日本人の魂

 [桃太郎]は、恐らくは日本で最も愛されている民話の一つである。単なる「昔話」ではなく、今もなお、数多くのマンガやゲームで新たに語り直され続けている生きた物語であり、桃太郎とその家来の姿を日本人の魂のあり方の理想とし、精神論、経営論の喩えとして使われていることも多い。

 英雄が仲間と共に敵を倒し、富や妻を得る筋立て自体は、日本どころか世界中で普通に見られるものだ。なのに、どうして日本人はこうも[桃太郎]を特別視し、半ば神話か史実として扱いたがり、そこに何か特別な意味を見出そうとするのだろう。その理由は知れないが、あるいは、[桃太郎]が世界のどの英雄譚よりも《シンプル》な物語だからなのかもしれない。つまり、《なぞらえ》がしやすいのである。読む人、語る人によって、どのような意味を持つ物語にも簡単になりうるからだ。

 事実、第二次世界大戦中、桃太郎が軍国少年の理想像として語られ、戦意高揚に利用されたことはよく知られている。学校でも「桃太郎やその家来のような理想的な兵隊になれ」と教えたし、『桃太郎の海鷲』『桃太郎 海の神兵』といったアニメ映画も作られ、桃太郎が戦闘機に乗って真珠湾を攻撃したり、洋鬼ヤンキー島へ行って《鬼畜米英》を撃破したりしていた。

 桃太郎を《帝国主義の英雄》として語ったのは何も第二次世界大戦中に限ったことではなく、明治時代の日清・日露戦争頃にも行われていたことである。明治二十年に[桃太郎]は国定教科書に採用されたが、その頃 童話として語り直された何篇かの[桃太郎]では、堕落した複数の鬼の国を征伐して日本風に染め上げることこそが正義だ、と声高に叫んで進軍する彼の姿が描かれている。「天津神アマつかみ様から、御命おおせこうむってくだったもの」だという巌谷小波の『日本昔噺』の桃太郎は、爺と婆にこう語る。

「元来 この日本の東北うしとらの方、海原遥かに隔てた処に、鬼の住む嶋が御座ります。その鬼心 よこしまにしてわが皇神の皇化みおしえに従わず、かえって此の芦原の国にあだを為し、蒼生(人民)を取り喰い、宝物を奪い取る、世にも憎くき奴に御座りますれば、私只今より出陣致し、彼奴を一挫ひとひしぎに取って抑へ、貯へ置ける宝の数々、残らず奪取て立ち帰る所存。……」

 この桃太郎は《皇神》(天津神)に仕える存在で、爺と婆の子供になったのも神に命じられたからだとはっきり語っているし、鬼退治は、鬼が「我皇神の皇化に従わ」ないからなのである。

 これは当時の世間のニーズに沿ったものであった。その頃、日本は「優れた我が国が愚かな諸外国を討伐して従える」という幻想を抱いており、そんなおとぎ話を求めていたのだ。

 勿論、[桃太郎]のこんな利用のされ方を危険視する動きもあった。芥川龍之介は大正十三年に『桃太郎』という短編小説を発表しているが、《帝国主義の英雄・桃太郎》を皮肉った内容になっている。

 深山に桃の巨木があり、それに実った実が一つ川に落ちて流れる。それから生まれた桃太郎は低賃金(黍団子半分)で三匹の家来を雇って鬼退治に出るが、それは地道に働くのが嫌だったからだ。平和で美しい南の楽園である鬼が島は桃太郎一行に蹂躙され、

犬はただ一噛ひとかみに鬼の若者を噛み殺した。雉も鋭いくちばしに鬼の子供を突き殺した。猿も――猿は我々人間と親類同志の間がらだけに、鬼の娘を絞殺しめころす前に、必ず凌辱りょうじょくほしいままにした。

 桃太郎は鬼の財宝を奪って凱旋するが、鬼の若者達は桃太郎を憎んで、桃太郎の身辺に度々テロ攻撃を仕掛けてくるようになる。この桃太郎は、その傲慢と横暴によって、子孫へと続く不毛の戦争を生み出したのである。

参考外部リンク>> 芥川龍之介『桃太郎』(青空文庫)

 この他、[桃太郎]を鬼の視点から見て、桃太郎こそ悪人だ、と批判する意見はよく見かける。かの福沢諭吉でさえ、「鬼が悪者だというなら、それを懲らしめるのは良いことだが、だからといって鬼の宝を奪って両親にあげるのは卑怯千万」という意味のことを書き残しているのだ。

 

 なお、大正時代の[桃太郎]は明治時代とは違い、「気は優しくて力持ち」の、現代の私達がイメージするような童話的英雄として描かれるのが主流だったようである。ところが、昭和に入って戦争が始まると、再び帝国主義の英雄に変貌してしまう。

 帝国主義の桃太郎は、戦争が終わると戦争犯罪人として扱われた。侵略行為と支配者への滅私奉公を奨励する忌むべき物語だと判断され、教科書からも抹消されたのである。

 しかし、桃太郎が日本人に深く愛されたヒーローであることに違いは無い。その証拠に、[桃太郎]が日本から消えてしまうという事態は、ついに起こらなかった。現代の[桃太郎]は、再び「気は優しくて力持ち。小さな少年が大きな鬼を倒す」という、単純素朴な民衆のヒーローに回帰している。マンガなどには、主人公を少女に変え、「たおやかな乙女が醜怪な魔物を倒す」というアレンジをしているものもある。

桃太郎はいつ生まれたか

 [桃太郎]という物語が成立したのは、そう古い時代のことではないという。というのも、室町時代の『御伽草子』群に入っていないからだ。文献上、[桃太郎]が初めて登場したのは江戸時代中期の赤本(当時流行した子供向けの赤表紙本)であり、この時期か、遡ってもせいぜい室町末期に成立したものだろうと言われている。

 民話の常であるが、作者が誰なのかは分からない。けれども、[桃太郎]の作者を探ろうと試みる研究者は、知識・文化人が文章として書いたものが広まった……と推測していることが多いようだ。(例えば、香川県の鬼無町では菅原道真が作者だと主張している。)[桃太郎]の中に海外由来の思想やモチーフを見出せるからのようだが、何の教養も身分も無い人物が炉辺で作り出した可能性も大いにあるだろう。物語を紡ぐ才能に教養は関係なく、文字を読めない者でも、口伝てに遠い海外や古来の物語のモチーフを聞き知ることは出来るからだ。文献から口承になる例もあれば、口承が文献に記される例もある。最初に文献に記した作者ありき、という考え方は、一面的でしかないだろう。

 

 さて、[桃太郎]の作者が何者であろうとも、この人物が全くのゼロから物語を創出した……と主張する意見は、私は未だ見たことは無い。何か基となる話があって、それをアレンジして[桃太郎]を創ったと誰もが思っているようだ。ただ、何を基にしたのかについては、大まかに三つの意見がある。

  1. 歴史的な事件や人物を基にした
  2. 海外伝来の物語を変形した、またはモチーフを組み合わせた
  3. 日本古来の信仰・伝承を基にした

 これらに関しては後段で述べることにしよう。

桃太郎は実在の人物か?

 [桃太郎]は日本で起こった歴史的な事件や実在の人物を基にした物語だ……とする説は根強い。勿論、人間の頭から生み出されている以上、世の中に存在する全ての物語が、現実の事象に何らかの形で関わっていることは確かである。だが、[桃太郎]は果たして具体的な事件や人物について語っている物語なのだろうか?

 [桃太郎]を《伝説》として語る地は、一説によれば日本各地に二十数か所あり、単に物語中で実在の場所の名が出ているものまで含めると、三十数か所になるという。つまり、それだけの土地で「桃太郎実在論」が説かれているわけである。

 特に有名なのが岡山県で、吉備津神社の社伝等を根拠に、桃太郎は古代にこの地を平定した大和の武将、吉備津彦だと主張している。吉備津彦の名は記紀にも見えるせいか、最も信憑性のある、由緒正しい説として全国に広まっているようだ。

>> 吉備津彦の伝説

 しかし、個人的な意見を述べさせてもらえば、吉備津彦伝説が桃太郎の原話だとする説には賛同できない。もしそうであるなら、[桃太郎]の中にもっと吉備津彦伝説と共通した要素があって然るべきだ。たとえば、桃太郎と鬼が化け比べをする、鬼の首が死なずに吼える、鬼の首に犬が食いつく……などというものが。しかし、岡山県に伝わる[桃太郎]はおろか、日本全国まで見渡しても、そのような要素を持っている例は未だ発見されていない。

 吉備津彦が倒した鬼、温羅ウラは、妖力・怪力を持った鬼神であると同時に大和朝廷に逆らう吉備国の海賊として描かれ、資料によっては新羅の王子とも述べられる。吉備津彦の伝説が大和による地方豪族もしくは海外勢力の討伐を物語っているのは確かである。このことと「吉備津彦=桃太郎」を前提として、[桃太郎]は国家権力によって創作された反抗勢力討伐の物語だ、と結論付ける「桃太郎研究論」はよく見かける。けれども、それらの論では「何故 吉備津彦=桃太郎なのか」、という点には、何故か全くと言っていいほど疑問が持たれない。

