>>参考 「ジャックと豆の木」「天稚彦の草子」「天人女房」「魔法のつぼ」「魔法の木」「大星王と小星王」「天の犬が魔法の草を追う

 

豆の大木  日本 新潟県

 あったてんがな。

 あるどこね(あるところに)、じさ(爺さん)とばさ(婆さん)があった。ほうして、じさ、土間にやを掃き、ばさ、座敷を掃いた。ほうしると、じさ、でっこい(でっかい)豆を一つ拾うた。

「ばさ、ばさ、でっこい豆 拾うたや」

「おうこここ(おや)、まあ、でっこいのし。豆煎りしてたら、なじょうねか(どんなにか)美味かろう」

「いやいや、こんげにでっこい豆、てしまいば絶えてしまうすけ、種にしよう」

と言うて、その豆をべと地べたの中に蒔いた。ほうしると、そんま(そのまま)芽出して、グングン伸びて、天竺(空、または天界)えねえほど、豆の葉が繁った。

 豆の実がった頃に、じさ、

「今日は、天気もいいし豆もぎしょう」

と、豆の木に上がり、豆もぎもぎしているうちに、天竺まで上がってしもたてや。なんだやら、モヤンとした雲の上に出た。そこにかんなりさまがいらして、

「おう、じさ、お前、何しに来たや」

おら、豆もぎしま(豆をもぐ間に)、とうとう天竺まで来てしもた」

「そうか、お前、いいどこへ来てくれた。下は日照りで大事おおごとだすけ、これから夕立を降らせよう。お前、相方あいほうせや。まあ、これをてからにせや」

と、つぶ(たにし)を煮たような、シコシコした美味いもんを食わせた。

「こら、なんというもんだの」

「子供のへその煮つけだ。裸になっていた子供の、へそを取ってきたがだ」

と言わした。ほうして、かんなりさまはゴロゴロゴロ、太鼓を叩き、じさは、柄杓の水をタクンタクンと、ちっとずつ垂らしたてや。日照り続きの下の村は、「あっ、いい夕立だ」と、村のしょが喜んでいた。あんまり喜んでいるんだんが(喜んでいるものだから)、じさ、柄杓で水をドット、ドット空けたれば、下の村は大水になった。家が流れるやら木が流れるやら、大騒ぎになった。

 じさは、あんまりたまげて、下へ落ってしもたてや。

 いきがポーンとさけた。



参考文献
『おばばの夜語り 新潟の昔話』 水沢謙一著 平凡社名作文庫 1978.

※思わぬことで入手した豆があっという間に育って天の国に届く導入は「ジャックと豆の木」を思わせる。しかしジャックが天の国〜冥界に宝を得に出かけるのに対し、爺さんは物品は得ず、そのまま神の眷属となってしまう。(すぐに墜落するけれども)

 個人的な印象では、そうして神の眷属になる展開は東アジア〜東南アジアの民話でよく見かけるものだ。ちなみに、娘が昇天した場合は神と結婚して女神になったと語られるものだが、男が昇天すると、十中八九、禁忌を破って天から墜落してしまう。あるいは七夕伝説のように妻である女神と隔てられてしまうのだった。男は昇天しても神にはなりづらいものなのだろうか?

雷神の婿になろうとした息子  日本 岩手県

 昔、一人の息子があった。ある日、母親に言い付かって茄子の苗を買いに出かけたところが、苗売りの爺の言うがままに、一本百文もする苗を買ってきた。母親が呆れて「どうしてもっと安いのを買ってこなかったのか」と言うと、「これは実が何千何百となる苗だと言うから、この方がずっと得だと思った」と言う。

 息子は苗を畑に植えて、毎日せっせと世話をした。苗はずんずん伸びて、とうとう天を突き通すような大木になってしまった。その茄子の木にはなんとも綺麗な紫の花が無数に咲いて、まるで木に紫の雲がかかったように見えた。やがて花は一つ一つ実になった。

 七月七日に母親が言った。
「今夜は七夕だ。折角だすけ、茄子でも取って七夕様にあげ申そう。お前は木に登ってもいでろ」

 息子は茄子の木に梯子をかけて登った。登って、登って、登っていくうちにとうとう天上に来てしまった。すると目の前に、目にも眩い御殿が建っている。おかしなところに来たもんだとあちこち見回すと、立派な座敷に白髭の爺さまがぽっつり座っていた。

