竜退治

 昔話にルーツを持つファンタジーと言えば、英雄がドラゴンを倒してお姫様を助けて結婚して……という展開を思い浮かべる人は多いかもしれない。英雄が竜と戦う伝承は枚挙にいとまがなく、世界各地の神話にも普遍的に見い出せる。一体、この物語は何を表しているのか。昔から数多くの研究者がそれぞれの解釈をし、論考を披露している。

 曰く、竜は蛇であり、その性質や形からして河川そのもの、つまり水にまつわる自然災害のキャラクター化である。河川と戦う英雄の物語は、水と関わる人類の歴史を暗示したものである。

 また曰く、(特に多頭の)竜は特定の人間集団のキャラクター化であり、その神話を作った支配者たちが、征伐した人々を怪物にして貶めているのである。

 物語は常に歴史的な事件・事象をデフォルメ化したもので、特に為政者の作為を含むものだと考える人々は、こうした解釈を好む。

 確かに、そのような意図で語られた場合があるだろう。しかし竜と戦う物語の全てをそうした解釈で説明することはできない。しばしば英雄は竜に呑まれ、また吐き出されたと語られることがあるからだ。こうした特質は、治水とも戦争とも関連付けづらい。

 なお、呑み込む竜は常に蛇体で現れるわけではない。犬(狼)、馬(ロバ/ラバ)、牛、獅子(虎/豹)、蛙、そして魚。山姥(巨人/鬼)の姿で現れることもある。要は、人を呑み込んでしまえる、何か強大で恐ろしいモノであればそれでいいのだ。アフリカの伝承ではひょうたんの場合があるし、ロシアやチェコスロバキアの伝承では切り株が変化した大喰らいの赤ん坊であることもある。

 人を呑んでしまう怪物。これを《夜》または《蝕》のキャラクター化とみなす解釈はよく知られている。

 曰く、呑み込む竜の物語は、(日没または日蝕によって)太陽が消える天体現象を神話化したものである。

 実際、それら怪物が人々を吐き出す際に鶏が鳴いたと語られたり、それが呑んでいる間は世界が暗闇に包まれたと語ったり、はっきりと、太陽または月を呑んだと語られていることもある。

 自然現象の神話化として英雄の竜退治を見る場合、竜を《大地/不毛/乾燥/冬》とみなし、英雄を《太陽/豊穣/湿潤/春》と見ることも多く行われる。その場合、英雄の持つ剣や槍に意味を見出す試みがされることもある。あれは闇を貫く太陽光の象徴だ。いやいや、豊穣をもたらすべく地母神に挿し込まれる男性器の暗示だ、等々。

 確かに、そうした意図で語られたこともあるだろう。しかし、英雄の竜退治に自然の生と死の循環サイクルを見出す、それもまた、一つの《なぞらえ》ではないのだろうか。

 竜退治という物語が伝える本質は、自分を呑もうとする強大なモノへの恐れと、それとの戦いである。精神分析的見地から説話を読み解こうとする人々は、そこに子供の精神発達という意味付けをするかもしれない。

 曰く、竜退治は、精神発達途上にある子供の親に対する葛藤と、性愛的に未熟だった精神が成熟していく過程を暗示したものである。

 そのような解釈をすることも自由だ。確かに、《呑み込む強大なモノ》への恐れは、人が親に抱く根源的な恐れや反発と重ね易い。近代の語り手たちはこの系統の解釈を好み、更には、親との葛藤を思春期の社会への不安に拡大して、物語を新たに語り直していることが多いように見受けられる。

 

 このように、物語は何にでもなぞらえることができるし、どんな風にも解釈することができる。そして多くの語り手たちを経由して様々に伝承される説話においては、恐らく、そのどれもが間違いではない。けれども竜退治という物語の根底にある《得体の知れないモノに呑まれる恐怖》、その最も中核的なものは、人間にとってもっと根源的で、普遍的なものなのではないか。――つまり、《死への恐怖》である。

 

 

 私は、竜の最も原始的な姿は、《死》そのものだったと考えている。どんな人間も、生きている限り《死》と対峙せずにはいられない。それはどんなモノか。姿は、声は。いつ襲い来るのか。それに呑まれればどうなるか。呑まれた者はどうしているか。……呑まれた後に戻ってくることは可能なのか。人は死を恐れ、しかしその詳細を知りたくてたまらずにいる。

 古い社会で霊能力者シャーマンが崇められたのは、彼らが死に対抗する特別な力を持っていたからだ。彼らが語るところによれば、自ら死後の世界(冥界)へ飛び、しかもそこから戻ることができると言う。時には、一度死んだ(病気になった)他者の魂を連れ戻しさえする。この世とあの世を繋いで死者と語らい、逆に、祟る死者をあの世へ放逐することもできる。彼らは死がどんなものか、死者はどうなるのか、死後の世界はどんな所なのかを識っている。よって人々は彼らを敬い、その知識の教授を請うた。死から逃れるにはどうすればよいか、彼らのように死の手を潜り抜けて《戻る》には、どうすればよいのか。それが知りたくてたまらないからである。

