水の神1  日本 兵庫県

 昔、男がありました。女房が身持ちになったので、丹波おいの坂の子安地蔵に願をかけました。男が地蔵堂で夜あかしをしていると、よその地蔵さんが来て「他にお産があるので、お前行ってくれ」と誘っています。けれど、子安地蔵は「客があって行けない、お前行ってくれ」と断っていました。

 明け方に、よその地蔵は帰って来ました。「ご苦労」と子安地蔵が言うと、その地蔵は

「寿命は十八に決めて来た。その年に京の桂川の主に取られることになる」

と言い、子安地蔵がまた「ご苦労」と言いました。

 男は、「もしか我が家のことじゃないかしらん」と思って、心配しながら家に帰りました。そうしたら、果たして女房は身二つになっていました。今朝の地蔵の話はやっぱり我が家のことだと分かって気に病みましたが、女房には話さずにいました。また、この夫婦には それっきり子供は出来ませんでした。

 

 そのうち、父親は京の桂川のせぶりを請け負う役人になりました。子供はといえば、大変な孝行息子に育ちました。父親は息子を可愛がりましたが、十八歳の寿命だというのが頭から消えず、一人で苦しんでいました。

 

 息子がちょうど十八歳になったとき、桂川が大水になりました。息子は父親に「代わりにせぶりに行く」と言いましたが、父親は今日がその日なのだと分かったので、行かせまいと止めました。それでも、親の目をしのんで、朝飯も食べずに出て行きました。

 父親はすっかり絶望して、

「出かけたら、どうせ主に取られるのだ。親戚に来てもらえ、葬式ごしらえをしろ」

と女房に言いましたが、女房は「とぼけたことを言うな」と言って、夫婦はいろいろ口争いをしました。どうしても父親が言うことを聞かないので、家で葬式の支度を始めました。

 さて、息子の方は、朝飯も食べずに出ていって腹がへったので、茶屋へ入って餅を食べていました。隣には、いつ来たのか、綺麗な娘が腰をかけていました。

「姉さん、まあ食べんか」と言うと、「わしも食わせてもらおう」と言って、食うも食うたり、大変な量を食べました。

 そのうちに空も晴れて来ました。

「せぶりに行ってこうと思うけに、勘定してくれ」

 店の主人が応えました。

「百貫からの餅食べとる」

 そんな大金は持っていません。

「また後に払いに来るけに。だが、俺が死んだら編笠一枚だぜ」

と言って、とりあえずのお金のかたに編み笠を置いて、せぶりに出かけました。

 どういうわけだか例の娘が付いて来て、連れだって桂川の土手に行きました。すると、急に娘が言いました。

「わしはここの主だ。お前は親のぜんしんといえ、あもを充分に食べさせてもろうた。親のぜんしんを見抜いとるけに、十八歳の寿命を六十一まで延ばしてやる」

 

 息子は「やれ、やれ。えらいことやった」と思って、帰りに茶屋に寄って、

「かようかようのことで、孝行だけに六十一歳まで寿命を延ばすと言うた。ついでのことに命を取られるところだった。あもを食べさして助かった」

と話をしました。茶屋は

「助かったということなりゃ、餅代払わんでもええ。お前は百貫のかたに編笠を預けとく言ったけに、お前が死んだと思うて、百貫のかたに編笠もらう」

と言って、餅代をとりませんでした。

 子供が家に帰ると、葬式の準備をしていました。息子がこうこうだと あったことを話すと、親は大変に喜んだということです。



参考文献
『日本昔話集成(全六巻)』 関敬吾著 角川書店 1950-

※これは、命を取ろうとする水神を饗応することで難を逃れるパターン。同県によく似た類話があり、そちらでは親の助言で川の主に餅を供えて、八十三の寿命をもらっている。

 大抵は、子供が運命の日に釣なり川仕事なりに出かけることになるので、事情を知る親が 牡丹餅、餅、小豆飯などを持たせてやる。例に挙げた話のように、水神が人間の姿でやってきて、それを饗応する話もある。

 新潟の類話では、運命の日に見知らぬ男の子が来て水遊びに誘うので、親たちはその子を家にあげてご馳走する。そのあと子供二人は川に行くが、見知らぬ子は「俺の命だけ生きてくれ」と言って、自分だけ川に入って消える。河童の子だったのだ、と説明されているが…。



水の神2  日本 岩手県

 酒呑みが道端に寝ていて、真夜中に山神と箒神の話を聞いた。

 下村の某の女房がお産をした、生まれた子は男の子で七つの七月七日に水の物に捕られる運。

 酒呑みが急いで帰ると、自分の家に男児が生まれている。

 子供が七歳になった七月七日、父親は子供を庭に出して柱に縛り、鎌を研いだ。夕方、婆が来て縄を解こうとするので鎌で斬ると、小川に入って死んだ。それは大鰻だった。



参考文献
『日本昔話集成(全六巻)』 関敬吾著 角川書店 1950-

※「水の神1」とは反対に、水神と戦って打ち負かしてしまうパターン。「水の神1」ではまだ神への恐れと信仰が見えるが、こちらでは水神は完全に魔物化し、英雄ですらない父親の鎌ごときで易々と倒されてしまう存在になっている。

