『お前、ホントに何も知らないんだな』

 その少年は太い眉をきゅっと上げて少女を睨みすえた。

『確かに今、ホドでは戦争が起こってないさ。だけど、いつこっちに飛び火してきてもおかしくないんだぞ』

 魔物だって十年前よりずっと増えてるって、爺ちゃんが言ってたからな。そう言う。

 少女の平和で穏やかな暮らしは、ほんの些細なきっかけで研究所のあった小島を出、ホド諸島の本島へ至ったことで色を変えた。

『十年前の大変動より昔は、ホドは大陸だったんだって俺は聞いてる。その頃、俺も弟もまだホントにガキだったけど……北の小島で使われた譜業兵器で、地殻が変動して津波が起こって……それで父さんも母さんも死んじまった。

 バカバカしいじゃんか。第七音素セブンスフォニムってのがどんなに凄いんだか知らねぇけど、それを取り合って世界中の人間の半分が死んだのに、戦争は未だに続いてる』

 父の形見だという剣を、少年は握っていた。それで弟を、身近な人々を守るのだと。だが、実際に攻め入ってきた他国の部隊の前に、その力がどれほどの役に立っただろう。実際彼の剣技はつたなく、むしろ殴る方が得意で、技と言うよりはただの喧嘩法めいていた。

 全てがついえようとしたとき、少女の歌が流れを変えた。その響きによって引き寄せられた自分――「聖なる焔の光」が、少年の持っていた剣に宿る。少年の剣は輝き、敵を白光で貫き、消し去った。少女の歌っていた、その間に。

『本当に戦争を止めたいと思うのなら……自分で行動しなくちゃならない』

 焼かれた村で、少女ユリア・ジュエ少年フレイル・アルバートは決意を込めて呟く。そしてまた、遠くで呟き、哄笑する声もあった。

『サザンクロス博士を探すまでもなく、どうやら目当てのものを見つけたようだ。……第七音素を操る力――ローレライの乙女をな!』

 

 この時、一つの物語が幕を開けた。

 ――この物語がどんな結末を迎えるのかを、自分は「知っている」。その未来の記憶は、少女が歌い、自分の力を必要とする時、望むと望まざるとに関わらず濃厚に混じり合って、彼女にも漏れ伝わっていた。

 

『第七音素の力に感応できる人間は、そう多くはない。その中でも未来を見る力を持つ者は更に稀少なんです。ユリアさん、あなたは素晴らしい預言士スコアラーだ!』

 第七音素の意識集合体ローレライ。十数年前に第七音素を発見したサザンクロス博士ら研究者が存在の可能性を提唱した、世間では未だ「眉唾」とされているモノ。それを崇める集団を作っていると言う若者は、ユリアの力を誉めそやした。

 少女のはたでそれを聞く少年はといえば、不機嫌そうに顔をしかめている。

『第七音素には星の記憶が刻まれてるー、とかいうヤツだろ。ハン、そんなのアテになるかよ』

『おやフレイルくん、キミだってユリアさんの預言スコアには随分助けられていたと、ヴァルターくんに聞いていますがね』

『ぐっ……。お、おいヴァル! こいつに余計なこと言うなよっ!』

『わぁああ、やめてよ兄さんっ。悪かったってば!』

『とにかく。今、世界は乱れ、人々は先が見えずに不安に震えています。ローレライの力はその暗闇を払い、人々に希望を、未来を見せてくれる! ユリアさん、あなたはその体現者だ。いわば聖女。まさに、十年前に出現が預言されていた、「ローレライの乙女」です!』

『すごいですの! ユリアは聖女様ですの?』

 肩で騒ぐチーグルの声を聞きながら、少女は戸惑っていた。それはそうだろう。己という存在を、その価値を、周囲に一方的に決められてしまったのだから。それに乗ってしまうのは簡単で、しかしそうなれば抗えない流れが生じる。それをまた、自分は「知っていた」。それがたとえ間違った流れであろうとも、己ではどうにも出来ないものになるのだと。

 迷い、悩んで。それでも一つの事件を解決に導いて、この力で救えるものがあるのなら、と少女は歩き出す。彼女のその選択が、その後二千年にも渡るこの星の「人の運命さだめ」を決定付けることになると、この時は未だ知らないままに。

『……って、なんでお前が付いて来るんだよっ。お前は教団ってのを作るんだろ!』

『僕のことはフランシスと呼んでください、フレイルくん。勿論、教団設立の夢は捨ててはいませんよ。ですが、そのためにはユリアさんの力が必要なんです。別にキミに付いて行くわけではないので、安心してください』

『だーっ、なんでもいいから、付いてくんなっ!』

 この頃、少女たちは未だ幼く、先のことなど知らぬ無知蒙昧の中にあり。

 けれどそれ故に、暗く絶望に沈んだ世界の中で明るく鮮やかな光を放っていた。







 音素フォニム増幅機関を入手したアッシュたち一行は、その旨を鳩で各地に報せた後、アルビオールでユリアシティへと向かった。

 ユリアシティは中央大海のやや西南、西ホド諸島の西端に位置している。かつては『監視者の街』として、ローレライ教団のごく一部の人間にしか知られず、魔界クリフォトの闇の中に潜んでいたこの街も、今では日の光にさらされ、当たり前に存在する都市の一つとして世間に知られている。とはいえ、創世暦時代に建造されたその外観は特異で、相変わらず一般には秘匿されたものも多く抱え込んでいるようなのだが。ローレライ教団の真の本体としての顔も持つこの都市が、本当の意味で全て開かれるのは、当分は先のことになるのだろう。




 暮れて行く空は、くっきりとした青と橙と、その狭間に淡い薄若葉色を滲ませていた。シティの上部全面を覆うドームのガラス越しにも、それはよく見える。

 ほんの五年前までは、そこに見えるのは外殻に閉ざされた闇だけだった。障気の霧が発光してぼんやりと紫色に輝いてはいたが、雲もなく、星もなく、無論、ルナ太陽レムも見えない。遠く、ホドが崩落した跡の外殻の穴から日が差し込むのが見えることもあったが、それだけのことで、ユリアシティとその市民たちが自然の光の恩恵に浴せることは決してなかったのだ。

 シティには市民の肉体的・精神的な健康のために擬似的な日照や夕景を体験できるスペースがあり、譜業の照明によって外殻の植物も育てられていた。人間も植物も、太陽の光がなくては生きていけない。だが、それはそれとして、紫の闇に包まれた不自然な自然を愛好しようとする心の動きがあるのも、二千年をこの地で過ごした人々にとっては自然なものだったのかもしれない。

 シティの中心部にあるテオドーロ市長の自宅には、広い庭がある。上部全面をガラス張りにして大きく『空』を見せたそこには、一面、セレニアの白い花が咲いていた。闇に閉ざされた魔界クリフォトでは、花はひ弱で、譜業の照明を当てておかねば咲くこともないものだったが、外殻では夜に咲くというこの花だけは、自然のままに群れ咲かせることが出来たのだ。

 魔界ではあまり知られていなかったこの花を、この家で育ち外殻へ出て行った若者が、妹のために持ち帰ってきた。

 だから、彼女はこの庭が大好きだった。仕事でなかなか帰れない兄を待つ間、よくここにいた。花を摘み、花冠を作って遊び、兄に相談したいような悩みがある時は花を見ながらぼんやりもした。

 自分が持ち帰った一株の花が、魔界の庭を覆い尽くしているのを見て、兄は驚き、喜んでくれた。『まるで……あの場所のようだな』と呟いたのを聞きとがめて訊ねると、覗き込み、唇に指を一本当てて、秘密の場所だ、と小さく笑った。それでも知りたいとせがむ妹に向かい、謎を明かす物語の譜術使いのように悪戯っぽい表情で、『我らの始祖の眠る地だ』と。そしてまた言った。

『いつか私が死に……始祖の元へ還る時が来たなら、こういう場所に眠りたいものだな』

(それを聞いて私は驚いて、死なないで、兄さん。絶対死なないで、って言って泣いてしまって。兄さんは困ったように笑って私を宥めて、『死にはしない、メシュティアリカ。成すべき事をやり遂げるまでは……私は決して死なない』と言ったんだったわ)

