「弧月閃!」

 水に映った月すら断ち切るような鋭い斬撃は、しかし刃に受け止められた。跳ね除けられたガイが受身を取りつつ退がったのと入れ違いに、アッシュが間合いに飛び込む。

「食らいやがれっ、穿破斬月襲!」

「甘いっ!」

 気を込めた拳と蹴りのコンビネーションを、ヴァン・レプリカは一発目は腕で阻み、二発目は気を発して弾き飛ばす。三発目は出すいとますら与えず、雷気をまとった剣で斬りかかった。

「襲爪雷斬!」

「くっ!」

 衝撃で地を滑って、アッシュは悔しげに唇を噛んだ。普段は上げている前髪がバラけて額に落ちている。

「癒しの力よ……ファーストエイド!」

 その体の傷を、ティアの放った譜術の光がフワリと包んで癒した。

「どうした。その程度では私を倒すことは出来んぞ」

 剣を片手に、ヴァン・レプリカは不敵に笑っている。

「流石に強いですね……」

 大きく間合いを取った位置で、軽く肩で息をつきながらジェイドが言った。

 長い攻防が続いていた。既にアニスとナタリアは気を失い、戦線から脱落している。それでも一対多数であることは変わりがないのだが、ヴァン・レプリカは周囲の攻撃をしのぎ、むしろ攻勢であって、未だその動作に消耗は見えない。なるほど、この一見不利な状況の中で自ら戦いを促すだけのことはあった。

「ですが……これでどうですかっ!?」

 槍を掲げてジェイドが叫んだ。その全身のフォンスロットが開放され、爆発のごとき勢いで発散された音素フォニムが、刹那輝く。

「天光満つる処に我はあり……黄泉の門開く処に汝あり。――出でよ、神の雷! インディグネイション!!」

 轟音と共に、雷のように降り注いだ光が渦を巻いて荒れ狂った。最強の呼び名も高い譜術の起こした光の風は、ヴァン・レプリカを取り巻いて完全に覆い尽くす。

「やったか!?」

 光の奔流に目をすがめてガイが言った。光の渦は次第に弱まり、やがて薄れて消えていく。落雷の後のような、焼けた空気の匂いが鼻をついた。――が。

「――なにっ!?」

 アッシュが息を呑んだ。光が去ったその後、そこに変わらぬ力強さで立つ男の姿を見たからだ。

「まさか……あれで倒れないと言うの!?」

 愕然とした面持ちでティアが叫ぶ。

 とはいえ、流石に無傷ではない。肩で息をつくヴァン・レプリカの髪はほつれ、衣服はあちこちが裂けていた。しかし、その表情、全身にみなぎる力からは何一つ削がれたものがない。

「フ、フフフ……まだまだだ……。――はぁああああっ!」

 ヴァン・レプリカは笑った。そしてぐっと力を込め、全身のフォンスロットから気を放つ。裂けていた上衣が弾け、一点の隙なく鍛え上げられた肉体が露になった。

「くっ……!?」

 放たれた気をこらえ、アッシュたちは目をすがめる。そして、淡く明滅を繰り返す譜紋――それが、彼の身体の一面に走っているのを見た。

「あれは………レミのものと同じ……?」

 倒れ伏していたナタリアが、朦朧とした視線を上げて呟いている。

「そうだ。この譜紋が私に力を与えてくれる。他の者に施したものとは違い、取り込むのは六つの音素フォニムの力ではないがな」

 そう語る時、彼の譜紋が一際強く輝いた。すると、何故かアッシュの意識がぐらりと揺らぐ。

「う……!?」

「――アッシュ!?」「おい、どうした」

 足元をふらつかせた彼に気付いて、ガイとティアが呼びかける。

(な、何だ……? 全身の力が抜ける、ような…………?)

「まさか……!」

 ハッとしたようにジェイドが叫び、視線をアッシュからヴァン・レプリカに巡らせた。

「フフ……ハハハハ! そうだ。この譜紋は第七音素セブンスフォニムを引き寄せ、我が力とする。――第七音素の集合体であるローレライ……アッシュよ、お前の半身の力をな!」

「何だと……!?」

 アッシュは碧の瞳を見開いた。その視線を受け、ヴァン・レプリカは笑みを含んで続ける。

「ヴァン・オリジナルが倒れた後、私はレプリカの世界を創るため、その方法を模索し続けていた。そしてある時、気付いたのだ。解放され音譜帯に去ったはずのローレライが、再び地核に降りて来ているのにな。

 譜術を用い、私はローレライを捕らえた。――が、完全に捕らえることは出来なかった。何故なら、ローレライの一部は、既に人の形となって地上に分離していたからだ」

「――まさか……」

「そう。人となったローレライの半身、それがお前だ。アッシュ――いや、ルーク・フォン・ファブレ!」

「――!!」

 ティアが、ガイが、ジェイドが。倒れ伏すアニスとナタリアと、彼女たちに癒しの譜術をかけていたフローリアン、彼らを見守るミュウ。そして、アッシュ自身が息を呑んだ。

 いや、既に分かっていることではあったのだ。『ルーク・フォン・ファブレ』はローレライの完全同位体――同一の存在だと、ずっと以前から言われ続けていたのだから。だが、それでも『ルーク』は人であり、音素フォニムの意識集合体であるローレライとは別個の存在だと、人々の意識では認識されてきた。

「三年前、何故ローレライが自ら再び大地に戻ったのかは分からぬ。だが、これが神の意思というものなのだろう。

 ……ローレライの力は、全てを生み出し、また、消滅させる。この偉大な力は、第七音素セブンスフォニムのみで形作られた――ローレライの申し子たる、我らレプリカが振るうのこそが相応しい!」

「……勝手なことをぬかすなっ!!」

 叫んで、アッシュは剣で斬りかかった。一太刀、二太刀、そして三太刀目までもが笑うヴァン・レプリカの刃に受け止められる。最後に刃を噛み合せた時、ヴァン・レプリカの身体の譜紋がぼうっと輝き、がくりと膝が抜けそうになった。

「くっ……!」

「アッシュ、お前はどいてろっ!」

 ガイが駆け込んでくる。

「この神速の斬り、見切れるか!」

 目にも留まらぬ速さで走るガイの剣が、無数の光の軌跡を生んだ。

「閃覇っ、瞬連刃!」

「ぐぅうううっ!!」

 防御が間に合わない。ヴァン・レプリカはその猛襲を受けて斬り刻まれた。そして大きくのけぞった懐に、一度引かせた剣を、ガイは強く走らせる。

「――……一閃!」

 ザン、と深い斬撃が肉をえぐった。斬り上げられた刃の軌跡に沿って、血が一筋、宙を飛ぶ。ヴァン・レプリカは苦悶の表情を浮かべ、二、三歩よろめいて退がった。だが、未だに瞳の力は強い。

「ぐっ……まだだあっ! 滅びよ! 星皇蒼破陣!」

 叫び、己の剣を地に突き立てる。光の譜陣が広がり、そこから発した音素力フォンパワーの爆発が、周囲にいたガイ、アッシュ、ジェイドを打ちのめした。彼らは地に転がされて苦鳴を上げる。

「いけない! ――命を照らす光よ、ここに……」

 癒しの譜文を唱えかけたティアの前に、ヴァン・レプリカが駆け込んできた。

「――っ!?」

「そうはさせん! 光龍槍!!」

「きゃあぁああっ!!」

 剣突から発された光を伴う衝撃が、ティアを吹き飛ばした。

「くっ……どういうことだ? 今まで俺たちが与えたダメージはかなりあったはず……軽々と走り回りやがって」

 よろめき、立ち上がりながらガイが言う。その向こうで同じように立ち上がりながら、「第七音素セブンスフォニムの力……ですか」とジェイドが呟いた。

「傷が……吸収した第七音素で癒されてやがるのか」

 先程、ガイに大きくえぐられたはずの傷跡が薄く消えかかっているのを認めて、アッシュは苦々しげに吐き捨てた。ひどく厄介だ。以前、ローレライを己の体内に取り込んでいたヴァン・オリジナルですら、こんなことは成し得ていなかった。

「まずいですね。オリジナルのヴァンは、ローレライを強引に体内に取り込むことで、滅びかけた自分の肉体を保持していました。だからこそ、そこに付け入る隙があったわけですが……」

「そうだ。私は、ローレライから力だけを奪い、取り込んでいる」

 ジェイドの声にそう返し、ヴァン・レプリカは視線を身を起こしかけているティアに巡らせる。

「よって、いくら大譜歌を歌おうとも、私に隙を作らせることは出来はしない。むしろ……ローレライを活性化させ、私により大きな力を取り込ませるだけだ!」

 嗤って、男は持ち上げた右手をぐっと握り締めた。そこに白光が迸り、彼の全身を覆う。キーーン……と微かな震動音が響いた。

太古いにしえの鎮魂の歌を聴くがいい!!」

「超振動……!」

 ティアが掠れた声を搾り出す。

「させねぇっ!」

 アッシュもまた全身に白光をみなぎらせ、剣をヴァン・レプリカに振り下ろしていた。ガキィン! と音を立て、ヴァン・レプリカが斬り上げた刃とぶつかる。二つの白光が衝突し、グワァン、と衝撃が走りぬけた。

