>>参考 [炭焼長者:再婚型][炭焼長者:父娘葛藤型][竈神の縁起][男女の福分

 

炭焼き小五郎  日本 大分県豊後大野市三重町

 継体天皇の御代、奈良の都に住む久我の大臣に、玉津姫という姫がいた。その絶世の美貌を知らぬ者はいなかったが、どういうわけか十歳の時に体や顔一面に黒いあざが現れ、醜い形相となり果てた。このため降るようにあった縁談も絶えて、家族共に嘆く日々だった。

 姫は大和の国の三輪の明神が縁結びの神と聞いて、藁にもすがる思いで毎夜参っては良縁の願を掛けていた。満願の九月二十一日、にわか雨に降られて社殿で雨宿りをし、うとうととまどろんでいたところ、錦の衣を着て七宝の冠をかぶった美麗な人が入ってきて、「汝の夫となる者、遠く山海を隔つ。これより西国、豊後ぶんごの国の三重郷、玉田の里の炭焼き小五郎という者なり。ものの分からぬ愚かな山男なり。しかれども、この者と嫁せば、富貴自在にして長者となるべし」と告げて、「善きかな、善きかな」と姫の頭から足まで小杉の葉で払い、「汝が行く末を守護するべし」と、それを姫の髪にさした。ハッと覚めれば夢である。しかし髪には確かに杉の葉がさしてあった。さては三輪の明神様だったのかと感謝して神前に伏し拝んだ。闇夜の中を家に帰って、お告げ通りにしようと一心に思っていた。

 十六歳になった翌年の新春二月、玉津姫は運命の夫を求めて豊後へ向かうこととなった。両親は旅の困難を思って泣いて止めたが、姫の決心は固く、ならばと金四十両を持たせ、十二人の侍女を伴わせて忍び出させた。ようやく豊後の三重郷の近くに辿り着き、間もなく運命の人に会えるのだと胸をときめかせて身づくろいをしたが、鏡に映った自分の顔は相変わらずの醜さである。姫は悲しくなって鏡を捨ててしまった。

 どんなに探しても炭焼き小五郎は見つからず、十二人の侍女たちは疲れ果てて自ら淵に沈み、姫は一人きりになったが、命のあらん限りはとなおも深く山に入って探し続けた。

 三月十三日、姫は三重郷の松原に入った。しかし誰に聞いても小五郎の居場所は分からず、途方にくれて松の木の根方に座り込み、三輪の明神に祈っていたところ、薪を負った白髪の老人が通りかかった。姫はこれ幸いと尋ねた。

「私は都の者ですが、この国の三重の山里に炭焼の小五郎と申す者がいると聞き及びます。ご存じありませぬか」

「なるほど、その者のことなら存じておる。ものも分からぬ愚かな山男だ。何故お尋ねかな」

「私は都の貴族ですが、ご覧の通りの醜い姿で、都には私の夫になってくれる者がおりません。これは女としてこの上ない屈辱です故、都を忍び出て野に伏し山に臥して、命の限りにここまで迷い来ました」

 姫がそう言って袖が濡れそぼるほど悲嘆すると、老人は宥めて言った。

「日も、もはや暮れております。今宵はこの翁の家に泊まりなされ。明日は小五郎に引き会わせましょう」

 東方の谷陰に小さな葎家むぐらや(みすぼらしい家)があり、老人はその柴戸を開いて中に招いた。中にはたいそう美しい座敷があり、部屋が幾つもあると見える。数十人の女たちが出てきて「これはご主人様、お帰りなさいませ。お客様がおありですか」と言う。これを聞いて奥から六十歳ほどの錦を着た老女が出てきて、姫に向かって「長旅でお疲れの様子。急いで食事を差し上げましょう」とてご馳走を整えて饗応した。女たちが今様を謡うなどして座を盛り上げた。

 主人である老女が姫に言うには、「私たちは鎮西の山中に生まれ、都のことは夢にも知りませぬが、今はさだめし、都も花盛りでございましょう。当地も花の盛りでございます」とて、「お客様に庭の花をお見せなさい」と命じると、侍女が立ち出でて南の方の門を一つ開いた。桃や桜が色を争い、見慣れぬ草花が咲き乱れ、庭の砂は金銀のようで、花の大きなことと言ったら蓮の花のようである。