 ガラス張りの天井を通して見える夕景の下、セレニアの花の群れ咲く庭に、今もまたティアは立っていた。彼女の前、庭の中央には墓石がある。『ヴァン・グランツ』。そしてまた、『ヴァンデスデルカ・ムスト・フェンデ』とも刻まれている墓。

 かつての己の願いどおり、彼はこの場所に眠っていた。とはいえ、この下に亡骸があるわけではない。彼はルークの第二超振動で分解されて消えてしまった。――いや、そもそも滅びかけた肉体をローレライを取り込むことで無理やりに繋ぎ止めていたのだから、それが切り離された時点で存在を維持することは出来なかったのだろうが。

 五年前、エルドラントから帰った直後は、ここへ来るのが辛かった。……それでも行かずにはおれなかったのだけれど。ルークや、リグレットや……愛する者を失った痛手を慰めるには、兄とこの庭の存在は不可欠だった。それほどに、ティアにとってヴァンの存在は大きかったのだ。自らの手で(二度も)彼を殺しながらも、ティアは兄を憎んではいなかったし、また、兄も自分を憎んではいないという確信があった。――ただ、信じるものが違っていたというだけだ。

 揺れる瞳で墓石を眺めていたティアは、小さく息を吸い、歌を口ずさみ始めた。ヴァンが子守唄代わりに彼女に聴かせた、彼らの始祖の秘密の歌を。

 

 ――深淵へといざなう旋律。

 ――堅固たる守り手の調べ。

 ――壮麗たる天使の歌声。

 ――女神の慈悲たる癒しの旋律。

 ――魔を灰燼となす激しき調べ。

 ――破邪の天光きらめく神々の歌声。

 そして……。

 

 ふ、と息を吐いて声を止めると、「相変わらず綺麗な声ですねぇ」と軽く拍手しながら言う声が聞こえた。振り向いて、その男の姿を視界に捉える。

「将軍」

「失礼。――邪魔をしましたか?」

「いえ……そんなことはありません」

 胸に抱きしめていた本を片手に持ち直して、ティアは首を横に振った。

「それは……さっき受け取っていた、ヴァンの本ですね」

 ティアの手の中のそれに視線を送り、ジェイドが言う。

 二、三時間ほど前に一行はユリアシティに入り、音素フォニム増幅機関をシティの職員に渡した。他の部品は概ね揃っているが、組み上げるのに一日はかかると言う。それを了承して部屋を出たところで、一人の女性がティアに声をかけてきた。ティアが『レイラ様』と呼んだ彼女が、その本を彼女に渡してきたのだ。

 

『譜歌の象徴や意味に関してメモが書いてあった、例のヴァンの本よ。……今のあなたには今更なものかもしれないけれど』

『でもレイラ様、宜しいんですか?』

『いいのよ、私は写しの方をもらったわ。……ヴァンは大きな罪を犯したけれど、誰よりもユリアについて理解していた。私には分からなくても、あなたには役立つ何かが残されているかもしれない。

 今また世界が荒れようとしているのに、私には何も出来ない。せめてこれくらいはさせてちょうだい』

『レイラ様……ありがとうございます』

 

 ヴァンが使っていたという何の変哲もない音素フォニム学の本。だが、彼はその本に隠しページを作り、そっとユリアの譜歌に関するメモを書き記していた。――恐らくは、いつかそれを目にするだろう妹のために。

「……考えてみれば、皮肉ですよね。私は、譜歌を全て兄から学びました。その譜歌がなければ、ローレライを取り込んだ兄を滅ぼすことは出来なかった」

「そういえば、ルークやアッシュの剣術もヴァンが教えたものでしたね」

「そうです。兄の修めたアルバート流剣術は、本来はフェンデ家のみに伝えられる一子相伝の技でした。……どうしてそれを兄がルークたちに伝えたのかは分かりませんが……」

 ティアは言葉を切り、けれど何か言いたげな含みを残して口をつぐんだ。ジェイドは、勿論それが分かっていただろうが、彼女が再び口を開くのを待たずに言葉を発する。

「彼らを手駒として使うために、適度な力を与えておくのが都合がよかったということかもしれません。いずれにせよ、彼らを長くは生かしておかないつもりだったのでしょうし」

「……そうですね。そうかもしれません。ですが……。馬鹿な考えかもしれませんが、私は、兄が『再生の芽』を残そうとしていたのではないか、と思えることがあるんです」

 ティアは言った。

「兄は世界を滅ぼしてレプリカと入れ替えようとしていました。確かにそうすれば世界は預言スコアから逃れられたのかもしれない。けれど、それはひどく俯瞰的で――情のない、理屈だけの方法ですよね。

 兄がローレライを憎むようになったのは、預言の犠牲となって苦しみ、死んでいった多くの人がいたからのはずなのに、それを飛び越えて……結局は監視者たちと同じことをしてしまっていたんです。理想の未来のために、足元の命や心を踏みつけにして。

 私は、兄のそんな考えには賛同できません。でも兄は……兄さんは、最初からそういう人ではなかった。とても、優しい人でした。ユリアの想いを誰よりも理解していた。兄は……オリジナルの世界を滅ぼそうとする一方で、再生を願っていたのかもしれない」

 二呼吸ほどの間、ジェイドは黙ってティアを見つめていた。だが、やがて軽く息を吐き、やや身体の向きをそらしてこう語る。

「――ティア。ヴァンが、多くの人々の命を無為に奪い、最後には妹のあなたさえ殺そうとしたのは、事実です」

「………」

「ですが……そうですね。人の心は一面的ではない。愛と憎しみ、怒りと喜び……様々な相反する感情を同時に抱え込んでいる。ですから……あるいは、あなたの言うとおりだったのかもしれません」

「将軍……」

 ティアは青い瞳でジェイドを見つめた。その瞳をゆっくりと伏せて、言葉を紡ぎだす。

「兄は……世界をレプリカと摩り替えようとしながら、レプリカを認めてはいないようでした。少なくとも、ルークがエルドラントで兄と対峙するまでは……彼を人として認めず、人形のように使い捨てて、否定の言葉でいたずらに傷つけていた。――兄は、全てをレプリカと入れ替えた世界に何を託そうとしていたのでしょう」

「それは……分かりません。私は、ヴァンではありませんから」

 ジェイドは軽く肩をすくめる。

「ただ、私の目から見て、彼はルークが自分に盲従するだけでなく自らの意思で動き出した時、それに満足していたようにも見えましたよ。

 ……彼自身にもレプリカがいて、短期間とはいえ共に過ごさせられていたというのなら、彼は誰よりもレプリカを疎んで、……同時に、その可能性をも理解していたのかもしれませんね」

「……レプリカは何も持たない、器だけの人形として生まれて、けれど自分の意思で成長して変わることが出来るから……」

「ええ。――ルークのように」

「ルーク……」

 その名を呟くと、ずきりと胸が痛んだ。

 この五年、何度も考えて考えて、しかし否定して抑え込んで。やっと諦めかけていたものを、あの時見た幻が全て御破算にしてしまった。

「将軍。ルークが……彼が、その存在が、もしもまだ消えていないとして……もう一度、私たちの所へ呼び戻すことは出来るのでしょうか?」

 ジェイドは答えなかった。……当たり前だわ、とティアは思う。私は、多分とても馬鹿なことを言っている。

「すみません……。おかしなことを言いました」

 そう言って、ティアは言葉を切る。幾ばくかの間、沈黙が落ちた。

「………ティア。人を、その人たらしめる要素とは何だと思いますか」

 その果てに落とされたのは、ジェイドのそんな言葉だった。「え?」と怪訝に見返して、それでもティアは生真面目に思考を巡らせた。

「人間をその個人として構成するものは……精神と肉体、でしょうか」

「そうですね。その双方があってこそ、人は生きていると言える。逆に言えば、身体だけが……あるいは心だけがあっても、その『人』が生きているとは言いがたい」

「……それは」

「私はかつて、死者を甦らせようとしたことがあります」

 ジェイドの口調が僅かに硬くなった。

「既に無機物の複製レプリカの作製には成功していた。生物レプリカも問題なく出来るはずでした。……しかし、出来上がったレプリカは、外見こそ被験者オリジナルそのものでしたが、中身は――精神のバランスを崩し破壊の衝動に満たされた、似ても似つかぬ怪物でした」