 さて、桃太郎伝説で次に有名なのは、香川県鬼無町の「稚武彦ワカタケヒコ=桃太郎」説であろう。吉備津彦の弟である稚武彦が、地元民の協力を得て女木島の海賊を退治した史実が伝説となり、桃太郎童話を生んだというのだが、そもそも稚武彦が海賊を退治した、という伝説自体がどこにどう伝わっていたものなのか、(私には)判然としない。突き詰めれば、「鬼無」という地名について、「神が退治したので鬼がいなくなったから」と地元の熊野権現(現在の愛称は桃太郎神社)で由来が説かれていたことが核であるようなのだが、「鬼を退治した熊野権現=桃太郎」という発想は突飛なものに思える。

 これは全く個人的な感想なのだが、吉備津彦や稚武彦を桃太郎に結びつけるのは、明治から第二次世界大戦まであった、桃太郎を皇国の将とみなす教育の影響なのではないだろうか。[桃太郎]を、「神の子がまつろわぬ民を征討する話」だと認識している人は、大和の皇子(神の子)が反抗勢力の鬼を退治した話を見ると、自然に「これは桃太郎だ」と感じるのではないか。

 けれども、私は[桃太郎]をそういう話だと思っていないので、この飛躍には どうにも違和感を感じてしまう。

 

 桃太郎を実在の人物だとする説には他にもいろいろとあって、例えば江戸時代初期の岡山近辺の代官・福武三郎兵衛こそが桃太郎であると書いた本もある。(『桃太郎は吉備の国に実在した』福武一郎著 倉敷出版社) 藤原鎌足の子孫である福武三郎兵衛が「日本一」を旗印に反幕派を討伐したことが話の元になったのだそうだ。他にも、桃太郎のモデルは織田信長で、猿は豊臣秀吉、犬は前田利家。彼らを引き連れて毛利元就を倒し、彼の領地の鳥取砂丘から大量の砂鉄を手に入れたことが[桃太郎]の真の意味だ、と語る人もいるようである。

 結局のところ、なぞらえをしようと思えばいくらでも出来るものなのだ。桃太郎は実在した、その人物は誰某という名で、根拠はこれこれで……と考えるよりも、どうして日本人はこうも桃太郎の実在性を説きたがるのか、その心理を考えてみた方が面白いのかもしれない。

破邪の果実

 [桃太郎]について語るとき、「桃の破邪力」に言及し、記紀のイザナギの黄泉下りを引くのは、最早セオリーであろう。

 日本の国土を作った父神イザナギは、死んだ妻を取り戻すべく黄泉の国へ下った。ところがそこで醜く腐り果てた妻の死骸を見てしまい、怒った彼女に追われて逃走する。どうにかこの世とあの世のさかまで逃げ延びたが、背後からは黄泉の軍勢が迫っていた。そこには一本の桃の木が生えていたのだが、イザナギは桃の実を三つ取って黄泉の軍勢に投げつけ、更に剣を抜いて振り回した。すると、黄泉の軍勢は退散したのだという。

 ここには、「桃」と「鉄の刃物」という二つの破邪魔除けのアイテムへの信仰が現れている。イザナギは黄泉軍と物理的に戦ったわけではない。アイテムの霊力で祓ったのだ。

 かつて、朝廷では毎年大晦日に追儺ついなという儀式を行ったが、その際には桃の木で作った弓を用いた。(矢には、葦を用いた。)一般でも、端午の節句の際には桃の木の札に文字を記した桃印符を門戸に掲げたという。これらは、悪鬼を祓うためであった。この《鬼》とは具象的な魔物のことではなく、悪い運勢や病気をもたらす《気》のようなもので、いわば不幸の精霊である。桃の節句の際には桃の花を浸した酒(白酒)を飲んだが、これには百病を除く力があるとされていた。また、桃の種を桃仁といって漢方では婦人薬として用いるが、元旦に桃仁を煎じた桃仁湯とうにんとうを飲むと、その年一年の邪気を除いたという。

 桃の破邪の霊力の信仰は、日本独自のものではなく、中国から移入されたものである。『荊楚歳時記』には「桃は五行の精なり。邪気を圧伏し百怪を制す」とあり、『典術』には「桃は五木の精なり。故に邪気を圧伏し、百鬼を制す。故に今の人桃符を作り、門の上に著けて邪気をおさう。これ仙木なり」とあり、『神農経』には「玉服これを服すれば、長生にして死せず、早くこれを服するを得ずして、死に臨むの日に、これを服すれば、そのしかばね天地をえて朽ちず」とある。

『神農経』の例では、桃には「邪気を祓って健康を得る」のを超過して、長生・不滅の効果さえあると書かれている。中国には西華または崑崙に住むという女神・西王母の信仰があるが、彼女は不死の仙薬を持っていたとされ、一方では、長寿を願う漢の武帝に仙桃を与えたといわれる。これは、『旧約聖書』にある生命の木の実や、西欧の女神達が管掌していた(黄金の)リンゴと通じる信仰である。黄金のリンゴもまた、英雄を不死の神に変え、老いや病を癒すものとされていた。リンゴの他に、オレンジや梨やハシバミ、桑の実などが神秘的な果実として語られることがあり、世界的に見られるこれらを総じて《生命の果実》と呼ぶ。

 桃を生命の果実とする中国の伝承には、以下のようなものもある。

 中国の東南に桃都山があり、山頂に桃都という、枝と枝の間が(または、木の高さが)三千里もある巨大な桃の木が生えている。その上には一羽の鶏がおり、朝日がこの木を照らすと高い声で鳴く。すると、世界中の鶏がこれに呼応して鳴き始める。木の下には、神荼と鬱塁(または、隆と)という二人の鬼が向かい合って立っており、手には葦で作ったなわを持っている。桃都山の桃の実を食べると不死になるというので、悪鬼どもがこれを盗みに来る。神荼と鬱塁はこれを見つけるとすぐに縛り上げて殺す、または食ってしまうという。

 この言い伝えからか、人々は正月元旦に二本の桃の木で作った人形を門口に立て、雄鶏の羽をつけた縄を張る。

 これは『論衡』や『玄中記』などに書かれているものだが、同じく『論衡』に引かれている『山海経』、『風俗通義』や『十州記』にはこうある。

 東海に度朔山(度索山)があり、山頂に桃の巨木が生えている。その木は蟠屈して(わだかまりくねって)三千里に広がっている。これを蟠桃と呼ぶ。その枝の間の東北を鬼門といい、多くの鬼(霊的存在)が出入りする門となっている。
 神荼と鬱壘という兄弟神がおり、生まれつき鬼を捕えることが上手かった。彼らは蟠桃の下に控えていて、諸々の鬼の行いを調べる。もし人間にむやみに災いをなす鬼がいれば、葦の索で縛り上げて虎に食わせた。
 これにあやかって、県の役人たちは桃の木で作った二体の像を門に立て、神荼と鬱壘や虎の絵を敷居に貼って魔除けにするのだという。

 桃の実に不死の力があること、しかしその桃の木には恐ろしい番人がいることが語られ、その番人にあやかって、桃の木で門神を作ることが説明されている。神荼と鬱塁は葦で作った索で悪鬼を捕えるが、これが日本の追儺ついなで、桃の弓と葦の矢で鬼を祓う由来なのだろう。追儺は今の二月の節分の豆まきの原型だとされるが、二月の節分は立春の前日のことで、古くは一年の境、この日の翌日から新年が始まると考えられていた。中国で大晦日や正月に門神像や絵を戸口に置くように、鬼やらいは年の境に行うものなのである。

 

 面白いのは、この桃の巨木と門神の伝承が、陰陽五行説で言う《鬼門》の思想とも関連しているということだ。北東の方角に冥界とつながった門があり、そこから善いものも悪いものも、あらゆる神霊(鬼)がやってくる。北東は十二支方位で言うと丑寅だが、丑は北の方位、冬を象徴し、寅は東の方位、春を象徴する。つまり、丑寅は冬と春の境を示す方位なのである。鬼門は、当然ながらあの世とこの世の境であるが、あの世を冬、この世を春に見立てているわけだ。

 これは、中国で正月に門神を立てたこと、日本で追儺〜節分を年の境、冬と春の境に行っていたこととも対応するし、日本神話で、あの世とこの世のさか――黄泉比良坂ヨモツのヒラサカに桃の木が生えていたこととも対応する。

 有名な中国の桃源郷の伝承においても、理想郷へ行くには両岸に桃の花が満開の川を遡り、洞穴を潜らねばならない。穴の奥が冥界あの世を暗示しているのは明らかである。つまり、桃はこの世とあの世の境に立っている。

 桃の木はあの世とこの世を隔てる門であり、しるしである。あの世は死者の還って行く死の世界だが、同時に転生した生命(富)の産まれいずるところでもある。門からはそれら《死の力》も《生の力》も同等に流れ出すが、桃にはそのうち《死の力》だけを遮って追い返す力がある。……恐らくは、こんな信仰が持たれていたのだろう。

