民話想

世界の此方と彼方によく似た話がある。そんな不思議。

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主例話索引


シンデレラの環 09/01/17 改訂・例話追加
三つの愛のオレンジ 03/11/24 改定
手なし娘 09/01/17 改訂・例話追加
白雪姫 09/01/17 改訂・例話追加
眠り姫 09/01/17 改訂・例話追加
赤ずきんちゃん 09/01/17 改訂・例話追加
死者の歌 09/01/17 改訂・例話追加
運命説話 09/01/17 改訂・例話追加
桃太郎 05/1/10
瓜子姫 09/01/17 改訂・例話追加
かぐや姫 05/10/23
浦島太郎 07/10/12 例話追加

蛙の王女 09/01/17 改訂・例話追加
炭焼き長者 09/01/17 改訂・例話追加(未完成)
青髭 09/01/17
童子と人食い鬼  09/01/17
カチカチ山 09/01/17


その他のお題(簡易版) 09/01/17
星辰万象 09/01/17
小ネタ 09/01/17


>> 細かい更新履歴


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 はじめに

 昔話は子供のものか。それは近代に入って研究者たちの間でしばしば論じられてきたテーマだ。

 現代日本では、「昔話」と「おとぎ話」と「童話」はほぼ同じ意味で認識されている。一方で「昔話」と「民話」もほぼ同義の言葉だ。以上の認識から、この民話想というコンテンツも、「童話のページ」だと認識する方がおられるのかもしれない。それは間違いでもないが、正確ではない。

 南北朝時代に成立したとされる教科書『異制庭訓往来』に収められていたようなジジババもの……「昔々、爺と婆がありけり」というお決まりの語り出しの物語を、初めて「童話」と名付けたのは、江戸後期の戯作者・山東京伝だという。彼はこれを「わらべの昔話」とし、略して「童話どうわ」と称した。他方、同時代のドイツでは、大学教授であるグリム兄弟が民話集を出版していたが、日本では一般に『グリム童話集』として知られるこの本の原題は、『子供、そして家庭のメルヘン Kinder- und Hausmarchen』というものだった。

 京伝は、昔話全体を児童のものとはしていない。同じようにグリムの書題も、「子供向けのメルヘン、そして家庭に伝えられるメルヘン」と読み取れるものである。グリムはゲルマン民族の口承文化を保存・提示する目的で民話集を編んだ。子供のためだけのお話を集めたわけではなく、子供も大人も楽しめる、民族の誇りたる文化、先祖から伝わる伝承物語集、という意図がそこにはある。

 そもそも「メルヘン」とは「詩人の語る荒唐無稽な話、魅力的な法螺話」というほどの意味だ。子供のための話、と限定されるものではない。この言葉の和訳にあてられる「おとぎ話」も同様である。日本では昔話・おとぎ話と言えば老人が子供たちに語り伝える話のようにイメージしがちであるが、戦国時代から江戸時代にかけては武家にて主人に侍して様々な物語を語り聞かせる御伽衆という役職があり、つまり成人男性が成人男性に語っていた。この役職は通夜や庚申待のような、徹夜して語り合う御伽または夜伽と呼ばれる習俗に端を発している。そこでは荒唐無稽な法螺話も卑猥話も政治の話も、全てが扱われる。アフリカのハウサ族でも、昔話は村の男たちの夕飯後の雑多なお喋りの中で伝えられるものだったという。必ずしも大人が子供に語り聞かせるものではなかった。

 

 メルヘン、おとぎ話、フェアリーテール、昔話。これらが実際の内容も吟味されないまま一律して童話…子供のための話と片付けられてしまうのは、現代社会において漫画やアニメーションの類が子供のためのものと決め付けられがちであることと、恐らくは根を同じくする。実際には大人向けのものが数多く含まれているのだが、漫画やアニメだというだけで子供のもの…「子供騙し」だとみなされる。

 昔話というカテゴリが含む幾つかのジャンルの中でも人気が高い「魔法昔話(本格昔話/幻想譚)」は、要は口承による「ファンタジー」だ。近年『ハリー・ポッター』が大ヒットをした影響で幾分状況が変わりはしたが、ほんの少し前までファンタジー小説は大人の読み物とは認められにくい傾向があった。「荒唐無稽な法螺話」、即ち「子供が読む話、子供騙し」とみなされがちだったのである。

 

