たちばなの乙女

『古事記』に、多遅摩毛理タジマモリという男が、垂仁天皇に命ぜられて、不老不死の力を持つという"時じくのかくの木の実"を常世とこよの国から取って来た、というエピソードが記されている。この木の実はたちばな――つまり蜜柑やオレンジなどの柑橘類のことだと説明されているが、これに不老不死の力があったというのは、柑橘類の木は常緑で冬でも葉が枯れることはないし、葉や花や実からは良い香気が強く漂い続けるからなのだろう。"時じくのかくの木の実"とは、"いつも香る果実"という意味である。

 このような、生命にかかわる力を持つ果実を、"生命の果実"と呼ぶ。世界中の伝承の中にしばしば現れる"宝"である。

 乙女を生み出す不思議な果実は、言うまでもなく生命の果実だ。それは黄金のリンゴや、くるみ、ざくろ、ハシバミ、かぼちゃや瓜や豆、金のオレンジとして表される。そしてそれより生み出される乙女は、それらの生命の果実・生命の木の化身であり、また、生命の果実の所持者たる豊穣の女神の化身でもある。

 豊穣の女神とは、植物や水を含む、世界に富を与える大地の女神であり、また、富を生み出しては呑み込む冥界の母神でもある。水は地底の奥深くから流れ出して命を潤し、太陽は地平線や水平線の彼方に沈んでは大地を潜って反対側に昇り、植物は枯れて腐って大地に消えては再び萌えいずる。このように、生まれては死に、死んでは生まれてくる自然のサイクルを司る力を、豊穣=冥界の女神は体現している。

 このため、その化身たる果実から現れる不思議な乙女は、大地を挟んで地上と地下に死と転生を繰り返す。(甦るために、まず殺されねばならない。)その姿は自然のサイクルの奇跡を表しているといえるし、また、死者の魂が滅びることなく転生する、輪廻の思想を根底にしているともいえる。

 

 "シンデレラ"やその母たちも、殺されては甦る、女神の輪廻再生の力を示していた。オレンジの乙女たちは、もっと神話的な形でそれを表している。なにしろ、そもそもの出自が果実なのだ。

 "シンデレラ"が豊穣の女神の裔ならば、"オレンジの乙女"は直系の娘といったところである。

冥界への旅

 生命の果実は冥界に存在するものである。だから、それを求める王子は冥界へ旅せねばならない。

 

水汲みの老婆

 王子がオレンジの乙女を求めて旅立つきっかけには、主に三つのパターンがある。

 一つは、王子がナイフで自分の指を傷つけ、白いものの上に滴った血の色のコントラストに感動して、このような美しい娘を妻にしたい、と探しに出かけるもの。

 もう一つは、王子が水を汲もうとしていた老婆の甕に悪戯で石を投げつけて割った、または老婆が穴の空いた容器で水汲みしているのを見て笑ったため、老婆に「三つのオレンジを探しにいかずにはいられない」か「オレンジから生まれる娘を妻にする」という呪いをかけられるというもの。

 最後は、単に王子が狩などに出かけて道に迷い、偶然果樹を発見する、という簡略化されたものだ。

 一番目のパターンと同じモチーフは「白雪姫」や「杜松の木」の冒頭にも現れているが、私が思うに、これは東南アジアや中国の伝承でよく見かける、男の血が水や植物に滴ると、そこから小さ子が生まれる、という、「ハイヌヴェレ神話」の冒頭系モチーフの簡易変形版である。血が精液の相似物と考えられているわけだ。つまり、ハイヌヴェレが椰子の木から生まれて殺され芋に変わったように、殺されて再生する乙女が植物から生まれることが、この冒頭で既に暗示されているわけである。

 では、二番目のパターンは何なのか?

 水汲みをしようとしても果たせない、永遠に完成しない作業を続けている、というモチーフは、冥界の罪人の様子としてギリシア神話などに現れてくる。猛々しい女戦士である四十九人のダナイスの娘たちは、初夜の床で夫を殺した罪により、穴の空いた容器で水を汲むか、壊れた甕に水を注ぐかの作業を永遠に続けている。

 思うに、水を汲むことのできない老婆は、彼女が冥界の存在である証としてそのような作業をしながら現れるのではないだろうか。つまり、王子は冥界の存在に出会って冥界への道筋を示唆された、またはこの時点で既に冥界の入り口に立っていたというわけである。

