赤い頭巾

 以前、『グリム童話』にちなんだドイツの各地を巡るというテレビの番組を見ていると、「赤ずきんちゃんは、本当はこんな衣装だったんですよ」と、ドイツの民族衣装を着た少女を映して紹介していたことがあった。頭に赤いモノをつけているのは確かだが、一般的な「赤ずきん」の挿絵で見るような赤いフードではなく、頭頂部に赤いリボンを円筒状に巻いたような小さな飾りなのである。

 この番組は「赤ずきんちゃん」を完全にドイツのグリム兄弟の創作とみなし、ドイツの話なのだから赤ずきんは当然ドイツの民族衣装を着ているはずだ、と考えたのだろう。

 けれども、実際にはフランスのペローの手による「赤ずきんちゃん」の方が、グリム版より百年以上前に発表されている。それでも、かつてはグリム版の方がより民話の原型を残していると考えられ、ペロー版より重視される傾向にあった。……つまり、グリム版がペロー版と一見同じ話を描いているように見えるのは、たまたま双方が民間に伝わる同じ原話を採取したからで、民俗研究家でもあったグリムのほうが民話の形を正確に写しているだろうから研究対象として価値がある、とされていたわけだ。

 ところが1975年のハインツ・レレケの論文によって、グリム兄弟にこれらの話を伝えたのがフランス系の教養ある若い女性であり、そもそもドイツにこの系統の口承民話が見つからないことが明らかになった。加えて言えば、口承伝承中には《赤い頭巾》は登場しないのだ。この衣装設定はどうやらぺローの創作した部分らしく、即ちその設定を引き継いだグリム版「赤ずきんちゃん」は、ペローによって文芸作品化された民話の、更なる焼き直しに過ぎないことが明らかになったのであった。

 以上を踏まえれば、もしも赤ずきんちゃんの赤い頭巾が何か現実の民族衣装を表しているのだとしても、ドイツのものではなく、フランスのそれでなければおかしいと思われる。

 

 フランスの民間伝承に今も残るこの物語の主人公たる少女は、名前もなく、特に個性を持たない。そんな彼女に《赤い頭巾》を着せることで、主人公として鮮やかに立たせたのはペローの手柄であり、創作作家としての手腕である。現に、この後にこの物語を扱った、グリムを含む数多くの作家たちが、彼の着せた《赤い頭巾》を主人公に不可欠の要素として捉え、継承し続けているのだから。

 なお、ペローの設定した「Petit Chaperon rouge 小さな赤い頭巾」は、どうやら貴族や中流家庭の令嬢の被るしゃれた帽子のことだったようだ。けれども、この物語がヨーロッパ全域の民間で親しまれていくうち、農婦たちの被る質素な乗馬用の帽子、ただし真紅のしゃれたもの、と認識されるようになっていったようである。現在では赤いマント付きフードと解釈されるのが一般的だ。

 

 しかし、これらのことが明らかにされるまでは、《赤い頭巾》はこの民話に不可欠の要素とみなされ、研究者たちの間でその意味が取りざたされていた。

 心理学者であるユングは、民話の中に人間の無意識内に共通している神話的元型を見出す立場を取っており、「赤ずきんちゃん」にもそれを求めた。彼はこの物語を『旧約聖書』のヨナの物語と同じ《呑み込むモノ》の神話……大地に呑まれた太陽が再び生まれ出づる、という無意識心理から生じた物語であると解釈した。ユングの解釈に従えば、狼は《呑み込む母親》の表出となる。

 この系統の解釈は、ユング以前、十九世紀頃から比較神話学者たちの間で数多く提出されており、「赤ずきんの頭巾の赤色は、《春》もしくは《夜明けの光》、《太陽》の象徴」などと唱えられた。この物語は春到来を祝う儀式の名残だとされたのだ。

 一方、新フロイト派のエーリッヒ・フロムは、『夢の精神分析――忘れられた言語』において、「赤ずきんの《赤》は経血の象徴である」と説いた。更に、赤ずきんが持たされるぶどう酒の瓶は、(壊れやすくて中から赤い液体が流れ出る)処女性の象徴。道草の禁止は処女喪失への警告であり、狼に食われることは性行為を暗示する。また、赤ずきんと祖母を丸呑みした狼は妊婦を暗示し、腹に詰められた石は不妊の象徴であるとした。これは無軌道な性行為への懲罰を意味しているのだと。彼は、この物語は人類が共通して意識の底に持つ、女性の生殖関連イメージの具現化だと解釈したのである。

 そしてブルーノ・ベッテルハイムは『昔話の魔力』において、「赤ずきんちゃん」は思春期にさしかかった少女の精神的成長の物語であると説いた。女性が発達の過程で最初に恋する異性は自分の父親である。同時に自分の母親を恋仇とみなす。彼女が狼に易々と祖母の家への道を教えるのは、無意識に祖母(母親)を倒そうとしているからで、これは抑圧(母の監督)から解放されて父親(異性)と楽しみたいという、少女の無意識の願望を示しているのだと。また、頭巾の《赤い色》は性的興奮をもたらす扇情的な色であって、それを祖母が孫に贈るのは「性的魅力を譲り渡す」意味があると解釈したのであった。

 

 しかし前述のように、《赤い頭巾》は口承には登場しないものだ。ぺローの創作した設定である。ぺローの創作単体への解釈としては有り得ても、古代から綿々と人々の意識に受け継がれてきたイメージであるとは言い難い。それはフロムが解釈する、グリム版の《ぶどう酒の瓶》や《腹に詰め込まれた石》に関しても同様である。これらも口承には登場しないのだから。

 ただ、個人的には「人食い鬼の腹を割いて呑まれていた者を救い、代わりに石を詰める」というモチーフを、民話に典拠のない完全なグリムの創作、あるいはごく安易に「狼と七匹の子ヤギ」の結末を付け足しただけ、とするには疑問がある。「人食い鬼の腹を割いて呑まれていた者を救う」モチーフは日本の「天道さん金の鎖」にも見られるし、「人食い鬼に袋(桶)に詰められるが、逃げだして代わりに石を詰めておく」というモチーフも、日本の「食わず女房」やイタリアの「袋の中の男の子」など、世界各地の人食い鬼の民話で見られるものだからだ。グリムはただペローを源流とする赤ずきんの物語を写しただけではなく、こういったモチーフを持つ幾つかの類話(「狼と七匹の子ヤギ」系含む)の存在を知っていて、自らの再話に付け足したのだろうと推測する。

狼男の女装

 ペローは口承民話をアレンジして「赤ずきんちゃん」を創作した。グリムはこれを更にアレンジしたものを生み出した。

「赤ずきんちゃん」に登場する狼が《男》だというのは、誰も異論のないことだろう。特にペロー版では、文中ではっきり「En passant dans un bois, elle rencontra compere le Loup, qui eut bien envie de la manger ; 」などと書かれてある。(オンマウスで訳文) 「Loup」は狼を意味する男性名詞である。そしてペロー版では、狼が《男》であることが重要な意味を持つ。