 両腕を腰の後ろで組み、やや俯いて語る彼の表情は、眼鏡のせいもあってあまりよく分からない。淡々と続けられる彼の言葉を、ティアはただ聞いている。

「私は最初のレプリカを廃棄して、それでも諦めることはありませんでした。第七音素セブンスフォニムのみで作製すれば精神や能力の変質が起きなくなることを突き止め、レプリカを作り続けたのです。肉体の複製だけではない、記憶と――心の再生をめざして。カーティス家の養子となり、軍に研究を持ち込んで潤沢な資金と強力な体制を得て、何十体ものレプリカを作り、直接的にではありませんが、同じだけを廃棄していきました。

 そんな時に――あれはホド戦争が終結した頃だったでしょうか。幼なじみが言ったのです。

 

『――お前、だったら俺を殺して、俺の記憶を備えたレプリカを造ればいい。それでも、お前にとっては同じなんだろう?』

 

 彼はその頃、兄姉たちの皇位継承争いや恋人のことなど、様々な問題を抱えていて……多少自暴自棄になっていたところもあったのでしょう。しかし、いつまでも死者の蘇生にこだわる私に、かねてから忸怩たる思いを抱いていたのも確かなようです。彼がそう言うのを聞いて……実際にそうすることを考えて。私は、初めて気付かされました。自分の愚かしさを」

「将軍……。でも、失われたものを……死んでしまった人を取り戻したいと思う気持ちは、誰にでもあるのではないでしょうか。私にも……分かります」

 痛みをこらえるように目を伏せ、ティアは言う。だが、ジェイドは微かに笑って首を横に振った。

「いいえ、違うんです。……いつかも、ルークに同じように言われましたが、そうではない。私は、死者を想ってレプリカを作っていたわけではないのですから」

「え……?」

「陛下も、サフィールも、私がネビリム先生の死を悼み、彼女を慕うが故にレプリカ作製フォミクリーに手を染めたと、そう思っていたようですが……実際には、違います。確かに、私はネビリム先生を尊敬していました。ですが……それは彼女が私にない第七音譜術士セブンスフォニマーの素養を持っていたためであり、それだけでしかなかった。

 私は自分に出来ないことがあるなど信じられなかった。扱う素養のない第七音素セブンスフォニムを無理に使って……暴走し、ネビリム先生を殺しました。私が彼女を蘇生させようとしたのは……彼女を想ってのことではない。ただ、自分の失敗が認められなかったからなのです。彼女が生き返れば、そして私を許してくれれば、私の過失は、その責任はなかったことになる。……結果は失敗でしたが、私はそれでも認められなかった。何十体ものレプリカを作り続け……私が求めていたのは、ただ、己の失敗を無に帰す、それだけでした。

 ルークがアクゼリュスを崩落させて、その責任を認められなかった時、本当は、私に彼を責める資格などなかった。同じだったんです。私は、自分の責任を認めることから逃げ続け――そして取り返しのつかない罪を犯した」

 日はゆっくりと沈んで行き、白い花の庭は紫がかった闇の中に沈んでいこうとしている。少しだけ、かつてこの街が障気の中にあった頃を思わせた。

「陛下に『俺を殺してレプリカと換えればいい』と言われた時――私は、何も感じなかったんですよ」

 それは、胸に秘め続けていた彼の告白だった。

「彼に殴られた体は痛みを感じていたのに、心は何も感じていなかった。彼が……友人として、そんなにも想ってくれていたというのに、私の胸の中は空っぽでした」

 それは、ジェイドにとってひどい衝撃だった。自分の心には人間として致命的な欠落がある。それを、初めてはっきりと自覚したのだ。

「人の心を複製する。そんなことは出来なくて当然だったのです。――私自身に心がなかったのですから」

 苦い笑みを浮かべて、ジェイドは僅かに顔を伏せた。

 それ以来、彼はフォミクリーからは手を引いた。生物レプリカを禁忌とし、その技術やデータの全てを破棄させたのだ。……しかし密かにそれは持ち出され、未だ、こうして世界に大きすぎる影響を与えているのだが。

 まったく、私の罪はどこまで重いものなのでしょうね。そんな風に自嘲する。

「でも……将軍。私は、将軍に心がないなどとは思いません」

 ティアが言った。

「ありがとうございます。でも、いいんです。本当のことなのですから」

「いいえ。――将軍は、ピオニー陛下のお気持ちを理解して、それに応えられなかった自分にショックを受けた。……本当に心がないのならば、そんなことは感じられません」

 少し驚いてジェイドはティアに顔を向けた。彼女の瞳には強い光が宿っている。

「将軍には心があります。だからフォミクリーを禁忌とし、今、私たちとこうしておられるのではないですか」

 それに、と少し声を潜めて彼女は続ける。

「将軍がフォミクリーという技術を作ったことは、確かに多くの悲劇も生みましたが……おかげで私は――いえ、私たちは、ルークやイオン様に出会えました。彼らと出会えたことだけでも……私は、将軍に感謝しています」

「……まいりましたね。あなたにまでそんな風に言ってもらえるとは、思っていませんでした」

 ジェイドは苦笑していた。その笑みにはいささかの照れと、ほのかな懐古が混じっていたのだが。

「ありがとう、ティア。気持ちはありがたくいただいておきます。――ですが本当に、私にはそんな風に言ってもらえる資格などないのですよ」

 そう言って言葉を切り、ジェイドはティアに背を向けた。

「私はまた……自分の愚かしさのために、罪を犯そうとしているのかもしれないのですから」

 薄闇に沈む花の波を踏みしめ、彼はその庭を後にした。




「……日が暮れたな」

 呟くと、すぐ隣から声が返った。

「夜の方が、この街はなんだかしっくりきますわね」

 アッシュは隣に座る婚約者の顔を見つめる。ここはシティの唯一の入口となる港だ。かつては障気の侵入を防ぐために二重三重の障壁が下ろされていたものだが、その必要のない今は開放されており、吹き込む微かな潮風が彼女の髪を揺らしていた。

 ゆらゆら動く金色のそれを眺めていると、ふと彼女と視線が合いそうになる。慌てて前を向いてそらすと、「あら、それ……」と呟く声が聞こえた。

「それは、ルークの響律符キャパシティ・コアですわね」

 襟元に付けていた、小さなそれに気付かれたらしい。なんとなく気恥ずかしい気がして、幾分気難しげな表情を作ってから「ああ……まあな」と頷いた。

 先日、ケセドニアに行ったときに露店の店主から強引に買わされたものだ。五年前に『赤毛の兄ちゃん』が注文していたとかなんとかで。仲間内では、即座に「ルークが注文していたものだ」ということになっていたが。

「なかなか似合いますわね。ルークにしてはセンスが宜しいですわ」

「……それは褒めているのか、けなしているのか、どっちだ」

「勿論、褒めているのですわよ」

 一見、不機嫌そうなアッシュの様子にも慣れたもので、ナタリアは屈託なく笑う。

「この響律符キャパシティ・コアの名前は、確か調和ハルモニアでしたわね。……さしづめ、ここに三つ並んだ金色の石が、ローレライ教団、マルクト帝国、そして我がキムラスカ王国といったところでしょうか。三つが互いに並び立つことで、調和した世界が形作られるのですわ」