 玉津姫は老女に尋ねた。「この家の主のお名前はなんと申されますか」

 老女は答えて言った。

「天竺においては舎衛国大満長者、百済国にては竹林山の麓の柴守長者、今ここにおいては、真名野長者と申す者です」

 姫はこれを聞いて、これは誰もが人生で望むことだと内心に思った。また、傍らを見れば金銀の山があった。

 その時、家の主人が立ち出でて、残らずご覧なさいと言って、北の門を開けば、数十の館が並んでいて、その美しさは言葉で言い表せるものではなかった。また主人が言うことには、「この間、異国から賓客がありまして、滞在していただいております。引き会わせましょう」とて東方に連れて行き、水晶の石段を上ると、上に金銀七宝の宮殿があり、戸には玉簾が掛かって、綾羅錦繍りょうらきんしゅう(綾織や錦織、薄絹や刺繍などのこと)の幕で飾られ、その中に四人の天女がいた。世に比類のないほど美しく、あらゆる宝玉で飾った冠をかぶって端然と座っていた。

 主人夫婦が立ち出でて言うことには、「私たちが死んでも、この方たちは一万歳の後まで死ぬことがありません」と。その時、姫は尋ねて、

「皆さまは美人のお姿。私はどんな前世の宿業で、この顔に生まれてこのような遠い国までさまよい来ているのでしょうか」と言えば、四人の天女は口をそろえて言った。

「日蝕の日に生まれて、地神の顔を汚したために、このような賤しき黒あざが出たのです。しかしこの庭の金亀きんきヶ淵(きんきら淵)の水にて洗いなさい。必ず黒あざが落ちるでしょう」

 玉津姫が淵に近寄って見ると、金の築山があって、水に住む魚までもみな、ことごとく金色である。姫が不思議に思って見ていたところに、俄かに大風が吹いて来て、庭の桃や桜の花がことごとく落ちて、玉簾も綾羅錦繍りょうらきんしゅうの幕も千切れ飛んで、花も残らず散り失せて、こんなにも広い宮殿と見えていたものが、みんな草むらとなった。明るんだ東の空に鳥の群れが来て鳴き声を交わしている。そこは、草刈り童の通う山道であった。

 老人は木の根を枕とし、ぐっすりと眠っていた。姫が老人を呼び起こすと、老人は目覚めて起き上がった。老人は姫を山の麓に連れて行った。見れば、葎家むぐらやに柴で編んだ戸が立て置いてある。老人は「ここでしばらく待ちなされ。やがて主人も帰るであろう」と言うと、忽然と消え失せてしまった。

 姫が呆然としていると、主人と思しき者が蕨根や芹を持ってやって来た。見れば、手足が墨のように黒く、頭髪は乱れて茨のよう。姫は恐ろしく思ったが近づいてくると立ち向かって、「お若い方、あなたは炭焼小五郎様ではございませぬか」と尋ねた。彼は答えた。

「仰せの炭焼き小五郎とは俺のことだが」

 彼は継体天皇三年(509年)に玉田の里に生まれ、幼名を藤次(藤治)といい、三歳で父に、七歳で母に死に別れて道で泣いていた。これを憐れんだ炭焼又五郎が引き取って育て、藤次が二十一歳の時に養父は八十一歳で亡くなり、跡目を継いで炭焼小五郎と名乗るようになったのである。

 姫は重ねて言った。

「私は都の者ですが、大和の国三輪大明神のお告げによって、ここまで導かれてまいりました。あなたと私が夫婦となって、偕老の契り(年老いるまで仲睦まじく暮らすこと)を結ぶべしと申すのです。この大明神のお告げのために、山海を隔てた遠国まで、はるばる訪ねて来たのです」