 口承民話だった段階では「人食い狼と女の子の話」だったはずだ。けれども現在世界中に見られる、ペロー&グリム版の「赤ずきんちゃん」を引用した絵画や文章、パロディ作品を見るに、狼はもう殆ど《人食い鬼》とは見なされていない。もっと別の存在として認識されているのが普通である。「男は狼なのよ、気をつけなさい…」という歌があったが、「赤ずきんちゃん」の狼はまさにこれ、甘言を弄して女性に近づき性的交渉を持ってしまう……女たらしの男として一般に考えられているのだ。

 狼=女たらしというイメージは普遍的なもので、現代日本でも普通に「送り狼」だとか「狼に食べられる」といった言い回しを使うが、実はペローの時代のフランスにもこの系統の言い回しが既にあって、少女が純潔を失うことを「彼女は狼を見た」と表現していたという。恐らくぺローはこれを踏まえて、民話に《性的警告》のニュアンスを付加したのだろう。童話集を購入してくれる富裕層へのアピールとして性的暗示は有効だったろうし、最後に教訓という教育的要素も足しておけば、潔癖な知識層からの非難をもかわすことができる。

 ペローは少女たちに向けて「男に気安く近づいてはいけない、食べられてしまうよ」と警告を発し、グリムもそれを受けて「知らないおじさんとお話しちゃいけませんよ」と子供たちを戒めた。この《教訓》は広く認知されたようで、反動のように、これを男性上位社会における女子供への支配、締め付けだとみなして反発する動きも起こった。赤ずきんちゃんは、男にとって都合のいい、可愛くて愚鈍で弱くて性的に無防備な少女として描かれている、というのであった。こんなことではいけない。女性はもっと強くあるべきだ! ……というわけで、近代のパロディ作家たちは、涼しい顔をして一撃で狼を殺害したり、逆に狼を《食べて》しまうような、狼と共に野に去って帰らない赤ずきんを好んで生み出しているようである。

 

 ぺローは狼を「女たらしの男」にアレンジした。しかし原型である口承民話を見ると、違うニュアンスが感じられる。

 例えば、フランスの民話「おばあちゃんの話」では、狼は《狼憑き》、すなわち人狼であると語られている。西欧には広く人狼の信仰が広がっているが、日本で言うなら狐憑きに近い、忌まわしくも呪われた、社会から忌避されている存在なのだ。狼憑き=悪魔と言い換えてしまってもいいかもしれない。世間知らずの赤ずきんはそうと知らずに狼と接触したため、恐ろしい結末を迎えることになったのだった。

 しかし、このことにあまりこだわる必要はないのだろう。中国や韓国、そして日本の類話に目を転じれば、祖母(母)に化けて訪ねてくる人食い鬼は狼とは限らず、山猫、虎、熊、豹、狐、狢などと自在に語られる。ここでは人が獣(悪魔)に憑かれているのではなく、獣が人の姿に化けて現れる。要は「主人公を食らうモノ」であればいいのであって、どういう化け物なのかは、各社会文化における後付けの設定なのである。(人狼の伝承が【赤ずきんちゃん】の物語を生んだわけではないと思われる。)

 

 ところで、東アジアを中心に世界各国の類話を見ると、様々な獣の姿で現れる人食い鬼は、どうも女性として語られていることが多く感じられる。日本の類話では《山姥》とされるのが基本だし、イタリア・アブルッツォ地方の口承民話をイータロ・カルヴィーノが再話した類話「おばあさんの偽者」(1956年)でも、祖母を食い殺して女の子を待ち受けているのは《鬼女》である。

 恐らく、本来この物語に登場する人食い鬼は女だったのだろう。「赤ずきんちゃん」のように人食い鬼が男のバージョンもあるが、その場合、人食い鬼は不自然にも「女装」するはめに陥ってしまう。子供たちの母や祖母や叔母に変装して登場しなければならないからだ。野太い声や黒い足、毛だらけの手を誤魔化すのは人食い女(獣)でもやるが、人食い男は更に、祖母や母の衣装をすっかり身にまとって女を演じなければならない。結果的にぺロー版の狼は、女装して女の子を《食べる》羽目に陥っている。そこまでの情熱ご苦労様と言うか、なんとも滑稽なシーンである。もっとも、そこにこそ倒錯的な興奮を感じる読者もいるのかもしれないが…。

 なお、日本の【瓜子姫】の人食い鬼、天邪鬼あまのじゃくも、これら【赤ずきんちゃん】系の人食い鬼とよく似た扱われ方をしている。基本的には《女》であり、瓜子姫と入れ替わって嫁入りしようと目論むのだが、類話によっては《男》とされ、瓜子姫を殺してその衣服または皮をまとって瓜子姫に成りすます……女装する。

 「パタパタちゃん、カタカタちゃん、ゴシゴシちゃん」のような[狼ばあさん]系の話では、人食い鬼が虱を取ってやる髪を梳かしてやるなどと偽って母親を殺害するモチーフが見られる。人食い鬼は食い殺した母親になりすまして子供たちを食べようとする。【瓜子姫】でも、類話によっては「虱の取りっこをしよう」と偽って天邪鬼が瓜子姫を殺す。そして同じように、【三つの愛のオレンジ】では黒い娘が「虱を取ってやる、髪を梳かしてやる」と偽ってオレンジ娘を殺し、入れ替わって王子の花嫁になる。……これら様々な民話の一連の共通モチーフを見ても、やはり、食い殺した祖母になりすましていた狼は、本来は女性……食い殺した相手と入れ替え可能の存在であると思えてくる。

 

 以下は論理的根拠のない私個人の印象なのだけれども、これら【赤ずきんちゃん】系話群の《人食い鬼》が本来女性であった…女性でなければならなかったのは、それが《祖母》や《母》の対比キャラクターだったからではないか。《祖母》や《母》を喰らうことで、《人食い鬼》はその存在を己のものとした。光の母が闇の母に転換したのである。

 といって、ベッテルハイムが主張したように「『赤ずきん』は娘が抑圧的な母を打ち倒す心理的成長譚」であるとも思わない。ここで言う《母》は、現実的なそれとは似て異なる。もっと広くて根源的な、《母なる大地》などの言い回しに使われるような《太母》、《命の根源グレート・マザー》だ。それに呑まれる恐怖というイメージが、これら人食い鬼の物語の根底にはあるように感じられる。

 この感覚は、ユングらの主張した「『赤ずきん』の原型は《太陽を呑み込むモノ》の神話だ」という説に通じる。しかしこの説は現在、研究者たちの間では否定される傾向にあるという。流石に私も、狼に呑まれた女の子を即座に「太陽や春の象徴」だと主張しようとは思わない。《人食い鬼》自体、男に変わっている。もう違う話に変化してしまっているのだ。しかしそれでも、この物語を解きほぐしていくと「童子と人食い鬼の葛藤譚」がまだ残る。「人食い鬼に呑まれる」というイメージの根底には恐らく「命の根源への回帰」……《死》のイメージがあり、それは「死んでは再生する命の環」という信仰に繋がる。そしてこの信仰を最も易しく語れる例えが「太陽神話」であるという結論には、やはり達してしまうのだ。

