>>参考 「桃の子太郎と魔法師の娘」「物言う手」「牛飼いと織姫」「根の堅洲国

 

緑の山  フランス

 昔、一人の若者がいた。母は亡く、父と二人で生地屋を営んでいたが、父が仕入れで一週間ほど留守にした間に、カード遊びやら飲み食いやら、散々遊び呆けて財産を食い潰してしまっていた。

「どう始末をつけたらよいものか。川に身投げして溺れるしかないか」

 若者が川辺に行って水面を見つめていた時だ。一人の男がひたひたと水の上を歩いてきた。若者はもう死ぬつもりだったので騒がずに見ていると、男が尋ねた。

「何をしているのかね」

「川に身投げするんだ」

「どうして」

「財産を食い潰しちまったのさ」

「そうか。では倍の金をやろう。一年と一日の後に、緑の山に会いに来ると約束するならな」

 そう言って、謎めいた男は本当に大金をくれた。

 

 時が過ぎ、若者は約束を果たすために旅立った。道中で行き会った全ての人に緑の山への道を尋ねたが、誰もがこう答えるのだった。

「あなたはもう、決して帰っては来られないよ。あそこへ行った者で戻った者は一人もいやしないのだから」

「構いません。親父の財産を食い潰して、あそこへ行くと約束したんです。だから俺は行きます」

 とうとう若者は緑の山に着いた。そこにはあの男が――悪魔が待っていた。「こんにちは、旦那さん」と若者は挨拶をした。悪魔は言った。

「やあ、よく来たな。何でも好きに飲み食いするがいい。楽にしたまえ」

 

 翌朝になると悪魔は言った。

「この木の斧を持つんだ。今日の仕事を教えるから」

 そして若者を森へ連れて行くと命じた。

「日暮れまでに森じゅうの木を伐り、薪にして束ねるのだ」

 なんてこった。森を眺めた若者は思った。

「そんなこと絶対に出来っこない。やるだけ無駄だ」

 

 昼近くになると、悪魔は三人の娘のうち、一番年上の娘に言った。

「あの男に昼飯を持っていってやれ」

「いやよ」と一番上の娘は言った。

 そこで、悪魔は二番目の娘に言った。

「お前が行っておいで」

「いや」と二番目の娘は言った。

 それで悪魔は末の娘に言った。

「あいつに弁当を運ぶのはお前の役目だよ、金髪ちゃん」

「喜んで」

 末娘は出かけていった。森へ着くと、若者は何もしないで寝そべっていた。

「それで仕事になるの。まだ何もしてないじゃない」

「どうして木の斧だけで森じゅうの木を切り倒せるって言うんだ」

「ほら、お弁当を食べて。もし私の言うことを信じるなら、二時間後には森じゅうの木が薪の束になってるわ」

 若者が弁当を食べ終わると、末娘は言った。

「小さな杖をあげるから、それで大きな薪の山を三回叩いて、後はそこで寝てしまいなさい。もの凄い音がして怖いかもしれないけど、怖がっては駄目よ、何も危険はないから。目を覚ましては駄目。決して頭を上げたり見回したりしないことね。

 それで今晩、お父さんの家へ戻るときっとこう聞かれるわ。『さあて若いの、よく働いたかな』って。返事はこうよ。『見に行ってください、見れば分かるでしょう』ってね」

 全て悪魔の娘の言ったとおりになった。夜、悪魔に「よく働いたかな」と聞かれた若者は答えた。

「見に行ってください、見れば分かるでしょう」

「若いの、よくやった。食事をするがいい。明日の朝はきつい仕事が待っているからな」

 あくる朝、食事を済ませると悪魔は若者に小さな鉢を渡し、池の端へ連れて行った。

「そら、今日はこの池の水を干すんだ。日暮れには池から土埃が舞い上がるようにするんだぞ」

 昼食の時間になると、悪魔は金髪の末娘に命じて弁当を持って行かせた。若者は足を水につけて寝そべっていた。

「あんたのしたことはそれだけなの」

「お前の親父さんのくれた小さな鉢で池の水を空にするなんて、とても出来っこないぜ」

「私を信じるなら、安心してお弁当を食べなさい。何もしなくていいわ。もう一つ別の鉢を持ってきたのよ。あんたは足を水から出して、乾いたところで寝ていなさい。森の時と同じように大きな音がするけど、目を覚ましては駄目よ。何が聞こえても身動きしないでね。何も聞こえなくなったら起きて周りを見てみるといいわ。池が乾いて土埃が上がっているから。

 お父さんがまた『よく働いたかい』って聞くから、『見に行ってください、見れば分かるでしょう』と答えるのよ」

 若者は池のほとりで眠った。雷鳴が轟いて辺り一帯が揺れ動いたが、じっとしていた。全てが静かになってから頭を起こしてみると、池から土埃が上がっていた。

 夜になって戻ると悪魔が前の日と同じ質問をしたので、同じように答えた。

「食事をするがいい。明日の朝はまた辛い仕事が待っているからな」

 あくる朝、悪魔は若者を起こして食事をさせると、緑の山へ連れて行った。その山の高さは二百ピエ(64.8m)もあり、すべすべしてとても登りようがないのは一目で分かった。悪魔は言った。

「この山の頂上に、キジバトの卵が三つある。今晩までに、それを壊さないように持って来るんだ」

 若者は前の二回の時と同じように「出来っこない」と思った。そして緑の山の麓で横になった。

 金髪の娘が父親に命じられて昼食を持っていくと、若者はぼんやり座っていて、時々頂上を見上げていた。

「登ってみたの?」

「とても登れやしないよ」

「よく聞いて、今回は手順が複雑だから。ほら、お鍋を持ってきたのよ。これに水を張って、よく起こした火にかけるの。そして私を小さく切って煮るのよ。肉から骨を全部抜き取ったら、一本ずつ緑の山の斜面に挿し込みなさい。それを梯子の代わりにするの。私の骨を全部使えば頂上まで行けるわ」

 若者は金髪の娘を煮て、骨を外し、娘が父親の目を掠めて鍋と一緒に持ってきたナプキンに包んだ。そして骨を一本ずつ挿し込んでは、緑の山の頂上まで登って行った。そこには確かに卵が三つあった。

「おっと。壊さないようにしないとな」

 若者は卵を袋に入れると肩に背負った。金髪の娘はこういうことも若者に注意してあった。

「降りる時は、私の骨を全部拾い集めてナプキンに包むのよ。緑の山の麓まで降りたら、鍋に入れて煮てちょうだい。そうすれば私は元に戻るから」

 若者は全ての骨を拾って山を降りた。鍋の中で充分に煮えると、骨は元の金髪の娘に戻ったが、こう言った。

「左手の小指の爪を、緑の山のてっぺんに忘れてきたわね」

「そうかもしれないな」

 けれども娘は言った。「でも、それはきっと私たちの役に立つわ」と。

 

 あくる日になると、悪魔は若者に言った。

「お前はよく働いた。わしの娘の一人を選ぶがいい」

 そして若者に目隠しをして娘たちの前に連れて行った。若者は昨日金髪の娘に教えられていた通りに、最初の娘の左手に触った。

「いいえ、この人ではない」

 次の娘の時もそう言った。最後の娘の左手を取ると、小指の爪が欠けていた。

「この人だ。僕の望む人だ」

 そういうわけで悪魔は金髪の娘を若者の妻として与えたが、娘には父親の計略が分かっていた。

 結婚した二人に向かい、悪魔は「寝室へ行って休みなさい」と言った。ベッドに入るとすぐに妻は若者に話した。

「よく聞いて。父は今晩、あなたを殺すつもりなのよ。私の血管を刺して、部屋の中に三滴の血を落としてちょうだい。それから馬小屋へ行って。父の三頭の馬、大風、中風、小風がいるから、《大風》を連れてくるのよ」

 けれども、若者は間違えて《小風》を引いてきた。金髪の娘は言った。

「逃げましょう。父が寝室のドアの前まで来ても、三滴の血が代わりに返事をして時間を稼いでくれるわ」

 果たして、悪魔は寝室のドアの前にやって来た。

「眠っているかい、子供たち」

 すると部屋の中から金髪の娘の声が返った。

「いいえ、まだよ」

 けれどもそれは、残された三滴の血の声だったのだ。悪魔は二度、三度とドアの前に行って声をかけた。三度目に、戻って「あいつらちっとも眠らないな」と女房に言うと、こう言われた。

「お前さんは抜けてるよ。あそこで返事をしてるのが何だか知らないの。答えているのは娘の血なのさ。娘はとっくの昔に、婿と一緒に逃げ出しているんだよ」

 それを知ると悪魔は怒り狂った。「やつらを追いかけるぞ」と家を飛び出した。

 

 若者と娘は馬の《小風》に乗って駆け続けていた。娘は夫に何度も言った。

「注意して。あなたが《小風》を選んだから、父さんは倍の速さの《大風》で追いついてくるわ」

 若者は馬を走らせながら時々振り返った。かなり進んでから娘が尋ねた。

「《大風》が見える?」

「見えるよ、《大風》が。猛り狂ってこっちへ向かっている」

「じっとして。私はサクランボに、《小風》はサクランボの木に変わるから。あなたは木に登って私を摘むの。父さんが『男と女を見なかったか』って聞いたら、『サクランボはまだ熟してない』って答えるのよ」

 その通りになり、悪魔は何も見つからなかったとぼやきながら帰っていった。

「また追いかけてくるわ。母さんが、あれは私たちだったと教えるだろうから」

 果たして、家に帰った悪魔が出会ったものについて説明すると、女房は言った。

「《小風》がサクランボの木で、娘がサクランボ。摘んでいた男が婿だったんだよ」

 悪魔はますます怒ってまた追跡にかかった。逃走を続ける金髪の娘は後ろを注意するよう促していたが、再び若者が言った。

「あそこにやって来たぞ」

「静かにして。《小風》が犬に、私が鉄砲に、あなたが猟師に変われるように。父さんが『男と女が通るのを見たか』と尋ねたら、『獲物はさっぱりだ』と答えるのよ」

 悪魔がそこに来た時、若者たちは既に変身していた。

「すまんが、そこのお方。馬に乗った男と女を見なかったかね」

「獲物はさっぱりだ」

「そんなこと聞いてるんじゃない」

「どんな獲物を獲りたいのかね。さっぱりいないがね」

 話が通じやしない、愚か者に関わったものだ。そう思いながら悪魔は戻っていった。悪魔が家で女房に真実を教えられるまでの間に距離を稼ぎながら、金髪の娘は夫に言った。

「父さんに追いつかれる前に、聖地に着くことが出来れば逃げられるわ」

 やがて悪魔が追いついてきた。あと五、六メートルで捕まりそうになった時、金髪の娘が叫んだ。

「やった、私たち越えるわよ」

《小風》が聖地への柵を跳び越えた。悪魔はもはや手を出せず、戻って女房にこの結末を話すことになった。

 

