大まかに分けて、
という二つの主要素で構成された物語であり、これに
という三つの個性が加えられている。
国内に類似系統の話は多く、Cが「灰を撒くと獲物の目に入って仕留める」になると、「雁とり爺」になる。また、主要素2の「不思議な獣の転生」の要素が薄れた類話群として「竹伐り爺」「鳥呑み爺」というものもある。妙なる声で鳴く小鳥を呑んでしまった爺が、その鳥の呪力で富を得るが、真似をした隣の爺は失敗して罰を受ける、というものである。「花咲か爺」や「雁とり爺」は、他者に殺された不思議な獣を、主人公が埋めたり道具に作り変えたりして再生させ、恵みを享受していくが、「竹伐り爺」や「鳥呑み爺」は、主人公自らが不思議な獣を殺し(食べ)、自分自身にその呪力を移してしまう。
一方、国外の類似系統の話に目を移せば、二つの主要素はそのままとして、
という個性が加えられると、朝鮮半島(韓半島)や中国でよく知られ、東南アジアにも要素の見られる【狗耕田】になる。
また、かなり変形するが、
となると、[三つの愛のオレンジ]や【蛇婿〜偽の花嫁型】になる。
研究者の間では、「犬が水界からもたらされる神の子(小さ子)である」ことと、「灰を撒いて花を咲かせる」ことが特に重視されているようで、灰を撒いて花を咲かせるのは焼畑農法を現しており、神の子が死して大地に豊穣をもたらすという、[殺され女神]にも通じる死体化成の豊穣信仰を現している、と解釈されるようである。
実際、日本の新潟や富山の類話では、爺さんが枯れ木に花を咲かせて殿様に褒美をもらう際のシチュエーションを、「爺が自分の畑に灰を撒いていた、あるいは撒こうとして出かけた時、偶然 殿様に出会って……」とするものがある。
また、海外の類話である【狗耕田】の中国西南部から南部の少数民族が伝えるものの中に、畑に灰を撒いて巨大な白菜を得たり、殿様の牡丹を咲かせたりするものがある。
死して植物に転生し富を与え続ける犬が、大地に豊穣を与える殺され女神の信仰の延長上にある存在だというのは、疑いようのないことだ。「花咲か爺」の前半で、犬が爺に農具を持たせて地面を掘らせ、すると宝が出るくだりも、農作業による大地からの豊穣の獲得を比喩したもののように思える。
犬が伝承の中で、しばしば農耕〜穀物(農作物)と関連付けられて語られているのは確かである。中国西南部から南部の少数民族、チベットには、犬が尾に穀種をつけて水を渡ってきただとか、天上界に穀種を盗りに行った英雄を伴の犬が助けただとか、竜宮に穀種を盗りに行った王子が犬に変えられたという伝承があり、それにちなんで新嘗の日には最初に犬に米飯を与えるという。日本にも、狐が一本の竹の中に稲種を隠して中国から盗んできたとか、弘法大師が自分の足の傷の中に隠して中国から麦種を盗んだとき、犬が吼えたが飼主はそれを知らずに「ありがたい坊様に吼えるとは」と犬を殴り殺した。おかげで麦種を日本に持ち帰れたが、殺された犬を哀れんで麦種は必ず
しかし、「花咲か爺」が豊穣信仰を表しているのはいいとして、個人的には「灰を撒くのは焼畑農法を表している」という説には疑問を抱いている。本当にそれを語っている物語なら、犬が野畑で焼き殺された後、そこに植物が茂り……という展開になるべきではないのか、と思うからだ。焼畑農法は野を焼いてそこに作物を植えるものであり、どこか別の場所で作った灰を肥料として撒くものではない。
「ハイヌヴェレ神話」では、殺された女神の死体はバラバラに切り刻まれて島の各地に埋められた。ロシアの「金のたてがみのはえた馬、金の毛の生えたブタ、金の角をもつシカ」では、イワンは馬をバラバラに引き裂いて畑に撒き散らした。中国雲南省の
死体を細切れにして各地に埋め、撒き散らすのは、キリスト教で「幼子キリストの肉」である聖体パンの細切れをひとかけらずつ信者に分配したり、日本で祭りの際に使われた道具の一部を参加者が少しずつ持ち帰ってお守りにするのと、恐らくは同根の思想である。「神の力」を、出来る限り多くの人に分け与え、広い範囲に行き渡らせたい。その渇望が、「細かく刻んで」「撒き散らす」という行為を行わせるのではないだろうか。