 刃を合わせ、二人は暫し睨み合う。

「ローレライの鍵、か……。ローレライとの契約の証であるそれを持つ者は、ローレライに選ばれた者か、あるいは――ローレライ自身のみ」

「くっ……」

「お前を音素フォニムに還し、半身ともども、我が手に完全に捕らえてやる。我らの力となり、新たな世界を創るいしずえとなるのだ!」

 ヴァン・レプリカの全身の譜紋が輝く。アッシュの表情が苦しげに歪み、その覆う白光が僅かに薄らいだ。

「魔神剣っ!」

 ガイが気を込めた剣撃を放った。合わせるように、ジェイドが素早く踏み込んで槍で突き貫く。

「瞬迅槍!」

「こざかしいっ!」

 ヴァン・レプリカは右手から放った白光で地を走ってくる剣撃を粉砕し、ジェイドの突きをかわして蹴りを放った。その隙を突いてアッシュが剣で薙ぐ。が、それすらも再び左手の剣で受ける。

「天地に散りし白き光華よ、運命さだめに従いて敵を滅せよ……フォーチューン・アーク!」

 その時、ティアの放った譜術が炸裂した。彼女を覆った光が、ヴァン・レプリカめがけて滝のように降り注いでくる。

「ぐおぉおおっ! ――ぐぅうっ、舐めるなぁ! うっおぉおおおおおおおっ!!!!」

「うわぁあああっ!」「きゃあああーっ!」

 ヴァン・レプリカが雄叫びと共に全身から放った力に、アッシュたちは再び打ちのめされて悲鳴をあげた。

「く……油断、しましたか」

「なんて強さだ……」

「う、うぅ……。なんてこと」

 ジェイドが、ガイが、ティアが、よろよろと立ち上がりながら呟いている。もはや誰もがボロボロだ。彼らのそんな様を見やって、ヴァン・レプリカは己の口元を歪めた。

「フッ、ハハハハ! 愚かだな。レプリカだからと言って油断していたのか? オリジナルよりも劣るはずだとな」

「違う……!」

 アッシュの声が響いた。仲間たちと同じように満身創痍で立ち上がり、その手に剣を構えている。

「俺は知っている。レプリカだからと言ってオリジナルから劣るわけではない。どこかが劣化しているとしても、それは、持って生まれた個性だ。オリジナルとレプリカは、心も、能力ちからも異なる、別個の存在。――それだけのことだ!」

「小賢しいことを言う。……だが、所詮レプリカはレプリカだ。オリジナルの影にしかなれない、使い捨てられる存在だ。そうなりたくないのなら……オリジナルを消すしかない!」

「そんなことはない! レプリカはレプリカとして、オリジナルとは別の存在として生きられる。俺の中の……あいつの記憶が、それを知っている!!」

 言って、アッシュは剣を――ローレライの鍵を掲げた。その剣先の触れた宙空に、かつてと同じように光の譜陣が現われる。

「くっ……、再び同調するつもりか!? そうは……させるかぁっ!!」

 雄叫んだヴァン・レプリカの全身の譜紋が、眩い光を放つ。刹那、アッシュの顔に苦悶の色が浮かび、その体を覆いつつある黄金の光が揺らめいた。だが。

「うっぉおあああああああぁぁぁっ!!!!」

「なにぃっ!?」

 弾いた。力をむしり取ろうとする見えざる手を。カチリ、と音を立てて宙に現われた門が開き、そこから焔のような光が迸る。揺らめき現われた『ルーク』の幻が、もう一人の『ルーク』に重なった。その双眸が開かれ、全身が黄金に輝く。

「――響け……。ローレライの意思よ、開け」

 唇が、静かに言葉を紡ぎだす。ヴァン・レプリカもまた、剣を構え、己を覆う白光を強めた。

「くっ……! 私は負けぬ! 新たな世界のため……私が、本物として生きるために!!」

「世界の歌よ、集いて全てを砕くやいばと化せ!」

 ローレライの鍵が、眩い白光を放った。それを振り上げる『ルーク』の雄叫びが響き渡る。

「うおぉおおおおおおおっ!! 食らえっ、堕獄鳴動斬ロスト・フォン・ドライブ!!!」

「ぬぉぉおおおおおおおぉぉおおおっ!!!!!」

 白く輝く刃が打ち合った。

 ガァアアン!!

 その衝撃は、周囲の全てを揺るがせて駆け抜けていった。瞬間、天空に浮かぶ第二エルドラントが大きく揺れ動いたほどに。

 そして。輝くローレライの鍵は、ヴァン・レプリカの剣を粉砕し、その肉体に深々と食い込んでいた。それでも鍵の放つ白光は鎮まらず、いよいよ眩さを増して、彼の肉体を分解していく。

「――ここまで、か……」

 がくりと膝をつきながら、ヴァン・レプリカが呟いた。

「所詮……私は影……オリジナルすら果たしえなかったことを……私が為すことなど、無理だったと言うわけか……フフ……ハハハハ……」

「……そうじゃない」

 そう言って、一歩踏み出したのはガイだった。眉根を寄せた怒りとも悲しみともつかない顔で、貫かれた傷から次第に光に食われていく男を見下ろしている。

「あの頃、俺を守り導いてくれていた男がお前でもあったというのなら、お前もまた、俺にとっては本物だった。……お前は、『ヴァンのレプリカ』でいる必要はなかったんだ。お前はお前として生きれば、それでよかった」

「……そう思えたのならばよかった。そう思っていた時期もある。だが、レプリカであるという事実は切り離せない。――切り離す強さが、私に、足りなかっただけなのかもしれないが、な……」

 返す男の全身は光に包まれ、粒子となって消えていく。淡くなっていくその視線を、ティアの方に向けた。

「メシュティアリカ。お前は、第七譜石の最後にユリアが遺した言葉を、知っているか」

「――い、いいえ……。全てを詠む前に、第七譜石は砕けてしまったから……」

 ティアは、怯んだ様子で首を横に振った。『だが、その全ては偽りである』。それだけが、彼女が詠むことの出来たものだ。二千年もの間の長い人類の歴史。人々が愚かなほど信じきり従ってきた預言スコアの、その最後に記された言葉としては、あまりにも倣岸不遜な。

「……『だが、その全ては偽りである。しかし、真でもある。これを詠む未来の子よ、掴むべきものは真と偽の狭間にあると知れ。それを知る者こそが真を偽となし、偽を真とする。我はそれを望み、その約束として、この預言うたを未来へ遺すものなり』。……これが、ユリアの遺言ラスト・ウィルの全文だ」

 驚いて、ティアは目の前の男を見つめた。

「ヴァンデスデルカは……産まれてくるお前が、いつか、自分自身でその言葉の真意に辿り着くことを、望んでいた……」

「ええ……分かってる。分かっているわ」

 ティアの瞳に涙が滲んだ。両手で顔を覆い、そう訴える。その間にもどんどん消えていく、もう一人の兄に向かって。その想いが伝わったかのように、フ、と彼は目元を微笑ませた。

「さらば、だ……」

 最後にその言葉を残し。『ヴァンデスデルカ・ムスト・フェンデ』は、光となってざぁっと霧散した。その光の粒子が、未だ全身を輝かせたままだった『ルーク』をも包み込む。光は混じり合い、押し流されるように、『ルーク』の姿もまた、光の粒子となってその場から消滅した。

「――な!?」

 ガイやジェイドが愕然として息を呑む。何が起こったのだ? だが、混乱して見回す視界に、赤髪の青年の姿は見えない。ただ、辺りを漂う光の粒子がキラキラと時折またたいているだけだ。

「そんな……嘘…………」

 ふらりと立ち上がり、ナタリアが蒼白な唇をわななかせた。

「――いやぁああああっ!! アッシュ!!」

 広い空間に、その悲鳴だけが木霊する。

 セフィロトのほのかな光に照らされた空間。その天井をティアは見上げた。辺りでゆらゆらと揺らぎ、明滅する光。その上には、複雑なデザインの丸い天窓のような形の譜業灯が、飾り枠をくっきりと切り取って薄蒼く輝いている。

「ナタリア。私、最近ずっと考えていたことがあるの」

 そう呟き、一歩、ティアは円形の場の中央へ踏み出した。

「五年前、私は大譜歌を歌って兄さんの中のローレライを目覚めさせた。その時、確かに解った気がしたの。ユリアが譜歌にどんな想いを込めていたのかが……。

 それは世界を――そこに生きる命を愛する心。そして、その未来を信じる、強い意思。

 それは正しかったと、今でも思ってる。でも……物事に込められた意味は、一つだけじゃない。七番目の旋律……そこに込められたもう一つの意味が、今やっと、私には解った気がするのよ」