 聖地は、若者の故郷からそう遠くはなかった。金髪の娘はこの町の外れに美しい城を建てさせ、二人はここに住むことにした。娘は言った。

「私たちはこの町に住むことが出来るわ。でも、顔を見分けられないよう注意してね。知っている人に会っても、決して挨拶のキスを交わしては駄目よ。もし誰かとキスしたら、あなたは私のことを忘れてしまうのだから」

 ある日、若者は散歩に出かけ、いろんな人と握手はしたが誰ともキスはしなかった。ところが偶然にも名付け親の代母に出会った。彼女と喜びの抱擁を交わしたとき、ついキスをしてしまった。彼はたちまち娘と結婚したことを忘れて、元のように父親の家に帰って、昔の友達と付き合うようになった。

 そんなある日、友達の一人が言った。

「町外れの城に、すごい美人が住んでるぞ。お前も見に行ってみろよ」

 別の友達は言った。

「どうして誰もあの女と一晩過ごしてみようとしないんだ」

 その友達は出かけていって、彼女と一夜を過ごしたいと図々しく願った。彼女が「では今晩いらっしゃい」と言ったので、同じ寝室で寝るつもりで出かけて行ったが、やっていたことと言えば、いくら閉めても開いてしまうガラス窓を閉めるために一晩中ウロウロすることだけで、ベッドに行くことすら出来なかった。それでも彼は見栄を張って、翌日に友達に「どうだ、よかったか」と問われると「素晴らしい夜だったよ。お前も行ってみな。断られりゃしないから」と言った。

 そこでその友達も出かけて行ったが、ベッドに行こうとすると尿瓶しびんが一杯で、いくら捨ててもいつも一杯なので、一晩中それを空けてばかりで、ベッドに足を入れることさえ出来なかった。

 今度は若者が友達に聞いた。

「どうだ、昨夜は楽しかったかい」

「お前も行ってみろよ」と、二人の友達は答えた。

 若者は城へ出かけて行った。そこが自分の家で、その美しい娘が自分の妻だということも思い出さずに「娘さん、あなたと一緒に夜を過ごさせてください」と頼み込んだ。すると娘は若者にキスをした。

「私を忘れてしまったのね。私が何て忠告したか覚えていないの? 誰にもキスを許しては駄目と言ったでしょ。あなたの友達は、どんな風に夜を過ごしたか話さなかったの。一人はパジャマのままで窓を閉めてばかりいたし、もう一人は尿瓶を空けるのに追われていたのよ」

 若者は妻のことを思い出した。

「私たちは、聖地で結婚しなくてはならないわ。そうすれば、あなたは両親のことも私のことも、両方覚えていられるようになるから」

 そういうわけで、二人は聖地で結婚したのだった。父親を呼び寄せ、家族揃って美しい城で暮らしたそうだ。



参考文献
『フランス民話集』 新倉朗子編訳 岩波文庫 1993.

※「緑(青)」は西欧の伝承では悪魔の色とされる。緑の服、緑のひげ(青ひげ)、緑の歯を持つ登場人物は異能の力を持ち異界に属している。悪魔や妖精や妖怪…即ち、キリスト教以前の土着の神やその信仰を表す色だ。そんな悪魔と出会い、ついには打ち負かす主人公がばくち打ちや大酒飲みだというモチーフは「ジャック・オ・ランタン」でも見受けられる。

「緑の山」が西欧の民話にしばしば登場する「ガラスの山」と同じもので、即ち冥界を暗示していることはお分かりかと思う。だから、そこへ向かう若者に人々は「二度と戻れない、誰もそこから帰った者はいない」と言うのだ。「聖地」は冥界に対する現界のことだが、「古い土着の信仰」に対する「キリスト教世界」でもあるだろう。実際、西欧の呪的逃走では、最後に主人公たちが教会と司祭に変身したり、教会に逃げ込むことで追跡から逃れたと語るものがある。ともあれ、あの世のモノはこの世には出てこられない。「賢いモリー」で人食い鬼が髪の毛一本橋を渡ることが出来ないように、イザナギが千引の岩で黄泉比良坂を塞ぐとイザナミはそれを突破できないように、境界である柵を越えられると死者は追って来れないのだ。

 簡単には登れない緑の山の上にある三つの卵は、[三つの愛のオレンジ]の三個のオレンジや「うぐいすの浄土」の開かずの座敷にある三つの鶯の卵と同じものだと思われる。それは魂だ。三つの卵は悪魔(冥界神)の三人の娘そのものでもある。若者はそれを手に入れることで娘と結婚できた。

 またそれは祖霊の魂でもあって、それを手に入れたということは、先祖からの血統と霊的知識を受け継いだ、という意味もあると考えられる。

 

 冥界神が訪ねて来た人間を自分の子と結婚させるが、その初夜の真夜中に部屋に行って殺そうとするというモチーフは「クワシ・ギナモア童子」にも現れている。

 

 ところで、呪的逃走の部分がしっかりしていたのでこれを例話に選んだが、この系統の物語としては細部が崩れていて話のつなぎがおかしく、惜しい。よって以下に例話を記す。これは呪的逃走の条が欠けているのだが、それ以外はよく整っている。

黒い山と三羽のあひる   フランス

 昔、アンリという男がいた。小さな畑を持っていて懸命に働いていたが、悪いことに賭け事が好きで、夜になると賭博場へ出かけてはすってしまうのだった。

 ある晩、彼は夢中になって、持っていた金どころか全財産を賭けて失ってしまった。失意に暮れた帰り道、通りかかった墓地で十字架に縄をかけて首吊りしようとすると、闇の中から暗い顔つきの男が現れて彼の名を呼び、訳を聞いて金貨の詰まった鍋をくれた。この金を一年と一日で使いきり、空になった鍋を黒い山に返しに来るのが条件だと。言い終わると男は再び闇に消えた。

 アンリは一年間好き勝手に暮らし、けれど賭け事だけはスッパリやめた。一年と一日後、空になった鍋を持って黒い山を訪ね歩く旅に出た。けれども誰もそこを知らなかった。

 果てなく旅を続けるうち、荒れ果てた国にやって来た。畑は一つもなく、耕されたことのない荒地が広がっていて、森は暗く谷は深かった。一軒の小屋を見つけて戸を叩くと、「何の用か」と老人が出てきた。

「黒い山を探しているんです」
「わしは二百年以上生きてきたが、そんなものは聞いたことがない。しかしこっちの方角へ行けば教えてくれる者に会えるだろう」

 若者は進み、進むにつれて土地は更に荒れた。二軒目の小屋の戸を叩くと前よりもっと年取った老人が出てきた。「何の用か」。

「黒い山を探しているんです」
「わしは千年も生きてきて、思い出すことも出来なくなっておる。しかしこっちの方角へ行けば教えてくれる者に会えるだろう」

 更に進むと谷間に一軒の小屋があった。戸を叩くと一人の老婆が出てきた。「何の用だい」。

「黒い山を探しているんです」
「そんな風に探していても行けやしないさ。どうしても行きたいなら方法を教えてやろう。
 まっすぐ行くと盆地に牧場がある。その牧場に池があって、三羽のあひるが泳ぎにやってくる。黒いのと灰色のと白いのさ。あひるが水から上がってきた時に、白いやつを捕まえて翼の羽根を一本抜くんだ。そうすれば黒い山へ行く道が分かる」

 アンリは老婆に言われたとおりにして、白いあひるの羽を抜いた。するとどうだろう。鳥は飛びそこなって地面に落ちた途端に、白い衣を着た目の覚めるように美しい女になっていたのだ。

「あんた何ていうの?」と娘は訊ねた。
「アンリ」
「何をしてほしいの?」
「黒い山へ行きたいんだ」
「この盆地の向こうに山があるわ。それが黒い山よ。山の上にお城があるわ。私のお父さんのお城。お父さんは竜人ドラクなのよ。他のあひるは姉さんたち。
 でもお城に行ったら注意してね。お父さんが食事を勧めてくれるけど、出されたものは何も飲み食いしちゃ駄目よ。その後はカードゲームになるわ。その時、お父さんはカードを落とすけれど、拾っちゃ駄目。自分で拾いなさいって言うの。最後に寝室に案内してくれるわ。でも寝ては駄目よ。後は私が行って説明してあげるわ」

 アンリは娘に教えられた方角へ進み、いかめしい様子の大きな城に着いた。ドアを叩くとあの男…ドラクが現れて鍋を受け取り、アンリを迎え入れた。娘が言った通りにドラクは夕食をふるまったが、それは胡桃の殻と塩水だった。ドラクはがつがつと食べたがアンリは手をつけなかった。食後にドラクはカードで遊ぼうと言い出した。カードを一枚落として「拾ってくれ」と言ったが、アンリは「自分で拾いな」と返した。ドラクは「そろそろ寝る時間だ」と立ち上がってアンリを寝室に案内した。

 アンリはベッドに入ったが眠りはしなかった。まもなくドアがノックされ、白い娘がパンと肉と酒を持って入ってきた。

「これは食べてもいいの。何も不都合なことにはならないわ。でも、食べ終わったらベッドの上じゃなく、下で寝るのよ」

 娘は帰り、アンリはベッドの下に寝た。夜中に物音で目が覚めた。ドラクが煙突から入ってきて、すきでベッドを突き刺すと出て行った。

 翌朝、アンリが何事も無い様子で居間に降りてきたのを見て、ドラクは驚いた。

「よく眠れたかね?」
「いや。ベッドに南京虫がいて、刺されたよ」

 その日も上手くいった。アンリはドラクの出した食事を食べず、カードを拾わず、寝室に行って娘に食べ物と飲み物をもらって、言われたとおりにたんすの中に隠れた。夜中にドラクが煙突から入ってきて、ベッドに油を垂らして火をつけると出て行った。

 翌日、アンリが降りていくとドラクはまたまた驚いてしまった。

「よく眠れたかね?」
「いや。この家ときたらひどい臭いがするじゃないか。煙ったくてたまらんよ」

 その日も何事もなく過ぎた。アンリはドラクの出した食事を食べず、カードを拾わず、寝室に行って娘に食べ物と飲み物をもらった。娘は言った。

「今晩は部屋で寝ない方がいいわ。地下室で休みなさいな」

 真夜中になるとドラクは煙突からやってきて、部屋中ひっくり返してめちゃくちゃに壊した。床に穴が開くほど破壊すると、ドラクは出て行った。

 翌朝、アンリが地下室から出てきたのを見てドラクは仰天した。

「よく眠れたかね?」
「いや。この家はあまり丈夫じゃないな。部屋の床に穴が開いて、地下まで落っこちてしまったよ」
「それなら修理させないとな。ところで、うちにいる以上は食費と部屋代を稼いでもらわにゃならん。あそこに森が見えるだろう? あの木を全部、日が沈む前までに切り倒して束ねてくれ。道具ならここにある」

