足音を忍ばせてドアに手を掛けた時、後ろから少しくぐもった声が聞こえてきた。
「アニス……? どうしたんです? どこかへ出かけるんですか」
「あっ……、ごめんなさいイオン様。起こしちゃいました?」
一瞬ビクリと肩をこわばらせ、アニスは振り返って笑う。狭い宿の部屋の中で、白い法衣を着た少年がベッドに半身を起こしているのが見えた。
「いいえ、元々うとうとしていただけでしたから」
そう言ってイオンは微笑み、「それより、アニスは……」と訊ねてくる。
「えへへ、私は、ちょーっと手紙でも出してこようかなって……。すみません、イオン様はお休み中だと思ったもので」
「いいんですよ。それにしても、アニスはよく手紙を出していますね」
「ウチのパパとママ、心配性なんですぅ。それにちゃんと釘を刺しておかないと、また誰かに騙されそうで心配で」
「パメラとオリバーは優しい人たちですからね」
ふ、とイオンは目を笑ませた。いつもながらの柔らかい笑顔だ。反対に、アニスはぶーと頬を膨らませる。
「えーっ。騙されやすいだけですよぅ」
「善良なんですよ。それに、アニスのことを心から愛しています。――僕には、羨ましいくらいです」
「イオン様のご両親は……このマルクト帝国におられるんでしたよね?」
「はい。親子と言えるかどうかは微妙ですけれどね。……一度も会ったことがありませんから」
導師イオンは、この惑星オールドラントを支配する唯一無二の宗教、ローレライ教の最高指導者だ。代々の導師は
「そ、そんなことありませんよぅ。血が繋がってる限り、会えなくても親子です。それに、イオン様のことを誇りに思っておられるでしょうし、いつも気にかけておられると思いますよ?」
「……そうですね。ありがとう、アニス」
イオンは微笑んで、僅かに目を伏せた。どこか
「それより、手紙を出しに行くなら、僕に構わないでいいですよ。なんなら、僕も一緒に行っても……」
「だ、ダメですよぅ! ダアト式譜術を使ってお疲れなんですから、イオン様はしっかり休んでいてくださいっ」
「……そうですね。確かに、いささか疲れました」
そう言って、イオンは視線を隣のベッドに流した。そこには一人の青年――彼らの旅の仲間の一人であるガイ・セシルが眠っている。
キムラスカ王国のファブレ公爵家の使用人――そんな触れ込みで旅の仲間に加わった彼が、己の主人であり親友であったルークに殺意をもって斬りかかったのは、半日ほど前のことだ。その直前まで確かに守っていたルークの背に、彼は迷いなく
彼がこんな凶行に及んだのには、恐らく
ガイがどうしてルークに殺意を抱いていたのかを、イオンやアニスは知らない。いや、仲間たちの誰もが知らないだろう。恐らくは、殺意を向けられたルーク本人ですらも。
普段から、ルークとガイは互いを親友と呼んではばからなかった。その心に偽りがあったようには、傍目には見えない。ガイの今までのルークに対する言動は、到底、命を狙う者のそれではなかったから。
「僕の責任です……」
ガイをここに運び込んでから何度か発した言葉を、イオンはまた呟いた。
「違います! イオン様のせいじゃありませんよぉ」
「ですが……」
以前一度、ガイに掛けられたカースロットが発動したことがある。その時は彼が強い理性で抵抗して事なきを得たのだが、他の誰に分からなくとも、イオンには分かっていたのだ。ガイの中にルークへの殺意があり、そしてカースロットは解呪しない限り侵食を続け、様々なものを蝕むであろうことを。
分かっていたのに、大丈夫だと言い張るガイを押し切れず、次々降りかかった大きな事件に紛らわされて、こんな結果を迎えてしまった。
「もう。イオン様は気負いすぎるんですよぅ。ガイとルークのことは、二人の問題です。それに一番悪いのは、ガイにカースロットを掛けたシンクでしょう!?」
「そう……でしょうか」
「そうです。ほら、イオン様は横になって。カースロットの解呪に随分無理をされたんですから。顔色、真っ青じゃないですか」
近付いてきたアニスに寝かしつけられて、イオンは大人しく横になった。
「ガイもまだ目を覚ましませんし、ルークたちがピオニー陛下との会談を終えるまでにもまだ少し掛かりますよ。ゆっくり休んでいてください」
「はい……」
イオンは短く答える。そして、部屋を出て行く少女の背に「アニス」と呼びかけた。
「ありがとう」
「……いいえ。私は、
にっこり笑って、アニスはドアの向こうに出て行った。
グランコクマの商業区の賑わいの中をアニスは歩いていく。さりげない様子で、するりと人目につきにくい路地に滑り込んだ。
「――やあ。ご苦労さん」
薄暗い路地の奥から掛けられた声にハッとした。
「……!? なんであんたがここにいるのよ」
「ご挨拶だね」
言いながら、黒衣をまとった小柄な少年が歩み出てきた。その目から鼻までは黄金の
「今日はボクが連絡役だ。たまにはいいだろう?」
「シンク……!」
睨み付けてくるアニスの様子を、シンクは面白そうに見やった。
「参謀総長自らがお出まししてやったっていうのに、なんて顔してるんだい? アニス・タトリン奏長」
「うるさいっ! 大体あんた、悪趣味なのよ!」
「藪から棒だね。カースロットのこと?」
「決まってるでしょ。なんで、あんなこと……!」
「言っておくけど、殺意を持ったのも持たれたのも、あいつらの問題だからね。ボクはそれにほんの少し手を貸しただけさ。まあ、面白い見世物だったけど。斬りかかられた時のあのレプリカの顔ときたら」
少年はくつくつと笑う。
「シンクッ!」
「落ち着きなよ、アニス。――大体、お前は怒ることの出来るような立場じゃない。違うのか?」
「う……」
「旅をしている間にあいつらに情が移ったか。それとも、イオンにダアト式譜術を使わせる羽目になったからか?
