人食い鬼は神

 民話の中には《人食いの魔物》がしばしば登場する。民話を表面だけ見た時には、それはそういうキャラクターでしかない。人を食う、人間ではない、主人公の敵である。けれども、類似の説話を並べてそこに見える欠片を繋ぎ合わせていくと、その奥底に別の意味が見えてくるように感じられる。

 結論から言えば、民話の中の《人食い鬼》は《神》である。

 この《神》がどの地域・どの民族・どの宗教の何という神であるかを探求することに、さして意味はないと考えている。原始的・根源的な、どんな地域民族にも当てはめられるような共通概念だと思うからだ。つまり、「自然に対する畏怖」である。かつて私は神の性別や容姿にこだわって、そこにも意味を見出そうとしていたけれども、結局それは幾らでも入れ替え可能な表層的な要素で、各地各時代の語り手が自分なりに分かり易くするために付加したキャラクター付けに過ぎないと、今は考えている。(勿論、何故そんな要素が与えられたか、その文化背景を考える手がかりとしては重要な要素だが。)

《自然》即ち《神》は、人々に素晴らしい恵みを与えてくれる。命を生み出してくれる。けれども同時に、それは無慈悲に飢餓を与え、命を奪い去る。だから民話の中の《人食い鬼》は、素晴らしい宝やご馳走を惜しみなく与えてくれる一方で、容赦なく食い殺そうともするのだ。

 また、生命の根源である《自然》は全ての生命のおやである。だから「主人公が《人食い鬼》を退治する」物語に「子が親を打ち倒し越えていく」ニュアンスを読み取り、即ち《人食い鬼》は《恐るべき親》を意味していると解釈することも可能である。なぞらえは何重にも出来るものだし、語り手も無数にいたのだから、意味は一つしかないと限定する必要はない。

 

《自然》が《神》であり、《神》が《人食い鬼》であることを暗示どころか明言している伝承は、実は少なくない。語り手たちにはそれは周知の知識だったのだろう。この民話想に集めた例話では「月の中の乙女」「フシェビェダ爺さんの金髪」が分かり易い。

 民話に現れる《人食いの魔物》の物語は、神であったモノの信仰が失われ矮小化したものだと考えている。冥界とそれを支配する神は、自然の中の生命の摂理を分かり易くキャラクター付けしたものだ。しかし畏怖が忘れ去られて《ホラ話》となり、娯楽として改変され続けた結果、冥界はごく簡単に行って帰れる場所になり、《自然の人格化》であった神は子供に騙され退治されてしまう矮小で邪悪なだけの《妖怪》に零落してしまったのである。

 

 冥界へ行って戻る物語は、かつては通過儀礼(子供が社会的に大人と認められるようになるため受けなければならない儀式)や、宗教の入社式などの際に(素晴らしいものに生まれ変わるための)秘儀として語り伝えられていたのだろうと思われるが、その儀礼が放棄されて《ホラ話》となった今でも、物語の中にその片鱗を嗅ぎ取ることは出来る。

 たとえば多くの研究者がそう解釈しているように、「ヘンゼルとグレーテル」を親離れの精神的葛藤を暗示した物語と読むのも、そこに通じさせることが出来るだろう。子供は一度死に(魔女の森へ行き)、そして生まれ変わって(魔女の森から帰還して)、立派な人間に変わる(宝を持ち帰って父を助けるようになる)。また、ここには《代替わり》の暗示も読み取れる。子供たちが宝で父を安楽にしたこともそうだし、祖霊神…世界のおやでもある冥界女神(魔女)を殺してその宝を奪った点にも、《古いモノの死と新しいモノの台頭》という、代替わりの暗示が見て取れる。

 そして恐らくグリムは、意識的にか無意識にかそれを知っていた。だからヘンゼルとグレーテルが家に帰ると、二人を苦しめていた母は既に死んでいるのだろう。魔女を殺すことは、(子供を支配し呑み込む、闇属性の)母を打ち倒すことでもあるのだと暗示しているように感じられる。

 どんな命も、古いものは死に、新しいものがそれを食って伸びていく。その摂理から外れているのは何百年も繁る大樹や不変の石だけだ。

 親は子供を育てて自分の持ち物を譲り、いずれ独り立ちするのを助けてくれる。しかし一方で、親は子供を支配し、行かせまい超えさせまいと押さえつけてしまう。子供もまた、親を愛して宝を持ち帰って孝行しようとする一方で、押さえつけてくる親を憎んで倒し、その持ち物を奪い取って己のものとする。古いモノと新しいモノは常に葛藤する。これは自然の摂理である。

 

 ハンガリーの「天まで届く木」でも、主人公の若者が王女をさらった竜王を殺して現世に帰ると、王女の父である地上の王は瀕死になっており、主人公と娘に自分の代を譲って祝福を授けてから死んでいく。

 無論、《森の中の魔女》と《母親》、《竜》と《父王》はキャラクターとしては全くの別人である。しかし物語の構造上、その存在位置が重ねられているのだ。

 冥界の神を打ち倒して家に帰ると、親が死んでいる。

 冥界で起こったことは、結局は現実の出来事ではない。心の中の葛藤だと思ってもいいかもしれない。けれどもそれは無意味な夢ではない。心の中の魔物を倒せた時、現実の世界も変化していく。

 まるで鏡を合わせたように、精神世界と現実世界は互いを映し合っているのである。

冥界への道

 物語には、共有され繰り返し使用されるシチュエーション、《約束事》がある。過去の有名な物語からの本歌取りであったり、誰もが共通のイメージを抱き易い事柄であったりするが、説話の世界にもそれが存在している。全く違う語り手の無数の話の中に、よく似た場面が挿入されているのだ。その話だけを見た時には何気なく通り過ぎてしまうような些細な描写だが、複数の説話に同じように現れるのを見ていると、どうやら意味があることが理解されてくる。

 例えば、私たち日本人は冥界下り…臨死体験について語るとき、誰もが美しい花野をイメージするだろう。その花野の中に川が流れており、川の向こうには亡くなった親しい人が手を振っている。川を渡れば死んでしまい、渡らなかった者は黄泉帰る。花野はあの世(冥界)の入り口であり、川はこの世とあの世を隔てる三途の川。川を渡ることは境界を踏み越えて向こうの世界へ行くという意味であることを、誰もが暗黙の了解として知っている。

 これを知っていれば、説話の中に「川を渡って人食い鬼の家に行く」「人食い鬼の家から逃げる時に川を渡る」という場面が出てきた時、あっ人食い鬼の家って《あの世》のことだったんだ、と気付くことが出来るというわけだ。

 とはいえ、説話は時代を超えて語り継がれ、異なる文化圏へも移入されている。《この世とあの世を隔てる川》という信仰・概念が存在しない社会では、《川を渡った》という描写に《異世界への転移》の意味を読み取ることができないだろう。せいぜいそのまま単純に「人食い鬼の家の近くには川があったんだな」と認識するのみではないだろうか。

 

 しかしそれでも物語全体から、人食い鬼の家はどうやらこの世ならぬ場所にあるらしいことを感じ取ることは出来る。そして人食い鬼の家へ行く複数の異なる物語を並べたとき、その多くに《川を渡る》描写があれば、そこから逆に「川はこの世とあの世の境界らしい」と推測することも出来るのではないか。

 以下に、そのように推測してみた例を挙げてみる。多くの物語の中で踏襲されている、冥界関連の《約束事》である。

 

 

 以上の要素が現れた場合は、冥界の物語だと思って差し支えないだろう。

魔女の菜園

ラプンツェル]話群の冒頭によく見られるが、主人公の父母が魔女の畑に忍び込んで野菜や果実を盗み食いし、そのために子供を魔女に渡さなければならなくなる、というモチーフがある。

 その中でも、グリムの「ラプンツェル」に現れているパターンは注意深く読むと面白い。「魔女の菜園は夫婦の家にある小さな窓から見えた」とある。これを単に「夫婦の家の隣に魔女の菜園があった」と解釈する向きもあるようだが、私のそうは思わない。イタリアの類話「プレッツェモリーナ」を見てみよう。やはり家の窓の一つから魔女の菜園が見えたとなっており、主人公の母は、そこから絹の梯子を降ろして菜園に忍び込み、パセリを盗んでは梯子を伝って戻っていた。菜園を見る時も忍び込む時も、必ずその窓を使っているのである。

 思うに、菜園は家の《隣》にあるのではない。そもそも魔女が普通の人家の隣に畑を作っているなんて、おかしな状況ではないか。魔女の菜園は夫婦の家にある小さな窓から見えた。……その窓からしか見えなかった、というのが本来の意味なのではないか。

 

青髭】の類話「三つ目男」では、妻が禁じられた部屋を開けると部屋の中には何もなく、ただ窓が一つ開いている。その窓の外の景色を見ていると、夫が屍鬼の正体を現して墓場の死体を貪り食う様が見える。妻は後で夫から逃げ出すが、その際には玄関からではなく、例の窓から逃げていく。あるいは「天まで届いた木」では、異界で暮らす若者が妻に禁じられた部屋を開けると、やはり部屋には何もなく、ただ窓がある。その向こうには故郷の景色が見え、若者は帰りたくなって夫婦生活に破綻が起きる。

 ぽつんと開いた窓。その向こうに見えるのは異界の景色だ。小さな窓は、この世とあの世を繋ぐ中継点なのである。ラプンツェルの両親の家にあった窓も、そんな不思議な窓であったに違いない。その窓からは魔女の菜園が…冥界の女神の園が見えたのだ。