 ドラクはガラスの斧を渡してきた。アンリは森へ行って斧を振るってみたが、最初の一撃で斧は粉々に砕けてしまった。困り果てていると娘がやって来た。

「心配しないでいいわ。私がやってあげるから」

 娘が杖を持って命じると、あっという間に、森の木はみんな切り倒されて重ねられた。夕方にやって来たドラクはこれを見て驚いた。

 翌日もドラクはこう言った。「うちにいる以上は食べる分だけは働いてもらうからな。あそこに池があるだろう。日が沈む前までにあの池の水を全部掻い出して、魚を仕分けしてくれ。道具はこいつだ」

 その道具というのはふるいだった。アンリは池に行って水を汲んでみたが、勿論そんなことは出来はしない。そこへ娘がやって来た。

「心配しないで。私に任せといて」

 彼女が杖を一振りして命令すると、池は空になり魚は仕分けされていた。あっという間に。

 ドラクは仕事が完璧に行われているのを見て仰天した。翌日にはこう言った。

「生活費のつもりで、日が沈む前にあの塔の上の風見鶏を取って来てくれ。ただ、ここには梯子はないし、屋根はつるつるなんだが。ま、何とかやってみてくれ。どうしてもあの鶏が欲しいんでな」

 アンリは困り果てて頭を抱えて唸ってしまった。そこへ娘がやって来た。

「心配いらないわ。私の言うとおりにして。まず薪を拾ってきて火を起こして。それから大釜いっぱいにお湯を沸かして。お湯が沸いたら私を細切れにしてその中に入れるの」
「君を細切れになんて出来ないよ」
「私の言ったとおりにして。少しも悪いことは起こらないのよ。私の体を煮詰めたら肉が骨から離れるわ。その骨を取って、順に壁に並べるの。それを足掛かりにすれば塔に登れるわ。鶏を取ったら降りてきて、その時、私の骨を一つ一つ拾うの。下に降りたら、その骨をみんな釜の中に入れて。そして釜のお湯を沸騰させたら、私が元のまま出てくるわ」

 アンリは娘が言ったとおりにした。ただ、下に降りたときに足の小指の骨を忘れてきたことに気がついた。取りに戻ろうかと思ったが時間がなく、やむなくそのまま鍋で煮た。すると足の小指以外は完璧な、前以上に光り輝く娘が現れた。

 アンリが風見鶏を持っていくと、ドラクは驚きながらもこう言った。

「うちの娘たちの中に、お前さんに惚れていて結婚したいと思ってるヤツがいるから、明日、そいつを選んでくれ。ただ、三人とも布を被っている。そのままで選ぶんだ。選びそこなったら、気の毒だがここに残ってわしの仕事をしてもらわにゃならん」

 翌日、ドラクはアンリの前に三人の娘を連れてきた。三人とも頭からすっぽりと布を被っていて顔の見分けはつかない。けれど、娘たちの足の先が布の下から覗いていることに気がついた。その中の一つには小指が欠けていた。

「この人が僕の好きな人だ」と彼は言った。ドラクは「しょうがない。とっとと連れて行ってくれ」と言った。

 こうして、アンリはドラクの娘と結婚した。


参考文献
フランス民話より ふしぎな愛の物語』 篠田知和基編訳 ちくま文庫 1992.

※娘との出会いが【白鳥乙女】型になっているが、これはこの話群では珍しくないことのようだ。

 いわゆる七夕伝説は、この話群にかなり近い。ただ、七夕伝説は

現界での結婚生活→異界へ渡る(夫に追われる妻、という形の呪的逃走)→舅または姑からの難題→川で隔てられる

 というものだが、こちらは

異界へ渡る→舅または姑からの難題→呪的逃走→現界での結婚生活

 と、エピソードの順番と結論が異なっている。[魔法使いの娘]は現界で結婚するハッピーエンドだが、七夕伝説では夫婦は引き裂かれるバッドエンドとなる。

 

 この話群でよく注目されるのは、悪魔の娘が自らを切り刻ませ鍋で煮込ませる、というショッキングなエピソードだ。<死者の歌のあれこれ〜食人の神話>などで散々書いたけれども、これは「地獄の釜で煮られて再生する〜冥界の女神の子宮に入って生み直される」という信仰が根底にあるものと考えている。「黒い山と三羽のあひる」で、悪魔が金貨を鍋に入れて渡してくることとも、この信仰は無関係ではない。(錬金術と関連づける説もあるようだが、私はそちらの方が新しい、後付けの解釈だと考えている。)

 なお、同じフランスの類話「緑の羽根の娘」では、娘は白猫に変化し、その姿で殺されて鍋で煮られる。そして残った骨を並べて杖を振ると娘が再生する。この、骨を並べて再生させるモチーフは、北欧神話でトール神が自分の山羊を殺して貧しい人々に肉を食べさせ、その後に皮に骨を並べて鎚で祝福し甦らせるエピソードと同一である。トール神は骨を割って髄を吸ってはならないと戒めていた。しかし一人の人間がこっそりそうしていたために、甦った山羊の片足は不自由になっていたという。同様に、ギリシア神話でリュディア王タンタロスが我が子ペロプスを料理して神々に饗し、神々がペロプスの肉を鍋で煮込んでより美しく甦らせた時、彼の肩の肉だけは女神デメテルが食べてしまっていたため欠けており、それを象牙で補った、とされている。

 部分欠損の要素が無いものならインドネシアの民話「プチュク・カルンパン」や、日本の西行法師の伝説にも見られる。骨を集めて再生の儀を行うのだ。



海の王と賢いワシリーサ  ロシア

 遠い遠いある国に、王さまとお妃が暮らしていました。二人には子供がいませんでした。

 あるとき王さまは旅に出て、遠くの国を巡り歩き、長いあいだ家を留守にしました。やがて旅を終え、帰りの道を急いでいたときのことです。その日はとても暑くて、太陽が焼けつくように照っていました。喉が渇いて死にそうな気分になった王さまは、近くに大きな湖を見つけて馬から降り、腹ばいになると飲み続けました。すると突然、誰かが王さまのあごひげをグッと掴んだのです。

「放してくれ!」

「いや、放さぬ。わしに断りもなく水を飲むとは、けしからん!」

 それは海の王でした。ひげを掴まれて身動きもならない王さまは、一生懸命頼みました。

「なんでも望みのものを差し上げよう。とにかく放してくれ!」

「では、貴公の家にある、貴公の知らぬものをいただこう」

 王さまは考えましたが、そんな物があるとは思えませんでした。そこで申し出を受けると、もう、あごひげは誰にも掴まれていませんでした。

 王さまは馬に乗って急いで帰りました。家に帰り着くと、お妃が小さな赤ん坊を抱いて、喜び勇んで出迎えました。王さまが留守にしていた間に、お妃は王子を産んでいたのです。

 待ち望んでいた子供でした。けれど、王さまはその可愛らしい赤ちゃんを見た途端に泣き出しました。訳を聞いたお妃も一緒に泣きました。けれども、どんなに泣いてもどうにもならないのです。

 それから日々は流れ、その子、イワン王子はぐんぐん育ちました。まるでパン種を入れた捏ね粉のように、日毎どころか時間ごとに大きくなり、立派な少年になりました。

 けれども、王さまの心は暗く沈むばかりでした。

(いつまで手元に置いてみても、結局は手放さなければならない。こればかりは仕方がないことだ)

 王さまはとうとう決心して、ある日、イワン王子の手を引いてあの湖へ連れて行き、こう言いました。

「わしの指輪を探しておくれ。昨日、ここでうっかり落としてしまったのだ」

 そして息子が指輪を探し始めると、そっと帰ってしまったのです。

 イワン王子が指輪を探して、湖に沿って歩いていると、お婆さんに出会いました。

「イワン王子さま、どちらへお出かけかね?」

「うるさい! ほっとけよ、ババァ!」

「それじゃ、ごきげんよう!」

 お婆さんは行ってしまいました。後でイワン王子は考え込みました。「なぜ、あのお婆さんを怒鳴りつけたりしたんだろう? すぐに呼び戻して謝ろう。年寄りは賢くて、よく気がつくから、何かいい知恵を出してくれるかもしれない」

 王子は、さっそくお婆さんを追いかけました。

「お婆さん、あんな馬鹿なことを言って済みませんでした。いらいらしてたので、つい怒鳴ってしまいました。父に指輪を探せと言いつけられて探し回っているのに、どこにも見つからないんです」

「王子さま、あんたは指輪探しのためにここに連れて来られたんじゃありません。お父さんが海の王に、あんたをやってしまわれたんです。今に海の王がやってきて、あんたを海底の国へ連れて行くでしょうよ」

 王子は泣き出しました。

「さあさ、泣かないで、イワン王子さま! 今によいこともありますよ。でも、そのためにはこの婆の言うことをよく聞いてくださいよ。

 そこのスグリの茂みに隠れて、じっと身を潜めておいでなさい。やがて十二羽の鳩が飛んできます。みんな美しい娘たちなんですよ。で、その後から十三羽目の鳩がやってきます。みんな、湖で水浴びを始めます。

 そしたら王子さま、十三番目の娘の脱いだ薄い肌着を隠しておしまいなさい。指輪をもらうまで、決して返しちゃいけませんよ。いいですか。これが出来なかったら、もうあんたの命はおしまいですからね。

 海の王の御殿の周りは、ぐるっと高い柵で囲ってあって、それぞれの杭に人間の頭が突き刺してあります。ただ一本だけ刺してないのがありますが、そこにあなたの首が突き刺されることのないように用心することですよ」

 イワン王子はお婆さんにお礼を言って、スグリの茂みに隠れ、じっと待ち続けました。すると、突然十二羽の鳩が飛んできました。次々と地面に体をぶつけると、一人残らず、絵にも描けないほど美しい娘に変わりました。みんな着物を脱いで湖に入ると、水を掛け合ったり笑ったり歌をうたったりしました。やがて十三羽目の鳩が飛んできました。地面にぶつかって美しい娘に変わると、白い体から透き通るような肌着を脱いで、水浴びを始めました。他の誰よりも愛らしく美しい娘でした。

 イワン王子は吸いつけられたようにその娘に見とれていましたが、やっとお婆さんの言いつけを思い出して、そっと肌着を盗みました。

 岸に上がった娘は、肌着がないことに気がつきました。他の娘たちも一緒に探し回りましたが、どこにも見つかりません。

「もういいわ、お姉さまたち。先にお帰りになって。私が悪いんですもの。もっと気をつけなければならなかったのに。でも、自分で何とかしますから」

 十二人の姉たちは、地面に体をぶつけて鳩になると、翼を羽ばたかせて飛んで行きました。娘は、一人になると辺りを見回して、低い声で呼びかけました。

「私の肌着をお持ちの方、どうかここへ出ていらして。お年寄りなら、お父さまになって。年上の方なら、優しいお兄さまになって。同い年なら、大事なお友達になってくださいな」