 メルヘンは子供のためのもの。この認識は民話研究にも影響を与えている。ブルーノ・ベッテルハイムはグリムのメルヘンなどを精神分析的見地から解釈し、「少年少女の内面葛藤・性の目覚め・大人への成長」が語られていると説いた。彼の解釈は「メルヘンは子供のためのものであり、子供の教育に役立つ教訓が含まれている」という前提の上に成り立っている。研究者の中には「(子供のための話なのだから)メルヘンはハッピーエンドであるのが普通」と前提して研究・解釈を行う者もいた。研究者でなくとも、昔話を聞くとすぐさま「それで、この話の教訓は何なの?」と訊ねる人は少なからずいる。メルヘン・昔話は子供を教育するためのもの、という認識は非常に根強い。

 実際、その目的で語られたこともあるのだろう。メルヘンの語り手は無数におり、それぞれの意図によって同じ物語を異なるニュアンスで語る。子供を諭す教材として利用した語り手も多くいたことだろう。

 だが、そればかりではないはずだ。

 グリム兄弟が世間からの批判を受けて、『子供、そして家庭のメルヘン』の中から性的な要素を削除していったのは有名な話だ。だがそれは、「子供の教育書として相応しくするため」だったのだろうか? ロシアのアレクサンドル・アファナーシエフはグリムに倣って640篇もの民話を収めた『ロシア民話集』を刊行したが、彼が蒐集した民話の中にはあまりにも露骨な性的・風刺要素を含むものが多数あり、こちらは匿名でスイスで極秘出版している。というのも国家の検閲をパスしないことが分かり切っていたからだ。(この本は長く日本では未出版だったが、2006年に平凡社から『ロシア好色昔話大全』として全訳刊行された。)

 子供の教育によろしくない云々というのは、一つの建前である。大人であっても淫猥な内容を好まない層がいるのは確かだ。田舎の炉辺では露骨な性の物語や辛辣な風刺語は好んで語られる。が、書籍を買って読むようなインテリ層はそれに眉をしかめる。(特に「未婚の」少女の性交・妊娠、聖職者の姦淫のような宗教的道義に反するものには。)だからこそグリムもアファナーシエフも民話集からそうした要素を抜いたのではないだろうか。しかし彼らの目的は出来るだけ原形に近い形で口承文学を書き留めることにあり、必ずしも子供の教育書を作ることではない。伝統文化を受け継がせたいという意味で子供にも読んでもらいたいと思っていただろうが、大人向けの民話を子供向けに捻じ曲げ意訳することが主目的ではないはずである。実際グリムは、死や流血といった残酷描写は(流石に不謹慎と思われる事件・実話系以外のものは)削除していない。また性的なものも、男性の精力を暗示した「鼻がないので魅力がない」「しっぽが多い方が好ましい」というような子供は気付かないだろう表現、少女の服が脱げたり破れたりする裸体描写は削除をしていない。彼らの本来の目的は性的要素エロティシズム等を排除した無菌本を作ることではないので、世間が苦情を言ってこないのであれば原話から変えない方がいいに決まっている。

 

 魔法、異常出生の勇者、異界への旅、変身、死からの復活。魔法昔話に現れてくる、ファンタジー創作にも受け継がれるこれらお馴染みの要素は、荒唐無稽な法螺話、他愛無い子供騙しだと認識されがちである。けれどもこれらは最初から、子供を楽しませるために考え出された、ただそれだけの空想に過ぎないのだろうか。

 かつてシベリア諸民族においては、物語はシャーマンによって語り伝えられるものだったと言う。彼らは霊力を発揮して幽体離脱し、鳥などに変身して神の世界へ旅する。そこで死出の旅に赴きかけていた病人の魂を鉤爪に捕らえて連れ戻したり、自分自身が切り刻まれ、しかし再び復活して戻ってくる。こうした物語はシャーマン自身、または偉大な先人の体験談、実話として語られた。神の世界は確かにあり、魔物は実在すると信じられていた。神魔と交霊し異界へ旅する異能者は現実に目の前にいると認識されていた。そう信じられている間、それは法螺話ではなかった。この世の秘密を解き明かす偉大な知識だったのだ。むしろ子供には隠されているものだった。

 しかし時の流れと共に信仰が変化し、失われたとき。その知識はただの物語、民話として語られることになった。事実と信じられていた知識は、荒唐無稽な法螺話になったのである。

 

 グリム兄弟を始め、多くの研究家が「民話(メルヘン)は神話が大衆化したもの」と唱えている。メルヘン Marchen の語源は「輝く、知れ渡る」という形容詞だと言う。輝かしい知識とみなされていたのだろう。

 神話と民話は《物語》としてだけ見た時はさして変わりがない。神話を神話たらしめるのは、それが社会的権威を持っているか否かなのだ。だから、その社会の外側にいる者にとっては神話も民話も区別がつかない。