 思いもよらぬことを言われて、アッシュは目をしばたたいた。

「三つの存在による調和、か……」

「それにしても、ルークは何を思ってそれを注文したのでしょうね」

 ナタリアがそう言うのを聞いて、考え込んでいたアッシュは微かに顔をしかめた。

 それは、『ルーク』の記憶を辿ってみても、どうも判然としないことだったので。『ルーク』の記憶は所々ぼやけていて、アッシュには夢のようにつかみ所がなく感じられる部分も多かった。アッシュ自身の自我が、無意識に本来の記憶を優先しようとするためなのかもしれない。そうでなければ『アッシュ』ではいられないのかもしれなかった。それは置いておいても、五年も前の話だ。よほど印象深い出来事ならともかく、商品を注文したかしないか程度はその他の記憶に埋もれてしまう。……つまりは、その程度のことだったのだろうけれども、アッシュに引き継がれている『ルーク』の記憶が完全なものである保障もないので、ハッキリとは言い切れない。

 どちらにせよ、アッシュの中に『ルーク』の記憶があることなどナタリアは知る由もないのだから、気にする必要もないことではあるのだが。

 などということを頭の中で考えていると、その表情をじっと覗き込んでいたナタリアが、「五年も前のことですものね。ルークがここにいても、『うーん、忘れちまった』なんて言っていたかもしれませんわ」と悪戯っぽく笑ったので、少々ギクリとさせられた。

「どうしましたの?」

「……時々、お前は何もかもお見通しなんじゃないかと思える時があるな」

 きっと、気のせいなのだろうけれども。

「あら、そんなことありませんわ。何もかも分かってしまったらつまらないじゃありませんか」

 ナタリアは笑った。

「あなたと私は、それぞれ違う心を持っている。だから一緒にいて楽しいのですし、ずっと――死ぬまで共にいられるのです」

 違いまして? と小首を傾げる彼女の様子を見るうちに、アッシュの顔にも笑みが広がっていった。

「ああ、そうだな」

 頷いて言った背に、微かにアニスのものらしい声が掛けられた。呼んでいる。ユリアシティには未だに店というものが殆どない。よって、市長の家の台所を借りて自炊することになっていて、その担当をアニスとガイが買って出ていたのだが。どうやら、完成したということらしい。

「では、戻りましょうか。アニスとガイは料理上手ですから、楽しみですわ」

 二人は立ち上がり、連れ立って街への長い通路を歩き始めた。







 音素フォニム活性化装置が組み上がったのは翌日の昼前で、一行はそれを中央監視施設の会議場で聞いた。

「装置は、アルビオールに積み込ませています。設置自体は難しいものではありませんが、震動装置の組み込みのこともありますから、我々の技術者を一人、シェリダンに同行させたいのですが」

「勿論、私たちは構いません」

「ありがとうございます。では、積み込みが終わり次第お知らせします」

 シティの職員は、頭を下げて部屋を出て行った。

「そろそろシェリダンの方の準備も整う頃だし、ちょうどいいな」

 ガイが言う。頷いて、アニスが確認した。

「星のフォンスロットに音素活性化装置と震動装置を設置して、もう一つの震動装置をロケットで音譜帯に打ち上げるんですよね」

「ええ、そうです。そして音譜帯と記憶粒子セルパーティクルの流れを結び、惑星燃料を発生させる」

「それで、セフィロト以外の星のフォンスロットの特定は出来たのかね?」

 頷いたジェイドに、上座のテオドーロ市長が尋ねた。

「そういえば、ジェイドはそれをベルケンドに一人で調べにいったんだったな」

「はい。流石ベルケンドですね、惑星全体の音素収束スポットの調査データと、それを基にした地図がありました」

 ガイの声に応えて、これは写しです、とジェイドが会議場の大テーブル上に広げたのは、丸く惑星の形を二つ並べた世界地図で、網の目のように線が引かれてあり、所々に丸い図形が記されていた。

「まあ、これはどういう風に見るものですの」

 ナタリアが目を丸くしている。

「これは……。一度ヴァンに似たものを見せられたことがある」

 腕を組み、アッシュが地図を睨みながら言った。

「この線は、地下を走る記憶粒子セルパーティクルの流れ……地脈を示したものだ。丸で記してあるのがその噴出点、星のフォンスロットだな」

「その通りです。……特に大きく、赤い色で塗られている丸がセフィロトですね。そして、その他の小さなものがそれ以外のフォンスロットということになります」

「はわー、随分沢山ありますねぇ……」

「これだけあると、かえって迷いますわね」

 地図に見える大小の丸の洪水を見て呟くアニスとナタリアに、「迷うことはないだろう」とアッシュが言った。

「俺たちの目的は、記憶粒子の流れと音譜帯を繋げることだ。つまり、より記憶粒子の噴き上げが激しい地点が望ましい」

「そういうことだな。……旦那、勿論、各フォンスロットの記憶粒子の噴出量のデータも調べてきたんだろう?」

 ガイがジェイドを見やった。

「はい。……データを参照した限り、セフィロトに次いで記憶粒子の噴出量が大きいのは……ここですね」

 ジェイドの指が指した『丸』を、全員が見つめる。

「あれ? ここって……」

 アニスが小首を傾げた。そこは、東ルグニカ平原の北部、マルクト帝国の首都グランコクマからはやや東南の端にあたる位置だ。その地点のほんの南には「エンゲーブ」の文字と村を示す印がある。

「チーグルの森……」

 その『丸』が描かれた場所の名を、ティアが呟いた。







 チーグルの森。その場所に、ティアは他にない思い入れがある。

 兄が世界に災いを成そうとしている事を知り、刺し違えてでも止めるつもりで、たまたま彼がいたファブレ公爵邸に乗り込んで……。それを止めようとしたルークと擬似超振動を起こし、彼と共にマルクト帝国のタタル渓谷に放り出された。そこからキムラスカ王国へ帰る途中、本来なら立ち寄る理由など何一つなかったその森に、ルークがつまらない意地で行くと言い張って……。

 ここで、後の一年を共に旅した仲間たちと出会い、世界を守るという目的を持った。

(あそこから……私たちの本当の旅は始まったんだわ)

「ティーア。ボーッとしてどうしたの?」

「きゃっ!?」

 アルビオールの座席で考え込んでいたティアは、アニスに覗き込まれてビクリと身を震わせてしまった。膝に乗せていた本が、バサリと床に落ちる。

「あ……ごめん! 驚かせちゃったね」

 慌てて屈み、アニスは本を拾っている。「いいのよ、私もぼんやりしていたから……」と逆に慌てるティアの前で、アニスは拾い上げた本の題字を何気なく確認して「『基礎音素フォニム学理論』?」と首をひねった。

「兄の本よ」

「総長の? ほえ〜。総長にもこういう初等教本を読んでた時代があったんだねぇ」

 なんだか想像もつかないけど、と言いながら、アニスは開いたままのページをチラリと見た。

「あ、こんなところにも線が引いてある。さすが、勉強熱心」

 つられてティアもそれを見た。『こうした方法でフォンスロットを開放した時、相応の効果が約束される』などと書かれた何の変哲もない箇所で、『約束』の部分にもう一本、二重線が引かれてあった。

(どうしてこんなところに……?)