(しかし、筋道立てて考えるなら、「仙女と魔女」のように老婆の作業を手伝ってやるなどして祝福されるべきなのに、妨害して呪われているのは奇異である。呪われた場合、冥界に行ったきり戻れなくなるなど、花嫁を得るのに失敗しそうなものだが……。かなり初期の段階で、失敗する兄王子の要素が抜け落ちて残ったエピソードが合成されるなどの筋の混乱があったのだろうか。オレンジが三つあって二度まで失敗する辺りに、もしかしたら二人の兄王子が失敗してスゴスゴ帰ってくる、というエピソードの名残があるのかもしれない。)

 永遠に作業が完成しないということは、永遠に終わりが来ない、不変であるということで、時の無い冥界を象徴する行為として相応しい。ギリシア神話は、永遠に岩を山の上に押し上げている男や、縄をなう端からロバに食べられている男が、冥界にはいると伝えている。「処女王」では、生命の果実を求めて旅する王子の前に地割れを縫い閉じようとしている老人が現れるが、彼もまた、終わりのない作業を続けている冥界の住人なのだろう。

 余談だが、王子が水汲み女の水がめを割って罵られるモチーフは、高句麗の朱蒙の息子、琉璃の伝承にも現れている。弓矢で水がめを割った琉璃は水汲み女に「父なし子」と罵られ、これをキッカケに父に逢う旅に出発し、太陽王の息子として認められる。

 

生命の水

 オレンジから現れた乙女には、即座に水を与えねば死んでしまう。このことと、オレンジの木がある場所にそもそも川や泉があること、王子が水代わりにオレンジを食べようとすることから、オレンジの乙女は水と関連が強く、水神的性格を持っているのではないか、という推測ができる。

 この物語がそもそもオリエントで生まれたとして、湿潤とは言えない地帯であれば、なるほど、水をたたえた不思議な庭園(オアシス)の果汁たっぷりの果実の中から、美しい娘が"賞賛すべきもの"として現れたとしても不思議はない。水の化身であるからこそ、生まれ出でた時 水を要求するのであり、それが足りなければ死んでしまうのだろう。

 日本にも【桃太郎】や【瓜子姫】など、果実より生まれる小さ子の話があるが、彼らの入っていた果実はそもそも川を流れ下ってきたのであり、彼らもまた、水と大地の豊穣の化身と考えられる。水神(雷雨神)と大地の豊穣神の同一性、その申し子としての小さ子のモチーフは、「一寸法師」の系統たる【たにし息子】の話群に更によく表れている。

 

 しかし、別の考え方もできる。

 ギリシア神話のオデュッセウスの航海中のエピソードで、西の果ての洞に生贄の羊の血を注ぎ込むと、死者達の霊が群がり出てきてその血をすすり、初めて意思を持ってオデュッセウスたちに向かって過去や未来を喋りだすというものがある。それまでは、霊たちはぼうっとした影のような存在だったのだ。

 ギリシアの伝承では、死者の魂は冥界に入るとまず忘却レテの水を飲み、生前のことをすべて忘れて冥界の野をさまようことになっている。忘却の水は民話に現れるところの"死の水"であり、死者はこれを飲むことで本当の意味で死んで、冥界に受け入れられる。冥界に入らねば転生することはできない。また、オルペウス教の教えによれば、忘却の水に対抗する記憶ムネモシュネーの水、つまり、"生命の水"を湧かせる泉が、忘却の泉の近くにあると伝えられる。

 オデュッセウスが捧げた生贄の血は、この記憶の水として作用したのだろう。このように、霊が冥界に入る(成仏する)とき、そして現界に戻る(再生する、または交霊して語る)ときには、これらの水を飲まねばならないのである。

 この思想は、かなり広まっていたものなのではないかと思う。日本では、人が死ぬと"末期の水"といって水を死者の唇に含ませるものだし、その後の供養でも水や茶を供えるのは欠かせない。ジプシーでも、人が死ぬとミルクを供えるものだそうだが、これは"生命の水"を意味しているのだそうだ。これに関して、ジプシーの民話に興味深いものがある。

三つの卵

 昔、ジプシーの若者が両親と恋人を一週間のうちに亡くしたが、貧しいためにミルクを供えることができなかった。一週間後、夜中に彼の天幕が揺さぶられ、「ミルクがもらえなかった!」と父が言うのが聞こえた。翌晩は母の声が、更に翌晩は恋人が天幕を揺さぶって言うのが聞こえた。恋人が来たとき若者が天幕の外に出ると、恋人は「とても難しいことだけど、山に登って洞穴から三つの卵を見つけられたなら、それを割って」と言って消えた。