[三つの愛のオレンジ]や【蛇婿〜偽の花嫁型】でも、性悪な姉(妹)に殺された娘は
不思議な獣に転生 → 殺されて食べられる。夫には美味しいが姉には不味い → 死骸から木が生える。夫は木から安らぎを得るが、姉は怪我を負わされる → 木は切り倒され、道具が作られる。夫には良い道具だが、姉が使うと怪我をする
といった具合に転生していき、最後に道具は壊され、火で焼かれることになる。
多くの場合、転生のサイクルはここで終わり、灰になることを逃れた木のかけらの中から、殺された娘が再生して飛び出してくる。火で焼かれることが魂の変転の最終地点に設定されているのだ。焼かれるのは地獄の炎で清められることと通じ、つまり豊穣の女神の胎を通って産み直される、という思想があるのだと考えている。それに、実際 灰にまでなってしまったら、もうどうしようもない。次の転生に繋げるのはなかなか難しいので、物語的にはここで切り上げるのが適当である。
しかし、中にはすっかり焼かれて灰になり、その灰が撒かれて、そこから再び植物が生え……と繋げるものもある。グルジア共和国の「三人姉妹」では、殺された娘が い草→笛→灰 と変化していき、その灰を殺害者の姉が風呂の屋根の上に撒き散らすと、大きなポプラの木が生えることになっている。チベットの「仙女と魔女」では、殺された娘は花に変わり、その花を焼いた灰から大きな胡桃の木が生える。更に、胡桃の実から娘が再生したものの、今度は火に投げ込まれて殺され、その灰と骨を野原に撒き散らす。すると、それに沿って野原に宮殿が現れた。この宮殿の中で、殺された娘は夫が訪ねてくるのを待っている。
人や獣が死んだとき、その死骸を苗床にして植物が生える。これは自然に見られる光景で、ここから「死んだ者が植物に生まれ変わった」と考えることは、かなり素直な、古くから浸透したイメージなのではないかと思う。その植物に宿った死者の魂と魔力は、植物が切り倒されて道具に加工されても、更には燃やされて灰になっても、消え去らずにそこに宿り続けている……そんな信仰が、これらの「灰になっても花を咲かせる」物語として結実しているのではないかと思う。
とんと一つあったとい。
昔々ある所に、爺さんと婆さんとおったとい。ところがある日、爺さんが山へ柴刈りに行き、婆さんが川へ洗濯に行ったとい。そうしたら川へ ぼんぼこぼんぼことでかい桃が流れてきたとい。婆さんは
もう一つ来い 太郎にやろ
もう一つ来い 次郎にやろ
と言って、その桃を拾って帰って搗臼の中へ入れておいたとい。
そうしているうちに爺さんが山から帰ってきたとい。
「婆さ婆さ 何か食べるものはないかいけ」
「ああ先刻 川へ洗濯に行っとったら、でかい桃が流れて来てないけ、そいつ作庭の搗臼の中に置いたけ、それでも食べっしゃい」
「そうか そりゃ美味い、食べようかい」
ところが桃を取りに行ってみると、驚いたも驚いた。
「婆さ婆さ、こりゃお前、桃で無いかいけ。犬ころだがいけ」
「おら さっき、確かに桃入れたかなれども」
「何言わしやすか、犬ころに違いない」
そうして二人で見ると、確かに可愛い犬ころであったとい。まあ二人は大事に育てたとい。
それから犬ころがだんだん大きくなった。そうして、ある時 爺さんに物言うたとい。
「爺さん爺さん、俺に鞍 付けさい」
「可愛いお前に 鞍付けらりょうかい」
「
鞍をつけると、今度は
「爺さん爺さん、俺にかます(袋)付けさい」
「可愛いお前に かます付けらりょうかい」
「
そうしてかますをつけると、今度は
「爺さん爺さん、俺に くわ付けさい」
「可愛いお前に くわ付けらりょうかい」
「
そうしてくわをつけると、今度は
「俺の後から付いていらさい」
そう言うものだから、ずっと後を付いて行くと、山へ入って行ったとい。それから「爺さん、さぁて掘らしゃい」と、そう言ったとい。
