思います」

 ティアが事務的な口調で答えた。

「詠師でもあられるあなたのお祖父様、テオドーロ様にもよろしくお伝えください。イヒヒヒ」

「そんなことは今はいい。俺たちは、音素フォニム増幅機関の件でここに来たのだが……」

 腕を組んで、むっつりとアッシュが言う。

「ええ、お話は伺っておりますよ」

 鷹揚に頷いて、アスターはパンパン、と手を打ち鳴らした。やがて、一人の老女が一枚の紙をトレイに載せて現われる。

「――まあ、ばあや! ばあやではありませんの」

 老女の顔を見て、ナタリアが大きな声を上げた。いささか無作法だが、席から立ち上がってしまう。

「お久しぶりでございます、ナタリア様」

「本当に。……そうですわ、婚礼の招待状を送ったでしょう。どうして辞退などするのです」

「そんな、恐れ多い。わたくしには、そのような資格はございません」

「そんなことありませんわ。それに、あなたはわたくしの本当の……」

「ナタリア」

 アッシュが婚約者の名を呼び、その言葉をやんわりと途切れさせた。

「あまり人を困らせるものではない」

「あ……。そ、そうですわね……」

 ナタリアは僅かにうつむいた。

 ナタリアはキムラスカ・ランバルディア王国の王女だが、国王の血を引いてはいない。本物のナタリア王女は死産で、精神の不安定だった王妃を案じた侍女――ナタリアの乳母が、生まれたばかりだった自分の孫娘とこっそり入れ替えたのだった。その秘密は十八年間守られ続けたが、世界を揺るがした五年前の災厄の中で暴露され、ナタリアは一時は国家反逆罪で死刑を言い渡された。だが様々な波を乗り越え、血の繋がり以上の心の繋がりをもって、今、彼女は紛れもなくキムラスカの王女、インゴベルトの子として世界に認められている。

 本来ならナタリアと共に死罪になるはずだっただろう乳母も赦され、しかしバチカルに留まることを自らよしとせず、五年前からアスターの屋敷に仕えているのである。

 確かに、あれだけの罪を犯したのだ。ナタリアもインゴベルト王も苦しんだが、産みの母であるシルヴィアは狂死し、父であるラルゴは娘と殺し合うことになった。全てが丸く収まったとはいえ、おめおめと婚礼の祝いになど顔を出せるものではないだろう。

(でも……わたくしにとって、ばあやはばあやですわ。それに、今となってはただ一人の、血の繋がった……)

「……確かに、今更バチカルに顔を出すのは気が引けるだろうがな」

 アッシュが、老女に向かって言った。

「伯父上はお前を呼ぶことを認めたのだし、俺も気にしていない。そもそも、お前がそうしなければ、俺はこいつと出会えなかっただろう。……考えておいてくれ」

「アッシュ……!」

 ナタリアが大きな目を更に見開いて見返してくる。老女は感極まったように顔を伏せ、「ありがとうございます」と声を絞り出した。

「この地図に、音素フォニム増幅機関を置かせている場所を記しております」

 そう言ってアスターがトレイから取り上げた紙を受け取りながら、「このために彼女にこれを持って来させたのですか?」とジェイドが笑った。

「キムラスカのプリンセスのご婚礼は、我ら商人ギルドにとっても大変な慶事でございますからね。ドレスや宝石など、色々とお買い上げをいただきました。ヒヒヒヒ」

 アスターは相変わらず悪人風に笑う。「再び憂いが払われ、お二方が晴れの日を迎えられるのを、心よりお祈り申し上げていますよ」と、立ち去る一行を見送った。






「ケセドニアに来るのは久しぶりだが、相変わらずの人ごみだな……」

 アスターに渡された地図を見ながら、ガイが言った。一行はバザールの間を抜けて、街の北部へ向かっている。

「それにしてもさぁ、漆黒の翼が教えてくれた話なのに、街の代表のアスターに話が通ってるっていうのも……」

「まあ、言わぬが花、ってヤツだな」

 アニスの言葉にガイは苦笑する。盗賊団・漆黒の翼の本当の拠点はラーデシア大陸のナム孤島にあるが、このケセドニアでもサーカス団・暗闇の夢として拠点を持ち、酒場など、彼らの息のかかった場所も多い。つまりはそういうことなのだろう。