 なお、この窓はどうやら高い場所にあるイメージらしい。[ラプンツェル]話群では窓がなくとも大抵、母親は高い場所から魔女の菜園や果樹園を見降ろしている。「眠れる美女と子供たち」でも、出入口のない城の高い場所にひとつだけ窓があり、中には死の眠りに囚われた娘が横たわっている。これはどうも、墓所のイメージがあるらしく思われるのだが、思えば[ラプンツェル]たちが閉じ込められている塔も、出入り口がなく高い場所に窓が一つだけある塔である。

 外界から隔絶された、小さな窓口が一つだけある高い場所。それは冥界のイメージの一形態だと結論付けられる。

 

 恐らく共通した思想を根底にもつ民話を一つ、以下に紹介してみよう。しかし面白いことに、この話では高い出入り口を通って異界から盗み食いにやってくるのは人食い鬼の方で、[ラプンツェル]話群とは人間と人食い鬼の立場が逆転している。

もと月は大きかった パプア・ニューギニア ブーゲンビル島

 遠い昔、天に掛かる月は現在のものより遥かに大きかった。

 ある日、月は地上に行きたくなり、天地を結ぶ綱を伝ってある村に降り立った。大人が野良仕事に出払っていた時で、子供だけ村で遊んでいたのだが、月はその何人かを殺して食べてしまった。そして綱を伝って天に戻った。

 野良仕事から戻った大人たちは、子供に何が起こったのかさっぱり分からなかった。月は、それからも大人が仕事に出かける度に降りてきては、子供を獲って食うのだった。

 とうとう大人たちは頭を寄せ合って相談した。誰か一人を見張りに残して、何者が子供を殺すのか突き止めることにした。次の日、仕事に出ていく時に、一人の男がバナナの畑に身を隠した。しばらく待っていると月が綱を伝って下りてきて、子供を二、三人ぱくぱく食い、またそそくさと天へ登って行った。

 午後、帰ってきた大人たちは見張りの男の話を聞いた。是非とも月を殺そうと、次の日の朝、斧や槍や弓矢などで身を固め、子供たちはいつものように遊ばせて、野良へ行くふりをして潜んで待ち構えていた。

 間もなく、月がゆっくりと綱を降りて来た。念入りに辺りを見回したが大人の姿が見えないので、綱を放して子供たちを追い始めた。そこに村人たちがワッと跳び出し、ある者がいち早く天に繋がる綱を切ったので、月はもう逃げることが出来ずにめちゃめちゃに叩き壊され、バラバラにされて辺りに撒き散らされた。

 

 ところが、月を殺してしまったために、この時から夜は闇ばかりになってしまった。

 とうとう鳥と獣が集まって、なにか月に代わって天を照らしてくれるものはないかと知恵を出し合ったが、月以上のものは誰も思いつかなかった。

 その時、鳥族の一羽が、叩き割った月のせめてひと欠片でも、もう一度天に貼り付けてみてはどうかと言い出した。そして一番翼の強い鳥はどれだろうと見回してわしを選び、鷲は月の欠片をくわえて飛び立った。くたくたになるまで飛んだが、まだまだ天は遥かに遠く、とうとう途中で地上に降りてしまった。大きな鳥が次々に選ばれてやってみたが、やっぱり誰も天には着けなかった。

 仕方なく、岩の下に巣を作るのに慣れている雀に頼み込み、雀よりずっと小さくて胸毛の赤いペンタウング鳥を一羽、補佐につけてやることにした。

 二羽の小鳥は両方から月の欠片をくわえて、天へ向かって飛んで行った。大きな鳥たちが引き返した場所を通り越し、ずんずん高く飛んで、とうとう天の、月が元あった場所に辿り着いた。ここに運んできた月の欠片を降ろして貼り付けた。

 世界中が、小さいながらも月を再び天に見て驚き喜んだ。二羽の小鳥は地上の生き物たちの歓呼で迎えられた。

 

 雲のない空に月を見る時、周囲に淡く光の輪…かさがかかっているのを見ることがある。あれは、かつての月の本当の大きさを伝える輪郭なのだ。


参考文献
『世界の民話 パプア・ニューギニア』 小沢俊夫/小川超編訳 株式会社ぎょうせい 1978.

参考 --> 「フゲン

 食べる方は、留守を見越して素早く降りて忍び込み、獲物を得るとそそくさと逃げる。これが何度も繰り返され、被害に遭った方はみなで頭を突き合わせて相談し、見張りを残すことに決めて待ち伏せする……。[ラプンツェル]話群の魔女の菜園モチーフとよく似ている。

 思うに、原型は「もと月は大きかった」に現れている方なのだろう。つまり、元は「天から神が降りてきて子供を冥界へ連れ去る(人食い鬼が子供をさらう)」という話だった。それをもっと面白くしようと、構図を逆転するなど複雑化したのではないか。いずれにせよ、このモチーフが表現する結論は「神に子供(命魂)を取られる」という状況である。

 

 太陽が魂を冥界へ連れて行く、という信仰はエジプトの『死者の書』にあるものが有名だ。選ばれた死者の魂を、鳥頭人身の太陽神ラーの遣わした天空船が運んで行く。《太陽の船》はギリシアの伝承にもあるが、これは太陽自身が乗るもので、沈んだ太陽は黄金の船に乗って冥界を潜り、翌朝また昇ると考えられていた。(ヘラクレスがこの船を借りて冥界を旅したともされる。)

クンクン、人臭いぞ

 人食い鬼が登場する民話でお馴染みなのは、隠れていた人間の匂いを嗅ぎつけた人食い鬼が鼻をクンクンさせて「人臭いぞ」と言う場面である。イギリスでは好まれて、マザーグースのひとつとして独立して唄われているほどだ。

Fee, fie, foe, fum
I smell the blood of an Englishman.
Be he alive or be he dead,
I'll grind his bones to make my bread.

フィー・ファイ・フォー・ファン
イギリス人の血の匂いがする。
生きていようが死んでいようが、
そいつの骨を粉にして俺のパンを焼いてやるぞ。

「Fee, fie, foe, fum」というのは擬音で、日本語意訳すれば「フンフン、クンクン」というほどの意味となる。

 イギリスで語られる時には「イギリス人の血の匂い」と言われるが、ロシアの民話の同様のシーンでは「ロシア人の匂いがする」「ロシア人が来たぞ」「イワンの匂いがする」などと語られる。要は「生きた人間の臭い」という程度の意味であり、多くの国の伝承で語られている「クンクン、人臭いぞ」という表現と変わらない。

 この系統のフレーズは無論、日本の伝承にも現れており、民話想に挙げた例話でも「米福粟福」「花世の姫」「鬼の子小綱」「鬼が笑う」「鬼と三人の子供」などに見える。

 

 ところで、どうして人食い鬼は敏感に人間の匂いを嗅ぎ当ててしまうのだろう。

 ウラジーミル・プロップは、『魔法昔話の起源』の中で以下のように書いている。(引用中、読み易いよう適宜改行を加えた。)

死んで、肉体のないものはにおいを発せず、においを発するのは生者であり、死者はそのにおいで生者に気づくのである。北アメリカの説話では、このことが非常にはっきりしている。たとえば、ある男が死んだ妻をさがしに出かける。地下の国で彼は一軒の家に行きあたる。家の主が彼を呑み込もうとするが、「こいつはえらくにおうぞ。これは死人じゃない」という。

こういう例はきわめて多く、たとえば、アメリカのオルフェ神話を研究したガイトンの著著にも見られる。これらの神話の中で、主人公はそのにおいから生者と判断される。神話の中では、「向こう側には彼の妻やたくさんの人たちがいた」と語られている。彼の妻はもう死んでしまったが、彼はあちこち探したあげく、妻を見つけだす。彼女は他の死者たちといっしょに独特の踊りをおどっている。外来者はにおいで気づかれる。「みんなが、やってきた男のいやなにおいのことを口にした。彼が生きているからだ」。

これはこの神話の普遍的特徴である。しかしこの特徴はこの神話に限ったものでもなくアメリカ人にのみ見られるものでもない。アフリカの説話では、少女の母親が死ぬが、死んだ母親が、娘のところへ庭を掘り起こす手伝いに来る。彼女はみなに気づかれ、娘をつれて去る。フュルレボルンはこの筋の先をこう語る。

地下の国で母親は、小屋の中の、鍵のかかった部屋に自分の娘をかくし、娘に口をきくことを禁ずる。しばらくして、親類知人、亡霊、みんなが客にくる。ところが家の中に腰をおろしたとたん、鼻にしわを寄せ、この家には何があるんだ。これの何のにおいだ。ここに何をかくしているんだ。これは生きもののにおいだ。ここに何をかくしているんだときく」。

ズールー族の昔話によれば、地上で「人が死ぬと、その人は死者たちのところへ行ったのだといわれる。死者たちははじめのうちは、われわれに近よるな、おまえはまだかまどのにおいがするという。かまどのにおいが消えるまでは、われわれからはなれていろと死者たちは言う」。

 生者のこのにおいは、死者たちにとってこのうえもなくいやなものである。ここでは生者の世界での関係が、逆の形で死者の世界に移行したものと思われる。死者のにおいが生者とって恐ろしい、いやなものであるのと同じく、生者のにおいは、死者とっていやな、恐ろしいものなのである。

 日本では神事の前には身を清めるものだが、そこにも「生者しての臭い(生臭さ)を消す」という意味を見出すことが出来るかもしれない。神霊…冥界の祖霊と接触するためには水で洗い清めるか香草をこすりつけて自身の臭いを消しておく必要がある。さもなければ霊に憎まれ、殺されてしまうからである。

