今となっては、夢の光景なのか現実だったのかすら定かではない記憶がある。だが、こんな状況は現実にはありえないものなのだから、やはり夢だったのだろう。

 大きな星の模様の壁紙が貼り巡らされた子供部屋のベッドには、膨らみがあった。けれど頭からすっぽりと掛布を被っているのか、あの目を引く赤毛は見えない。

 そして、ベッドの前には黒い人影が佇んでいる。

 黒い、と思えるのは、辺りが暗いからなのだろう。いつも闇を怖がる子供のために点している小さな譜業の灯りは、いつの間にか消えてしまったのか。――いや、こうして立っている自分自身の手元などが見えるのだから、実際には灯りはあるはずだ。黒い影に見えるのは、その人物が漆黒のマントを羽織っているからなのかもしれない。

 俺は手にトレイを持ったまま、凍りついたようにその影を見つめている。不審人物だ、公爵家の子息の寝室に侵入するとは、なんと不遜な。そう叫んで、抜刀でもしてやるのが使用人として正しい行動なのかもしれない。だが、俺はただ立っている。

(だって、俺自身が不遜な侵入者なのだ。真実は)

 そして、佇む俺の前で、その人物は静かに言葉を紡ぎだした。

『――この子供の命は、そうながくはない』






床辺とこのべたたずむ者


 ガイラルディアとして生きていた五歳以前の記憶は、あまり確かではない。代わりに、ガイ・セシルと名を偽った七歳からの記憶は鮮明だった。悔しい気がするなといつか漏らした時、あの頃はあまりに幼かったのだから仕方がありませんとペールには慰められた。代わりに、私がお話できることなら何でもお話しましょう、と。だから、俺のガイラルディアとしての記憶は、実際はペールや匿ってくれたホドの生き残りたちの思い出語りによって補填され、構成されていると言っていいのかもしれない。

 そう思えば、偽りの記憶を押し付けられていたルークと俺に、どれほどの差異があったのだろう。違いと言えば、俺はひたすら過去の記憶を掘り起こし、そこにしがみつくことにこだわっていたが、ルークはそれを捨てるポーズをとっていたということだ。








「ルーク! どこにいますの!?」

 頼まれていた書類を持って屋敷の回廊を歩いていると、憤慨しきった少女の声が聞こえてきた。またか。そんな風に思う間にも、駆ける足音がこちらに近付いてくる。

「ああ、ガイ。ルークを見ませんでしたか?」

 亜麻色に近い金の髪をした十四、五歳の美しい少女が、俺を認めてそう訊ねた。

「これは、ナタリア様。ルーク様なら、ナタリア様とご面談されておいでかと思っておりましたが……」

 またですか、と言外に滲ませて言うと、案の定、「逃げられましたのよ!」と少女は柳眉を逆立てた。

「今日こそは失った記憶を思い出しましょうね、と約束いたしましたのに……!」

 この屋敷の主人たるファブレ公爵の一人息子、ルークが何者かに誘拐されたのは、三年ほど前のことだ。数日後に、その剣の師であった神託の盾オラクル騎士団のヴァン・グランツによって国境近くで発見されたが、恐怖からか、連れ戻された彼の記憶は失われてしまっていた。

 いや、記憶喪失どころの騒ぎではない。対外的には殆ど伏せられているが、戻った彼の頭からは、自分の名前はおろか、家族の顔や名前、果ては歩き方、そもそも言葉そのもの、まっとうな人間としての基本的な知識のなにもかもが失われていたのだった。

 そんな『赤ん坊』を、どうにか日常を過ごすに困らない程度に教育するのに、二年。いくら世話係としてかねてから傍に仕えていたとはいえ、俺のような、自身がまだ子供と言っていい年齢の者にその仕事の大半を任せた辺り、この屋敷の人々は相当動揺していたのか。……それとも、あまりに様変わりしてしまった、かつての『よく出来た子息』に触れるのが恐ろし過ぎ、痛みを伴い過ぎたのだろうか。

 とにかく、どうにか人間らしくなったルークは、婚約者であるナタリア王女との面会を許されるようになった。とはいえ、彼から王女に会いに行くようなことはない。なにしろ、彼は国王の命によって、屋敷から出ることを一切禁じられていたからである。『再び不逞の輩に誘拐などされないように。』それがこの、無情とも言える処遇の理由とされていた。

「近頃、ルークは逃げてばかり。折角お医者様に、親しい人と思い出語りをすれば少しずつでも過去の記憶が戻るかもしれないと言っていただけましたのに」

 ナタリア王女は、そんな彼の境遇に心から怒り、悲しんだ、数少ない人間の中の一人だ。

「まあまあ。ナタリア様、ルーク様は照れておられるんですよ。ナタリア様のお心は、ルーク様もきっと分かっておられます」

「そうでしょうか……」

「ええ。それよりナタリア様。そろそろ城にお戻りになる時間なのでは?」

「そうでしたわね。全く、ルークとゆっくり過ごす時間も取れないなんて、苛立たしいことですわ。ですが、この国の王女として民に恥じないよう己を磨くためですものね」

 それが、彼との『約束』でもありますもの。そう小さく呟いて、「では、また来週伺いますとルークに伝えておきなさい」と言い残すと、少女は背を向けて回廊を歩き去って行った。

 俺はしばらくそれを見送っている。完全に姿が見えなくなると、「……で。ナタリア姫はお帰りになったようですが?」と声を出してやった。不満げな唸り声が回廊の窓の外から聞こえて、赤毛の頭がひょいと覗き込んでくる。