 

 このように、桃には鬼を祓う力がある。よって、桃から生まれた桃太郎が鬼退治をするのは実に理にかなっている。そんな風に解説されるのが普遍的である。

旅の仲間

 桃太郎の仲間といえば、犬、猿、雉の三匹である。

 実際には必ずしもそうだと決まっているわけではなく、人間型の男たちが仲間だったり、臼や腐れ縄などの無生物が混じっていることもあるのだが、犬・猿・雉だと語るものが主流なのは確かだ。日本人は彼らからも何か特別な意味を見出そうとしてやまず、たとえば、犬・猿・雉は仁・智・勇を象徴しているだとか、犬猿の仲の犬・猿を従える桃太郎に指導者の理想像が現れているなどと解説・賞賛したりする。

 それにしても、どうして犬・猿・雉なのだろう。

 この答えとしてよく言われているのは、「十二支陰陽説に由来する」というものである。この説は江戸時代に滝沢馬琴が自著の『燕石雑志』で説いたのが始まりだと言う。陰陽道では、北東を神霊や鬼がやって来る方位だとする。いわゆる鬼門である。これを十二支方位にあてはめると丑寅うしとらになる。余談になるが、一般にイメージされる鬼が角を生やし虎縞の腰布を巻いているのはここに由来するという説もある。

 さて、今一般に本などで解説されているのは、この丑寅の方位の対極となるのが南西、未申ひつじさるの方位になるので、正反対であるが故に同等または対抗しうる力があると考えられ、鬼に対抗するものとしてこれらの動物が選ばれたのだ、というものだ。

 ……ええ? ちょっと待って欲しい。桃太郎のお供は犬・猿・雉。これでは、猿しか合っていないではないか。

 この点に関しては、理屈がよく分からない。「丑・寅」の二支に対抗するものとして、馬琴は何故か羊を省いて酉・戌を加えた「申・酉・戌さる・とり・いぬ」の三支を挙げた。理由は何なのか。現在は、羊が弱いから、あるいは鬼門と正面から相対するのを避けてずらしたなどと解説されることが多いようだが、それはちょっと根拠が弱いだろう。(特に、後者の説。何故正面から相対するのを避けねばならないのか。また、何故ずらすと二支が三支に増えるのか。更に、十二支方位の極陰は《亥》であるし、この理屈でずらすなら南の方にそうするのが相応しいのに、あえて北にずらすのは何故か。理屈が通らない気がする。)

「鬼が島は鬼門を表せり。これにむかはするに、西の方申酉戌さるとりいぬをもてす。これを四時しじに配するに、西は秋にして金気殺伐をつかさどればなり。その意いと深し。」

 馬琴はこう書いている。もしかすると、鬼門を寅・卯・辰の「東」だと認識していたのだろうか? 私にはよく理屈が分からない。

 ともあれ、陰陽五行説では《桃》は金行に分類される。金行に当てはめられる方位は西で、まさに申・酉・戌さる・とり・いぬの三支がここに分類される。

 おお、ピッタリではないか。犬・猿・雉が桃太郎の仲間なのは、陰陽五行説に由来するものだったのだ! ……と、断言して終わってしまいたいところなのだが、個人的には僅かばかりの疑問もある。こんな風に五行思想で計算されたキャラクター配置がされていると言うならば、どうしてその他の重要小道具、「黍団子」は必ずしもこれに符合していないのだろうか、と。《「きび》は五行説では火行に属する。金行に属するのは稲なのだ。五行説で計算された物語だというならば、桃太郎は米団子かおにぎりを持って出かけるのが順当なのではなかろうか。

※これに関しては、読者の方にご指摘をいただいた。『黄帝内経』に書かれている五行配当を参照すると、金行には黍が当てられているのが主流なのだそうである。(最も古いとされる『黄帝内経素問』4では稲が金行。)

 

 結局のところ、桃太郎実在説と同様に、三匹のお供の選出理由についても、なんとでも説明することが出来てしまう。一番最初に桃太郎の仲間を犬・猿・雉だと語った人には何か選出の理由があったのだろうけれども、単に身近な動物や好きな動物を挙げただけなどで、特に奥深い理由などはなかったのかもしれない。はたまた、[桃太郎]の原拠となる海外の物語があって、そこから引き継いで日本風のアレンジを行っただけなのかもしれない。果実や魚から神秘的な誕生をした兄弟英雄が獣のお供を連れて魔物退治する西欧の[二人兄弟]では、お供には大抵犬か馬が入っている。その他は、ライオン、熊、兎など様々だ。[二人兄弟]のインドの類話である「ラーマーヤナ」では、猿、ハゲ鷹、熊が助力する。

桃太郎(日本)



ラーマーヤナ(インド)

猿神 鷹王 熊王

二人兄弟(グリム童話)
狐/狼

獅子
黄金の子供(グリム童話)





双子の兄弟(ドイツ)




双子の王子(チェコスロバキア)




双子の兄弟(西アフリカ)


豹/猫
十二の首を持つ龍(チェコスロバキア)


獅子

 このように、数種の動物が人間の仲間になるモチーフは海外の伝承にも見られるが、これらの動物は、それぞれの持つ何らかの立場や能力を比喩・象徴したものだと解釈することができる。そして、それらが動物ではない人間型の仲間として現れる話群もある。こちらは日本では[力太郎]の系統になるが、[桃太郎]とは重なり合った要素の多いものである。


こんび太郎
(日本)
四巨人
(朝鮮)
秦の始皇帝と十人兄弟
(中国)
空を飛ぶ船
(ロシア)
六人男、世界を股にかける
(グリム童話)
熊の子ジャン
(フランス)
木を藁のように抜いて捻る男



根こぎ男
山や建造物を移動させる男 御堂コ太郎 鉄熊手の大男


赤毛
岩を素手や尻で研磨する男 石コ太郎



石切
呼気で大風を起こす男
荒息の大男

鼻息の荒い男
目的地まで短時間で移動出来る男


片跳ね男 片足男
大食いの男


大食らい男

大呑みの男


大飲み男

千里眼・順風耳・聴耳、遥か遠方を狙い撃てる男

地獄耳
千里眼
聞き耳男
狙い撃ち男
目の鋭い狩人
洪水を起こす男
大水小便の大男 大目玉


熱さ・寒さ知らず


藁束男 横っちょ帽子男
その他

怪力、石頭、鉄男、足長、大頭、大足 薪男

 なお、[桃太郎]の中には後半が「猿蟹合戦」風になっている話群があり、ここでは仲間も蟹、蜂、牛糞、臼など、【猿蟹合戦】系でお馴染みのメンバーになる。この猿蟹合戦風桃太郎は、人気のある物語同士が交じり合ってしまったゲテモノ的な話……と認識されて終わることが多いようだが、一つだけ、個人的に興味深く感じていることがある。これらの話でも、やはり桃太郎が黍団子を分け与えることで仲間を得るのだが、[桃太郎]とは無関係の、純粋な【猿蟹合戦】系の伝承の中にも同様に、敵討ちに行く蟹や小鳥が、出会った臼や針や蜂などに黍団子を与えて仲間にしているものが、かなり多く見られるのである。

 これは、「黍団子で仲間を得る」というモチーフが[桃太郎]から【猿蟹合戦】に移入されて定着したということなのか。それとも、このモチーフは元々【猿蟹合戦】系のもので、逆に[桃太郎]に影響を与えたということなのだろうか。(ただし、動物が無生物を含む仲間を引き連れて敵討ちをする「旅歩きの動物達」は世界話型で、インド、インドネシア、中国、シベリア、朝鮮、ドイツなど広範囲に見られるのだが、海外の類話には食べ物を与えて仲間を得るモチーフは現れていないようだ。)柳田國男の『桃太郎の誕生』によれば、かつて阿波や能登には標準型の桃太郎は伝わっておらず、蟹の子が仲間を引き連れて猿ヶ島に猿退治に行く、「猿ヶ島の敵討ち」がポピュラーであったという。

日本一の黍団子

 桃太郎は母に作ってもらった黍団子を持って旅立ち、途中で出会った犬・猿・雉と以下のような問答をする。

「桃太郎さん桃太郎さん、どっちサ行きます」
「俺は鬼ヶ島に鬼退治に」
「お腰に付けたものは何ですか」
「これは日本一の黍団子」
「一つ下さい。お供します」

 桃太郎の台詞「これは日本一の黍団子」の細部は様々で、続けて「一つ食えば美味いもの、二つ食えば苦いもの」と言ったり、「一つはやらない、半分やろう」と言ったりする。語りのリズムを楽しむ部分である。

 この部分に関しても、日本人は特別な意味の読み取りをやめない。黍団子を金銭・褒賞と捉え、雇用契約を結んだ、と解釈する。童話のようにカムフラージュされているが、ここには武士の現実が隠されているのだ、と。時には、黍団子のようなつまらないもの――低賃金で人民を酷使する悪徳な支配者だと、桃太郎を批判する声すら上がることがある。