 民話想は世界各地の民話の比較作業を主目的としているが、実際には各国の神話エピソードも同等に比較対象として扱っている。《伝承物語》として見た場合、民話と神話に差異はないからだ。だが、ならば民話と神話を区別する境界とは何なのだろうか。

 オルトゥタイによれば、シベリアのチュクチ族が古くから守ってきた儀礼を放棄した時、初めてそれに関連する要素が民話の中に流入するようになったという。戦前の日本では記紀神話は「実際にあったこと」とされていたし、キリスト教の『聖書』に書かれた内容も然りである。

 信仰は、それが本当に秘儀として信奉されている間は他と聖別される。しかし人々がその信仰や儀礼を放棄し、法螺話だと認識した時、娯楽としての物語…民話に入っていくのだ。

 

 私が好み、この民話想に集めている物語たちの多くは、それら太古の信仰の片鱗を潜めたものである。

 主人公は川を渡り、穴に転がり込み、獣と一体となって空を飛び、天に届く木を登る。そして追われ、落ち、溺れ、呑み込まれ、煮られ切り刻まれて、その姿と心を美しく立派なものに変え、富貴や結婚といった幸を得る。

 これらの物語の根底には《冥界》という根源神への信仰が潜んでいると私は考えている。そこは全ての死者が赴く暗黒の世界だが、同時に全ての生命が生まれいずる光の世界である。そこを支配する神は魂を呑み込む恐ろしい人食いだが、同時に全ての恵みを与える自然そのものであり、かつて冥界へ去った大祖父・大祖母でもある。

 そこは全ての根源たる根の国だ。命の源である生命の水が湧き出し、同時に死(忘却)の水が流れている。美しい女神が黄金の果実を捧げ持って待っているが、同時に醜い竜(山姥)が大きな口を開けて待ち構えている深淵。天国も、極楽も、地獄も、奈落も、蓬莱も、常世も、竜宮も、常若の国も、鬼ヶ島も。呼び名や表層は違っていても根は全て同じものだ。

 神話と民話に物語としての差は殆どない。ただ、神話は信仰に裏打ちされている。事実だと信じられていたのだ。しかし民話は法螺話なのである。例えば七夕やハロウィンのごとく、神事が信仰が薄れると共に子供の遊びに変化する例が多いように、霊的知識も信仰を失うにつれ、子供騙しだと考えられるようになる。そして子供のものだという認識が固定化すると、今度は子供の教育に相応しい、上品で道徳的なものでなければならない、と求められるようになっていったのだろう。

 

 昔話は子供のものか。

 そうではない。元は大人のための物語だった。

 昔話〜民話の中でも本格昔話、魔法昔話、幻想譚と呼ばれる物語たちの中には、一見して意味不明な、謎めいた要素が現れることがしばしばある。一つの話を読んだだけではそれは理解しがたく、せいぜい《魔法》だとか《昔の話は原始的で理屈がない》ということにでもして、理解できないまま放り出しておくしかない。ところが、類似の要素を持つ他の幾つもの伝承を並べ、併せて読んだ時、その結び目がハラリとほどけたと感じられる瞬間がある。意味も理屈もちゃんとあったのだと。

 無論、それは私個人の感覚に過ぎず、こうして文章を書いてみても、なんら証明が出来ないのだから、全く意味のあることではないのだろう。

 それでも、せめて読み物として、そして問題提起としてこのコンテンツを公開してみたい。多くの説話…昔話、神話…無数の語り手たちによって口承され書き留められてきた物語を、Webの特質を生かして、出来る限り省略せず、数多く紹介し、分類し関連付ける。縒り合わされた糸が次第に何かの形を成していくように、そうすることによって見えてくるものも、確かにあるように感じるからである。

 

09/01/17 すわさき



参考文献
「『グリム童話集』序」 金田鬼一著/『完訳 グリム童話集1』 金田鬼一訳 岩波文庫 1979.
「アファナーシエフの生涯と『ロシア民話集』」 中村喜和著/『ロシア民話集<下>』 アファナーシエフ著 中村喜和編訳 岩波文庫 1987.
「ハンガリーの民話」 オルトゥタイ著/『ハンガリー民話集』 オルトゥタイ著 徳永康元/石本礼子/岩崎悦子/粂栄美子編訳 岩波文庫 1996.
『語りつぐ人びと*アフリカの民話』 江口一久/中野暁雄/西江雅之/松下周二/守野庸雄/和田正平/スーザン・ムゾニ・ムワニキ 他訳著 福音館文庫 2004.
『魔法昔話の起源』 ウラジーミル・プロップ著 斎藤君子訳 せりか書房 1983.


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