>>参考 「日食の伝説」「小さなやけど娘」「姥皮を被ったラサメイト
     【塩のように大事】[灰坊
     [火焚き娘〜獣の皮をまとう][火焚き娘〜植物の衣をまとう][火焚き娘〜容器をかぶる

 

姥皮(蛇婿〜退治型)  日本 青森県

 昔、あるところに娘を三人持った長者があった。ある朝、長者が田の水の様子を見に行くと、千刈田に少しも水がかかっていなかった。田の稲はもう枯草のようになっている。なんともかとも困り果てた長者は、

「この田さ水かけてくれた者に、三人の娘のうち どれでも一人、嫁御にやってもええな」と、独り言を言った。

 次の朝また行ってみたところが、水口から長者の田にどんどん水が入っている。

「水をかけてくれた者に、娘一人やらねばなんねえな」と思って、下のほうに行ってみると、下の田の真ん中の稲を分けて、沼の主の大蛇がのろのろ這っていた。

「ややっ、これだな。水をかけてくれたのは」

 そう思って長者はすっかり青くなってしまった。家に戻って、一人部屋にこもって、ものも言わずに考えこんでいると、一番姉娘が昼飯を持ってきた。

「おさま、お父さま、ままあがれ」

「食いたくねえやな」

「どうしてがえ」

「千刈田さ水かけてけた沼の主のとこに嫁に行ってけだら、飯、食べべや」

 すると一番姉娘は、

「どこでも嫁に行きますども、主のとこだけは、ごめんくだされや」と言って、逃げてしまった。

 次に、二番娘が「お父さま、お父さま、飯あがれ」とやって来たが、「千刈田さ水かけてけた沼の主のとこに嫁に行ってけろ」と言われると、姉娘と同じことを言って逃げてしまった。二人とも言うことをきいてくれなかったので、長者はまた気落ちして、くびくびとなっておると、三番娘がお膳を持ってきた。これにもまた頼むと、三番娘は

「お父さまの言うことなら、なんでもききます。おら、主のところに嫁に行くすけ、どうか、飯あがれ」と言った。長者は喜んで食べて、

「欲しいものさあったら、なんでも買ってやる」と言うと、

「何もいらねえども、針千本と千成ふくべ(ひょうたん)と真綿千枚、買ってくだせえ」と願った。

 いよいよ嫁入りの日になって、三番娘はそれを持って、主のいる沼に行った。そして千成ふくべの口に真綿を詰め、それに針を刺して、一度に沼に投げ入れて、

「ふくべをみんな沈めた者の嫁になる」と言った。さあ、沼の主が出てきて、ふくべを沈めようとぐるぐる泳ぎまわっていたが、なかなか沈まない。そのうち針が刺さって、沼が血で真っ赤になったと思ったら、大蛇は横になって死んでしまった。

 さて、娘は「このまま家に帰れば、お父さまはおらばかし愛しがるべ。したらば、姉さまたちに悪いし」と思って、家には帰らず、上り三里、下り三里の峠を越えて行くと、山の中から、のんののんのと地響きがした。もしや主が生き返ったか、主にとって食われるかとびくびくしながら行くと、向こうから見たことのないおんば(老婆)がやって来た。おんばは、

「姉さま、姉さま、わしゃ、この山のひきのぎゃろ(ヒキガエル)でごぜえますだ。あの主のために、わしら日の目を見たことがありませなんだ。わしらの孫子どもはなんぼか食われたかしれません。おかげで、これから日にも風にもあたって、ほんにようごぜえます」と礼を言い、

「お前さまのような綺麗な姉さまには一人旅は危ねえすけ、これをさしあげます。これは《おんばの皮》というて、これをかぶれば婆になりますけ、この皮をかぶっておいでやれ」と言って、おんばの皮をくれた。

 娘は蟇のぎゃろのおんばと別れると、おんばの皮をかぶって、ある村にやって来た。そこでその村の長者の家に奉公することになり、朝から晩までよく働いた。

 さて、ある晩のこと、その家の若様が、みんなが休んだ後で一つだけ明かりのついている部屋に気がついた。行ってみると、おんばの部屋に見たことのない十七、八の綺麗な姉さまが本を読んでいた。不思議なこともあるもんだとずっと思っているうちに、まず言えば、恋の病にかかってしまった。いくら医者にかけても少しも治らない。すると、ある医者が、

「この家にいる女みんなに、一人一人お膳を持たせてやり、若さまが飯を食った女を嫁御にすればすぐ治る」と言った。

 そこで長者の家では召使の女にみな、お膳を持たせて出した。けれども、若さまは誰の膳も食べなかった。残るは年寄りのおんば一人だけになった。おんばでもおなごには変わりなし、ということで、おんばにも膳を持たすことになったが、あんまり汚いので風呂に入れて、綺麗な着物に着替えさせた。そうしたところが、おんばはなんとも美しい姉さまになったので、みな、たまげてしまった。そこでお膳を持たせたら、若さまはすぐ起き出して、飯を食べてしまった。こうして娘は長者の家の嫁御になって、安楽に暮らしたということだ。

 尊払いどっとはらい



参考文献
『いまは昔むかしは今(全五巻)』 網野善彦ほか著 福音館書店

※シンデレラを「継子譚」と規定するなら、この話はそれから外れてしまう。しかし「貧しく身をやつした少女が美しく変身して玉の輿に乗る」点を重視すれば、紛れもなくこれもシンデレラ譚である。

 ただ、異伝の中には継子譚から始まるものもちゃんとある。継母に家を出された姫は乳母に婆つ皮をもらう。それを着てある家の水仕女として奉公するが、ある晩、風呂に入っていたところをその家の若旦那に見られる。若旦那は恋煩いで病気になり、家中の女がかわるがわる彼の枕元に行く。最後に婆が行くが、正体を見破られて美しい本性をあらわし、妻になる。(これは新潟の話)

 室町時代の絵本、いわゆる『御伽草子』に見える「姥皮」は、やはり継子譚から始まっている。後半は嫁比べモチーフこそ欠落しているものの「花世の姫」や「鉢かづき姫」により近い。(ただし、それらにある父親との再会の条がない。)

姥皮   日本 『お伽草子』

 応永の頃のことであるが、尾張の国岩倉の里に、成瀬左衛門清宗なるせのさえもんのきよむねと申す人がいたが、長年連れ添った妻は亡くなり、忘れ形見の姫君が一人あった。

 その後、そうあるべきことであれば、姫君が十一の年、清宗はまた妻を設けた。

 まもなく清宗は都へ仕事で上ることになったが、北の方に向かって言うことには、
「まだ姫は幼いのだから、とにもかくにも良く気遣って育てておくれ」
と細々と指示して、都へ上っていった。

 その後、継母がこの姫を憎むことに限りはなかった。姫君が心に思うことと言えば「父御前がここにいたら、こうはならないのに」ということばかりで、明ければ父恋し、暮れれば亡き母恋しと、涙の乾く暇もなかったのである。

 このように嘆いていればますます憎み、食事さえも与えなかったので、十二になった春の頃、姫君は岩倉の里を夜の闇に紛れて忍び出て、行く先はないけれども足に任せてさ迷っているうちに、甚目寺の観音堂に辿り着いた。姫君は

「これこそ、母上が常々参っておられた御仏だわ。朝晩足を運んでおられたのは、私の将来について祈っていたのだと聞いているわ。どうせもはや悪意を受けている身。母上のおられるところにすぐに行ってしまおう」
と思って、内陣の縁の下に人目を忍んで潜り込んだ。

「本当にね、大慈大悲に御誓願すれば、現世安穏、後生善処して護ってくださると聞いているわ。私は、この世の望みは今更ないわ。後生(死後、来世)を助けたまえ」
と、常々母上が教えておいてくれた観音経を、少しも休まずに読んだ。

 三晩こもった夜明け、戸口に金色の光を放って、もったいなくも観世音菩薩が姫の枕元に立った。

「汝の母は、いつもここに足を運んでは姫の行く末を案じて祈っていたのに、このように迷うとは哀れなことよ。汝の姿は世に類ないほど美しいのだから、どこかで人に襲われるだろう。これを着なさい」
と言って、木の皮のようなものをくれた。

「これは、姥皮というものだ。これを着て、我が教える場所へ行きなさい。近江の国、佐々木民部隆清ささきのみんぶたかきよの門前に立ちなさい」
と教えて、かき消すようにいなくなった。

 さて姫君は、「それにしても有難いお告げだわ」と伏し拝んで、夜が明けると姥皮を着て縁の下から出た。この様子を見た人は、「この婆さんは不気味な姿だな」と嘲笑った。

 

 こうして姫君は、教えに従って近江の国へ上った。不気味な姥の姿なので、野に寝ようが山に寝ようが、目を止める人もいなかった。

 どうにか、さ迷ううちに佐々木民部隆清ささきのみんぶたかきよの家に着いて、門の側で休んで経文を唱えていた。

 隆清の子に、佐々木十郎隆義ささきのじゅうろうたかよしといって、年は十九になる者がいたが、その時、門の辺りに佇んでいて、侍を呼んで言った。

「さても不思議なことがあるものよ。あの姥が経を読んでいるが、姿に似ずに声の美しさは迦陵頻(歌声が美しいとされる天上の半人半女)のようだ。中に呼び入れて、釜の火焚きをさせよ」

 侍は承知して、「どうした姥よ。この屋敷にこのまま留まって、釜の火を焚け」と言ったところ、姫君は中に入って釜の火を焚いた。

 

 そのうちに、頃は三月十日あまりになった。南面の花園には様々な花が植えてある。散る桜があれば咲く花もあり、水際の柳は萌黄の糸を垂れ、夜更け頃に山の端に沈む月も、花の美しさと競い合っていた。

 さて姫君は、夜更け、人が寝静まると花園に出て、月や花を眺めて、過去を恋しく思って、

月花の 色は昔に変はらねど 我が身一つぞ衰えにける

(月や花の色は変わらないのに、我が身だけは落ちぶれてしまいました)

とこのようにえいじて佇んでいた。

 一方、十郎隆義は詩歌・管弦の道にも明るく、優しい人であったので、沈む月を惜しんで花見の御所の御簾を高く巻き上げていたのだが、花園に怪しい人影があるのを見て太刀を押っ取り、忍び出てみると、火焚きの姥である。「これは怪しいやつだ。どうしたことか」と思い、そっと窺った。姫君は人が見ているとも知らないで、月の光に向かって、少し姥皮を脱いで、美しい顔だけを出して、またこのように

月一人 あはれとは見よ姥皮を いつの世にかは脱ぎて返さん

(月だけは哀れんで下さい、この『姥皮』に身をやつした私を。姥皮をいつの日にか脱いで返しましょう)

と詠むのを見ると、辺りも輝くほどの姫君である。「これはどうしたことだ」と思い、もとより大剛の人であったので、持っている太刀の鍔を押し上げて、するすると近寄って、

「お前をこの間の火焚きの姥だと見ていたところ、そうではなく、美しい女房だ。魔物であろう。逃がさんぞ」と怒鳴りつけた。

 姫君は騒ぐ様子もなく、「お待ちを。落ち着いて下さい。私は魔物ではありません。私の身の上をお話しいたします」とて、事の仔細をありのままに語った。隆義はじっと聞いて、ならば観音の御利生であるなと手を合わせ、感動の涙を流した。

 もとより、隆義は未だに奥方も娶っていなかったので、寝所の傍らは寂しく、独りで寝起きしていたのだが、姫君の手を引いて花見の御所に上がり、姥皮を脱がせて、火を灯して眺めると、全く上界の天人が天下りしたかと思えるもので、世に例えられるものがない。辺りも輝くばかりである。隆義が

「さては、噂に聞く成瀬左衛門清宗なるせのさえもんのきよむねの姫でありますか。突然に申すことではありますが、あなたも今は何かと苦しんでいるはず。今からは私と夫婦の契りを結んで下さい」と、行く末の事までも事細かに話せば、姫君は

「私ごとき落ちぶれ者にお言葉をかければ、ご両親のお咎めはどれほどのものでしょう。いつまでも屋敷に召し置いてくだされば、この姥の姿で釜の火を焚きます」と言う。隆義は

「このように出逢ってしまったのです。たとえ父母の不興を買う身になろうとも、野の末・山の奥までも、片時もあなたから離れまい」と、姫君の側に寄り伏して嘆いたところ、姫君も断りきれず、身を任せた。