 けれども、桃太郎が黍団子を持って出かけて、それを分け与えた相手を仲間にするのは、もっと単純素朴な意味合いなのではないか、と私は思っている。たとえば、北欧からロシアにかけての「空飛ぶ船」系の話では、主人公はお弁当を袋に入れて運試しに出かける。すると、道中で白ひげの老人に出会う。老人は尋ねる。

「あんた、どこに行くのかね?」
「ああ、僕は森に行くつもりなんだよ。水の上でも陸の上でも同じように走れるって船を、上手いこと造れるかどうかって思ってね。何故って、王様がお触れを出したんだ。そういう船を造れた者には、お姫様と国半分をやる、ってね」
「あんたは、その袋の中に何を入れてるのかね?」
「ああ、これ、そんなに喋りたてるほどのものじゃない。けど、これを弁当にしようってわけなんだよ」
「あんたのその弁当を少し分けてくれないかね? そうしたら、少しあんたの手助けをしてやろう」

 主人公の兄二人は嘘をついて、老人に目的も袋の中身も教えなかった。すると運試しに失敗してしまう。正直に答えて弁当を気前よく分け与えた主人公のみが、船を手に入れて素晴らしい仲間達を集めることができたのだ。

 道端や森の中で不思議な老人や乞食、魔物に出会い、持っていた乏しい食料を惜しみなく分け与えると、相手が様々な方法で主人公の今後を助けてくれる、というモチーフは少しも珍しいものではない。不思議な援助をしてくれる彼らは、神またはそれに準ずる存在であると解釈できる。主人公が食べ物を分け与えてくれるかどうか、心を試しているのである。

 三匹の獣は、[桃太郎]の中ではつまらない畜生として描かれているけれども、根源的には神の使いのような超自然的援助者であったのではないだろうか。彼らは桃太郎の弁当を要求した。旅立ちに際して特別に作られたそれは、貧しい両親の心づくしでもあり、貴重なご馳走でもあるはずである。そんな大切なものを気前よく分け与えた、その心を確認したからこそ、三匹は桃太郎に力を貸したのだ。私は、そんな風に思っている。

 

 また、「黍団子を食べたために千人力になって、鬼を簡単に倒せた」と語られることもあり、この場合は、黍団子はパワーアップアイテムとして作用しているようである。

 西欧の化物退治系の話では、英雄が姫君をさらった魔物の洞窟に入ると、命の水と死の水の二種類の水が置いてある。魔物はピンチになると命の水を飲んで回復するのだが、英雄が援助者の入れ知恵で予め水の容器の位置を入れ替えておいたので、魔物は死の水を飲んで逆に弱って殺されてしまう。同じように、日本の[酒呑童子]では、英雄は神に神便鬼毒酒を授けられ、それを鬼に飲ませる。これは鬼が飲めば力が抜けるが、人が飲めば力がつくというものであり、酒に酔った鬼を殺すことが出来た。

 そして、岩手県の「桃ノ子太郎」では、桃ノ子太郎は地獄の鬼たちに黍団子を食べさせ、彼らが酔ったようになって寝ている間に地獄の姫君を連れ出して逃走したのだった。

 

 ところで、桃太郎の弁当はどうして「黍団子」なのだろう。各地の伝承を並べれば他の団子を持つこともあるが、それはごくごく稀で、まず黍団子を持つものと決まっている。

 痩せた地でも穫れる黍は、昔から民衆の食べ物として親しまれてきた。よって、日常の食べ物として物語に登場させやすかったのかもしれない。また、黍は年中行事や祝い事の際にも利用され、黍団子や黍酒を神前に供えたという。先に、犬・猿・雉は神の使いのようなものではないかと書いたが、神饌という意味合いで黍団子が持たされたとも考えられなくはない。

 

 もっとも、桃太郎は岡山県(吉備国)で生じた伝承だ、と主張する人々によれば、黍団子とは特に吉備団子の意味で、吉備国と桃太郎の関連を示す根拠のひとつであるという。

 吉備国は元々黍の産地で、故に吉備国と言ったそうで、吉備津神社では神饌として黍団子や黍酒を用い、江戸時代には、神事の後の直会なおらいでそれを人々に分け与えていた。

 現代の吉備団子は岡山県の銘菓で、もち米に水飴を練りこんで黍で風味付けした甘くネットリしたお菓子である。江戸末期の1856年、武田浅次郎が開発した。最初は売れなかったが、明治になって日清戦争が起こったとき、日本各地に凱旋する兵達の土産物にと、自ら桃太郎の装束で売り出したところ大ヒット、全国に知られるようになったのだという。当時流行っていた「皇国の子・桃太郎」のイメージのおかげで、兵達に受けがよかったのだろう。

 黍団子を現在のような求肥ぎゅうひ菓子にアレンジしたのは武田浅次郎だというが、江戸時代に吉備津神社の境内で《宮内飴》なるものが販売されており、これも似たものだったのではないかと推測されている。また、1492年の『蔭涼軒日録』に「日本一之黍団子」という語が見え、どうやら室町時代の京都相国寺蔭涼軒で黍団子が賞味されていたらしい。当時の軒主は数年間美作みまさか(現在の岡山県北部)に在住した経歴の持ち主だった、などという。

 ただし、黍団子が吉備国と関わるからといって、即座に[桃太郎]と結びつくとは言えない。結局のところ、黍の団子は日本各地で食べることの出来たはずのものだからである。

桃から生まれる・ももから産まれる

 人気の雑学番組『トリビアの泉』でも取り上げられていたのでご存知の方も多いと思うが、元々、[桃太郎]は現在知られる「桃の中から生まれた」果生型だけではなく、「桃を食べた老夫婦が若返って桃太郎を産んだ」回春型の発端があり、江戸時代には、むしろ回春型の方が主流だったとされている。

 江戸時代後期の戯作者・滝沢馬琴は、随筆集『燕石雑志』でこう書いている。

童の話に、昔 老たる夫婦ありけり。夫は薪を山にこり、婦は流れに沿て衣をあらふに、桃の実一ッ流れて来つ。携へかへりて夫に示すに、その桃おのづからわれて、中に男児ありけり。この老夫婦原来もとより 子なし。この桃の中なる児を見て喜びて、これを養育はぐくみ、その名を桃太郎と呼ぶ程に、【[割注]或は云ふ、老婆 桃の実二ッを得て家に携へかへりて、夫婦これを食ふに、忽地たちまちわかやぎつ。かくて一夜にはらむことありて、男子を生めり。よりて桃太郎と名づくといへり】その児 忽地たちまち大きになりつゝ、膂力りょりょく人に勝れて、一郷に敵なし。

一日 その母に黍団子といふもの、あまたとゝのへて給はれといふ。母その故を問へば、鬼島に赴きて宝を得ん為なりと答ふ。父聞て いと勇とほめて、そのいふまゝにす。団子すでにとゝのへしかば、桃太郎これを腰間につけ、父母に辞し別れて、ゆくゆく途に犬あり、その腰間なる黍団子を見て、これ一ッ給はらば、従者たらんといふに とらしつ。又猿と雉子きじとにあへり。みな黍団子をあたへて従者とし、遂に鬼島に至り。そのいはやせめて鬼王をとりこにす。鬼ども その敵しがたきを見て、三ッの宝物 隠れ蓑、隠れ笠、打出の小槌をたてまつりて、主の命乞せり。かくて桃太郎、その宝を受けて鬼王をゆるし、犬、猿、雉子をて、故郷に帰り、思ふまゝに富さかへて、父母を安楽に養ひしといふ事。

 この文だけを見ると、江戸時代でも果生型の方がメジャーだったように思えてしまうが、あくまでメインなのは回春型だったらしい。なお、現代でも埼玉県や香川県など、一部地域では回春型が伝えられている。

 子の無い夫婦が神に願っていると、神が(夢に)現れて果実・花・飲料等を授けてくれ、その後に実際に子を産むモチーフは、世界的に見ても珍しいものではなく、殊に、中世日本の説話ではしばしば見かけるものである。江戸時代に出版された[桃太郎]の中には、子の無い夫婦が社寺で祈願して桃を授かり、その桃から男児が生まれたとするものが幾つかあり、中世説話からの流れを感じさせる。桃を食べて若返って子を成したという回春型も、「若返った」という点が特殊ではあるが、基本的にはこの系統に属するモチーフで、海外にも似た事例を幾つも見出すことが出来る。

 例えば、グリム童話の「杜松の木」では、子のない女が神懸かったようになって庭の杜松の実を貪り食い、その後に男児を産む。中国の「ちびっこの甘露」では妻が夫の墓から生えた金柑の木の実を食べて妊娠し、同じく中国の「八兄弟」では、やはり未亡人が、夫の霊たる白鳩に指示されて庭の赤い桃の実を食べて妊娠する。北欧の「ヴォルスンガ・サガ」でも、子の無い夫婦のもとにカラスに変じた戦天女ヴァルキューレがリンゴを運んできて妻の膝に落とし(岩手県の「桃ノ子太郎」で、桃が母の腰元に転がってきた、というシーンを想起させる)、それを夫婦で分け合って食べて妊娠する。トルコの「毛皮娘」では、子の無い夫婦が魔神にリンゴを授かり、それを半分ずつ食べて娘を授かる。これらの場合、「夫婦で分けて食べる」点に、回春型桃太郎と同じ、夫婦の性交が暗示されているようである。