「お気持ちは嬉しいが、俺はこの葎家むぐらやにただ独り、草を敷いて肘を枕にして、朝も夕も暮らしかねている。何をしてやれるものか」

「それはご心配なさらずに。こちらに貯えがあります。持ってきましたのよ」

 姫は懐から黄金を取り出し、「これを里に持って行って、何でも買ってきてください」と渡すと、小五郎は黄金を受け取って出かけたが、やがて家に帰って来た。姫はこれを見て、「随分早かったですね。何を買ってきたのですか」と言えば、小五郎は笑って、

「この下に淵がある。沢山のオシドリが集まっていた。俺はこれを仕留めてお前にやろうと思って、さっきの石を投げたが、石は沈んでオシドリは逃げてしまった」と言った。姫は言った。

「あれは黄金といって、大事の宝です」

 ところが、小五郎はまた笑ってこう返した。

「さても可笑しな宝物だな。俺が今オシドリを打ったような石は、今の淵の周り、炭焼き窯の下までもに沢山あって迷惑しているぞ」

 姫はこれを聞いて大いに驚き、「ならば私も行って見ましょう」と夫婦そろって見に行けば、疑いもない黄金が淵から湧き出している。この不思議に見とれていると、水底から金色の亀が浮かび上がって来て、人の言葉で言った。

「天竺においては舎衛国江南淵の旧室婁というヒキガエルと化し、百済国においては竹林山の麓 万能淵の白蛇として現れ、この国では金亀と化してこの淵を住処とす。また、三国で守護した宝は残らず夫婦が受け取りたまえ」

 こう言い捨てると、たちまち金色のオシドリと化して、西を指して飛び去った。

 継体天皇の二十四年、三月十四日に夫婦となった。山王神の夢告げを少しも違えず、この淵の水にて身体を洗うべし、と姫が身体を洗ったところ、不思議なるかな、黒あざがたちまち落ちて容顔美麗になった。あなたも垢を落としなさいと姫が勧めたので、小五郎もそのまま飛び入って身体を洗えば、猿のごとき小五郎も、たちまち美男となった。

 姫は「ここの他にも淵はありますか」と尋ねた。小五郎は「なるほど、この里には三つの淵がある。残らず見せよう」とて揃って山に登って見れば、一つの淵がある。行ってみると俄かに水が渦巻いて、水底から一つの金釜が浮かび出た。この時、姫は小五郎の心を見ようと思って、「これはどういうものですか」と尋ねたところ、小五郎は答えて「これは金釜というものだ。我ら夫婦は今後、この釜で茶を飲もう。ありがたいことだ」と言って懐に抱え取り、この淵を釜ヶ淵と名付けた。もう一つの淵も見せようと言って、行って淵の周りを廻っていたところ、板で作ったが一つ浮いてきた。姫がまた尋ねた。「これは何と言うものですか」。小五郎は聞いて、「これは箕と言って、民百姓の宝だ。我ら夫婦、五穀を作ってこの箕でふるい分けろということだ。これはお前が持っていなさい」と姫に持たせ、自分は釜を抱えて夫婦の家に帰った。この淵を箕ヶ淵と名付けた。

 姫が小五郎に言った。

「あなたほど善悪も知らぬ愚か者は他にいませんでしたのに、俄かに智者となったのは不思議なことです」

 小五郎は答えて言った。

「それなら、お前ほど黒あざ面で見苦しかった女が、俄かに美女になったことが不思議だな」

 夫婦は一緒に笑った。

 それから黄金を取り集めようと、昼夜の別なく集めて、地面を掘って埋め、あるいは金亀ヶ淵に沈めた数は量り知れようもなかった。あるいは、三つの淵からは砂金が湧き出して、取れども取れども尽きることがなかったと言う。しかもお茶や五穀にも恵まれた。

 こうして二人は豊後の国に並びのない長者になった。噂を聞いて集った人々を雇って山谷を開墾し、田畑が広がり家が立ち並んだ。三年七ヶ月をかけて真名野まなの原に壮麗な御殿を建立し、抱える使用人は三千人になった。