 かくして、鴛鴦えんおうふすまの下で比翼の契りを結んだ。その夜も次第に明けていくと、後朝きぬぎぬの名残を惜しんで互いの涙は止まることがなかった。既にもう夜は明け、下働きの者たちが起き出す音がするので、再び姥衣を引き被り、釜の火を焚きに出ようとしたが、隆義は姫の袖を引き止めて、このように詠んだ。

観音の 御置きたりし姥皮を 末頼もしく我や脱がせん

(観音様が置いていった姥皮を、末頼もしい思いで私は脱がせた)

 姫君、返歌。

憂きことを 重ねて着たる姥皮を 君世になくば誰が脱がせん

(憂いごとを重ねて着ていた姥皮を、あなたがいなければ誰が脱がせることが出来たでしょうか)

 このように詠じて、火を焚きに出て行ったのは、哀れなことであった。

 

 そのうちに、隆義の父母は、かねてより定めていた通りに都の今出川の左大将殿の姫君を嫁に迎えようと、乳母めのとの宰相を使いにして手紙を送ってきて、都へ上るように伝えたところ、隆義はとやかくは言わないで、「父母の仰せに背くのは恐れ多いことですが、私はただ出家したいと思っております。このようなことはできません」と言う。

 父母はこれを聞いて、「これはどうしたことか。とは言うものの、若い身の習いとて、想いを寄せる方がいるのかもしれない。詳しく訊ねよ」と、乳母の宰相に言った。

 宰相は隆義を訪ねて、「ご両親にご心配をおかけするのも罪です。若い身の習いとて、お心を寄せる方があっても無理はありません。貴人の身の習いとて、賎しかろうと心の優れた者を召し上げて、奥方にもします。このようなことは世間にあることなのですから、父母様もさしてお恨みいたしません」と、丁寧に語ったところ、隆義は聞き入れて、「今は何を隠そう。誰もが驚くことだが、この屋敷にいる釜の火を焚く姥を召し上げたいのだ」と言った。

 宰相はこれを聞いて相当に呆れ果てて物も言わず、涙を流して走り帰り、父母にこのことを申したところ、「これは何としたことか。つまり我が子は気が狂ってしまったのか」とて、それぞれにうち伏して泣いたが、父、隆清はしばらくして「いやいやとにかく、火焚きの姥をこれからは嫁だと定めて、心を見よう」と言って、「然らば、明日は吉日なのだから、姥を召し上げて北の方に定めなさい」と使いを送ってきたので、隆義が狂喜することに限りはなかった。急いで網代の輿を調えて、祝いの儀式は様々だった。屋敷の人々は実に釈然としないことであったが、主命であるので、様々に準備を執り行った。

 

 とうとうその日になれば、隆義は例の姥を召し上げて、自分の住んでいる所へ入れて、人に見せずに、二人一緒に着替えや化粧をした。夜が明けると、かずき衣を深々と被って、輿に乗って、母屋へと移った。座敷まで輿で乗り付けて出てきたのを見れば、くだんの姥のようではない。これはどうしたことだと、見る人々も父母もポカンとした。

 舅の隆清が、側近くに来た嫁を見てみると、この世の人のようではない。天人か、菩薩が天下ったのか。これほどに美しい人は昔話にも聞いたことがない。年の頃は十三か十四ほどに見える。鮮やかなるかんばせ。姿を絵に描こうとしても筆が及ぶだろうか。言葉には、よもや出来ない。隆清夫婦は彼女を見て、驚き喜ぶことに限りがなかった。その日の引き出物として、隆清は代を息子に譲った。このことは天下に知れ渡った。

 帝がこれを聞いて、「さては観音のお引き合わせによって、隆義は妻を得たのだ。大変なことよ」とて、急いで隆義を召し上げて佐々木右兵衛督ささきうひょうえのかみの位を与え、近江の国と越前の国を相添えて与えた。

 その他にも所領を増やしていって、お目出度いことである。その後、子供も沢山もうけて末長く繁栄した。

 

 これは即ち、大慈大悲の御慈悲である。この物語を読む人は、南無大悲観世音菩薩と、三遍唱えるようにすべし。現世安穏、後生善処、疑いなし。



参考文献
『室町時代物語大成 第二 あめーうり 』 山 重、松本 隆信編 角川書店 1974.

※原文では平仮名であったため、人名の漢字は当て字である。資料提供・漢字当てはめをして下さった方に感謝。

 このように中世文学では継子譚として語られるものの、民間に民話として伝わる「姥皮」は、殆どの場合例話のように蛇婿入りと蛙報恩に結合している。

 なお、娘が《姥皮》を着てお城の下働きになり、皮を脱いでいるのを王子に見られて結婚する話は、チベットにもあるそうだ。



参考 --> 【蛇婿〜偽の花嫁型】「七夕女」「天稚彦の草子」「カンダ爺さん」「豆投げの由来」「猿婿・西日本型



花世の姫  『御伽草子』 日本

 そもそも人間は儚いもの、有為転変は世の習いとて、善きが衰え悪しきが栄えることもございます。

 年明けて春が来れば谷の氷柱つららも溶け、花の季節は楽しく明け暮らすものの、程なく春は過ぎ、ホトトギスの鳴く季節となり、梢のセミが声立てて暑さの増す夏は、ただ、冷たい清水のもとが恋しいばかり。やがて早くも初秋の風の音、松の枝が鳴り月も天高く輝く嵯峨野の夕暮れ。耳を澄ませば程なく虫の音も枯れ枯れになり、時雨の降る神無月。夜寒の季節に薄着であれば、侘暮らしの身には夜明けを待てない真夜中でありますが、流石に命を捨てることは出来難くて、月日を過ごしながら辛い身の上を嘆くのです。

 さて、駿河するがの国に名高い富士の裾野に程近い山里に、並ぶ者のない長者がおわしました。和田一門の豊後守盛高ぶんごのかみ もりたかと申します。財産は飽きるほどに満ち満ちて、少しも侘しいことはないのでしたけれど、子供が一人もありませんでした。夫婦はこれを嘆きました。四方に蔵を建てて財宝を積み上げようとも、これを誰に相続させて、後の菩提を弔ってもらえばいいのかと、殊の外に悩んでおいでなのです。

 けれども頼もしいことには、夫婦ともに信心深く、慈悲深さも勝っておいででした。そこで持仏堂を建てて観世音を本尊に祀り、香を焚き花を摘み、朝夕の読経の際にも、

「願わくば観世音菩薩さま、男子でも女子でも、子というものを一人授けたまえ。後の菩提を弔わせます」と言って祈りましたが、甲斐はありませんでした。

 そんなある時、北の方が縁行道(念仏を唱え、あるいは暝想などしながら仏堂や屋敷の縁側、長廊下などを歩くこと)をしてみましたところ、庭の梅の木に雀の親子が来て仲良く遊びました。これをご覧になって、つくづく思われたことには、「鳥でさえもこのように子供を持って可愛がる、羨ましいことよ。私たちはどんな報いによって子供が授からないのでしょう」と、ぐだぐだと言って涙を流されて、持仏堂へ詣って伏し拝み、それこそ嘆かれました。

 その効き目でしょうか、その夜の真夜中頃のこと、北の方は夢をご覧になりました。いつものように読経しておりますと、観世音の前から梅の花が一輪、北の方の膝の上に飛び来たのです。手にとってご覧になれば、色も匂いも類なく、盛りの花に見えました。美しく希少で嬉しくて、右の袂に収められました。すぐさま夢が醒めて、不思議に有り難く思われて、側に寝ていた盛高どのを起こして、

「ねぇ、聞いてください。たった今、夢を見ましたの」と言って、前述のように語られますと、

「それこそ吉夢だ。さては、われわれが嘆き言うことを哀れと思し召して、子種を授けてくださったのだ。花を右の袂に納めたのは、女の子が授かるということであろう。よしよし、それは何にしても有り難や、めでたや」

と夢解きをなさって、喜ばれるのも当然のことでした。夜が明ければ持仏堂へ詣られまして、一心に拝まれ、いよいよ観世音を信仰することは限りがありません。

 そうこうしているうちに、北の方は不思議な心地がして、体調を崩しておいでのうちに月の障りも止まって、懐妊が明らかになりました。下々の者たちも「最近は御子のないことだけを嘆いていらっしゃいましたが、これはおめでたいことです」と限りなく喜びました。その後、月日に関守を据えずにいれば、九ヶ月・十ヶ月もたちまち過ぎて、腹帯もつつがなく解け、玉のような姫君が取り上げられました。願っていたことであれば喜びに限りがありません。しかるべき乳母をつけ、侍女たちまでも良きを選りすぐり、掌中の玉のようにいとおしんで、父母の喜びは たとえようがなく、余りあるものでした。

 こうして年月を送るうちに、姫君は早、九つになられました。その春の頃より、ささいなことですが、北の方が体調を崩しがちでおいででした。さてはおめでたであろうと思われましたが、そうではなく、次第にお体も弱り、やつれて見えてきますと、盛高どのも心苦しく思われて、どうすればいいのか、と悲しまれ、色々と祈祷もなさいましたけれども、日が過ぎるごとに北の方は弱り果てられ、盛高どのを呼んで、

「この頃は色々と祈祷をなさいましたけれども、そのご利益はありませんでした。私はもう、この世の頼みもございませんが、私がまさにそうなりましたら、あなたは独り身でお暮しになるべきではありませんから、ただ、姫君こそが不憫でございます。

 姫君をよく育てて、良い殿方にもめあわせて、後も継がせてください。これだけが心にかかっております」

と仰いますと、盛高どのもこらえようがなく悲しそうに見えました。また、北の方は姫君を引き寄せて髪をなでて、

「ああ名残惜しい姫君や。私が亡き後は、父上より他には誰を頼みにできるでしょうか。心を優しく、人に憎まれないようになさい。

 あなたを授かったとき、花を賜った夢を見たので、花世の姫と名づけました。けれど花の盛りは一時のもの。それが心にかかっておりましたが、私が先立つことが嘆きの中の喜びです。

 父上の後を継ぎなさいね。乳母たちよ、よくよく厚遇して育てるのです。くれぐれも」

と述べられて、あしたの露と消えてしまわれました。惜しまれるべき年齢でしょう、三十三というのは。盛高どのをはじめ、姫君のお嘆きは譬えようもありませんでした。盛高どのは後を追おうと悶え焦れましたけれども、仕方がありません。そのままにしておくべきではありませんので、野辺の煙となし、ご供養しました。涙はいっそう尽きることがありませんでした。

 

 嘆きながらも日数を送られるうち、三年も過ぎて、姫君は十一になられました。

 年の暮れになると、一門の人々が寄り集まって、盛高どのに「いつまでも独り身でいても、北の方は帰ってきませんよ。いい人と愛の語らいをして心を慰めなさい」と度々勧めましたけれども、いっそう聞き入れないでおられますと、「こんなふうにしてもダメですよ。姫君も寂しがっておられるでしょうに」と言って、さる人と再婚の取り決めをして、早く早くと勧めたので、盛高どのもそう一概に断りがたくて、やむを得ず、嫌々ながらも再婚なさいました。しかし、盛高どのの御心は姫君にあり、朝夕は前の北の方のご供養のための経念仏に心を入れ、新しい北の方のもとへは立ち寄ることさえありません。

 こうして日数を送るうちに、姫君は十四になりました。成長なさるほどに美しく、容姿が優れて見えました。

 盛高どのはこの様子をご覧になって、乳母の明石あかしを呼んで、

「どう思うかね、今年は早、姫君も十四になると記憶している。どんな男とめあわせようかと思うのだ。これにつけても、前の北の方のことが偲ばれるが……。誰に相談すればいいだろう」

と言って、袖を顔に当ててさめざめと泣きました。乳母も同じ気持ちになって、涙を流して申しました。

「この家を継がせ給うべき人が、独り身というのはいかがなものでしょうか。祖母君に相談されれば、ご一門の中に、相応しいお方など、いらっしゃるのではありませんか」

 盛高どのもまた「なるほど」と言って、ある時、後見人の磯邊左衛門忠冬いそべさえもん ただふゆを呼んで、

「明日は思い立ったことがあって、西方の祖母君のもとへ参るぞ。そう心がけよ」と申しつけますと、「かしこまりましてございます」とて御前を立ち、やがて長持一棹ひとさおを用意して、色々なさかなを取り揃え、山と積みました。