 若者は翌朝に旅立ち、山の上で大きな荷物を苦しそうに担いだ老婆に出会った。若者が荷物を持ってやると、あまりに軽かったので何が入っているのか尋ねた。「死んだ子供の魂だよ。これを持って死者の国まで登るのが私の役目なのさ」。ほんの数歩歩いただけで老婆は「着いた」と言い、驚く若者に「ここは死者の国の一端だから、もう九日経っているんだよ」と説明した。老婆は若者がここに来た理由を知っていると言い、一切れの肉、一壷のミルク、鍵、ロープと、それらを入れる小さな袋をくれて消えた。

 若者は洞窟に入り、数歩進むか進まないかのうちに大きな建物の前に着いた。中庭に入ると九匹の白犬が襲ってきたので肉を投げ与え、湯灌してもらえなかった死者のために泉でお下げ髪に桶を結びつけて水を汲み上げている女にロープを与え、鍵で建物の戸を開け、部屋の中で三つの卵を見つけた。

 若者がその一つを割ると、部屋に霧が立ちこめ、父が姿を現して言った。「ああ、腹が減った、喉が渇いた!」「中庭へ行って。門の前に壷いっぱいのミルクがあるから」と、若者は言った。「ありがとう。しかし、遅すぎたよ。だが安らいだ心地になれたから、これで死者の国へ行けるよ」。こう答えると父は消えた。

 若者が二つ目の卵を割ると、母が姿を現して言った。「ああ、お腹がすいた、喉が渇いたわ!」「中庭へ行って。門の前に壷いっぱいのミルクがあるから」と、若者は言った。「ありがとう。でも、もう遅すぎたわ。けれど安らいだ心地になれたから、これで死者の国へ行けるわ」。こう答えると母は消えた。

 若者は最後の卵を手に持つと、中庭まで行って、ミルクの壷の傍で卵を割った。すると恋人が姿を現して言った。「ああ、お腹がすいて、喉が渇いたわ!」「お前、ここにミルクがあるよ」と、若者は言った。ミルクを飲み干すと、恋人は太陽の王女のように美しくなった。「あなた、私を死から救い出してくれたのね。一緒にこの世に戻れたら、私はあなたのものよ」

 こうして二人は恐ろしい山から家に帰り、死の国へ永遠に旅立つ日まで、一緒に幸せに暮らした。

『「ジプシー」の伝説とメルヘン 放浪の旅と見果てぬ夢』
ハインリヒ・フォン・ヴリスロキ著、浜本隆志編訳 明石書店 2001.

 ここでは、与えられるミルクは死者への供物として現れており、供物を与えられなかった死者は、生き返ることは勿論、成仏することすらできないと語られている。

 そう考えてみると、オレンジから現れる乙女が苦しげに水を要求するのは、冥界から再生するために、生命の水を求めているのだ、と解釈できる。オレンジの乙女は冥界に属する存在であり、つまり、死者であるわけだ。彼女が生者となって王子と結婚するためには、水を飲む必要があるわけである。

 

水で膨らむ

 [三つの愛のオレンジ]のドイツの類話の中に、面白い表現をしているものがある。(「オレンジの乙女」/『世界むかし話7 メドヴィの居酒屋』 矢川澄子訳 ほるぷ出版 1979.)不思議な城にあるオレンジを黒檀の柄のナイフで切ると、中から光が差して、美しい娘が現れる。ところがこの娘、オレンジの中に入っていただけの大きさしかない。そして水が欲しいと苦しむので、慌てて二本の菩提樹の下の泉に浸すと、娘はどんどん膨らんで、普通の人間の大きさになるのだ。その前に一度失敗しているのだが、その娘は水がなくてしおれて死んでしまったのである。

 植物から出てきた小さ子が、最初は小さかったのが見る間に成長する"異常な成長"のモチーフは、日本の【桃太郎】や【瓜子姫】や【かぐや姫】でもお馴染みのものだが、ここでの水に浸けると膨らむ、無いとしおれるなどの表現は、まさに植物、という感じで愉快である。

 ところで、これと全く同じように、水に浸けるとどんどん膨らんで甦った、とする物語がある。古代エジプトの「二人の兄弟の話」だ。シンデレラ系話群にも近い部分を持つ物語なのだが、この話において、殺されて死んでしまった弟の心臓をきれいな水に浸すと水を吸って膨らむ。それを弟の死体に飲ませると弟は甦るのだ。この心臓は笠松の"木の上"に置かれて隠されており、臓器としての心臓というより、「魂」だったらしい。魂が甦るには綺麗な水をたっぷり吸う必要があるようだ。また、木の上の心臓は、イメージ的に、木に実る果実である。そう考えると、果実の中から死者であるオレンジの乙女が現れる意味が分かりやすくなる。

 