「なんで俺がここにいるって分かったんだよ」

「分かるよ。お前、全然気配を隠せてないからな」

「ちぇーっ」

 面白くなさそうに口を尖らせる子供に笑みを向けてやった俺は、その子供が窓をよじ登って入ってこようとしているのに気付いてぎょっとさせられた。

「おいこら、よせ、危ないだろ! ドアから入って来い」

「いーじゃん。ガイだってこないだ俺の部屋の窓から入ってきてただろ」

 しまった、悪い手本を見せてしまったか。そう後悔しながら、転がり落ちてこようとした体を慌てて支えてやる。

「でっ」

 弾みで靴に蹴られた。……シャツに足型がついたな、これは。

「ご苦労」

 ルークは鷹揚にそう言って、支える俺の手を階段ステップ代わりに踏んで、厚い絨毯の敷かれた床に降り立った。

「ナタリアの奴、やーっと帰ったか」

 そう言って背を伸ばし、ふーっと息をついている。

「そんな言い方は良くないぞ。お前の為に少ない時間を割いて会いに来てくれてるんじゃないか」

「だってあいつ、いちいち約束がどうの早く思い出せだの、うぜーんだもん」

「それだけ、お前との思い出が大切なんだよ」

(――俺とは違って、な)

 内心で呟きながら言うと、ルークはむっと眉根を寄せた。

「……なんだよ。お前も早く記憶を思い出せーって言いたいのか?」

「――そりゃ、まぁな」

「………」

「ルーク?」

 黙りこんでしまったルークに、俺は少し困って声を掛ける。この子供が何を不満に思い、何に喜ぶのか。それは大抵はひどく分かりやすかったが、時折、まるで想像もつかないことがある。あるいは、予測はついても理解の出来ないことが。

「もしかしてお前、昔のことを思い出したくないのか? 心配しなくても、お前は『とてもよく出来たお坊っちゃん』だったから、何も都合の悪いことなんてないぞ」

 少し冗談めかして言ってやると、「そんなんじゃねーよ!」とますます表情を頑なにした。おかしなものだ。少し前までは、(自分からその話をねだりはしなかったものの、)昔のことを教えてやると、「俺ってそんなことしてたのか?」と実に神妙に耳を傾けていたものだったが。

「飽きたんだよ。……昔の話なんてしても詰まんねーだろ」

 そう言って面白くなさそうに視線を流す。俺は肩をすくめて苦笑した。

「記憶がないなんて、普通は不安なことだと思うがな。――お前、それで辛くないのか?」

 するとルークは言ったのだ。力を込めた碧い瞳で俺を見上げて。

「昔のことばっか見てても前に進めないだろ」

 だから、俺は過去なんていらない、と。






 夜の闇に落ちた回廊を、俺は歩いている。両手で持っていたトレイを片手に持ち直してドアを開け、美しくタイルの敷き詰められた中庭に出る。トレイの上のカップから、ホットチョコレートの立てる柔らかな湯気がゆらりと揺れ動いた。

 誘拐から戻って以来、赤ん坊に戻ってしまった『公爵子息』は、夜の闇を怖がった。かなり口が回るようになり、すっかり生意気になってきた今でも、それはまだ変わらない。

 中庭を横切り、東屋風に独立した形式になっている子供部屋の前に立つ。ドアに鍵はかかっていない。無用心にも思えるが、屋敷のあるバチカル上層部はキムラスカ国軍、屋敷はファブレ家私設軍の白光騎士団が厳重に警備しているのだから、外部からの進入はさほど懸念されていない。その上で、夜中に泣き出してしまうことのままある『子息』の為に、鍵は常に開けておかれるのが慣例となっていた。その世話係が速やかに駆けつけ、むずがる子供を宥められるように。

 子供部屋のドアを押し開ける前に、腰に差した剣に片手で触れて確かめる。

 通常なら、子供の世話係風情が屋敷内で帯剣することなどあり得ない。だが、俺にはそれが許されていた。奥方や記憶を失う前のルークの旅に随行した時、たまたま魔物などに対して剣を振るう機会を得たのがきっかけだ。限られた時間の中で密かにペールらと研鑽を重ねてきたシグムント流の剣の鋭さは、そこらの貴族のお坊ちゃまの嗜みの剣術とはわけが違う。

 俺はルークの子守係であり、教育係でもあり、護衛剣士でもあった。今、例えば誰かにこの姿を見咎められたとしても、不審に思われることは微塵もあるまい。この場にいるのは闇に怯える子供を宥めるため。腰の剣は護衛剣士としてのさが。この錯覚を強めるための小道具として、わざわざ不必要なホットチョコレートなんてものまで持って来たのだ。

 全ては、この日の為に準備してきたことだった。この屋敷に入って十年、少しずつ積み重ねてきた信頼という毒で人々の感覚を麻痺させ。異常な状況をそうと認知できないように。

 愚かな公爵家の面々。使用人たちも奥方も公爵ですら、俺をすっかり信用している。まさか、七歳の時から召抱えて息子と共に育ててきた子供が、ずっと内心で復讐の牙を研いでいたなどとは思いもしなかったのだろう。あれだけ多くのマルクトの民を殺して、恨みなど買いきれないほど買っているくせに、迂闊なことだ。

『そう……十年。もうあれから十年以上経ってしまったんですなぁ』

 自室を出る際のペールの言葉が脳裏に浮かんだ。眠れず、とうとうベッドから起き上がって、壁に掛けていた剣を手に取った俺に、同室の奴が静かに掛けてきた言葉。

「……行かれるのですか」

 俺の剣の師であり、護衛でもあった男だ。気配には聡く、気付くだろうとは思っていたから、真夜中過ぎのベッドから不意に声を掛けられたことには驚かなかった。

「ああ。……首尾よく終わったら、ここを出るぞ」

 ルークの息の根を止めるのは簡単だろう。それこそ、ペールが育ててきた花壇の花を手折るほどに容易く。子供は悲鳴一つあげず、自分の身に何が起こったのかを認識する間もなく、その髪と同じ色の血潮に浸かる。そして、普段彼が起き出す朝食の時間までが俺たちの逃走の猶予になるだろう。脱出経路の目星は予めつけてあった。第一層から繋がる廃工場跡を進めば、逃げ延びることは難しくはないはずだ。