だもんだから、犬ころから くわから かますから降ろして、そこを掘ったとい。さぁところが、小判から大判から二分から一朱から、お金が沢山出たと。犬ころが言ったとい。
「それ詰めて、俺に付けさい」
「可愛いお前に 付けらりょうかい。おれが持って行く」
「だんない、付けさいん」
それからかますに金を詰めたのを付けてしまうと、今度は犬ころめが
「爺さん爺さん、俺の上に乗らさい」と言ったとい。
「可愛いお前に乗らりょうかい」
「だんない、乗らしゃい」
そうして乗って、とんとことんとこ と山を下ってきたとい。
家へ来てから、作庭で広げて小判から大判から数えていたとい。そこへ隣の婆さんめが火を借りに来たとい。
「爺さん爺さん、お前さ所に金がない金がない言っておったに、どこからそんなにでかぇと金が来たいけ」
爺さんがその一部始終を語って聞かしたところが、隣の婆さんめが「そんな えぇ犬なら、おれ所にも一日貸せさい」と言ったと。「どれ 犬でも連れて行かしゃい」と言って貸してやったとい。
犬ころめが、隣へ行ってもやはり、「爺さん爺さん、俺に鞍つけさい」と言ったと。
「お前に乗るために借ってきた」
「爺さん爺さん、俺にかます つけさい」
「お前につけようと借ってきた」
「爺さん爺さん、俺にくわ つけさい」
「お前につけるために借ってきた」
欲爺欲婆は万事こんな風に言ってすぐに犬に道具をつけて、犬は爺さん乗して山へ入ったと。
しばらく行くと「ここ掘らさい」と言うたとい。それから爺さん くわで掘ってみると、驚いたも驚いたかや、大蛇から蛙からムカデから、ありとあらゆる嫌なものばかり出てきたと。隣の爺さんめが怒って、
「この奴めが、人をこんな所を掘らした」
と言うて、とうとう殺してしまって、そうしてその脇へ埋めて、柳の枝一本さして帰ってきたとい。家でも欲深な婆さんが今にもかますにいっぱい大判小判 取ってくるかと思って待っていたところが、爺さんが愛想も無い顔をして帰ってきたと。
「爺さん爺さん、お前さどうしたいけ」
「どうしたにこうしたもあるもんか、あの奴めが人を掘らせるにも掘らせる、ロクでもない ひどい所を掘らせた」
と、今日の話を語ると、婆さんもびっくりしてたもうた。
さあ隣では、今朝借りて行った犬ころ どうしたのかしらん、まだ帰って来ん……そう思って隣へ訊きに行ったところが、ぷんぷんした顔で今までのことを話して聞かしてくれた。
「なんという可哀想なことさ しやした。殺しゃったかいけ」と言って、明くる日、その柳の枝の挿してあるところへ見に行った。行ってみると、その挿した小枝の柳が大木になっていたので、爺さんめが可愛い可愛い犬の形見だと思って、それを伐ってきて ひき臼をこしらえた。そして婆さんと一緒に臼をひいてみると、今度はまた驚いた。爺さんの前に大判が出、婆さんの前へは小判が出た。
そうしているうちに、また隣の婆さんめが火を借りに来た。
「そんなでかぇと、どっから金が来たっけ」
「いや、お前さんとこへ貸したあの犬ころの埋めてあった後に挿した柳が大きくなっていてね、あれでひき臼をこしらえて ひいたところが、こんなお金が出たのいけ」
「そうかいけ。それでは おれ所へ一日それを貸してくれやいよ」
「ああ取って行かしゃい」
隣の欲爺さんと欲婆さんとが借りて行って、さぁ、ひいてみると、まぁ大変。爺さんの前へ馬糞が出、婆さんの前へ牛糞が出た。また怒ったも怒ったがや、「このひき臼め!」と言って叩き割っていろりの中で焼いてしまった。
隣では臼を返さないので取りに行くと、
「あのひき臼が、おれの前には馬の糞を出し、婆さの前には牛の糞を出したので、あまり腹が立つから いろりの中で燃してしもうた」と言った。
「何という あつたらしいことさしたや。ではその灰でもないか」と言うと、
「そんな灰なら、どこかそのいろりの中の隅の方にあるかもしれん」と、愛想なく言った。