 それを聞くとすぐに、イワン王子は姿を見せました。娘は、イワン王子に金の指輪を渡して言いました。

「まあ、イワン王子! 何故もっと早くおいでにならなかったの? 海の王はご立腹よ。さあ、これが海の国へ行く道。思い切ってお進みなさい。向こうでまたお会いしましょう。私は海の王の娘、賢いワシリーサよ」

 賢いワシリーサは鳩に姿を変えると、王子に別れを告げて飛んで行きました。そしてイワン王子は海の国へ向かいました。

 海の底の世界は地上とそっくりで、野原も牧場も森もあり、ぽかぽかと日が照っていました。王子は海の王に挨拶に行きました。海の王は王子を怒鳴りつけました。

「何故もっと早く来なかった? 罰として仕事をやろう。ここにはとてつもなく広い荒地がある。石ころと溝と谷ばかりだ! あそこを今夜のうちに手の平のようになだらかにして麦を蒔き、明日の朝には、その麦をカラスが身を隠せるほどの丈に高く育てるのだ。これが出来なければ首を切るぞ!」

 イワン王子は、しくしく泣きながら海の王のもとを去りました。賢いワシリーサは、自分の御殿の高い窓から王子を見つけて声をかけました。

「ごきげんよう、イワン王子! 泣いたりしてどうなさったの?」

「これが泣かずにいられるか。海の王に言いつけられたんだ。たった一晩で、荒地の溝や谷や石ころを平らにして麦を蒔け、おまけに、朝までに麦をカラスが隠れるくらい大きくしろって」

「そんなの何でもないことよ。困ったことはもっと先に起こると思うわ。いいから早くおやすみなさい。一晩眠れば良い知恵も浮かぶって言うもの。みんな上手くいくはずよ!」

 イワン王子が眠ると、賢いワシリーサは御殿の戸口に立って大声で呼びかけました。

「おいで、私の忠実な召使いたち! 深い溝を埋め、尖った石を取り除き、荒地をならしておくれ! 麦を蒔いて、朝までにたわわに実らせておくれ!」

 夜明けにイワン王子が起きて眺めてみると、何もかも出来ていました。溝も谷もなく、手の平のような平地が広がり、カラスが身を隠せるほど丈の高い麦が見事に実っていました。イワン王子は海の王に、仕事を済ませたと言いに行きました。

「見事だ、よくやった」と海の王は言いました。

「では、次の仕事にかかってもらおう。わしの脱穀場には小麦の束を三百ずつ集めた積山が三百ある。 よいか、明日の朝までに黄金の小麦を一粒残さず脱穀してもらおう。だが決して束は崩してはならん。動かしてもならん。それが出来ねば首を刎ねるぞ!」

「はい、王さま。かしこまりました」とイワン王子は言いましたが、庭を歩きながら涙にくれていました。

「何を悲しそうに泣いていらっしゃるの?」と、賢いワシリーサが御殿の高い窓から尋ねました。

「これが泣かずにいられるか! 海の王は僕に言いつけたんだ。たった一晩で、一粒残さず小麦を脱穀しろって。だけど束を解いちゃいけないし、積山は崩してはならないんだ」

「そんなの何でもないことよ。困ったことはもっと先に起こると思うわ。いいから早くおやすみなさい。一晩眠れば良い知恵も浮かぶって言うもの。みんな上手くいくはずよ!」

 イワン王子が眠ると、賢いワシリーサは御殿の戸口に立って大声で呼びかけました。

「おいで、地を這う蟻よ! 世界中の蟻よ、集まっておくれ! お父さまの小麦の束から、一粒残らず小麦を取り出しておくれ!」

 翌朝、海の王はイワン王子を呼びました。

「どうじゃ。仕事は済んだかな?」

「はい、王さま。済ませました!」

「では一緒に見に行こう」

 脱穀場へ行ってみると、麦の束の積山はどこも崩れてはいませんでしたが、穀物倉には小麦が溢れていました。

「見事だ、よくやった」と海の王は言いました。

「それでは、これが最後の仕事だ。明日の朝までに、混じりけのない蜜蝋で教会を建ててもらおう」

 庭を歩きながら、イワン王子はまた涙にくれました。

「何を悲しそうに泣いていらっしゃるの?」と、賢いワシリーサが御殿の高い窓から尋ねました。

「これが泣かずにいられるか? 海の王がたった一晩で蜜蝋の教会を作れって言うんだ」

「そんなこと、まだ困ったうちには入らないわ。本当に困ることはもっと先に起こるでしょう。早くおやすみなさい。一晩眠れば良い知恵も浮かぶって言うでしょう」

 イワン王子が眠ると、賢いワシリーサは御殿の戸口に立って大声で呼びかけました。

「おいで、働き者のミツバチよ! 世界中のミツバチよ、集まっておくれ! 混じりけのない蜜蝋で、明日の朝までに教会を建てておくれ!」

 翌朝、イワン王子が目を覚ましてみると、混じりけのない蜜蝋で出来た協会が建っていました。王子は、さっそく海の王に知らせに行きました。

「よくやった、イワン王子! わしは今まで、お前ほどの家来を持ったことがない。褒美として、わしの跡継ぎにしてやろう。わしの国を残らず譲ろう。わしの十三人の娘から一人、誰なりと妻に選ぶがよい

 イワン王子は賢いワシリーサを選びました。すぐに結婚式となり、お祝いの宴は三日も続きました。

 さて、何日か、何ヶ月か、何年か過ぎると、イワン王子は家が恋しくなり、国に帰りたくなりました。

「イワン王子、どうなさったの? そんなに悲しい顔をして」

「ああ、賢いワシリーサ。父と母が恋しくて、故郷のロシアに帰りたくてたまらないんだ」

「ああ、本当に困ったことが起きる日がとうとう来たのよ。私たちが逃げ出したら、海の王は火のように怒って、大変な追手を差し向けるわ。私たちを生かしてはおかないでしょう。何とか知恵を絞らなければ!」

 賢いワシリーサは、部屋の三つの隅に唾を吐き、御殿の戸に鍵をかけて、イワン王子と一緒にロシアに向かって逃げ出しました。

 次の日の朝早く、海の王の使いが来て戸を叩きました。

「起きてください。父王さまがお呼びです」

 すると、部屋から返事が聞こえました。

「まだ早いわ。まだ眠たいの。もっと後にして!」

 それは部屋に吐かれた唾が出した声でした。使者は帰って、一時間待つと、また戸を叩きました。

「もう寝ている時間ではありません。起きる時間です!」

「少し待って。今起きて、着物を着るから」と、二つ目の唾が答えました。何をぐずぐずしているのかと海の王は怒りだし、使者はもう一度戸を叩きました。

「今すぐ行きます!」と、三つ目の唾が答えました。

 使者はしばらく待っていましたが、また戸を叩きました。しかしウンともスンとも返事はありません。戸を壊して入ってみると、御殿の中はもぬけの殻でした。

 王女と王子が逃げ出したと聞いた海の王は火のように怒って、大部隊に二人を追わせました。

 その間に、賢いワシリーサとイワン王子はただの一度も休まず矢のように早く馬を走らせ、遠くまで逃げていました。

「イワン王子、ちょっと馬から降りて、地面に耳を付けて聞いてみてくださる? 海の王の追手が来ているかどうか」

 イワン王子は馬から飛び降りて、地面に耳を付けて言いました。

「人の話し声と馬の足音が聞こえる!」

「それだわ! 私たちを追いかけて来たのよ!」

 そう言うとすぐに、賢いワシリーサは馬を緑の牧場に、イワン王子を老いた羊飼いに変え、自分は大人しい羊になりすましました。そこへ、追手がやってきました。

「おい、爺さん。立派な若者と美しい姫が通るのを見かけなかったか?」

「いいや、見なかったなぁ」と、イワン王子は答えました。「もう四十年もここで羊飼いをやっとるが、鳥一羽、獣一匹通らなかったのう!」

 追手は引き返して行きました。

「王さま! あの道を通った者は誰もいません。羊飼いが一人いただけでした!」

「何故、その者を捕らえなかったのだ。そいつこそイワン王子だったと言うのに!」

 海の王は喚き立て、新しい追手を差し向けました。

 その間に、イワン王子と賢いワシリーサは再び馬に乗って、もっと遠くまで逃げていました。

「イワン王子、ちょっと地面に耳を付けて、追手が来ているかどうか聞いてみて」

 イワン王子は馬から降りて、地面に耳を付けて言いました。

「人の話し声と馬の足音が聞こえる」

「私たちを追いかけて来たのよ!」

 そう言うと、賢いワシリーサは教会に変身し、イワン王子を老いた神父に、馬を木に変えました。そこへ、追手がやってきました。

「もし、神父さま。羊を連れた羊飼いがここを通りませんでしたか?」

「いいや、見なかったですな。四十年の間、この教会でおつとめをしておりますが、鳥一羽、獣一匹通ったことはありません」

 追手は引き返して行きました。

「王さま! 羊飼いも羊もおりませんでした。教会に、年取った神父さまがいただけでした」

「何故、教会をぶち壊し、神父を捕らえなかった? それがあいつらだったと言うのに!」

 海の王は怒鳴って、とうとう自分が先頭に立って、イワン王子と賢いワシリーサを追いかけました。その間に、二人はずいぶん遠くまで逃げていました。また、賢いワシリーサが言いました。

「イワン王子! 地面に耳を付けてみて! 海の王の追手は追いかけてくる?」

 イワン王子は馬から降りると、地面に耳を付けました。

「人の話し声と馬の足音が聞こえるけれど、前よりずっと騒がしいよ」

「海の王が、自分で追いかけてきたのね」

 賢いワシリーサは馬を湖に変え、イワン王子を雄鴨に、自分は雌鴨になりました。

 湖に駆けつけた海の王は、そこで泳ぐつがいの鴨が何者であるかすぐに気付いて、地面に体をぶつけると鷲に姿を変えました。鷲は鴨を殺そうとしましたが、幾度襲っても無駄でした。上からさっと舞い降りて襲いかかっても、鴨たちはそれぞれ水に潜ってしまうのです。