「ガイラルディア様」

「何だ」

「本当にルーク様を……いえ、あの子供を手に掛けるおつもりなのですか?」

 俺は身支度を整えていた手を止めた。

「……何を当たり前のことを言っている? 俺たちは……そのために十年、こんな屋敷に潜り込んでいたんだろうが」

「そう……十年。もうあれから十年以上経ってしまったんですなぁ」

 ホド戦争。栄光戦争とも呼ばれるあの戦乱が起こり、俺たちの故郷、ホド島にファブレ公爵率いるキムラスカ軍が雪崩れ込んで来て。俺の家族を、親戚を、使用人たちまでもを惨殺し、島そのものさえも消滅させてから、最早それだけの年月が過ぎ去っていた。その間に俺はひ弱なガキからいっぱしの男になり、ペールは、眼光の鋭さこそ変わらないものの、年をとった。

 二人きりの時ですら、ファブレへの復讐心にあまりギラつかないように見えるこの男の態度に、俺は苛立たされることがある。その度に「私も年をとりましたから」とペールは笑った。そして、僅かに悲しげな色を滲ませて言うのだ。「だが、あなたはまだ、あまりにもお若い。ガイラルディア様」と。

 確かに俺は若く、そして未熟だ。だからこそ十年もかけてしまった。情けない主人に仕えて、ペールは忸怩じくじたる思いでいたに違いない。

 子供部屋のドアを押す手に力を込める。

 いよいよだ、ガイラルディア。お前はこの日を待ち望んでいた。

(これで……長くむしばまれてきたこの苦しみから、俺は解放される……)

 ドアを押し開いてそっと滑り込んだ子供部屋には、驚いたことに先客がいた。

 子供一人のためにはいささか大きなベッド。そこには確かに膨らみがある。だが掛布を頭からすっぽり被っているのだろう、目立つ赤毛は見えない。そのベッドの前に、黒い人影が佇んでいる。

 人影の背に流れた髪がどうやら赤いらしいことに気がついて、俺は身をこわばらせた。公爵かと思ったのだ。だが、奴は息子には無関心で、顔を合わせるのは食事の時くらいのものだった。今まで子供部屋を訪ねてきたこともないし、まして、こんな夜中にそうするものか。

 そう思ってみれば、その人物は公爵よりも小柄で、ずっと若く見えた。同じように赤い髪の奥方でもない。彼女なら裾の長いドレスをまとっているだろうし、あんな風に、腰の後ろに剣を帯びたりするはずがない。

 ――剣。……まさか、本当に不審者なのか?

 背筋が冷たくなり、片手が己の腰の剣をまさぐった。

 ルークを、殺させるわけにはいかない。

(は。自分こそ、ルークを殺すためにここに来たくせに)

 俺の中で俺が嗤っている。

 人影はこちらに目を向けた。その動きにつれて、黒いマントがフワリと揺らぐ。その唇が不吉な預言スコアを紡ぎだすのを、俺は実際には馬鹿みたいに突っ立って聞いていた。――『この子供の命は、そう永くはない』。

『だが生きる間、この子供は多くの命を喰らい、存在を奪うことになるだろう。――だから……』






 ハッと息を呑んで、俺は目を覚ました。

 ああ、やはり夢だったのだ。そう思うと安堵できた。あれは夢だ。子供の頃の、だが限りなく現実に近く濛々もうもうとした幻。

 寝汗をかいていたらしく、額から冷めた液体がつ、と流れ落ちる感触がする。それをぬぐってふと視線を流した時、隣のベッドが空になっているのが目に入って、俺はぎょっとさせられた。

「ルーク?」

 身を起こして呼びかける。寝乱れたベッドに触れると、まだぬくみがあった。だとすると、ここを抜け出してからそう時間は経っていない。だが、部屋に付属したトイレには灯りは点いていなかった。

 捜しに行こうか。

 思わず立ち上がりかけた時、カチリと音を立ててドアが開いて、赤毛の若者が入ってきた。

「――ガイ? 起きてたのか」

 少し驚いたような顔をして、そんなことを言ってくる。ばつが悪い思いがして、俺は「ああ、まぁな」と短く返して座り直した。ルークは歩いて来て自分のベッドに腰掛け、俺と向かい合う格好になる。手の中には湯気の立つマグカップがあった。

「眠れなくてさ。それで、宿の人に頼んだんだ、ホットチョコレート」

 疑問を含んだ俺の視線に気付いたのだろう、そう説明して、一口含んでから「なんか、懐かしいよな」と笑う。

「俺、ガキの頃、寝る時真っ暗なのが怖くてさぁ。なかなか寝付けなくて。かと思えば怖い夢見て夜中に目を覚まして泣いたりして。そしたら、お前がよく持ってきてくれたんだよな、ホットチョコレート」