そこでその灰をもらって家に帰り、木に登り「日本一の灰まき爺」と言っていた。ところがそこへ立派な侍が通りかかった。
「そこへいる者は何者だ」
「日本一の灰まき爺」
「ではひとつ まいて見せ」
まくと、美しい桜の花が梅の花になるので、侍はたいそう褒めて、でかぇとお金を置いていかしゃったと。
そこで爺さんと婆さんとそれを数えていると、そこへまた隣の婆さんが火を借りに来た。そうしてその金の出所を聞いた。
「さっきお前さんの所からもらってきた灰を、ウチの爺さんが木の上へ登ってまいていたところが、そこへ侍が通りかかったので まいてみせると、綺麗だと言って、こんな金を置いていかしゃった」
と教えると、欲婆めがまたその灰を借りて行った。そうして爺さんに、木の上へ登って侍の来るのを待っているように言った。すると侍がやってきた。
「そこにいるのは何者だ」
「日本一の灰まき爺」
「ではひとつ まいて見せ」
今こそと思ってまいてみせると、今度は綺麗どころか、侍の目の中に灰が入って、えらい怒られたという。だから人マネちゃせんもんだと。
語っても語らいでも候。
参考文献
『日本昔話集成(全六巻)』 関敬吾著 角川書店 1950-
昔、上の爺と下の爺が川にどっこ(魚捕りの罠)をしかけた。あくる朝 上の爺がどっこを見ると、太い木の根が入っている。上の爺はそれを下の爺のどっこに放りこむ。
下の爺は「これでも薪になる」と持って帰り、乾かして割ろうとすると、根っこの中から
爺様、静かに割れ
と声がする。中から白い小さな犬が出て、食べれば食べるだけ大きくなって、短期間で成長する。
ある日、犬は
「爺様 爺様、今日は山さ鹿を捕りに行きますべえ」
と言って、爺の道具も弁当もみんな自分の背に積ませて山に行く。爺に
あっちの
こっちの鹿もこっちゃ来う
という呪文を教えて、爺がその通り唱えるとあちこちから鹿が出る。犬はそれをみな捕って、おかげで裕福になる。
羨んだ上の婆が、話を聞いて犬を借りる。翌日、上の爺は犬が「山さ行くベ」と言わないうちから、首に縄をつけて無理矢理 山に引っ張っていく。ところが呪文を間違え、
あっちの
こっちの蜂もこっちゃ来う
と唱えてしまったからさあ大変。上の爺は山中の蜂に睾丸を刺された。爺は怒って犬を打ち殺し、コメの木の下に埋めた。
下の爺は泣く泣くコメの木を伐ってくると、座敷に立て、木ずり臼を置いて
銭金は降れーっ、バラバラッ
米酒は降れーっ、バラバラッ
と唱えて木を揺すると、本当に銭金や米、酒の入った徳利が降ってきた。そしてまた長者になった。
羨んだ上の婆は木を借りた。ところがまた呪文を間違えたので、座敷中に汚い動物の糞が降り、怒った上の爺は木をへし折って焼いてしまった。
下の爺はその灰をもらい、屋根に登って
雁の
と唱えてまくと、飛んでいた雁の眼に灰が入ってボタボタと落ちた。
それで雁汁を作って食べていると、羨んだ上の婆が灰を借りる。上の爺は
参考文献
『いまは昔むかしは今(全五巻)』 網野善彦ほか著 福音館書店
※「花咲爺」と非常に似ているが、あちらが農耕民族系とするならこちらは狩猟民族系の話のようだ。「花咲爺」では灰は大地の豊穣の呪力を持っていたが、こちらでは動物の目に入ってそれをしとめてしまう。どちらかがどちらかの変形なのだろうが、どちらが先にあったものか。中国や朝鮮に「狗耕田」があるところを見ると、こちらの方が後で変形して生まれたものか。
《上の爺》《下の爺》という言い方は、アイヌの《パナンペ(川上の人)》《ペナンペ(川下の人)》と同じである。東北はかなり近い時代までアイヌ民族が住んでいた。その影響があるのだろう。(アイヌには灰を撒いて「(相手の)目に入れ」と唱える呪文があるようなので、この民話も元々アイヌのものなのかもしれない。)
参考--> 「ペナンペ・パナンペ」
昔、東長者と西長者がありました。西長者はたいそう貧乏で、母親と十五になる息子と二人で暮しておりました。
年の夜に、西長者は食うものがないので、東長者の家から米一升と味噌一椀を借りる相談をしました。西長者の息子は東長者の家へ行きました。