 夫婦は長く子宝に恵まれなかったが、御殿の新築祝いをしていた八月十五日、俄かに天空鳴動し、月が庭の池に落下して、それが座敷に座っていた玉津姫の胸の中に飛び込んだ。姫はアッと気を失ったが、百済くだらの妙薬を飲ませるとようやく息を吹き返した。

 小五郎は心配し、重臣二人に命じて姫の病気平癒を祈願させた。二人が夜通しの祈祷をしながらうとうとしていたところ、白髪の老人が白絹の衣を着て鳩飾りのついた杖を持って現れ、「これは姫の懐妊で、めでたいことである」と告げた。姫の腹には月の精が宿ったのであり、容貌美麗な女児が生まれるであろうと。この報告を受けて長者夫婦はたいそう喜んだ。果たして、欽明天皇十年の五月八日、玉津姫は安産で女の子を産み落とした。

 ところが、この子は産まれてから三日過ぎても泣き声一つ立てない。姫は心配し、金亀ヶ淵の水を汲んで来させて飲ませたところ、途端に泣きだした。口の中を見ると三日月型の黒いあざがあった。これが月の精が宿る印であるという。産まれた時にその美しさによって部屋が光で満たされたので玉夜の姫(玉世姫/玉代姫/玉依姫)と名付けたが、後に般若姫と改めた。

 般若姫が生後十一ヶ月の時、百済から船頭・竜伯が来て、海から漁師が引き揚げたという一寸八分の黄金の千手観音像を姫の守り本尊として贈った。竜伯は姫が十一歳の時にも中国皇帝の使者を案内して訪れ、連れてきた画家兄弟に姫の肖像画を二枚描かせて、一枚は姫に贈り、もう一枚を中国皇帝のために持ち帰った。ところが翌年の春、再び竜伯が来て、皇帝は絵に恋い焦がれるあまり病気になり、ついに崩御されてしまったと告げ、皇帝から姫への形見の品々を渡した。

 このようにして般若姫の美しさは世に響き渡り、時の欽明天皇の耳にも入った。第四の宮・橘の豊日とよひの皇子は十六歳になっていたが、まだ妃がなかったので、天皇は長者に使者を送ったが、長者は眼の中に入れても痛くない愛娘を手放したがらない。仕方なく、使者は中国の画家の描いた姫の肖像画だけを持って都に帰った。

 天皇は絵を見て美しさに感心し、勅命に背くとはけしからんと怒って、「白胡麻千石、黒胡麻千石、油千石、罌粟千石をすぐに献上せよ。出来なくば姫を差し上げよ」と使者を送った。小五郎はこれらの品を直ちに揃えて献上した。天皇はますます怒り、「虎の皮千枚、豹の皮千枚、ラッコの皮千枚をすぐに献上せよ。出来なくば姫を差し上げよ」と使者を送った。小五郎はこれも揃えて納めてきた。天皇はますます憤り、我が国にないものを納めさせる難題を出してやれと部下に命じた。「白布千枚、黒布千枚、錦千反、唐綾千巻、珊瑚玉五百粒、瑠璃玉五百粒を献上せよ」との難題が出された。小五郎はこれも差し出したが、長者の家来たちはいきり立ち、武力での反抗も辞さない勢いになった。それを伝え聞いた天皇は恐れをなし、謝罪して小五郎に《真名野まなの長者》の称号を与えた。

 しかし豊日の皇子は肖像画を見てからというもの、恋い焦がれて般若姫を諦めきれない。密かに都を出ると豊後の国に入り、身分を隠して修道者の姿となり、山路サンロと名乗った。漁師たちが網を広げているところで出会った老婆に長者の屋敷への案内を頼んだところ、一晩泊めてくれ翌朝早く連れて行ってくれたが、彼女は三輪明神の化身であって、日が完全に昇るとそれを告げて姿がかき消えた。

 三路は長者の牛飼い(草刈り童)となった。彼が草を刈って与えればどんな荒牛も大人しくなり、彼が牛に乗って高天原たかまがはら由来の神笛《葉竹の笛》、今は三重の里の草刈り笛と呼ばれるようになったそれを奏でれば、誰もがその気高さに心打たれた。