「……そうだったな」

 そんな時代が確かにあった。せわしなく、億劫で苛立たしくもあり。けれど確かに何かが空隙に満たされつつあった、あの頃。

「なんであんなに暗いのが怖かったんだか。メソメソしちまって、灯り点けてろとか寝るまで傍にいろとか、ホント、お前や屋敷の皆には迷惑かけてたよなぁ」

「はは。それで、今は暗くても平気になったのか?」

 笑って言うと、「あったりめーだろ!」とむくれた視線が返って来る。

「まあ、でも。……お前のおかげだけどな」

 だが、その表情はまたすぐに緩んでいった。手の中のカップに視線を落としながら、照れ臭そうに笑っている。

「夜中に目を覚ますとさ、いつもお前が傍にいたんだ。……それに気付いたら、暗いのも怖くなくなった」

「……それは」

 俺は言葉を詰まらせた。だが。

「いいんだよ」

 ルークは脈絡なく言って、微笑みで先を封じてしまう。

「それよりさ、ガキの頃って言えば、お前、覚えてるか? 屋敷に怪我をした小鳥が落ちてきたことがあっただろ」

「あ、ああ……。鷹か何かに襲われてたんだったな。翼が取れかかっていて……」

 くるくる変わるルークの話に追いつこうと、俺は思考を巡らせる。こんな風にルークが饒舌なのは久しぶりだった。明日を思えば、さっさと寝てしまうに限るはずなのだが。

 血まみれの小鳥を見て、ルークは最初は怯えた。「血だらけだ。死んでるのか? その鳥」とメイドのスカートにしがみつきながら。

「まだ死んではいないよ。でも……」

 手遅れなのは、誰の目から見ても明らかだった。小鳥は断末魔の苦しみの中にある。この苦しみを長引かせるくらいなら、いっそ……。

「嫌だ!」

 俺は実際にそう言ったわけではない。だが子供は何かに感づいて、瀕死の小鳥を持った俺に飛びついてきた。「ルーク様、もうこちらへお戻り下さい」、「そんなものを見てはなりませんよ」、「触ると汚れます」、「ガイ、その小鳥を早く始末して」。そんな風に周囲の使用人たちが騒ぐ中、ルークは「この鳥、手当てしろよ、ガイ!」と零れ落ちそうな涙をたたえた目で俺に命じたのだ。

 主人の命とあれば仕方がない。俺はもげかけた小鳥の翼を包帯で押さえて薬草を挟み、柔らかな寝床に寝かせて、側に水とエサを置いた。――だが、出来るのはそこまでだ。

 翌朝、小鳥は冷えて硬くなっていた。それは速やかに片付けられ、ルークの目に触れることはなかった。

「あの鳥は元気になって飛んで行ったよ」

「ふーん……」

 予想に反して、ルークはそれ以上何を問うでもなく。泣くでも、怒るでも、笑うでもなく。

 所詮子供は子供だな。俺は安堵に胸をなでおろして。……実のところは、それに気付かないふりをしていた。

 ルークは小鳥の運命を知っている。生まれて初めて彼は『死』に触れ、しかしそれを正面から受け止める機会を奪われて、ただ塊のまま呑み込んだのだ、と。

「俺ってホントに、口先ばっかだった。手当てするのも全部お前にやらせてさ」

「ルーク……?」

「俺はただ、何かが死ぬのを見るのが怖かった。それだけだったんだな。……小鳥は自分でどこかに飛んでいった、そう誰かが言うんなら、それでいいかって」

 そういえば、ルークは決してペットを欲しがることはなかったな、と俺はぼんやり考えた。閉じ込められた子供の慰めには小動物は最適だろう。後に医師の勧めでそれが実行に移されようとしたことがあったが、彼は「ペットなんていらねーよ」の一点張りで。だから外に吹き飛ばされたルークを探し当てた時、彼が青いチーグルを連れ回していたのには内心驚かされたものだ。

「アクゼリュスの時もそうだった。苦しんでる人に触るのが、怖くてさ。……超振動なら一気に助けられるとか、師匠せんせいにそう言われたからとか、自分に言い訳してた」

「おい、今日はまたやけに話がとりとめもないな。どうした? ルーク」

「うん。……今までのことを考えてたら、なんか。俺が生きてたのは七年だけど、それでも結構色んな事があったよなぁ、って。

 屋敷にいた頃は、ほんの数ヵ月後にこんなことになってるなんて想像もしてなかった」

「……だな。だが、いいじゃないか。少なくとも退屈はしなくなっただろ。お前、あの頃は毎日、つまんねー、退屈だーってブーたれてたからな」

「はは、そうだったよな。……屋敷の外はヤバくて面倒なことばっかで、最初は随分ムカついたけど。でも、皆に会えた。俺自身のことを含めて、色んなことを知った……。だから俺、この旅をしてよかったと思ってる。

 ……でもさ、思ったんだ。ガイ、俺たちは預言スコアを妄信する世界を否定してるけど……最初から、本当に結果が分かっていたなら……例えば、俺が『ルーク』に関する預言を全部知ってたなら、……もっと違う道も選べたのかなって」

「違う道……?」

「アリエッタのこと、覚えてるか?」

 ルークの話はまた飛んだように思える。不得要領ながら「ああ」と俺は頷いた。神託の盾オラクル騎士団六神将の一人。ホド崩落のあおりで滅んだフェレス島に生き残り、魔物に育てられた少女だ。

「俺は、あの子を殺すのを止めただろ。女で、まだ子供だったし、気を失って無抵抗な奴を殺すのは嫌だった。……だけど本当は、ジェイドの言うとおり、フーブラス川で殺しておくべきだったのかもしれない」

 内心ひどく驚いた俺の目の前で、ルークは「だって、結局あんな結果しか生まなかったんだからさ」と目を伏せていた。

 気を失っていたアリエッタは、自分の命を救うことをルークやイオンが懇願したことなど知りもしなかっただろう。彼女はすぐにカイツール軍港で多くの兵士を殺し、様々な暗躍を経て、最後にはアニスに決闘を挑んだのだ。彼女は何も知らなかった。ヴァンの真意も、心を寄せたイオンの死も、レプリカが彼と入れ替わっていたことも。一切を知らないまま、周囲に言われた通りに人々を殺し、物を破壊し、生じた全ての憎しみはアニスにぶつけて。呻き嘆き、イオンの名を呼びながら死んでいった。