 そもそも、祖母に会うために一人で森の奥へ行くという構造そのものが冥界下り…《死》を暗示していると言える。(成年前の少年少女が村から隔離されるタイプの通過儀礼は、この模倣・再現と考えられる。)森(冥界)の奥で待っている祖母こそがグレート・マザー…冥界の女神であり、祖霊神だ。祖母が狼に食われて入れ替わっているのは、(祖母が孫娘を呑むのは、流石に倫理的におかしいので、聞き手に受け入れられ易いよう配慮した)物語上の辻褄合わせと考えられる。

 伝承物語をいちいち自然現象を比喩した神話だとみなすのは滑稽だという論には全く賛同するが、何もかもを個人の精神的問題にまで解体することもないだろう。「天道さん金の鎖」のような【赤ずきんちゃん】系類話では、人食い鬼から逃れた子供たちが昇天して日月や星になったと語られることがあるのも事実なのである。ブータンに伝わる「天道さん金の鎖」の類話では、継母に追われた少女が月に昇天する。太陽や月の流転と、人間の魂の流転は、信仰の中では重ね合わせて語られる。祖母を食い殺した人食い鬼に子供が呑まれる、または呑まれそうになって逃げた物語を、太陽神話(魂の回帰、自然の流転の物語)と全くの無関係だと切り捨てることもないと思うのだが、どうだろうか。

針の道か、ピンの道か

 フランスの口承民話「おばあちゃんの話」には、いかにも民話らしい、謎めいた言い回しのシーンが出てくる。

「どっちの道を行くんだい?」と、狼憑きは訊いた。「縫い針の道かい? それとも留め針ピンの道かい?」

「縫い針の道よ」と、女の子は答えた。

「そうかい。じゃあ、俺は留め針の道にしよう」

 このシーンの解釈は、研究者たちの間で様々になされているようだ。曰く、この二つの道は「人生」を表していて、つまり「縫い針を使う勤勉な人生」と「ピンを使う怠け者の人生」のうちどちらを選ぶかのテストだという説。この女の子は縫い針の道を選んだからこそ、最終的に狼から逃れて助かったのだと。また別の研究者は言う。針やピンはフランスの女性の成人式で使われる象徴的な道具であり、性的成熟の意味が込められている。成熟した女の子だから狼と性的交渉を持てるという暗示だと。更に別の研究者は言う。これは縫い物の腕…一人前の女性としての技術を暗示している。女の子はピンで手抜きをするのではなく、立派に縫い物をこなした。彼女が一人前の技術を有して成人したことを意味しているのだと。

 

 まことに、解釈は人によって様々である。

 ただ、私個人の感想を言えば、少々考えすぎではなかろうかと思っている。というより、それらの解釈では意味が通らないではないか。縫い針の道を選んだ女の子は縫い針を拾い集めて道草を食い、祖母の家に着くのが遅れて、その間に祖母は狼に食べられてしまっているからだ。縫い針の道が勤勉もしくは一人前の技術所有を意味する、いわば《正しい》道なら、どうして祖母の家に着くのが遅れたりするだろうか? また、性的成熟を意味するなら、針とピンの道のどちらかを選ばせることには何の意味があるのだろう。……ベッテルハイムばりに、女の子は無意識に「祖母を倒して狼と楽しみたい」と思っており、わざと祖母の家への道を教えた上に自分は時間のかかる道を進んだ、ついでに縫い針は尖って長いので男性器の象徴に違いないからそういう性的暗示なのだ、とでも説明せねばならないのだろうか。

 

 民話は《物語》だ。遥か古代の神話の記憶や、それに基づく思想教育の片鱗も引きずってはいるだろうが、基本的に人を楽しませるために語られているもののはずだ。いちいち《裏》があると勘繰ったりせず、もっと気楽に解釈してもいいのではないか。

 ペロー版の「赤ずきんちゃん」では、狼は近道を全速力で駆けて行き、赤ずきんは遠回りの道を道草しながら進んでいる。つまりはそういうこと……縫い針で縫う仕事は時間がかかる。ピンで留める仕事はすぐ終わる。縫い針の道とは遠い道のこと、ピンの道とは近い道のこと……そんなちょっと洒落た言い回しに過ぎないのだと、私は思う。

 

 恐らくベッテルハイム以降からだろう。民話に「性の目覚め」「子供の自立」の意味を求めることは一般化しているようだ。「赤ずきんちゃん」も例に漏れない。これを「少女が一人前の大人になる、通過儀礼の物語」だとする解釈は後を絶たない。

おばあちゃんの話」には、食い殺した祖母に化けた狼が、食べ残した血や肉を女の子に食べさせるという、ショッキングなシーンがある。<死者の歌のあれこれ〜食人の神話>で書いたように、肉を食べ血を飲む行為の根底には、その存在を自分の中に取り込むという呪的信仰があると思われるのだが、恐らくそれを引きつつ、加えて「『赤ずきんちゃん』は少女が一人前の大人になる、通過儀礼の物語」という見方を前提にして、「女の子が祖母の血肉を口にするのは、祖母の知恵を受け継いだことを暗示している」と解釈する研究者もいるようだ。女の子は縫い針の道を選んで針仕事をマスターし、祖母の知恵を受け継いだ。そうして社会的に一人前の優れた大人の女性となり、知恵で狼の誘惑を退けて逃げ延びたのだと。なるほど、筋が通っている。

 

 ただ、少し視野を広げてみると戸惑う部分もある。類話「狼ばあさん」や「天道さん金の鎖」にも、祖母や母に化けた人食い鬼が、食い残しの血肉を「食べろ」と主人公に投げ寄越すシーンはあるけれども、その血肉は主人公の弟のものなのだ。弟の血肉を口にして「知恵を受け継ぐ」のは奇妙である。【瓜子姫】話群の一部では、人食い鬼は殺した女の子に変装し、その血肉を女の子の両親に食べさせる。老いた両親が我が子の知恵を受け継ぐのは明らかにおかしい。

 中国の「パタパタちゃん、カタカタちゃん、ゴシゴシちゃん」では、人食い狐が食い殺した母親に化けてやって来て、三人の子供たちに料理を出すと、上の二人は「狐臭い」「血の匂いがする」と嫌がって食べないが、末子だけは「今朝みんなで食べた揚げパンの味がする」と喜んで食べる。明言されていないが、どうも、狐が出した料理は食い殺された母親の肉の残りだったように思われる。血肉を食べることが知恵を受け継ぐことなら、血肉を食べた末子だけが助かるべきだが、この話では末子だけが寝床の中で狐に食い殺され、上の二人は逃げ出して狐を退治して助かっている。無論、語り手が自身の倫理観に沿って話を変更しただけともとれるが…。