 黄泉帰りを果たした者は人々の憧れだ。その偉業を称える物語は好まれ、語り手ごとにアレンジを加えられながら繰り返し語り伝えられた。そうして生まれた多くの物語のバリエーションの一つが、英雄の竜退治だと考えている。英雄が太陽、竜が夜の闇を表すのだとしたら、それは古い時代の人々が、沈んでは昇る(または、蝕で欠けても戻る)太陽を見て、自分もこんな風に、死んでもまた復活したい、と希望を重ねなぞらえた……それが発端だったのではないだろうか。

 そして一方で、自ら死と再生を繰り返す太陽を、人々は生命を操る神〜冥界を支配する冥王だと考えた。《死》そのものでもある冥王は竜と同一視されることにもなり、結果として、対立するはずの竜と英雄が、同じ《太陽》になぞらえられて繋がることにもなったわけだ。



 竜は《死》であり、竜に呑まれることは冥界に入ることを暗示した。

 ギリシア神話に、王子イアソンが即位の資格を得るため、アルゴー船で金羊毛を求めて旅する物語がある。金羊毛はコルキスの国のアイアの町のアイエテスの宮殿にあると言う。一説によればアイエテス王は太陽神ヘリオスの息子であり、古い伝承では、太陽光は彼の黄金の寝室に休むと言われた。カール・ケレーニイは、アイアとは恐らく《曙の国》を指し、アイエテスの寝室は太陽の館であると同時に冥王ハデスの座所であったと述べている。ともあれ、アイエテスが所持する金羊毛は、一匹の竜によって守られていた。

 現在一般に知られる物語では、アイエテスの娘である王女メディアがイアソンに恋し、薬液に浸した杜松ねずの枝で竜の頭に触れ、更に歌うことによって竜を眠らせ、金羊毛を盗んでイアソンに与えたとする。けれども古い物語ではイアソン自身が竜と対峙したらしい。一説によれば、金羊毛は竜の口の茂みに吊り下げられていた。茂みとはアレスの森のことで、冥界の一端である。その奥に開く竜の口は、五十人が漕ぐアルゴー船を一呑み出来るほどに大きかったと言う。恐らくは、アリ・ババが岩門を開いて宝の洞穴に入ったように、源義経のためにあさひ天女が七重の締めを開いて石蔵に入ったように、……そしてイアソン自身がそれ以前の旅で打ち合う岩門を鳩に倣ってすり抜けたように、ここでも開閉する竜のあぎとの奥にアルゴー船を滑り込ませたのだろう。

 イアソンと竜の物語は陶器画にも見てとれるが、そこではイアソンは鎌首をもたげた大きな竜の口から上半身だけを出し、死体のようにだらりと伸びている。傍らには枝に金羊毛を掛けた木が生えており、前には女神アテナが立っている。彼女がイアソンを死の眠りから呼び覚ますのだ。また別の陶器画では、アテナの後ろに薬草を持ったメディアが従っていて、彼女が恋人を復活させるらしい。

 王子テセウスがミノスの雄牛ミノタウロスの迷宮から脱出する際、ミノス王の娘・王女アリアドネが糸玉もしくは宝冠で導いたように、竜の口から吐き出されたイアソンを魂よばうのは呪力を持つ女性である。死を生に転じる方法、即ち冥界と現界を繋ぐみちは女神の管掌するものであった。というのも、竜の腹と冥界が同一視されたように、冥界と女のはらもイメージを重ねられていたからである。

 人々は死を恐れ、死による存在の消滅を否定し、霊魂や冥界の存在を唱えた。そして、冥界に入った魂はいつか新たな生命として生まれ変わるとも信じたのだ。冥界に子宮のイメージが投影されるのは、恐らくその観念が関係している。生命は女性の胎に宿って産み出されるものだから、死者の霊魂を新たな生命に変成して送り出してくれる冥界を、人々は女神の子宮だとみなしたのだろう。子を産むのは女の特質であるから、冥界へ入るみちも出るみちも、本当に識っているのは女神だというわけだ。

 このように考えていけば、《死》と竜と女神をも同一視することができるようになる。死と生の双方を与えることのできる偉大な母親グレート・マザー……太母神のイメージである。



 冥界下りと黄泉帰りの観念は物語として伝えられた他、儀式として模倣もされた。何事も、なりきることでその力にあやかることが出来ると考えられていたからである。

 かつて日本を含む世界中の子供たちが、十三〜十六歳前後になると成人と認められるための通過儀礼を受けたものだが、その中にこの観念を下敷きにしたのであろう儀式が見られる。恐らくは、成人に「子供として死に、大人として生まれ変わる」という意味が与えられていたからだろう。