木の上の魂

 オレンジの乙女は木に実る果実の中から現れるが、ミルテの木の娘のように木の枝の間から現れてくる場合もある。彼女を呼び出すには鈴や笛を鳴らす必要がある。シンデレラ系の民話においても、「灰まみれの牝猫」や「金の靴」のように木から妖精が現れてくるものがあり、妖精を呼び出して富を授けてもらうために木を揺すったり特殊な呪文を唱えねばならない。

 思うに、これらの木の枝の間から現れてくる妖精もまた、死者の魂である。現実に死者の霊(祖霊∽神)と交霊する儀式には歌舞音曲や呪文が付き物だが、多くの妖精がそれらによって呼び出される点から見ても間違いないだろう。

 しかし、どうして木から霊が現れるのだろうか? シンデレラ系の民話では、その木は母の墓に生えていることが多いので出現理由は分かりやすいが、木が常に墓に生えているわけではない。……いや。むしろ、木が墓に生えるのも、一つの比喩ではないのか?

 そう。木から死者の霊が現れる。つまり、ここでは木そのものが冥界なのだ。

 冥界はあらゆる場所にあると想定されている。この世の果て(川の向こう、海の彼方、西の果て)、地底(石、岩、岩山、洞窟、井戸、地割れの中)、水の底、森林の奥、山の上、天の向こう。それらの場所にある大きな屋敷や塔の高い塀や鉄の扉の向こう。――そして木のほらの中や枝の上にもまた、冥界はあると考えられているのである。

 木の上の冥界の思想として最も知られているのは、北欧神話の世界樹ユグドラシルだろう。この木そのものが宇宙を現しており、木の枝や根の一つ一つが異なる世界に通じていると語られている。同じ思想は、例えば民話の「魔法の木」などにも現れているが、「白雪姫」の註内で紹介している類話で、死んだ姫を入れた棺が洞窟の前の木の上に安置されるのも、冥界が木の上にあり、死者の魂がそこで憩っているという思想からくるものだろう。

 先に述べたように、木に実る果実は死者の魂であるとも考えられる。死者の魂は、また、しばしば鳥にも喩えられるが、鳥も木の枝にとまるものである。「たまご姫」や「ブルブル」では木の上の卵の中に乙女が入っているが、復活祭のイースターエッグの例でも分かるとおり、卵は生命の象徴とされ、よって、魂を表すものと考えられる。

 

冥界からの帰還

 苦難の末に辿り着いた冥界で"宝〜花嫁"を得た王子は、いよいよ現界に帰還しなければならない。

 物語を読むと、行きの苦難に比べて、帰りに関しては何の苦難もないように思えるだろう。だが、実は大きな難関が待ち構えている。

 帰途、王子は喉が渇いてたまらなくなり、死にそうな気分になる。そこで、とってきた三個の果実のうち一つを割って食べようとする。すると乙女が現れて水や食べ物を要求するが、無いために乙女は死んでしまう。そして、二つ目の果実の乙女も同じ運命をたどる。

 王子は三つ目の果実でようやく乙女を生かすことに成功するわけだが、何故、特に二つ目の果実では何が起こるのかわかっていたのに準備なしで割ってしまうのか。そもそも、どうして喉が渇いて死にそうになって、しかし水の持ち合わせが無いのか。

 実は、これこそが冥界から帰還するための試練なのだと、私は解釈している。冥界から帰還する――花嫁を死から引き戻すためには、相応の試練を経ねばならない。そのために王子は耐え難い喉の渇きに襲われ、果実を割るという誘惑に抗えない。

 ギリシア神話のオルペウスは、強姦されて(または、蛇に噛まれて)死んだ妻・エウリュディケを甦らすため、得意の竪琴をかき鳴らして冥界の者たちを宥め交霊し、妻を連れて現界へ帰る許可を得る。ただし、現界に戻るまで妻の姿を見ずにいること、という試練付きで。だが、オルペウスは振り返って妻を見たいという誘惑に抗えず、妻は冥界に引き戻されてしまう。同じように、日本神話のイザナギも、冥界に産褥で死んだ妻を迎えに行って、禁を破って妻の腐った死体を見てしまい、甦りはならず、夫婦は永遠に別れることになる。

 この、破ると"甦らせ"に失敗するという禁忌と、喉が渇いて果実を割らずにいられない禁忌は、同じものだと思うのだ。この試練に打ち勝てた者だけが、冥界から女神(霊)を連れ出し、花嫁を得ることができるわけである。

仙女と魔女」では果実から現れた乙女が水を求めるくだりは無いが、果実をもぎ取ったとき、待ちきれずに帰還前に皮を剥いてしまったときに、大風が吹いて王子の気を失わせ、帰還を阻む。ここでは"死んだ"のは王子の方で、この失神と大風は王子自身の冥界下りと再生、その困難さを比喩した表現と思われる。