 吸血鬼や鬼神を避けるため、自分の体にニンニクやネギや人糞をこすりつけたり、戸口に海桐花とべらや菖蒲やよもぎを挿す習慣をも思い出すべきであろう。その匂いを鬼神が嫌うからだと説明されるものだが、つまり人間臭さを消すことでそれらから逃れられるわけだ。

 シベリアのウデヘ族の民話「カンダ爺さん」では、蛇婿に連れられて天界で暮らすことになった娘は七日七夜洗われて《大地の匂い》を洗い落とされる。結婚に反対していた蛇婿の母は、娘の《大地の匂い》が消えると、息子の結婚を祝福する。なお、この日本の類話「天稚彦の草子」では、蛇婿の父である鬼は地上から嫁が来たことを文字どおり嗅ぎつけて、「娑婆しゃばの人間の匂いがする。臭いぞ」と言いながら現れている。

 日本神話で、黄泉の国から逃げ帰ったイザナギは禊ぎを行ったが、それも死者の臭いを消すためだったのだろうか。思えば日本の怪談では、幽霊が現れる際の描写として「生臭い風が吹いた」などと語るのは定番である、

 生者が死者の臭いを嫌うように、死者も生者の臭いを嫌うというのは面白いが、実を言えば「この世とあの世は鏡合わせのように逆になっている」とする思想は、かなり一般的である。民話でも「三人姉妹」にその信仰が見える(神霊に命じられたことは全て逆に行う)が、日本で死者の経帷子の合わせを逆にするのもその思想によると思われる。亡霊や妖怪・神の踵は生者とは反対に付いているとの伝承も、日本を含む世界各地で見られる。

 

 とはいえ、「死者は生者の臭いを嫌悪する」という解釈を全ての伝承に適用させることはできない。何故なら、人食い鬼たちは来訪者の臭いを嗅ぎつけると、すぐさまそれを食べてしまおうとするからである。そんなにも嫌な臭いのするものを好んで食べようとするだろうか? もっとも、「美味そうな匂いがする」と言うのも稀であるようだが。

 人食い鬼は「冥界」そのものだ。冥界は「魂」を呑むモノなのだから、それがやって来たことを感知すれば直ちに呑み込もうとする、ただそれだけのことではあるのだろう。

 

 ここからは個人的解釈になる。

 人食い鬼はお決まりに「クンクン、人臭いぞ」と言って隠れている主人公を匂いで察知してしまう。それは、彼らが多くの場合「盲目・一つ目・弱視」とされることと、無関係ではないのではないか。

 彼らは目がよく見えない。正確に言えば、生者が死者の霊をよく見ることが出来ないように、死者は生者をはっきりと見ることが出来ないのだ。目に見えないモノを、彼らは匂いで察知しているのではないだろうか。

 

 もっとも大して深い意味などなく、物語を面白くするために「匂いで気づかれた!」とスリルを語っているだけのことかもしれないけれども。あるいは、死者の霊はしばしば獣の姿になって現れると信じられているから、獣は匂いに敏感なものだというイメージもあるかもしれない。

片目の神

 人食い鬼の登場する伝承を見ていると、その多くが「一つ目、盲目、弱視」であると語られていることに気付く。最初は健常な目をしていても、物語の中で片目を傷つけた目を潰されたと語られることも少なくないのだ。どうして「人食い鬼は片目」なのだろうか。

 

 最初に、人食い鬼は神であると定義した。片目もしくは一つ目の神は世界各地で伝承されている。日本人ならまっ先に、『日本書紀』や『播磨国風土記』に登場する天目一箇神アメのマヒトツのカミを想起するかもしれない。この神は一つ目で、祭具を作る鍛冶神であった。同様に『古事記』にて天の岩戸に隠れた天照大御神アマテラスオオミカミを引き出すための祭具を作った鍛冶神、天津麻羅アマつマラも片目であったという説がある。「麻羅マラ」は「目占まうら」、即ち「片目」に由来する名だというのだ。

 かつて柳田國男は、日本各地に「一つ目」「一本足」の妖怪が数多く語り伝えられている事実に着目し、和歌山県の一本ダタラの「ダタラ」を、南方熊楠の説に倣って「踏鞴(たたら)」と解釈した。なお、「ダタラ」は巨人ダイダラボッチの「ダイダラ」と関連するとの説もあり、ダイダラボッチは近畿地方では「踏鞴法師」と表記されることがある。(ただし「ダイダラ」は「大太郎」の意味であるとの説もある。

 伝承の中では、一本ダタラは「誰もその姿を見たことがないモノ」でしかない。雪が積もると木の下に丸く雪の積もらない所が出来るが、これを一本ダタラなるモノの足跡とみなし、片足だと言ったのだ。よって一本ダタラが一つ目であったかは分からないのだが、岐阜県などに伝わる雪入道なる妖怪が一本足で一つ目の大男であったとされているのを混ぜ込んだのか、現在では一本ダタラも一つ目であったと、混同した記述をしている資料もある。

 ともあれ、一本ダタラが「片目で踏鞴を踏むモノ」であるならば、一つ目の鍛冶神、天目一箇神を連想させる。ならば一つ目一本足とは、鍛冶・製鉄に関わることを示す記号なのだろうか。

 谷川健一は一つ目妖怪の伝承地域と古代の製鉄場の分布が重なることに気づき、一つの推論を打ち立てた。即ち、片足なのは踏鞴を踏み続けて足を悪くしたから。片目なのは温度を知るために炉を覗きすぎて目を悪くしたから。これは製鉄技術者や鍛冶師の職業病を描写したものであり、片目の神やそれが零落したと思われる片目片足の妖怪が伝承されているのは、製鉄という当時の最先端技術を持っていた鍛冶師たちを神とみなしていたからなのだと。

 しかし柳田國男は異なる論に達した。神域の魚や神職者にも片目の伝承があることに着目し、神の生贄に選ばれたシャーマンを聖別するために片目を潰し、逃亡を防ぐために足を折った、この記憶が一つ目一本足の伝承になったのではないかと唱えたのである。

 

 海外に目を転じれば、ギリシアの伝承に現れる一つ目の人食い巨人キュクロプスは鍛冶が巧みとされる。しかし彼らは一本足ではない。同じくギリシアの鍛冶神ヘパイストスは片足を引きずっていたとされるが(一般的に)片目とはされない。北欧に伝承される鍛冶師ヴェルンドも足の腱を切られていたが、やはり片目とはされない。

 西欧の民話においては、鍛冶師は「悪魔を出し抜く者」として活躍する。魔神に対抗し得るほどの特別な力を持つとみなされていたのだ。しかし彼らが目や足に障害を持っていたと語られることは殆どない。「金の足」のような例もあるにはあるが。片目片足が鍛冶師の職業病を描写したものだというならば、もっと多く、その特徴を取り入れた伝承があってよいのではないだろうか。

 鍛冶師は何故「悪魔を出し抜く者」足り得るのだろうか。製鉄技術という最先端の技術知識を持っていたため神と同一視された…という前述の解釈に近いが、「火で物質を変成して新たな物を作り出すのが魔法のようだから(錬金術師に似ているから)」という説がある。実際、グリム童話の「若く焼き直された小男(KHM147)」のように、聖人が炉でみすぼらしい老人を焼いて鎚で打ち直して、立派な若者に生まれ変わらせてしまう話もある。鍛冶師はまさに悪魔や神に匹敵するような魔法の力を持っているのだ。ウィル・オーウィスプの伝説北欧の英雄シグルズ(ジークフリート)の伝承のように、魔神すら叩きのめした恐れを知らぬ男は鍛冶師だった、とすることが多いのも、そんな認識が根底にあるからに違いない。

 もっとも、鍛冶師であれば全てそのような特別な魔力を持っているとされるわけではない。「若く焼き直された小男」では、聖人が立ち去った後で、人間の鍛冶師がそっくり同じ道具と手順で、老いた姑を焼き直して若返らせようとする。しかし姑は大火傷を負って瀕死になっただけであった。岩波文庫の『完訳グリム童話』(金田鬼一訳)の注釈によれば、中世イギリスの詩によく似た類話があり、そちらでは自分の腕に慢心していたエジプトの鍛冶師が、訪ねてきたキリストが姑を若く健康に焼き直したのを見て、自分にも出来るはずだと妻を焼き直そうとして殺してしまう。彼は半狂乱になってキリストを追うと助けてくれと懇願した。そこでキリストは戻って、黒焦げの死体を若く健康な女に蘇らせたのだった。

 この話は、ギリシアの魔女メディアの伝承に似ている。彼女は老いた舅の喉を裂いて血抜きをし、薬草の入った大釜で煮込んだ。そして引き出すと舅は生きており、美しく若返っていた。それを見ていた他の娘たちが自分たちの父も若返らせようとそっくり真似したが、メディアが本物の薬草を与えなかったので、彼女たちの父はそのまま死んでしまった。

 大鍋で人間を煮込む、または焼かれて食べられると以前より美しくなって甦るという伝承は枚挙にいとまがない。

>>参考 「緑の山」<死者の歌のあれこれ〜食人の神話><青髭のあれこれ〜「本当は怖い」民話?