 円形の広場の中央に立ち、彼女は目を伏せて、ゆっくりと胸に息を吸い込んだ。






 歌が聴こえる。

 これは、世界を形作る六つの力の織り成す響きだ。

 かつて屍によって築かれたとされるくらい丘で。

 強大な譜術によって地底に沈んだ都市の底で。

 清流の間を風が渡る白い花の渓谷で。

 氷雪吹き荒れる白魔の山で。

 火炎怒れる鍛治神の懐で。

 眩い光にさらされた高原の中で。

 音素フォニムを代表する意識と出会い、心を通わせた証として彼女が歌った、約束の調べ。

 歪みのない目で世界を愛すること。強い心で未来を信じること。そのために力を尽くし、怖気ない強い意志を持つということ。

 その想いに共鳴しよう。助けるための力を授けよう。彼女が出会った六つの意識は、各々にそう誓った。

 そして、最後の意識は――。




 レィ ヴァ ネゥ クロア トゥエ レィ レーィ……

 少女は歌っていた。手には、かつて障気蝕害インテルナルオーガンに侵されたヴァルター・シグムントたちを救うために聖獣ユニセロスから授かった、聖杖ユニコーンホーンを持ち。聖女としての盛装のいでたちをしている。

 音素共通律言語フォニスコモンマルキスによって綴られた、七番目の旋律。世界を構成する最後の力に向けた彼女の歌が空に溶けた時、現われた光は一瞬揺らめいてその形を変えた。六つの音素フォニムの意識集合体と契約を取り交わしたことで、彼らがそれぞれ実体をもって現われたように。今まで光でしかなかったその存在は、はっきりと目に見える姿となって、ユリアとフレイルの前に降り立った。

 フワリ、と赤く長い髪がひらめいて、地に降りた彼の動作に合わせて背に流れる。それを追うように、広がっていた黒いマントも、ゆっくりと垂れ下がって彼の背を覆った。要所を黒でまとめた白っぽい簡素な上衣を着て、腰の後ろに真一文字に渡した鞘に奇妙な形の剣を差している。

『――お前がローレライ、なのか……?』

 訝り、戸惑いながらフレイルは訊ねた。見た感じ、まるで普通の剣士の青年のようだ。確かに、今まで出会った意識集合体たちにも、(妙な姿をした者が大半ではあったが、)人と変わらぬ姿をした者がいた。だが、この青年はあまりに平凡で――人と全く同じもののように見える。いや、腰まで伸びた焔のように耀く髪が、特異といえば特異だろうか?

「そう。俺がローレライ。――『聖なる焔の光ルーク』だ」

 青年――ローレライは答えた。穏やかに見えるその表情の中で、碧の双眸には強い意志の光が宿っている。

 そこは、地の底だった。星の地核に通じ、そこから噴き出す星の力が光の樹セフィロトとなって生え出している。そこに人々は譜業装置パッセージリングを仕掛け、星の力を強めて頑堅な柱となし、大地を浮き上がらせて障気から逃れようとしている。滅びに瀕した世界が、最後の手として打ち出した、恐らくは星が始まって以来の大計画であった。これが成功すれば、この星の様相は、現在とはまるで異なったものになることだろう。

 だが――この計画の要となる星の力そのものが、計画を成功させるには足りないことを知る者は数少ない。これを知るのは計画の中核を担う一握りの者だけであり――その中の二人がこの少女と少年、ユリア・ジュエとフレイル・アルバートであった。彼らはこの問題を解決するため、今この場――ホド本島の地下に建造された第八パッセージリングの前――に、二人で立っている。そして、その方法を示唆した者こそが、彼らの前に現われたこの第七音素の意識集合体――ローレライだった。

『博士の試算では、お前が言った通りになるだろうっていう結果が出た』

 フレイルは言う。

『だけど……本当にいいのか?』

 構わない、とローレライは頷く。腰に差していた剣を抜き、フレイルに渡した。

「俺が地核に入ったら、これを使ってくれ。この鍵は第七音素の集結と拡散の流れを操ることが出来る。俺とプラネットストームの流れを分断し――封印するんだ」

『……やっぱり、嫌だよそんなの』

 震える声が落ちた。俯いた少女の肩に乗ったチーグルが、『ユリア、泣いてますの? 大丈夫ですの?』と心配そうに覗き込んでいる。

『あなたを地核に封印するなんて……! 何か、他に方法はないの!?』

『ユリア……俺たちは散々方法を考えたんだ。そして、これが最善だと判断した。……そうだったろ?』

 そう言うフレイルの顔も苦く曇っている。

『……うん』

 目を伏せ、ユリアは頷いた。そんな二人を見つめながら、ローレライは語りだす。

「今、生命を脅かす障気がこの星を覆っているのも、セフィロトツリーを形成する星の力が弱まっているのも……全ては、この星が病んでいるからだ。

 俺――第七音素セブンスフォニムは、この星を構成する六つの音素フォニムと、星の記憶の欠片セルパーティクルとの結びつきによって生まれた。この星の生命力いのちに最も近い存在だ。俺は、この星を癒すことが出来る。そのためには、この星の内部に――地核に留まる必要があるんだ」

『分かってる。分かってるけど………っ、――もう、会えないの?』

「そんなことはないさ」

 ローレライはほんの少し困ったように微笑んだ。

「俺は、これから地核の中で眠ることになるだろう。でも、プラネットストームから新しい第七音素は生まれ続けるから、人がその力を使えなくなるわけでもないし……。大半は、俺が地核の中に引き寄せちまうだろうけど」

『そんなこと! そんなこと、どうでもいいよ! あなたは私を見守ってくれていた。旅に出る前から、旅の間もずっと。……そうだよ。ずっと、一緒だったのに……』

「一緒だよ。俺は消えるわけじゃない。ずっと……この星と共にいる」

『ルーク……』

「それに、永遠にこのままってわけじゃない。……俺には見えるから。いつか解放されて音譜帯に昇り……俺は、この星の全ての音素フォニムと混じり合う」

『全ての、音素と……?』

「ああ。――その間も、その時も、世界には様々なことが起きているだろう。死も、歪みも、過ちも起きるだろう。だけど……」




 地核を満たす星の記憶の中に、時間ときの流れはない。始まりから終わりまで、それは同列に並んでいるだけのもの。未来は過去であり、過去は繰り返しの未来であり。現在は、ただそれを確認するための視点に過ぎない。

 だが、確かにあの時、変化は生じた。

 人として生まれた半身は、無知のまま鉱山の街で音素フォニムに還る。そのはずだった記憶が歪みを見せた時に。――いや。そもそも、己の半身が人として地上に生まれたことこそが、歪みそのものだったのかもしれないが。

 半身は二つに分かれて歪みを大きくし、三つめの『聖なる焔の光』は、死に絶えた半身を伴って地核を訪れた。

 星の記憶を変えるほどの意志を持った『人間』。しかし同時に、彼らは自分と同じ存在でもあった。同じであり、違う。混じり合うことを拒んで、繋げた意識を頭痛と捉えるほどに。自分と彼らは一つであり、二つであり、三つでもある。

 それでも、ついに鍵の形作った譜陣に乗って地核へ降りてきた『三つめ』は、片割れの死骸を抱いて目を閉じた。ふわり、と実体が緩む。音素に戻っていく。片割れとも混じり合いながら。

 同じ存在である自分たちは、この時、混じり合って一つの存在へと還った。三つであり、二つであり、一つでもあるものに。

 ――そして、星の記憶を今までとは異なる視点が辿る。

 自分自身に起こったこの変化によって、始まりも終わりもない星の記憶の環の中に、見逃せざる歪みが生じた。その内側に在る限り、環は決して開くことはない。だが……その形を、僅かながらも、違うものへと変えたのだ。




『だけど、そこには生も、喜びもある。過ちは正すことが出来る。――きっと』

 フレイルが言った。ローレライの目をまっすぐに見返しながら。

「うん、そうだ」

 笑うローレライの姿が、ぼうっと金色の光に包まれた。フワリと舞い上がる。床のない、地核に続く奈落の上へと。ユリアが彼を呼ぶ。

『ルーク!』

「じゃあ……。また、会おうな」

 そして、光は落ちて行った。記憶粒子セルパーティクルがきらめきながら立ち昇ってくる、地の底へと。

『うん……! また、きっとまた会おうね!』

 遠ざかる光を必死に目で追いながら、ユリアがそう呼びかけている。

『音素の転生が本当にあるのだとしたら……遠い未来、あなたも生まれ変わるのかもしれない。そうしたらまた、私たちは会えるよね。会って、きっと今度も友達になれる。

 ――約束だよ。待ってるから。いつか私たち、もう一度、このホドで……!』







 約束。

 そう。それを私はユリアと交わした。

 この星の地核に眠り、命が生きるための力を星に与え続ける、という契約。

 

 約束。

 それを俺も交わした。

『父上、一緒にベルケンドの街を……』

『この国を変えよう。死ぬまで一緒にいよう』

『ああ、絶対に死なない。約束してやる!』

 どれ一つ果たせなかった。全ては空回りの、偽りの約束。

 