おばあちゃんの話」で女の子が祖母の血肉を口にした時、猫が「自分の祖母の血肉を食べるなんて」と声をあげるが、同様のシーンはベトナムの「タムとカム」やアフリカの「麦粒小僧とテリエル」などにもある。しかしそれらでは母親が娘の肉を食べている。『グリム童話』の「杜松の木」では、父親が息子の肉を食べる。同様に、ギリシア神話のメディアや「ヴォルスンガ・サガ」のグリームヒルドは夫への復讐のために夫との間の我が子を殺し、肉は調理し血は頭蓋骨から作った盃に注いで夫に食べさせた。メディア王アステュアゲスは逆らった家臣にその息子の肉を調理して食べさせ、殷の紂王は姫昌にその息子の肉を調理して与えている。

 これら世界各地の類似モチーフにおいて、血肉が近しい血縁者のものであることは共通しているが、子供が親の血肉を食べるより、親が子供の肉を食べる、と語られている例の方が多く思われる。この場合、《生命の根源グレート・マザー》に呑まれる…《女神の胎内に入る》…《冥界へ回帰する》…《輪廻再生信仰》との関連が感じられる。「血肉を食べるのは、古い世代の知恵を受け継ぐため」という解釈は、常には当てはまらない。

 

カチカチ山」でも「瓜子姫」でも「タムとカム」でも「麦粒小僧とテリエル」でも「小さい男と魔物のマンギ」でも、騙されて家族の血肉を食べさせられてしまう、騙して家族の血肉を食べさせるエピソードで語られているのは、知らずに家族の血肉を食べてしまう無残さだ。モチーフの原型が呪的信仰であっても、既にその意味は忘れ去られかけ、断片化しているように思える。ただ、その本来の意味の微かな記憶はあるようで、《人食い鬼》もしくは《鬼のような母親》……キャラクター化された《冥界女神グレート・マザー》の登場する民話に、約束事のように添付されているばかりである。

トントン、入れてちょうだい

赤ずきんちゃん」において、狼は祖母の家に侵入するのに全く苦労をしない。祖母は狼が作り声で「孫の赤ずきんよ」と言うと、毛の一筋も疑わずに中に入れてしまう。そもそも、戸に鍵はかかっていないのだ。狼はたやすく家に入り、祖母を食べてしまう。やがて本物の赤ずきんがやってきて、狼の扮した《祖母》の声がしわがれているのや手足や目口が大きいのを怪しむが、それだけ。彼女はあっさりと家の中に入り、ベッドまで行って食べられてしまう。

 このあっけなさぶりから、祖母や赤ずきんの愚鈍さを揶揄する声は少なくない。「どうしてそんなに簡単に騙されるの?」……ペローやグリムは赤ずきんちゃんをわざと愚鈍な少女に仕立て上げて、男の好都合な女性像を「こうあるべき」と押し付けているに違いない、などと。

 民間に伝わる数多くの類話に登場する子供たちは、やはり騙されはするのだが、もう少しは疑ったり迷ったりしている。「狼と七匹の子ヤギ」でも有名な、扉越しの「入れて、入れない」の問答は、話の序盤の盛り上がるところである。人食い鬼がやってきて戸の外から「お母(婆)さんよ、入れてちょうだい」と言うと、一番賢い子供が「声が違う」と怪しんで戸を開けない。(この、「開けてちょうだい」という言葉が合言葉になっている場合もある。扉の向こうの声がいつもの言葉を言わないので、子供たちは怪しむ。)人食いが声を美しく整えると、今度は「手を見せろ」(見て)「そんな毛むくじゃらの手はおかしい」と言い、人食い鬼は手に何かを塗ったり巻いたりして誤魔化す。次は足。そしてとうとう、子供たちは騙されて人食い鬼を中に入れてしまう。あるいは、「瓜子姫」や「チャンクとマンク」「狼と豚とアヒルとガチョウ」のように、人食い鬼が「ちょっとだけでいいから入れてくれ」とあまりに頼むので少しずつ戸を開けるうち、とうとう中に飛びこまれてしまうパターンもある。

 

 家の中に人食い鬼を入れてしまっても、更に騙し騙されの攻防が続くことがある。「狼ばあさん」などはそれが顕著である。賢い娘は家の中に入ってきた《祖母と名乗る者》を怪しみ、「どうして、どうして」と尋ね続ける。それに対する狼の苦しい言い訳が、この物語を愉快に盛り上げている。

 こますちゃんがベッドの中で足を伸ばすと、足の先が毛むくじゃらの太い尻尾に触りました。こますちゃんは訊きました。

「ねぇ、おばあちゃん。おばあちゃんの体のどこが、こんなに毛むくじゃらなの?」

「おばあちゃんは麻糸をるために、麻を一束、身につけているのさ」

 こますちゃんが手を伸ばすと、尖った足の爪に手が当たりました。こますちゃんは訊きました。

「ねぇ、おばあちゃん。おばあちゃんの体のどこが、こんなに刺さりそうに尖っているの?」

「おばあちゃんは靴底を作るから、鉄のキリを持っているのさ」

「どうしてそんなに大きな目なの?」「お前をよく見るためさ」「どうしてそんなに大きな口なの?」「それはお前を食べるためさ!」という一連のやり取りは「赤ずきんちゃん」で最も盛り上がるシーンだが、このモチーフ自体は中国のシンデレラ系の民話にも現れている。そこでは、姉を殺して入れ替わった偽者の花嫁が、容貌の変わったのを怪しむ夫との間でこの問答を行っている。

 愚鈍な赤ずきんと同じく、この夫も結局、妻が入れ替わっていることに確信がもてず騙されたままになる。女性だから愚鈍で騙される、というわけではないようである。

ストリップの秘密

赤ずきんちゃん」が性的なニュアンスを秘めた物語だとされる根拠の一つに、赤ずきんちゃんが狼に食べられるのが「ベッド」である、という点がある。

 グリムの赤ずきんは、祖母に化けてベッドに横たわっている狼の側まで行き、そこで襲われて食べられる。ペローの赤ずきんや「おばあちゃんの話」になると、赤ずきんは狼に言われるままに衣服を脱いで、素裸でベッドの中に入ってしまう。こんな描写を読めば、そこに性的なニュアンスを読み取らない者の方が少ないだろう。

 では、「赤ずきんちゃん」とその原型となる民話群は、こうして解釈されているとおり、少女の純潔喪失の警告を語る艶話なのだろうか……?