 香川県によく似た類話があり、そちらでは母親が子供を柱に縛り、刃物を持って待つ。やがて老婆が来たので斬殺すると、その死体は海のがーら(河童)に変わる。子供は無事成長したという。

 なお、兵庫県にも水神が老婆に化けて現れる話があるが(この場合、母親の母に化けて現れる)、ここでは水神は子供を連れ去ることに成功し、子供は水に入って帰らない。(「水の命16」)



水の神3  青森県

 負けた博打打ちが傳法寺に泊まっていると、神様が来て

「藤島の某のあっぱに今 せてきた。へだども あれぁ五つになれば五月の節句にめどち(みづち)の持前にさせた」と言う。博打打ちが家に帰ると男児が生まれている。

 子供の五歳の五月節句の日、子供を麻布ののの帯で搗臼に縛り付け、母親は菖蒲を屋根に挿した。夕方にやって来ためどちは、

「今日から待っていたが、これなら俺の役は済んだ」

と言って帰った。



参考文献
『日本昔話集成(全六巻)』 関敬吾著 角川書店 1950-

※これは、信仰によって魔を退けるパターン。西欧にはこの型が非常に多い。

 菖蒲は魔よけの力があるとされる植物。徳島県の類話では、葦の葉で弁当を包んでいたために魔物が逃げ去って助かる。

 

 福島県に、ちょっと変わった類話がある。

 爺が竹藪で拾った卵を婆と二人で食い、男児を得る。竹刈太郎と名付ける。

 太郎は大きくなると毎日魚を釣るが、占い師が来て「この子はいつ何日までしか生きない」と言う。

 予言の日、両親は南無阿弥陀仏と唱えて、ぼた餅を作って持たせてやる。太郎は普段通りに魚釣りに行く。すると大蛇が来て呑もうとするので、念仏を唱えて神札を投げると、大蛇は何処かへ去り、太郎は命長らえた。

 以下は海外の類話。

水の神3-2  チェコ人とスロバキア人

 昔、ある金持ちの農家に一人の息子が生まれた。夜、運命の女神スディチカたちがやってきて、一番年長の女神がある運命を定め、他の二人の女神も賛同して消えた。

「この子は溺れて死ぬだろう」

 その家には敬虔な人々が何人か住んでいたので、運命の予言を聞くことが出来た。

 やがて息子は成長して両親を喜ばせたが、ある時、両親は息子を見つめて悲痛なうめき声を上げた。息子は両親に何を悲しんでいるのかと尋ねた。そして自分の運命を知って悲しくなり、教会に懺悔に行った。
 話を聞いた司祭は、若者に忠告した。「鐘が鳴るとき、特に心を込めて主の天使に祈りなさい」
 それ以来、息子は教会の鐘が鳴るごとに ひざまずいて祈りを捧げるようになった。 

 洪水が起こった時、息子は穀物を水車小屋まで運んだ。ちょうど橋を渡ろうとしたとき、教会の鐘が聞こえたので、彼は足を止めてひざまずいた。そのとき大水がごうごうと音を立てて橋を流し去り、波間から声が聞こえた。

「時が満ちたのに人間が来ない!」


参考文献
『運命の女神 その説話と民間信仰』 ブレードニヒ著、竹原威滋訳 白水社 1989.



水の神4  長崎県

 狩人が猟に出た留守に、女房が男児を産む。狩人が山にいると、話し声が聞こえてきた。

「その初産は安産であったが、生まれた子は十三の春に川の者に命を取られる」

 帰ると子供が生まれていたので、我が子のことであると悟った。

 子供が十三歳になった春、川に魚釣りに行くと言うので、父親は時が来たと思い、握り飯に飴を乗せて持たせてやった。

 子供が釣りをしていると、川の者が友達に化けてやってきた。二人で握り飯を食べたが、飴があったために食べ終わるのに時間がかかった。すると、川の者が

「俺は河童で、お前の命を取りに来たが、飴のせいで時間を食った。お日様が松の葉一本分動くだけの時間、決められた時間から過ぎてしまった。だから、もうお前の命を取るわけにはいかない」