 約束。

 俺は、どんなに多くの人とそれを交わしてきたんだろう。

『いつかお前が、俺が剣を捧げるに足る男になったなら……』

『その代わり、プロポーズの言葉、きっと思い出してくださいね』

『見ているわ、ずっと。本当にあなたが変われるのかどうかを』

『その鍵で、私を解放してほしい』

『必ずここに帰って来ると約束してくれるのなら、お友達に会いに行っていらっしゃい』

『我らの屍で、我らの国を作ってくれると言うのなら……』

『だからこそ生きて帰って下さい。いえ……そう望みます』

『だから、さくっと戻って来いよ。……このまま消えるだなんて、許さないからな!』

『そのためにはぁ、パトロンが必要でしょ♥ ちゃんと帰って来てね』

『生き延びて下さい。あなたが、あなたの人生を生きるために……。分かりますわね』

『ミュウも、ご主人様が戻ってくるのを待ってるですの!』

 

『……必ず帰って来て! 必ず。必ずよ。待ってるから。ずっと、ずっと……!』




 記憶は巡る。生も死も、過ちによる悲しみも喜びも。全てを再び体験しながら。

 過去と未来が混沌とした意識の中で、それでも、残る思いは浮かび上がった。

 

 ――守りたかった、な……。約束。

 そう、独りごちる。

 ――約束なんてものに意味はない。それは簡単に破られ、……果たせない。

 けれど、それを打ち消す想い。

 ――だが、それでもそれは私を縛る。二千年の長きに渡り、私はそれを守り続けた。

 そんな事実を思い浮かべた。

 

 それは、何故?

 契約だからだ。

 だから、それに縛られる……。

 約束など、無意味だ。

 ――いや、違うだろ。

 違う……?

 約束を交わすのは……強いられるからじゃない。いつだって、そうだっただろ?

 ああ……。

 そうだな。私は、私の意志で約束を交わした。

 誰に強制されたわけでもない。縛るものでもない。

 それでも約束を交わすのは。

 

 ――俺が。それを、果たしたいと思ったからなんだ。











 歌が聴こえる。

 歌っている『彼女』の姿が見える。

 ――引き寄せられるのを、感じた。











 大譜歌を歌うティアの、さし伸ばされた手の先に、周囲に散らばっていた黄金の光が集まって凝り始める。

 その光が、ゆっくりと赤い髪をなびかせた青年の姿をとっていくのを、仲間たちは祈る思いで見つめていた。

 

 ――兄さん。私は、兄さんのことを殆ど理解できていなかったのかもしれない。けれど、兄さんは私に多くのものを遺してくれていたのね。その言葉で、行動で。

 だからこそ今、私はそれを理解できる。七番目の旋律にユリアが込めた願い。

 誰かを愛する心。滅びを偽りだと信じ、暗闇の中の未来を選択する強い意志。それはまた、ある別の願いへも通じている。どんなに困難でも、絶望的でも、諦めない想い。歪まず、いじけず、まっすぐに信じ続ける心。

 この歌に込められたもう一つの願い。それは……――。

 

『きっとまた会おうね! ――待ってるから。いつか私たち、もう一度、このホドで……!』




 ――それは、必ずまた会おうという約束。














 夜の闇の中に、遠く、ホドの残骸が見えた。あれは模造品だ。だが、今のこの時代では、ホドを偲べるものはあれしかない。

 振り向けば、そこはどこか見覚えのある渓谷だった。……そう、『始まりの場所』だ。

 ルナの光に照らされた青白い花の波をゆっくりと掻き分けて、たった今まで歌っていた彼女の側に歩み寄る。

「どうして……ここに?」

 絞り出すように出された彼女の声は、幾分掠れていた。先程までの美しい声が嘘のように。

「ここからなら、ホドを見渡せる」

 答えながら、今更のように気付いていた。ああ――同じだったんだな。彼女の髪や瞳の色は。

 その思いは、起き抜けの夢の残滓のように、たちまち儚く消えていってしまったけれども。

 それでも自然に笑みが浮かんで、彼女と、その背後の仲間たちに視線を向けて。最も言いたかった、言うべき言葉を口に出した。

「それに……約束してたからな」














 パッセージリングのプログラムデータに、超振動によって強引にコマンドが書き込まれていく。

「――これで大丈夫です。第二エルドラントはゆっくりと降下……その後、パッセージリングも停止します」

 書き込まれたコマンドを確認してジェイドが言う。その言葉を合図に、赤髪の青年は白光をみなぎらせていた両手を下に降ろした。

「これで一段落だね」

「エルドラントのことは、な……」

 ホッと息をつくアニスに、複雑な表情のガイが答えている。その視線の先には、赤髪の青年の姿があった。前髪が崩れて額に落ちたままの彼は、アッシュのようでもあり、別の――ルークのようにも見える。しかし、そのどちらでもないようでもあった。表情がどこか平板なのだ。アッシュなら、こんな風に見つめられれば眉間にしわを寄せるだろうし、ルークなら困ったように笑うだろう。なのに、そんな色がない。

 ヴァン・レプリカの消滅に巻き込まれた形で消失し、ティアの大譜歌で呼び戻されてから後、彼はずっとこんな調子だった。

「あの……」

 ナタリアが彼に近付いた。おずおずと口を開く。

「アッシュ……ですわよね? それとも、あなたは……」

「あなたは、ルーク……なの?」

 訊ねたのはティアだった。誰もがはっとして視線を送る。そんな視線を受けて、けれど青年の表情は相変わらず殆ど動かなかった。

「そうだ、とも言える。……だが、そのどちらでもないとも言える」

 青年の答えはこんなものだ。「はわー、それってどういう意味かな」と、アニスが幾分おどけて首を傾げてみせる。

「今のあなたは……アッシュであり、ルークであり、……ローレライでもある。そういうことですか」

 固い表情のジェイドの声に仲間たちは瞠目し、青年は静かに頷いた。

「ローレライ……? おい、なんだよそりゃ」

 ガイが、困惑したような笑いを浮かべている。それは他の仲間たちも同じだった。確かに『ルーク』はローレライの完全同位体で、ヴァン・レプリカは、アッシュを人となったローレライの半身と呼んではいたが。それでも、あくまで『人』であった彼らと、未だ世間では眉唾扱いの『音素フォニムの意識集合体』であるローレライを同列に語るのは、感覚的にはしっくりこない。

「アッシュとルークは完全同位体でした。そのために混交コンタミネーション現象を起こしていた。しかしまた、彼らはローレライの同位体でもあったのです。――五年前、ルークが地核に降りた後に何があったのかを私たちは知りません。ですが……」

「ルークと、アッシュと、そしてローレライはコンタミネーションを起こし、混ざり合っていた……。そういうこと、ですか」

 ジェイドの言葉を継いで、ティアがそう言った。感情の抑えられたその声は、堅い。

「でも、三年前に戻ってきたのは『アッシュ』でしたわ」

 どこか泣きそうな面持ちでナタリアが訴える。赤髪の青年が視線を動かし、彼女を見た。

「……五年前にルークとアッシュと混じり合ったことで、私の意識には変化が生じたのだろう。

 音譜帯に噴き上げる記憶粒子セルパーティクルを通じて辿った星の記憶は、私に、私が人でもあったことを思い出させた。……その想いが、私を再び大地へ――地核へと向かわせたのだ。そして、約束の歌が私を地上へ引き寄せた」

 語る青年の口調は、アッシュのものでもルークのものでもなかった。あえてそうしているのかもしれない。仲間たちをこれ以上惑乱させないために。

「あの時、タタル渓谷でお前たちの前に現われたのは、私の中の『人』であった部分だ。――アッシュとルークが混ざり合い、新たに構成された器の中にアッシュの心が宿ったもの」

「……大爆発ビッグ・バン現象、か……」

 ぼつりとガイが呟く。暗い視線を落とした。

「今は、『人』である私と『意識集合体』である私が重なり合っている。――だが、心配することはない。これは一時的なものだ。じきに繋がりは断たれ、ここにいる私はアッシュに戻る」

 そう言って赤髪の青年は笑った。その優しい、けれど何かを抑え込んだような表情に、仲間たちは見覚えがあった。――あの頃、彼がよく見せていた。

「待って!」

 叫んだのはティアだった。

「あなたが、ルークとアッシュとローレライが融合したもので、その中から『人』の部分が分離したのが戻ってきたアッシュだということは分かったわ。――でも、だったらルークは? ルークだって『人』よ。彼は戻ってこないの?」

「……そうだぜ。勿論、アッシュが戻ったのは喜ぶべきことさ。だが、あいつも……ルークだって、『人』として生きたがっていたんだ。アッシュの中に記憶が残ってると言ったって……それがどうした。あいつは、何故戻ってこない。あいつの心はどこにあるんだ!」