黒い娘

 オレンジの乙女を殺害する娘は"黒い娘"とされることが多く、黒人、ムーア人、ジプシーなどとされ、人種差別が入っている。

 娘の身分は、まれに《魔女》とされるが、殆どの場合 奴隷である。そう考えると、人種差別によって頭から社会の底辺に追いやられていた女が、その才知で頂点を目指したわけで、一度は確かに妃になったのに結局追いやられてしまう様は、どこか哀れにも思えてくる。

 とはいうものの、黒い娘は[偽の花嫁]の黒い花嫁と同じ、単に主人公の"白い・美しい・高貴"な白い花嫁と対照の存在として、"黒い・醜い・下賤"とされているに過ぎないのであり、人種差別や身分差別が持ち込まれたのは、語られる社会においての粉飾に過ぎない。むしろ、白い花嫁の分身としての観点から、黒い娘を「色黒だが美しい」「オレンジの乙女によく似て美しい」と語る場合もある。

 

 水汲みに来た女が木の上の美しい女の姿が水に映っているのを見て自分の姿と勘違いし、「こんな美しい私が水汲みなんて馬鹿らしい」と水瓶を割ってしまう、というモチーフは、オリエント文学ではしばしば見られるものだそうである。

白い鳩

 黒い娘によって頭にピンを刺されたオレンジの乙女は、鳩に変わる。鳩によらず、白鳥、がちょうといった白い鳥は、しばしば死者または神の魂と考えられる。娘が鳩に変わるのは、"殺された"という比喩に他ならない。

 ところで、キリスト教において鳩は聖霊のシンボルとされた。聖人が死ぬとき、その魂は白い鳩となって口から出て飛び去る。また、聖母マリアが夫に拠らずにキリストを受胎した時、それを告知する白い鳩が舞い降りた。つまり、聖なる魂が彼女の許に舞い降り、宿ったのだ。だからグリムの「灰かぶり」で二羽の鳩があれこれ"シンデレラ"を助けてくれるのは、亡き母の助けというだけでなく、神の奇跡のようなニュアンスもある。

 だがキリスト教のこの鳩も、そのルーツは古代の異教の女神たちにある。多くの、鳩の名を持つ鳩に擬せられる女神たちがいたが、例えば、ギリシアの愛の女神アフロディテの使鳥が鳩だった。アフロディテはまた墓の女神――魂の憩う冥界の女神でもあり、そこにある生命の果実を所持していた。彼女の鳩は冥界の"打ち合わさる岩門"をすり抜けて、そのくちばしに不死を与える神の食物をくわえて運んだとされる。鳩は冥界と現界を行き来するものと考えられていたわけだ。そして、古代ローマ人はヴィーナス(アフロディテ)が司る地下墓地、霊廟、共同墓地を、"鳩小屋"と呼んでいたという。墓は魂〜鳩の集う場所だ、という比喩表現である。

 鳩はまた、女性を象徴するものでもある。ジプシーの民話によると、祖先の霊魂は中空の魔の山に住み、男性は蛇に、女性は鳩に変身しているという。キリストも、このような古い思想にのっとって、『マタイによる福音書』で「蛇のように賢く、鳩のように素直であれ」と述べている。であれば、鳩となって飛来する魂は、特に女性のものと考えるべきであろう。

 

 一方、水に投げ込まれたオレンジの乙女は金の魚に変わるが、魚もまた、【魚の恋人】のように特殊な呪文や歌によって水底の冥界から呼び出される霊と考えることが出来る。アステカの洪水神話やアメリカのアリゾナ・ユマ族の洪水神話など見ていくと、魚は死者の魂である、と語られている。

 ところで、西欧には、魚には催淫的効果がある、との俗信があるらしい。金曜日Fridayは愛の女神フレイアの日、つまり恋愛の曜日だが、金曜日には魚を食べる習慣があった。

 魚は、恐らくは卵を沢山産むことから多産〜生命の象徴であり、エジプト神話で八つ裂きにされたオシリスの男根をそうしたごとく、貪欲に呑み込むことから女神の子宮〜冥界そのものとも関連付けられる。ギリシア語では、魚と子宮を表す単語は同じdelphosだった。要は、魚は女の性〜受胎と出産の象徴というわけである。民話においては、魚はしばしば生命の果実と入れ替え可能の、相似のものとして語られている。生命の果実を食べて素晴らしい子を妊娠する伝承は数多いが、同じように、金色の魚を食べても妊娠して素晴らしい子を生むのである。