 そうこうするうちに次の日になって出立となり、盛高どのは乳母の明石、侍女の侍従どの、乳兄弟の胡蝶の前の三人――夜昼となく姫君のお側を離れない人々――をお側近くに呼んで、

「どうかお方々よ。姫君の成人に関して相談すべきことがあって、祖母君のもとへ行ってまいる。二、三日で帰る。その間、姫君に不自由な思いをさせないように。間もなく帰るだろう」と、ねんごろに言い置いて出かけて行かれました。

 

 姫君は、この頃は一日たりとも父君の姿をご覧にならないことがなかったので、なんとも名残惜しく思われます。涙ぐむのも道理なのだと、後にこそ思い知るのですけれど。

 さてまた、人が多いですが、三人の方々のことを説明しましょう。姫君が生まれたとき、喜びは限りのないものでした。盛高どのは良い乳母をと探し出し、見つかってめでたい、嬉しいとて仰るには、「源氏物語を伝え聞くにも、明石の上こそ末も繁栄したものです。めでたい話です。あなたを明石の乳母と呼びましょう」とて、普段は明石と呼びました。また、侍従どのというのは、年齢も少し高く、心栄えはしっかりしているということで、侍女にしたところ、並々ならずに乳母と同じ気持ちで姫君を育てられました。また、胡蝶の前というのは、明石の娘です。祖母のもとで育てられていたのを、五つのときから召し寄せて、姫君のお友達としてお側を離れることもなく、一緒に遊び、共に語らっておられます。

 一方、継母である北の方は考えました。

「姫君をこのままにしておいたら、いよいよ殿は私から遠ざかっていかれることでしょう。どうにかして、この留守に始末してしまわなければ」

 そこで自分の乳母を呼んで、このことを仰いました。乳母が言うには、「それは容易いことでございます。私の従弟に武士がおりますが、頼みますれば。賢い者でございますから、誘拐させて何処へでも捨ててしまえば、何が難しいことがあるでしょうか」

 北の方は喜んで、「それでは頼みなさい」と言って、まずは姫君の三人の腹心を騙さねば、と企むのは恐ろしいことでした。いかにも親身な様子で、

「たまたま殿がお留守ですが、明日はこちらに遊びにいらっしゃいな」などと仰れば、本当だと思って喜んだのは痛ましいことです。後になって思い知ったことでした。

 そうこうするうちにあくる日になりますと、北の方はいかにも呆然としている風をして、姫君、また三人の腹心を呼んで告げることには、

「口にすれば馬鹿馬鹿しいことですが、言います。今宵、姫君の身の上に、思いの外に悪いことが起こるという夢を見ました。姫君を思うのなら、神や仏に願をもかけなさい。並大抵のことならば、このようには申さないのですが」

と仰いましたので、乳母たちは胸が打ち騒ぎ、まっさきに涙をこぼしました。「殿の留守中でございますのに、どうしましょう」と言いますと、北の方は「それは問題ありません。私が言うとおりになさりなさい。今日は姫君は私のところで預かって世話をします。安心してください」と言って、姫君の従者たちを色々脅したりすかしたりしまして、乳母は八人の侍女たち、身分の低い召使たちまでも皆打ち連れて、心ならずも出かけました。北の方は自分の乳母の妹を案内人として付き添わせましたので、わざと時間を稼ごうと、あちらこちらと連れて行くのこそは憂鬱なことでした。

 それから、姫君はねんごろにもてなされ世話をされましたけれども、心に染み入ることはなく、愉快にも思いません。生まれたときから片時も離れませんでしたので、乳母たち三人は何処まで行ったのかしらと、そればかりが心にかかって、しょんぼりと打ちしおれておられます。

 

 さて祖母君は、盛高どのの来訪を喜び、珍しく思って、積もるお話が弾みます。

「姫君が育って、容姿も美しくなりましたので、どんな者にめあわせるか相談して、私の代を譲ろうと思いまして参りました。これについては、あれの母親のことばかりが思い出されます」

 盛高どのがそう言って、互いに袖を濡らしました。

 祖母君が仰るには、

「先日、人が申したことですが、これより南の辺りに、京の中納言という立派な人がおわしますが、ご子息を数多く持っておられる中でも、三男に当たる方は、十七、八とかで、未だに独り身でいらっしゃいます。見目形・芸能・心栄えも人に優れているとのことで、これをお伝えしましょうと思っていた矢先でしたから、めでたいことですわ」とのことなので、盛高どのは嬉しく思って、「それこそ良い話です」と、大変に喜びました。

 さてさて、状況は様々であって、盛高どのは家で起こっていることは夢にも知りませんでした。これは祖母君のもとでのことです。

 

 一方、北の方はとにかく取り繕い、顔を曇らせて、声を潜めて姫君の側にすり寄って言うことには、

「このようなことを申すのは心苦しいのですが、言わねばならないことなので申します。

 あなたのお父上には、どんな悪魔が取り憑いているのでしょうか。近頃はどこかに女を持って通っていらっしゃると聞きましたが、昨日も祖母君のもとへは行かずに、女のもとへ行っておられたのですよ。

 夜には、ここへ その女を連れてこられるでしょう。あなたの住居にその女を置いて、あなたは他所にやって住まわせると決められたとのことで、迎えの者が参っておりますよ」

 姫君は正偽を判断する方法もなく、ただ泣かれるばかりでした。ややあって「せめて乳母が帰るまでは待ってください」と仰いましたが、北の方は「それまでは迎えの者が、まさか待ちはしません。早く立って、使いの者に会って訊ねなさい」と言います。

 せめて自分の住んでいた場所をもう一度見ようと、居室に帰って、目の前が暗くなり気も遠くなって、伏し転んで泣きました。それにしても、父の御心はそうであるはずはないと思われましたものの、北の方は「さっさと出てきなさい、お迎えの者が責め立てていますよ」と注意します。これを聞けば、乳母への恋しさはいや増すのでした。

 母君の愛用の御経、唐錦の守り札、黄金こがねの壷、白銀しろがねの水入、蒔絵の櫛を、刺繍をした小袋に入れて、形見として肌身離さず持ちました。これらは命と共に身に添えて持っていようと思い、涙と共に袂に入れて外に出ました。お心の中は、どんなに辛かったことでしょうか。

 北の方は、声を立てないように、と袖を引っぱって、裏口に例の男がいるところへ連れて行って、共に立ち出でて、「どうです、どうです」と仰います。このようにあれこれ量り考えたことであれば、殊の外でございます。

 北の方は「乳母が帰りましたら、後から参らせます」と慰め、「それまではお供をなさい」と男に約束させますと、姫君に練貫ねりぬきの薄小袖、上には唐紅梅に唐織物を重ねて着させました。練貫を打ち被って出て行かれる有様は、涙にむせんでおられましたが、美しくさえ見えました。

 善悪をわきまえないこの男は、姫君を背に負ぶわせて、裏門から枯野道に出て、山すそを走って自分の家に着きました。そして自分の妻に向かって言うことには、

「おい、女房よ聞け。この姫君は殿の不興をこうむって、どこへなりとも捨てろということだ。着ている衣装を剥ぎ取ってしまえ」

 これを聞いて、姫君は(なんということかしら、私には何の罪もないものを。夢か現か、何事でしょう。せめて乳母が一緒であれば、少しは落ち着いていられるでしょうに。恨めしい世の中だわ。)とて、気を失わんばかりでした。

 男の妻はあまりの痛ましさに、側に近寄って「そんなにお嘆きなさいますな。命さえあれば、いつか喜びもあるでしょう。長命な亀は蓬莱で逢う、と言うではありませんか。衣装もこのままにして差し上げたいのですが、あの夫があまりに叱りますほどに、お脱がせいたします」と申しますと、姫君が仰るには、「たとえ殺すとしても、下着は着せてください。死ぬまで恥をかかせるのでしょうか。お願いします」と泣きますと、哀れなので、「では差し上げましょう」と言い、「上にはこれをお召しください」と自分の着ている麻のひとえの着物を脱いで着せてあげ、ゆらゆらと下げていた髪の毛を巻き上げて結い、自分の髪にかけていた手ぬぐいで顔を隠し、そうはいっても人目がわずらわしいので、菅笠を被せてやりました。

 男の妻はあまりの痛ましさに、「落ち着かれる場所までお供して差し上げたいですけれど、人目をはばかることですから、思っても仕方がありません」と、袖を顔に押し当て、男に「必ず必ずお命を助けてくださいね。野の末、山の奥にでも捨てて、殺さないで帰ってください。ああ痛わしや」と言ったのは、情けが大変深いと思われます。姫君は夢のように思うばかりで、前後も分かりませんでしたので、お礼も恨み言も言いませんでした。

 男は姫君を背負って、野の陰・山の陰を行くうちに、人も通わぬ深山に分け入り、谷に分け下り、小高いところに姫君を降ろすと、

「これより奥へ行こうとも、後へは戻りなさるなよ。この山のあちらには、武士が待ち受けている。戻って後悔なさるな」

と言いましたが、姫君に何が言えるでしょうか。ただぐったりとして、うつ伏せていただけでした。

 男は薄情にも姫君を打ち捨てて、後も見ずに帰りました。そのまますぐに屋敷に参りますと、北の方は裏口へ出て来て、かの者に会って、「どうやりましたか」と問うてきます。男が「あれは山二つ越えた、姥が峰といって人も通わない山です。その奥の谷に捨ててまいりました。夜には早、獣や妖怪の餌食となりましょう。明日まで命はありますまい」と言いますので、「よくやった」とて、引出物を渡して帰らせました。

 

 さて、乳母が皆々を引き連れて帰ってみますと、ひっそりとして姫君の姿が見えません。怪しんで、どうしたことでしょうかと申しますと、北の方は泣きまねをして、「やはりそうでしたわ。私が言ったとおりに、姫君が昼頃に裏口に出たと思いましたら、消えてしまったことは驚きです。辺りを探しましたけれども、見つかりません」と言いましたので、乳母たちは皆 呆然として、

「これはそもそもどうしたことでしょう。何のために今日は出かけたのか、ひどい」とて、姫君の居室に入ってみましたけれども、甲斐はありません。

「お生まれになったときより、懐を離れられることもなく、近頃はお側を片時も離れることもなく、今日もさぞかし待っていらっしゃるだろうと、道のりさえ心苦しく、足早に帰ったのに、これは夢か現か。私はどうするべきでしょうか」と、天を仰ぎ地に伏して、嘆くことも当然でした。

 

 一方、祖母君の方では、盛高どのは様々にもてなされて、あくる日には暇乞いをして帰られました。途中で飛脚に行き会って、「何事か」と問われますと、「昨日の昼頃に、姫君が消え失せられました」と申しましたが、まるで本当だとは思われません。馬を早めて帰り着いて、中に入ってご覧になると、姫君はおられません。乳母をはじめとして、散り乱れたようになって、全員泣き伏しております。事の次第を尋ねますと、乳母は涙を抑え、昨日のことを申しました。また、北の方は対面して、嘘ばかりを取り繕って語りつつ、嘘泣きをしました。

 こんな風で、父君のお心の内が推し量られて哀れでございます。人の子が数多あまたある中で、見目形みめかたちが悪くとも別れれば悲しいものなのに、唯一人の子、見目形に優れて美しいのであれば、類なく愛おしく思っていらっしゃるのに、虚空に消え失せたと言われれば、どうしようもなく悲しくて、腹を切ろうと思われましたが、そうはいっても、後の菩提を誰が弔うのかと思われ、気を取り直して姫君を探されたのでした。

 方々へ手分けして、富士の裾野の草を分け、山々の下草の根を分けて、行かぬところもなく行方を尋ね、死骸なりとも見つけてお目にかけようとて探しましたが、いっこうに見つかりません。力なくこのことを盛高どのに申し上げますと、万策尽きて、「ならば死後の弔いをせよ」とて、ご供養は色々行いました。

「それにしても、姫君が限りある命であったならば、せめて目の前でどうにかなるのなら、これほどに思い悩みはしないのに」と、盛高どのの嘆きの色は濃くなるのでした。

 乳母も、ようやく気がしっかりしてきて申しますには、「姫君と火の中・水の底までもお供できましたら、これほどは辛くはないでしょう。不幸な身を嘆きながら生きるより、水の底までも訪ねてまいりたい」などと、悶え苛立って申しますれば、他の者の袂も涙で萎れるのでした。