バター焼きされた王  パキスタン

 昔、大きな暗い森の中に権勢ある魔霊ジンが住んでいた。彼はタリの木のように大きく、多くの召使を抱えて真珠の屋敷を持ち、幾つもある庭はそれぞれ黄金の塀で囲われてあった。

 ある日のこと、この辺りを治める王が森で道に迷い、ジンの屋敷に入り込んだ。素晴らしい屋敷には人の気配が感じられない。最初の庭に入ると、のろ鹿、孔雀、雉など沢山の高貴な動物がいた。従者たちに命じてそれらを捕らえさせてから次の庭へ入ると、とても大きな野菜や果実がたわわに実っていた。若い王は食欲をそそられて、かぼちゃほどもあるリンゴをもいでかぶりついた。

 そのときだ。俄かに雷鳴が轟いて天がかき曇り、醜く巨大なジンが現れて言った。

「私の庭に入ったな! お前は今日から私の囚人だ」

 王は仰天して懇願した。

「ああ、偉大なジンよ、家へ帰らせてくれ。出来ることなら何でもすると約束するから」

「それなら宜しい。いいか、これから毎朝、私の朝食の時にやって来てフライパンに身を横たえ、バター焼きになるのだ。この条件が飲めるのなら帰してやろう。それにタダとは言わぬ。一回ごとに金貨をやろう。この提案が不服ならば、今すぐにお前を呑み込んでやるぞ」

 王はこの条件を飲み、約束した。

 王は馬を急がせて日暮れ前に城に帰りついた。けれどもその晩は一睡もできず、朝になると、時間に遅れずジンのフライパンに横になれるように、夜明けと共に起き出した。

 真珠の屋敷に着き、馬を木に繋いで入っていくと、台所ではもう、コックが澄ましバターギーをたっぷり入れたフライパンを火にかけていた。熱くなってふつふつと泡が立つと王はフライパンの中に入って、両面をまんべんなくバター焼きされた。狐色に焼きあがると大きな皿に乗せられて、召使がジンの前に運んで行った。

 ジンはくんくんと匂いを嗅ぎ、「とうとう、前から食べたいと思っていた焼き肉が手に入ったぞ」と言って食べにかかった。

 骨まで一本一本しゃぶって満腹し、すっかり満足してから、ジンは王の残骸を寄せ集めると古いマントを上に掛けて覆った。すると王はまた元通りの姿になって立ち上がった。それから、ジンがマントのポケットを揺さぶると無数の金貨がザーッとこぼれ落ち、王はそれを自分のポケットに収めて、馬の綱を解いて城に帰った。

 

 毎日がこのようにして過ぎていった。間もなく王の金庫は溢れ、王は沢山の金をどうしたらいいのか分からなくなった。それである日、城のバルコニーに出て金貨を群衆にばら撒き、「これからは誰も飢えや乾きに苦しまなくていいようにしてやろう」と宣言した。それからは毎朝決まった時間に金貨をばら撒いた。

 人々は王の計り知れない富に不審を抱いたが、誰もどこからそれがもたらされるのか知らなかった。ただ、毎朝王の着替えを手伝う従者だけは、王が夜明けに出かけ、帰ると金貨を沢山持っていることを知っていた。

 ある日、こっそりと王の後をつけた従者は、その秘密を知ってしまった。「あれなら俺にだってできるぞ」と呟くと、素早く城に戻って何食わぬ顔をしていた。

 その晩、従者は王の飲み物に眠り薬を垂らしたので、王は翌朝、日が昇ってもぐっすり眠っていた。腹の突き出ている従者は王の代わりに出かけ、体中にハルディ(鬱金ウコン)をまぶして煮え立つ油の中に入った。そしてフライパンの中で巧みに体を転がして旨そうにこんがり焼かれた。コックはそれをフォークに刺して金の皿に載せた。

 バター焼きされた従者は自分が載せられている大きな金の皿を見ると目が飛び出しそうになった。ジンがまだ来ていなかったので、素早く皿を掴んで窓へ走り、外へ放り投げた。

「私の焼き肉はどこだ?」

 直後に、喚きながらジンが部屋に入って来た。従者が窓辺でじっとしていると、ジンはクンクンと鼻を鳴らして部屋中を歩き回った。

「いや、今日は馬鹿に旨そうな匂いがするぞ、王どの。なぜ隠れているのだ、私のご馳走は」

 窓辺で湯気を立てている焼き肉をようやく見つけると、ジンは嬉しそうに眺め回した。

「ははあ、前より太ったじゃないか、王どの。私の腹具合のことをよく考えてくれるわい」

 ジンは従者にかぶりついた。ふん、ふん、ふむ、ふむと鼻を言わせ喉を鳴らし舌鼓を打ってから口を拭った。満腹すると骨を寄せ集めてマントを上に掛け、すぐにベッドに横になって、いびきをかきだした。

 元の姿に戻った従者は、自分の上に魔法のマントが掛けられたままになっているのを見て目を疑った。勢いよくマントを振ると金貨がザラザラと落ちてくる。従者はそれを急いで拾い集め、庭に投げた金の皿を拾って逃げ出した。

 その後まもなく、寝坊した王がジンの家に駆け込んできて、急いでフライパンの中に飛び込んだ。コックが首をかしげた。

「おや、朝食一回じゃ足りないって言うのか?」

 コックはバター焼きになった王をフライパンからつまみ出した。しかしジンはゴウゴウいびきをかいていて、焼き肉の匂いではもう目を覚まさなかった。それで王はパリパリしたころもを着ているのが嫌になって、溜息をついたり呻いたりした。

 とうとうジンは嫌々起きてきて言った。

「さっき持たせてやった金貨では不足なのか? どうして二度も朝食にやって来るんだ? 私はまだ最初の料理で満腹していて、もうこれ以上一切れも入らんよ」

「でも、今日は今が初めてなんですよ」と、元の姿を取り戻したい王は言った。それでジンは仕方なく王の骨をかじった。

「どうしたことだ。さっきの方が格段に旨かったぞ。部屋中にお前の匂いがしていたのに。さっさと行っちまえ!」

 そう言って、ジンはかじった骨を窓から投げ捨てた。

 

 次の朝、王の臣民たちはいつものように金貨を貰おうと城の前に集まってきたが、金貨の雨が降り注ぐことはなかった。いつの間にか古い城が消えていて、その場所に遥かに壮麗な新しい城が建っており、着飾った男が出てきて人々に向かって言った。

「お前たちの王は死んだ。大きな森の中でジンに食われてしまったのだ。今日からは、わしがお前たちの新しい王だ」

 彼は昨日までの王の従者だった。ジンの魔法のマントを使って、城と召使と衛兵、それに金貨のいっぱい詰まった金庫と絶世の美女を出したのだ。更に、マントから美しい王女を振り出して結婚式を挙げた。

 しかし彼は残酷で貪欲な王であって、人民に何一つその富を分け与えることをしなかった。

 

 そんなある日のことだ。一人の男が馬に乗って町に入って来た。彼の顔はどす黒く、足は片方しかなかった。彼は言った。

「私こそがお前たちの王だ。戦いを挑めるように私を城へ連れて行ってくれ」

 人々はバター焼きされた王を城に連れて行った。王は城に入ると、従者を剣でバラバラに斬り刻んだ。

 その後、王は王女と結婚して、前と同じように金貨を民衆に分け与えた。毎朝、日の出の時刻にジンの古いマントを振るって、その日のために自分の金庫を満たしたから、平気でそんなことも出来たのである。

 

 だから、その人がもしまだ死んでいなかったならば、我々の財布は決して空になりはしなかっただろう。


参考文献
『世界の民話 パンジャブ』 小沢俊夫/関楠生編訳 株式会社ぎょうせい 1978.

 

※振ると宝の出てくるマントは、日本の伝承で言うなら打出の小槌に近いか。しかしマントを掛けると死者が蘇るのは、「遺骸を獣皮で包んで、再生を願って葬る」儀礼の記憶なのだろうと思われる。「杜松の木」や「モーリン」でも鍋で煮られた死者の骨はハンカチやエプロンに包まれて安置され、そこから獣に転生した霊が復活してくる。

 上記の民話では、主人公は満腹したジンに片足をかじられて不完全な再生をし、一本足になっている。同様のモチーフは[魔法使いの娘]系の民話にもあり、主人公は鍋で煮込んだ恋人の骨を並べて再生させるが、足の小指の骨を忘れていたので、再生した恋人の足の小指は欠損していた。北欧の伝承にも、トール神が貧しい人間に自分の山羊を殺して煮て食べさせたが、人間が禁を破って足の骨を割って髄をすすっていたために、翌朝にトール神が山羊の皮の上に骨を並べて鎚を振って再生させると、甦った山羊は後ろ脚を引きずっていたとされるものがある。

 さて、以上の例を見れば分かるが、一つ目や一本足は、必ずしも鍛冶師もしくは人食い鬼自身の特徴として現れるのではない。それらによって再生された者の特徴として現れることもしばしばあるのである。

 前述のグリムの「若く焼き直された小男」で、鍛冶屋が聖人の真似をして若返らせようとした姑は「半分盲目」であった。類話のイギリス詩でキリストが焼き直した鍛冶屋の姑は「足が不自由」だったし、鍛冶屋自身が焼き直そうとした妻は「盲目」だったのだ。

 思うに「一つ目」「一本足」は、鍛冶・製鉄そのものに付随する記号ではない。「その記号を与えられるべき存在」の特質と「(観念上の)鍛冶屋」の特質が重なっていた、そのために「片目片足の鍛冶神」がときたま伝承中に見られた、それだけのことではないだろうか。そして神や神職者に「片目」が多いのも、恐らく生贄の目を潰していたからではない。現実に目を潰された生贄もいたのかもしれないが、逆で、「神は片目や片足であるのが相応しい」という概念が元々あったからこそ潰されたのではないか。