 一方、都では姿を消した皇子を求めて占いをしたところ、宇佐神宮の放生会ほうじょうえを真名野長者に執行させれば見つかると出た。長者は引き受けたが、祭りに必要な流鏑馬やぶさめの正しい作法を知る者が誰もいなかった。すると、数百匹の猿が屋根の上で踊る、般若姫が山王の嶽から火の玉が出たと言って気を失う、初祢(初音?)、山吹(山藤?)、小菊という姫の三人の侍女が気が違ったようになって跳び回ると言った怪異が起こった。狂った侍女たちは「これみな地神の祟りなり。三重の松原で流鏑馬の矢を射て、地神を鎮めれば平癒なるべし」と口走る。長者は困り果て、正しく流鏑馬を行える者がいたら般若姫の婿に迎える、とのお触れを出した。

 三路が名乗り出た。彼が流鏑馬を始めると、南方から白い鳶が一羽、北方から白鳩と山鳩が一羽ずつ飛んできて仮神殿の屋根にとまり、矢を全て放ち終えると飛び去った。こうして流鏑馬を成功させた三路は般若姫の婿に迎えられた。

 一方、流鏑馬を成功させた三路の存在は行商人の口伝えで都にも知られることとなった。立ち現れた宇佐の神に「都から迎えが来るであろう」と告げられ、帰還せねばならないことを悟った皇子は、長者と妻に身分を明かした。それでも離れがたく、迎えが来てから二ヶ月出発を延ばしたのだが、もうどうしようもない。般若姫は既に身ごもっていて長旅は難しかったので、「産まれた子が男なら都に連れて上洛せよ。女なら長者の後継ぎとして残し、姫一人で都に上洛せよ」と言い残して、六月下旬、涙ながらに別れて都に帰った。このとき、皇子は十九歳、般若姫は十七歳であった。十一月八日に般若姫は女の子を産み落とし、玉絵姫(玉代姫)と名付けた。

 二年後の春、般若姫は千人以上の家人を引き連れ、船で臼杵うすきの港を都に向かって出発した。ところが鳴門の瀬戸に差し掛かった時に暴風が起こり、連れていた家人の殆どが死んでしまった。姫は嘆き悲しみ、「こんなことになってまで后になりたいとは思わない」と言って船やぐらから海に身を投げた。それを見た初音、小菊、山藤の三人の侍女も後を追った。四人は救い出されたものの、そのまま衰弱して欽明天皇二十八年(567年)四月十三日、般若姫は十九歳で命を落とした。

 

 数年後には内裏から伊利の大臣の三男、当年十三歳の金政公を玉絵姫の婿として迎え、長者の家の安寧は約束された。

 また、長者は般若姫の供養のために臼杵市深田の里に満月寺を創建し、岩壁に石仏を彫らせた。岩は固く、しかも彫ると岩の奥から男女の泣き声が響いたり血が流れたりといった怪異が起こったが、東方から現れた異人が妙術で工事を助けた。これが臼杵の石仏群の始まりである。

 長者は推古天皇十三年(605年)に九十七才で、玉津姫は同十年(602年)に九十一才で世を去った。

 

 長者の後裔と称する草刈家には、俵のまま焼けた炭(花炭)二俵と鉈が家伝として伝えられ、年に一度、先祖祀りの際に陳列されていた。(『豊後伝説集』によれば、姫が花のついた枝を小五郎に焼かせたところ、そのまま炭になったとのこと。)



参考文献
『大分の伝説』 大分県小学校教育研究会国語部会編 株式会社日本標準 1978.
『日本伝説大系』第十三巻 山中耕作/宮地武彦著、荒木博之編 株式会社みずうみ書房 1987.
「炭焼小五郎」の伝説の金山は別府にあった:真名野長者伝説」/『趣味の科学』(Web) 角田 彰男著

※[炭焼長者]と呼ばれるパターン。運命の夫の職業が炭焼きである。

 上記の伝説では炭焼き小五郎の養父を炭焼き又五郎とするが、福岡県朝倉郡には以下のような歌が伝わっていたという。(『日本伝説大系』第十三巻 株式会社みずうみ書房 1987.)