 ここで、後見人の磯邊左衛門の妻が乳母の袖を引いて、人気の無い方へ連れて行き、密かに語られる様子。

「水の底へ入られましても、どうして姫君に会うことができるでしょうか。まず、確かな巫女がおりますので、これに会って、姫君のお命の有るか無いかをはっきりと訊かれて、その後で心を定めなさいませ。私が紹介いたしましょう。人に漏らしてはダメですよ」

 と、忍びやかに申されました。まぁ嬉しくて、巫女へのお礼に姫君の衣装のまっさらなもの、小袖を一襲ひとかさね持たせつつ、他の人には、「あまり思い悩むのも苦しいですから、仏に詣で、御菩提について考えます」とて、忍び出て、後見人の住居へ入られました。後見人の妻は心得て乳母を連れて巫女の方に行って、物を尋ねます。「占う相手のことを詳しく話してください」と巫女が言うので、お年のことをはじめとして、生まれたときのこと、また、夢のこと、梅の花を賜って生まれた子なので花世の姫と名づけられたことを、一々語られました。巫女は承知して、占いの文書を沢山取り出し、よく吟味し占って申しますには、

「これはめでたい御占で、末喜びと出ております。

 まず、梅を夢にご覧になったこと、めでたき瑞相でお生まれになった御子です。梅の花というのは、他の花よりも香りの強いものですから、全ての花に勝って人々が好むものです。華々しく散って、後に実となって無駄にもならないことから、賑わい栄えることに通じます。お命もそうであるに相違ありません。

 今は思い悩んでおいででも、年明けの初春には梅の花が咲きます。同様に、あなたは心を強く持ってください。初秋の頃には、必ず思う人に逢って、喜ぶことでしょう。

 その方が、今は辛い状況にあり、葛の下に埋もれていらっしゃいましょうとも、春風が吹き払えば、上のごみは散り果てて、宝玉が下から現れて、光が生ずるものです。ただ気長にお待ちなさい。

 初秋の頃までは音沙汰もないないでしょう。ただ気長に待つことです。

 この次第に間違いはありません。もし間違いましたら、明王の占いも廃れることでしょう。お心安く思し召せ」

 乳母は大変嬉しく思いました。そして小袖を取り出して渡そうとしますと、「いやいや、これは当たった後で賜りましょう」と申して返しましたけれども、「姫君が帰られた後には褒賞があるでしょう。これは今のお布施です」とて出しますと、それならば、と納めました。

 乳母は嬉しく心強く思って、まず盛高どのが籠もっている所へ行って、お側近くにすり寄り、このことをよくよく物語りますと、少し心が晴れる気がしましたが、そうであっても何処に、たとえ命はあってもどんな辛い目に遭っているのだろうかと心配するのが気の毒でございます。それにしてもこれほどに親子の縁の無い子を授けたのか。これほどに悩ませるのだろうかと、半ば観世音をも恨み、もしも命永らえているのなら、無事な姿を今一度見せてくれたまえと念じられて、再び枕を引き寄せて寄りかかりますと、まどろみの中の夢で、観世音の前にて拝まれれば、前に短冊が一つありました。取ってご覧になれば、歌です。その歌に

ただョめ 春は車の輪のうちに めぐり逢ふよの水は盡きせじ

(ただ頼りにして待て。"春"は車輪の中を廻る水のように尽きず、巡ってくる。)

 と、このようにありました。めでたくも頼もしくも思われて、いよいよ願をかけました。それでは神仏へ願おうとて、皆で心を合わせ、願掛けは数々されました。人は姫君の弔いかと思いました。

 このようにして盛高どのは、今の北の方のもとへは――初めは無理をして折々に立ち寄っておられましたが――今はもはや、万事がひどく冷たいばかりで少しも目さえやらないので、北の方は愚痴だけで暮らしております。

 

 それはさておいて。姫君は山に捨てられて、何処とも知れぬ山中にただ一人、誰を頼りにすればいいのでしょうか。初めは気を失っておられましたが、暫くして正気づいてご覧になりますと、日は早くも沈む頃なので、どちらの方も暗くて見えません。頃は九月半ばであれば、山は霧が深く、風も激しくて、心細さは限りないのでした。

「どんな罪の報いで、こんな身の上になるのでしょう。恨めしい世の中だわ。ああ、父上が恋しい。この山には獣や妖怪がいるでしょう。餌食になってしまうのは悲しいわ」

と、悲しみに暮れた心でおられます。心を鎮めて、「どうせ死ぬだろう身だとしても、獣や妖怪の餌食にならないうちに命を取りたまえ。母上は私の身がこのようになることを知っておられたのでしょうか。恨めしい最期だわ。この山の神も哀れと思し召して、私を助けたまえ。罪の無い身なのですよ」とて、一首歌を詠みました。

千早振ちはやぶる ~も哀れをかけ給へ 知らぬ山路にまどふ我が身を

(神よ、哀れをかけてください。見知らぬ山路で迷っている私の身に)

 このように詠まれて、また、お経を唱えられて、

「南無や大慈大悲の観世音。願わくば私を助けたまいて、今一度恋しい人に逢わせたまえ」と仏に祈って、目を上げ、辺りをご覧になりますと、山の峰には月の光がさしていますが、この辺りはまだ暗いのでした。何処とも分からぬ山中に、ただ一人でおられますお心のうちは、恐ろしさが限りありません。

 谷の方を見やりますと、焚火の光が見えましたので、何かが住んでいる所であればこそ、それが見えるのだろう。行って訪ねてみようと思って、泣く泣く立たれて、その火を頼りにして、どこに行くのかも分からない山道を分け潜って辿って行かれるうちに、小笹の原に出ますと、袖も裾も濡れてベッタリとして、涙も滴り落ちるしずくも争うようで、目の前は暗く気も遠くなるばかりでした。

 火のある方をご覧になれば、人の家ではなく穴のようで、その中に、人とも見えぬ姿のものが火を焚いている様子が見えました。恐ろしい姿で、身の毛はよだち、魂も抜けそうです。けれども、逃げるところもありません。立ちすくんでおりました。

 岩屋の中から しわがれた声で、「そこに立っているのは何者だい。こっちへ来なさい」と呼ばわりました。この時の姫君のお心は言い表すことが出来ません。到底逃れられることではないので中に入ろう、と思って入ってご覧になりますと、中にいた者は、顔は角盆のよう、眼窩は窪んで眼球が飛び出し、口は大きく裂け、牙が鼻の脇まで伸び、鼻は鳥のくちばしのように尖っており、額に皺が寄り、頭は鉢を被ったかのよう。見るに耐えず、恐ろしさに倒れ伏しますと、この姥は姫君をつくづくと見て言いました。

「お前は人間だね。ここに来て火にあたりなされ。昔物語を聞かせてやろうぞ。濡れたのなら、体を乾かすがいい」

 優しい言葉に気を取り直し、姫君は火の側にこわごわ近付き、濡れた裾を乾かしました。その後、この姥は話を始めました。

「ああ可哀想に、あなたは果報の人であるが、思いもよらず、このように迷われたのだね」とて、涙をはらはらとこぼします。鬼の目にも涙とは、このような事を申し伝えたのでしょう。姥が語りますには、

「これ、聞きなさい。この姥は、元は人間だったのだが、あまりに長生きして子供も亡くなって後、ひ孫に養われたけれども、私を憎んで家の中に置いてくれないので、山を家として木の実を拾って食事とした。

 山で日々を送るうちに、ある時、あの峰から男がやって来て、私をたいそう愛した。普段はあの富士の嶽から通ってくるが、この岩屋に私を誘って住まわせ、昼には来て薪を折って岩屋の口に積み置き、夜はこの姥がそれで火を焚いてあたるのだよ。

 私には、今も仏の悟りを知らない無知蒙昧な心が現れるので、慈悲の心を持とうとしているのだ」

 そう姥が語りますと、それではここは鬼の通うところなのだと、なお恐ろしさは増しました。姥が言いました。

「近頃は頭が痒いのだ。虫を殺しておくれ」

 何事だろうかと肝を潰しますと、姥が鉄の火箸を使っていましたが、いかにも赤く焼いて、「これで虫を押さえるのだよ」と申します。見れば、髪の毛は赤い赤熊しゃぐまのようで、その間に角のようなこぶが十四、五ほどあります。それを取り巻いている小さな蛇のような虫たちに、火箸を押し当て押し当てしますと、ころりころりと落ちました。姥は喜んで拾って食べて「あら美味しい」と言います。恐ろしいことですが、この岩屋で一夜を明かしました。

 間もなく夜が明けますと、姥が申してきたことには、

「頭の虫を落としてもらって嬉しかったよ。あなたは果報の人だけれど、人の憎みがあればこそ、このように心労された。最後には良いことがあるべきだろう。

 ここに来て働いてくれたのが嬉しいから、小袋を一つあげよう。結婚する男が定まったなら、開けてみなさい」

とて、小さな袋をくれました。また、

「暫く物を食べていないようだね。これは富士大菩薩の花米はなよねだよ。これを食べれば、二十日は物を食べないでも体に力がつく」と、三粒くれました。食べまい、と思ったのですが、逆らい難くて食べました。

 その後で姥が申したことには、「今、帰したいのだが、私の夫の鬼が来るよ。会えばつかまるだろう。姥が隠してやろう。隠れなさい」とて、岩屋の奥の穴に姫君を押し入れました。生きた心地も無く、涙にくれました。そして鬼風が吹いて、鬼が来て岩屋の中を覗きますと、目の光が稲妻のようです。鬼が「なまぐさいぞ」と言いますと、姥が答えます。

「最近谷へ捨てた首の匂いだよ。風が吹いて匂うのさ」

 すると、鬼神に横道なしと言いますが、笑って帰りました。

 その後、姫君を穴から出して姥が申すことには、

「そのままの姿で帰れば、どんな者も怪しむだろう。私が脱ぎ捨てた皮を着せてあげよう。夏のあまりの暑さに脱いだのだよ。この姥衣うばぎぬを着なさい。あの峰を登り越えると、南の方から川の流れがあるが、川下へは行ってはならない。川上に行って、行く手に煙が立ち昇ったら、そこへ行けば人里へ着くだろう。そこで人が声をかけたら、そこに留まりなさい」

とて、山中まで送って道を教えてくれたので、教えられたとおりに歩いていくうちに、本当に彼方に煙が立っているのが見えました。それにしても嬉しいこと、人里に戻れたことが不思議なくらいです。鬼の餌食にならずに命が助かったことは、なんとありがたいのでしょう。

 行くあてもないのでどうしようとは思いますが、そのままでいるべきではありませんので、たどたどと行くうちに、早くも人里に入りました。そこで姥が教えてくれたことがあったのを確かに思い出します。米の研ぎ汁の流れに付いて行くべし、というので、尋ね調べて行きまして、中納言どのの屋敷の裏の小門に着いてご覧になれば、屋根つきの門は立派で賑わっていて、これにつけても、父君の住んでおられる家もここには劣るでしょうか、恨めしい世の中だわ、と考え続けながら立ち止まっておりますと、女の人が一人出て来て、姥衣を着た姫君をつくづくと眺めて申しました。

「このお婆さんは何処から来たのでしょうか。私のところに来て、火焚きの仕事をなさいな」

 そのような仕事をしたことはないものを、と心の中で思われましたが、何処へ行くべきかも知りませんので、溢れる涙を袖で抑えました。

 この女の人は秋野といい、優しい心の持ち主で、「まずはこちらへ入りなさい。可哀想に」と自分の住処に連れて行って いたわりまして、その夜に

「この屋敷の主人は中納言どのと申して、立派なお方でございます。私はお屋敷の中で働いて、手や顔を洗うためのお湯を沸かしておりますが、あまりに忙しいので、この釜の火を焚いてください。頼みたいのです」

と申したのでした。姫君は親切な人を頼みにしようと思われ、

「ご期待通りに出来るか分かりませんが、焚いてみましょう」と仰いました。

「それならよかったわ。私が水を注ぎますから、火だけ焚いてください。

 可哀想に、どういう人なのだろう。弱々しげに見えるお婆さんだわ」

 秋野は親身に応対し、お湯を沸かす手水釜の脇に寝床をこしらえてくれました。朝は暗いうちから起きて釜の火を焚くのは痛ましい事です。とはいえ、屋敷の奥で人の出入りもなく、火を焚くだけの仕事ですので、さして苦労はないのでしたが、慣れぬことなので、涙は尽きないのでした。

 