 ティアの声に押されたように落ちたガイの声は、最後には烈しい叫びになる。

「………ルークの心は、ここにある」

 目を伏せ、赤髪の青年は己の胸を押さえた。

「だが、それは既に『ローレライ』の意識と混ざり合い、分離し難いものになっている。……それに、人として生きるためには器が必要だが、それもない」

「……っ。ローレライの力は、全てを破壊し、再構築するんだろう。ルークの体くらい再構成できないのか?」

「私は、あくまで音素フォニムの意思……。自然の作用の中の一つだ。時に人に影響を与え、与えられることはあっても、自らが意図的に、歪んだ事象を作リ出すようなことはない」

 言い募るガイに向かい、赤髪の青年は淡々と語る。沸き立つ心を諌めるように。

「――では、器があればよいのですか」

 だが。不意に落とされた思わぬ声が、暗く諦めの色に染まりかけていた場の色を大きく変えた。

「将軍? 何を……」

 ティアが訝しげな声で問いかける。しかしまるで表情を揺るがさず、彼は赤髪の青年を強い視線で見据えて口を開く。

「ルークの身体なら、私が用意できます。――フォミクリーによって」







 レプリカ作製室は第二エルドラントの管制室の隣にある。ジェイドに従って、一行はそれが位置する上層に戻ってきた。手早く機器を立ち上げていくジェイドと、それを手伝っているガイの様子を、その周囲に並んで見守っている。

 

「フォミクリーで、って……。あなたは、一体何を言っているんですか!」

 ジェイドがルークの身体を用意すると言った時、真っ先にそう言ったのはフローリアンだった。

「あなたは、生物フォミクリーの製造を自ら禁じたのでしょう!」

「やはり、あなたにはそう言われてしまいましたね」

 微かに苦笑して、一瞬、悲しげな陰を目元に落とし、しかしジェイドは視線を揺るがさなかった。

「確かに、私は生物フォミクリーを禁じました。……複製体であるレプリカにも命はある。それを弄ぶようなことがあってはなりません。それが、かつての私には理解できませんでした。レプリカだけではない、オリジナルの命の意味すらも、私は知らなかった。全く……愚かと言うほかありませんね。

 今から私が行おうとしていることは、その愚かさを上塗りするだけのことでしかないのかもしれない。ですが、これしか方法はないのだとも考えていました。結局は罪を重ねるだけに終わり、何も得られないのかもしれません。……それでも。可能性があるのなら、私は、それに賭けたい!」

「ジェイド……!」

 強い意志をたたえた瞳に射抜かれ、フローリアンは口を閉ざす。

「……俺はこの話、乗るぜ」

 微妙に空いた沈黙の後、仲間たちの間から落ちたのはそんな声だった。アニスが目をしばたたかせて、「ガイ?」と彼の名を呼ぶ。

「可能性があるっていうんなら、俺もそれに賭ける。

 ……これ以上、抑えて、殺して、物分りのいいふりをし続けるなんてのは、もうごめんだ!」

「そうね。私も……賭けたい」

 次に口を開いたのはティアだった。両腕で己を抱きしめ、泣き出しそうな目で俯いている。

「私は、馬鹿なことを望んでる。ルークもアッシュも、フローリアンやイオン様たちや、兄さんたちも……みんな苦しんでいたことを知っているのに。それでも、望んでしまう。

 ……あの時、行ってしまった彼を見送ってから、ずっと自分に言い聞かせてきたわ。どうしようもないことだったんだって。だけど……だけど、本当にそうだったの? 強引でも、禁忌でも……止めていれば。止められたらよかった!

 だから。今度こそ、そう出来るっていうのなら、私はもう諦めたくない。…………ごめんなさい……」

 消え入りそうな謝罪の声を向けられて、フローリアンは、ただ黙って目を伏せた。そんな彼を見つめて、アニスが悲しげな笑みを浮かべて言う。

「うん……。私も、やっぱり、またルークに会いたいよ」

「ご主人様に会えるんですの? ボク、ご主人様に会いたいですの! ずっと、ずうーっと、待ってましたの!」

 みんなの足元で、懸命にミュウが訴えた。

「そうですわね。わたくしたちはみんな……諦めたふりをして、本当はずっと、願い続けていました。ルークが……わたくしたちの元へ帰って来ることを」

 静かな口調でナタリアが言った。俯けていた視線を上げて、傍らの赤髪の青年を見上げる。

「――あなたも、そうだったんでしょう? 『アッシュ』」

 そう問いかけられて、起伏に乏しかった青年の表情に僅かな揺らぎが生じた。

「……だが、そう簡単にはいかない。私の器となるものは、私と同じ響き……固定振動数を持つものでなければならない。そうでなければいずれ拒絶が起こり、崩壊を引き起こすだろう。だが、フォミクリーでは意図的に同位体のレプリカを作ることは出来なかったはず」

 そう、それでも彼は言ったが。

「大丈夫です。かつて、ルークはレプリカ製造時の事故によって、偶然、被験者オリジナルの同位体として生まれました。その時のデータを元にして、後に『スター』……星型の模様のあるチーグルの完全同位体のレプリカが作られ、ワイヨン鏡窟で大爆発ビッグ・バン現象の臨床実験が行われています。

 つまり、意図的に同位体を作ることは可能です。私は、その資料を入手しました。資料自体は既に破棄しましたが、内容は記憶しています」

 ジェイドはそう答えた。しかし、そこでふと声を落とす。

「ですが、一つだけ問題はあります。……完全同位体の身体を作ることが出来ても、そのままでは、いずれ再び大爆発ビッグ・バン現象を起こし、アッシュと混交コンタミネーションしてしまう危険性がある」

 はっと息を呑んで、全員が口を閉ざした。そうして生じた空白を埋めたのは、ぶっきらぼうな青年の声だった。

「……方法は、ないわけじゃねぇ」

「――アッシュ?」

 赤髪の青年を見上げて、ナタリアが目を見開く。今まで表情のなかったその顔に、見慣れた、不機嫌そうな仏頂面が浮かんでいた。

「遠く離れて二度と会わないようにする……って方法もあるが、それは不確実だ。俺たちはもう、限られた場所に閉じ込められて暮らすつもりはないからな。――確実を目指すなら、俺たちの全身のフォンスロットを全て閉じればいい。そうすれば共振は最低限に抑えられ、恐らくは、コンタミネーションを起こすことはないはずだ」

「でも、それって……中将が封印術アンチフォンスロットを掛けられていた時みたいになるんですよね?」

 ジェイドを見上げてアニスが言う。彼は頷いた。

「そうですね。フォンスロットを閉じれば、音譜帯の音素フォニムや大気中の音素力フォンパワーを体内に取り込むことが出来にくくなりますから……、譜術の威力などはガタ落ちになるはずです。無論、超振動も難しい。体力の方も、多少は」

 かつて、彼は自分のその状態を『全身に重りをつけて海中散歩させられている感じ』と表現していたものだが。

「……剣が持てなくなるというわけじゃない」

 青年は言った。

『彼ら』は、戦うことで何かを守り、物事を為し得てきた人間だ。それを失うということは、両腕をもがれるにも等しいことと言えた。……だが、それでも。

「生きている限り、そんなことはどうにでもできる」

(――そうだろう?)

 そう、彼は己の内に問いかけた。答えは返る。最初はおずおずと、それから真っ直ぐに。

「……では、行きましょう。エルドラント内にフォミクリー設備を発見しました。そこでなら、すぐに実行できます」

 微かに笑みを浮かべた赤髪の青年を見つめて、己にもその表情を映しながら、ジェイドは言った。

 

 そして今、フォミクリー装置は起動し、微かに震動しながら淡い緑色の光を放っている。

「準備は整いました。今、『ローレライ』は地核から解放され、第二エルドラントは降下していますから、製造を行っても地核に悪影響は及ぼさないはずです。――開始します」

 ジェイドの指が制御板を滑ると、ぼう、と装置の台の部分が輝き始めた。それは輝きを増して次第に人の形を為していく。

「……記憶は脳に記録され、想い出は心に焼き付いている。アッシュが人として戻った時、アッシュの記憶とルークの想い出は混ざり合った。いまや、それを分かつことは出来ない」

 赤髪の青年が言った。感情の起伏に乏しい声音と表情で。――が、その眉が顰められ、声の調子が低く変わる。

「だから、その二つを抱えたまま……、俺たちはまた、分かれる」

 言い終わると同時に、彼の身体が金色に輝いた。その輝きが焔のように揺らめく塊となって分裂する。残された身体は立ち眩んだようにふらつき、それを支えたナタリアが「アッシュ!」と彼の名を呼んだ。

『そして、それと同じように、ルークの心とローレライの存在も混じり合い、もはや分かち難い』

 宙で揺らめくほのおが、不思議に響く声でそう語っている。

『ルークが戻るということは、ローレライが消えるということだ。……だが、人が生まれ、また音素フォニムに還っていくまでの時間は、星の生命いのちからすれば瞬きほどのものですらない。その間、人として生きてみるのも……悪くは、ない』

 そして、その焔は装置の台の上で形を成していく人型の光の中へと溶け込んだ。一際増した輝きは、しかしすぐに消え、ただ、水の上の波紋のような環が幾重にか、その上の空間にゆらゆらと広がった。