 確かに、この結果が最初から分かっていたのなら、何か別に出来る事があったのかもしれない。フーブラス川で殺していれば、少なくともカイツールの兵士たちは命を落とさずに済み、アニスにあれほどの心の傷を負わせることもなかっただろう。

「……あの時の小鳥はさ、死ぬまでの間、苦しかったのかな」

 ルークは呟いた。

「俺は自分が怖いってだけで、小鳥に手当てをさせた。でも本当は、お前が言おうとしてたみたいに、あの場で殺してやるべきだったのかもしれない。どうせ助からなかったのなら」

「………………、だが、小鳥は助かったのかもしれない」

 暫く言葉を詰まらせた後、やっと俺が声を絞り出すと、ルークは「そうだな」とあっさり頷いた。

「結果がどうなるのかは、誰にも分からない。……だから人は、預言スコアを求めたくなるんだろうな。

 ……ガイ。俺は、皆と旅をして本当によかったと思ってるよ。だけど……」

「おいおい、ホントにどうしたんだよ、ルーク。まだ懺悔を始めるには早いと思うぜ」

 ルークの言葉を遮って、俺は言った。年長者ぶって、軽くたしなめるような口調で。

「俺たちには明日の大仕事がある。それを片付けた後も、やらなきゃならないことは山積みなんだからな。――『昔のことばっか見てても前に進めない』、だろ?」

 実際には、これ以上この話を聞きたくなかっただけだった。ルークが何を言おうとしているのか。それがぼんやり見えてきたような気がして。

「前に進めない、か……。そうだな」

 呟くルークの瞳が翳ったのに、気がつかないふりをする。

「ああ。ちゃんと考えておけよ。あてにしてるぜ」

「はは。だったら、まずは明日に備えて寝ないとな」

 小さく笑うと、ルークは持っていたマグカップを俺に手渡した。それはまだ湯気を立てており、暖かい。

「やる。飲んだら良く眠れるぜ」

 目を瞬かせる俺を見やって、子供のように笑った。

「だけどこれ、お前がもらってきたんだろう」

「いいよ。ガイと話したら、なんか眠れる気分になった」

 言いながら、もうベッドに潜り込んでいる。布団の中からチラリと俺を見上げる様子が、寝付くまで側にいろとうるさかった子供の頃を思い出させて、俺に笑みを浮かべさせた。カップから一口、温かいチョコレートを含む。頬をくすぐる柔らかな湯気は、確かに恐怖をやわらげ、気持ちを落ち着かせる効果のあるものだ。

 この飲み物を、ルークの元へ何度も運んだ。かつて、眠れずにぐずる俺に、誰かがそうしてくれていたように。柔らかでいい匂いのあの存在は、メイドだったのだろうか、それとも姉上か、母上だったのか。

「なあ、ガイ。……こんなこと言うとお前は怒るのかもしれないけど」

 ベッドの中から、ルークの小さな声が聞こえてくる。

「それでも俺は。それでお前が楽になるんだったら、……それが、すごく嬉しいんだ」






 そのドアを、夜中に何度も開けた。

 眠っている子供の顔を見ながら、考えているのは『方法』のことばかりだ。

 ――じわじわとくびってやろうか。それとも心臓を一突きにするか。

 唇からすうすうと漏れる安らかな寝息を聞きながら、時折震える紅玉の色のまつげを眺めながら、俺はずっと考えている。

 子供が『闇』を怖がらなくなるまで、それは続いていた。






 ベッドの中で何度も寝返りをうつ。だが、眠気は一向に襲ってこなかった。

 今日も忙しく働いた。いつもなら、すぐに眠りに誘い込まれていただろう。だが意識は冴え渡り、頭の中には子供の無慈悲な言葉が渦巻いている。

『昔のことばっか見てても前に進めないだろ。――だから、俺は過去なんていらない』

 ああ、そうだな。正論だ。全くご立派だよ、お坊っちゃん。

 お前は、そうしたところで困りはしないのだろう。家も、名前も、家族も。確かなものを全て持っているのだから。

 だが俺は――過去が不要で、捨て去るべきものなのだとしたら、俺は一体どうすればいい?

 その言葉を聞いたとき、膨れ上がった憎悪のせいで吐き気すら感じた。「そりゃ結構、真理かもな」などと表面では愛想よく相槌を打ちながら、内心ではこの場で殴り殺してやりたいとすら思っていたのだ。

 ベッドの中で散々転がり、とうとう俺は起き上がって、壁に掛けていた剣を手に取った。

「……行かれるのですか」

 隣のベッドで眠っていたように見えていたペールの、静かな声が聞こえた。

「ああ。……首尾よく終わったら、ここを出るぞ」

「ガイラルディア様」

「何だ」

「本当にルーク様を……いえ、あの子供を手に掛けるおつもりなのですか?」

「……何を当たり前のことを言っている? 俺たちは……そのために十年、こんな屋敷に潜り込んでいたんだろうが」

 十年。七歳でこの屋敷に入り込んだ俺は、もう十七歳になった。その間、望み願っていたことは、一つだけ。

 ――殺してやる。息子を、妻を、平和な屋敷を血の海に沈めて、奴に――ファブレ公爵に見せ付けてやるのだ。

 あの日の俺の記憶に焼きついた、ホドの領主館のごとき地獄の光景を。

 ファブレ公爵邸で子息付きの使用人として育ったガイ・セシルはうわべだけの張りぼてで、中は空っぽだった。そこに潜んでいるのはガイラルディアで、彼の中には思い出が詰まっている。