 こうしてその年も暮れ、程なく新年になりますと、新年の遊びは様々に行われ、人々は華やいでおりましたけれど、姫君は(私もこのような身の上でなければ、こんな有様ではないでしょうに。)と心の中で思うにつけ、人知れず涙を流すのでした。

 今日は、早くも正月十五日ということで、中納言どののお屋敷では家族の祝宴が始まり、思い思いの薫香をたきしめて、両親の前に三人息子が並んで、お香も香炉も違っていて面白く思われました。盃も来て、酒盛りも終わって、若君たちは両親の前を立ち、それぞれの館へ帰りましたけれども、末息子の宰相どのは、なんとなく物足りない気がして、寝室にも入らずに横笛を吹いて月を眺め、春の夜はおぼろげで趣があるな、などと眺め佇んでおりました。

 人が寝静まった頃、あちらこちらを歩いておりますうちに、見やれば、遥か奥に、灯火がかすかに見えました。怪しいなと思われて、足音を潜めてこっそり見ますと、粗末になにやら取り巻いている中に油火がかすかに見えます。なんだろうと思って近付き、覗いてごらんになりますと、高貴な女の人――年の頃は十四、五歳に見えます――が、長い髪を蒔絵の櫛で梳いておりました。

 顔の美しさ、目元は気高く、愛らしさも洗練されていて、絵に描こうとも筆がどうして及ぶでしょうか。何処に難点をつけるべきでしょう。玉を磨いたに違いありません。

 どうせ辛い世の中に住むならば、このような人と親しくなってこそ、一生の思い出にもなるだろうに。このようなところに何故こんな人がいるのか、不思議だ。このまま中に入ってよく見よう、と思ったのですが、気を変えて、どう見てもまさか人ではあるまい。私をたぶらかそうとする変化のモノであろう。今は帰って、明日の夜には正体を見破ろう、と思いました。とはいえ胸が締め付けられ、離れがたく思って、後ろ髪を引かれるばかりで、己に強いて帰りました。

 寝室に入りましたが、その面影が体から離れない気がして、目を閉じることも出来ません。ここの所、どれほどか多くの女性を見たけれど、あれほどの人は見なかった。心に残る人もいなかった。ちょっと見てからというもの、想いが果てる様子も無い。たとえ魔縁の者であろうとも、一夜の情けをかけてもらえるのなら、命を捨てても惜しくはない、と思います。

 あくる日になると、夜になるのをただ待っておられます。やがて日が暮れますと、悩みましたが、側近の松若丸――松若を呼ばれて、「どうでもお前に言うべきことがある。話を漏らすか」と仰いました。松若がかしこまって申しますには「どんなことでございましょうとも、主の仰ること、何故に漏らすでしょうか」とて、様々な神にかけて誓いましたので、ならば言おうとて話しました。

「夜は人と逢うことがあって、他所に行くから、いつものようにここにいて待つように」

「それは心得ました。しかし、供も無しというのはいかがかと」

「心配ない」

 若君はそう言って、人が寝静まるのを待ちました。人々が昼の疲れであちらこちらに寝転んで皆眠ってしまうと、密かに忍び出て例の場所に行ってご覧になりますと、かすかな灯火のもとで、金泥こんでいのお経に水晶の数珠を添えて、観音経を唱えて、その後 提婆品だいばぼんを読み、

「南無や大慈大悲の観世音、このお経の功力くりきによって、父上をお守りし、今一度変わらぬお姿を見せてくださいませ。提婆品は、このお経の功力によって、冥土におられる母上を成仏得脱させたまえ」

と、回向えこうされて、袖を顔に押し当てて、一首詠われました。

人知れず 涙の掛かる我が袖を 干す暇もなき春に逢ふかな

(人知れず涙で濡れている私の袖を乾かす間もなく、春が来てしまいました。)

 このように詠まれて、側の衝立に寄りかかって目を閉じられますと、若君はよい機会だと思って、中に忍び入って、お側に近寄りました。姫君は昔懐かしい香りがさっとしたのを不思議に思って目を開いてご覧になれば、貴く美しい男の人がおわします。これはどうしましょう、ひどいわ、と呆然として、灯火を消して姿を隠されました。

 若君が仰いますには、「あまりに騒がないでください。私はあなたに縁があったからこそ参ったのですよ」とて、慕わしげになさいますと、姫君はとても恥ずかしく恐ろしく思われて、涙をはらはらとこぼし、うつむいておられるお姿は、露を含んだ糸萩か、春の青柳に糸のような芽が生えて、風になびくかのようでした。引き寄せて、折るに折られぬ風情があって、趣深く見えました。

 若君が仰るには、「どう思われましても、前世の縁があればこそ。思いも寄らない時、昨夜のことですが、あなたを垣間見て以来、恋の想いが胸に満ち、忘れることがありませんでした。ですから、今日の日を待ち暮らし、日暮れ後からここに立ち忍んで、お経を誦まれたのも よくよく聴いておりました。回向の言葉までも知っております。由緒ある方の子であられるのですね。とりわけ、口ずさまれた歌は、言の葉の草の露まで聴きましたよ。私がご返歌いたしましょう。たとえ涙で袖が濡れようとも、私が干してさしあげましょう」とて、このように返歌をされました。

さのみただ 涙に濡るる君が袖 春の陽影ひかげに干さざらめやは

(そのように、ただ涙に濡れる君の袖を、春の日の光で乾かさずにはいられないとも。)

 けれども、姫君は恥ずかしげな様子で、ものは尚更言わず、涙ばかりをこぼされるのでした。若君はこれをご覧になって、「あぁ警戒しているようですね。こちらから名乗り聞かせましょう。この家の主を誰だと思われますか。元は都の者で、内裏禁中に仕えていましたが、都に住むに憂うことがあって、今は縁あったこの国に住んでおります、中納言忠房という者です。私は、その末の子の宰相という者です。鬼神ではありません。想いを受け入れて下さい」と仰いました。

 姫君はあまりに言葉を返さないのも冷酷かと思って仰いました。

「それは本当にそうなのでしょうが。私は、言うまでもなく貧しく賤しい身でございます。この有様でどうして受け入れられるでしょうか。お恥ずかしいことですわ。もしもお忘れいただけないなら、何度お立ち寄りになられようとも、帰ってくださいませ」

 とて、打ち萎れておられます。若君はご覧になって、

「あぁ何と仰いましょうとも、聞くわけにはいきません。お心に任せて、いつまでも恋に悩んでいましょう、ただただ」と仰って、小袖を一枚脱いで敷物にして、一緒に添い寝をなさいました。

 姫君も草木ならぬ身、拒絶も本意でないことであれば、情けに引かれるのが世の習い。強い心も弱り果て、逢瀬の仲となりました。

 若君の嬉しさはたとえようもありません。千の夜ほどにこの夜が長く続けばいいと思われましたけれども、春の夜の習いとて夜はすぐに明け、鶏の声もしきりに聞こえますので、人目をはばかることであれば、後朝きぬぎぬの袖を交換して、若君は帰られ、姫君はまた釜の火を焚きました。秋野が来てお湯を運んで行きますと、昨夜のことは誰も知らないことですが面映く悲しくて、火を消して引きこもって横になりました。秋野は、

「可哀想に、お婆さんは胸の病気ですよ。養生してください。夜は私が火を焚きましょうね」

と心配して言いました。姫君は心の中では、またも思い悩んでおられました。

(哀れ、まことに女の身ほど恨めしいものはないわ。男は一夜枕を並べるために一生を誓うと聞いていたというのに。また来て下さるかも分からない。こうしてこのことが人に知られれば、どんな憂き目に遭うことでしょう。ただ、淵瀬に身投げしよう。)

 それでも、その日も暮れますと、再び若君がやって来ました。そのまま四、五日は日を置かずに通われ、後の世を固く誓われたのです。

 その後、若君は(このままここに通っていて、もし人に怪しまれたらまずいだろう。乳母の屋敷に住まわせて、気楽に通おう。)と思われて、手紙を書いて例の松若に持たせて遣わしました。乳母は受け取って手紙を開いて読みますと、「思いも寄らぬ所で人を拾いました。宿を貸して下さい。そのようにして下さるなら、この夕方に連れて行きます。くれぐれも」と書いてあります。どんな人でしょう、これは思いがけなかったとて、松若にどうなんですかと尋ねましたが、露ほども知らないと申します。

 たとえどんな仰せであろうとも、背くべきことではないので、返事をしたためて持って行かせました。若君はご覧になって喜ばれ、日が暮れますと例の場所に行って、

「私の乳母と打ち合わせました。さあ安心しておいでなさい」と仰いますと、こうなったらとにかく仰せのままに、とて出発されました。例の姥衣を厳重に包んで、「これは手放せないものです」と言って持ちますと、「分かりました」とて、若君がそれを持って姫君の手を引き、まずは自分の住居に入れて、出発しました。若君の着替えの小袖がいくらもありますので、選んで着せて、若君も小袖を着替えて、女の姿で二人並んで、松若に太刀を持たせて先を行かせ、自分は後に付いていったのは見事なものでした。

 こうして乳母は昼から娘のちよいと相談して、「今回その方を住まわせるところは見苦しくはありますが、何も心配は要りませんよ」と、長押なげしの塵を払い、畳を敷き替え、整えて、夜に一行が来るというので灯火を立て、内々に待ち、お迎えに出て待っておりますと、松若が案内してまいりましたので、出で会いまして、奥へ招き入れて、ちよいがお世話をし、座敷へじかに入れました。その後乳母も参りますと、若君はご機嫌よさそうに「気に入らないかもしれないが、客人があるのだから頼むよ。ちよいもよく仕えてくれ」とて、姫君と仲睦まじげに見えます。

 どんなものでしょう、ご両親にも報せておられぬものを、と思いますが、よくよく見れば、姫君は美しく気高く、絵に描こうにも筆が及ばないように思えます。若君が思いを寄せるのも無理からぬと思うのでした。盃を運ばせて、千秋万歳とお祝いを申しあげました。

 若君は、その後は夜な夜な姫君のもとに通われ、いよいよ類なく愛しく思われましたので、どうしておろそかに扱えるでしょうか。姫君も安堵なさいましたが、父君や乳母への恋しさばかりが心にかかるのでした。

 他方、屋敷では、次の朝 秋野が来て見ますと、未だに火が焚いてありません。不思議に思って部屋に入って見ましたが、姿が見当たりません。

「さて、あのお婆さんは何処へ行ったのでしょう。可哀想に」と言いました。

 また、しゃもじを取る飯炊きは、「あのお婆さんは、冬の間 秋野を助けるために、仏が来ておられたのかもね。人ではまさかあるまいよ。お椀からご飯が減ることがなかった。中にちょっとずつ穴を開けて。いつも精進といっては魚も食べなかったよ。大体、物を食べている姿を人が見たことがない。虚空に消えうせてしまったのは、世の不思議というものだよ」と申しました。それこそ道理です。鉄の壷に少しご飯を取って、お命をつないでおられたのです。

 

 それはさておいて。ある時、若君たちが母君の前で酒盛りをされたとき、いずれも芸能を様々に披露し尽くされました。中でも宰相どのの様子が優れて見えましたので、母君はいとおしく思われて、嫁にはどんな美しい人がいいかしら、この子に親しく逢わせようと、思案される心の内が、儚い親心というものでございます。

 さてまた、若君は昼でも時々は姫君に逢いに行かれましたが、乳母の屋敷でしたので、人が不審に思うこともありません。ある時、外から美しい梅の枝が若君に届けられますと、これを姫君に見せよう、と思われましたが、人目をはばかることなので、思うままにはしないで、梅を盛って薄紙で包み、上に一首書きました。

戀しさを 包みてぞやる梅の花 にほひめよ君が袂に

(恋しさを包んで送る梅の花、私の想いを込めた香りを残しておくれ、あなたの袖の中に)

 このように書いたものを松若に持たせて、人目を忍んで持って行かせますと、ちよいが受け取って姫君に渡しまして、ご覧になって、恥ずかしげに顔を背けておられます。ちよいも拝見して、「ありがたいお心ですわ。お返事をお書きくださいませ」とて、硯と紙を取り添えて、早く早くと催促しますと、逆らいがたく思って、筆を取り上げ、ようやく書きました。

梅の花 取りて心の色香まで なほ恥づかしき春の今日けふかな

(梅の花と共に心の色香まで贈って来られるとは、いっそうご立派過ぎる春の今日ですわ)