これは京都の大納言。くにの娘に玉代というて。ぢたい玉代は不器量な生まれ。広い都に添うつまがない。
からみやす明神に。七日七夜の断食籠り。七日七夜のあたえし晩に。枕上にて御告げがござる。
われが添うつま 九州豊後。豊後峯内炭焼又五。藁で髪結うた小丈な男。
そこで玉代が有り難がりて。うちに帰りて金子きんすをとりて。小判五十枚肌にと付けて。あすは日も良し旅立ちせんと。九州豊後と急いで下る。
急ぎゃ程なく九州豊後。柴の戸口を覗いてみれば。藁で髪結うた小丈な男。
又五さんとはお前のことか。わたしゃお前の妻にてあるぞ。
妻に取ること いと易けれど。貧な暮らしをさてするからは。米が無いから味噌まで無いが。
米が無いなら米買うて来やれ。小判一枚 又五に渡す。又五受け取り米買いにゆく。
段々行く行くゆくのが原に。ゆくの原には大池小池。池についたるオシドリ一羽。
あれを玉代に土産にせんと。オシを見かけに小判を投げる。オシは舞い立つ小判は沈む。先に行かれぬ後にぞ帰る。うちに帰りて玉代に語る。
段々行く行くゆくのが原に。ゆくの原にて大池小池。池についたるオシドリ一羽。オシを見かけに小判を投げる。オシは舞い立つ小判は沈む。
又五さんとも言われる人が。あんな宝を知らいですむか。
あんな小石が宝であらば。私が峯内炭焼く山は。東お山が赤銅あがねの山。西のお山は黒鉄くろがねの山。南お山が白銀しろがねの山。北のお山が小判の山よ。
四方よも山をば取り寄せまして、マノの長者と仰がれまする。

 高知県中村市(旧 幡多郡)に地元の常盤神社の縁起として伝えられていた【炭焼長者】譚では、長者になる男は《炭焼き又十郎》、京都の富家から押しかけて来た妻は《お藤》となっている。又十郎は山の香ノ木(しきみ)を炭にしていたが、その棄灰スパイが全て黄金になっていた。そこで夫婦で炭を焼いては黄金を作り、炭俵に詰め炭を装ってお藤の実家に送り続けて両親を驚かせた。大金持ちになった又十郎夫婦は、やがて京都に移り住んで鴻ノ池家を名乗ったと言う。棄灰が黄金に変わったのは、香ノ木を三年間 炭にし続けたので、その煙が天の倉を突き破り、黄金を降らせたからだとする。又十郎の炭焼き窯の跡地に建てられたのが常盤神社で、《炭の倉さま》と呼ばれ、旧暦二月の初卯の祭日に、境内や祠の後ろの岩穴辺りから木炭の切れ端を拾い、持ち帰って神棚に祀っておくと福があると言い伝えていたとのこと。(『土佐の伝説』 桂井和雄著 1954.//「炭焼又十郎の話」/『四国の山なみ』(Web))

 お藤の実家に炭俵に詰めた黄金を送ったという点は、朝鮮の「薯童伝説」にて、掘り出した黄金を善化王女の父の宮殿に一夜で届けたというエピソード、そして中国の類似伝承で、妻の実家まで金銀の橋を架けて父に認めさせるというエピソードと対応しているように思われる。

 

 炭焼き小五郎こと真野(真名野)長者の伝説は、福岡県や熊本県、宮崎県でも語られているが、熊本県にはよく似た、米原長者伝説、疋野長者伝説も伝承されている。

米原よなばる長者  日本 熊本県菊池市

 都のある公卿に美しい娘がおり、清水寺の観音を信仰していた。ある時、夢に観音が現れて「汝の夫は肥後の国菊池郡四丁分のこも編み小三郎なり」と告げたので、娘は下女十数人を連れて、肥後にまでその男を訪ねてきた。