 やがて光が消える。

 台の上には、完全な形をした人間が横たわっていた。赤い長い髪を背に敷いた、十歳ほどの少年。その両目は閉じられ、手足は未だ力なく投げ出されている。

「……ルーク」

 痛みと、懐かしさと……そんな響きを含んだ呟きをガイが落とした。――それが合図になったというわけでもあるまいが。

「……………」

 少年の睫毛が、ぴくりと震えた。まぶたがゆっくりと開かれ、碧い大きな瞳が露になる。それはぼんやりとさまよって、やがて訝しげにすがめられた。

「……あれ。なんで………。ここは、地核じゃ……」

「――……っ。ルーク!」

 息を呑み、震える喉を引きつらせていたティアが、悲鳴のように叫んで少年の首にしがみついた。

「ティア!? ど、どうしたんだよお前。それに、俺……。俺は、消えた、はず………」

 彼女の柔らかな胸に抱きすくめられて赤面した少年は、戸惑ったように己の両手を見つめた。その肩を、パン、と軽く男の手が叩く。見上げると、見慣れた親友の顔があった。

「もう、いいんだよ。……お前は全て成し遂げた。そして、帰って来たんだ」

「え……」

 呆然とする傍から、随分と大人びたかつての少女が、それでも変わらぬ笑顔で「お帰りっ、ルーク♥」と覗き込んでくる。その後ろの青年にも確かに見覚えがあった。泣き笑いのような表情で、「お帰りなさい……」と静かに微笑んでいる。

「ご主人様!! よかったですの〜!!」

「ミュウ!」

 涙を振り飛ばしながら飛びついてきた柔らかく温かな塊を、少年は細い腕で受け止めた。

「お帰りなさい、ルーク……。あなたに、こうしてまた会えて、嬉しいですわ」

 そう言うナタリアは、微笑みながら涙ぐんでいた。そして、こぼれた涙をぬぐう彼女に、そっと寄り添う長い赤髪の男がいる。

「――!! アッシュ!?」

 これ以上ないほどの声量で発された少年の声に、その場の人々はぎょっとさせられた。そんな周囲の様子もまるで目に入らず、少年はアッシュに殆ど掴みかかる勢いでしがみついて、ぺたぺたとその顔や体を触っている。

「おい……。何だ!」

 アッシュのこめかみに青筋が浮かび、眉間にますます深くしわが刻まれた。だが、それを気にする様子もなく。

「あったかい……。生きてるんだ」

 少年は呟いた。泣きそうな、けれど嬉しさに笑いだしたくてたまらない、そんな表情で。

「生きてる。お前、生きてるんだな! ……よかった。ホントに……よかった!」

 その顔を見ると、流石のアッシュもぐっと詰まった。チッと舌打ちして視線をそらし、「五年も死んでたのはお前の方だろうが」と吐き捨てた。「へ?」と少年が目を丸くする。そこに至って、自分自身の身体の異変に漸く気付いたらしく、「あ、あれ!? そういえば、なんか俺……小さい!? それに服着てねぇ!」と慌て始めた。

「あなたはちゃんと、あなたの責任を果たしたんですよ」

 ジェイドが言って、どこからか持って来た大きな布を、フワリと少年の身体に被せた。

「そして戻ってきた。――胸を張ってください。もう、何も心配することはありません。あなたは、消えない」

「……え?」

 少年は呆然とジェイドを見返した。彼の赤い瞳が、眼鏡の奥で優しく微笑んでいる。

 ぱっ、と少年は顔をうつ伏せた。何かをこらえるように唇を噛み、肩をぎゅっと強張らせている。その肩を、そっとガイの腕が抱いた。かつて、この少年が本当に生まれたばかりだった頃にそうしていたように、覗き込んで優しい声音で話しかける。

「いいから。気持ちを殺すなよ。――全部終わった。もう、我慢することはないんだ」

「………っ」

 少年の喉が震えた。溢れ出した涙が頬を伝い、ぽたぽたと大きなしずくになって落ちる。

「……ふっ、く、……う」

「ルーク……」

 次第に大きくなっていく少年の嗚咽を聞きながら、ティアも泣いていた。

「う……。ひっ、うぅ………うっ、うわぁあぁ〜〜ん!」

 ついに、彼は堰を切ったように泣き始めた。本当の小さな子供のように声を上げて、親友の肩にしがみついたまま。

 その声は、まるで、産まれ落ちたばかりの赤ん坊の上げる、あの命の歌声のようだった。














Bachicul KIMLASCA=LANVALDEAR
48day,Rem,Lorelei Decan
ND2023

 

 空は青く澄み渡っていた。この佳き日には相応しい。

 五年前までであれば、こうした日の予定は預言スコアによって定められていただろう。しかし、今はそれは禁じられている。それでも、あるいは『占い』という形で密かに相応しい天気の日を探るくらいのことはされたのかもしれないが、その程度のことなら愛嬌だ。

「本日はおめでとうございます」

 そんなお定まりの祝辞を掛けられて、アッシュは礼服の襟元を直していた手を止め、そちらに顔を向けた。白い石柱の並ぶ長い歩廊の後方に、軍服を着た細身の男の姿が見える。

「ジェイド、お前はいつも軍服だな」

 自分たちで招待したのだから当たり前なのだが、城の中を他国の軍人が我が物顔に闊歩している情景に奇妙なものを感じて、顔を顰めてそう言うと、「これは礼服なのですがね。まあ、公式行事にも戦闘時にも通用するのですから、軍服とは大変合理的な衣服です。私は大変気に入っているんですよ」と、どこまで本気なのだか、肩をすくめておどけてみせた。

 そういえば、こいつが私服を着ているのを見たことがないな、とアッシュは思う。……いや、ピオニー皇帝から贈られたとかいう変な衣装を着ているのは何度か見たか。

「他の連中は?」

「アニスとフローリアンはその辺を散策していましたよ。間もなくこちらへ来るでしょう。ティアは、ルークに構っているようです。……あれは、随分手間取りそうでしたね」

 そう言って、ジェイドはくつくつと笑う。アッシュもその情景を脳裏に浮かべてみて苦笑し、ふと表情を硬いものに変えた。

「なあ……。あいつは、『ローレライ』だった時のことをまるで覚えていないんだな」

 そう言う。

 自分としても、ローレライと一体化していた時の記憶は曖昧だ。というより、それらの記憶をあくまで『アッシュ』としての視点からだけ解釈したような、そんな感覚しか残っていない。だが、どうやらルークはそれとも違い、一体化していた時の記憶は全くと言っていいほど思い出せないらしかった。それでも、記憶の中にアッシュのそれが混じり込んでいるのは確かなようだが、アッシュがあくまで『アッシュ』であるように、彼は全く『ルーク』でしかない。

「これは推測ですが……恐らく、『ローレライ』自身の希望なのではないでしょうか。彼は、いつか音素フォニムに還るまで人として生きる、と言っていました。人になるために、ローレライとしての記憶と意識を自ら封じた……そんな風に思います」

「そうだな……そうなんだろう」

 ローレライの半身でもある青年は頷いた。

「それにしても、よかったんですか?」

「何がだ」

 不意に話を変えられて、アッシュは少し面食らう。

「ルークを、正式にファブレ家の次男として国に届け、披露したでしょう。けれど、名前はそのままにした」

「ああ……」

 長い間、ルーク・レプリカの存在は宙ぶらりんのままだった。彼はファブレ家の嫡男で、ナタリア王女の婚約者で、第三王位継承者だったが、それらの全てに『その代用品レプリカ』という但し書きが付いていた。どうにもあやふやな、不確かな立場しか持っていなかったのだ。誰もが彼を持て余していた。だからこそ、いつ捨てられるかもしれないという不安に怯えていたとも言える。

 今回のルークの(十歳児の姿に戻っての)帰還を機に、それらの全てが解消された。だから今の彼は、ファブレ家の次男で、第四王位継承者ということになっている。ただ、名前はそのままだった。『ルーク・フォン・ファブレ』。そして、その兄という扱いになったアッシュもまた、『ルーク・フォン・ファブレ』のままで通された。

「構わんだろう。同じ名前の奴なんざ、世の中にゴマンといる。貴族連中には、身内どうして同じ名前を付けてる奴らも珍しくはないからな。無理に名前を変える必要はない。

 呼びにくければ、呼び名を付ければいいんだ。お前たちは俺を『アッシュ』と呼んであいつを『ルーク』を呼ぶ。他の連中も、何か適当に俺とあいつを区別した呼び名をつけるだろう」

 かつてのアッシュは、自分の本来の名を頑なに拒み、それでいてそれを奪った(と彼が思うところの)ルークを憎んでいたものだった。見るだに不自然な無理をして、肩肘を張って。人を受け入れること、己の思想をげることを何よりも嫌っていた。