と言って、消えてしまった。



参考文献
『日本昔話集成(全六巻)』 関敬吾著 角川書店 1950-

※これは、定められた時間をやり過ごすことで難を逃れるパターン。

 洋の東西問わず、運命(魔物)は決められた時間にしか命を取ることが出来ないらしい。

水の神4-2  スロベニア人

 昔、裁きの女神たちがある家にやってきた。その家の敬虔な主人は女神に生まれたばかりの我が子の運命を尋ねた。すると一番目の女神が言った、「この子は立派な領主になるだろう」。二番目の女神が言った、「この子は羊飼いになるだろう」。三番目の女神が言った、「この子は二十歳で溺れ死ぬだろう」。

 二十歳になったある日のこと、息子は父親と一緒に水辺の草原で働いていた。とても暑かったので、息子は水浴びをしたいと何度も言った。けれども父親はそれを許さなかった。父親は口実を作って息子を地下室に誘い入れ、閉じ込めた。

 正午になると、川の水が分かれて声がした。
「さぁ行こう。あの子が来ないのだから」

 それを聞いて、父親は急いで家に帰った。地下室の戸を開けると、息子は生きていた。ただ、難を逃れたものの、両手の肉をすっかり噛み切ってしまっていた。


参考文献
『運命の女神 その説話と民間信仰』 ブレードニヒ著、竹原威滋訳 白水社 1989.

水の神4-3  ユダヤ人( ロシア、ポーランド)

 一人の男がいた。莫大な財産を持っていたが、何の喜びにもならなかった。子供が一人もなかったからである。そこで男はラビ(神官)のところに行き、子宝祈願を願った。ラビは神に祈って男に告げた。

「あなたは勿論、ひとりの男の子に恵まれるでしょう。しかし、その子は定められた日に溺れて死ぬ恐れがあります。いつか、その子は両足の靴下を片方の足に履き、もう片方の靴下を探すでしょう。その日が来たら、あなたはこの子に水浴びをさせてはいけないし、飲み水を与えてもいけません」

 万事がその通りになり、子供は閉じ込められて「水が欲しい」と騒いだ。けれども、父親は決して水をやらなかったし、外に出すこともしなかった。すると川から声が聞こえた。

「あぁ ひどい! 私の生贄が来ないとは!」


参考文献
『運命の女神 その説話と民間信仰』 ブレードニヒ著、竹原威滋訳 白水社 1989.

※溺死する運命を逃れたとき、水の中から何者かの悔しがる声がする。ここでは運命はただの溺死でなく、日本の類話で言うように「水の魔物に取られる定め」であるようだ。

 

 ところで、日本に「賢淵」という民話がある。

 ある男が(他の人が行くのを避けている水場に)釣りに出かける。面白いように魚が釣れるが、気付くと、水の中から小さな蜘蛛が出てきて、男の足の小指(または、男の顔)に糸を掛けては水に入り、また出てきて掛けることを繰り返している。男は、なんとなくその糸を近くの切り株に引っ掛け直しておく。やがて男が帰ろうかと思ったころ、突然、糸が引っ張られて切り株がメリメリ音を立てて水の中に引きずり込まれる。男が立ちすくんでいると、水の中から「かしこい、かしこい」と声がする。

 この蜘蛛は水神である。(雑学考「七夕の話」参照)

 思うに、この「水の神3-2」「水の神4-2」「水の神4-3」のような話は、「賢淵」のような、水中から水怪の悔しがる声がする、という話と運命説話が入り混じって出来上がったものなのだろう。

参考--> 「水の命8

 

水の神4-4  日本 徳島県

 昔、猟師が山のモミの木の下で野宿していると、夜中に大勢の木が集まってきました。「今晩、村の某の家に子が生まれるから名を付けに行こう」と木々が誘うと、猟師が泊まっているモミの木が「来客で行けぬ」と答えています。仕方なく他の木々は自分たちだけで出かけて行き、夜明けに戻ってきてモミの木に言いました。
「伊勢の五十鈴川の主が名づけた。寿命は二十一まで」

 不思議な経験をしたものだ、それに村の某の家とは俺の家のことだろうか、と思いながら猟師が家に帰ると、自分の息子が生まれていました。

 子供は成長し、二十一歳になったとき、伊勢参りをすることになりました。父親は秘密を明かし、五十鈴川の側で泊まるな、手前で泊まれと忠告しました。息子がその通りにして翌日に五十鈴川を渡ると、川に大きな蛇が死んで浮かんでいました。

 その夜、宿に大蛇がやって来て言いました。「お前が来なかったから、俺が死んだのだ!」


参考文献
『日本昔話集成(全六巻)』 関敬吾著 角川書店 1950-

※木が動いて集まってくるのが面白い。トールキンの『指輪物語』のエント族みたいだ。また、どうやら子供(の魂)は「名付け親のもの」になってしまうらしいこと、死すべき定めの息子が逃れた代わりに名付け親の五十鈴川の主が死んでいるところも面白い。

 伊勢参りは、今で言うなら海外旅行に匹敵するような一大レジャーでもある。




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