 

 果実を食べて子を孕むモチーフに関しては、その果実そのものが女性〜性〜生殖の象徴だからだ、という解説がよくなされる。『旧約聖書』のアダムとイブは、知恵の果実を食べたことで初めて性交を知った。この知恵の果実は一般にリンゴとしてイメージされるが、リンゴを縦に割ると芯の部分が女性器のように見える、などと言う。また、印欧諸国においてリンゴは女神の持ち物であり、女神がリンゴを英雄に与えるのは神婚を意味していた。同様に、桃はその形が女性器を表しているとされ、女神・西王母の持ち物であった。

 ただし、世界各地の伝承を見回すと、食べることで子供が授かるものは果実だけとは限らない。インドの「ラーマーヤナ」では乳粥または酒、西欧の[二人兄弟]系では金色の魚を食べてのことが多い。『グリム童話』の初版本には、「二人兄弟」の代わりに類話の「黄金の卵」「ヨハネス・ワッセルシプルングとカスパル・ワッセルシプルング」という二篇が掲載されていたが、前者では塔に閉じこもっていた王女と侍女が飛び込んできた一滴の水を分け合って飲んで共に男児を産み、それに水の子ペーテルワッセルペーテル水の子パウルワッセルパウルと名付けて、箱に入れて水に流し、漁師が拾って育てたことになっている。後者では、森の奥の一軒家に隔離された王女が、近くの泉の水を飲んで湧き躍る水のヨハネスヨハネス・ワッセルシプルング湧き躍る水のカスパルカスパル・ワッセルシプルングという双子の男児を産んだとなっている。その他にも、『ペンタメローネ』の「魔法の牝鹿」や北欧神話のロキ神のような心臓を食べての妊娠、同じく『ペンタメローネ』の「奴隷娘」のような花を食べての妊娠、「達斡爾のシンデレラ」のような豆や穀粒を食べての妊娠もある。

 これら「口からの受胎」は、何を意味しているのだろうか。

 このことを、私はややこしく考えなくてもいいと思っている。今でも、俗に女性器のことを《下の口》などと言うが、恐らくは、口で物を食べることと女性器で性交することが、観念的には同一とみなされているのである。

 インドの叙事詩『マハーバーラタ』に、こんな神話がある。ヴァサ王が狩りをしていた時、妃への欲望を感じて精液を出した。それは鷹が妃の元へ運んでいくはずだったが、途中で鷹が別の鷹とケンカを始めたため、水の中に落ちた。その精液を水中にいた一匹の魚が呑んだ。この魚は、実は高位の天女アプサラであるアドリカーが、ブラーフマナ神の呪いで姿を変えたものであった。魚はちょうど十ヶ月目に漁夫に捕らえられ、胃袋の中からは人間の男児と女児が出てきた。漁夫は驚いて自分の主人であるウパリチャラ王に報告し、王は男児を養子にして女児は漁夫に与えた。成長すると男児はマトシャ王になり、女児は《魚臭の王女》と呼ばれるようになった。一方、アドリカーは双子を出産したことによって呪いが解け、元の天女に戻ったという。

 鳥が運び天から落ちてきた精液を呑んで子供を産む。これが、前述の初版『グリム童話』「黄金の卵」の、塔に飛び込んできた一滴の水を飲んで子を産んだエピソードと根を同じくすることは想像に難くない。また、北欧の「ヴォルスンガ・サガ」の、カラスがリンゴを運んできて落とし、それを食べて妊娠するエピソードにも通じると考えられるだろう。つまりは、《妊娠させる食物》の原型は《精液》であったと思われる。

 一方で、口からの受胎には、「食べた物の力や生命を複製する」という意味もある。物を食べることにより、それの持っていた力や特質を取り入れることが出来るという観念は、世界に共通したものだが(<死者の歌のあれこれ〜食人の神話>参照)、更に中国の伝承で見ると、男が食べれば自身が力を受け継ぐのに対し、女が食べれば力を受け継いだ子供を産むことになっている。女は、食物の中に宿っていた力を新たな生命として産み出すのである。

 女が食べた物の力を引き継いだ子を産むということは、また、食べられた者を生まれ変わらせる、という意味も持っている。古代エジプトの「二人の兄弟の話」では、バータという男が妻の裏切りで殺され、まず牛に、次に梨の木に転生したが、妻はそれも切り倒させる。しかし木っ端が口に入ったことで彼女は妊娠し、男児を産んだ。この男児は成長すると自分がバータの生まれ変わりであると明かし、妻を罰して復讐を遂げたという。中国の「かわいい子牛」では、妬む女達がライバルの産んだ赤ん坊を牛に食わせたところ、やがてその牛が子牛を産む。子牛は成長すると皮を脱いで人間の姿になり、陰謀を暴いて復讐を遂げたという。

 このように、口からの受胎は性交による受胎を抽象化したものと考えられるが、抽象化が進むと、食べることすらしなくなる。『御伽草子』の「花世の姫」では、観音に授けられた梅の花がまず膝の上に乗り、それを袂の中に入れることで受胎するのだ。抽象化が更に進むと、ついには女性(の子宮)を物体として語るようになる。例えば、インド神話に登場するアガスティヤ仙は、ヴァルナとミトラ両神が落とした精液が瓶に入って、そこから生まれ出たとされる。また、[その後のシンデレラ〜偽の花嫁型]や[三つの愛のオレンジ]【蛇婿〜偽の花嫁型】では、姉妹に殺された娘が木に転生し、しかしその木も姉妹に切り倒された時、その木っ端を一人の老婆が拾ってかまどやその周囲の穴に入れると、娘は元の姿に再生して飛び出してきたと語られる。前述の「二人の兄弟の話」では、木っ端は女の口の中に飛び込み、赤ん坊として産み直されていた。ところが、女〜子宮が、ここでは竈(と、それに木っ端を入れる老婆)に語り直されているのである。

 この、容器の中に物体を納めておくと子供が産まれるモチーフは、[桃太郎]や【瓜子姫】の中にも現れている。老婆は、入手した果実をまずは戸棚、臼の中、箱の中、布団の中などの空洞うつぼに納めておく。その後に夫が開けると、中から赤ん坊が現れるのだった。

 

 ところで、[桃太郎]の《もも》は実は人間のももの意味ではないか、という説がある。桃太郎が母親の両股の間(すなわち、女性器)から当たり前に産まれてきたことを、果実の桃に引っかけて暗示してあるのだと。

 この説の先鋒は、高木敏男が『英雄伝説桃太郎新論』の中で挙げた仮説であろう。(ただし、高木自身は、その同じ論の中で既に「桃と股との国音の一致は要するに偶然の一致」と結論付けているのだが。)柳田國男は『桃太郎の誕生』の中で、桃が母の腰元に転がってきたとする「桃ノ子太郎」や、母の脛や股から小児が誕生して嫁取りや鬼退治に行ったという「すねこたんぱこ」「オムタロ・シタロ」を新たに例に挙げて、この説の可能性を示唆している。

 しかし、母の脛や股から小児が生まれて鬼退治する話は、むしろ[一寸法師]の話群に属するものだ。女性器以外の人体からの誕生は、世界的な「英雄の異常誕生」のバリエーションの一つである。【親指小僧】など、母の親指から生まれてくる小児の話は西欧諸国でも見られる。ギリシアのディオニュソス神誕生の神話も、この範疇に入るものであろう。

 天神ゼウスは人間の王女セメレーに子を孕ませたが、彼女は雷に打たれて焼け死んでしまう。ゼウスは彼女の死骸から胎児を救い出し、自分の太腿の中に縫い込んだ。そして月満ちると、太腿の中からディオニュソスを産んだという。(これはゼウスの両性具有を示しているだとか、太腿は男性器の比喩だなどという説もある。)

 なお、ディオニュソス神誕生の神話には別の説もあるが、そちらでは《口からの受胎》が語られており、興味深い。

 冥界神ゼウスは冥界の女王ベルセポネと交わって、角のある男児を得た。ところが、この子が遊んでいたとき、大地から現れ出でた巨人ティタンたちが子供を七つに引き裂いて大鍋で煮込み、それから串に刺して焼いて食べてしまった。心臓だけは女神によって救い出され、蓋付きの籠に入れられてゼウスに渡された。(ここで語られている《心臓クラディアー》は《いちじくクラデー》との語呂合わせになっている。つまり、この心臓は果実でもあった。)ゼウスはこれから飲み物を作って王女セメレーに飲ませ、よってセメレーは身ごもったという。

 セメレーの飲んだものは、天神が彼女の体めがけて放った心臓(魂)であり、果実であり、精液であったと、三重の暗示がされているのである。

 

 話がそれるが、口からの受胎に関連することを二つ追記する。

 一つは、《魚》のこと。

 [二人兄弟]系の話で、女が魚を食べて妊娠したと語られるのが主流であるように、印欧諸国では、魚は女性の性〜生殖・子宮の象徴とされている。理由はハッキリしない。魚が一度に多量の卵を産む、多産な生物だからなのかもしれない。