「あ、そうだティア。もうチーグルの森だよ」

 僅かに首を傾げたティアは、アニスのその声を聞いて本を閉じた。陸上走行していたアルビオールの窓いっぱいに、見慣れた緑の情景が広がっている。




 ユリアシティを発った一行は、まずはシティの技術者を伴ってシェリダンへ向かった。そこで震動装置の音素活性化装置への組み込みを行い、それを積載してから、こうしてチーグルの森へと向かったわけだが、一方で、『ロケット爺さん』ら小型ロケットのスタッフは、一足先にノエルの操縦するアルビオール二号機でレムの塔へ出発していた。なんでも、レムの塔は創世暦時代の宇宙開発事業の遺構だそうで、ロケットの打ち上げには都合がいいらしい。

「でも、チーグルの森とあんなに離れたところから打ち上げてもいいのかなぁ」

 アニスはそう言って首をひねったが、「打ち上げる震動装置には、小型の推進装置を取り付けている。音譜帯に到達した時点で、そこに充満した音素力フォンパワーを取り込みながら移動し、チーグルの森の上空で星の自転速度に合わせて停止するはずだ」と、『ロケット爺さん』は答えていた。




「ここに来るのも随分久しぶりだな」

 森は柔らかな空気に満ちている。それを吸い込みながらガイが言い、腰を伸ばして木々の梢を見上げた。

「うん、そうだね……」

 頷くアニスは、僅かばかりに寂しげな、それでいて懐かしそうな目をしている。イオンやアリエッタや……そういった、今はもういない人々を思い出しているのだろう。この美しい森で、様々な出会いがあり、別れがあった。

「まずは、チーグル族の長老に話をしましょう。ここは彼らの森ですし、彼らなら星のフォンスロットが森のどこにあるのか知っているはずです」

 ジェイドがそう言って促す。それに従って、一行は清流に沿って進む緑の小道を辿っていった。

「……?」

 ふと、歩いていたナタリアが振り返る。アッシュが気付いて、怪訝な顔をした。

「どうした? ナタリア」

「いえ……何か向こうの木の所にいたような気がしたのですけれど」

「魔物か?」

 そちらを見やったアニスが、「何もいないみたいだけど……」と首をかしげている。

「きっと気のせいですわね」

 ナタリアがそう言うと、「チーグルがいたのかも」とアニスが笑って言った。ティアが頷く。

「そうね、この辺りはもう彼らの領域だもの。……ああ、チーグルの木が見えてきたわ」

 森の奥に清流にぐるりと囲まれたやや開けた場所があり、その中央に大木が立っている。森の外からもハッキリと分かるほど目立っているこの木の巨大なウロを、ローレライ教団の聖獣とされるチーグル族は住処にしていた。




「なるほど……。近頃、大気の音素フォニムの流れがおかしいとは思っていたが、そういうことが起きていたのか」

 チーグル族の長老は、ソーサラーリングを杖のように使って立ちながら、人の言葉でそう話した。

 一行がウロの中に入ると、無数のチーグルたちがみゅーみゅーと群れ集ってきて道を塞いだのだが、奥から「みゅーみゅみゅみゅ」としわがれた声が呼びかけると道を空けた。

「よく来たな、歓迎する、ユリアの縁者たちよ」

 ゆっくりと歩み出てきた長老は、以前と変わりなく、ひどく年老いていた。

「しかし、今また揃ってこの地を訪れたのはどういう理由からなのか」

 そう問う長老に、例によって「ガイ、説明してください」とジェイドに朗らかに命じられたガイが「やっぱ俺かよ……いいけどな」と幾分しょぼくれながら事情を説明し、長老は先のごとく納得して頷いたわけである。

「そういうことならば、協力は惜しまない。この地のフォンスロットへ案内しよう」

 そう言った長老に向かい、「よろしいのですか?」と、思わずティアは訊ねていた。もめると思っていたわけではないが、あまりに簡単に話が通ったと思ったからだ。

「大地の危機は、我らにも無関係ではない。それに、五年前、ワイヨン鏡窟から多くの同胞たちを助け出してくれた恩を、我らは決して忘れない」

 長老はそう答えると、先に立って歩き始めた。ウロの最奥、いつも長老が鎮座していた辺りの壁際に行き、「みゅーみゅみゅ!」と鋭く鳴く。すると、その体を支えているソーサラーリングから光が迸って、枝が絡み合って瘤になったようなごつごつした木の壁に当たった。それは勝手にうねり開いて、地下へと降りる自然の道が現われる。

「はぅあっ! すごっ! 道が出てきましたよ?」

「チーグルは人間に次いで音素フォニムを操る力に長けると聞いてはいましたが……こんなこともできたのですね」

 アニスが驚き、ジェイドが感心している。それらの反応に頓着せず、長老は「こちらだ」と一行を導いた。道は、巨大なウロの内壁を、下へ下へと螺旋に下っていっている。特別な照明装置はなかったが、暗くはなかった。下から薄緑色のきらめきが立ち昇ってきており、降りるにつれて強くなっていったからだ。

 下り道はさほど長くなく、ほどなく、一行はその奈落の底に着いた。木の根に覆われた空間が広がり、その中央に、まさに『地の裂け目』というべきものがあって、薄緑色の光の粒――記憶粒子セルパーティクルが噴き上げている。

「こんなところに……!」

 薄緑色の灯りに照らされながら、ティアが言葉を呑んだ。今まで見てきたセフィロトのそれに比べれば ずっと小規模だが、間違いなく星のフォンスロットだ。

「元々、チーグルの木はこのフォンスロットに添える形で、我らの友――ユリア・ジュエの手によって植えられたもの。以来二千年、我らはここに集まる音素フォニムの恩恵に浴して暮らしてきた」

 長老は語った。「ユリアが?」と、ガイがその青い瞳を瞬かせる。

「その頃、ルグニカ一帯では激しい戦乱が続いていた。大地は傷つき、障気すら発生して、人も、我らチーグル族を含む魔物たちも滅びに瀕していた。僅かに残った清浄な地を巡って、人と魔物は奪い合い、傷つけ合っていた。

 その時だったのだ、弟子たちを従えたユリアがこの地にやって来たのは。ユリアはチーグルを友としていた。何故なら、彼女に第七音素セブンスフォニムを扱う術を教えたのは、チーグルだったからだ。

 ユリアは人と魔物の双方を諌めて言った。『愚かなことはやめるがいい。私には互いが平和に暮らす未来が見える』。そして人と魔物の領域を分け、それぞれの地に一本ずつ、しるしとして木を植えた」

「チーグル族に伝わるユリアの伝説……?」

「教団じゃ知られていない話だよねぇ」

 ティアとアニスが首を捻っている。

「その、一本ずつ植えられた木っていうのは、もしかして……」

 そうガイが言いかけた、その時。

「みゅう〜〜〜〜〜〜〜っ!!!!!!」

「ぐぼぁっ!!」

 唐突に、猛烈な勢いですっ飛んできた一抱えの塊に胸に激突されて、黙って話を聞いていたアッシュは声を上げて仰向けにひっくり返った。――いや、ひっくり返された。

「みゅう、みゅみゅみゅみゅう〜〜!! みゅみゅうう!」

 その塊は、そのままアッシュの胸の上に居座って、顔をこすりつけたり跳ねたりしながらみゅーみゅー騒いでいる。

「ミュウ!」

 その青いチーグルの名を、ティアが呼んだ。弾かれたように振り返って、ミュウが大きな丸い目を彼女に向ける。

「みゅー!」

 ぱっと顔が輝いて、ティアに飛びついた。柔らかなそれをティアは抱きとめ、実に嬉しそうに頭を撫でる。

「久しぶりね。四年ぶりかしら」

「みゅう♪ みゅみゅみゅみゅーー」

「って、何言ってんのか全っ然分からないな」

 そんな一人と一匹の様子を見ながら、ガイが苦笑を浮かべている。

「確かに、可愛らしいのではあるのですけれど……」

 ナタリアは困ったように小首を傾げた。

「あのカン高い声やチョコマカした動きが、なんっつーか……」

 アニスはジト目になって声を低めている。

(ちょっとウザい………かも)

 恐らくティアを除く全員が心の中でそう思っていた。流石に口には出さないが。

「いやぁ。ルークがいたら、『このブタザルー!』とか言って、鬱憤を晴らしてくれてたんでしょうけれどねぇ」

 肩をすくめて笑うジェイドの脇で、ようやく地面から半身を起こしたアッシュが、「この……屑がっ……」と震える拳を握りしめつつ呻いていたりした。




「みなさん、お久しぶりですの!」

 ひとしきり騒いだ後、ミュウは長老に促されてその横に並び、片手をソーサラーリングに触れながら人語で話しかけてきた。

「ええ、お久しぶりです。元気そうで何よりですわ、ミュウ」

「四年前に、ティアがバチカルからこの森に送って行ったんだったよねー」

 ナタリアは屈み込んで挨拶を返し、アニスもそれに倣いながら笑った。

 六年前、初めてこの森を訪ねたルークたちと、ミュウは出会った。不用意に起こしてしまった火事で多くの仲間の命を奪うという大罪を犯した彼は、罰の一つとして一時的にルークたちと同行する危険な任務を与えられたのだが、その際に降りかかった命の危機から、ルークが身を挺して救ってくれた。それ以来、ミュウはルークを『恩人』と定めて、自ら長老に頼み込み、浄罪という名目で、「季節が一巡りする間、ミュウはルーク殿にお仕えする」という任を得たのである。