 そうとばかりは言えない。視界を広げて東アジアの類話群を見ていくと、やはり祖母に化けた人食い鬼と子供が同じ寝床に入るが、そこに性的なニュアンスは見出せないからだ。人食い鬼が子供と同じ布団で寝ようとするのは、あくまでその子を布団の中で(文字通り)食らってしまいたいからであり、同じ布団で寝なかった別の子供は、布団の中で食べられてしまった兄弟の血や指や骨のひとかけらを現実に見せ付けられる。なにより、人食い鬼は女性だ。

 ペローの「赤ずきんちゃん」や「おばあちゃんの話」で、狼が赤ずきんちゃんに「ベッドにお入り」と言うのは、いかにも唐突で不自然に見える。まだ寝る時間ではないはず(?)で、しかも祖母は病気で寝ていたわけだから。聞き手は、狼が「肉を食べる」以外になにやら怪しい目的を持っているのではと想像せずにはいられない。だが、東アジアの類話群では人食い鬼が子供を寝床に誘うのは夜遅くであり、久しぶりに訪ねた祖母が孫を抱いて寝ようと言う、ごく自然な成り行きとして描かれている。そして実際に食べられた子供の肉片までが登場するのだから、そこに怪しい解釈の余地はない。

 

 ところが「おばあちゃんの話」には、少女が狼に言われるまま一枚一枚衣服を脱いで火にくべていき、しまいに素裸になってしまう《ストリップ》のシーンがある。この《ストリップ》に性的なニュアンスを見出す人は多いようである。なにしろ、どうしてここで少女が服を、それも一枚一枚確認しながら脱いでいかなければならないのか、物語上の理屈がわからない。「脱がす」のが目的で、それを強調するために一枚一枚確認するのか、と思ってしまう。

 東アジアの人食い鬼はフランスの狼のように子供に服を脱いで布団に入ることを要求したりはしないが、中国の類話に「体をきれいに洗った子と寝よう」と要求して、言われたとおりに体を洗ってきた子供を布団の中で食べてしまい、怪しんで逆に体に炭を塗った子供は生き残るというものがある。これから見るに、「服を脱いでベッドに入りなさい」というのも、宮沢賢治の童話『注文の多い料理店』のごとく、単に「肉を食べやすいように裸になれ」という意味合いだったのが、歪んで性的な意味と捉えられるようになった……と、考えられなくはないのだが……。

 さまざまな民話を見ていくと、逆に、少女が一枚一枚衣服を身につけていくモチーフを目にすることがある。この民話想で紹介している例話では「水車小屋の亡霊」や「ペリア・ポカク」に現れているが、少女が一つ一つ「ドレスが欲しい」「靴が欲しい」「アクセサリが欲しい」などと要求するのにはちゃんと意味があり、それは誘ってくる男性(霊)をじらし、逃れる時間を稼ぐためなのであった。では、一枚一枚確認しながら衣服を脱いでいくのも、時間稼ぎのためなのだろうか?

 

 実はこの《ストリップ》には、とても古い信仰が下敷きとして存在しているかもしれない。

『グリム童話』の「六羽の白鳥」(KHM49)には、木の上に隠れていた姫が下を通りかかった狩人たちに発見され、うるさく降りて来いと誘われて、見逃してもらおうと、身につけているものを一つずつ外して落としていくエピソードがある。ついに下着姿になった時、彼女は木から下ろされ、王のもとへ連れて行かれてその妻となる。

 これを、ただのエロティックな《ストリップ》と見て終わるのは簡単である。しかし注意すべきは、「娘が木の上に隠れ暮らしている」状況は、多くの伝承において「魂が木の枝で憩っている〜死者が冥界にいる」ことの暗示であるという点だ。死者であった娘が身に着けていたものを一つ一つ脱ぎ捨てると、木から下りて王の妻になった……この世に甦ったのである。

 メソポタミアの神話に、女神イナンナが冥界に下って死に、後に甦る話がある。イナンナは様々なアクセサリーで身を飾って出発したが、冥界へ向かう道にある七つの門を潜るごとにアクセサリーを一つずつ取り上げられ、七つ目の門を潜る時には全裸になっていたとされる。

 つまり、死んで冥界へ行く時には現界で持っていた全てを奪われて素の姿になるという信仰があり、それが「衣服を一つ一つ脱ぎ捨てる」という《ストリップ》モチーフとして民話に残ったのではないか、と考えられるのだ。「おばあちゃんの話」で少女が一枚一枚衣服を脱いでいき、狼が「燃やしておしまい。もう要らないんだから」と言うのは、文字通り、少女がどんどん黄泉路を辿って死に近付いていたという意味なのではないだろうか。(既に死者であった「六羽の白鳥」の姫には、このモチーフが逆転して適用され、一つずつ衣服を脱いで裸になることで、冥界から現界へ少しずつ帰還する様子を表したのだろう。)

 韓国の「太陽と月になった兄妹」では、人食い鬼に襲われた母が、まず持っていた食べ物を、次に着ていた服を一枚一枚脱いで与えて、しまいに素裸になって逃走するが、結局、身体をも少しずつ食い千切られて死んでしまう。一方、日本の「姉弟と山姥」では、人食い鬼に追われた少年は木の上に隠れる。そこで着ていた服を全部脱いで、それを身代わりにして素裸で逃げ、無事に逃げ延びた。イタリアの「太陽と月とターリア」では、処刑されることになったターリアがせめて服を脱ぐ時間をくれと懇願して、一枚一枚脱ぎはじめる。同じくイタリアの「眠れる美女と子供たち」では、処刑される娘が七枚のスカートを一枚ずつ脱ぐように命じられる。

 以上のことから、《ストリップ》は「少しずつ死に近づく」または「少しずつ死から遠ざかる」ことを意味するモチーフであり、そのスリルを聞き手に伝えるための語りの様式なのだと、私は結論する。




 余談。イタリアの民話には、逆に狼の方が女の子に呼び出されて、一枚ずつ衣服を着て、やっと登場してくるものがある。

狼おじさん イタリア ロマーニャ地方

 昔、意地汚い女の子がいた。謝肉祭の日、学校の先生が子供たちに編み物の課題を出し、上手にできた子にはご褒美にホットケーキをあげましょうと約束した。けれどもその子は下手くそで、早々に投げ出して遊びに行ってしまった。戻ってくると他の子たちはホットケーキを食べてしまっていた。女の子が泣いて帰って訴えると、母親は言った。

「よしよし、可哀想に。ホットケーキなんていくらでも作ってあげるからね」
 けれども本当は貧しくて、フライパンすら持っていなかったのだ。それで母親は言った。
「狼おじさんのところへ行って、借りて来ておくれ」

 意地汚い女の子は狼おじさんの家へ行って戸を叩いた。

 とん、とん
「誰かね?」
「あたしです!」
「はて、もう何ヶ月も、いや、何年も戸を叩いた者なんていないのに。それで、何の用だい?」
「お母さんに言われて、フライパンを借りに来たんです。ホットケーキを作るんです」
「待っておくれよ。シャツを着るから」
 とん、とん
「待っておくれよ。下衣したぎをはくから」
 とん、とん
「待っておくれよ。ズボンをはくから」
 とん、とん
「待っておくれよ。上着を着るから」

 やっと狼おじさんが戸を開けて、フライパンを持ってきてくれた。

「貸してあげるが、お母さんによく言っておいておくれ。返す時には、ホットケーキを鍋いっぱいと、パンと、それに葡萄酒も付けてくれるようにね」
「はいはい、みんな持ってきます」

 家に帰ると、母親が美味しいホットケーキをたくさん作ってくれた。それから狼おじさんの分をフライパンに入れて、日が暮れる前に女の子に言った。

「狼おじさんにフライパンを持って行っておあげ。それからこのパンと葡萄酒もね」

 女の子はとても意地汚かったので、途中でホットケーキの匂いを嗅いでいるうちに独りごちた。

(まあ、美味しそうな匂いだこと。一つくらい食べてもいいわよね)