 探し当てた小三郎は、「俺はこもを編んで隈府の市で売ってその日の食べ物を得る貧しい暮らしだから、嫁など養えない」と断った。そこで娘は金二両を渡したが、小三郎は買い物に行く途中で川の鷺(または鴨)を取ろうとして投げつけ、金を失ってしまった。

 娘がそれを聞いて呆れ嘆くと、こんなものは家(または、裏山の炭焼き窯の横)に沢山あると言う。夫婦で行って掘ってみると沢山黄金が出たので、大金持ちになった。大きな家を建てて村中の田畑を買い取ったが、それが四丁分の長者屋敷である。その後岩本村に移った。その居住したところを屋敷の谷と言う。その次に米原よなばるに移り住み、大きな屋敷を構えて米原長者と呼ばれた。

 一説に、米原長者は一日で膨大な田植えを終わらせようとしたが間に合わず、扇であおいだが沈む太陽が戻らないので、日の岡山に火を放ち、その明かりで田植えを済ませた。ところが祝宴をしていたところ、燃え続ける日の岡山から火の粉が飛んできて、米原長者の家屋敷はみんな燃えてしまったのだと言う。それ以来、日の岡山は禿げ山のままである。翌日からは大雨になってせっかく植えた田も流れ果て、長者の栄華は終わった。

 今でも米原を掘ると炭化した米が出ると言い、これは米原長者の倉の米が焼けて出来たものだと言われる。あるいは、団子土という外が赤で中が黒い砂石が出るが、これは使用人たちが食べ残した団子を捨てたものが石になったとのだと言う。屋敷の礎石や畳石が出るとも言う。また、この辺りに米原長者が宝を埋めた塚があるとも言われる。


参考文献
『日本伝説大系』第十四巻 荒木博之/有馬英子/堂満幸子著、荒木博之編 株式会社みずうみ書房 1983.

※米原長者の名を《孫三郎》とする伝承も多い。職業は薦編みか炭焼きが主流だが、他にも、藍を造っている孫三郎、穂掛け孫六(極貧のあまり、他人の田んぼの落ち穂を拾って自宅に掛け干しして食べていたため。炭焼きでもあり、その炭焼き窯の横に黄金があった)、たにしの清六(極貧のあまり、山麓の洞穴に住んで田螺を食べ、ドジョウを町に売りに行って暮らしていたため。熊本から神託に従って来た押しかけ女房から小判を五枚もらうが、蛇を苛めていた子供たちに、蛇を助ける条件で、言われるまま全て与えてしまう。しかし住んでいた洞穴の奥に黄金が沢山あった)などがある。

疋野長者  日本 熊本県玉名市

 京都の姫君が、夢で観音のお告げを聞いた。

「筑紫肥後の国、玉杵名の立願寺村疋野の里の炭焼きの若者(一説に、小五郎)に嫁ぐべし」

 姫は侍女十二人と侍四人を引き連れて九州に下り、若者を訪ねた。若者は炭薦を編んでおり、いかにも貧しい様子である。姫が訳を話して妻にしてくれと頼むと、「米もない貧乏暮らしだから」と断ったが、姫は金を出して、米を買ってくるように頼んだ。ところが若者は買い物に行く途中で沼のほとりに白鷺を見つけて、金を投げつけた。白鷺は脚を傷つけられたが、湯気の立つ田んぼ(または、谷)でしばらく休むと元気になって飛び去った。そこに行ってみると温泉が湧いていた。これが立願寺温泉の始まりで、白鷺温泉、疋野温泉とも言う。(現在の玉名温泉)

 また、姫は若者の家の庭の踏み石に至るまで、みんな金の鉱石で出来ていることに気付いた。聞けば、山にはいくらでもあると言う。

 姫は若者と夫婦になり、金を都に献上して官名を下賜され、疋野(石野)長者と呼ばれるようになった。

 しかし後に、この辺りを支配していた菊池家に妬まれ、焼き打ちされて長者一門は滅ぼされた。長者は「朝日射す夕日輝く木の下に油千石米(朱)千石、金千無量」と言い遺したそうだ。

 熊本県玉名市の疋野神社は、疋野長者の屋敷跡に建つと言われる。


参考文献
『日本伝説大系』第十四巻 荒木博之/有馬英子/堂満幸子著、荒木博之編 株式会社みずうみ書房 1983.