 では、「一つ目」「一本足」という記号を与えられるに相応しい存在とは何だろう。神、人食い鬼、鍛冶師、魔女、黄泉帰った者に共通する要素とは何か。……それは「冥界の力に関わる」ということである。

 

 オセアニアにあるフォツナ諸島では、生前に功績を残さなかった死者の魂はファレマトという地下洞穴または木の洞の中の世界に閉じ込められる。第一の世界はアトア・マタルアなる冥界神に支配されている。そこで裁かれて二度死ぬと、アトア・マングスの支配する第二の世界に落とされるが、この神は盲目で唖者であり、ここに落ちた死者も目・耳・口・鼻を切り落とされる。ここで裁かれて三度死ぬと、アトア・マタタシの支配する第三の世界に落ちるが、この神は一つ目で、ここに落ちた死霊も一つ目になるという。冥界神と死者の魂の姿は同一である。

  

 多くの伝承の中で、魔女は大鍋に薬や人肉を煮込み、かまどでパンのように子供を焼こうとしている。魔女の原型は女神だ。女神は炉やかまどの火を守り、鍋釜を持っている。アイヌやシベリア諸民族には、炉の下に火の姥神が宿っており、家を守護し異界と人の間を取り持つという信仰があったが、それらのイメージの根本にあるのは、きっと家庭の母親の姿なのだろう。母親は鍋で煮込みかまどで焼いて、魔法のように料理を作りだす。料理を食べて命魂を呑み込み、胎の中から新たな命を産み出しさえする。

 女の胎と燃えるかまどや煮え立つ鍋…炎に、繋がったイメージがあることは、例えば日本神話でイザナミが体を焼かれながらも火の神を産んだエピソードにも片鱗が見える。女性の胎内には火が燃えているのだ。パプア・ニューギニアやメラニシアの伝承によれば、かつて世界に火はなく、女が芋や野菜の上に座ることで煮炊きしていただとか、家族の留守の間に年長の女が女性器から火を産んで自分の分だけ煮炊きしていたのを、覗き見た家族が盗んだなどという。

 鍛冶師が冥界の力…即ち魔力を持っているとされるのは、勿論、「魔法のように新たな道具を作ったり古い道具を蘇らせる」からなのだろうが、その際に火を用いるのが、炉で調理する女神のイメージと重なり易かったからでもあるのではないだろうか。

 炉の火を管掌する者は魔力を持つ。…冥界に関わる。

 このイメージは民話の中では顕著で、火焚き/料理番/風呂番/みすぼらしい使用人が美しい神人に変身する[火焚き娘]や[灰坊]、いつも暖炉やかまどの灰にまみれているみそっかすが美しい姿になる[シンデレラ]譚は人気が高く、有名である。変身はしなくとも「陸を走る船」や「草むらのお人形」のように、灰坊アスケラッドと呼ばれ馬鹿にされていた若者が、魔法のアイテムや仲間を手に入れたり冥界の花嫁を得たりして、人々に認められる王者になったと語られる話もある。

 観念上では、「冥界」と「炉の火(煮え立つ鍋釜、燃えるかまど、暖炉)」は同じものなのである。

 エヴェンキ族の伝承では、家の炉の灰を掘ると扉があり、その奥から、かつて殺されて霊となっていた姉を引き出して生き返らせることが出来た。(「ウムスリケン」/『シベリア民話集 斎藤君子編訳 岩波文庫 1988.)また、ソロモン諸島レンネル島の伝承では、死んだ夫を取り戻すため、シナの炉の灰を掻き分けて穴を掘り、死者の国ポウンギに降りていく。(『世界神話事典』 大林太良/伊藤清司/吉田敦彦/松村一男編 角川書店 1994.)

 余談ながら、「魔女カルトとチルビク」や「袋の中の男の子」に登場する人食い魔女は、主人公が煮え立つ鍋に石を投げ入れたため、中身が跳ねて足を火傷した。「魔女の煮え立つ鍋」「煮え立つ鍋の中に落ちる」「足の負傷(足が不自由になる)」といった暗示があるように思う。

 

 幾つかの【シンデレラ】系の物語において、主人公を苛める継母や姉妹が「片目だった、最後に罰として目が潰れた、靴を無理に履こうと足を傷つけて片足を引きずるようになった」と語られることがある。なにより主人公自身、靴を片方落として片足が裸足になっている。恐らくこれらも「灰まみれ」と同じく、「冥界に関わる者」を示す記号として与えられた特徴と思われる。また、男性版シンデレラ譚の中には、主人公が後ろ脚の一本を引きずる、いわば三本脚の雌馬に乗っていたと語るものがある。この雌馬を泥沼に落としたり八つ裂きにしてばら撒く行為をスイッチにして、みすぼらしかった主人公は魔力溢れる神人へと変身する。

 三本脚の馬はコーカサス地方に住むオセット族の『ナルト叙事詩』に登場する精霊ワステュルジの乗騎でもある。ワステュルジはこの馬に乗って自在に天空を飛行している。強大な魔力を持ち猛々しい猟犬たちを従えた彼は、北欧の伝承で、霊たちを引き連れて夜間に天を疾駆するとされる、魂を狩る冥王としてのオーディンを思わせる。

>>参考 <シンデレラのあれこれ〜片目の謎

 シンデレラが片足だけ裸足であるように、西欧の伝承に出てくる異類女房、女悪魔たちは片足だけ獣の足をしている。片足には黄金のサンダルを履いているが、もう片足は蹄のある山羊の足か水鳥の足だ。ギリシアの伝承で冥界女神ヘカテーの眷族とされる女怪エムプーサは、例えば「ペトロシネッラ」の魔女がそうであるように、時に牛や驢馬に姿を変える。女の姿の時には、片足は真鍮、もう片足は糞で汚れた驢馬の足だという。

 霊魂は自在に獣に姿を変えるという世界的な信仰がある。片足だけ獣の女怪の姿は、彼女たちが冥界から渡って来た、人と獣の姿を自在に行き来する神霊であることを暗示しているのではないだろうか。

 

 どうして「冥界に関わる者」には「片目、一本足」の記号が与えられがちなのだろう。

 その答えは、やはり伝承の中にあるかもしれない。多くの説話を見ていくと、モチーフの中に様式化された暗黙の了解事項…定番のシチュエーションがあるのが見えてくることがある。

 伝承の中で「目が潰れた」と語られた場合、それは「死」と同義であることが多い。同様に「手や足が失われた」と語られた場合も、それは「死」を表しているのだ。視力を失ったり手足を欠損した者には、牢や穴倉に投げ込まれたり、荒野や山野をさまよう展開がつきものだ。欠損者は暗闇や荒れた地に置かれる。ギリシアの伝承の一つで、死者の魂は茫洋とアスポデロスの花野をさまようとされるように。

 牢や荒野の中で、その人物は少なくとも社会的には確かに死んでいる。あるいは、穴の底や地面に埋められた箱の中で、目が潰れ死んだようになっていたと語られることもある。そして多くの場合、彼らは後に「黄泉帰る」が、その際には欠損していた手足が戻り、潰れていた目が再び開いて見えるようになる。

 ギリシア神話で、琴の名手オルペウスは死んだ妻を取り戻すために冥界へ下る。三途の川の渡し守カロンも、番犬ケルベロスもその琴の音に慰撫されて道を開け、冥王夫婦すらも心を解いた。そうして赦されて死者たちの中から夫の前へ進み出て来た妻・エウリュディケの魂は、(彼女の死因が踵を毒蛇に噛まれたためだからだと説明されるのだが)片足を引きずっていた。

 要は、伝承の中の死者…霊魂・神霊は、手足が欠損していたり視力が弱かったりするのが約束事であるらしい。

 日本では古くから「幽霊には足がない」と言う。一説には江戸時代の幽霊画に、足が線香や反魂香の煙で掻き消されているパターンのものが多かったためそのように認識されるようになったと言われるようだが、私はそれとは別に「霊魂の足は弱い、ない」というイメージが、古くから根底にあったのではないかと思っている。

 

 目や手足は人間にとって大切な器官で、失えば生活は困難になる。現実にそれらを失えばショック死することもままあるだろう。だからそれらの欠損を「死」と同一視するのは自然なことかもしれない。死体は喋らないし動かないが、観念の世界では死後も霊は活動出来ねばならない。では生と死を分けるものは何か。「ああ、このキャラクターは死人なのだな」と聞き手がすぐに納得できる特徴は何があるか。そう考えたとき、記号の一つとして「死ぬと手足や目が欠損した状態になり、生き返るとそれらが再生する」と語った、それが第一歩だったのではないか。

 霊は、生きた人間のように足を必要としない。彼らは飛翔して一瞬で行きたい場所へ行く。スラヴの山姥であるババ・ヤガーは骨ばかりの足をしている。彼女は逃げた人間を追うが、自分の足で走らない。臼(内部に空洞があるので子宮・冥界と同一視される)に乗って飛んでくる。北欧の足の不自由な鍛冶師ヴェルンドは自ら翼を作って己を閉じ込めていた海上の牢獄…冥界から飛び去った。北欧の地下世界(冥界)を支配する小人の王は、姿を隠し一瞬で移動できる帽子またはマントを持っている。西欧の人魚たちは赤い羽根の帽子を持っており、それがなければ海の底の異界…冥界へ帰れない。ギリシアのヘルメス神は羽根のついた靴を持っており、自在に飛翔して神の国と人間の国を行き来する。そして霊魂を冥界へ導くとされる。日本でも、天狗は自在に山々を移動し、身につけると姿を隠せる隠れ蓑を持っているとされる。