 以上のように、"生命の果実∽魚"という思想があるがゆえに、生命の果実から生まれた乙女が水に落ちると魚に変わるのだろう。

 ケルト神話では、知恵の実のなるハシバミの木の下の泉に鮭がいて、これが落ちた実を食べるので、この鮭を食べると霊感が授かるという。生命の木の下に水があり、霊魚がいるという伝承は、ペルシアやインドでも見かけるが、生命の木、生命の果実、生命の水、魚は、互いに関連しあい、入れ替え可能なもののようである。

そっと切れ

 よく【桃太郎】のパロデイで、「爺が桃を切ると、中の桃太郎まで切ってしまった」としているものがある。

 しかし、多くの民話を読んでいる方ならお分かりの通り、中に小さ子を隠した木や竹、果実は、時には「そっと切れ」「もっと上を切れ」「痛い!」などと口をきいて、切り方を指示してくるものなのだ。[三つの愛のオレンジ]で挙げた例話の中ならば「ミルクと血のような娘」「バタウン」に現れているし、【死者の歌】系の「アンビ」や「末の妹ポンカポティ」や「胡椒の木」などで殺された娘の死骸に生えた植物の実や葉を取ろうとすると「取らないで!」と訴えるのも、類似のモチーフだろう。

 多分、昔の語り部も今のパロデイ作者と同じことを考えて、こういうモチーフを付け加えたのだと思う。

留守の間に…

 "あるもの"を拾って来てからというもの、留守の間に家が整えられて暖められ、機が織られ、食事のしたくが出来ている。こんなことが何日も続き、怪しんだ家主は出かけたふりをして見張っている。すると、"あれ"から忽然と娘が出現して、家事を始めたではないか。家主は飛び出してその娘を捕らえ、感謝して抱きしめた……。

 [三つの愛のオレンジ]をはじめ、[その後のシンデレラ〜偽の花嫁型]や【蛇婿】、「翼をもらった月」にも現れているこのモチーフ。家主は老婆か老夫婦で、捕まえた娘を養女にする。桃太郎や瓜子姫が老夫婦の子供になるのと共通したものを感じて面白い。もしかしたら、瓜子姫や桃太郎も、川を流れ下ってきて老夫婦の子供になる以前に、誰かに殺されたり、何かの事件を乗り越えてきていたのではないだろうか、と想像させられる。「かぐや姫」になると、前世は異世界の天女で、そこで罪を犯して一時的にこの世に来ていたと語られ、やがて異世界に帰ってしまうので、ますます、老婆の娘になったものの、やがて元の夫の元へ帰っていったオレンジの乙女との類似性を感じさせる。

 

 余談になるが、このモチーフと殆ど同じで、しかし家主が老人ではなく若者の話群もある。

 例えば【箱の中の娘】では、王子が部屋に置いた箱や像の中に娘が隠れていて、王子の留守の間に部屋を片付けたり食べ物を食べたりする。隠れて見ていた王子に捕まえられると、彼女はその妻になる。

 ここでは娘はわけあって箱の中に隠れていただけの人間である。しかし、最初から人間ではない娘が、男の留守に現れては家事をやってくれるパターンもある。中国やトルコなど、アジアで見かける話なのだが、異類婚姻譚の一つになっている。

 男が魚あるいは貝を捕まえ、家に持って帰って井戸や水盤で飼う。すると、それ以来 留守の間に食事のしたくが出来ているようになる。隠れて見ていると、魚(貝、竜宮からもらった鶏や子犬)が綺麗な娘に変わって家事をしていたのだった。

 この後の展開はまちまちで、「天の命であなたの世話をしていたが、見られてしまったから」と天に去ってしまうものもあれば、男の妻になったりもする。 >>参考 「竜宮女房(壮族)」「魚のアイナー

 いずれにしても、この妻は水に関わる、つまり水神の化身である点によく注意しておくべきだろう。オレンジの乙女もまた、魚や水に関わっている。

太陽の娘

『古事記』に、「りんご娘」とよく似た話がある。王子が部屋に赤い玉を飾っておくと、中から美しい娘が出てきて、その妃になるというものだ。

 ところが、この赤い玉は果実ではない。ある女が日光を浴びて受胎し、生んだ不思議な玉なのである。つまりこの妃・阿加流比売あかるひめは、太陽の娘なのだ。

 阿加流比売は夫に軽んじられるようになり、「私は本当はあなたの妻になるような女ではない」と怒って去った。イタリアに「太陽の娘」という民話があるが、これも太陽の光に感精して生まれた娘が、恋人の王子に色々と辛く当たられて「太陽の娘であるこの私に何という侮辱を!」と、怒って思わず口走る。

 