 ヒンドゥー教徒は魚の臭いと女性器の臭いを同一のものとみなし、カトリック教徒は金曜日には魚を食べねばならないとしている。これは、一般にはキリストが処刑された曜日にちなんでだと説明されるが、金曜日は性愛の女神ヴィーナスまたはフレイアの日なので、それにちなんで生殖のシンボルである魚を食べるのだ、という説もある。また、ギリシア語では《魚》と《子宮》は同じ単語 delphos であった。ギリシア神話にちなんだ十二星座図を見ると、多くの図で、水瓶座の瓶から流れ出した水は魚の口の中に呑み込まれている。ここには、精液を子宮が呑み込むという暗示があるらしい。紀元前五世紀のギリシアの歴史家ヘロトドスの『歴史』には、エジプトの魚は雄の放出する精液を、雌がその後に付いて泳ぎながら呑み込み、それによって受胎するのだと書いてある。受胎すると、今度は雌が卵を放出しながら泳ぎ、雄がその後に付いて卵を呑み込んでいく。呑まれなかった卵だけが成長するのだという。

 もう一つは、《花》のこと。

 花も、それを食べることによって妊娠すると語られる。花は女性器の象徴とされることが多いので、そのせいなのだろうか。

 なお、花は「食べる」以外にも「またぐ」ことで妊娠すると語られることがある。ローマ神話の女神ジュノーは、百合の花を用いて、女独りでマルス神を産んだという。どう《用いた》のかはハッキリしないが、一説によれば花をまたいだのだという。同様に、キリスト教の聖母マリアは処女のまま神の子キリストを産んだとされるが、一説によれば、神の精液は天使ガブリエルがマリアに差し出した百合を通り、そこからマリアの耳の穴の中に注がれたのだと。中耳炎を起こしそうである。

 『ペンタメローネ』の「奴隷娘」には花を食べる、またぐ、双方のモチーフが出ている。

英雄は厄介者

 中国・四国地方を中心に、絵本等で描かれるような優等生ではない、怠け者で大食らい、もしくは悪戯者の桃太郎が伝わっていることは、よく知られている。

 怠け者の桃太郎は、友達に山仕事に誘われても、身支度がまだ出来ていないといちいち断ってなかなか行かない。毎日一つずつしか支度が出来ないらしい。

「桃太郎さん、桃太郎さん、山へ柴刈りへ行かんか」
「今日は草鞋わらじを作りかけよるけん明日にしてくれ」
「桃太郎さん、桃太郎さん、山へ柴刈りへ行かんか」
「今日は草鞋のひきそを引つきよるけん明日にしてくれ」
「桃太郎さん、桃太郎さん、山へ柴刈りへ行かんか」
「今日は草鞋の緒を立てよるけん明日にしてくれ」

 このくだりは、研究本では よく『御伽草子』の「ものくさ太郎」と比較されている。毎日道端で寝て過ごしている究極の怠け者・ものくさ太郎を地頭が見て、彼奴が自分の領民として生まれたのも前世の縁だと援助を申し出るのだが、ものくさ太郎はことごとく却下してしまう。

「地を耕して生きよ」
「持っておりません」
「では与えよう」
「面倒くさいので、土地も欲しくないのです」
「商売をして生きよ」
「元手がありません」
「与えよう」
「今更、やったことのないこと、知らないことは、出来ないです」

 だが、私はこれよりも、アイヌの神話に出てくるアイヌラックル出陣のくだりを思い出す。怪物が日の女神を呑み込もうとし、困り果てた神々が英雄神アイヌラックルの助力を求める。ところが迎えの神が行くと、アイヌラックルは片足のすねあてを着けるのに三日、もう片足をつけるのに二日かかるという塩梅で、なかなか出陣しない。最初に迎えに来た神は我慢できずに帰ってしまうが、次に迎えに来た神は支度が終わるまで根気強く耐え続けた。支度を終えたアイヌラックルは彼を従えて一跳びに怪物の岩城へ行き、退治を成し遂げたという。

 この神話では、アイヌラックルがこのような行動を取ったのは、緊急の時ほど慎重に行動するという深遠な意図があってのことだと説明されたりするが、本来は[桃太郎・寝太郎型]と同じ、彼の「怠け者」の面(または、常人とは異なる感性)を表したエピソードだったのではないだろうか。

 

 偉業を成し遂げる勇猛な英雄が、しかし最初は全くの役立たずか浮いた存在で、むしろ周囲に迷惑をかける、または怖れられ嫌われる厄介者だった……というモチーフは、世界中で普遍的に見られるものである。

 たとえば、日本神話の英雄神スサノオのミコト。彼は髭が胸に届くような年になっても母を慕う赤ん坊のように泣き叫ぶばかりで仕事をせず、田畑を荒し、室内に大小便をする傍若無人ぶりで、父神に疎まれ、高天原の住民に憎まれて追放された。同じく日本神話の英雄・ヤマトタケルは、簡単に双子の兄の手足をちぎって死体を投げ捨てるような、恐ろしい心と力の持ち主で、父に怖れられて各地の反抗勢力の征討に行かされた。北欧の英雄・シグルズ(ジークフリート)は、最初は鍛冶屋の弟子(養子)なのだが、その怪力で金床も鍛えられた剣も無造作に破壊して仕事にならず、養父に憎まれて竜退治に行かされた。ギリシア神話の英雄・ヘラクレスは、生まれながらに恐れを知らない怪力者で、気が狂って妻子を殴り殺したこともある。その力を怖れた双子の兄に様々な危険な旅に行かされた。西欧や中国の民間伝承で語られる熊の子は、その怪力と正義感で仕事道具を破壊し、家畜や苛めっ子を殴り殺してしまい、故郷を離れざるを得なくなる。日本の「こんび太郎」や「一寸法師」は、あまりの大飯食らいや異形の役立たずであったため、親に疎まれて家を出ざるを得ない。

 そして桃太郎は、赤ん坊のようにゴロゴロするばかりの怠け者、あるいはその怪力で家を破壊し両親を殺してしまうような乱暴者であり、両親や近隣の住民、殿様に憎まれ怖れられて、鬼ヶ島に鬼退治に行かされたのである。

 

 なお、「周囲に憎まれ怖れられて追い出された」という要素がなく、単に長い間ずっと仕事をせずに寝ていたのが、ある日突然跳ね起きて、並外れた能力を発揮して偉業を成し遂げた、と語られる英雄譚も少なくない。例えば、ハンガリーの「力持ちのヤーノシュ」もそうだし、ベトナムの英雄・神将ジオンは、長い間揺り篭に寝たままで、移動の際には母が天秤籠で担ぐ有り様だったのだが、ある日突然跳ね起きて母や村人達に鉄の棒と鉄の馬の用意を指示し、大量に物を食べて一気に巨人に成長、怪力を発揮して侵略者達から国を救ったという。中国の『封神演義』等に出てくる[口那]咤のように、母の胎内から何年も出てこなかった英雄も、これに類すると考えられるだろう。

 日本の小さ子たち、瓜子姫やかぐや姫も、やはり短期間で一人前に成長したと語られ、桃太郎やこんび太郎に至っては、与えれば与えただけ全て平らげ、どんどん成長したと語られる。役立たずの赤ん坊(小人)だったものが、急成長して神人と化すのである。

 この《突然の成長》は、「ものくさ太郎」や、その類話である日本の民話「三年寝太郎」にも通じるものである。毎日ゴロゴロして周囲から寝太郎と呼ばれる男がいた。三年三月寝続けたが、突然起き上がって村人達に何百足ものわらじの用意を指示した。それを持って佐渡島に行き、無料で交換して古いわらじを集めた。佐渡の砂金は持ち出し禁止であったが、寝太郎は古いわらじについた土という形でそれを持ち出したのだ。彼はこの砂金を元手に故郷の灌漑・開拓を行い、人々に崇められたという。

 

 ところで、[桃太郎・寝太郎型]では、親に諭されたり友達に誘われて仕方なく山に柴刈りに行った桃太郎が、面倒だからと怪力で木を丸ごと取ってきて、周囲を驚かせ困らせたり、傷つけたりする。国内では、同じモチーフが小泉小太郎の伝説に現れていることがよく知られているが、実は海外の伝承でも類似のモチーフを見つけることは難しくない。

 ウイグル族に伝わる「英雄アイリ・クルバン」では、性質はいいが怪力で騒ぎばかり起こしている熊の子クルバンに対し、母と祖母が「お前ももう大人なんだから、そろそろ柴刈りでもしてお金を稼ぎなさい」と諭す。人食い虎の山に出かけたクルバンは、山中の木を根こそぎ取って薪にして運んできた、と語られている。ここでは英雄の偉業の一つとして語られているのだが、薪を人食い虎の群れに運ばせたため、人々は一時恐れ怒ったという描写がある。同じエピソードは、ペルーのケチュア族の「フクマリ」にもある。熊の子フアンを怖れた司祭は彼を猛獣の住む山へ薪取りに行かせる。しかしフアンはライオンをコテンパンにし、それに薪を担がせて村に帰って、人々を怖がらせたという。