 こう書いて紙を置きますと、ちよいが取り上げて引き結んで、ご返歌として松若に渡しました。松若が帰って若君に渡しますと、受け取ってご覧になって、美しい筆跡を類ないものだと思われて、いよいよ恋情が増すのでした。また、日が暮れれば乳母の屋敷に入って、「今日の梅の花のご返歌、あなたのお心の程を感じ入りましたよ」などとからかって、乳母にかくかくしかじかと仰いますと、「あらいいですわね、私たちも文章を書きましょう」とて、

梅の花 八重紅梅こうばいの色添へて 變らぬ春ぞ千代を經ぬべし

(様々で華やかな梅の花、その花の咲く春が永遠に続きますように。)

と、このように詠まれました。その後で打ち解けて、盃を運ばせて ちよいがお酌をし、「では一首付けて詠みなさい」とて、「それそれ」とせきたてますと、「何を申しましょう」と顔を赤らめます。せきたてますうちに、このように詠みました。

梅の花 色添ふ春の今日けふ毎に 千代ちよ萬代よろづよの影ぞ久しき

(梅の花の色が深まる春の今日は皆、永遠の姿が見えて久しいですわ。)

 いよいよ縁が深まって、夫婦の誓いもめでたくなりましたが、両親に報せておりませんので、後でどうなるだろうと、これが心の関となりましたけれども、乳母・ちよい・松若も同じ心で、人に話を漏らしたりすることはありませんでしたので、誰にも知られることはありませんでした。

 かくて、人知れず夜な夜な通われて、親しく思われているうちに、どんな妨害があろうとも変わる仲には見えなくなりました。これを母君は夢にも知りませんでしたので、朝に夕に末の若君のことがお心にかかっておられるうちに、ある時、若君の姿を見送って、

「これ、乳母よ聞きなさい。あの宰相の君は成人しましたね。近頃はすっかり大人びて見えますよ。迷っておりましたが、あまりに遅くなりました。相応しい姫君と婚約させようと思うのです」

と仰ったので、乳母は承って、(では若君がどうしようもなく想っておられる方は、どうすればいいのでしょう)と思って、顔を紅葉のように赤くしました。その後で若君に会って、このことを申し上げますと、

「親の言うことを聞くのも、話によるぞ。想う人と別れ、見たこともない人と結婚するのでは、生きる甲斐もないものを。それでも結婚しろと仰せならば、足に任せて何処へでも行ってしまおう。想う人を捨てるものか。このことを申し伝えてくれ」

と、頑として仰います。これを承り、乳母は「若君は何を申そうとも、あの姫君を捨てる様子がない。離れがたく想っているお仲を、どうして引き裂けるでしょう」と、痛ましく思って、後で母君に何かのついでに、

「この頃、小耳に挟んだことですが、若君には他所に通うお方がおられるご様子、疑わしいことですが」と申しますと、母君はそれを聞かれて

「浅ましい! それはどんな者でしょうか。いくらなんでも非道なこと。親が子について計らわぬことがあるべきではないと思いますが、誰が仲介したのでしょう。松若が知らないことがあるでしょうか。何故問わないのです」と仰いますので、

「いえ違います、松若も知らないと申しておりました。深く隠れておりますので、きっと誰かが仲介したのでしょう」と申しますと、

「素晴らしく良い方をと迷っていた甲斐もありません。どんな者なのでしょう」と後悔されるのも、親の道理だと申せましょう。

 そんな中、母君のお局(個室を与えられている上位の女官)、年は六十ばかりの人なのですが、彼女が進み出て、

「昔も今も似たような例はあります。嫁比べをされたらいかがでしょう。その時こそ、つまらない女であれば、恥ずかしく思ってお捨てになるでしょう」と申されましたので、もっともだとて、かしずく侍女たちを使いに立てて、

「母上様が仰るには、お庭の梅の盛りが過ぎましたので、明日は花見をいたします。どなたもお嫁御のお出でがありますので、宰相どののお方も連れてきてください。比べますとの仰せでございます」

と申しますと、若君の返事は

「貧しく身分の低い女ですが、重要な仰せですから、連れて行きましょう」と、気後れすることのないものでした。

 使いの侍女たちはこのことを母君に伝え、前を下がると、「あの若君は尋常じゃないわ。恥も知らないのだから。あのように鉄面皮なお人だとは思わなかった」などと囁き合いました。母君もどうしたものかと覚束なく思われるのでした。

 さて、日も暮れますと、若君は乳母の屋敷に入られて、このことを物語りました。姫君はこれを聞いて、

「恨めしい仰せですわ。私は元より覚悟していたことなのですから、何処へなりとも迷い出て行きます。ただ、母君の仰せの通りにしてください」と仰います。若君はこれを聞き、

「あなたが出て行かれたなら、どこの海・淵瀬の底までも付いて行きますよ。いつまでこのように私たちの仲を隠しているのです。これからは、世間に広く披露して連れ添いましょう。装束のことなら、妹の姫に頼みましょう」と言って、「乳母よ、頼むぞ」と言いますと、乳母は承知して、

「そうまでする必要はございません。ちよいの結婚のために、装束は用意して持っておりますから、この度の役には立つでしょう。安心してくださいませ」と申しますと、喜びは大変なものでした。姫君の容姿も、誰に劣ることがあるだろうかと、乳母も嬉しく思って、夜が明けると行水などさせ、眉をぼかして作って、美しくしました。

 それはそうと、姫君が思い出されたのは、山姥の教えです。夫婦の縁が定まりそうな時、この小袋を開けて見よ、と言っていたことがありました。開けてみましょうと思って、屏風の陰に立ち隠れ、あの小袋を開けますと、五色の玉が出て、この玉が目の前で変化しました。金銀、綾、錦繍の類、唐織物、侍女の装束、付け毛、掛け帯、男の道具、太刀、刀まで色々様々数を尽くして、山のように出ています。不思議に思って、乳母を呼んで、「これを見てください」と仰いますと、乳母も本当に目をみはるばかりでした。

「これはどういうことですか」

「観音さまへの誓願のご利益ですわ」

 姫君がそう言うと、「それはめでたい誓願ですわ。あなたは観世音の申し子であられましたか。今日の出席はいよいよおめでたいですわ」とて、身支度させました。唐綾、唐織物、くれないの袴まで足りないものはなく、長い付け毛をゆらゆらと垂らしまして、花のような出で立ちをなさいますと、美しいお姿だ、誰に劣るだろうかと、嬉しさは限りありません。

 こんなところで使いが来ました。

「なんて遅いお出でですか。早く出しなさい。何処にいらっしゃるのでしょうか」と申します。

「ならば、お迎えの輿をよこして下さい」と申しますと、人々は囁いて、「何者を乗せようとして、このように乳母が言うのだろう。滑稽なことだ」などと言います。そうはいっても若君のためであれば、輿を参らせよとて、乳母の屋敷に御輿を担ぎ寄せました。はっきり姿を見せないまま輿に乗せて、ご殿の中に担ぎ入れました。乳母もちよいもお供しました。

 若君の兄達はこっそりそこに居て、輿から出るところを見て笑おうと企んで、様子をご覧になっていました。ところが、乳母とちよいの手伝いで姫君を輿から下ろし、立出でさせたお姿は、まことに絵に描こうとも筆が及びがたい。兄達は笑うことを忘れ、目と目を見合わせて、このような人が何処から出てきたのだろうと囁いて、立ち帰られたのでした。

 さてさて、お座敷には思い思いの出で立ちで人々が集まり、兄達の嫁、妹の姫も、我劣らじと居並んでおられるところへ、とばりを開けて姫君を入らせますと、皆呆然として、まったく天人の降臨かと思うばかりで、言葉もありません。中納言どのも母君の北の方も、予想外のことだと思われました。あまりの嬉しさに、北の方は席を立たれて姫君の手を引き、上座にすぐに座らせて、心から大切にされたのでございました。

 姫君は、お年の頃は十四、五ばかりで、玉を磨いたお顔は惚れ惚れするようで、目元は気高く、愛らしさも気品があって、髪の毛の垂れ具合もたおやかで、柳の垂れ枝を春風がかす様子に似て、どこにも難をつけるところがありません。このような人だと誰が知っていたでしょう。あまりの不思議さに、乳母を近くに呼んで尋ねましたけれども、「全く私たちは知らないのでございます。若君に尋ねますと、ただ、拾ったとだけ仰います」と申しますので、「さては本当に天下った天人ということもあるかもしれない。この世の人とは見えません」とて、喜びに限りはありません。

 さて、盃が運ばれてお酒も三こん過ぎた後、もてなしも様々で、珍しいお香を取り出して香炉を回しましたが、今日のお客人とて、姫君の前に香炉を置きました。そこで姫君はしずしずと手を掛けまして後、袂から取り出した金銀に彩色した香箱に、お香をカラカラと入れて、香盆になんとなく置きますと、中納言どのはご覧になって、「それをこちらへ」と仰います。御前に持って行きました。取ってご覧になりますと、天の羽衣という名香です。その名の由来を、天人が好む香なので雲の上までも香り立つから、とするものです。おやまあ珍しいなとて、砕いて香炉で一焚きいたしますと、まことに趣き深い独特の香りが漂って、人々の迷いの罪も消えるばかりで、天人がどうして来臨しないのでしょうと、感じない人はいませんでした。

 人々は興味を感じて、宰相の君はどんな果報・奇特な人であられるのでしょうか、このような天人を、どこで拾われたのでしょうと、不思議な思いに駆られました。

 その日も暮れて、盃も片付けられて、人々は皆、帰りました。粗末なところにどうして住まわせられるだろうかとて、普段、中納言どのの娯楽用にと殿中に作ってあるお座敷があるのですが、ここに入居させなさいとて、侍女たち多数、女中や下男に至るまで、数々を添えて差し上げ、大変に敬いかしずきました。そうして若君のお心のままに連れ添わせたのでございます。

 北の方も、姫君が会いに来なければ顔が見たいと思いました。いとおしく思われて、常に出入りされました。また、姫君をはじめとして嫁たちを連れてこさせて、気晴らしのためにとて部屋に入らせます。色々な遊びがありますが、読み書きすることも、琵琶、琴の秘曲まで、姫君が優ることはあっても劣ることはないのでした。

 また、吉日を選んで二人の新居の建造を行い、数多の優れた職人を集めますと、程なく完成しました。引越しだというので、様々なお祝いがあります。中納言どのからも倉を二つ、家の慶事だとて贈られました。宝の倉と米の倉です。おめでたい例だとて、羨まない人はありません。

 

 このようにして、お心のままに連れ添われて、比翼連理の契りは余すところがなく、何の不足もないのでしたけれども、姫君のお心には、父君や乳母への恋しさ、また、慣れ親しんだ使用人たちがこのようにここにいればと、これだけが心にかかって、朝夕に袖が濡れることが絶えないのでした。

 そうこうするうちに、春は花に戯れ、青葉に混じる遅咲きの桜、名残惜しい春の日々も過ぎ去りますと、卯の花月の夏が来まして、扇の風も涼しく、冷たい泉をすくって慰む夏の日々も過ぎ去りまして、早や、初秋の頃になりますと、今日はもう七月七日・七夕の祭とて、星への供え物は様々です。宰相の君も歌を詠まれて、七夕に供えさせまして、筆のついでに戯れの歌を書き、「これを御覧なさい」とて、姫君の膝の上に置きました。姫君がご覧になりますと、

秋待ちて 今日七夕たなばたの喜びも 我初秋はつあきの嬉しさぞ揩キ

(今日の七夕への喜びは、秋を待っていた私にとって、嬉しさを増すものです。)

 このように詠んでおられましたので、同意して素敵だと思われます。また、筆に墨をつけて、「一首詠んでください」とせき立てられまして、断り難くて、

七夕の 逢ふ初秋と聞くからに いとど露けき我が袂かな

(牽牛と織女が逢う初秋と聞けば、いっそう涙で湿っぽい私の袂ですわ。)

と書いて、袖を顔に押し当てますと、宰相どのはご覧になって、

「さてはあなたは、忘れがたい夫でも持っていて恋しく思っておられるのですか」と仰いますと、姫君は「正気ですか、親子の情愛は何ものにも劣らないものですわ」と仰いますのを若君は聞きました。

「それほど恋しい親を持っているなら、名前を聞かせてください。たとえ蝦夷ヶ島、どんな所であろうとも、何故に尋ね探させないことがあるでしょうか。水臭いことです」と仰いますと、姫君ももはや包み隠すことが出来かね、