 それ以来、ミュウはどんな時もルークと離れたことはなかった。愚かなほどに一途にルークの『善』を信じて、彼を肯定し続けた。他の誰がどんなに彼にいかっても、呆れて見捨てても。

 一年近い旅の終わりに、ルークは崩壊するエルドラントに消えた。『もう、お前の役目は終わったよ。胸張って、仲間のところに帰れ』と優しく告げた彼に、それでもミュウは『ミュウもご主人様が戻ってくるのを待ってるですの』と誓い、実際、バチカルの屋敷で待ち続けていた。

 まだ子供であるミュウが、そうしてただ待つことに時間を費やすのを見ることは、周囲の大人にとって辛いことだ。だから一年が過ぎたとき、訪ねて来たティアは公爵夫人に頼まれた。ミュウを、仲間たちの元へ送って行ってやって欲しいと。彼には彼で、仲間たちと共に過ごす時間が必要なはずだった。閉ざされた場所で、固定された視点で子供時代を塗りつぶすなど、かつてのルークだけで充分だ。頑固なミュウを宥め、いつかルークが戻ったら必ず報せると約束して森へ送り――いつしか四年が過ぎていた。

「はいですの。ティアさんにはお世話になりましたの。今でも、時々ティアさんにはお手紙もらっているですの」

 長い耳をフリフリ揺らしてミュウは言う。周囲の視線を受けてティアは僅かに頬を染め、「たまにね。エンゲーブへ行く行商人なんかに頼んだりして……」と呟いた。

「それより、また大変なことが起こってるって聞きましたの!」

 ミュウは耳をピクピクと動かす。本当は飛び跳ねたいのだろうが、そうすると長老のソーサラーリングから手を離さなければならない。「ああ、そうなんだ」とガイが頷くと、「ボクも! ボクもみなさんに協力するですの!」とくるくる目を動かしながら可愛らしい声を上げた。

「この……ブタザルが……」

 それを視界の端に入れながら、なにやら小さく呟いているアッシュである。それでも、かつての『ルーク』のように実際にグリグリしない分、彼は大人なのであろう。多分。

「では、長老の許可も得ましたし、早速ここに音素フォニム活性化装置を設置しましょう。――ガイ、アッシュ。アルビオールからここまで、装置の運搬を宜しくお願いしますよ」

 そんな、ちょっと和んだ空気に乗ったというわけでもあるまいが、ジェイドは実ににこやかな笑みを浮かべてそう告げた。ガイが少々慌てた口調になる。

「って、俺たちだけかよ?」

「女性に運ばせるわけにはいかないでしょう。比較的平板とはいえ、森の道は歩きやすいとは言えませんし」

「あんただって男だろーが」

 腕を組んでアッシュが睨んだが、ジェイドはどこ吹く風で、「何言ってるんです。こんな年寄りに重労働なんてさせないでくださいよ。最近は骨が軋んで……うっ、ゲホゲホ」とわざとらしく咳をしている。

「だから、なんで骨が軋んで咳が出るんだって……」

 ガイは力なく苦笑して、肩をすくめながらも、もう道を戻り始めた。最初から予想できていたことなので諦めも早いのだ。というより、バチカルで十四年、グランコクマで五年、王族のワガママを聞いてきた男の習い性というものなのかもしれなかったが。







 装置は予め分割して運べるように配慮して設計されたものだったので、一つ一つを運ぶ分にはさしたる苦労はなかった。……ただ、十数往復もさせられると、流石にくたびれてくるものだったが。なにしろ木の根や岩の覗いた自然の道なので、カートなども使えない。

 運びこんだパーツはジェイドの指示によって接続され、配置されていった。セフィロトのパッセージリングに比べれば随分とみすぼらしく見えるが、「性能はひけをとらんわい!」とアストンは胸を張っていたものだ。

 こうして男たちが装置を設置する一方で、女たちは、ウロの中にいたチーグルたちを外に出す作業を行っていた。二つのゲートがそうだったように、プラネットストームが通ったからといって生き物が住めなくなるわけではない。しかし、膨大なエネルギーの流れが生じるのは確かだ。「実際にどうだか分かりませんが、あるいはストームの流れに巻き込まれる恐れがありますから」とジェイドが言ったので、予めチーグルたちの避難を行ったというわけである。

「それにしても、この木がユリアの植えたものだったとはな」

 作業を一段落させて、木の地下で立ち昇る記憶粒子セルパーティクルを眺めながら、ガイが言った。

「この木は、二千年前に障気のせいで一度絶滅しかけていたそうですの。ユリア様はその種を植えて、ノームの力を借りて木を甦らせたんだって聞いていますの」

 答えるミュウは、長老に借りたソーサラーリングを、かつてのごとくお腹にベルトのように装備している。『ボク、大人になりましたの! もう両手で支えなくてもソーサラーリングがずり落ちませんの!』とは、彼の弁である。

「ノームって……第二音素セカンドフォニムの意識集合体の?」

 女性陣の作業も完了したらしい。上から降りてきたアニスがそう言って首をかしげた。

「そうですの。土の属性の音素フォニムですの」

「ユリアは、ローレライだけではなく、他の音素の意識集合体とも契約していたんですわね」

 ミュウの声を受けて、ナタリアが言う。ティアが言葉を落とした。

「そういえば、兄さんから聞いたことがあるわ……。ユリアの譜歌は、彼女が世界を形作る七つの力と通じ合ったあかしだって」

「七つの力……七つの音素、か」

 腕を組んで呟くアッシュの足元で、ミュウが再び声を上げる。

「ユリア様は、世界中を旅してたんですの。六つのセフィロトに行って、そこに宿っていた六つの音素の意識集合体を解放して音譜帯を巡らせましたの。それでプラネットストームが強くなって、戦争で足りなくなっていた惑星燃料が増えて、みんな暮らしが楽になったんですの!」

「まあ……ユリア・ジュエは本当に偉大な方だったんですわねぇ」

「ローレライの力も自在に操ったって話だからな」

 感心したように息を吐くナタリアに、ガイが追随をする。アニスが、ふと首をかしげた。

「あれ? でも六つのセフィロトに行ったって……ローレライは?」

「みなさん、お喋りはそこまでにして、そろそろ準備をして下さい」

 ジェイドの声が全員を呼んだ。彼は制御装置の前に立っている。歩み寄って、「立ち上げが終わったのか」とアッシュが訊ねた。

「ええ。後は起動させるだけです。――チーグルたちの退避は終わっていますか?」

「はい。念のために、一箇所に集めて第二音素譜歌フォースフィールドをかけてあります」

 ティアの答えに頷くと、ジェイドは「あなたたちも、装置から出来るだけ離れてください。一応、ツリーの周囲には障壁が出来る仕様になっていますが、万が一と言うことがありますから」と注意する。

「では、行きますよ。まずは記憶粒子セルパーティクルの流れを強化して、セフィロトツリーとして立ち上げさせます」

 ジェイドの指が制御板を走る。配線で繋がれて『裂け目』をぐるりと囲んでいた装置の輪の内側が、眩く輝いた。見る間に立ち昇った光の柱は、チーグルの木を突き抜け、遥か天空に駆け上って行く。上の方で乱れて方々に飛び出した細い流れはうねり伸びる枝に似て、その巨大な光の木は大陸の彼方、グランコクマやカイツールからも臨むことが出来た。