 現代でこそ、日本人は鬼を「虎皮の服を着て頭に角を生やして肌が赤か青の大男」などとイメージするようだが、古い時代は「蓑と笠を身につけて、顔が見えない」というのが定番だった。

 鬼とは本来、神霊のことだ。体を蓑や笠ですっぽり覆った鬼の姿は、霊である彼らに肉体がない…「見えない」ことを暗示していたものと思われる。

 

 霊の姿は生きている人間には見えない。または見えづらい。これはごく一般的な認識だ。ところが逆に、霊には生きている人間が見えない、見えづらいという思想も存在していたらしい。

クンクン、人臭いぞ>でも書いたが、死者と生者は鏡合わせのように正反対だという思想がある。死者は馬に反対向きに乗る。韓国の妖怪トケビの踵は反対に付いている。日本では死者の経帷子の合わせを反対にする。戸を反対に閉めて逆戸さかどにすると縁起が悪いと嫌がる。同じように、死者の国…冥界へ生者が紛れ込むと、死者はその姿を見ることが出来ないと語る伝承がある。

死者の国ポクナ・モシリを訪れた酋長の話  日本 北海道

 あるアイヌの権勢ある酋長が語った話。

 和人(日本人)と交易する者がよく儲けていたので、羨んだ私は妻と共に船で和人の町へ交易に出かけた。持参した交易品のためにどうしても泊まらねばならなくなり、険しい山の手前の狭い砂浜に船を引き上げて夕食の支度をしながら、ふと沖を見ると、凄まじい津波が押し寄せてくるではないか。私は妻の手を引いて上に逃げ、土砂崩れしたところから岩山の向こうに入って、行く手に大きな洞穴を見つけて中に入った。どんどん行くと光が見え、美しい景色の場所に抜けた。

 ここは一体どこなのだろうと思いながら先へ行くと戸数の多い村があり、浜には大きな弁財船(和船)が寄港しようとしているのが見える。

 なお行くと村外れに一軒の家があり、戸口に立って咳払いしてみると、中から主婦が現れて「早くお入りなさい」と案内してくれた。この家の主人は見るからに立派な人物で、丁寧に挨拶してきてから「どうしてここに来たのか」と尋ねる。今までのことを話すと彼は言った。

「私たちもあなたたちと同じようにしてここへ来てしまったのだ。ここは死人の来る国なのだよ。あなたたちは腹が減っているかもしれないが、この国の食べ物を食べてはならない。食べたら二度と帰れなくなるのだから。私たちはうっかりここの食べ物を食べてしまったためにこうしてここにいるのだ。しかし、私たちのように肉体を持ったままこの世界に来た者は、他の死者たちと共に暮らすわけにはいかないから、こうして村から外れて暮らしているのだ。

 ここには鹿も熊も沢山いて、私たちはそれを獲って食べている。ここにはあなたたちの知っている死人たちが来て村を作っている。また、生前使っていたものは何でもここに持ってきて使うことが出来る。私たちにはあの人たちの姿が見えるが、向こうには我々の姿は見えない。

 あなたたちは急いでここから帰った方がいい。あなたたちが泊まろうとした場所には、恐らく悪魔が棲んでいたのだ。悪魔が津波の幻を見せたのだろう。戻れば船は元通り砂浜にあるはずだ。

 さあ、この熊皮や鹿皮を持って行くがいい。それを上国(人間界)に持ち帰り、せめて、私たちに会ったことを人々に伝えておくれ」

 私たちはお土産を持って帰り始めたが、途中で、村の顔見知りの老人が一人、火打ち袋を背負ってやって来たのとすれ違った。けれども彼は私たちにはまるで気が付かない様子であった。少し行くと、また別の顔見知りの老人がやはり袋を背負ってやって来るのを見たが、彼も気付く様子がなかった。

 穴を出て砂浜に戻ると、船は本当に元のままの場所にあった。それから二人で船を漕いで、どうやら我が村に着き、一部始終を話した。驚いたことには、あの死者の村ですれ違った二人の老人は、つい先日に亡くなっていたのだった。

 私たちが下界で会ったあの夫婦は、肉体を持って生きているのだから普通の死者のように祖霊祭も出来ず、供養の方法が分からないので哀れである。だからせめて話だけでも語り伝えたい。それから、私たちの泊まったあの砂浜には、これから交易に出かける者は決して泊まるものではない。それを教えるためにこの話を聞かせるのだ。

 酋長は口癖のようにこの話をしていたが、その彼ももう亡くなったということである。


参考文献
『アイヌの昔話』 久保寺逸彦著 三弥井書店 1972.

※アイヌにはこうした「あの世の入り口」の話が幾つも語り伝えられている。例えば、二人の狩人が獲物の猪を追って洞穴に入り、美しい村に出る。そこの村人に声をかけるが、聞こえても見えてもいない様子である。中に、つい先日亡くなったはずの村の老人がいたが、彼も同様だ。しかし周囲の犬が吠えだし、老人は「災いがやって来た、火を焚いて追い出せ!」と村人たちに言った。燻された二人はほうほうの態で再び洞穴をくぐり抜け、無事帰ったという。

 現界では霊(冥界のモノ)がやってくると魔物として追い払うが、冥界では生者の方が魔物として追い払われてしまうのだ。

 アイヌの伝承によれば、あの世が昼の時この世は夜で、この世が冬ならばあの世は夏だそうである。また一説によれば、洞穴の向こうの死者の国の人間と喋ると死んでしまうという。幽霊や悪い魔物の呼びかけに返事してしまうと災いが起こるという概念は日本本土にも、他国の伝承にも見られる。

 

 この伝承によく似たものはシベリアのニヴフ族にも伝わっている。

 飼っている黒い牡犬がいつも満腹しているのを不審に思った男が、犬に革紐をつけて自分の足に結びつけ、後を追った。地面に穴があり、入るとまっすぐ歩ける横穴になっていて、大きな村に出た。川魚を船いっぱいに獲っている豊かな村だ。どういうわけか船のオールで魚の頭を切り落として、そちらを持ち帰っている。村人は全て見覚えのある故人だが、彼らには自分や黒犬の姿は見えないし声も聞こえないらしい。彼が勝手に料理を食べても誰も気にしていなかった。けれど犬に引っかかって転んだり、彼にぶつかったりはする。中に、幼い時に死に別れた婚約者を見つける。彼女は死んだ時より成長して大人の女性になっている。彼女の布団に潜り込んで腰に触ると、彼女はひどくうなされて起き、巫術師を呼んで祈祷させた。男は犬と共に逃げて戻り、兄夫婦の家に行ったが、全てを彼らに話し終えると、後ろ向きに歩いて、壁にもたれて死んでしまったという。(「あの世の話」/『北東ユーラシアの言語文化』(Web) 東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所)

 死者(冥界のモノ)は生者の姿を見ることが出来ない。

 そう前提してみると、多くの人食い鬼たちが捕らえた人間の姿をよく見ることが出来ず、手探りで捕まえようとしたり太り具合を確かめたりする、例の定番エピソードの数々の意味が理解できるようになりはしないだろうか。

 

 リビアやギリシアに伝えられている半女半蛇の怪物ラミアは、一説には美しい姿で男を誘惑する魔物だが、他説では子供を連れさらって呑んでしまう人食い鬼である。蛇なのだから、つまり足がない。彼女は山腹の洞穴に棲んでいる。そして眠る際には目を取り外して壺に入れ、盲目になるというのだった。

 人食い鬼が目を取り外し出来、外している間は盲目になるという特徴は、ノルウェーの民話「森でトロルに出会った男の子たち」にも見えるが、ギリシア神話のグライアイの方が有名だろう。《灰色の髪の女たちグライアイ》は老女の姿をした三人の女神で、三人で一つずつしか目と歯を持っておらず、それを順番に使い回していた。

 孫に王位を簒奪されるという不吉な神託によって生まれる前から祖父に疎まれていたペルセウスは、赤ん坊の時に母のダナエーと共に箱に詰められ海に流された。セリーポス島の漁師がそれを引き上げて妻子にしたが、島の王がダナエーを我が物にしようとし、反抗するペルセウスに「メデューサの首を持ってこい」という難題を課した。(別説では、漁師はすぐに母子を王のもとへ連れて行き、王は母子を妻子として養った。難題ではなく息子への試練としてメデューサ退治を命じたという。)戦女神アテナと奸智の神ヘルメスが援助者になってくれ、道を示してくれた。すなわち、まずはグライアイの所へ行くこと。メデューサのもとへ行く道は彼女たちが知っていると。

 グライアイは、スラヴの伝承で森の入口の鶏足の小屋に住むババ・ヤガーや、仏教伝承で三途の川のほとりに座すとされる奪衣婆と、恐らくは近似の存在である。冥界の入口を守る女神なのだ。冥界に属するモノである彼女たちは、日の射さない洞穴に住んでいた。ペルセウスはヘルメスから貸してもらった二つの魔法のアイテム、羽の生えた飛行靴で速やかにそこへ行き、冥王ハデスの帽子(隠れ兜)で姿を消して近づくと、彼女たちからたった一つの目を奪い取ってしまった。目の見えない《灰色の髪の女グライア》たちはペルセウスの問うままに道を教えるよりなかったのである。