「特に隠すべきことではありませんが、差し障りが多くありますので申さなかったのです。

 私の父は、富士の裾野の山里に住む、豊後守盛高でございます。私一人を子に持って、世に比べるものがないとて いとおしんで下さいましたが、母上は私が九つになった春の頃、亡くなりました。父は後を追いたがるほどに嘆きましたが、私を思うが故に、嘆きながらも月日が経ちました。三年の春も過ぎれば、親族の人々、親しい方の計らいで、しかるべき人と再婚の取り決めをして家に入らせたのですが、父のお心は母上の菩提を弔うことにのみ、朝に夕に気を入れており、そのお方のもとへはそのまま立ち寄られませんでしたので、私がいるせいだとて、いつも憎んでいたのですが、知らない顔をして過ごしていました。

 ある時、父のお留守に、そのお方は私を騙して、武士に依頼し、何処かも分からない奥山に捨てました。けれども観世音のご利益でしょうか、獣や妖怪の餌食にもならずに、山姥のような者の慈悲により、その山で一夜を過ごし、あくる日にはその山姥が親切に人里まで送ってくれ、道中は影のように付き添ってくれました。

 山際に米の研ぎ汁が流れ出ているのを見て、山姥に「その水を辿って行きなさい」と教えられたままに任せて、たどたどと歩いていきますと、この家の東の門に着きました。そこで足を休めていたところ、ここの召使の女の秋野と申す者が、私を見つけて自分の宿に連れて行き、いたわって親切にしてくれ、その後、手水釜の脇に住まわせてくれ、冬を暮らしておりますと、どういう奇縁があったのでしょうか、あなたに見い出されたのです。

 姿を変えて、本当の姿を人に見知られなかったのも、山姥が 脱いだ衣を貸してくれたためなのです。こちらへ召し出された時に宝物が出たのも、その山姥がくれた小袋から出てきたのです。

 このような物語、もっと早くに申したくはございましたが、継母の名が知れ渡ることを悲しく思い、今まで包み隠していたのですわ」

と語りますと、若君も一緒に涙を流され、

「何故にもっと早く仰らないで、我慢強くも今まで隠していたのです。では、手紙をお書きなさい。届けましょう」と申しますと、それさえも秘密裏に、と望みます。

「簡単なことです。我が身に変わらぬほど忠実な者がおりますので、それを使います。安心して下さいとのことですよ。急ぎましょう」と若君が仰いますと、姫君は嬉しく思われて書きました。

 

 近頃は恋しさが更に増しておりますが、心配をおかけしてご不興を買った身ですから、嘆きながら月日を送っております。

 あまりにも恋しく、ただ懐かしいので、急ぎ急ぎ来て下さい。変わらぬお姿を見せてくださいませ。

 

と、丁寧に書いて渡しますと、宰相どのは受け取って、守役の源太という者を側近く呼んで、しかじかの事情を言い含めますと、この男は賢く、足も速い者なので、その日は暮れて、あくる日の夜遅くに出発して、昼前に盛高どのの屋敷に着いて、案内を乞うて、

「これは都よりのお言伝でございます。盛高どのに謁見をお願い申し上げます」と言いますと、「ならば聞こう」とて盛高どのが出てきました。

「どのような方からの伝言なのか?」と仰るので、まずは手紙を差し上げました。取って上書きをご覧になれば、「盛高さまへ。花世の姫」と書いてあります。これは夢か現かと呆然として、開いてご覧になりますと、最近の心労の種、恋い悲しんでいた姫君からの手紙です。是非をわきまえることも出来ずに、顔に押し当てて、さめざめと泣いて読まれました。細やかに書かれた手紙が嬉しくてたまらず、使いを呼んで人払いをし、詳しく尋ねて聞きました。源太が若君から伝えられたように語りますと、盛高どののお喜びは限りがありません。

 姫君と別れた時は命がどうなろうと構わなかったが、これこそ、にもかかわらず生きながらえた意味だったのだと、後見人の左衛門を呼んで、「これは秘密にしろ。この使者をもてなし、早く帰してやれ。それから、中納言どののお屋敷へ、道案内が出来る者はいるか」と訊かれますと、「私の連れの里ですから、行き来があります」と申しましたので、喜ばれました。

 返事を書いて使者に渡しました。これは今回の祝儀だとて、小袖一かさねを渡しました。源太は受け取って押し戴き、肩に掛けて外に出ました。また、良い馬に鞍を置いて、「足が速い馬だから、乗って道を急ぎなさい」とて出してきます。源太は賜り、人に馬を引かせつつ門外に出て、そこで馬に乗って、鞭を当てて急ぎます。これがまぁ昔の人が天駆けると詠ったことか、その言葉どおりのことが我が身の上に起こっている、と思い急ぐうちに、その日の日暮れ頃に帰り着き、お返事とてお渡ししますと、宰相どのはご覧になり、もう来たのかと喜びました。

 さて、源太は小袖と馬をお目にかけ、「これで急ぎました。並ならぬお住まいでございます。明日にはご見参と仰せでした」と申しますと、若君は嬉しく思われ、姫君にこのことを話し、返事を渡しますと、

「どうやらまだ何事もないご様子で、会えるのが嬉しいこと!」とて、喜びの涙はせき止めることが出来ず、手紙の中をご覧になって、明日を待ちわびるのでした。

 さてまた、姫君のお里では、使者を帰して、盛高どのが左衛門を呼んで、

「明日は早朝に出立しよう。その用意をさせよ。

 今回は宝物をどうして惜しむだろうか。倉を三つ開け、長持に入れる引き出物には、金銀、金襴・緞子・綾錦、色よき唐綾・唐織物、刺繍などの装束・巻いた反物・平たくたたんだ反物にいたるまで、数多くの宝物を入れるべし。長持の一つには、鎧・腹巻、太刀・刀など、黄金こがね作りのものを取り添えよ。別の一つには白布など数々を入れるべし。引いていく馬は十三頭、鞍を金の覆輪で縁取るべし。

 供の者は見苦しくてはならない。騎馬は十騎、雑兵は二十人を超えてはならない。わざと密かに行くぞ。神に詣でると告知しろ。見栄えをよくして供させよ。更に更に、宝は数を尽くして持たせよ」と仰います。

 さてさて、このことを乳母に知らせようと思うのですが、女は思慮がないから迂闊に喜ぶ様子を見せるだろう、そうして、このことを北の方に悟られるのは悔しいと思われ、そ知らぬ様子で御簾の中に入って、いつもより楽しそうに明石を呼んで申した様子には、

「明日は思い立った祈願のことがあり、神に参るぞ。その間、他所に出かけるなよ」とて、笑って立ち去りました。

 北の方はこれを見て、「いつもよりご機嫌がよさげなのが嬉しいことよ。この祈願を終えて帰ってこられたら、こちらにも来てくださるでしょう」とて、喜んだのは空しいことでした。

 さて次の日になりますと、深夜にこっそり出発しようと思うのですが、そうはいっても一行の人数は多数です。忍んで出るのだから邪魔だとの仰せなのに、道中無用心だからと手矛や長刀を持って、大人数がひしめき合いました。長持を数多く担ぎ連れ、遥かな道をぞろぞろ続いて通っていったので、人々がこれを見て、「不思議だな、盛高どのはこの頃は引きこもっておられたが、何処の神へ詣でられるやら。大勢引き連れて、ざわざわと出て行かれるぞ」と言うのも当然だと思われます。

 馬の足並みを早めて、はやる心の道中は、嬉しいままにあっという間に過ぎ、恋しい人の住むところも近くなりました。

 さて、案内の者を先に行かせ、「こちらに入れてください」と言いますと、源太が心得て走って迎え出て、見れば、流石におびただしい人数で列が続いています。大勢を門外に控えさせ、盛高どのに近しい侍ばかりをお供にして、「すぐにお出でになります」とて中に通しますと、姫君は待ちかねていたことですので、玄関近くに出てこられ、父君の手を引いて、「こちらへ入ってください」とて引き入れまして、ものも言わず、まずは側に打ち伏して泣かれるばかりでした。盛高どのがこれをご覧になって仰るには、

「なんと、花世の姫か。嬉しいぞ、お前を失ってからは、ますます命は惜しくないものになったが、仏のお告げが頼もしくて、今まで生きながらえた。その甲斐があってお前に逢えて嬉しいぞ」

とて、はらはらと涙を落としますと、姫君は目を上げ、父君の顔をご覧になって、

「やつれていらっしゃるのが痛ましいですわ。私のために思い悩まれたこと、その私の罪が恐ろしい。

 思いがけない時に、父君の使者だと言って、急ぎ家を出ろ、と私を追い出し、足を留めず背負って、何処とも知れぬ山中に捨てられたのを、観音の助けでしょうか、獣や妖怪の餌食にもならずに、不思議に命長らえて、変わらぬ父君のお姿をも拝見できました。この有り難さよ」と、長々と言ってさめざめと泣かれ、ありがたそうな有様は、傍から見ても痛ましく、乳母をはじめ、側に仕える侍女たちで袖を濡らさぬ者はないのでした。

 とはいえ、今は喜びの涙ですから、「まずはお喜びください」と乳母が勧めましたところ、まことにまことに喜びは尽きませんでした。

 その後、姫君が「ところで、明石は」と言いますと、「あれも小侍従も胡蝶の前も、いずれも変わったところはなく、お前の音信を待っている。どうも思うところがあって、今回のことは知らせておらぬのだ。明日は呼んで会わせよう」と仰います。姫君は嬉しく思われて、今か今かと明日を待つのでした。

 一方、中納言どのにこのことが伝わりますと、「思いがけない客人だな。屋敷にいながら使者に喋らせるのも愚かなことだ」とて、息子たちを引き連れてお出でになり、このことをこうこうと説明されますと、盛高どのは出てお会いになり、初めて謁見しました。まず中納言どのが、「これは思いもよらない訪問です。前もって私に申し伝えられなかったことが悔やまれます」と仰いますと、盛高どのは

「だからこそ、我らが図々しく参りましたことを面目なく思います。

 かけがえのない姫を一人持っておりまして、過ぎた秋の頃、虚空に失っておりましたのを、どんな不思議によるものでしょうか、こちらの奥方に召し置かれているとのこと、伝えてこられましたので、公にお知らせせずに参りましたこと、子供のために迷う親の習いでしょうか。人目も恥もかえりみないことでした。

 それにしましても、成人した若君を数多持っておられる、お羨ましいことです」とて、涙を止めることが出来ません。中納言どのは、

「ああ、道理ですな。私は子供が数多い中でも、いずれも可愛くない子はおりません。

 何事も何事も、この上は、ただお喜びなさるといい。期待通りに首尾よくはいきませんでしたが、あれにおります宰相をば、今より後は息子とお思いなされ」とて、一緒に涙をこぼしました。その後、喜びの盃が運ばれて、中納言どのは息子たちを連れてお帰りになりました。宰相どのは留まって、様々にもてなし、語らって、盛高どのの喜びはたとえようもありません。

 さてまた、盛高どのは中納言どののもとへお出でになりました。左衛門に申し付けたことですが、様々なお祝いだとて、中納言どのへ金襴十巻き、良い馬に金の縁取りの鞍を置かせて、太刀を添えて、結婚の祝いだとて贈りました。北の方へは唐織物三襲に、砂金を包み添えました。妹の姫君には唐綾一襲に、優れた細工師が輝くほどに作り上げた、金銀の三つ生りの橘の枝を贈りました。その他、局からはしためまで全ての従者の女たちには反物を数多く贈り、老人から若党まで全ての従者の男たちにまでも、馬・鞍・道具・太刀・刀まで、残らず贈りました。ああ立派な舅が来たと、喜ばない者はありません。

 これは表向きのことで、盛高どのはまた姫君の屋敷に戻りまして、喜びは様々、素晴らしい婿どのとの対面と称して姫君に逢われることは、優曇華の花が咲くのを待つ心地がして、盛高どののお心の内はたとえようもない喜びで一杯です。そこで宰相どのにご祝儀をとて、六歳の白葦毛の馬に梨地蒔絵の鞍を置かせて馬番を三人付けて、黄金作りの太刀を添え、金襴・緞子を十巻きずつ、百両ずつ入った砂金の包みを三つ並べ、これは結婚のお祝いですとて、宰相どのに差し上げました。また、姫君には喜びの装いだとて、刺繍物に唐紅・唐綾・練貫の織物三襲に緋色の袴を添えて差し上げました。乳母やちよいを始めとして、姫君に側近く仕える侍女たちにはそれぞれに贈りました。乳母とちよいに関しては、日頃の情愛はいつの世になっても忘れないでしょう。これは今の祝儀です、重ねてお礼を申しますとて、喜びは限りがありません。