枝にとまる太陽

 先に、魚は死者の霊や生命の果実の相似物であると述べたが、また、魚は水に入った太陽や太陽の子供とされることがある。例えば、西アフリカの伝承では、太陽は元々子供たちをぞろぞろ連れて昇って地上を焼いていたが、姉妹の月に騙されて子供たちを川に捨てて殺してしまったのだという。捨てられた子供たちは、水の中でキラッと光る魚に再生した。ここでは、魚は副太陽であり、死者でもある。

 太陽が毎日死んで(沈んで)、一晩を冥界で過ごし、翌朝また生まれて(昇って)くるという信仰は、世界中で見られるものだ。死んでいる間の太陽は、ギリシア神話では黄金の盃(釜)に入って海や冥界の川を渡っていくといい、中国の『山海経』などでは、暘谷ヨウコクの泉で水浴びしているとされている。

 暘谷には扶桑という世界樹が水の中に生えていて、下の枝に九個の太陽が、上の枝に一個の太陽がとまっており、この十個の太陽が順番に一つずつ昇っては戻ってきているのだという。ある説によれば、十個の太陽の母は羲和という女であり、彼女はいつも子供たちを甘泉に連れて行き、水浴びさせていたというが、『楚辞』などに、太陽は羲和の御す六頭立ての竜車に乗って暘谷ヨウコクから昇り、蒙谷に沈むとあり、してみると、太陽が天を運行していくのは、母の羲和が毎日子供を一人ずつ泉へ運んでいるからだということなのだろう。

 太陽母が大勢の子供を連れていること、その子供は母によって水に沈められるなど、西アフリカの伝承を思わせる。同じ思想を根底にしているのならば、やはり、水浴びをする太陽たちは、その間は魚の姿になっているのだろう。

 扶桑の枝にとまる太陽は、カラスの姿をしている。中国では、太陽の中に三本足のカラスがいるだとか、カラスが太陽を背に乗せて運ぶなどといわれる。ということは、太陽を運ぶ羲和はカラスだったのだろうか。中国のミャオ族の伝承では、九頭鳥が太陽の木に留まって八つの金の卵を産み、それから八つの副太陽が生まれたので、英雄に叩き落とされるまで、天には九つの太陽が出て地上を焼いたという。してみると、木にとまる太陽は、やはり鳥の眷属であり、その母親は鳥であるらしい。

 つまり、太陽は空にあるときは鳥であり、水に入るときは魚なのである。そして、恐らくは、木の枝に留まっているときは、金の卵であり、生命の果実でもあるのではないだろうか。

 実際、マケドニアの「太陽の妹」では、生命の果実は太陽の家の庭にあり、果実の中から現れる乙女は"太陽の妹"だとされている。この話では生命の果実と太陽が類縁関係にあると明示されている。また、太陽の妹が水の上の枝に座っていると、その美しさで光り輝いていたというが、まさに、扶桑の枝にとまった太陽を表すような表現である。

 生命の果実が沈む太陽と関係すること、また、太陽は複数の鳥の姿で木の枝にとまり、飛び立つと考えられていたことは、スロバキアの「三つのレモン」(『チェコスロバキアの民話』 大竹國弘訳編 恒文社 1980.)でも確認できる。この話では、ガラス山の三つのレモンを捜し求める王子が、夕暮れに木から飛び立つ複数羽のカラスたちを追って進み、光り輝く黄金の城にたどり着いて黄金の棍棒を持つ人食い(太陽の擬人化であることは明白である。)に教えられ、ついにレモンを手に入れる。

 ある夕暮れ、長い旅に疲れ果てた王子は、菩提樹の木の下に馬を止めて腰を下ろそうとした。その瞬間、腰に吊った剣が地に触れて鋭い音を立てた。すると、木の上にいた十二羽のカラスが一斉に飛び立った。

「あんな大きな鳥を見るのは初めてだ」。王子は身を起こした。「鳥が飛び去った方へ行ってみよう。何かあるかも知れぬ」

 生命の果実や乙女の変わった魚は、殆どの場合"金色"だとされるが、金は太陽の色である。

 思えば、この系統の物語として文献上では西欧最古の「三つのシトロン」でも、王子が乙女を探しに行くきっかけとなったのは、カラスに気を取られて自分の指を切ったことであった。これも、あるいは太陽=カラスを追って旅立つ、というモチーフの名残なのかもしれない。

 

 オレンジの乙女が水の上の枝に座っていて、下に"黒い女"がやってきて、黒い女が乙女を殺して入れ替わるモチーフは、[三つの愛のオレンジ]では定番である。ところが同様のモチーフは「太陽の子2」にもあり、「天道さん金の鎖」系の話では、木の下に人食いがいて、木の上の子供や娘たちは天に昇って太陽や月や星に変わることになっている。興味深いことに、これらは、いずれも木の上にいるのは太陽・または太陽の類縁者なのである。