 そして一つ、二つ、三つとみんな食べてしまった。ついでにパンをほおばり、飲み下すために葡萄酒のビンも空にしてしまった。

 女の子は空になったフライパンに畑の泥を入れ、道端で働いていた左官屋の漆喰を捏ねてパンに見せかけ、葡萄酒のビンには腐ったドブ水を入れた。それから狼おじさんの家へ行くと、この汚いものを平気で差し出した。

 そうとは知らずに狼おじさんはホットケーキを口にした。
「ペッ! これは泥じゃないか!」
 そこで口直しに葡萄酒を飲んだ。
「ペッ! これはドブ水じゃないか!」
 パンにかぶりついた。
「ペッ! これは漆喰じゃないか!」

 狼おじさんは火のような目で女の子を睨みつけた。
「今夜、お前を食べに行くぞ!」

 女の子は走って家に帰って、母親に訴えた。「今夜、狼おじさんがあたしを食べにくるんだって!」

 母親はすぐに家中の鍵を閉めた。家の中の穴という穴を塞いだが、煙突だけは塞ぐのを忘れていた。

 夜になって女の子がベッドに入ると、狼おじさんの声が外から聞こえた。
「さあ、食ってやるぞ! 今はお前の家の側だ」
 次に、屋根瓦を踏む足音がした。
「さあ、食ってやるぞ! 今はお前の家の屋根の上だ」
 次は、煙突の中を降りてくる物音がした。
「さあ、食ってやるぞ! もう煙突の中だ」

「お母さん、お母さん、狼おじさんが来た!」
「布団の中に隠れなさい!」
 女の子はベッドの奥に丸くなって、木の葉のように震えた。

「さあ、食ってやるぞ! もう部屋の中だ」
 女の子は息を殺していた。
「さあ、食ってやるぞ! もうベッドの側だ。――そら、食ってやる!
 狼おじさんは、女の子を食べてしまった。

 こんなことがあってから、狼おじさんは意地汚い女の子を見ると、みんな食べてしまうようになったのだ。


参考文献
『岩波世界児童文学全集16 みどりの小鳥』 イータロ・カルヴィーノ著 河島英昭訳 岩波書店 1994.

 

※恐ろしいモノが、いちいちどこにいるのか報せながら少しずつ近づいてくる。現代日本でも「リカちゃん」「メリーさん」などといって好んで語られるタイプの怪談である。

 呼び出されて現れ、ホットケーキや葡萄酒と引き換えにフライパンを貸してくれる狼おじさんとは、《悪魔》のような存在なのだろう。女の子がドアをノックするシーンはいわば召霊で、狼は一枚ずつ服を着て、少しずつ、ゆっくりと、あの世からこちらへ近づいてくる。

 

 ところで、「三枚のお札」にも似たシーンがある。人食い鬼に追われた小坊主がやっと寺に逃げ帰って来て、戸を叩いて、開けてくれと和尚に呼びかけるが、和尚は「待て待て、今ふんどしをしめる」などとゆっくり身支度をして、桃太郎アイヌラックルのような英雄神のようになかなか出てこない。

トイレに行きたい

 寝床に入った子供たちは、ここでようやく、一緒にいるのが人食い鬼であることに気づく。さて、そこでどうするか? ――子供たちは叫ぶ。「トイレに行きたい!」

 いつの世も、都合の悪い場面から逃げる際に「ちょっとトイレに」と言って席を立つのは有効な手段であるようだ。しかし、敵もさるもの。そう簡単にトイレに行かせてはくれない。「布団の中で排泄しろ」と言う場合がある。しかし子供は「汚いからイヤだ」と反抗する。次に、トイレではなくベッド近辺や家の中のどこかで排泄しろ、と言うが、子供は「そこに宿る神様に失礼だからイヤだ」と反抗する。とうとうトイレ(または庭)に出してもらえることになるが、人食い鬼は用心深い。子供に紐を結びつけて、その片端を自分が持ち、逃げられないようにする。

 この紐、普通の紐だったり、先に食べられた子供の腸だったり、鉄の鎖だったりする。フランスの話では足に、中国の話では腕に結びつけられるが、日本の場合、殆ど腰に結びつけることになっている。(ただし、南島地方の類話では中国と同じく腕に結びつける。)子供は紐を外して木や動物に結びなおし、そのまま逃走する。

 

 ところで、【赤ずきんちゃん】系と近しい関係にある日本の民話群に[三枚のお札]がある。紐を結ばれてトイレに行くモチーフ以外に【赤ずきんちゃん】系との共通点はないようにも見えるが、類話を見ていくと、人食い女が主人公の叔母を名乗って現れたり、一緒の寝床で寝ていると夜中に女が齧るので人食い鬼だと判ったりといった、共通のモチーフが重なって現れており、やはり、かなり近しい関係の話群だと言えると思う。

 面白いのは、この話群には、小坊主が逃げたことを知らない人食いが紐を乱暴に引くと便所の柱が倒れたり鳴ったりするモチーフが見られることで、日本神話で冥界から逃げるオオクニヌシが冥王スサノオの髪の毛を館の柱に結びつけておくシーンを想起させる。琴が鳴り響いてオオクニヌシの逃走を知らせ、スサノオがオオクニヌシを追おうとすると髪の毛で引っ張られた柱が引き倒されて館が崩れてしまう。結果として、オオクニヌシは逃げ延びる。中国の「熊ばあさん」でも、人食い鬼が紐を引くと便壷が倒れて中身がこぼれ、人食い鬼は滑って転んでしまう。紐が、子供の逃走の時間稼ぎの道具として作用している。

 

 小坊主が持つ呪宝――三枚のお札は、たいていは和尚が小坊主に予め渡しているものなのだが、時には、便所の中で祈ると便所神が現れて授けてくれるなどする。あるいは、お札自体は和尚から授かっていても、逃げる際に便所神に祈ることもある。どうしてここで便所神が現れるのだろうか?