「おらは日本から茄子を取りに来たもんだが、おらの家の茄子がここまで伸び上がってこんなに沢山実をつけたで、取って行ってもいいかね」と息子が声をかけると、爺さまは初めて気がついたように振り返り、にこにこして
「ああ、この茄子の木はお前さんのものか。おかげで毎日ご馳走になっている。さあさ、勝手に取っていってくれ。だが、折角ここまで来なさったのなら、あがってゆっくり話しでもしていきなされ」と言った。言われるままに息子が座敷に上がると、姉妹らしい綺麗な娘が二人出てきて色々もてなし、息子もいい気持ちでたんとご馳走になった。

 そのうち昼になると、爺さまは
「やれ、客人が見えて思わず時を過ごした。さあ娘ども、支度だ支度だ」と言って、伸びをして立ち上がった。娘たちも立ち上がる。それから爺さまは別の部屋に入っていったが、暫くしてまっ裸に虎皮のふんどし、頭には二本の角が生え、口は耳まで裂けた鬼が出てきたので、息子はキャッと叫んで腰を抜かしてしまった。鬼は笑って、

「これこれ、さように驚くでない。わしは先程の年寄りじゃ。ちょっとこれから仕事にかからねばならんので、仕事着に着替えたまで」と言う。
「ど、どんな仕事だ。人でも取って食うか」
「それではまるで鬼ではないか。冗談ではない。実はわしは雷神でな。これから少し下界に夕立を降らしてやらんと作物が伸びんわい。どうだ、お前さんも手伝ってくれんか。降られる方はどうか知らんが、降らせる方はこれでなかなか面白いもんだ」

 支度して出てきた娘たちも勧めるので、息子もその気になった。

「そんでは、とにかくやってみるべ。おらの役はどんな役だね」
「一番た易いのは雨を降らすことだ。一つやってもらおう。この中に雨がいっぱい入っとるから、ただ傾ければいい」

 そう言って爺さまがすず徳利とっくりを渡したので、息子はよし来たと引き受けた。

 雷神が七つ太鼓をひっかつぎ、両方の角に雲を引っ掛けて真っ先に翔け出すと、続いて娘どもは鏡を手に、ぴかぴかぴかぴか閃かし、その後から息子が徳利を持って雨を注ぎ注ぎ走り回り、みんなして雲の上をむちゃくちゃに駆けずり回った。

 下界は七夕の日で、あちこちの村で鎮守の祭りをしていたから、お囃子やら踊りで大層にぎやかだったが、そこにいきなり雨が降ってきたものだから、上へ下への大騒ぎ。そのうち雷神の一行は息子の村の上空に差し掛かった。ここでもやっぱりお祭りで、寄り集まっているのは知り合いや友達ばかりだ。ここは一つからかってやれ、と息子が雷神と娘たちに頼んだものだから、雷神はどんどこ太鼓を叩き、娘たちはぴかんぴかん鏡を閃かし、息子も夢中になって雨の徳利を右へ左へ振り回した。

 村では大騒ぎになって、みんな蜘蛛の子を散らしたように逃げていく。愉快な気分で娘たちの方を見ると、無我夢中で鏡を振り立てているものだから、着物ははだけて胸もあらわ、裾はまくれて真っ白い脛が出たりしている。息子はまたそれがおかしくて笑っているうち、ついつい雲を踏み外してしまった。あっという間に下界に落ちた息子は、畑の脇の桑の木に引っかかった。

 天ではそれを見て、ことに娘たちが息子を慕って残念がったが、もうどうしようもない。そこで父親の雷神は娘たちの気持ちを慮って、「わしはこれからは桑の木の辺りには落ちぬことにする」と言った。それで今も雷避けとして、雷の鳴る時には桑の小枝を軒端に挿すのである。


参考文献
いまは昔 むかしは今1 瓜と竜蛇』 網野善彦/大西廣/佐竹昭広編著 福音館書店 1989.

※この話は、どうやら母と二人暮しらしい若者が母に言われて市に行き、しかし大損をするような取引をして帰ってきて母を失望させるが、その取引で得た植物が異常成長して天に届く…という冒頭部分が「ジャックと豆の木」にそっくりである。

 雷の娘たちのあられのない姿を見た息子が笑ってしまい、天界から墜落するくだりは、『今昔物語』にある、娘の白い足を見て雲から墜落した久米の仙人の話と共通するモチーフだろう。欲情したことで神通力を失ったのである。また、「性」が「笑い」をもたらすという世界共通の概念も含まれている。

 桑の木に落ちた息子はどうなったのだろう。「豆の大木」の爺もそうだが、もしかしたら粉々になって死んだのかもしれない。

 天梯樹を登る他にも、唐傘屋が傘に掴まって風に飛ばされて天に行き、雷神と会って…(以下は大体同じ)となる類話も日本にある。

 天に昇った人間が天界に留まって神の眷属になる話は色々あるが、このサイト内にある例話で【童子と人食い鬼】話群に近いのはオセアニアの「月の中の乙女」である。この話では太陽や雷といった神々は人食いだが、唯一、月だけが昇天した娘を食わずに妻にする。