 海の王は諦めて、水底みなぞこの国へ引き揚げていきました。賢いワシリーサとイワン王子はロシアへ向かいました。

 国境の小さな林に入ると、イワン王子は賢いワシリーサに言いました。

「君は、ここでちょっと待っていてくれないか。一足先に行って、父上と母上に挨拶してくるから」

「イワン王子、あなたは私を忘れてしまうわ!」

「忘れるものか」

「いいえ、イワン王子、あなたは忘れてしまうのよ! でも、二羽の鳩が窓にぶつかったら、私を思い出してね!」

 イワン王子は、一人で御殿へ行きました。両親は王子を見つけると、飛びつき抱きしめ、キスの雨を降らせて喜びました。イワン王子もあまりの嬉しさに、賢いワシリーサのことを綺麗に忘れてしまいました。

 一日、二日と両親と暮らして、三日目になると、イワン王子は誰か王女と結婚したいと考えるようになりました。

 一方、賢いワシリーサの方は林を出ると町に入って、パン屋に雇われました。パン作りが始まると、ワシリーサはパン生地の切れ端を二つ取ってひとつがいのハトを作り、かまどに入れました。

「おかみさん、当ててごらんなさい。このハトはどうなると思いますか?」

「どうなるって? そりゃ、焼きあがったらあたしらで食べて、それでおしまいさ!」

「いいえ、はずれ!」

 賢いワシリーサは鍵を開けて窓を開きました。途端にパンのハトは羽ばたいて、まっすぐ御殿へ飛んでいくと、窓にぶつかり始めました。御殿の召使いたちがどうやってみても追い払えません。

 それを見てやっと、イワン王子は賢いワシリーサを思い出しました。四方八方に使いをやって王女を尋ね歩かせ、パン屋で見つけ出しました。王子はワシリーサの白い手を取り、甘い唇にキスをし、両親のところへ連れて行きました。

 そして家族そろって、楽しく、幸せに暮らしました。



参考文献
『ロシアの昔話』 内田莉莎子編訳 福音館文庫 2002.

※海の王は日本の伝承で言うなら竜宮城の王、すなわち竜王に相当する存在だ。その娘のワシリーサは乙姫であり竜女である。竜女を人間界に連れ帰って結婚する話だと考えれば[竜宮女房]の一バリエーションとも言える。ただ、あちらでは竜王に友好的に娘を授けられるが、こちらでは駆け落ちとなっている。また、乙姫と結婚して竜宮で楽しく暮らしていたが、やがて故郷に帰りたくなり、元気のなくなった夫を心配して妻が問いただす…という展開は、日本神話の山幸彦の物語や[浦島太郎]を思い出させる。

 

 終盤、王子が記憶を失ってからの展開が簡略化されて崩れてしまっている。それは以下の類話を参照。

竜王と賢女ワシリーサ  ロシア(AФ219)

 ある王が狩りに行って樫の木の上の若い鷲を撃とうとして三度命乞いされた。王は鷲の望むまま、その鷲を三年間飼った。二年目に王宮の家畜は全ていなくなったが鷲はまだ飛べない。鷲の望むまま、最後の年には鷲を養うための家畜を他から借りてこなければならなかった。三年目に鷲は王を背に乗せて青い海の果てに飛んで行った。鷲は王を三度海に落として死の恐怖を教えた。それから広い野原に至って、鷲の一番下の妹の家に着いた。しかし妹は鷲を樫の木の食卓に着かせて王には猟犬をけしかけた。鷲が怒って王を連れて飛び去ると、妹の家は燃えた。中の妹の家でも同じことが起こった。だが、最後に会った一番上の妹と母は、王を大変に歓待してくれた。鷲は王に赤い箱と緑の箱を渡し、これは家に帰るまで開けてはならない、赤い箱は裏庭で、緑の箱は前庭で開けてくださいと戒めた。

 王は鷲がくれた船に乗って帰途に着いた。しかし途中である島に立ち寄ったとき、好奇心を抑えきれずに赤い箱を開けてしまった。中からはありとあらゆる家畜があふれ出し、王はこの家畜をどうやって箱に戻せばいいのかと途方にくれた。

 そのとき海の中から一人の男が現れて、家畜をすべて箱に入れてあげるから、代わりに、あなたの城の中であなたの知らないものを私にくださいと言った。王は承知して箱に家畜を収めてもらい、城に帰った。

 城に帰ると王子が生まれていた。王はこの子を渡さねばならぬのかと悲しんだが、鷲にもらった赤い箱を裏庭で開けるとあらゆる家畜が出て小屋を満たし、緑の箱を前庭で開けるとあらゆる木の繁った素晴らしい庭園が現れたので、あの海の男と約束したことなど忘れてしまった。

 そうして長い年月が過ぎたある日、王が庭園を散歩していると川の中からいつかの男が現れて、王に「約束を思い出しなさい。あなたは私に借りがあるのですよ」と言った。王は悲嘆にくれて城に帰り、妃と王子に全てを話した。みんなは悲しみに沈んで手を取り合って涙したが、致し方なく、王子は海辺に運ばれて置いていかれた。

 

 王子は辺りを見回して細い道を見つけ、歩いていった。やがて深い森に入ると、ババ・ヤガー(山姥)の小屋があった。

「こんにちは、王子。仕事を探しに来たのかい。それとも仕事を怠けに来たのかい」
「やあ、お婆さん。飲み物と食べ物を振舞ってから、何でも訊いておくれ」

 ババ・ヤガーにご馳走してもらってから、王子は事情を語った。するとババ・ヤガーは海辺へ行けと勧めた。

「そこへ十二羽のサギが飛んできて、美しい乙女の姿に身を変え、水浴びを始めるだろう。お前はそっと忍び寄って、一番年上の娘の肌着を隠してしまいなさい。その娘と仲直りしてから、竜王のもとへ出かければいい。その途中で《食いしん坊》と《大酒呑み》、《寒の太郎》に出会うだろうが、三人とも連れて行くんだよ。みんなお前の役に立つ者たちだからね」

 王子はババ・ヤガーに言われたとおりの場所へ行って茂みに隠れた。十二羽の鷺が飛んできて地面に身を打ちつけると乙女に変わり、水浴びを始めた。王子は一番年上の娘の肌着を盗むと茂みに隠れていた。やがて水から上がった娘たちはそれぞれの肌着を着て鷺に変わって飛んで行ったが、一番年上の賢女ワシリーサだけが残った。彼女は王子に懇願した。

「私の肌着を返してくださいな。その代わり、あなたが私の父の竜王のところへいらしたときには、きっとお役に立ちますわ」

 王子が肌着を返してやると、ワシリーサはすぐに鷺に身を変え、仲間の後を追って飛び去った。王子は旅を続けて《食いしん坊》と《大酒呑み》と《寒の太郎》に出会い、彼らを引き連れて竜王のもとに到着した。

「よく来たな、王子。しかしどうしてもっと早く来なかったのだ、待ちくたびれたぞ。すぐに仕事にかかってくれ。まず最初にしてもらいたいのは、大きな水晶の橋を架けることだ。明日の朝までにできていなければ、そなたの首をもらうからな」

 王子が竜王の前を辞しながら泣いていると、賢女ワシリーサが塔の小窓を開けて呼びかけた。

「王子さま、なぜ泣いていらっしゃるの」
「ああ、賢いワシリーサ。これがどうして泣かずにいられよう。あなたの父上がこの私に、一晩で水晶の橋を架けよと命じられたのです。ところが私ときたら、斧を持ったことさえないのですよ」
「そんなことなら、安心してお休みなさい。朝にはいい知恵が浮かびましょう」

 ワシリーサは王子を寝かせてから戸口に出ると、勇士のように口笛を吹き鳴らした。たちまち四方から大工や職人たちが集まってきて、水晶の橋を架けると素早く立ち去った。あくる朝、賢女ワシリーサは王子を起こして言った。

「起きなさい、王子さま。橋はもう出来ていますわ。もうじき父が見に来ますよ」

 王子が起きて箒を持ち、橋の上を掃いたり拭いたりしていると、やって来た竜王は感心して、王子を褒めた。

「見事だ。これで第一の仕事は終わった。次にしてもらいたいのは、緑の庭園作りだ。青々と葉の繁った大きな庭で、枝には小鳥がさえずり、木々には花が咲き乱れ、りんごと梨がたわわに実っているような庭園をな」

 王子が竜王の前を辞しながらハラハラと涙を落としていると、賢女ワシリーサが塔の小窓を開けて呼びかけた。

「王子さま、なぜ泣いていらっしゃるの」
「どうして泣かずにいられよう。あなたの父上が一晩で庭園を造るように命じられたのです」
「それなら、安心してお休みなさい。朝にはいい知恵が浮かびましょう」

 ワシリーサは王子を寝かせてから戸口に出ると、勇士のように口笛を吹き鳴らした。たちまち四方から庭師と園丁たちが集まってきて、木々を植え、緑の庭園を造りあげた。小鳥がさえずり、木々に花が咲き乱れ、りんごと梨がたわわに実っていた。あくる朝早く、賢女ワシリーサが王子を起こして言った。

「起きなさい、王子さま。庭はもう出来あがっていますわ。もうじき父が見に来ますよ」

 王子はサッと箒を取って庭に出て、小道を掃いたり枝ぶりを直したりしていた。竜王は褒めて言った。

「見事だ、王子よ。この仕事も立派にし遂げてくれた。褒美にわしの十二人の娘の中から花嫁を選ぶがよい。顔も髪も着ている衣装まで、一人残らず寸分違わぬ娘たちじゃ。三度まで同じ娘を選べたら、その娘とめあわせよう。だが、もし間違えたら、そなたの命をいただくからな」

 賢女ワシリーサはこれを知ると、折を見て王子に言った。

「最初は私がハンカチを振ります。二度目は衣装を直します。三度目には私の頭の上を蝿が飛ぶでしょう」

 その通りになって、王子は三度とも賢女ワシリーサを言い当てた。二人の結婚式が挙げられ、酒宴が催されることになった。

 竜王はありとあらゆる料理を山ほど、百人集まっても食べきれないほど作り、婿の王子に「残さず食べなさい」と言った。少しでも食べ残したらひどい目に遭わせるぞと。

義父ちち上、お願いがあります。私には老人の連れがいます。その老人にも一緒に料理をつまむことをお許しください」
「よかろう」

 すぐに《食いしん坊》が現れ、ぺろりと料理を平らげてまだ足りなさそうな顔をしていた。

 次に竜王はあらゆる飲み物を四十樽も用意して、婿に向かって一滴余さず飲み干すよう命じた。

「義父上、お願いがあります。私には老人の連れがもう一人います。その老人にも義父上の健康を祝って乾杯することをお許しください」
「よかろう」

《大酒呑み》が現れ、一気に四十樽を飲み干して、まだ口直しに何か飲みたいと言い出した。

 竜王はどうしても勝てないと分かると、新郎新婦のために鋳鉄ちゅうてつの蒸し風呂を焚かせた。二十把の薪が燃やされ、炉も壁も真っ赤になって、五ヴェルスタ以内に近付くことも出来ないほどだった。