「放っておいてもいいのかしら……」

 生真面目なティアの呟きに、ジェイドが笑いを返した。

「仮にも軍籍を持つ者としては見逃せない気もしますが、今回は彼らに助けられているわけですしね。持ちつ持たれつ、といったところでしょうか」

「あら、そういうところから法が崩れていくのですわ」

 ナタリアがギロリと睨む。

 などと、少しずつズレながら続けられていく会話に加わらないでいたアッシュは、不意に「おっ、そこの赤毛のお兄さん!」と呼びかける声を聞いて足を止めた。

「そうそう、あんただ、あんた」

 露店の一つから男が身を乗り出して呼んでいる。

「……何の用だ」

「そりゃないだろう。注文してたのはあんたじゃないか」

「はあ? 俺は知らんぞ」

「まあアッシュ、何か注文してましたの?」

 ナタリアが後ろから言った。

「ここって、装飾品のお店だよねぇ……ナタリアにプレゼントとか?」

 ナタリアの隣から覗きこんで、アニスが言う。

「あら、指輪はもういただいていますのに」

「だから、俺は知らんと言っている! おい貴様、いい加減なことを言うと承知せんぞ」

 ジロッと睨みを利かせて言うと、店主は震え上がりながら「う、嘘なんて言ってねぇよ!」と必死に訴えた。

「その赤毛。確かにあんただった。そりゃ、五年も経っちまってるから忘れられても無理ないかもしれないが、こっちは商品を探して、ずっと取りに来るのを待ってたんだぜぇ!」

「――五年、だと?」

 アッシュは眉間にしわを寄せた。

「と、いうことは」

 ジェイドが顎に手を当てて呟く。

「……ルーク、か?」

 ガイが言った。

「とにかく、こっちはずっと待ってたんだ。忘れたたぁ言わせねぇ。さあ、買い取ってくれ!」

「……ちっ」

 アッシュは懐から財布を出した。「毎度あり!」と満面の笑みを浮かべた店主から、その品物をひったくる。それは、ごく小さなピンバッチ風の形状をした響律符キャパシティ・コアだった。シンプルだがなかなか品がよく、金色の石が三つ、丸く並んでいる。『調和ハルモニア』という文字が刻んであった。