熊ばあさん」の例から言っても、排泄物は人食いの足を止め、時間を稼いで子供の逃走を助けてやっている。排泄物には何かそういう呪力があるらしい。日本神話でイザナギが冥界から逃げ帰るときにも、小便をして、それが川になって追っ手を阻んだという異伝がある。また、日本民話の「鬼の子小綱」の岩手県や鹿児島県喜界島の類話でも、さらわれた娘(姉)を探して鬼の住まいにたどり着いた爺(弟)が、娘と鬼と娘の間に生まれた子・小綱を連れて逃げ出すが、小綱は予め鬼の住まいのあちこちに糞を垂れておいて、その糞が鬼に返事をしている間に逃げていく。西アフリカの「クワシ・ギナモア童子」では、クワシ・ギナモアという少年と人食い婆が何度も騙し騙され勝負を続けるが、最後に、クワシ・ギナモアは留守番していた孫娘を騙して殺し、それをスープに料理して、自分は孫娘に変装して婆に食べさせる。食べた後で婆は騙されていたことに気づくが、クワシ・ギナモアは家の中に糞をして「外に捨てさせてよ」と言って外に出るなり、「やーい」と嘲って逃げていく。

 西欧の説話では、このモチーフは、逃げる女がつばか血を数滴落としていき、そのつばや血が女の代わりに返事をして時間稼ぎする、という形で現れるようである。しかし、つばや血は乾くと魔力を失い、返事をしなくなる。--> 「海の王と賢いワシリーサ

 

 今でも、「トイレの花子さん」など、トイレにまつわる怪談は数多い。それは昔から人々がトイレを異界と現界の境界であると認識していたからに他ならない。今はどちらかというと不浄のイメージが色濃いが、神話の時代は神と遭遇する場所でもあった。人食い鬼のいる場所は本来、冥界であって、そこから脱出するには境界の神たる便所神に頼るのが正当、ということなのだろうか。

 世界各地の伝承を見るに、冥界から脱出する際には木や大地や門扉や弦が鳴動すると語られることが多い。また、冥界の出入り口は猫や犬に見張られていて、これが吠えることもある。[三枚のお札]で人食い鬼が小坊主に繋いだはずの紐を引くと柱が鳴り響いたり、[狼ばあさん]系の類話で紐を引くと身代わりに結ばれた鶏や犬が鳴くのは、恐らくこのことと関連しているはずだ。

 なお、[天道さん金の鎖]系の類話では、子供たちは戸口(敷居)に排泄をする。「さるかに合戦」でも戸口に鎮座した糞がサルの足を滑らせるが……。戸口は家と外界を隔てる場所であり、まさに境界である。

木の上の悪童と木の下の人食い

狼ばあさん」や「天道さん金の鎖」系の類話では、逃げた子供たちは必ず木の上に隠れる。人食い鬼が追ってくるが、木に登れずに下をウロウロする。

 これらの物語では、勿論《悪》は木の下の人食い鬼であって、木の上の子供たちは追い詰められた哀れな被害者だ。しかし、一方で子供たちは木の下で右往左往している人食い鬼を嘲笑い、人の悪い嘘で騙して痛めつける。

 民話の中には善悪の構図が逆転しているパターンをよく見かけるが、このモチーフも逆転して、木の上にいるのが《悪》で、木の下にいるのが哀れな被害者になっている場合がある。最も身近なところでは、「さるかに合戦」がそうだ。木の上にいるのは悪知恵がきいて意地悪なサル。木の下にいるのはマジメで愚かなカニ。サルは、木に登れないカニの前で散々美味しい木の実を食べて見せ、しまいに「美味しい実をあげるから」と騙して青い実を投げつけて殺してしまう。――カニは死ぬが、その体から何匹もの子ガニが生まれてサルに復讐をする。ちょっと、「狼と七匹の子ヤギ」で狼の腹から子ヤギが出るシーンを思い出させる。中国の「狼ばあさん」系の類話に、人食い熊を箱に入れて煮殺し、その箱を買い取った行商人が箱を開けると、中から数匹の子熊が出て行商人を食い殺す結末の話もある。

 もっとはっきりした善悪逆転の例としては、パプア・ニューギニアのブーゲンビル島の民話がある。

 根元に水をたたえた果樹があり、木の上には悪童たちがいる。木の下を婆さんが通りかかり、水に映った果実を取ろうとして何度も水に入るが、当然取れない。すると木の上の悪童たちが嘲ってからかい、婆さんにどんどん木の実を投げ与えて、しまいに婆さんは腹がはじけて死んでしまう。悪童たちは死んだ婆さんの陰部を切り取り、その肉を老婆の夫に預ける。爺さんはその肉が何であるかを知らないまま煮て食べてしまう。悪童たちは肉を食べられてしまって怒り、爺さんをはやし立てる。

「やーい爺さん、お前は食った、お前のオッカァの○○食った」

 爺さんは怒って悪童たちを追い、悪童たちは追い詰められて木の上から昇天してしまう。(この後の展開は、天に昇ってしまった悪童たちを呼び戻すために鳥たちが使者として赴く、というものになる)

 木の上に奸智に長けた童子がいて、木の下に人食い鬼が通りかかって……というシチュエーションは、民話で非常にしばしば見かけるように思う。インドには、こんな話がある。

 いつも木の上で木の実を食べている少年がいる。ある日、老婆がやってきて木の実を分けてくれ、地面に落ちたのじゃイヤだと頼むので、少年は仕方なく木から降りて木の実を渡す。ところが、たちまち老婆は少年を皮袋に入れると、担いで家まで運び始めた。老婆は人食いだったのだ。少年は、一度は途中で袋に身代わりに土などを詰めて逃げ出したものの、結局つかまえられてしまう。老婆は娘に少年を料理するように言いつけて出かけていくが、少年は娘を騙して逆に殺し、料理して、自分は娘の服を着て変装する。老婆が何も知らずに自分の娘の肉を食べると、猫が「お婆さんは自分の娘の肉を食べてるよ」と言う。最終的に、少年は老婆を突き落として殺してしまう。

参考 --> 「袋の中の男の子

 ほぼ同じ話はパプア・ニューギニアにもあって、そこでは人食いの持っているのは網袋である。

 よく似たモチーフは日本の民話でも見ることができて、たとえば「食わず女房」の後半として現れてくる。

 「ものを食べずに働く妻がほしい」というムシのいい願いを持つ男のもとに、本当にものを食べない女が嫁いでくる。ところがこの妻は化け物で、夫の留守中に頭のてっぺんの口から大量の飯を食べていた。それを知った男は離縁を言い渡すが、女は桶を作ってもらって、それに男を入れて、ひょいと担いで山に登っていく。女は人食いだったのだ。男は途中で木の枝につかまって桶から出、木の上に登って逃れる。人食いが探しに戻ってくるが、魔よけの植物のおかげで助かる。

 思えば、「狼ばあさん」に近い系統の日本の話群[牛方山姥]でも、人食いから逃げた男は家の二階(天井裏)に隠れ、山姥をからかい、騙し、ついには殺してしまう。「高いところにいる狡猾な童子と下にいる愚鈍な人食い鬼」というイメージは、かなり強固に人々の間に浸透しているようである。-->【童子と人食い鬼

 

 多くの類話を見ていて感じることだが、この木の下の人食い鬼(女怪)と木の上の童子は、一種の樹木信仰が根底にあるシチュエーションなのではないかと思う。

 木の上にいる者は《生命、魂、善良性、若さ》を象徴しており、木の下にいる者はそれを害しようとしている。

 中国に伝わる、樹木の枝に太陽や月がとまるという太陽樹信仰。また、世界が一本の樹であって、樹上には冥界があり、その根は常に悪龍に齧り続けられているという、北欧が有名な世界樹信仰。これらと共通した思想があるように感じるのだ。

 実際、このモチーフを持つ伝承の多くに、木の上の子供が昇天して月や太陽になったとか、木そのものが月に引き上げられて、今でも月の影として怪物が木を齧り続けているなどと、日月と関連付けられたものがあり、日月と関連しなくても、木の上の子供が鳥に乗って飛び去ったり、鳥に伝言を頼んだりと、鳥に関連している。鳥はしばしば魂と関連付けられ、太陽の化身ともされるものである。