 こうして考えていくと、枝に座るオレンジの乙女を冥界の太陽と関連付けるのは、そう間違ってはいないように思えてくる。この流れで考えていくと、木の下の黒い女(人食い)は、太陽を捕まえて水の中(冥界の奥)に落とし込む、太陽を沈める魔物、という根底イメージがあるのかもしれない。この魔物は、また、子供を産み直す冥界の女神であり、太陽の黒い母親でもあるのだろう。

 

太陽を追う

 ところで、生命の果実=オレンジの乙女が太陽またはその相似物だとすると、果実を手に入れた帰途に王子が喉が渇いて死にそうになるくだりに、また別の意味が見出せるように思う。というのも、中国や台湾の伝承には、太陽を追い、挙句にひどく喉を渇かすというものが見えるからである。

『山海経』や『列子』によると、大荒(世界の果て)に成都載天という山があり、そこに二匹の黄蛇を耳飾にし、別の二匹の黄蛇を手に持っている夸父コホという者がいた。彼は己の分を知らず、太陽に追いつこうとして太陽の沈む隅谷まで追っていったが、途中で喉が渇いたので黄河などの川の水を飲んだが足りず、北方の大沢ダイタクの水を飲もうと走っていったが、途中で渇き死んだという。彼の死骸を苗床にして、彼の持っていた杖が樹林に変わったとされる。

 夸父がどうして太陽に追いつこうと思ったのかは語られていないが、思うに、夸父は太陽を捕まえようとしていたのではないだろうか。王子が三つのオレンジにどうしようもなく焦がれて探し回ったように。また、夸父が黄蛇を耳に飾り手に持っていたというのは、彼自身が黄金の蛇=太陽の竜であったことを示唆しているように思う。太陽を追う竜は冥界そのものであり、太陽を呑もうとしているのである。ロシアの「コースチンの息子」では、英雄が冥界に下って竜の奪った太陽を取り戻すが、竜の妻が大きな口を開けて英雄を追っていく。しかし、竜の妻は英雄を呑む前に喉を渇かせ、海の水を飲み続けて腹が裂けて死ぬ。夸父が樹林に変わって大地に豊穣を与えたように、竜の妻は畑を耕した。

 また、台湾の高山族に、こんな射日伝承がある。

 昔、天には月がなく、太陽が沈むと真の暗黒になって何も出来なかった。一人の賢人が太陽を割れば月になって昼と夜になると考え、人々は三人の若者を選び出して、太陽を割るために出発させた。若者たちはそれぞれ生まれたばかりの自分の息子を背負い、帰途に迷わないよう、道々蜜柑の種を蒔いていった。何年も何十年も太陽の昇る方へ歩き続け、若者たちは老いて死んだが、父たちを葬って、その息子たちが先へ歩き続けた。

 息子たちはとうとう太陽の昇る山にたどり着いたが、そこは服を全部脱いでも汗びっしょりになるくらい暑かった。彼らが太陽を射ると鮮血がほとばしり、それによって息子たちは火傷して、一人は死んだが、残り二人は傷つきながらも村の方角へ逃げはじめた。

 帰り道、彼らは父親の蒔いた蜜柑の種がもう太い木に成長して実をたわわに実らせているのを見た。そこで、蜜柑で喉の渇きと飢えを癒し、長い道のりを歩いて、よぼよぼの老人になったころに村に帰りついた。村人たちは彼らを出迎えて「あなたたちのおかげで昼と夜ができました」と感謝した。

 この話では、やはり太陽を追っていって喉を渇かすのだが、夸父や竜の妻のように渇き死ぬことはなく、蜜柑がその渇きを癒したと語られている。[三つの愛のオレンジ]の王子が、三つの果実を入手した帰途にひどく渇き、持っていた果実で喉を潤さずにいられないことを思い起こさせる。生命の果実から滴った生命の水が、彼らの冥界からの帰還を助けたのである。

 

 沈んでは昇る太陽は、世界的に、死と再生の象徴として考えられている。よって、同じように死んでは再生する植物の乙女も太陽と関連付けられ、その小分身――妹や娘として表されることになるのだろう。

 

>>参考 <童子と人食い鬼のあれこれ〜枝にとまる魂><瓜子姫のあれこれ〜木をめぐる葛藤

主な参考文献

『決定版世界の民話事典』 日本民話の会編 講談社+α文庫 2002.
『中国の神話伝説』 伊藤清司著 東方書店 1996.

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