「――成功したようだな」

 そびえ立ったセフィロトツリーを見上げてアッシュが言う。頷いて、「では、震動装置を起動させます」と、ジェイドが制御板に手を伸ばした、その時。

「!?」

 ヒュッ、と風を切って何かが飛んだ。それはジェイドの伸ばした手の先、制御板の縁に突き立つ。バチッ、と僅かに音素の流れが弾けて光った。

「誰だ!?」

 アッシュが、ガイが、その場にいた全員が誰何すいかして、その矢が放たれたであろう方を見上げた。地底のホールの縁を螺旋に降りてくる道の上方、ごつごつと節くれだった木の根がある辺りに、セフィロトツリーの光に照らされて、どうやら人影が見える。

「プラネットストームの支流を作らせるわけにはいかない……。アンタたちは、ここで死にな!」

 若い女の声が響いた。続いて、鋭い矢が放たれる。一矢いっしの動作で三本が。ガイやジェイドは己の武器でそれを弾いたが、一本だけは地面に突き立つ。すると轟音を立てて大地に亀裂が走り、譜術のように音素力フォンパワーの流れが炸裂して衝撃が走った。

「これは……ランバルディア流アーチェリー! 何故……」

 衝撃をかわして己の弓を構えながら、ナタリアが息を呑んでいる。その傍で剣を抜き放ち、アッシュが吠えていた。

「ケセドニアでナタリアを狙ったのもお前か……。こいつを傷つける気なら、容赦はしねぇぞ!」

 片手を突き出し、唱えていた呪文を解き放つ。

「氷の刃よ、降り注げ! アイシクルレインっ!!」

 頭上から降り注いだ氷塊の雨に打たれて、女は悲鳴をあげてバランスを崩した。転がり、前に出る。その姿が露になった。

「あなたは! まさか」

 目を見開き、愕然としてナタリアが叫んでいた。

「本当に……レミ!?」

 アッシュが視線を送って尋ねる。

「ナタリア、知っているのか?」

「バチカル城の……わたくし付きのメイドですわ。レプリカの」

 レプリカを受け入れ、その居場所を作る。レプリカ自治区を中心とした取り組みの一環として、ナタリアは幾人かのレプリカを城に雇い入れ、使用人として使いながら教育を行っていた。レミはその一人で、ナタリアが特に目をかけていた娘だ。視線の先にいる襲撃者は、服装や髪形こそ異なるものの、確かに彼女であるように見える。

「でも、どうして彼女がここに……。それに、あの姿は……?」

 呟くナタリアの声を聞きながら、アッシュは彼女がバチカルの城門からかどわかされた時、同時にメイドが一人連れさらわれたと聞いたことを思い出していた。

「この姿は戦うためのもの……。あの方に授けていただいた」

 己の胸に片手を当て、レミは口を開いた。ナタリアを見下ろす目にはかつての幼さはない。

「あたしは、生まれ変わったの。あの方の……ヴァン様のために、アンタたちを殺してレプリカの世界を創る!」

「何を言いますの、レミ! オリジナルもレプリカも同じ人間です。居場所を奪い合って争う必要などありませんわ!」

「あたしに命令しないで、姫様! あたしはもう、アンタのメイドじゃない!」

「レミ!」

「うるさいっ! ――でも、そうね。確かにアンタはあたしによくしてくれた。あたしに弓を教えてくれて」

 レミの顔に薄く笑みが浮かんだ。かつてよく浮かべていた無邪気で暖かなものではなく、冷たく嘲る色を刷いた。

「他の誰があたしをバカにしても、あんたはそうしなかったね。たとえ、それが哀れみや上に立つ優越感だったとしても」

「ちょっ……! なんてコト言うのよ!」

 言葉をなくしたナタリアに代わり、怒りの声を発したのはアニスだった。

「ナタリアは、誰よりもレプリカたちのことを考えてる! 自治区が承認されたのだって、ナタリアが頑張ったからだよ。ナタリアのおかげで……」

「あたしたちレプリカは、『生かしてもらっている』……? そんなお情け、いるもんかっ!!」

 レミは次々と矢を放った。その矢は風を裂き、雷気や炎を帯びて襲い掛かってくる。それらを凌ぎながら矢や譜術で攻撃したが、恐るべき身軽さを見せる彼女を捉えることはなかなか出来ない。

「おかしいですわ……。確かに彼女にアーチェリーを教えはしましたが、これほどに戦えるなんて」

 矢をつがえながら、ナタリアが呟いた。彼女と背中合わせで立ったジェイドが答えてくる。

「彼女の全身に描かれている譜紋……。あれが身体能力を強化しているのでしょう。しかし、判断能力も只事ではない。まるで歴戦の戦士のようです。あるいはそれだけではなく……」

「なんですの?」

「……いえ、憶測です。それより、彼女は以前から、ああいう……苛烈な性格だったのですか?」

 ナタリアは幾分目を伏せ、首を横に振った。

「いいえ。素直で優しい子でしたわ。……まさか、あんな風に思われていたなんて」

「そうですか。では、やはり……」

 ジェイドの暗い呟きを聞きとがめて、ナタリアが「え?」と問い返そうとした時、「のんびり話している場合かっ!」とアッシュが傍から怒鳴った。

「このままじゃ装置を壊されるぞ」

 ガイが言う。上方を円状に動き回りながら矢を放ってくるレミの攻撃に、近接戦闘型の彼は守勢一方で、殆ど役に立てない。

「どうにかして懐に飛び込めればいいんだが……」

「ボクがやりますの!」

 その時、叫んだのはミュウだった。

「え、ミュウ!?」

 慌てたティアの声に構わずに、ミュウは小さな手足をチョコチョコ動かして螺旋の道を駆け登って行く。あまりに小さい姿だったので、レミはそれに気付いていない。

 ハッと気付いた顔をして、ジェイドが制御板に駆け寄った。巨大化したトクナガを盾にしながら譜術を唱えようとしていたアニスが、「中将?」と目を見開く。ジェイドの指が機器の操作をした。

「させないよっ!」

 それを目にしたレミが、弓を引き絞る。そこに、傍まで駆け寄ってきていたミュウが「アタ〜〜ック!!」と体当たりした。彼女は悲鳴をあげてたたらを踏んだが、そこから転げ落ちるには至らず、ミュウを視界に捉えて睨みつける。

「こいつ……!」

 逃げようとしたミュウの耳を掴んで持ち上げた。

「ミュウ!」

 ティアが、アニスが小さな仲間の名前を呼んだ。宙に吊られたチーグルはなす術もなくジタバタもがくばかりだ。――が。

「ミュウ! 第五音素フィフスフォニムを!」

 ジェイドが叫んだ。

「はいですの!」

 反射的にそれに従い、ミュウは、その口から勢いよく第五音素の力――炎を、レミめがけて吹き出していた。

「ぎゃっ……!?」

 体を焼かれ、レミの身体が大きくのけぞる。螺旋の道の、木の根が大きく中央に張り出した箇所だ。そこから、足元のない、セフィロトツリーの流れ昇る方へと。――それでも、そのままの状況であれば持ちこたえたのかもしれないが。