「義父上、私たちが入る前に、老人の連れに湯気の加減をみさせることをお許しください」
「よかろう」

《寒の太郎》が蒸し風呂に入った。あちらこちらの隅に彼が息を吹きかけると、すぐに氷柱つららが下がった。その後で新郎と新婦が蒸し風呂に入り、よく垢を落としてから家に帰った。

「父のもとから逃げ出しましょうよ」と賢女ワシリーサが言った。「父はあなたにひどく腹を立てています。どんな危害を加えられるか分かりませんわ」
「うん、逃げ出そう」と王子は答えた。

 すぐに二人は二頭の馬に鞍を置き、広い野原へと駆け出した。どんどん駆け続けて随分時間が経った頃、賢女ワシリーサが言った。

「王子さま、馬から下りて地面に耳を当ててごらんなさい。追っ手が来ないかどうか」

 王子は大地に耳を押し付けたが何も聞こえなかった。次に賢女ワシリーサが自分の馬から降りてそうすると、彼女はこう言った。

「ああ、王子さま。後ろから大勢の追っ手が来るのが聞こえます」

 ワシリーサはすぐに二頭の馬を井戸に変え、自分は柄杓ひしゃくに、王子は老人に姿を変えた。そこへ追っ手が駆けつけた。

「おい、爺さん。美しい娘を連れた若い勇士を見なかったかい」
「見たとも、皆の衆。でもそれは昔のことで、わしがまだ若い時分のことだったよ」

 追っ手たちは竜王のもとへ引き返した。

「二人とも見つかりませんでした。ただ井戸の側に老人がいて、水に柄杓が浮かんでいただけです」
「どうしてそいつらを捕らえてこなかったのじゃ!」

 竜王はその場で追っ手の者たちの首を刎ね、別の一隊に王子と賢女ワシリーサを追わせた。その間に二人は遥か彼方まで馬を進めていた。

 やがて賢女ワシリーサが追っ手の迫る音を聞き、王子を年取った僧侶の姿に変え、自分は苔むして古ぼけ、崩れかけた大寺院になった。追っ手が駆けつけて尋ねた。

「おい、爺さん。美しい娘を連れた若い勇士を見なかったかい」
「見たとも、皆の衆。でもそれはずっと昔のことで、わしがまだ若く、この寺院を建てていた頃のことだったよ」

 第二の追っ手たちは竜王のもとへ引き返した。

「陛下、二人とも影も形もありませんでした。老いぼれの坊さんがいて、古ぼけたお寺が建っていただけです」
「どうしてそいつらを捕らえてこなかったのじゃ!」

 竜王は前よりいっそう声を荒げて叫び、追っ手の者たちの首を刎ねて、自分が王子とワシリーサの後を追いかけた。

 賢女ワシリーサは今度は二頭の馬を蜜の川とゼリーの岸に変え、王子を雄鴨に、自分は灰色の雌鴨の姿になった。そのとき竜王が蜜とゼリーの中に馬を乗り入れ、むしゃむしゃと食べたり飲んだりしたので、しまいにパチンと腹が破け、そのまま息絶えてしまった。

 王子と賢女ワシリーサは更に馬を進めて行き、王子の故郷が間近くなった。すると賢女ワシリーサは言った。

「王子さま、あなたはこのまま先へ行って、ご両親に挨拶なさい。私はこの道でお待ちしています。ただ、一つだけ私と約束してください。誰とキスしても結構ですが、妹さんとだけはなさらぬように。さもなければ、あなたは私のことを忘れてしまうでしょうから」

 王子は家に帰り着くと誰彼となく挨拶のキスを交わし、妹ともキスをした。途端に、妻のことはすっかり忘れてしまった。

 

 賢女ワシリーサは三日のあいだ夫を待っていた。四日目に乞食の姿になって都に行き、ある老婆のもとに身を寄せた。そのとき王子はどこかの国の金持ちの王女と婚礼を挙げる用意をしていて、誰であれ正教徒たるものは花嫁花婿に祝いを述べに集まるよう、その折に小麦粉のパイを一つずつ献上するようにというお触れが国中に出ていた。ワシリーサが身を寄せた老婆も、小麦粉をふるいにかけてパイを焼こうとしていた。

「お婆さん、誰のためにパイを焼くの」
「誰のためかって。お前さんは知らないのかね。わしらの王さまが、王子を金持ちの王女と結婚させるのさ。宮殿へ行って、このパイを花嫁花婿のテーブルに差し上げるのだよ」
「それでは、私にもパイを焼かせて。宮殿に持っていけば、王さまが何かくださるかもしれないもの」
「それじゃ、こしらえなさい」

 賢女ワシリーサは小麦粉をもらうと練り粉を捏ね、チーズの他に雄鳩と雌鳩を詰めてパイを作った。

 老婆と賢女ワシリーサは揃って宮殿の正餐せいさんに出かけていった。そこは国中の民を招いての酒盛りの真っ最中だった。ワシリーサのパイが食卓に運ばれ、真ん中から二つに切ると、そこからつがいの鳩がパッと飛び出した。雌鳩はチーズをひとかけら咥えていて、雄鳩が「僕にそのチーズをおくれ」と言うと「あげないわ」と答えた。

「だって、そうしたらあなたは私のことなんて忘れてしまうんでしょう。王子が賢女ワシリーサのことをケロリと忘れてしまったみたいにね」

 その瞬間、王子は自分の妻のことを思い出した。そこでテーブルからサッと立ち上がると、ワシリーサの白い手を取って自分の横に座らせた。

 それからというもの、二人は ひとつがいの鳩のように仲睦まじく、幸せに暮らした。


参考文献
『ロシア民話集〈上、下〉』 アファナーシエフ著 中村喜和編訳 岩波文庫 1987.

※この話の話者は博識だったようで、色んな話のモチーフが付け加えられており、おかげでかなり冗長である。しかし呪的逃走の部分に「追っ手が飲みすぎ・食べすぎで腹を破裂させて死ぬ」という要素が入っているのが注目できるので、紹介した。

 王子は竜王に捧げられるべく海辺に置き去られる。しかし彼は海を渡らず、森の奥のババ・ヤガーの家へ行く。語り手が、海の彼方の竜王の島も森の中のババ・ヤガーの小屋も、果ては鷲の背に乗って渡っていく場所も、全て同じ場所であるということを、よく承知していたのだろう。

 

 この話にも【白鳥乙女】の要素が入っている。また《食いしん坊》、《大酒呑み》、《寒の太郎》の助けで王の難題を乗り越えるくだりは、[旅の仲間]から移入したモチーフだ。しかし中途半端で、どんな風に出会ったのかの詳細は語られないし、結婚前の難題の際にはまるで出てこないし、結婚後の難題の時に唐突に出て、その後どうなったか全く触れられていない。

 

 ちなみに、パーティーの余興として、中に生きた鳥を入れておいて切ると中から鳥が飛び立つパイ料理というものが、十六世紀頃のイタリアの料理本に記載されているそうである。アイスクリームの天ぷらというものもあるのだから、不可能ではないのだろう。マザーグースにも、二十四羽の黒つぐみが王様のためのパイの中で焼かれ、切ったパイの中から飛び出して歌うというものがある。

 もっとも、これは現実の料理を描写していると言うよりは、それこそ「死からの復活」を示唆しているように私は思う。竜王の国…竜宮とは冥界だ。そこへ行くと言うことは「死んで生まれ変わる」ことだが、そこから戻るのも同じことである。生まれ変わった者は前世の記憶を失う。だから王子はワシリーサのことを忘れてしまった。「蛙の王女」で冥界へ去った蛙姫が王子のことを忘れて別の男と結婚しようとしていたように。王子はもう一度生まれ変わって(もしくは、ワシリーサが人間に生まれ変わることによって)二人は本当に結ばれたのではないだろうか。

(《妹とのキス》には、《浮気》の暗示もこめられているようには思うが。とはいえ、理屈で考えれば、本来的には「母親の作った料理を食べてはならない」というタブーだったのかもしれない。とすれば、ワシリーサ…妻の作った料理を食べたことで、王子の所属が実家から婚家に移ったとも考えられる。)

 イワン王子が《故郷》に帰るとワシリーサのことを忘れてしまうのは、「蛙の王女」の類話で、冥界に去った妻の蛙姫をイワン王子が訪ねると、彼女はイワン王子のことを忘れて別の男と結婚しようしている、というものと同じモチーフかと思われる。海の王の宮殿とは冥界だった。そこから逃げ出して現界に戻ったイワン王子は、一度死んで生まれ変わったとも言える。死んで生まれ変わった者は前世の記憶を失うのだ。そして冥界の姫であったワシリーサもまた、現界でイワン王子の妻になるために生まれ変わらなければならない。彼女はたった一人で林で過ごし、やがてみすぼらしい姿で街をさまよって、貧しい町娘になる。これは《死》を暗示する状態だ。その状態から、王子に見いだされることで《蘇る》のである。



参考--> <眠り姫のあれこれ〜死と眠りと忘却>「めっけ鳥



睡蓮  ジプシー

 昔、ペトルというジプシーの若者がいた。彼は一族の誰よりも働き、そのうえ倹約家だった。というのも、村外れに住む娘を深く愛していて、彼女と結婚したいと考えていたからだった。

 しかし彼の一族の誰もがこの結婚に反対していた。というのも、娘とその老いた母親はジプシーではなかったからである。

「一族の娘と結婚しろよ。余所者なんかと関わり合うんじゃない。お前はジプシーなのだから、ジプシーと結婚しなきゃだめだ」

 けれどもペトルは心を変えず、相変わらず夜になると村外れの小屋へ通っては、老婆が眠っているのを確かめて忍び込み、娘と楽しい時を過ごすのだった。

 老婆は娘がペトルと愛し合っていることをよく知っていたが、知らないふりをして二人の好きなようにさせていた。

 やがて秋が訪れ、ジプシーたちは遠い冬の住処へ向かって旅立って行った。しかしペトルだけは村に留まっていた。娘を嫁に貰い、それから二人で一緒に一族の後を追っていこうと考えていたのだ。

 ペトルは老婆のところへ行って、娘さんを僕にください、と申し込んだ。ところが、老婆の返事はひどいものだった。

「何を馬鹿なことを言ってるんだい! 私がジプシーなんぞに娘を嫁がせるとでも思うのかい? 結婚すれば、お前はあの子を遠くへ連れて行ってしまうに決まっている。私をこの小屋に一人残していくつもりなんだろう!