 近づくペルセウスの姿を見ることが出来ず、更に易々と目玉を奪われてしまうグライアたちの姿は、冥界に迷い込んだ生者の姿を知覚できない、アイヌの伝承における死者たちを思い出させはしないか。

 

 以上のことから、冥界に関わるモノが目や足を欠損しているのは、それが「死」を暗示する記号だからであり、人食い鬼(冥界神、神霊)が弱視や盲目とされるのは、死者は生者の姿をはっきり知覚できないという思想に基づくものだと、私は結論する。

 

 ところで、神が一つ目であることを「太陽の姿を現している」とする説もあるそうだ。これはこれで納得である。

 中国の『山海経』に、燭竜なる神の話が書いてある。西北の海の果てに赤水という川があり、その川の北にある章尾山にその神は住んでいる。顔は人間、体は赤蛇で、眼は縦に並んでいる。その目をつぶると世界は暗くなり、開くと照らされるという。『淮南子』によればこの神には足がない。あるいは一本足である。また、『山海経』には北の果ての鐘山の麓に住む燭陰という神についての記載もある。この神の顔は人間、体は赤蛇で千里もの身の丈がある。目を開けば昼となり、つむれば夜となり、息を強く吹けば冬に、ゆっくり吹くと夏になるという。

 鐘山の神については『玄中記』にも記述がある。山上に人間の首の形の石があり、その左目は太陽で開くと昼になり、右目は月で開くと夜になる。口を開けば春と夏になり、閉じれば秋と冬になる、と。

 インドネシアのフローレス島ガダ族の神話では、リカ山の山頂に住んでいたリツ・リズ神が昇天して空になり、右目が太陽に左目が月になった。彼が起きると昼に眠ると夜になる。

 つまり、巨大な神が目を眇め片目だけを開いている状態が昼であり、太陽は神の一眼なのである。

 この信仰は世界に広くあり、例えば『古事記』や『日本書紀』にもイザナギが左目を洗うとアマテラス(太陽)が、右目を洗うとツクヨミ(月)が、鼻を洗うとスサノオ(海と暴風)が生まれたとある。古代エジプトでは、気象の神アムンの右目は太陽、左目は月で、鼻から出る呼気は風であったとする。

 原初に一人の巨人がおり、その死体が様々な自然物に変わって世界が出来たとする死体化生神話が世界各地にあるが、中国では盤古の死体の左目が日に右目が月になったとし、シベリアのカルムク族ではマンザシリの死体の両眼から太陽と月が生じたとする。南ベトナムでは仏陀が創造した巨人ボニオの死体の両眼から日月が生じたとし、インドネシアのニアス島北部の神話では、神が卵状の土塊から創造したトゥハ・シヘイが死ぬと、右目から太陽、左目から月が出来たとする。ミクロネシアのギルバート諸島では、ナーレアウとラキの兄弟が天を押し上げてから、彼らの弟または父を殺してその目玉を投げ上げた。すると右目は太陽に左目は月になったという。インドの『リグ・ヴェーダ』によれば太陽は原初の巨人プルシャの死体の目から作られた。

 西シベリアのヴォグール族やサモエール族は、太陽は主神ヌムの良い目、月は悪い目だと言う。ヌムはその目で全世界を見通している。思えば日本のアイヌの神話でも、太陽神を呑み込んで隠した怪物は、片目は満月のように大きく片目は胡麻のように小さかった。マレー半島のセマン族は、太陽は天神ケトの右目、月は左目とし、ケトは昼も夜も世界を見ているとする。ポリネシアのクック諸島では、日月はヴァテア神の目だと言う。インドの『リグ・ヴェーダ』には太陽はミトラ、あるいはヴァルナやアグニの目と書かれてある。イランでは太陽はアフラ・マズダの目とされ、古代エジプトの天神ホルスまたは太陽神ラーの両眼は日月に例えられ、北欧では太陽はオーディンの目であり、ギリシアではヘシオドスが太陽を「全てを見るゼウスの目」と呼んだ。

 神は巨大な一眼で世界の全てを見ている。このイメージも、片目の神のイメージの一端を担っているかもしれない。

 太陽神は冥界神(人食い鬼)と同一視されるものであることを考え併せてみても面白い。実際、燭竜は多くの人食い鬼たちがそうであるように、流水を越えた向こうの山の洞穴…冥界に潜んでいる。そして蛇であるゆえに足がない。

笑う鬼

鬼の子小綱」や「鬼が笑う」では、人食い鬼から逃走する際、女房が尻をまくってヘラで叩くというおかしな動作を行っている。すると鬼は笑ってしまい、追走をやめてしまうのだ。

 女性が性器を露出してみせると、見た者が笑い、感情を和らげるというモチーフはギリシア神話にもある。旅する大地の女神デメテルを迎えたバウボという女が、飲食物を供したが、女神は口にしようとしなかった。するとバウボは両足を広げて座り、服の裾をまくりあげてみせた。そうして女性器を露出してみせたとも言うし、足の間から彼女の子であるイアッコスが顔を出して笑ったのだとも言う。これを見るとデメテルは笑い、気分を緩めて飲食をした。

 この時デメテルは冥王ハデスに奪われた娘ベルセポネを探して放浪していたのであり、バウボとはその道中、冥界の中で出会ったのだという解釈がある。そう考えればバウボはババ・ヤガーや奪衣婆やグライアイのような、冥界の関守だったのだと考えることが出来る。「鬼が笑う」では冥界から逃げる時、デメテルの物語では冥界の奥へ進む時…この世とあの世の境を越える場面で「女性器の露出」と「笑い」の記号が現れているのだ。これは偶然なのだろうか?

 

《性的なもの》が笑いと寛容をもたらす、という思想は様々な伝承で見られる。日本神話では、天の岩戸にこもった太陽神を引き出すために、アマノウズメが半裸で踊り、それを見た神々はゲラゲラと笑う。その笑い声が太陽神を誘い出す。また、天孫降臨の際にも、アマノウズメは道を塞いでいたサルタヒコの前に半裸で笑いながら出ていき、道を空けさせ道案内さえさせた。アイヌの神話では、文化英雄神オキクルミが人間界へ下りる資格を得るべく「笑ってはならない」という試練を受けてムッツリしていたが、男女神が犬の交尾を真似てみせると周囲の神々がゲラゲラ笑い、オキクルミも我慢できずに笑ってしまう。少しずれるが、日本には山で失くし物をしたら男性器を露出してみせると見つかるという民間伝承がある。山の神は多産の女性なので喜ぶのだと言う。

 性が笑いをもたらす。それは経験則的なものなのだろう。大抵の人間は性的なものを見るとニヤニヤ笑ってしまうものだからだ。しかし、それらが多くの物語で《現界と冥界の行き来》の場面に組み込まれているのは何故なのだろう。

 

『ペンタメローネ』の枠物語にも、女性器の露出による笑いのモチーフは現れている。王女ゾーザはまるで笑わない娘で、心配した父王は笑わせようとあれこれ試し、最後に宮殿の正門前に油の噴水を作らせた。油で滑って転ぶ人間を見ればゾーザが笑うのではないかと期待したのだ。この噴水に一人の老婆がやって来て、スポンジで油を吸っては水差しに入れていた。その水差しにいたずら小僧が石を投げて割ってしまうと、怒り狂った老婆は激しく罵倒して「子種を残すな」とさえ言った。いたずら小僧が「お前の女性器はモノの役に立つのか」という意味の罵倒を投げ返したので、更に怒った老婆は服の裾をまくりあげて自分の女性器を露出してみせた。この様子を見たゾーザは吹き出して笑い転げたのだが、その声を聞きつけた老婆は呪った。「お前はカンポロトンドの王子と結婚できなければ、一生涯誰とも結婚できないだろう」と。この王子は妖精に囚われていて、既に墓の下に入っていた。物語はこの後、王子を黄泉帰らせ、偽の花嫁を退けて結婚にまでこぎつける、ゾーザの愛の苦難に展開していく。余談ながら、偽の花嫁は《片足を引きずっている》水汲みの奴隷女である。

 老婆が(冥界の住人がそうするように、ザルで汲んだり小さな卵の殻に汲むなど)不毛な方法で水や油を汲んでいた様子を笑った、もしくは老婆の水差しに石を投げて壊して笑った。その結果として老婆に呪われ、この世の者ではない結婚相手を求めて遥か冥界へ旅立つ…という導入は[三つの愛のオレンジ]系でよく見られる。クロアチアの民話「幸運の三つのりんご」では、主人公たる王子は唖者であり、老婆の容器に石を投げて壊したとき、生まれて初めて声をあげて笑い、喋れるようになったという。(『世界の民話 アルバニア・クロアチア』 小沢俊夫/飯豊道男編訳 株式会社ぎょうせい 1978.) これは笑わなかったゾーザと共通したイメージである。

 笑わない王女を笑わせる、という試練は『グリム童話』の「金のガチョウ」(KHM64)でもお馴染みだ。触れると手がくっついて離れなくなる金のガチョウのため、図らずも大行列になった滑稽な人々の様子を見て、笑わない王女が初めて笑い、後に試練を越えた主人公と結婚する。笑わない王女のモチーフは、アファナーシエフの『ロシア民話集』「笑わない王女」(AФ297)や『ペンタメローネ』三日目五話「コガネムシとネズミとコオロギ」のような、[コガネムシ]と呼ばれるタイプの話にも組み込まれている。貧しく愚か者とされる主人公が魔力を得て騒動を起こしたりコガネムシなどの小さなお供に助けられて苦難を越え、その滑稽な様子を見た気鬱の王女が笑う。主人公と彼女には苦難が襲いかかるが、それを乗り越えた果てに結婚する。また【絵姿女房】にも、横暴な王にさらわれた女房が笑わなくなるが、物売りに変装した夫がやって来たのを見て笑う、という形で組み込まれている。