 旦那様は大変立派な剣士でした。ガルディオス家に伝わる宝刀を掲げた姿は凛々しく、領民たちにも慕われ……。

 奥方様はお優しい方でしたよ。しかし芯は強かった。キムラスカのセシル家から嫁いでこられたのですが、ホドの地をこよなく愛し……。

 マリィベル様は、旦那様の凛々しさと奥方様の美しさを双方継いでおられた。ガイラルディア様、あなたを心から愛し、可愛がっておいでだった……。

 他人の言葉で補填されたつぎはぎの思い出を繋ぐのは、憎しみだ。

『昔のことばっか見てても前に進めないだろ。――だから、俺は過去なんていらない』

 哀れで幸せなお坊っちゃん。ああ、お前には未来があるんだろうな。だが、俺には過去しかない。俺の持ち物は思い出の中にしか存在しない。ルークが簡単に切り捨てた『過去』は、俺そのものだったのだ。

 真っ赤な憎しみに駆られて、俺は剣を腰に差し、子供部屋のドアを開ける。






「お帰りなさいませ、ガイラルディア様」

 自室に入ってドアを閉ざすと、ペールが出迎えた。

「お疲れでしょう。無事終えられて、何よりでございました」

 俺は笑みだけで応えて部屋の中ほどまで歩き、腰に帯びていた剣を外してゴトリとテーブルの上に置いた。背筋を伸ばして、肩の凝りをほぐすようにする。

「ルーク様はお休みですか」

「ああ。久々の絹の寝床で、今頃高いびきだろうな。俺の方も、白光騎士団の方々へのごますりがやっと終わった」

 突然起こった擬似超振動により、ルークは鳥かごの屋敷から前触れも無く消失した。その捜索の任を帯びてマルクト領に潜入した俺は首尾よく彼を見つけ、数ヶ月の旅を経た今日、共に屋敷に帰還したのだ。

 ルーク付きの護衛剣士とはいえ、二十一歳の若造に過ぎない俺がこの重要な任を得たことを、騎士団の面々は愉快に思ってはいない。だが、ルークの飛ばされた先が敵国たるマルクトであったからには、仰々しい騎士団を送り込むわけにはいかなかった。全ては内密に行われなければならず、自分にも責任があると捜索を買って出たヴァンの推薦もあって、俺はこの役を手に入れたのだ。

「なんとしても、ルークを……息子を、生きて連れ戻してくれ」

 出発前の俺たちへ掛けられた公爵のその言葉は、俺には少々の感慨を与えた。

「ふん……。あの男でも、人並みに息子への情ってものがあったんだな」

「情……ですか」

 ヴァンはといえば、皮肉な失笑を漏らすばかりだ。

 ヴァンは元々、ホドでペールと共に俺の家に仕えていた騎士の息子であり、俺の兄のような男だった。そんな彼が生きのび、名を変えて神託の盾オラクルの騎士となっていたことを知ったのは、屋敷に入り込んで三、四年を経てのことだ。奴は公爵子息の剣の師として現われた。稽古中に子息を斬り殺すつもりなのか、と当初俺は思ったものだが、奴はそうしなかった。「殺すには相応しい時節があります」と嗤って。

 後になって分かったことだが、同じ『復讐』という言葉を口にしながらも、俺たちとヴァンの目指すそれは最初から全く食い違っていたのだ。だが俺はそれに気付かず、『同志』という結びつきに安堵していた。

「ともかく、今はあの男の望むとおり、あれを生きた状態で連れ戻さねばなりますまい」

「生きた状態で、か……。ったく。あいつ、どこに飛ばされちまったんだか」

 今の世の中、治安は決して良いとは言えない。街の外に出れば魔物だらけだし、盗賊も出る。そんな中に屋敷から一歩も出たことのない浮世離れしたルークは放り出され、無一文で、持っているものといえば木刀だけだった。おまけに譜術の探査によれば、飛ばされた先はマルクト帝国の領土内だ。既に魔物に殺されているかもしれない。でなくとも、そのうち飢えて死ぬかもしれない。街に辿り着けたとしても、何も考えずに身分を漏らして、良くて投獄、悪ければ……その場で嬲り殺される可能性もあった。

 マルクト帝国に、キムラスカ王国を憎み、ファブレ公爵を仇と恨む人間はゴマンといる。だが、ルークはそれらの一切を知りはしない。……自分が誰かの恨みを買っているなど、想像すらしていないのだろう。

「……心配ですか?」

 ふと掛けられたヴァンの声には、微かな揶揄と、窺うような響きが含まれている。

「当たり前だ。俺はあいつをこの手で殺すために、十四年間仕えてきたんだからな。……今更、他の奴に奪われてたまるか」

「フ、そうでしたな。ですがご心配には及びますまい。あれは、今はまだ死んではいない。いえ、死ぬはずがないのです」

「……どういうことだ?」

「――預言スコアに、そう詠われておりますから」

 彼の命は失われない。通常なら祝福の預言とされるものだろうに、何故かひどく不吉に聞こえた。それは、俺がルークの死を望んでいたからなのか。それとも……。

 

「俺……知らなかった。街の外がこんなにヤバいとこだったなんて」

 ヴァンと二手に分かれた後に見つけ出したルークは、なるほど、五体満足だったが、何一つ損なわれていなかったというわけではない。

 生まれて初めて自分の手で人の命を断ち。それに怖気た結果、殺されかけ、庇った第三者に傷を負わせた。それらの罪の重さに震えながら、あいつは俺に「今までどのくらい人を斬った?」と愚にもつかない問いを投げ掛ける。