「一人分の居場所に、無理をして二人で立つ必要はない。まして、奪い合ったり譲ったりするのは滑稽だろう。俺たちは別の人間だ。それぞれ、別の居場所を作ることが出来る」

 ふ、とジェイドは微笑んだ。

「……あなたも、随分と変わりましたね。ルークの影響でしょうか?」

「かもしれんな」

 素直に頷き、アッシュは口元に苦笑ともつかない笑みを浮かべた。己は変わる。内から外から様々な影響を受けて、今後も変わり続けていくのだろう。だが、それは不快なことではない。……そう思えるようになったことこそが、最も変わった点なのかもしれない。

 ジェイドが再び話題を変えた。

「それより、ナタリアの様子を見に行くところだったのでしょう? ご一緒しますよ」

「なんだ、付いて来る気か?」

「まあ、そう年寄りを邪険にしないでください。ケセドニア商人ギルドが総力をあげた花嫁衣裳ですからね。間近で見ないわけにはいかないじゃないですか」

「なんかムカつく言い方だな……」とアッシュが眉を顰めると、ジェイドは「冗談ですよ♥」と例の食えない顔で笑った。

「友人として、早めに祝いの言葉を贈りたいだけです。あなた方の婚礼は、マルクトにとっても大変な吉事になる……ピオニー陛下も私も、そう思っているんですよ」

「ハッ、言ってやがれ」

 アッシュはそう言い、けれど笑って、緑の庭に面した歩廊を歩き始めた。




 美しい緑に覆われたバチカル城の中庭を、アニスとフローリアンは歩いている。

「はわー♥ お城のお庭を散策できる日が来るなんて、思ってもみなかったよねー。アニスちゃん、感激! ね、フローリアン」

「そうだね。……それに、とっても綺麗だし」

「そうそう。さすがお城? お金かかってるなぁーって言うかぁ」

「庭もだけど。アニスも綺麗だ」

「はぅあぁっ!?」

 叫び、アニスは耳まで赤くなった。他の者にそう言われたのなら、「でしょでしょ、何、アニスちゃんに惚れちゃったぁ?」とでも返すところだが、あのフローリアンに言われたのだ。何故か、固まって次の言葉が出て来ない。そんなアニスに、フローリアンがにっこりと微笑みかけた。

「そのドレス、似合ってるよ」

「あ、ドレス……ドレスね。あはは……。うん、我ながら、これ結構イケてるって思ってるんだよねー」

 いつもであれば、大抵の行事は軍服で誤魔化すところだが、今日のアニスは簡素ながらも可愛らしいドレスを身につけていた。ナタリアが援助してくれると言うのでありがたく従った、ということなのだが、やはり、大切な友人の記念すべき門出の日だ。血生臭さを感じさせない装いで華を添えてやりたい。

 対して、フローリアンは頑なに、質素な教団の法衣のままだった。だが、この衣服が彼の清廉さを際立たせ、最も魅力を引き立てているかもしれない、とアニスは思う。

 第二エルドラント――今は単にホドと呼ばれている――から戻ったフローリアンは、特に罰されることもなく、教団の唱師として謳士ミンストレルの仕事を続けていた。ヴァン・レプリカに従ったレプリカたちが、結局は地上になんら被害をもたらさなかったこと、それ以前にレムの村がオリジナルの過激派に襲われて壊滅的な打撃を受けていたことなどがあいまって、レプリカを排斥するような動きが起きなかったのだ。

 ただ、レムの村を今後も自治区として維持させていくかには、様々な理由から疑問の声が上がり始めている。五年前の事件以降、一度は落ち着いたかと見えていたレプリカを巡る状況も、今また大きく変動しつつあった。

「……あのね、フローリアン」

 歩く足を止めてアニスは言った。振り向いた緑の目を見返して、言葉を繋げる。

「私は、やっぱりイオン様やシンクのことを忘れることは出来ないよ。イオン様は、私にとって大切な人だったから……。……忘れちゃいけない、とも思う。

 でもね。この五年間、私がずっと一緒にいたのは。フローリアン、あなたなんだよ」

 フローリアンは黙ってアニスを見つめている。アニスは微笑み、言った。

「私は今、あなたと生きているんだ」




「――じっとして、ルーク。もう少しで終わるから」

 もういいよ。めんどくさいし、首が苦しい。このくらいどうってことないって。そんなことをぶちぶち呟く子供を宥めすかして、ティアは彼の首を締めるネクタイと格闘していた。今まで自分が不器用だという自覚はなかったが、他人の、それも男物のネクタイを美しく結んでやるというのは、これで結構難しい。

「ああん、もう……。また歪んじゃったわ」

「もっ、もういーってば!」

 叫び、ルークは飛び離れた。長い赤い髪が後を追ってサラリと動く。

 ネクタイで首を絞められる作業からいつまで経っても解放されないというのはともかくとして、それに集中してとにかく間近く迫ってくるティアに、もっと正確に言えばティアの唇や胸に、少年は圧倒されていたのだった。今日のティアはいつもの軍服ではなく、清楚な色合いながら胸元などが大きく開いたドレスを着ている。その姿は新鮮で眩かったし、以前はしていなかった化粧もしているし、近付くと何やらいい匂いまでした。

「ルーク! まだ終わっていないわよ?」

「だから、もういいっつーの!」

「あっ、待ちなさい、ルーク!」

 追いすがるティアの声を振り切って、ルークは控えの間を飛び出して行った。庭の緑に飛び込んで、身を隠しながらも大急ぎで突っ切る。なにしろ、ティアは軍人だ。今の自分は子供だし、本気で追いかけられたらあっという間に捕獲されてしまうかもしれない。

(なんか、情けねー……)

 ドキドキ脈打っていた心臓が落ち着いてくると、何やら男として物悲しい気分になってくる。――と言うのか、そもそも、ティアに間近に迫られたからといって逃げ出してきた辺りで色々とダメなのだが……。ともあれ、ルークが茂みを掻き分けて飛び出すと、「ん、ルークじゃないか」と耳に馴染んだ声に呼び止められた。

「ガイ」

 幾分開けた、緑の芝に覆われたその場所の奥に中程度の大きさの木が一本立っていて、その根元に金髪の男が腰を下ろしている。近寄ると、彼は「何だ? 葉っぱや小枝だらけじゃないか」と少し顔をしかめた。

「ああ……。ティアに捕まんねーように、茂みの中を突っ切ってきたから」

「ティアに? お前、何やらかしたんだ。……いいから、こっちに来い。取ってやる」

「別に何もしてねぇよ!」とルークはむくれて、けれど素直に彼の傍に座った。髪や服に絡んだ木の葉や小枝を取ってもらいながら、「ただ、ネクタイを締めてもらってただけだよ」と呟く。

「ティアが、なんかやたらと世話を焼いてきてさぁ……。俺、そこまでガキじゃねぇっつーの」

「まぁ、五年ぶりにお前が帰って来たんだからな。構いたくて仕方がないのさ」

 そう笑って、ガイは「俺もだけどな」と口の中で呟く。

「何だって?」

「いや? なんでもない。――そういや、確かにお前ネクタイ締めてないな。俺でよければ結んでやるが?」

「お前、タイ結ぶの上手かったもんなー」

 ルークはそれを思い出したが、生憎、ネクタイはティアの手に残ったままだった。今あそこに戻るのは自殺行為な気がする。とりあえず諦めておくしかない。




「もう、ルークったら……」

 残されたネクタイを片手に庭に立って、ティアは困り、そして少しむくれていた。

 このドレス姿では、茂みに分け入って子供を追いかけるというわけにもいかない。

 大体、今日のルークは落ち着きがなさ過ぎた。視線もきょろきょろしていたし、祝いの雰囲気に当てられたのか顔は赤かったし、近付くとなにやら及び腰だった気さえする。

「この格好、そんなに変だったかしら……」

 呟いて、ティアは少し後悔した。慣れない服装はすべきではなかったのかもしれない。次にこういう機会があったら、やはり軍服にしておこう。

「あっ、ティアー」

 そんなことを考えていると、フローリアンを連れたアニスが片手を挙げて、向こうに見える歩廊を歩いてくるのが目に入った。少し前に散歩をしてくると言って控えの間を出て行ったのだが、戻ってきたらしい。そして、その後ろにジェイドとアッシュがおり、更に、白い華のようなナタリアの姿が見えた。