 口をきかない子供が何かのきっかけで喋るようになる、というモチーフは、どこか呪術めいている。中国族の神話によれば、洪水後にただ一人生き残った伍牛という男が天女と結婚して三人の息子を得るが、彼らはみんな唖者であって口をきけなかった。天神の助言に従って竹を焼いて節が弾けると、子供たちは火傷して声をあげ、それぞれ口をきくようになったとされる。アイルランドでは《妖精の取り換えっ子》が信じられていたが、その子供は泣き続けているか大食いかで、決して成長しない。そこでこの子供を火に投げ込む真似をしたり火かき棒で突こうとすれば、その子は口をきいて逃げ、本物の子供が返されるとされる。あるいは、卵の殻で湯を沸かしたり、卵の殻で酒を醸造したりしようとしてみせると笑いだし、「私は長生きしたがこんなことは見たことがない」と喋って立ち去るという。

 思うに、「笑わない」「喋らない」という状態は、一種の「死」の暗示ではないだろうか。死体は喋らないし笑わないものだからである。喋らない者を喋らせ、笑わない者を笑わせる。ここには「死んだものを蘇らせる」という意味があるように感じられる。もっと細かく言えば、「笑わない女」は子供を産もうとしない(結婚したがらない)女であり、「喋らない子供」は生まれていない(成長しない)子供のイメージであるように感じる。そしてそのイメージは「実りをもたらさない大地」に通じているように思う。

 

 笑わない女を笑わせる。そこには彼女と結婚する(性的交渉を持つ)というイメージが根底にあり、大地の女神の結婚・出産……豊穣をもたらす・春を呼ぶ・生命の復活というイメージにもつながっているだろう。そしてこの神婚は、《冥界の門が開く》というイメージとも、どうも繋がっているらしく思われる。結論から言えば、冥界の門には《女神の女性器》のイメージが重ねられていることがある。

>>参考 <小ネタ〜開け、ゴマ!

 ニュージーランドのマオリ族の伝承によれば、英雄神マウイはこの世から死をなくそうと考え、死の老婆神ヒネ・ヌイ・テ・ポが眠っている間に全裸になって胎内に入って、口から潜り出ようとした。しかしマウイが連れてきて見守らせていたあらゆる小鳥たちのうちティワカワカという一羽が、行為の最中のマウイの様子を見て、戒めを破って笑い声をあげたため、老婆は目覚め、マウイは殺された。

 マオリ族の伝承によれば、人が死ぬと魂は両脚を開いたヒネ・ヌイ・テ・ポのもとへ行き、その女性器から冥界に入るという。マウイは胎内潜りをして再び抜け出し、死なぬ存在に転生しようとしたのだろう。だが、失敗した。女神の膣には歯が生えており、彼を噛み殺したのである。

 周囲に群れ集まって見守っていた小鳥たちは霊たちであろう。オキクルミが犬の交尾の真似に笑ってしまって人間界に降りる許可をもらえなかったように、小鳥が笑ったことでマウイは甦る権利を失う。ギリシア神話のヘラクレスは眠っていたヘラの乳をまんまと吸って不死の神性を手に入れたが、マウイは失敗してしまったのだ。

 

 笑わない女を笑わせるというモチーフと、人食い鬼を笑わせて冥界から脱出するというモチーフ、もしくは笑ってしまったために冥界から出られなくなるというモチーフ、そして《笑いをもたらす性の力》のモチーフは、恐らく関連し合い、繋がり合っている。

二人の兄弟と石の犬  ベトナム

 昔、もうそれぞれ所帯を持っている二人兄弟がいた。兄は金持ちだったが心根が悪く、弟は貧しかったが善良であった。

 ある日のこと、み仏が兄弟の心を試すべく、乞食に身を変えて訪ねてきた。兄夫婦は乞食に何も与えずに罵倒して追い出した。弟夫婦は昼食を中断して急いで招き入れ、粗末なお粥を一緒に食べるように勧めた。食事が終わると、乞食は弟夫婦に向かって言った。

「あなた方はまことに温かい思いやりの心でもてなしてくださった。私に付いておいでなさい。珍しいものを見せてあげよう」

 不思議に思いながらも、乞食に連れられて夫婦が山頂に登ると、犬の石像が横たわっていた。乞食は杖で犬の口を叩いて開かせ、夫婦に言った。

「さあ、この犬の口の中に手を入れて、掴めるだけの金と銀を取りなさい」

 夫婦はためらって手を入れようとしなかったが、乞食が優しく勧めたので、犬の口の中を覗いてみた。そこには金銀が詰まっていた。だが財産にあまり興味のない二人は、自分の持てるだけしか取らなかった。乞食は再び杖で犬の口を叩いて閉じると、どこかに立ち去り、夫婦はその金と銀で美しい家と田んぼを買い入れて、兄よりも裕福になった。

 驚いた兄は弟を訪ねてきて経緯を聞き、その乞食なら最初に家に来たのにと悔しがった。彼は急いで家に帰って妻にご馳走を作っておくよう命じ、ほうぼう探し回って例の乞食を見つけた。というのも、み仏は神秘的な力によって兄の企みを見抜いていて、あえてその姿で再び現れたからである。兄は大喜びで乞食を自分の家に連れて行き、たっぷりのご馳走と上等の酒でもてなしてから言い出した。

「私たち夫婦は弟よりも遥かに沢山のご馳走と飲み物を差し上げたし、遥かに盛大にもてなしました。ですから私たちの親切に報いるには、弟にやったよりもっと多くの金や銀をくださっていいと思います」

 乞食は「よろしい」と言った。夫婦は飛びあがらんばかりに喜んだ。急いで大きな籠を二つ取って来て、乞食と一緒に山に登って行った。山頂に着くと乞食はまた杖で石の犬の口を叩いた。口が開くか開かないかのうちに兄は急いで手を犬の喉深く突っ込んだ。けれども金と銀を掴みだそうとすると石の犬が口を閉じたので、兄は腕を引き出すことが出来なくなった。恐怖に駆られて、振り返って乞食に助けを求めようとしたが、驚いたことに乞食の姿は見えなかった。

「俺たちはあの乞食の罠に落ちたんだ。あれは本当に、み仏が俺たちを試すために現れたものだったのだ。強欲な俺たちは、罰を受けて死ななければならない」

 夫婦は互いにそう話し合い、悔いて泣き悲しんだが、もうどうすることもできなかった。仕方なく、妻は毎日二度、食事を山頂まで運んできた。生活のために働くことが出来なくなったので、三年の後には彼らの財産はすっかり使い尽くされてしまった。

「私たちは、なんて不幸に襲われたのかしら。世間では、人は満腹だと仏になり、空腹だと悪魔になると言うわ。私たちはみ仏をもてなしたというのに、み仏は私たちに悪魔のような振る舞いをしたのよ」
「俺たちは石の犬の口の中の金銀のことしか考えていなかったんだ。犬が俺を噛むなんて思いもしなかった。三年間もこんな悲惨な暮らしをするなんて。……なあ、俺の隣に来いよ。少しは楽しくやろうじゃないか。俺たちの財産は尽きて、命ももうすぐなくなる。だったら、もう少しくらい人生を楽しもう」

 妻は喜んで夫の側に座った。夫がどのようにして妻を喜ばせたか、ここで詳しく語ることは控えるが、とにかく、次の瞬間に石の犬が大きく口を開けて笑ったのは確かだった。夫は素早く腕を引き抜き、夫婦は一緒に逃げ帰った。石の犬はいつまでも大声で笑い続けていたが、夫婦は二度とそれを見ようとしなかった。

 こうして兄夫婦は山を降りて家に帰り、それ以来、人に親切に施すようになったということだ。


参考文献
『世界の民話 アジア[U]』 小沢俊夫編訳 株式会社ぎょうせい 1977.

※明言されていないが、夫婦は石の犬に噛みつかれたまま性行為に及んだのだろう。結果、犬はゲラゲラ笑って夫婦は死のあぎとから逃れることが出来た。

 口の中に金銀を持っている石の犬は、「アリ・ババと四十人の盗賊」や「たから山のたから穴」に出てくるような、中に財宝が詰まった洞穴…冥界そのもの…と同じものなのだろう。この洞穴に入って扉を開けることが出来ないと、もう二度と帰れない。

 フランスの民話「二十日鼠になった王女」では、魔女の城の前にあるぬかるみを、二十日鼠の王女が乗ったオンドリがどうしても越えられない、という滑稽な様子を見て、一度も笑ったことがないという魔女の妹が笑う。その笑い声が森の奥にある魔女の城の中に響き渡った時、呪いは解かれ、二十日鼠の王女は人間の姿になって、黄金に輝く馬車でぬかるみを越えて、森を抜け出ていく。「花世の姫」では、山姥が洞穴の奥に姫を匿って誤魔化すと、夫の鬼は笑い声をあげて立ち去り、姫は無事に人里に帰ることが出来た。

 決して笑うことなく、むっつりと石のように口を閉じている冥界神が大口を開けて笑った時、即ち、地獄の釜の蓋が……この世とあの世を隔てる門が開き、黄泉帰りが可能となる。

 

 運命の女神を笑わせたことで幸運を授かる、というモチーフもある。--> 「けしの花

後半へ 続く

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