 

>>参考 <瓜子姫のあれこれ〜木をめぐる葛藤><三つの愛のオレンジのあれこれ〜太陽の娘><童子と人食い鬼のあれこれ〜枝にとまる魂

落ちて破れた腹

 フランスの民話「おばあちゃんの話」では、少女は知略をもって狼から逃げ出し、無事に逃げ延びる。ところが、ペローの「赤ずきんちゃん」では、赤ずきんは狼にパックリ食べられてしまい、二度と復活しない。どちらが本当の結末なのだろう。

 ――恐らくは、どちらも正解なのであろう。

 

狼ばあさん」や「狼と七匹の子ヤギ」系の話では、人食いに狙われる子供は複数存在し、「食べられてしまう子供」と「逃げ延びる子供」の双方が登場する。どちらの結末の可能性もあるわけで、それを両方見せてくれている。民話の「愚かな兄と賢い弟」や「正直爺さんと意地悪爺さん」のパターンで、最初に行動した兄や姉が失敗し、末の弟または妹が成功する……あるいは、最初に行動した正直者が成功して、真似をした欲張りが失敗する、これらの話の構成と同じ理屈である。失敗する結末だけ見せられると気分が悪いし、といって、成功する結末だけではありがたみがない。失敗する者のエピソードが語られてこそ、成功した者の《素晴らしさ》がより明確に伝わるのだから。

 グリム版の「赤ずきんちゃん」は、ぎこちない形ながらも「狼ばあさん」とは違った方法でそれを試みていて、結末が三重になってしまっている。

 まず、(1)赤ずきんが狼に食べられてしまう。だが、(2)そこに猟師が現れて赤ずきんを救い出し、赤ずきんは狼の腹に石を詰めて殺す。更に、(3)その後に赤ずきんは別の狼に出会うが、今度は惑わされず、狼をソーセージの茹で汁に落として殺す。

 はっきり言って、冗長な構成である。知っている限りのいろんな結末のパターンを書き込みたかったのだろうか……。

 

 狼の腹を割いて赤ずきんを救い出す猟師に関しては、昔からさまざまな解釈がなされてきたようだ。彼は《父親的存在》であり、女子供が父親に支配・保護されるべきであることを示しているとか。本来の民話では自分自身の力で危機を乗り越える赤ずきんが、猟師に救われる役回りになったために、自分では何もできない愚かで非力な存在に成り下がってしまっているわけで、そこに女性蔑視、男性の押し付ける理想の女性像が現れているのだ、とか。

 猟師は民話には登場しないが、グリムのオリジナルというわけではなく、ティークの演劇「赤ずきんちゃんの生と死」に既に登場している。ただし、この猟師は赤ずきんを食い殺した狼を撃ち殺して仇を討つだけの存在で、救い出すことはできない。

 

 グリムで猟師が狼の腹を割くのは、同じグリムの「狼と七匹の子ヤギ」からのモチーフの移入だと言われている。とはいえ、「狼と七匹の子ヤギ」自体が赤ずきん系の類話の一つでもあり、日本の喜界島に伝わる類話に、やはり人食い鬼の腹を割いて食べられていた者を救い出すモチーフがあるので、既に書いたように、グリムが全く無関係なエピソードをご都合主義的大団円として無理にくっつけたとは言えないだろう。勿論、喜界島の話のほうがグリムの影響を受けている可能性も無いわけではないのだが。

 

 グリムの「狼と七匹の子ヤギ」では狼は水の中に落ちて死に、グリム版「赤ずきんちゃん」の《もう一つの結末》では、狼は屋根から桶に溜められたソーセージの茹で汁の中に落ちて死ぬ。イギリス民話「三匹の子豚」の、煙突から煮立った鍋の中に落ちて死ぬ狼をも思わせる末路だが、【赤ずきんちゃん】系の民話を見ていくと、人食い鬼の死に方はほぼこの通りにパターンが決まっていて、つまり、「高いところから落ちて死ぬ」か「水に落ちて死ぬ」か「熱で死ぬ」かのどれか(また、その複合)になっている。

 鍋で煮られて死ぬのは、<死者の歌のあれこれ〜食人の神話>で述べたように、そのまま冥界の光景を再現しているのだろう。ロシアの「狼と子ヤギたち」で、母ヤギと狼が森に行くと唐突に穴の中で火が燃えていて、それを飛び越える勝負をすることになるのも、冥界くぐりを意味しているらしく思われる。母ヤギは冥界を通り抜けることができたが、狼は冥界に落ちる。だが、彼の腹の中に納められていた(冥界に落ちていた)子ヤギたちは再生を遂げる。

 

 なお、赤ずきん系のアルプス地方の類話では、娘は川を渡って逃げて行き、追う狼は川の水を飲み干そうとして、腹が裂けて死ぬ。これは日本の「三枚のお札」やロシアの「竜王と賢女ワシリーサ」等、人食い鬼から逃げる呪的逃走譚で見られるお馴染みのモチーフである。

 中央アンデスの民話に、墜死した狐の腹が破裂するものがある。狐は鳥の王たるコンドルに頼みこんで背に乗せてもらい、天界で開かれる鳥たちの宴に招いてもらう。たらふく穀物や肉を食べるが、不作法にもコンドルの食べ残しの骨を齧ろうとしたため置き去りにされる。遠吠えして嘆いているとパパチウチ鳥が綱を持ってきてくれる。それを伝って下りていくが、途中でインコの群れに会った時、いつもの癖で悪口を叫び、綱を噛み切られて墜死した。狐の腹は弾け、飛び散った穀物が芽吹いて地上に広まったという。日本や韓国の「天道さん金の鎖」系の話では、腐った綱が切れて墜死した人食い鬼の血によって蕎麦や黍の根が赤くなったと語られるものだが、恐らく同じことを語っている。

 つまるところ、墜落して死ぬこと、腹が裂けて中身が飛び出すことは、煮られて死ぬのと同じく、人食い鬼の定番の死に方なのである。そして人食い鬼の死によって地上に作物が実る。人を貪欲に喰らう人食い鬼、《妖婆》が、同時に生命の糧となる存在…豊穣を産み出す大地の女神、すなわち《母》であることを匂わせている。

 時に、人食い鬼に狙われた少女もまた、同様に植物に転生する。人食い鬼と少女…狼と赤ずきん…母(祖母)と娘は、同じ女神の別の相、入れ替え可能な同一の存在である、と言えるかもしれない。

主な参考文献

『決定版世界の民話事典』 日本民話の会編 講談社+α文庫 2002.
『赤ずきんちゃんはなぜ狼と寝たのか』 キャサリン・オレンスティーン著 中谷和夫訳 河出書房新社 2003.
赤ずきん症候群/おとぎ話のイデオロギー」/『Sho's Bar』(Web) 鈴木晶著 / (初出)『ユリイカ 1986/7』 青土社 1986.

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