「これをルークが……?」

 覗きこんでティアが小首を傾げた。

「うーん……ルークがわざわざこんなものを注文してたなんて。もしかしてっ、誰かへのプレゼントかなっ」

 アニスが言った。実に楽しそうに笑みを浮かべている。

「やっぱ、ティアかな?」

「えっ、わ、私!?」

 アニスに覗き込まれたティアは、ぱっと赤面した。

「そ、そんな……そんなこと分からないわよ。あ、そ、そうだわ、ガイへのプレゼントかも」

「あー、まあ、それもあるかも」

 アニスがうんうんと頷くと、ガイは「いやー、それはどうかねぇ……。やっぱりティアじゃないか?」と困ったように笑った。

「う、ううん。ガイよ。ガイはルークの親友だもの」

「いや、ティアだろ」

「……って、何二人で譲り合ってるかなぁ」

 延々と言い合っている二人を見て、流石に呆れてアニスが呟く。ジェイドが苦笑した。

「そうですねぇ。誰かへの贈り物ではなく、自分のためのものかもしれないでしょう」

「そうですわね。厳しい戦いが続いていましたし」

 ナタリアが頷いた。その隣で、アッシュは苦虫を噛み潰している。

「チッ……そんなことはどうでもいい! さっさと行くぞ!」

「あっ、待ってくださいアッシュ。この響律符キャパシティ・コアはどうしますの?」

「アッシュが持っていればいいんじゃないですか?」

 ジェイドが言う。

「そうだね。アッシュがお金払ったんだもん」

 アニスが肩をすくめて笑った。






 しばらく後、一行は街外れの一軒の店の前に立っていた。

「ここ……だよな」

 地図を手にしたガイが言う。いや、地図を見たときから実は分かっていたのだが、認めたくなかったと言うのか。

『ディンの店』

 看板にはそれだけが書いてある。

「何の店だ? ここは」

 アッシュが言った。彼はこの店を利用したことがないらしい。

「鉱石などの交易品を納めると、色んな品物を作ってくださるお店ですわ」

「厳密には、仲介屋ですかね。各アイテムの職人に納められた交易品を卸して、こちらからのアイテム作製依頼を取り次いでくれるんです」

「ってー、説明だけ聞いてると、すごく真面目なお店みたいだけどねー」

「……違うのか?」

 ナタリア、ジェイド、アニスの言葉を聞いてアッシュが怪訝に眉を寄せると、「ま、入ってみれば分かるさ」とガイが苦笑した。……ティアは、なにやら影の入った表情である。

 ともあれ、一行は店の中に入った。

 店の中にはカウンターがあり、そこに小柄な男がいる。その目が入ってきたアッシュを捉え、大きく見開かれた。

「……お……おーー! ルー君! 久しぶりでしゅねー!!」

「は……はぁ?」

「死んだって噂を聞いたけどー、ウチは信じてましぇんでした! やっぱその通り〜。それで? 今日はまた交易品を持ってきてくれたんでしか?」

「あ、あのなぁ……」

「ディン。この人はルークではありませんわ。アッシュです」

 ナタリアが前に出ると、男――ディンは更に声を上げた。

「おー、ナっちゃん! 相変わらず好奇心いっぱいって感じだすな〜。交易品、集めてるー?」

「今日は交易品を納めに来たのではありませんわ」

「お、おお? それってつまりは冷やかし? 冷やかしなの? ウチ、弄ばれてる?」

 「相変わらずですねぇ……」と、背後で苦笑するジェイドの声が聞こえたが、それ以前にアッシュの忍耐は切れていた。なにしろ普段から切れ易いので。

「誰が弄んでるか! 人聞きの悪いことを言うなっ!」

「だったら〜、とっとと交易品を持ってくるね。あい、頼んだー」

「……は、話が通じん……」

 思わずグラグラするアッシュである。隣から、ナタリアが「アッシュ、頑張ってください!」と励ます声が聞こえた。

「やれやれ……我々は漫才を聞きにここに来たわけではないのですがねぇ」

 溜息をつきながらジェイドが前に進み出た。

「ディン。私たちはアスター氏の紹介でここに来ました。……品物を渡してください」

「おー……。あい、分かったっしゅ」

 ディンはカウンターの奥へ行く。少しゴソゴソとして、すぐに出てきた。カウンターの上に小さな箱を置く。

「預かってたのはこれなのさー」

「って、すぐに出せるんじゃねぇか!」

「まあまあ……品物が手に入ったんだからもういいじゃないか」

「そうね。これ以上ややこしいことになる前に、さっさと店を出た方がいいと思うわ」

 怒鳴るアッシュを宥めるガイの横で、ティアはもうずっと視線を店主からそらしている。何かよほど合わないものがあるのかもしれない。




 一行はディンの店を出た。

「それにしても、思っていたよりも随分と小さなものなのですわね」

 受け取った箱を持ち上げて眺めながら、ナタリアが感想を漏らす。

「創世暦時代の譜業装置は、小さなパーツを組み合わせる形式になっていることが多いの」

「ユリアの時代の技術というものは、全く大したものだったんですね」

 ティアとジェイドが言うと、ガイが「な、なあ……少し見せてくれないか?」とそわそわした調子で言ったが、全員に却下された。

「いいじゃないか、少しぐらい……」

「だって、ガイに見せると分解しちゃいそうなんだもん」

 情けない顔をするガイに、アニスが無情に見解を告げる。

「そうですわね。ネコにマタタビ、ガイに音機関ですわ。危険すぎます」

 つんと顎をそらして言って、ナタリアが片手で小箱を顔の横に持ち上げた、その時だった。

「!? 危ないっ」

 叫んだのは、ティアだ。

 だが、その瞬間にあらゆる状況が動いていた。

「きゃっ……!?」

 ナタリアは小さく声を上げる。強く引き寄せられ、隣にいたアッシュの腕の中に倒れこんでいたからだ。そして、彼女が動かないでいた場合にその眉間を砕いていただろう矢は、鞘走ったガイの剣によって叩き落されている。矢は、やや離れた物陰から放たれていたのだが、そこに半ば駆け寄ったジェイドが、腕から現出させた槍を投げつけていた。

「うっ!」

 槍は、そこに隠れて弓矢を構えていた人影の腕を切り裂いた。弾みで、物陰からその襲撃者がまろび出る。若い女だ。切り裂かれた傷から血が流れ落ちていく白い腕に、刺青のように譜紋が刻まれているのが見えた。

「何者なの!!」

 アニスが杖を構えて叫んだが、女はこれ以上攻撃する気はなかったらしい。片腕を抑えたまま、素晴らしい身の軽さで近くの建物の屋根に飛び上がると、そのまま屋根から屋根へ跳んで逃げ去った。

「何だ? あの女は……」

 剣を片手に、ガイが固い顔で呟く。

「襲撃者……? 我々が何をしに来たのか知っていて、妨害しようとしたのでしょうか」

「だとすれば、レプリカでしょうか?」

「それは分かりませんが、そうならば厄介ですね」

 ジェイドとティアの会話をよそに、アッシュの腕の中のナタリアは目を見開き、小さく呟いていた。

「今のは……!?」

「……ナタリア? お前、何か心当たりがあるのか?」

 聞きとがめてアッシュが訊ねたが、ナタリアは「いえ、そんなはずは……」と首を横に振る。揺らぐ視線を伏せた。

「そんなはずは……ないのですわ」





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