 さっさと自分の仲間のところへ戻るがいい。嫁にはジプシー女を貰うことだ。白人の娘にはジプシー男は不釣り合いなんだよ!」

 こうして散々怒鳴りつけられたペトルは、悲しい思いで小屋を出た。けれども夜になると再び小屋へ戻り、老婆に言われたことを愛する娘に話して聞かせた。二人は考えた末、ペトルの一族のところまで逃げて行き、そこで結婚することを決心した。さっそく小屋を抜け出すと、急いで歩き始めた。

 ところが、あの老婆は魔術に長けた魔女だったのだ。

 老婆は赤い鶏を一羽飼っていたが、これが人間と同じように喋ることが出来て、老婆が知りたいことは何でも教えてくれるのである。

 さて、娘がペトルと一緒に抜け出すと、たちまち赤い鶏が三度鳴き声をあげた。

 クリクー!

 お嬢さんがペトルと一緒に逃げたよ!

 村外れの牧草地を通って行ったよ!

 じきにペトルの女房になっちゃうよ!

「分かった、分かった! 逃がしゃしないよ!」

 その鳴き声を聞いて老婆は寝床から跳び起きた。戸棚から糸玉を取り出して、こう唱えた。

 転がれ、転がれ、糸玉よ

 転がれ、転がれ、素早く転がれ

 急いで娘を追いかけろ!

 近くの小川へ叩き込め!

 すると糸玉は小屋から転がり出て、村を通り抜け、畑へ向かってどんどん転がって行った。

 ペトルと娘が深い川に架かった橋を渡っていたとき、糸玉は追い付いてきた。ジプシーには橋を渡るとき唾を吐く習慣がある。娘がそのように唾を吐いた瞬間、足元に糸玉が転がり込んだ。娘は足を糸に絡めとられ、転んで、冷たい川の中に落っこちた。

 ペトルは驚いて、慌てて水の中を覗き込んだ。しかしいくら探しても娘の姿は見えない。

 ペトルは村に走り、老婆の小屋に駆け込むと、娘が川に落ちたことを泣きながら伝えた。すると老婆はこう言ったのだ。

「ああ、あの子は睡蓮になってしまったよ。そんなにあの子と一緒にいたいのなら、お前も川へ飛び込んだらいいじゃないか!」

 そう吐き捨てると、老婆はペトルを小屋から追い出してしまった。

 

 あくる朝ペトルが橋へ行ってみると、本当に、美しい睡蓮の花が一輪、橋の下に咲いていた。けれどもその花は誰にも摘み取ることが出来ないのだった。人が近づくと水の下に隠れてしまうのだ。

 哀れなペトルは、一日中橋の上に座っては、睡蓮を見つめて泣いていた。そんなある晩遅くのこと、どこからか歌声が聞こえてきた。ペトルが川を覗いてみると、なんと、川の水の上で三人の川の娘ニバシが踊っているではないか。ニバシは川の妖怪、水に宿る精霊である。

 ペトルは長いこと、ニバシたちの踊りを眺めていた。そのうちに娘たちは踊るのをやめて一休みしたが、彼女たちのお喋りする声がはっきりとペトルの耳に届いた。

『あの可哀想な若者が、リンゴと卵を水の中に投げ込んでくれたら、睡蓮を元の恋人の姿に戻してやるのにねぇ!』

 さっそく次の晩、ペトルは大きな籠にリンゴと卵をいっぱい詰めて橋の上へやって来た。そしてニバシたちが現れると、籠の中のリンゴと卵を全て水の中に空けたのだった。ニバシたちは歓声をあげてそれを拾い集め、すぐに貪った。

 供物を全て食べ終わってしまうと、ニバシたちは睡蓮の花の側へ行って口づけた。その途端、水の中からペトルの恋人が浮かび上がってきたのだ。ニバシたちは娘を橋の上まで連れてきてくれた。

 娘はペトルを見ると、喜びの声をあげて抱きついた。

 ペトルは娘を連れてどこかの町へ行き、そこで夫婦睦まじく、豊かに幸せに暮らした。というのも、ニバシたちがリンゴと卵のお礼に金や銀を沢山くれたからだった。

 残された老婆はどうなっただろう。ニバシたちは老婆を川におびき出し、水の底に引きずり込んで殺してしまったということだ。



参考文献
世界のメルヒェン図書館6 美しいヒアビーナ ―ジプシーのはなし―』 小澤俊夫編訳 株式会社ぎょうせい 1981.

※娘が魔女の実の娘ではあるが、[ラプンツェル]話群とよく似ている。

 橋の架かった深い川は、現界と冥界の境界…三途の川である。川を越えようとしたところで母に追いつかれて娘が川に落ちて姿を変える…死ぬのは、「金の髪と小さな蛙」と同じ展開だ。

 リンゴも卵も、「命魂」の象徴とされるものである。また、水の妖怪は水底の冥界を支配する冥界神の零落した姿とみなすことが出来る。ドイツの水の精ニクスや、アイルランドの海の精メロウが、水底の宮殿に置いてある壺や魚籠の中に溺死者の魂を集めているとされるように。冥界神であるからこそ、二バスたちは死んだ娘を現界に戻してくれたのだろう。若い魂は冥界から立ち戻り、引き換えに、老いた魂は冥界へ連れ去られた。






おまけ

 以下は[魔法使いの娘]ではなく[魔女の難題]に分類される話である。しかし性別が逆転していること以外は[魔法使いの娘]と同一の話だとも言えるので、参考までに紹介する。なお、呪的逃走は魔女の家から逃走するためではなく、魔女に与えられた課題をクリアするために行われている。



プレッツェモリーナ  イタリア

 昔むかし、小さなお家に夫婦が暮らしていました。この家の一つの窓からは、魔女たちの菜園が見えました。

 やがて奥さんのお腹に赤ちゃんが宿りました。そうすると、奥さんは菜園に植わっているパセリプレッツェーモロが食べたくて仕方なくなりました。窓から顔を出して様子をうかがい、魔女たちが出てゆくのを見ると、奥さんは絹の縄梯子を下ろしました。そうして畑に降りてパセリをたらふく食べて、また絹の縄梯子を登ると、窓を閉めたのです。

 あくる日も、またあくる日も同じことをしました。そのうちに、畑を見回っていた魔女たちは、パセリがもう殆どなくなってしまったことに気がつきました。「どうしたらいいだろう?」と魔女たちは相談しました。

「みなで出ていったふりをしておいて、誰か一人が隠れて見張っていることにしよう。そうすればパセリ泥棒の正体が分かるだろうから」

 そんなわけで、次に奥さんが畑に降りて来た時、魔女の一人が飛び出してきました。

「この悪党め! とうとう見つけたよ!」

「堪忍してください。パセリが食べたくて仕方がなかったのです。子供が生まれるものですから……」

「それでは許してやろう。けれども、男の子が生まれたらパセリ太郎プレッツェモリーノ、女の子が生まれたらパセリ子プレッツェモリーナと名をつけるのだぞ。そして大きくなったら、男の子であろうと女の子であろうと、私たちの所へ寄越すのだ!」

 わっと泣き出して、奥さんは家に帰ってきました。魔女との間に交わされた約束を知って、旦那さんは「大食らいの女め! なんということをしてくれたのだ!」と怒り狂ったものでしたが、取り返しはつきません。

 やがて女の子が生まれて、プレッツェモリーナと名付けられました。そして平穏な日々が過ぎて娘がすくすく成長していくと、両親はもうすっかり魔女との約束なんて忘れてしまいました。

 

 プレッツェモリーナはだいぶん大きくなって、学校へ通うようになりました。すると毎日の帰り道で必ず、魔女たちと出会いました。魔女は言いました。

「いい子だね。ママに言うのだよ、私たちに借りているものを忘れないようにって」

 家に帰るとプレッツェモリーナはお母さんに言いました。

「ママ、魔女のおばさんたちが、借りているものを忘れてはいけないって言っていたわよ」

 お母さんの方はハッと胸につかえるものがあって、ろくに返事もできませんでした。 

 ある日のこと、お母さんはぼんやりしていて、学校から帰って来たプレッツェモリーナがいつものように「魔女のおばさんたちが、借りているものを忘れてはいけないって言っていたわよ」と言ったとき、何も考えずに「そうかい、勝手にお取りって言ってやりな」と言ってしまいました。次の日に魔女たちに会ったときにプレッツェモリーナがそう伝えると、魔女たちは言いました。

「では、忘れていなかったのだね、お前のママは」

「ええ、おばさんたちに借りているものを、勝手に取っても良いって言っていたわ。ママは……」

 魔女たちはみなまで言わせはしませんでした。すぐにその手でプレッツェモリーナを捕まえて、その場から連れ去ってしまったのです。

 お母さんの方は、プレッツェモリーナがいつまでも帰ってこないので心配になり、そうなってからふいに、言ってしまった言葉を思い出していました。

「まあ、私はなんという馬鹿なことを! 取り返しのつかないことをしてしまったのだわ!」

 けれどももう、遅かったのです。

 

 魔女たちはプレッツェモリーナを自分たちの家に連れて行き、炭を入れて真っ黒けに汚した部屋を見せて言いつけました。

「見たかい、プレッツェモリーナ、この部屋の中を? 今夜私たちが帰ってくるまでに、ここを牛乳みたいに真っ白にして、一面に空の鳥たちを描いておくのだよ。さもないと、お前を食べてしまうからね」

 そして悲しみの涙にくれるプレッツェモリーナを残して、出かけてしまいました。

 それから幾らも経たないうちに、ドアをノックする音が響きました。魔女のおばさんたちが帰って来たんだわ、とうとう私の最期が近づいたのよ、と思いながらプレッツェモリーナが戸を開けると、入ってきたのは一人の少年でした。彼はメメという名で、魔女たちの従弟いとこにあたるのです。

「何を泣いてるんだい、プレッツェモリーナ」

「あなただってきっと泣くわ。こんな真っ黒けの部屋を任されて、牛乳みたいに真っ白にして一面に空の鳥たちを描いておかなければならないとしたら。それもあの人たちが帰ってくるまでに! さもないと食べられちゃうんだから!」

「僕にキスしてくれたら、全部やってあげるよ」

 するとプレッツェモリーナは言いました。

 魔女に食べられてしまった方がましだわ

 男にキスされるくらいなら。

 メメは笑いました。

「なかなか上手な返事だから、僕が全部してあげるよ」

 メメが魔女の杖で打つと、部屋全体が一瞬で白くなり、魔女たちが言ったとおりに一面に鳥が描かれていました。

 メメが立ち去った後で、魔女たちが帰ってきました。

「では、プレッツェモリーナ。言いつけたことはしておいただろうね?」

「はい、奥さま。ご覧になってください」

 部屋がその通りになっているのを見ると、魔女たちは顔を見合わせました。

「本当のことをお言い、プレッツェモリーナ。私たちの従弟のメメが来たんだろう」

 するとプレッツェモリーナは言いました。

 従弟のメメなんて来ませんでしたわ

 私を産んでくださったママだって来てくれなかったのに!