「まあ、ナタリア! 綺麗だわ」

 歓声を上げて、ティアはそちらに近づいた。

「おめでとう、ナタリア、アッシュ」

「ありがとう、ティア。あなたやみんなにこうして祝福してもらえて、わたくしたちは幸せ者ですわ」

 ナタリアは微笑む。その足元で、「ナタリアさん、本当に綺麗ですの!」と耳をフリフリしながらミュウが騒いだ。

「……ところで、ルークはどうしたんだ?」

 そう訊ねるアッシュは、美麗な礼服に身を包みながらも相変わらずの仏頂面だ。

「お前と一緒にいると、アニスたちが言っていたんだが」

「そ、それが……」

 思わず言いよどむと、片手に持ったままのネクタイを目敏く見つけたアニスに、「あー、逃げられたんでしょ」と笑われた。

「ダメだよ、ティア。今のうちから、もっとちゃーんと躾けておかないと」

「し、躾けるって……。確かに今のルークは外見は子供だけど、中身は一応、ちゃんとした、その、男性よ。躾けるなんて失礼じゃないかしら」

 しどろもどろにそう言うと、「中身もまだ子供のような気もしますけどねぇ」とジェイドが意味ありげに笑った。

「なーに言ってるかなぁ。中身がオトコだから、躾けないといけないんだよ。ね、ナタリア」

「え? あ、そ、そうかもしれませんわね。わたくしも、婦道については色々と学びましたから……」

 花嫁衣裳に身を包んだナタリアは、何故か頬を染めて慌て始める。

「アッシュさん、ナタリアさんに躾けられてるんですの?」

 その足元から見上げながら言ったミュウは、「うるせぇ、ブタザル!」と叫んだアッシュに蹴飛ばされた。

「みゅうぅうう〜〜」

 くるくると回りながらミュウが飛んでいく。慌ててフローリアンがそれを受け止めるのを見ながら、「うーん。アッシュのブタザル発言も、なんか定着したよねー」と、アニスが少し感慨深げな口調で言った。

「ま、いいや。それより、ねぇティア。私、ティアの歌が聴きたいな。歌ってよ」

「え? 構わないけど……どんな歌がいいかしら」

「おめでたい日に相応しい、みんなが幸せになる歌。それは、やっぱりぃー」

 言いながら、アニスは朗らかに笑う。




 あらかた絡んだゴミを取ってしまうと、ガイはだらしなく緩まされていたルークの襟元を止め始めた。「それ、苦しいんだよ」と不満顔の子供に、「だけど、今日はアッシュとナタリアの婚礼だろう。きちんとしなきゃダメだ。服装っていうのも、人と付き合うには大切な要素なんだからな」と噛んで含めるように言ってやる。

「うー……」

「ほれ、終わったぞ。そうむくれるなよ、ルークお坊っちゃん」

「坊ちゃん言うな!」

「仕方ないだろう。実際、今のお前は十歳なんだし」

 外身からだは間違いなく十歳。中身はと言うと――ルークの記憶は五年前にエルドラントから地核に降りたところで途切れていたから、七歳……八歳になったばかりとも言えたし、アッシュの記憶をも受け渡されていたので、彼が戻ってきてからの三年分を数えることにすれば、十歳程度とも言えた。

「どっちにしろ、子供だな」

「うぅ……。アッシュは二十三だから、ホントは俺だってそのはずなのにぃ」

 笑うガイに向かい、ルークはいかにも悔しげだった。かつて十七歳の外見で子供扱いされて七歳児呼ばわりされていたのもかなりの屈辱ではあったが、今度は外見まで子供に逆戻りだ。どう逆立ちしたところで会う人全てに子供扱いされる。というより、誰も彼もがルークに会うと、最初にニヤ〜、と笑うのは何故なのだろう。子供になった自分がよほど滑稽なんだろうか。頭を撫でられたり、やたらと抱きしめられるのにもうんざりだった。それらに(精神的にも、腕力的にも)逆らえない自分も情けない。なんだかもう、悔し過ぎる。

「大体、なんで十歳なんだよ! どうせ体を作ってくれるなら、アッシュと同じでよかっただろ」

「おいおい、ジェイドの旦那に説明を聞いただろう? レプリカ情報を抜くのは、元々危険を伴う。既に情報を抜かれたことのあるアッシュにもう一度それをやるのは、かなりよくないってな」

「そうだけど……」

 はぁ、とルークは息をついた。

「あーあ……。結局、全部一からやり直しかよ。剣の修行とか、大人になるのとか。たりぃーなぁ……」

 かつては、閉ざされた世界の中で、それが彼の目指す未来の全てだった。剣の腕を鍛えて師匠せんせいに認められること。そして、大人になって鳥かごの屋敷から出て行くこと。

 今は、けれど状況は同じではない。フォンスロットを閉ざされた状態では、剣技の研鑽は以前よりずっと厳しいだろう。そして、今の彼の世界は閉ざされてはいない。行こうと思えば自由に出て行ける。

 ルークのぼやきを聞いて、ガイが笑った。「なんだよ」と睨んでやると、「いや、お前、前にも言ってたよな」と懐かしそうな目をする。

「全部終わったら、『あー、たるかった』って言ってやるってな」

「そういえば、そんなこと言ってたな」

 ルークの瞳にも懐かしさが浮かんだ。二人は目を見交わし、笑い合う。

 その時、どこかから歌が聴こえてきた。聞き覚えのある、澄んだ伸びやかな響き。

「ティアだ」

 ルークが呟く。声はそう遠くないところから聞こえていた。

「ああ……そういえば、そろそろ式場へ行かなきゃならない時間だよな」

 ガイが言った。「そっか、じゃあ行こうぜ」とルークは立ち上がり、ふと、響いている旋律に意識を奪われた。

 それはそろそろ耳に馴染み始めている、ユリアの大譜歌だった。けれど、かつてエルドラントで聴いた切羽詰った厳しさや、タタル渓谷で聴いた物悲しげな響きは、そこには篭もっていない。明るく、力強い調子の、人を幸せに導くような音。

(この歌に導かれて、俺はここに帰って来たんだよな)

 それだけは、ルークははっきりと覚えていた。全てを手に入れ、しかし何も見えていない。そんな無明を漂っていた、何者でもなかった自分を、この歌が引き寄せた。

(そして、俺は俺を見つけた。――俺自身の未来を)

 それを知るためには様々な苦難があった。彼自身の経験が、そして今は自分の中にもあるアッシュの記憶が、それを教えてくれている。

「……なあガイ。俺、変わったかな」

 ルークは言った。アッシュの記憶を受け継いで帰ってきた自分は、五年前の自分と同じとは言えないだろう。見えなかったアッシュの苦しみを、彼の目で見た様々な事柄を知ったから。

「変わったかもな」

 ガイは答えた。「少し図太くなったかも」と笑う。どう感じていいのか戸惑って、「そ、そうかな……」とルークは口ごもった。

 五年前は、ただ必死で『変わりたい』と思っていた。だが……変わるということは、以前の自分を失うことでもある気もする。

「だけどな。人は、生きていく限り変わっていくんだ。誰かの記憶を受け継ぐのでなくても。……お前も、俺も」

「……うん」

 ルークは、五年前より大人びた親友の顔を見下ろした。今、彼の周囲には様々な変化が起こっている。

 第二エルドラントは静かに降下し、かつてホドが崩落した後の地殻の穴に収まった。偽りの大地ではあったが、ホドは復活したのだ。

 この新生ホドがガイラルディア・ガラン・ガルディオス伯爵の領地と認められるまでの動きは、非常に速やかだった。彼は第二エルドラント騒ぎを鎮めた英雄の一人であったし、元々、ホドはガルディオス家とその対となるフェンデ家の治める地であったからだ。創生の時代から、二千年の長きに渡って。

 復活したホドには、世界の各地に散っていたホドの住民やその縁者たちが集まってきていたが、その数はそう多くはない。その穴を埋めるというわけでもないが、ヴァン・レプリカに惹かれて第二エルドラントに集っていたレプリカたちの生き残りがそのままホドに住み着くのを、ガイは許していた。それを聞きつけたのか、壊滅状態になったレムの村や、その他の地域に隠れ住んでいたレプリカたちが、続々とホドに集まりつつある。

 これがどんな結果を生むのかを、ガイを始め、世界の誰もが未だ知らない。未来は全て手探りの闇の中にある。

「人も、世界も変わっていく。……だが、変わらないものもある」

「え?」

「どんなに変わっても、俺は俺だ。ガイ・セシルであり、ガイラルディア・ガラン・ガルディオスでもある。同じように、お前も変わらない。アッシュの記憶を持とうと、ローレライと混じり合おうと、俺は、お前がお前であることを知っている。俺が育てた、甘ったれで、ワガママなお坊っちゃんで、だけどどんな時も諦めなかった、変わりたいという意志を貫いた、ルークだ」

「なんだよ、それ」

 面映い、嬉しくて少し泣きたいような気分になって、ルークはそうぼやいてみせる。

「一からやり直すのはたるいってお前は言うけど。いいじゃないか。実質、お前はその体の大きさ分ほどしか生きていないんだし。あの七年――最後の一年は、お前は随分と生き急いだ。これからは年相応に、ゆっくりと大人になっていけよ。

 子供に戻ったからって、今のお前には手もある、足もある。こうして話が出来て、触れることができる……。

 ――生きているんだから」

 笑顔で見上げてくるガイの顔を、ルークは数瞬、黙って見返していた。

「ああ……そうだよな」

 そう、頷く。葉群れの間から差し込んできた陽光に碧の目をすがめて、片手をかざして振り仰いだ。

「俺は、生きてる。――生きてるんだ」

 明るい歌声が響いている。澄んだ青い空の向こうで、透き通った譜石帯がキラキラと日の光を弾いていた。








終わり




06/2/3〜06/3/5 すわさき


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