 ゴッ、と辺りが揺れたのをアッシュたちは感じた。瞬間、障壁を弾けさせてセフィロトツリーの勢いが増す。同時に上空から猛風が吹き降ろしたように思えた。

 上空の音譜帯と地底から立ち昇らせたセフィロトツリーが繋がり、プラネットストームが流れたのだ。

「きゃあああああああっ!」

 レミの悲鳴が聞こえ、しかしたちまちそれは遠ざかって消えていった。

「レミ!」

 ナタリアが叫んで見上げたが、彼女の姿はどこにも見えない。ミュウだけが、くるくると回転しながら落ちてきて、ポスンとアッシュの頭の上に着地した。

「みゅ〜〜〜〜っ……目、目が回りましたのぉ〜〜っ」

「くっ……。いつまで人の頭の上に乗っている。早くどきやがれ!」

 ぺしっと叩き落すと、「みゅっ」と鳴いて地面に潰れた。

「レミは、どうなりましたの?」

「プラネットストームに巻き込まれたのでしょう。いずれはアブソーブゲートにでも流れ着くと思います。……運がよければ」

「……」

 ナタリアは複雑な表情で目を伏せ、ただ唇を噛んだ。

「ナタリア……」

 その姿を、仲間たちもまた、複雑な思いで見つめている。

「にしても、ミュウは大活躍だったね〜」

 場をとりなすように、アニスが声を上げた。

「ボク、頑張りましたの! お役に立ちましたの?」

 ミュウが顔を輝かせる。「そうだな」とガイが目を笑ませて頷いた。

「おかげで、どうにかここにプラネットストームを通せた」

『ロケット爺さん』たち、ちゃんと震動装置を打ち上げてくれてたんだな、と笑う。

「なんにせよ、これでアルビオールが飛ばせるはずだ」

 全員がハッとして、空気が改まった。

「いよいよ、第二エルドラントへ……フローリアンや、総長のレプリカの所へ行けるんだね」

 口火を切ったのはアニスだった。

「そうですね。我々はそこへ行き、これ以上のレプリカの製造をやめさせ、エルドラントを地に下ろさねばなりません」

 頷いてジェイドが言う。

「そのためには、あのヴァンを……ヴァンデスデルカ・レプリカを止めなくちゃな」

 ガイが青い瞳に力を込めた。

「そうですわ。これ以上……オリジナルとレプリカの間に無為な火種が掻き立てられることがあってはなりません」

 ナタリアが視線を強くする。

「ボクも! ボクもみなさんと一緒に行きますの!」

 ミュウが必死に飛び跳ねた。

「ミュウ。分かったわ。でも、さっきみたいな無茶は、もうしては駄目よ? 戦闘が始まったら、ちゃんと安全な場所に隠れていてちょうだい」

 ティアがミュウに優しく微笑む。そして、表情を硬いものに変えた。

「あそこには彼が……兄さんの亡霊がいる。私たちは、今度も、彼に負けるわけにはいかない」

「そうだな。俺たちの信じる、未来のために……」

 僅かに俯いて、アッシュが言った。

「そして……恐らくは、奴に会えば分かるはずだ。あいつのこと……そして、俺自身のことが」

 仲間たちは、黙って彼のその言葉を聞いていた。アッシュは顔を上げる。その瞳の鮮やかな碧が露になった。

「行こう。――エルドラントへ!」

 彼は告げる。全員が、それぞれの声でそれに呼応した。







『確かに、彼女の詠む未来は綺麗で明るいものばかりだ。だが、未来はよいものばかりじゃないってことさ。……例えばフレイルくん、キミはもうすぐ、殺される』

『なっ……!?』

 少年が怯んだのを見て、若者はクックッと含んだ笑みを漏らした。

『冗談だよ。……でも、どうだい? 死を預言されれば、人は穏やかではいられなくなる。それを利用すれば、人心をひきつけるのは簡単だ』

『お前、やっぱ悪どいヤツだなー……。お前の作るって言う「教団」じゃ、そういうコトをするつもりなのか?』

『人聞きが悪いねぇ……宗教というものはそういうものだよ。ならフレイルくん、キミだったら? 死の預言スコアを知れば、誰もがその瞬間を恐れ、救いを求めるだろう。それをどうする? 諾々とその日を待てと諭すか? お前は死なないと嘘をつくか? ……最初から隠して、何も教えないでおくか?』

『うーん……。そうだな、確かに悪い未来を教えられればいい気分はしないだろうけど、予め知っておけば回避できることもあるんじゃないのか?』

『回避できないよ。星の記憶は絶対だ。……キミも、それはよく承知しているんじゃないのかい? よい預言だけは当たって、悪い預言は回避できる。そんな都合のいいことが……果たしてあるんだろうか』

『……何が言いたいんだよ』

『いいや? 大したことじゃないさ。ただ、彼女はどうするのだろうかと思ってね。……彼女もいつかは暗い未来を詠むはずだ。僕が、滅びの預言スコアしか詠めないように』

『え? 今、なんて言ったんだ? フランシス』

『……なんでもない。フレイルくん、キミは何も知らない方がいいのさ』

 知らないからこそ、持てる輝きというものもあるのだから。




 予め最後までの記憶を持っているのなら、時の流れというものは実質、意味を持たない。未来は既に過去なのだ。過去も現在も未来も一繋がりで、全ては定められたとおりに動き、流れ、滅んでいく。「彼女」の物語も、また。その流れをなぞる彼女たちの悲しみも、怒りも、夢も希望も、全てが意味を成さない。

 

(…………本当に?)

 

預言スコアは導きの光。暗闇に閉ざされた未来を照らす小さな灯り。……でも、それだけのものなんだよ。そこに本当に何があるのかは、自分で歩いて行って確かめなくちゃならない』

『そんなのは詭弁だね。預言は絶対だ。そこに詠われた死も、滅亡も。それを人々に聞かせてどうするっていうんだい? どう歩いて、何を確かめろって言うんだ。どう足掻いたって、何一つ変えられやしないのに!

 なにより、人が欲しがっているのは自分にとって都合のいい、幸せな預言だけだ。真実は死の預言だとしても……それを聞きたがる者はいない。聞かせても意味はない。だったら……彼らの望むものを与えてやって、何が悪い?』

『だけど……だけど、フランシス!』

 

 未来が定まっているというのなら、自分が「知っている」ものしかないというのなら、『現在』に意味はない。それは、過去だから。動かすことの出来ない過ぎ去った幻なのだから。

 

(――違う)

 

 ゆらり、と己の内の己が呟いた。――だって、俺はそれを知っている。

 

 血で汚れた手を伸ばし、彼は可笑しそうに顔を歪めていた。笑うと、傷が引きつって血が溢れ出す。

『笑うな……笑うなよ、フランシス!』

『だって、おかしいんだよ。……僕の見た未来では、ここで死ぬのはキミだったんだ。フレイルくん』

『……!!』

『僕の見たものは、間違っていたのかな……。結局、僕は「嘘つき」のままなんだろうか』

『そんな……。あなたはフレイルをかばって、助けてくれたんじゃない!』

 耳元で訴える少女の声を聞いて、若者は目を閉じて微笑む。

『僕は……幻の未来を見ていたんだろうか。それとも、未来を変えられたのかな』

預言スコアは、暗闇の中の導きの光。でも……それだけなんだよ』

 若者はもう一度目を開けた。曇りかけた緑の瞳で、少女を見つめる。

『ユリア。キミもいつかは滅びの預言スコアを詠むだろう。この世界は光だけではない。生があれば、必ず死がある。人も星も、いつかは必ず滅んでいく。――そして、滅びの未来は人の心を蝕むだろう。誰もがそれに立ち向かう強さを持っているわけではないのだから』

『フランシス……』

 呆然と若者の名を呟く少女の傍で、少年は、けれどもこう言った。

『それでも、俺は未来を自分で確かめる。滅ぶとしても……滅び方は自分で選ぶ!』

 若者は可笑しそうに失笑を漏らす。そして、目を閉じた。

 

『ねえ。人が死んだら、その心はどこに行くのかな。……サザンクロス博士は、音素フォニムになって音譜帯に混じり合うって言ってたけど……。今、プラネットストームで音譜帯とこの星の地核は繋がってるんだから、また、その音素が循環して、地上の命に再構築されるのかもしれないよね』

 星を見上げながら、少女は言った。戦争で疲弊した世界を救うための彼女の行動は、皮肉にも戦争を激化させるという結果を生んだ。大掛かりな譜術や譜業兵器の使用は、折角活性化したプラネットストームから生み出される音素力フォンパワーを食い尽くすだろう。そして遠からずこの星の地表は障気に覆われ、死に至る。

 それが、今の時点で見えている未来だった。彼女にも、恐らくは伝わっているのだろう。

 

(でも……違うよな)

『違うよね』

その思いが同調したかのように、少女はそう言葉を落とした。

『未来は、決まってなんかいない。ううん、決まってるとしても――そこへ辿り着くまでの道は、私たち自身で選び出せる。きっと、そのはずだよ』

 そうだ。――それを、確かに俺は知っているのだから。





前へ/次へ

inserted by FC2 system