 

 あくる日になると、魔女たちは頭を寄せて話し合いました。「どうやってあいつを食べてやろうか? ああ、パセリを食べて生まれたプレッツェモリーナめ!」と。そして話を決めると、またプレッツェモリーナを呼びました。

「何の御用ですか?」

「明日の朝、大魔女モルガーナのところへ行って、ベル・ジュッラーレの玉手箱をくださいって言うのだよ」

「はい、奥さま」

 朝になるとプレッツェモリーナは旅に出ました。どんどん歩いて行くと、魔女の従弟のメメと出会いました。

「やあ、プレッツェモリーナ。どこへ行くんだい?」

「大魔女モルガーナのところへ、ベル・ジュッラーレの玉手箱をもらいに」

「知らないのかい、そんなところへ行ったら食べられちゃうぜ」

「構わないわ」と、プレッツェモリーナは答えました。「これで終わりになってくれるのなら、構わない」

「これを持ってお行き」と言って、メメは幾つかの道具を取り出しました。

「この二つの鍋の中にはラードが入ってる。ギイギイ開け閉めしている扉があったら、これを塗ってやるんだ。そうしたら楽に通れるだろう。それから、お互いに噛み合っている二匹の犬がいたら、この二つのパンを投げ与えて、その隙に通るんだ。革靴を縫うための糸代わりに人の髪や髭を抜く靴直しがいたら、この糸と錐をやれば通してくれるだろう。それからこの箒は、手のひらでかまどを掃いているパン屋の女にあげればいい。そうしたら通してくれる。ただし、何事も素早くやらなきゃいけない。いいね」

 プレッツェモリーナはラードとパンと糸と箒を持っていって、それらを扉と犬と靴直しとパン屋の女にあげ、皆に感謝されました。それら全ての関門を抜けていくと広場があり、そこに大魔女モルガーナの屋敷がありました。プレッツェモリーナがドアを叩くと、中から大魔女モルガーナの声が返りました。

「お待ち、娘や。ちょっとお待ち」

 けれどもプレッツェモリーナは何事も素早くしなければならないと知っていましたので、二か所の階段を駆け上りました。そしてベル・ジュッラーレの玉手箱を見つけると、掴んで屋敷から走り出ました。

 大魔女モルガーナは窓から首を出して叫びました。

手のひらでかまどを掃いているパン屋の女よ、その娘を捕まえな。捕まえるのだよ!」

「気が違ったってごめんだね! 長年辛い思いをしていた私に、この子は箒をくれたのだから!」

髭と髪の毛で靴を縫っている靴直しよ、その娘を捕まえな。捕まえるのだよ!」

「気が違ったってごめんだね! 長年辛い思いをしていた私に、この子は錐と糸をくれたのだから!」

噛み合っている犬たちよ、その娘を捕まえな。捕まえるのだよ!」

「気が違ったってごめんだね! この子は、俺たちにパンを一つずつくれたのだから!」

ギイギイ開け閉めしている扉よ、その娘を捕まえな。捕まえるのだよ!」

「気が違ったってごめんだね! この子は、私の上から下までラードを塗って、滑らかに動けるようにしてくれたのだから!」

 こうしてプレッツェモリーナは全ての関門を走り抜けました。ああこれで助かった。ホッとすると同時に、胸の中にこんな思いが湧いたのです。

(このベル・ジュッラーレの玉手箱の中には、何が入っているのかしら?)

 好奇心で我慢できなくなって、プレッツェモリーナは箱を開けてしまいました。

 跳び出してきたのは、小さな小さな小人の一隊でした。楽隊が混ざっていて、それを先頭に行進を始め、二度と止まろうとはしません。プレッツェモリーナは小人の群れを箱の中へ戻そうとしましたが、一人捕まえれば十人が逃げ出してしまうという塩梅で、どうしても戻せません。悲しくなってわっと泣き出すと、メメが現れました。

「知りたがり屋さん! みんな自分のしたことだろう?」

「ああ、ちょっと見たかっただけなのに……」

「こうなったらもう、どうしようもないね。だけど、僕にキスしてくれたら元通りにしてあげよう」

 するとプレッツェモリーナは言いました。

 魔女に食べられてしまった方がましだわ

 男にキスされるくらいなら。

 メメはまた笑いました。

「なかなか上手な返事だから、僕が全部してあげるよ」

 メメが魔女の杖で打つと、小人の群れは直ちにベル・ジュッラーレの箱の中に戻りました。

 

 魔女たちは、プレッツェモリーナが戻って玄関のドアをノックする音を聞くと、嫌な気分になりました。

(大魔女モルガーナは、どうしてあいつを食べてくれなかったんだろう?)

 プレッツェモリーナが入ってきます。

「良いお天気ですね。はい、玉手箱を持ってきましたわ」

「ああ、よくもまあ……。で、大魔女モルガーナは何と言っておいでだったかい?」

「みなさんに宜しくって」

「ああ、分かったよ!」魔女たちはひそひそと話しあいました。「他人任せじゃだめだ。私たちが食べなければいけないんだよ、あいつを」

 

 夕方になって、メメが魔女たちを訪ねてきました。

「知っているかい、メメ。大魔女モルガーナがあのプレッツェモリーナを食べてくれなかったのだよ。私たちが食べなければならない」

「そいつは結構! いいですね!」と、メメは言いました。

「明日、あいつが家の用事をみな済ませたら、洗濯用の大釜の一つを火にかけさせよう。それが煮立ったところへ、あいつを捕まえて中へ投げ込むのだ」

「なるほど、なるほど」と、メメは頷きます。「よく分かりましたよ。うまい考えだ」

 魔女たちが出かけてしまうと、メメはプレッツェモリーナのところへ行きました。

「知ってるかい、プレッツェモリーナ。明日、大釜を煮え立たせてから、君を中へ投げ込むんだってさ。でも、いいかい。君は『薪が足りないから取ってくる』って言って、地下室へ行くんだ。僕もそこへ行くから」

 

 こうして次の日に、洗濯をするので大釜を火にかけるようにと魔女たちが言うと、プレッツェモリーナは火を点けてから「あら、薪がなくなりかけているわ」と言いました。魔女たちに「地下室へ行って取っておいで」と言われて降りてゆくと、声が聞こえました。

「ここだよ、プレッツェモリーナ」

 メメがいて、彼女の手を取りました。そして地下室の奥の、炎がたくさん揺らめいているところへ連れて行ったのです。

「これがみんな、魔女たちの魂なんだよ。吹き消してごらん」

 二人で吹き始めると一つずつ火が消え、そのたびに魔女が一人ずつ死んでいきました。

 最後に、ひときわ大きな炎が残りました。

「これが大魔女モルガーナの魂だ!」

 二人は力を合わせて、それが消えるまでふうふうと吹き続けました。こうして全ての炎は消え、一切のものの主人に、二人はなったのです。

「これでもう、僕のお嫁さんになってくれるね」

 そうメメが言うと、プレッツェモリーナはとうとう、彼にキスをしてあげました。

 二人は一緒に大魔女モルガーナの屋敷に移り住みました。靴直しは公爵に、パン屋の女は侯爵夫人に取り立て、二匹の犬は屋敷の中で飼ってやりましたが、門だけは動かせなかったので時々油をさしに行ってやりました。

 

 こうして二人は楽しく暮らした、いつまでも仲むつまじく。それなのに私には何一つおこぼれはなかったのさ。



参考文献
『イタリア民話集〈上、下〉』 カルヴィーノ著 河島英昭編訳 岩波文庫 1984.

※導入は「魔女の菜園」モチーフになっており、主人公が盗み食いされた野菜にちなんだ名になっているなど、[ラプンツェル]話群と共通している。しかし魔女の家に連れ去られてからの展開は大きく異なる。

 メメというキャラクターは、『オデュッセイア』でオデュッセウスが単身、魔女キルケーの館に乗り込もうとした際に現れたヘルメス神の様子を思わせる。ヘルメス神は奸智と魔術を司る。親指小僧は奸智によって人食い鬼を出し抜いて飛行靴を手に入れたが、ヘルメス神は幼児の頃に太陽神アポロンを出し抜いて牛の群れを手に入れた。太陽神は伝承上ではしばしば人食いである。ヘルメス神もまた飛行靴を履いており、現界と冥界を自在に行き来し、死者の霊を冥界へ導く霊魂導師としても語られる。

[魔法使いの娘]では主人公は冥王の家に行く前にその娘と出会い、だからこそ娘は難題を与えられる主人公を助けることになっている。この話ではプレッツェモリーナとメメが予め出会っていたという描写はないが、難題を解いていく過程で頑なだったプレッツェモリーナがメメに心を開いていく様子が描かれており、なかなか面白い。最後にとうとうキスを与えるシーンはカタルシスがあるだろう。おお、やっとツンがデレに!

 

 プレッツェモリーナを食べてしまうはずだった大魔女モルガーナは、冥界の最奥に座す女王、すなわち「死」であろう。名前はケルトの女神モリグー(モルガン・ラ・フェイ)に由来するのだろうか。彼女が冥界の女王であることは、彼女の屋敷に行くために通過せねばならない関門の数々が教えてくれている。ギイギイ鳴る門はこの世とあの世を隔てる境界で、噛み合う犬は冥界の番犬であると同時に、生前に争っていた人間のなれの果てでもあるらしい。(「墓掘り男」参照。)髭と髪で縫う靴直しや手でかまどを掃くパン焼き女は、冥界へ渡るための靴を作る渡し守であり、死者の魂(かまどの中のパン)を管理する女神であろうが、同時に、永遠に進まない不毛な仕事を課せられている冥界の罪人でもあろう。なお、大魔女モルガーナはやはりイタリアの民話「眠れる女王」にも名前が登場している。

 結末部は、恐らく[ヘンゼルとグレーテル]話群で見られるように、大釜で煮られそうになったとき逆に魔女を釜に突き落とすというものだったのだろうが、残虐だと思われて改変されたのだろうか。メメと協力して魔女たちの命の火を吹き消すという展開は独特である。

 

 ベル・ジュッラーレの玉手箱は、「竜王と賢女ワシリーサ」で父王が土産の赤い箱を開けて家畜を溢れさせてしまうのと同じモチーフかと思われるのだが、類話の「エロスとプシュケ」も参照して考えるに、[浦島太郎]の玉手箱とも関連するように思われる。この話では箱の中から溢れるのは小人だが、《ベル》という言葉は《美》という意味だと思われるので、「エロスとプシュケ」に出てくる開けてはならない箱が、中に化粧品の納められた美の箱であることや、浦島太郎の玉手箱もしくは櫛笥くしげが本来は化粧品を入れる箱である点とも繋がっている。

 禁忌の箱を開けると中から小人が溢れてきて破滅をもたらすといえば、「竜宮女房」にも見られるモチーフである。



参考--> 「エロスとプシュケ」[ラプンツェル]「魔女婆さん




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