「怖くないのか……?」

「怖いさ。怖いから戦うんだ。死にたくねぇからな。俺にはまだやることがある」

「やること……?」

「……復讐」

 ポカンと口を開けて馬鹿みたいな顔になったルークに、「なんて、な」と苦笑を返した。

 そうだな。初めて人を斬り殺した時、俺は何を考えていただろうか。

 まずは、『殺されずに済んだ』という安堵。それから、肉を断ち切る感触や飛び散った体液への生理的な嫌悪。周囲の連中は、「よくやった、よく奥様を守ってくれた。まだ子供ながら、お前は大した剣士だ」と褒め称えている。ぼんやりした頭の片隅で、これでまたファブレの連中に取り入った。復讐に一歩近付いた……と思っていた、ような気がする。

 ペールは、どう言っていただろう。

 屋敷に戻り、自室に入ってドアを閉ざすと。

「ご無事で、何よりでした……」

 そう言って、頭を下げていた。

 奴は「よくやった」とは言わなかった。といって、「何てことを」とも言わなかった。ただ俺の無事を喜び、労をねぎらう。そう、丁度ルークを捜す旅から戻った、今のように。

「ペール……」

 視線を伏せて、俺は奴に呼びかけた。

 復讐を成そうと思うのなら、今回の一件はまさに絶好の機会だった。街の外での殺人は、私怨を立証されない限り罪にはならない。ましてマルクト領内であるならば、そこでの出来事をキムラスカの誰が正しく知ることが出来ただろう?

 あの状況の中で、ルークを殺すのは簡単だった。自らの手を汚す必要すらなかったかもしれない。余計な連中がくっついてはいたが、それだけの機会は幾らでもあった。俺は戻って、「残念ながらルーク様の行方は杳として知れず……」だとか「恐れながら、魔物の牙にかかってしまわれたようです」などと報告してやれば、それでよかったのだろう。公爵の苦しむ顔を見て、俺たちの復讐は果たされる。

 だが、俺はルークを連れ戻した。

「……すまない」

 短く落とした謝罪の言葉を、ペールはいつものように肯定も否定もしないのだと思っていた。夜中に剣を握って出て行った俺が、結局はうな垂れて戻ってきても何も言わなかったように。だがこの時、奴は首を横に振った。「いいえ」と。

「いいえ、ガイラルディア様。――それで良かったのでございますよ」






 殺したいと願って、俺は剣を片手にベッドの傍に佇んでいる。だが何も出来ずに、うな垂れて部屋に帰る。

 闇に佇む俺の意味を、ルークはあの旅の中で悟っていたことだろう。なのにあいつは笑った。「いいんだよ」と。

「夜中に目を覚ますとさ、いつもお前が傍にいたんだ。……それに気付いたら、暗いのも怖くなくなった」






 子供部屋のベッドには膨らみがある。その前には黒い人影が佇んでいる。

『この子供の命は、そう永くはない。

 だが生きる間、この子供は多くの命を喰らい、存在を奪うことになるだろう。――だから……』

 これは夢だ。過去の記憶に別の何かの混じりこんだ、ただの幻。

 それは分かっていたが、俺は懸命に耳を塞ごうとした。この先を聞きたくない。だが、片手に剣を、もう片手にホットチョコレートを載せたトレイを持っているせいなのか、それが出来なかった。

「言うな!」

 遮る俺の声は抵抗にならず、人影は容赦なくその言葉を紡ぎだす。

『だからいっそ、この場で命を断ち切ってやるがいい』

(そう。そのためにお前はここに入り込んだんだろう? ガイラルディア)

 

「……あの時の小鳥はさ、死ぬまでの間、苦しかったのかな」

 塞ぐことのかなわぬ耳に、いつかのルークの声が木霊している。






 息を呑んで、俺は目を覚ました。

 暗い。まだ夜明けには遠いのだろう。夢から覚めたことに安堵の息を漏らして身じろいだ俺は、隣のベッドが空なのに気が付いて、ぎょっと身をこわばらせた。

「ルーク?」

 手を伸ばして触れたベッドは冷え切っている。掛布は綺麗に整えられたまま、しわ一つ寄せられていなかった。

 ……当たり前だ。このベッドは最初から空いている。誰もここで休んでなどいなかったのだから。

 ようやく、それを俺は思い出した。ベッドの冷えた感触で。

 数日前と同じケセドニアの宿。あの時と同じ二人部屋。あの時はルークがいたが、今はいない。

 無駄になる二人部屋をそれでも取ったのは、単に部屋数の都合だったのか。……いや、俺たち全員が、どこかで期待をやめられなかったからなのだろう。ルークが戻って、追いついてきて、『あーもう、クタクタ。早く休みてぇー。何だよ、もしかして俺のベッド取ってないのか?』などと笑って言うことを。

 理屈では分かっている。だが、心では割り切れていない。

 ――この世界に、あいつがもう、いないだなんて。

 だが、それは予め分かっていたことでもあった。俺たちは皆、知って――気付いていたからだ。ルークが音素フォニム乖離を起こしており、消えかかっているということ。エルドラントでの戦いやローレライの解放を終えれば、ほぼ確実に姿を保っていられないだろうことを。

 知っていて、未来のないあいつに未来の話をし、代わる代わる約束をさせた。

 そうすることで、少しでもあいつに生きる意欲を持たせ、この世界に繋ぎとめておきたかったから……そんな理屈は、建前だ。実際は、認めたくなかったからだった。あいつが消える。死んでしまうということを。――怖かったのだ。