「東長者どの、どうか米一升と味噌一かたまりかして下され。その返しには、わしは明日から長者どのの雇になります」と、頼みました。けれども東長者は、
「お前たちに物を貸したところで、何のかし声がするか。庭のちりだめに
息子は家へ帰って行きました。
「母さま、母さま。東の長者は庭のちりだめに籾の皮がある、裏のばしょう畑にばしょうのくそがあるといわれたが、籾の皮がくわれるものでなし、ばしょうくそが食われるわけでもないのう。母さまは若いころに着たばしょう布の着物があるでしょう。それを米ととりかえて、歳の夜の夕食にしましょう」と言いました。母は
「わしは死んだ時のためにと思うて、ばしょう布の着物を一枚 櫃の底にしもうてあります。それでは、その着物をもって行って、米一升ととり換えて来なされ」と言いました。
息子が母さまのばしょう布の着物をもって米と取り替えにいきました。ところが、三人の子供が、小鼠の首をひもでくくって、池の中に入れては出し、入れては出していました。
「何ということをする子供たちだ。そんなことするより、その鼠とおれの持っているばしょうの着物をとりかえてはどうだい」
「いやだ、こっちが面白いよ。ばしょうの着物なんか面白くないよ」
「そうじゃない。鼠は食うわけにはいかんが、ばしょうの着物なら、米とでも餅とでも換えてくれるよ」
「そんじゃ、とりかえてもいいよ。」
息子は鼠と着物とをとりかえて、鼠をふところに入れて家へ帰りました。
「母さま、途中でね、子供が鼠を池の中に入れていじめていたから、かわいそうだと思うて、着物ととりかえて来たよ」
「お前のような、ばかな子供のすることですよ。仕方ありません。」
母さまはそう言って、種まき用に残してあった粟で粥をたいて、食べる用意をしていました。
すると、息子のふところで温まったせいか、鼠の仔がいつの間にか出て行って、どこで見つけたのか財布をくわえて帰って来ました。中を見ると、銭が二十両も入っていました。母さまはそれを見て、
「お前が助けてあげた恩がえしにくわえて来たのだろう」
といって、財布を先祖の前に供えました。
親子は寝てしまいました。すると、母さまが夢を見ました。
「わたしは、兄さんのおかげで命が助かりました。けれども、わたしの力ではご恩がえしをすることが出来ません。わたしの持ってきた銭で、まだらの三つある犬を買うてきてだいじに育てて下され」
母さまは、あくる朝、その夢の話をしました。それから、まだらの三つある犬を買うて来ました。
そうしてだいじに育てているうちに、犬は山に行って、ときどき猪をくわえて来ました。母親と息子はそのおかげで金持になりました。
金がたくさん出来たので、母親と息子は猪を煮て酒をのんで祝をしておりました。そこへ東の長者がやって来て、
「何としたことだ。お前たちは、歳の夜にも食うものがないというて、米一升に味噌一かたまり借りに来たではないか。いま、祝などしてどうしたことだ」と、たずねました。
二人はこれまでのことを、東長者に語ってきかせました。そして「さあ、あなたもどうかおあがりなされ」と、言いました。
「ありがとう。それでは、あしたその犬をわしに貸しておくれ。わしも猪をとらせて食ってみよう」と、頼みました。
翌日、東長者は犬を借りていきました。ところが、犬は死んでくさった猫や豚の仔ばかりくわえて来るので、東長者はたいそう怒りました。
「にくい奴だ、殺して捨ててやる」というて、犬をほんとうに殺して捨ててしまいました。
西長者は、三日たっても犬を返してくれないので、東長者の家へ行きました。
「旦那さま、旦那さま。わたしの犬を借りて、三日たってもとどけてくれないのは、どうしたわけですか」
と、言いました。すると東長者は、
「ふとどきな犬だ。猪はとって来ずに、くさった猫や豚の仔ばかりくわえて来て、家中のものがはき掃除させられた。それで殺して庭の肥だめに捨てたよ」と、答えました。