 また、グリム童話の「巨人小僧」やフランスの「ベネディシテ」では、下男として働く主人公が同僚達と共に森へ木を伐りに行くように命じられるのだが、同僚がいくら誘っても、主人が声を荒げても、寝床で昼近くまでグウグウと寝ている。ゆっくり起きて森へ出かけると、木を丸ごと引き抜いて他の誰よりも早く戻ってきたという。あるいは、林の開墾をするように命じられたのにギリギリまで寝ていて、ようやく仕事を始めると、木を草のように引き抜いてあっという間に終わらせてしまった、などと語られる。これらも、桃太郎の山行きのエピソードと根を同じくするものであろう。

鬼ヶ島の宝

 鬼ヶ島は、どこにあるのだろうか。

 [桃太郎]を現実の事象を基にした伝説だと主張する人々によれば、それは瀬戸内海に浮かぶ女木島や牡鹿半島沖の金華山などの、実在の場所のことだという。あるいは、《シマ》は《集落》の意味で、必ずしも水の中の島のことではないという意見もある。この場合、鬼は海賊か盗賊であったと説明される。なお、滝沢馬琴は『燕石雑志』の中で「鬼島は南島の総名なり」と書いており、こちらの場合では、鬼は南方系の外国人だったということになるのだろうか。

 しかし、これまでに述べてきたように、私は[桃太郎]を現実の事象を直接デフォルメした物語だとは思っていないので、鬼ヶ島も現実の特定の場所のことだとは思わない。

 鬼ヶ島とは、この世ならぬ場所、つまり冥界のことであろう。冥界はこの世のどこにも存在しない、想像上の場所だ。だが想像上の場所である故に、どこにでも存在すると言える。岩穴の奥、深い井戸の底、海の彼方、川を遡った果て、高く険しい山の上、日の沈む西の果て、日の昇る東の果て……それら全てに鬼ヶ島への道がある。それぞれの語り手は、恐らく自分の知る現実なり空想なりのどこかの場所をイメージして語っていたことだろうが、だからこそ、様々な物語で語られる鬼ヶ島は全て同じ場所であり、同時に、全て違う場所でもある。

 

 冥界は死者の世界だ。大抵の人が、穢れた暗黒の世界をイメージしていることと思う。しかし、花咲き乱れる極楽や天国も、美しい乙女達が英雄達と永遠の愛の日々を過ごす女神の島も、黄金のリンゴが実る黄昏の園も、宝石の楼閣が煌く竜宮城も、全て、やはり冥界なのである。冥界は死の世界であると同時に、生命を生み出す、無限の富を蔵した世界でもあり、それを真に管掌するのは女神である。冥界は世界の《根》であり、子宮なのだ。

 冥界に潜って富を得てくる物語は、世界中で無数に語られている。最も原始的な物語では、それは女神の女性器または口から潜り込み、彼女の子宮を潜り抜けてまた出てくるものであった。得られる富は若さや美しさ、不死である。

 女神は子供を産み育て守護する聖母であるが、一方では子供や夫を自分の中に呑み込んでしまう恐ろしい妖婆でもある。よって、龍や巨魚や狼のような《呑み込む》怪物としてイメージされることも多かった。そのため、冥界へ潜って富を得る話は、それらの怪物に飲み込まれ、そこから出てくる話としても語られていた。これが変形し、英雄が怪物に呑まれたが体内から攻撃してこれを倒した、などと語られたり、怪物に呑まれたのを英雄自身ではなくその分身的存在(父/兄弟/仲間)とし、英雄が怪物を倒して呑まれた仲間を救い出した、などと語るようになったものと思われる。変形が更に進むと、呑まれるのは人間ですらなくなって、大きく開いた怪物の口の中に焼け石や刃物を投げ込んで退治しただとか、怪物に甘いお菓子を投げ与えて大人しくさせたなどと語られるようになる。最終的には《呑まれる》要素そのものがなくなってしまい、現代の私達にはお馴染みの、英雄が富(財宝/花嫁)を守っていた怪物を殺す、という話になったと考えられる。

 しかし、《呑み込む子宮》のイメージが完全に消えたわけではなく、英雄は開閉する岩門の向こう、山の裂け目、洞窟の奥、巨木のうろ、螺旋状の迷宮ラビュリントスなど、《穴の中》に入っていったと語られることが多い。その奥に、怪物が富と共に待っている。

 

 桃太郎の行く鬼ヶ島は、イメージ的には水の向こうにある。あの世とこの世の境には三途の川が流れているとされるように、水は境界であり、鬼ヶ島がこの世と隔絶した場所であることを暗示している。

 現在の私達は、桃太郎は鬼ヶ島に《鬼退治》に行ったと考え、「だから桃太郎は鬼祓いの力を持つ《桃》の化身で、いわば鬼を祓うために生まれた存在だ」などと説明して終わってしまいがちだ。しかし、後の世にそうした意味合いが付加されたとしても、根源的には違っていたはずである。桃太郎は鬼ヶ島に《宝取り》に行ったのだ。鬼は、その冒険を盛り上げるためのオプションに過ぎない。そもそも、《冥界に潜ってまた出てくる》という行動自体が、《怪物を退治する》ことと、本来的には同義なのである。だから物語中、鬼が具体的にどんな悪事を働いたのかは、まず語られることがない。鬼が悪い(穢れている)ので退治しに行くわけではないからである。

 また、冥界で手に入れる宝は、本来的にはお金や宝石などの物質的な富ではなく、女神に通じる力〜すなわち《魔力・霊力》であったはずだ。

 [桃太郎]に限らず、[一寸法師]たちも鬼ヶ島(鬼の住処)へ宝取りに行く。『御伽草子』版の「一寸法師」を参照すると、鬼ヶ島で手に入れたのは、文では「打出の小槌、杖、鞭」となっているが、絵では、「打出の小槌、蓑、笠」になっている。「打出の小槌」は物質的な富を無限に湧出させるもの。では、蓑と笠は何なのだろうか。恐らくは、隠れ蓑と隠れ笠ではないだろうか。日本では《天狗の隠れ蓑》として有名な、装着すると姿が見えなくなってしまうアイテムである。実は、北欧の[ニーベルンゲン伝説]にもよく似たものが出ている。これもやはり冥界へ富を取りに行く話なのだが、そこで手に入れられたものは、富と権力を与える黄金の指輪と、隠れマント(合羽)であった。

 普段は人の目に映らず、好きな場所に出現できる。これは《霊》の特質である。日本では、古く、鬼と神霊は同義のものであった。『斉明記』の斉明女帝崩御の記事に、七年八月一日の夕べ「朝倉山の上に、鬼有りて、大笠を着て、喪のよそおいを臨み視る」とある。また、『枕草子』には、蓑虫は鬼の子で、父に捨てられて「ちちよ、ちちよ」と鳴く、とある。かつて、鬼(霊)は蓑笠を身に着けて体を隠していると考えられていた。蓑笠は鬼の持ち物であり、姿の見えない(隠した)霊と、その霊力の象徴であった。桃太郎が手に入れた鬼の宝も、本来はこうしたものであったはずで、実際、滝沢馬琴が『燕石雑志』で紹介した江戸時代の「桃太郎」の鬼の宝は、まさに「打出の小槌、隠れ蓑、隠れ笠」になっている。

 古く、霊力を身につけることは重要なことだった。巫子シャーマンは、現実社会でも絶大な権力を持つ者であり、逆に言えば、支配者にはそれが備わっていることが求められていたからである。冥界の宝取りは、つまり、地上の王(一人前の男)になるために経なければならない試練であり、通過儀礼だったと言える。

 

 さて、冥界の宝取りを語る物語は世界中にあるが、冥界を具体的にどんな名でどんな場所に設定するかは、各国・各時代で異なっている。《鬼ヶ島》の名と設定は、いつ頃に作られたものなのだろうか。

 先に述べたように、鬼ヶ島は[一寸法師]にも登場し、[桃太郎]話群独自のものではない。[桃太郎]は早くて室町末期に成立したと考えられているが、実は、《鬼ヶ島》はそれより前、鎌倉時代初期の軍記『保元物語』に現れている。

 源為朝は一矢で三枚の鎧を撃ち貫く弓の名手であったが、幼い頃より暴れん坊で、十三歳の時に筑紫に流されたほどだった。しかしそこでも暴れやまず、豊後を拠点として九州を支配下に置いたのである。やがて呼び戻され、後白河法皇と崇徳上皇が皇位継承を巡って争った時、父に従って崇徳側についたが、敗北し、ついに為朝も捕えられ、肘を外されて伊豆の島に流された。しかし五十日もすると腕は治り、今度は伊豆五島を支配してしまった。