 日本の武士階級において、成人すると名前を変える習俗があったことはよく知られている。奈良県添上郡東山村室津では庶民の間でも行われており、少なくとも昭和二十八年にはまだ残っていたようだが、名前を変えるのもまた、《生まれ変わった》ことを暗示していたと考えられる。

 日本の長崎県西彼杵そのぎ郡には、「絞め殺す」などと言って、首を絞めて一時的に気絶させる成人儀式があった。

 また、一定の年齢に達した若者が成年組織に加入する際、その加入礼として《死と再生の模倣》が行われることがある。オーストラリアのイルンタリア族では、加入礼は洞穴の中で行われた。まず、若者は洞穴の前で《眠りにつく》。祭司は彼を《目に見えない槍》で刺してうなじを貫通させ、舌に大きな傷をつける。この傷が神霊とのつながりとなる。それから祭司は若者を洞穴の中に運び込み、彼の内蔵を全て取り出して新しいものと入れ替え、魔法の水晶を入れてから《甦らせた》。若者は心神喪失しているが、やがて正気づくとシャーマンとして認められた。江戸時代の日本、鹿児島県蒲生町には士族の若者が加入する兵児二歳へこにせという組織があったが、新入りの若者たちは同町の愛宕山に掘られた大穴の中に裸で入れられ、先輩たちが柴で叩き落とそうとするのをこらえて這い上がらなければならなかったと言う。メラネシアでは新加入者たちは長くて狭い建物を潜り抜けねばならず、更に熱湯を浴びせかけられた。

 そしてインドネシアのセラム島では、新加入者はワニの口と呼ばれる狭い建物に入らなければならなかった。彼らは獣に呑み込まれ引き裂かれたとみなされた。

 

 竜に呑まれ、また吐き出されるモチーフは様々な伝承に見ることができる。ギリシア神話の英雄・ヘラクレスは、海神ポセイドンの怒りのために怪物(海から上がってきて平原で人々をさらったとも、大魚とも言う)に捧げられようとしていた王女ヘシオネを救うべく、自ら怪物の喉に飛び込んだ。彼は鎌で怪物の舌や内臓を次々に切り取っていった。そうして三日間胃の中に留まってから生還した。怪物の腹から戻ってきた際、彼の頭髪は全て抜け落ちており、つまり異相になっていたと言う。イギリスの「フェアとブラウンとトレンブリング」では、主人公の死は《クジラに呑まれた》という形で表現され、クジラから三度目に吐き出された時、やっと死から救い出される。西アフリカの「手無し娘」では、娘が蛇に呑まれ吐き出されると、失っていた手足が再生する。ハンガリーの「天まで届く木」では、高木の上の竜の館を訪ねた若者が三度竜に呑まれ、吐き出されている。

「臭いぞ、臭いぞ、やって来たのは何者だ? よそ者がやって来たのは帰る途中から分かっていたぞ」
「怒らないでください、あなた。私がいなくなったのを心配して、うちの豚飼いが下界から登って来たんです。これから ここで私に奉公するというのです」
「どこにいるのだ? 連れて来い!」
「連れてきますけど、哀れな豚飼いをいじめないでくださいね。これからずっとここで奉公するのですから」

 王女は洗い桶を持ち上げてヤーノシュを外に出した。龍はヤーノシュの前に立って眺め、そしてパクリとやり、呑み込んだ。それから吐き出し、またパクリとやり、呑み込み、そして吐き出した。三度同じことをした。

 この後、若者は竜を倒して地上に帰還し、結婚して王者となる。

 時代と共に信仰が失われていくにつれて、竜に呑まれる本来の意味は忘れ去られ、人々は竜を倒す活劇的な展開を求めるようになっていったのだろう。一寸法師は鬼に呑まれるが、それは腹の中で暴れて退治するためであった。それでもまだ、彼は鬼の腹の外に出ると、結婚能力のある立派な若者になったと語られる。中国の「小黄龍」では、小黄龍と化して大黒龍の腹中で暴れて退治した少年は、外に出てから村の守り神となった。呑まれ吐き出されたことにより、より良い何かに生まれ変わる、という観念の片鱗はうかがえる。

 一方、「狼と七匹の子ヤギ」や「赤ずきんちゃん」では吐き出された主人公の代わりに石を詰めて退治している。「山姥と石餅」では、最初から石を食べさせて退治している。もはや、呑まれることに意味があるとは考えられていない。

参考文献
『魔法昔話の起源』 ウラジーミル・プロップ著 斎藤君子訳 せりか書房 1983.
『ギリシア神話 ―英雄の時代』 カール・ケレーニイ著 植田兼義訳 中公文庫 1985.
『婚姻の民俗 東アジアの視点から』 江守五夫 歴史文化ライブラリー48 吉川弘文館 1998.
『ギリシア・ローマ神話辞典』 高津春繁 岩波書店 1960.
『ギリシア神話小事典』 バーナード・エヴスリン著 小林稔訳 教養文庫 1979.



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