 いつだって俺は、何かを認めることから逃げ続けていた。アクゼリュス崩落の責任を認めたがらなかったルークと何ら変わりはしない。

 俺のために、姉上やメイドたちに命を捨てさせたという事実を忘れた。

 復讐をすると誓ってファブレ邸に乗り込みながら、誰を殺すことも出来ずにズルズルと時を過ごした。

 賭けだとかヴァンの言葉だとかで誤魔化して、ルークを殺せない自分を、それでも復讐を諦めない自分を正当化していた。

 ルークがレプリカだと知った時、安堵したのは俺だけだっただろう。これであいつを殺す理由がなくなったから。

 だが、それも逃げだ。

 コーラル城で、「別にどうでもいいけどな。ガキの頃の記憶なんてなくても困ってねーし」と、ツンと顎をそらしていたルーク。そのくせ、誰よりも早く城内に駆け込んで、真剣に辺りを見回していた。

 過去を捨てたルークを俺は憎悪したが、本当は、あいつは過去を欲していた。同じように、俺に過去しかなかったのは、ただ、俺が認めることから逃げていたからなのだ。

 最初から、俺がルークを殺さなければならない理由などなかった。

 人を殺したくない。ルークを愛したい。幸せになりたい。

 未来に向いた自分の思いを認めるのが、俺はただ、怖かったのだ。――それは復讐心を……思い出の中のホドの人々を、殺してしまう行為だと思い込んでいたから。

『だが、あなたはまだ、あまりにもお若い。ガイラルディア様』

 認めたくなかったのに、日々の暮らしや、ルークの手や笑顔や生意気な声が、俺の全てを構成していたはずの過去を浸食していくようで。恐ろしくて憎らしくて、……ずっと、苦しかった。






 剣を持って滑り込んだ子供部屋の床辺とこのべには、黒いマントをまとった人影が佇んでいる。

 これは夢だ。過去の現実の情景に、俺自身の想いが混じってしまった、限りなく現実に近い幻。

 だから、俺はこの佇む人物が何者なのかを知っている。あの頃の俺には分かりはしなかっただろうが、今の俺には分かる。

「……ルーク」

 腰まで伸びた焔のような髪を微かになびかせて、彼は感情の薄い碧の目で俺を見やる。そして、あの不吉な預言スコアを紡ぎ始めた。

 

『この子供の命は、そう永くはない。

 だが生きる間、この子供は多くの命を喰らい、存在を奪うことになるだろう。

 ――だからいっそ、この場で命を断ち切ってやるがいい』

 

 確かに、今ここでそうすれば、回避できる悲劇は幾つもあるのだろう。

 アクゼリュスは超振動では崩落しない。数千の人々は命永らえるのかもしれない。

 そしてルークは、何も知らないで済む。これ以上の軟禁の苦しみも、慣れない旅の不安も、人殺しの罪も、親しいと思っていた人々からの裏切りも、自分がレプリカであるという現実も。……確実な死を間近に見据えた、逃げ場がなく先のない無惨な戦いの日々さえも。

『……あの時の小鳥はさ、死ぬまでの間、苦しかったのかな』

 あの時俺は、小鳥を殺すべきだと思った。

『だって、結局あんな結果しか生まなかったんだからさ』

 結果が予め分かっていたならば。最初に、息の根を止めておくべきだったのか。

 黒いマントを羽織ったルークは、じっと佇んでいる。俺は剣を持って、彼の碧い目を見つめている。

 ガラン、と重い音がした。俺の手の中から、剣が床に滑り落ちた音。

「……出来ないよ、ルーク」

 泣き笑いのように呟いて、俺は自分のベッドの端に腰を下ろす。

 そこは贅を凝らした子供部屋ではなく、天井の低いケセドニアの安宿で。けれど黒い影は変わらぬ距離で俺の前に佇んでいた。

 確かに、ここでお前を殺しておけば、少なくとも俺は楽になれたのだろう。お前から与えられるものを知る必要もない。ただ、空隙を過去の闇で満たし、いびつな喜びに浸っていればよかった。

 そうしていれば――今、こんなにも苦しい思いをすることも、きっとありはしなかったのだ。

「だけど、俺には出来ない」

 悟った顔、割り切ったふりをしていた俺よりも、お前の方が多分ずっと強かった。誰かを殺す罪を真正面から受け止め、自分の死ですらも、震えながら、それでも目をそらさずに受け入れていた。

 嘘つきルーク。だが、嘘の下手なルーク。お前が隠したがっていたのだから、というのは建前だ。嘘に付き合っていたのは、ただ、俺が臆病だったからに過ぎない。

 お前の死を認めるのが、俺は怖かった。

 同じように、俺にはどうしたって、眠っているお前に刃を振り下ろすことは出来やしなかったのだ。

 黒いマントのルークは俺を見つめている。僅かに表情を動かして、どこか困ったような、あるいは悲しそうな、何かを抑えたような、あの顔で微笑った。

『それでも俺は。それでお前が楽になるんだったら、……それが、すごく嬉しいんだ』

 

 だったら、なあルーク。

 お前が、予め俺を殺しておいてくれたのならよかったのに。








終わり

06/03/18 すわさき


*子供が生まれた時、枕元に現われて、その子供の人生を予言する運命の神の伝承は、世界中に存在しています。ギリシア神話のモイライや北欧神話のノルニルが有名ですが、類似の存在は世界中に溢れています。三人の運命の女神のこともあれば、一人の女神のこともあり、男神のこともあります。日本だと、産神うぶがみだのほうき神だのになります。
 この系統の伝承は、大抵は無惨な運命を予言されて回避しようとするが果たせなかった、という運命の残酷さを語る結末になりますが、様々な方法で運命を回避し、幸せな結末を掴む展開のバリエーションも世界に広まっています。
 …… 一度は神の定めた運命によって死んでしまった若者を、その名付け親が努力の末に甦らせる話とかね。(笑)
 こういうものを見ていると、人の考え方や望むものは、古今東西、あまり変わらないのだなと思えます。

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