麗しいね。おかげで誰も気がつかない。あの
笑いながら、シンクはアニスの方へ近付いていく。すれ違い様に彼女が持っていた小さな封筒を奪い取った。
「この報告書は、ボクがちゃんとモースに渡しておいてやるよ。――裏切り者のアニス」
視線を伏せて唇を噛むアニスの様子を満足げに眺めてから、シンクは軽い身のこなしで姿を消した。
「笑っても構わないぜ。だがこれが、今の俺の正直な気持ちなんだ」
風に乗って、後方でジェイドと話しているガイの声が切れ切れに聞こえていた。
あの後目覚めたガイは、己が抱えていた心情をルークと仲間たちに吐き出した。彼はマルクトの貴族であり、一族郎党をルークの父であるファブレ公爵に滅ぼされた。その恨みからファブレ公爵邸に使用人として潜り込み、復讐の機会を窺っていたのだという。
ルークはひどくショックを受けていた。当然だろう。だが、彼は全くガイを責めようとはしなかった。むしろガイを苦しめ続けていた自分を責め、そんなルークをガイは宥めた。
今、一行は崩落の危機にあるセントビナーへ向かって旅をしている。ルークとガイは親友であり続けることを望み、共に旅をすることを選んで、今も同じ道を歩いていた。
「……バカだよね」
「え、何か言いましたか、アニス」
我知らず呟くと、隣にいたイオンが問い返してきた。
「いいえ、何でもありませんよぅ」
慌てて笑うと、イオンが不思議そうに小首を傾げる。だがさほど気にしなかったようで、すぐに表情に笑みを乗せた。
「でも、本当に安心しました。これでもしもルークとガイが仲違いでもしたら、それはとても悲しいことでしたから」
「イオン様……」
アニスはイオンを見つめた。……この人は、どうしてこんなにも綺麗なんだろう。
白くて。眩くて。純真で。どこまでもまっすぐに善を信じている。
ううん、イオン様だけじゃない。ルークも、ナタリアも、ティアも。大佐ですら。仲間を殺そうとした人間を、なんでまた受け入れることが出来るの? 裏切られたのに。これからも、裏切るかもしれないのに。
「……バカみたい」
もう一度、アニスは口の中で呟いた。
(そんな風に思う資格なんて、……私は持ってないのに)
「……アニス?」
「あっ、すみません、ちょっとボーっとしてましたぁ。それよりイオン様、お体は大丈夫ですか? 辛かったらすぐに言ってくださいね。イオン様はすぐ無茶をなさるんですから」
「ありがとう。僕は大丈夫です」
まくしたてられて少し面食らったような顔をしたものの、イオンはじきに、あの穏やかな表情で微笑んだ。
「アニスは、本当に優しいですね」
「え……」
ふわりと風が渡った。街道沿いの木々を揺らし、アニスの髪やリボンもなびかせている。
風に乗って、ガイの声が微かに耳に届いた。
「だからこの旅を共にしても、もしかしたらあいつをもっと傷つける結果に終わるのかもな。……それが分かっていて、それでもこうしてるんだから、俺もつくづく利己的で醜い男だよ」
(それなら……。私とガイと、どっちがもっと醜いのかな)
きゅ、とアニスは唇を引き結ぶ。
旅の先はまだ長い。光にさらされた己の醜さを、これからも見つめ続けなければならないのだ。
06/03/30 すわさき
終わり
*外殻大地〜崩落編では、イオンがルークたちの旅に同行するのに反対気味だったアニス。色々と辛かったんだろうなぁと思ったり。