「そんなら犬の死骸でも持って帰って、墓でもたてることにしましょう」
そう言って、息子は犬の死骸をもち帰って、庭の築山に埋めました。
ところが、やがてその上にとーだいという大きな竹が生えて来ました。その竹が天までとどいて、天の米倉をつき破ってたくさんの米俵を落としました。
母親と息子はたいそう喜んで、その米をもらって食べて、祝をして酒をのんでいました。
そこへまた、東長者がやって来ました。
「犬もこのわしに殺されて、何の祝ごとだ」と尋ねました。
「実はね、こうして米が降って来て、祝をしているところです」
これを聞いて、東長者が「それでは、その骨を貸してくれ」というので、掘り出して貸してやると、それをもち帰って、長者の築山に埋めました。
すると、やはり大きなとーだいが生えて天までとどきました。
こんどは天のせっちん(トイレ)を突きやぶったので、汚いものが落ちて来て、東長者の家ではその掃除をするのに大骨がおれました。
いつまでも骨を返してくれないので、西の長者の息子が骨をとりに行きました。浜で焼いたというので、どこの浜でやいたのか聞いて行って、その灰をとって来ました。
「せめて灰でも持って行って山巡りでもしよう」と言って、山へ行きました。
ところが、大きな猪が五匹おりました。息子はこの猪を見て「お前はもとは達者な犬であったぞ」と言って灰をまくと、その灰がとんでいって猪の眼に入りました。猪は同士うちを始めて、そのうちの一匹がかみ殺されました。
息子はそれをかついで帰り、猪料理をしました。
「母さま、猪を食うのも今日かぎりですよ。たくさんおあがりなされ」
と言って、二人で食べていると、また東長者がやって来ました。
「骨もわしに焼かれたではないか。何の喜びごとだよ」と言いました。息子は
「その灰を持って山巡りをしてたら、猪が一匹とれたので、猪を食うのも今日かぎりだといって、母さまと二人で食べているところです。あなたもおあがりなされ」
と言いました。東長者はまた
「明日はその灰をわしに貸せよ。わしも猪をとって食おう」と言いました。
あくる日、東長者は灰をもって山に行きました。山へ行ったら、猪が四匹でて来ました。東長者は「お前はもと達者な犬であったぞ」と言って灰をまくと、猪はたいそう怒って、
「昨日、おれたちの仲間を食った奴だ」と言って、東長者をくい殺してしまいました。
参考文献
『日本昔話集成(全六巻)』 関敬吾著 角川書店 1950-
※隣の爺ではなく、貧しい若者と欲深な長者という対比になっている。兄弟葛藤型の【狗耕田】に近い。
※犬が爺を乗せて山へ運び、くわで掘ると宝が出るくだりは、本来は《耕作によって豊穣を得る》というものだったと思われる。「幸せ鳥パイパンハソン」でも、壺で川を流れてきて爺に拾われた子供たちが、荒地を開墾して耕すと宝が出る、というシーンがある。なにより、「花咲爺」と強い類縁性を持つ中国や朝鮮半島(韓半島)の【狗耕田】では、犬が牛馬の代わりに田畑を耕す。
なお、犬が変化して富をもたらす兄弟譚は、既に古代エジプトの話にあるのだそうだ。
竜宮の白犬 日本 香川県
爺が毎日木の株を海に棄てていると、ある日 竜宮に招かれ、白犬を土産にもらう。この犬に餌を与えると黄金になって出てくる。日に小豆三合米三合を食わせて金持ちになる。
隣の爺が犬を借りるが、欲張って小豆一升米一升食べさせて、食べ過ぎで犬は死ぬ。
爺がその死体を引きとって埋めるとたけのこが生える。その竹で糸車を作って廻すと金が出る。隣の爺が借りて壊し、それを持ち帰ると灰になる。その灰が草にかかると青々となり、枯れ木にかかると花が咲く。
殿様の前で花を咲かせて褒美をもらい、隣の爺も真似るが、花が咲かずに斬られる。
参考文献
『日本昔話集成(全六巻)』 関敬吾著 角川書店 1950-
参考--> 「ペナンペ・パナンペ」「竜宮の黒猫」「竜宮童子」[竜宮女房]
参考--> 【金の生る木】【狗耕田】「竹伐り爺」「鳥呑み爺」【瓜子姫】「桃太郎」