 

 一応。「いきがポーンとさけた」は昔話の結句で、「一期いちご栄えた」が変化したものである。



お天道さまに届いた豆  日本 福島県

 昔、あるところに大層ケチな爺さまと婆さまがあった。この夫婦の毎日の楽しみは、そちこち歩き回っては わらじの腐ったのだの馬の糞だのを拾ってきて、縁の下に大事に隠しておくことだった。

 ある日、爺さまはえんどう豆を一粒拾ってきて、いつものところに隠しておいた。するとひょろひょろ芽が出てきて、ぐんぐん伸びて、縁側の板を突き抜け天井板を突き抜け、とうとう天まで届いてしまった。そこで爺さまは、「天とはどんなとこだか、見てくるべ」と思って、豆の蔓につかまって登っていった。

 天に着いてみると、そこは広い広いところであったが、目の前にまっすぐな道が続いていたから、そこをどんどん歩いていった。行ってみると大きな臼があって、中から美味そうな匂いがしている。爺さまは腹が減っていたから覗いてみると、見たこともないような菓子がどっさり入っていた。そこで爺さまは、食って食って、腹いっぱい詰め込んだ。それから、婆さまの土産にと、残りの菓子を着物に包み、また豆の蔓を伝って家に帰っていった。帰ってみると、婆さまは腹をすかせて待っておったから、大喜びであった。

 そこで、また行くことになったが、婆さまは欲深なものだから、「待てよ、爺さま一人で天に行って、どれだけ食ってくるか分からん」と思い、「おらも、一緒に付いて行く」と言った。

 そこで、爺さまは婆さまを袋に入れ、口にくわえて登り始めたが、袋の中で婆さまは待ち遠しがって、「天はまだか」「天はまだか」と何べんも訊いた。あんまり婆さまが「まだか」と訊くので、爺さまが

「まだだっ。うるさい」

と怒鳴ったとたん、口から袋が離れ、婆さまは丸くなって、ころころ落ちていった。爺さまもたまげて夢中で飛び降りたものだから、二人とも粉みじんになってしまったと。

 尊払いどんとはらい



参考文献
いまは昔 むかしは今1 瓜と竜蛇』 網野善彦/大西廣/佐竹昭広編著 福音館書店 1989.

※衝撃のバッドエンド。「ジャックと豆の木」では追ってきた大男が天から落ちて死ぬが、この話では主人公たる爺さまと婆さまが墜死する。口にくわえるのではなく、背に負っていけばよかったのに…。(ところでこの爺さまと婆さま、今で言う「ゴミ屋敷」の住民…? 昔からこういう人たちっていたんですね。)

 昔、この話の類話がTVアニメ『まんが日本昔ばなし』でアニメ化されていて、とても印象深かった。その話では床下から竹が生え出してきて、心優しい老夫婦が切らずにいると、天井を突き破って伸びて月に達する。爺さんが登っていくと天の国で大変な歓待を受けた。帰って婆さんにその話をすると、婆さんは羨ましがって自分も行きたいとせがむ。そこで爺さんは婆さんを袋に入れて口にくわえて登っていくことにした。ただし、途中で口を開いたら落としてしまう、自分はお喋り好きでついつい話してしまうかもしれないから、天に着いてもう話していいと自分が言うまで決して話しかけるなよ、と婆さんに言い含めて。そうして登っていったのだが、途中で爺さんが何かで唸ったのを聞いて、婆さんはもう話してもいいのだと勘違いしてしまった。それでウキウキと「天の国はどんなところかのう。なあ、爺さん」などと話しかけてくる。爺さんは返事しそうになるのを必死に我慢して登り続け、ついに天の国が見えてきた時、嬉しさのあまり「婆さん、着いたぞ!」と言ってしまった。

 その瞬間の映像は今でも忘れられない。口から離れてあっという間に小さくなっていく袋。それを見る爺さんの愕然とした顔のアップ。数瞬の後、遥か彼方下からドーン…! と大きな音が響くのだ。

 その話では爺さんは落ちず、急いで地上に下りて婆さんを探し回ったけれど、粉々になってしまったのか見つからず、ただ、それ以降 蕎麦の根が赤く染まるようになった……と語られていた。「天道さん金の鎖」や「ベトナムの七夕伝説」を想起させる話である。老夫婦が仲睦まじく善良に見えたが故に、とても悲しく感じたものだった。



参考--> 「魔法のつぼ」「金のひき臼




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