 そうしてある日、海辺で遊んでいると、白鷺と青鷺が二羽連れ立って沖へ飛んでいくのを見た。鷺は羽の弱い鳥、それが飛んでいくからには近くに島があるに違いない。そう思った為朝が従者達に舟を漕がせて追っていくと、翌朝には島を見つけることが出来た。岸は切り立って波が荒く、なかなか上陸できなかったが、戌亥(極陰である)の方角に小川が流れ出しており、そこから上陸した。
 島を見て回ると、髪が逆立って毛深く色黒の、刀を右腰に挿した大男に出会った。言葉は通じなかったが身振り手振りで意思の疎通を得た。
「日本からの漂流者らしいな。この波の荒い島に生きて上陸するとは珍しい。ここには舟もなく食料もない。もしも乗ってきた舟が無事ならば、ただちに乗って帰るがよい」
 従者達は怯えていたが、為朝は舟が波で壊れないよう引き上げておくように命じて探索を続けた。

 この島の住民は農耕も知らず、狩りや漁の道具すら持たず、しかし平和に自然の恵みを得て暮らしていた。為朝は鏑矢を射て鳥を殺して見せ、「私に従わねば射殺す」と脅した。怯えてひれ伏した人々に島の名前を問うと、「鬼が島」だと言う。
「ではお前達は鬼の子孫なのか」
「そうでございます」
「ならば、世に聞く宝があるはずだ。見たい。出せ」
「昔、先祖達がまさしく鬼神であったころには、隠れ蓑、隠れ笠、浮かぶくつ、沈むくつ、剣などといった宝がございました。その頃は舟もありませんでしたが、外国へ渡っていき、日蝕の際には生贄なども取りました。けれども、今は果報も尽きて宝もなくなり、姿も人になって、外国へ行くこともできません」

 為朝は島の名を蘆島に変え、年貢を出すように命じた。そしてこの島を支配した証拠として、例の大男一人を連れて行った。

 元々、為朝をその暴虐ぶりから伊豆の島民たちは怖れていたが、鬼を連れ帰って以降、恐れはますます増し、それを見た為朝は奢った。ついに人々の訴えで後白河上皇が討ち手を送り、為朝は戦いの末に自害して果てたという。

『保元物語』に鬼ヶ島が出ていることは、『燕石雑志』で指摘されており、馬琴は

「桃太郎が鬼が島渡りは、全くこれよりいでたり。御曹司島めぐりといふ絵巻物世におこなはれしころ、それに擬してかゝる物語さへ出来いできしならん」

と結論付けている。

 「御曹司島めぐり」(御曹司島渡り)とは、若き日の源義経が北州の千島のかねひら大王の持つ兵法の巻物を求めて船出する、『御伽草子』の一篇で、馬頭族の島、裸族の島、男を殺してしまう女護が島、小人の島、蝦夷が島を経て、ついに千島に辿り着けば、そこは鉄の門で閉ざされた鬼の島であったという。ただし、宮殿の威容は素晴らしく、義経が笛でかねひら大王の心を和ませると、後には大王は立派な貴人の姿で現れる。大王には あさひ天女という美しい娘がおり、義経と恋仲になって、彼に求められるまま、守り刀を持って、七里山の奥、七重の締めの向こうの石蔵に封印されていた兵法の巻物を取ってきた。義経が巻物を書き写すと、元の巻物は白紙になった。義経は天女を日本に連れて行こうとするが、天女はそれはできない、私は父に殺されるでしょうがあなたは日本に帰りなさいと言い、義経に帰る方法を教えた。千人の鬼が毒矢を持ち、水に浮く靴を履いた馬に乗って、舟で逃げる義経を追って来る。義経が天女に教えられたとおり「塩山の法」を行って後ろに投げると、海に塩の山が七つ出来た。鬼たちが山を登っている間に藍婆風[田比]藍婆らむぷうぴらんぷうという早風の法を行って一気に舟を日本へ走らせ、逃げ延びた。そして天女は自らが予言したとおり、父に八つ裂きにされて殺されたのだった。夢の報せでそれを知った義経は嘆き悲しんだという。

 

『保元物語』では、鬼ヶ島にはかつて宝があり、住民たちも霊力を持っていたが、今は全て失われたと語られている。つまりは、この物語が書かれた鎌倉時代、鬼ヶ島の宝取りの話は既に一般によく知られた、むしろ古めの物語だったと推定できる。

流れ寄る小さ子

 [桃太郎]の特徴の一つは、その奇妙な誕生である。川を桃が流れてきて、しかも老婆の呼びかけに反応して近付く。老婆がそれを掬い上げて空洞うつぼの中に納めておくと、やがて自然に桃が割れて男児が誕生する。これとほぼ同じ発端を持つのが、【瓜子姫】の話群である。[桃太郎]よりも【瓜子姫】の方が古いと考えられ、あの発端部は【瓜子姫】の影響で作られたものだろうと言われている。また、他にも【花咲か爺】の犬や【舌切り雀】の雀が、容器うつぼに入って川を流れ下ってきて老婆や老爺に掬われたと語られることがある。

 これら、川から流れ下ってきたモノから生まれた子供達は、いずれも不思議な力を発揮して養い親に富を与えた。そして、生まれたときにはごく小さな赤ん坊もしくは小人だったと示唆される。

 柳田國男は、これら不思議な小童達を《小さ子》と呼び、お椀や葉っぱの船で川や海を行く一寸法師たち、神話に現れる、ガガイモのさやの舟に乗った少名毘古那神スクナヒコナのカミ、水神が授けた小動物や子供が富を与える【竜宮童子】【金の生る木】とも関連付けた。

 水の向こうに、神の世界(冥界)がある。小さ子たちはそこからもたらされる神の申し子なのだと。そんな信仰が古くから固有のものとして日本にあり、このような物語として語り伝えられたのだと主張したのである。

 とはいえ、水を流れ下る小さ子の伝承は日本に限定されたものではない。例えば、中国の『華陽国志』などによれば、一人の女が川で洗い物をしていた時、節が三つある大きな竹が流れ下ってきて、その女の両脚の間に入って動かなくなった。女がその竹を持ち帰って割ると中から男児が出てきて、成長すると文武に優れてこの地方の王となり、竹王と呼ばれた、とある。また、南欧を中心に伝わる[三つの愛のオレンジ]では、水を流れ下りこそしないが、泉や川の傍のオレンジの木の実から娘が現れ、王妃となる。彼女は水を与えることでこの世に留めておくことができる。

 

 赤ん坊が舟か箱に入って流されてきて、成長して後に偉業を成し遂げる。このようなモチーフは世界中で見出すことが出来る。十戒で有名なモーゼも、北欧の英雄シグルズ(ジークフリート)も、アッカドの王・サルゴンも、新羅の脱解タレ王も、小さな籠舟や箱舟に乗せられて川に流され、庭師や鍛冶屋や漁師など、貧しい者に拾われてその子供として育てられたと語られている。

 これらの物語が基になったのか、捨てられた子供は偉人になるという信仰が、かつて日本にもあった。丈夫で立派に育つように、子供を一度道端に捨ててから拾ってきたり、「捨」の字を使った幼名をつけたりした。

 英雄は、どうして水に流されて捨てられなければならないのだろうか。

 恐らくは、先に述べた「海や川の彼方から神が流れ来て富を与える」という信仰が根底にあるのだろう。英雄や王は神の化身だと考えられるので、神に相応しい登場の仕方が望まれる。(だから、物語上の英雄はしばしば異常な誕生の仕方をする。)だが、同時に人間でもなければならない。よって、高貴な血筋(神に近い者)の出として産まれた後、捨てられて、水から流れ来た、と語られるわけである。

 [桃太郎]は桃から生まれる神の子であり、鬼ヶ島へ行く英雄でもある。よって、水を流れ来るのが彼に相応しい登場の仕方なのである。

 

 ところで、柳田國男以来、日本では小さ子は《水》との関わりが重視される傾向があるようだ。確かに、桃太郎も瓜子姫も竜宮童子も水から現れている。ついつい、彼らは「水神の申し子」なのかと考えてしまいそうになる。

 しかし、彼らが水の果てから現れるのは、彼らが「水の神だから」ではない。「水の向こうに冥界がある」と考えられているからだ。つまり、「冥界から来た」のが本質であって、水は冥界への道の一つの例に過ぎない。そう考えれば、桃太郎は天や山上や岩穴や石の下、木の上から現れてもおかしくはないはずで、実際、日本の小さ子の一人であるかぐや姫は、竹林から現れ、天上へ去っていく。

 それでも、日本の小さ子たちの大半が水の向こうから現れているのは確かだ。これはつまり、日本人の他界観に関わる問題なのだろう。冥界は水の向こうにある。日本人の大多数がその信仰を持っていたからこそ、桃太郎は川を流れ下ってきたわけである。

主な参考文献

『昔話 伝説の系譜 東アジアの比較説話学』 伊藤清司著 第一書房
『桃太郎の誕生』 柳田國男著 角川文庫 1951.
『新・桃太郎の誕生 日本の「桃ノ子太郎」たち』 野村純一著 吉川弘文館 2000.
『1/1億の桃太郎伝説』 吉村 卓三著 メタモル出版 1990.
『桃太郎と邪馬台国』 前田晴人著 講談社現代新書 2004.

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