 その後、明石にこのことを申し渡しますと、聞いて、これは夢でしょうかと思いましたが、現実です。あまりの嬉しさに呆然としつつ、どうしましょうどうしましょうと思うばかりで、どうすべきか判断する術もないのでした。使者が申しますには、「今はもう、お幸せであられます」とて、細々と事情を語ります。それで明石は心を鎮めて、「まぁ有り難い。それなら本当ですね。これでこそ死なずにいた甲斐がありました」とて、まずは喜びの涙が止められません。小侍従も胡蝶の前も八人の侍女たち、下女に至るまでも、たいそう喜んだことでした。

「今は誰を恐れることがありましょう。出発して下さい」と使者が勧めますと、我も我もと出発して、北の方には

「以前に姿が消えうせていた姫君さまが、世に出てこられましたので、そこへ参ります」と申しますと、不思議に思って言葉もありません。例の乳母と寄り集まって、「とうに狼に食べられたと聞いていたものを。もしかすると人違いではないでしょうか」と言いました。

 さてさて、明石は人々と連れ立って、姫君の屋敷へ参りますと、互いの心の内が嬉しいにしても辛いにしても、先立つものは涙なのでした。昔の話は尽きることがなく、乳母は別れてからの心労、夢のこと、巫女の占ったことを頼りにしてこの初秋を待っていたこと、話しても話しても終わりません。姫君も、別れた朝の名残惜しかったこと、追い出されたときの物憂さ。武士が言った言葉、その妻の情けのこと、山での心細さ、山姥の岩屋が恐ろしかったこと、また、山姥が情けをかけて姥衣を着せてくれたこと、人里へ送ってくれたこと、秋野が見つけていたわってくれ、この家に住んで手水釜の火を焚いたこと、若君の乳母とちよいの性質が非常に親切であること、夜も昼も語っても尽きません。語っては泣き、また喜んでは泣き、互いに嬉しさに限りがないのでした。

 さて、盛高どのがあちらこちらでもてなされて、早くも十日ばかり滞在しておられた間に、このことは国内に知れ渡り、あからさまに噂されました。北の方の親しい人々はこれを伝え聞いて、あさましいことだ、これほどまでに人でなしの親子と関わっていると恥をかく。連絡も取るまいとて、殊更に訪ねる人もおりません。北の方は、例の乳母と二人連れ立って、身の置き所がないままに、足に任せて出て行きました。心細さは限りがないことです。

 その後、盛高どのは中納言どのに暇乞いをしまして、姫君に仰るには、

「今はもう、幸せに暮らしているように見えるから、心にかかることもない。まず、帰って観音様にお礼をして後、やがてこちらに参って中納言どのに相談するべきことがあるから、また来るつもりだ。その時を待ちなさい」とて、宰相どのにも暇乞いをして、細々と気を配って帰られたのは立派なことです。

 山里に帰ってご覧になりますと、北の方は消えうせて姿が見えませんでした。さてはもはや。身に咎あれば浮世も狭しというたとえがあるが……。どうしようもないことなので放っておきました。

 まずは観音に詣でて伏し拝み、「有り難いご誓願によって、花世の姫をお助けくださり、無事な姿を再び見ることができたこと、有り難や。この先も ますます守りたまえ」とて、熱心に願いを立てられまして、やがて高いところに屋敷を移し、御堂を建て、僧侶を二十人据え置き、朝夕のお勤めを怠らずにいますと、霊験あらたかな正観音がおられるとて、多くの人がやって来て信仰を流行らせました。また、山姥が着せた姥衣を尊んでねんごろに供養しまして、塚を築き卒塔婆を立てて、鬼神から生まれ変わって成仏得脱なるべしとて、観音菩薩に近い辺りに弔いましたのは、素晴らしいことです。

 その後、例の巫女にも充分な謝礼を払い、「有り難くも占ってくれたものだ。嬉しいことも辛いことも、何故なのかは知らずにいるはずだった」との、盛高どのからのお言葉がありました。また、姫君からは、「巫女が占ったからこそ、父上とも乳母とも変わらぬ姿で会えました。この嬉しさを、どうして喜ばないでいられるでしょうか」とて、小袖を一襲、砂金百包みを添えて贈られました。これは喜ばしいことでございます。末永く後援者になりましょうとて出されたのです。また、明石をはじめとして、数多くの侍女たちが小袖を一襲ずつ脱いで、「この巫女どのにこそ、頼みをかけて姫君を待ち暮らしました。どうして惜しむことがあるでしょう」とて、思い思いに渡しました。

 また、姫君を誘拐した武士を縛り捕らえて、七日七夜、磨り首にしました。その妻は、どんな死罪にすることも容易いことですが、命をすぐに失えば懺悔することもかなわない。それに、今 姫君が出世したことも、この妻の嘆願で命があったからだということで、とはいえ褒美は与えられないがと言い含めて帰しました。

 また、継母の北の方は何処にもおりません。仇を恩で報いるならば、生活費を与えるべきところですが、罪のある身であれば因果からは逃れ難いもので、行方知れずになったのはみじめなことでした。

 

 こうして、盛高どのは思うままに観世音を信仰なされて、また、中納言どののお屋敷へ急がれまして、宰相どのを申し受け、家の跡取りにして、所領も家も四方の倉に至るまで、宰相どのと姫君の二人に譲られまして、障害もなく、宰相どのを丹後守盛家たんごのかみ もりいえと名乗らせたのでございました。家を継がせまして、さてまた、山里に祖母君をも亡き前の北の方の面影だとて連れておいでになり、際立って立派だと噂されました。

 中納言どのもその北の方も、姫君を類なくいとおしまれたので、別れの名残を惜しまれることは限りがありません。とはいえ、盛高どのが「安心してください。春は花の下の歌会、秋はまた紅葉にかこつけましてでも、折々の会合があるでしょう。わずらわしいと思わずに度々会いに来て下さい」などと、心細やかに仰せ置きまして、別れの挨拶を申されて、輿車を出発させ、盛高どのが盛家どのを連れて馬に鞭を入れさせますと、中納言どのは息子たちを引き連れてお帰りになりました。一方、山里でじっと耐えて待っている人々は、いざ、お迎えに出ようとしていて、これほどにおめでたい例もありますまい。

 死んでおられた姫君が甦って夫婦になっておられること、喜んでも余りあるとて、身分の高い者低い者全ての民が皆 出てきて拝みますのも当然と言えます。盛高どののお喜びはたとえようもありません。様々なお祝いは限りがありません。身内・外部の人々までも、徳利・大筒(酒を入れる竹筒)を捧げてきて絶え間がありません。夜昼の境もなく酒盛りが続いたと言われます。盛家どのは礼儀正しく堂々とした様子、太刀を佩いた凛々しい姿、芸能までも、他の人に優れておりましたので、親戚の人々もこれに感心するのでした。

 その後、姫君が思われたことには、(このように思うがままに栄えたことは、ひとえに母上のご恩ではないでしょうか。母上が観世音を尊んだからこそ、守護も深かったのです。ますます有り難いことです)とて、法事を行われたのは当然のことでしょう。堂を建て仏を供養し、施しを行い、貧しい者には親のためだとて財を与え、ひたすら慈悲をしましたところ、ますます守護があって、家が栄えたことは限りがありません。

 また、秋野をも引き取って、良い家を作って夫婦ともに住まわせ、毎月 米と装束を取り添えて色々贈りますと、富貴栄華にて明け暮らしました。

 姫君も願いどおりにいよいよおめでたとなり、若君・姫君と続いて産まれ、お乳も乳母もそれぞれでした。

 花世の姫の乳母は明石の局と申し、盛家どのの乳母を四位の局と申して、二人は車の両輪のように仕えて、人々がたいそう敬いました。

 さてまた、盛高どのも一人住まいされるお年ではありませんので、中納言どのの姪御――二十歳ばかりのお年ですが、約束が破られたことがあって、三年は独身でした――この方を参らせましたところ、昔の北の方のようにお思いになり、心安らいで住まわれて、月にも花にも心を寄せ、朝夕は乱舞管弦を催し、贅沢に栄えたのでございます。

 

 人は心が正直で慈悲があり、神仏への信心があれば、この世でもあの世でも良く過ごせるでしょう。この草子をお読みの方は、情け深くあることです。また、あの秋野夫婦が富貴栄華に栄えたことも、心に慈悲があって、人に情け深く接したためです。よくよく慈悲の心を深くして、人を哀れみ情けをかけなさい。更に誓約の有り難い観世音を信じ申し、一心に頼み奉れば、最後には望みがかなえられ、現世は安穏となり、死後に極楽に至ることまで疑いようがありません。返す返すも慈悲を朝夕思うことです。

参考文献
『お伽草子』 島津久基編 岩波文庫
『日本の古典 別巻2 グラフィック版お伽草子』 鈴木 勤編 世界文化社
『コミグラフィック日本の古典11 御伽草子』 辻真先構成・原田千代子画 暁教育図書

※資料が見つからず、ここには長くうろ覚えのあらすじを掲載していたのだが、資料を送ってくださった方があり、折角なので原文を(自分に)出来る限り、意訳せず書き下してみた。そうしてみると、原文はダラダラと不必要なエピソードが続いて長たらしく、訳文として世に出回っているものが大幅にカットし意訳してあるのも無理からぬのだが、カットされた部分の中に、海外の再話文学・伝承との共通点を見い出せたりして、なかなか興味深かった。

 イタリアの「ローズマリーの娘」では、冒頭、子のない王妃が庭を歩いて茂ったローズマリーの株を見、ローズマリーにさえ子があるのに私にはないと愚痴を言う。すると、月満ちてローズマリーの苗を産む。あるいは、同じイタリアの「りんご娘」や「ミルテの木の娘」では、子のない女が神に祈っていると月満ちてリンゴやミルテの木の苗を産む。同じようにこの「花世の姫」では、子のない北の方が縁を歩きながら仏に祈っていると、庭の梅の木に雀の親子が遊ぶのを見、雀にさえ子があるのに私にはないと愚痴を言う。すると仏の霊験によって月満ちて花世の姫を産む。また、北の方は観音に梅を賜る夢を見て、傍らに眠る夫を起こし共に喜ぶが、「ミルテの木の精」にも同様のシーンがある。

 イタリアの話では生まれたのは植物で人間の娘ではないのだが、後にこの植物から娘が飛び出してきて"王子"と結婚する。「花世の姫」では生まれたのは人間の娘だが、妊娠の際に梅の花が膝に乗る夢を見たり、その後も何かと梅の花にたとえられるなど、本来はイタリアの話と同じ要素があったものと思われる。これらのイタリアの話の原型は中東辺りにあるらしいのだが、してみると、「花世の姫」もそちらから伝わった伝承が取り入れられているのだろう。

 

 ところで、日本の民話に現れる姥皮や、この「花世の姫」に現れる姥衣は、着ると老婆の姿に変身できる魔法の着物、くらいに私は思っていたのだが、今回この原文を読んでみて、チベットの伝承などと同じように、服ではない、ただの老婆の生皮だったんだなぁと確信した。山姥が「夏のあまりの暑さに脱いだんだよ」などと言っているし、後には供養もしているし…。昔も今も、挿絵家は「服」のイメージで描いているようだが。ちなみに、"衣"には「服」という意味があるが、また「人の地肌、動植物の皮、羽毛」という意味もある。

 なお、同じく日本中世の文学である「姥皮」に登場するものは「木の皮のようなもの」と語られていて面白い。「木のつづれのカーリ」のまとう「木の皮をつづったような醜い服」のイメージが当時の日本にも流入していたということだろうか。北米のミクマク族の「小さなやけど娘」にも、木の皮の姥皮が出てくる。

 花世の姫が山姥にもらった、「少し食べればずっと物を食べずにすむ」花米のようなアイテムは、【箱の中の娘】系の話でも見かける。箱の中に長時間隠れる姫のために乳母的存在が用意するものだ。「花世の姫」では(姫君は即日人里に着いて雇われるので)不要といっていいアイテムなのだが、モチーフが混入した結果なのだろう。




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