参考 --> 「竜宮の宝

 

「炭焼き小五郎」の伝説がいつ頃から伝わっているのかは定かではないが、真名野長者という名前自体は、室町時代に書き記された幸若舞こうわかまい・『烏帽子折』の中に、「つくし豊後の国内山といふ所に長者一人有」「まのどのとこそ申けれ」とある。

【炭焼長者】タイプの伝承は北海道を除く日本各地にあるが、小五郎が真名野長者に結び付けられ、石川県の「芋掘り籐五郎」が藤原吉信の子孫とされて墓まで残されているように、伝説化されていることは少なくない。中国でも、[イ同]トン族の「楊梅樹」のような例がある。

炭焼き藤太  日本 宮城県刈田郡蔵王町遠刈田温泉

 鳥羽天皇の御代のこと。京の東に住む三条盛実に豊丸姫という娘がいた。長く子宝に恵まれず、北野天満宮に願を掛けて授かった子で、たいそう可愛がっていたが、五つの時に疱瘡にかかり、醜い顔になってしまった。年頃になっても縁談が決まらずに気をもんでいたところ、姫の夢枕に北野天満宮の祭神が立ち、「姫の夫となる者は、奥州信夫郡平田村の炭焼き藤太である」と告げた。

 姫は両親の許しを得、おまん姫と名を改め、乳母のりんと共に旅立った。平田村の奥の山の麓の小屋まで炭焼き藤太を訪ねて夫婦となった。

 貧しい藤太はその日の食べ物にも困る。姫が黄金を渡して食べ物を買ってくるように言うと、(藤太は途中でそれを池にいた鴨に投げつけて失ってしまった。姫が悲しむと、)「こんなものなら俺の炭窯に沢山ある」と言う。姫が行ってみると炭の窯の中(または周囲)に黄金がピカピカと光っていた。

 姫はこの岩崎山に金脈があると悟り、藤太と共に採掘を始めた。また、土地の人々を教導して、農業や製炭事業を盛んにした。

 夫婦の間には長男の橘次信高(吉次)、次男の橘内信氏(吉内)、三男の橘六信元(吉六)が生まれた。長男は岩崎山産金の粗金を商う豪商となり、奥州藤原氏とも取引を行って、金売り吉次と呼ばれた。彼は源義経を京都から平泉の藤原秀衡のもとに案内し、後に堀 景光(弥太郎)と名乗って義経の家臣になったという説もある。

 岩崎山金山は今の篭山で、籐太の採掘跡から湧いた霊泉が遠刈田温泉の始まりとも言われる。

 ほぼ同内容の物語が山形県宝沢村の地名由来伝説として伝わっており、藤太夫婦が岩窟に唐松観音を創建したとする。


参考文献
炭焼藤太」/『蔵王 遠刈田温泉神の湯』(Web)
唐松観音・蔵王大権現」/『山形歴史紀行』(Web) 錦 新吾著

炭焼き吉次  日本 長野県上伊那郡中川村大草

 昔、大阪のこうの池という、お金を造るところがあって、そこに一人娘があったが、どういうわけか熱病にかかって、医者に診てもらっても思わしくなかった。そこで八卦を見る人に見てもらうと、「信州の園原とゆう所に、炭焼き吉次という者がおる。これと夫婦になれば、必ず病気がよくなる」と見立てた。それならば一緒になりますと誓ったところ、娘はたちまち快癒した。

 そういうわけで、娘は旅支度をして、大阪からはるばる訪ねて来て、恵那の方から神坂峠を越えて来た。あまりに長く旅をしたので髪がぼうぼうで、小さな溜まり池を見つけて、それを水鏡にして身じまいをした。それから尋ね歩いて行けば、炭焼き吉次は山の中で真っ黒い顔をして炭を焼いていた。

 吉次は訪ねてきた娘を見て「なんて奇麗な娘さんか」と驚き、娘が身の上を話して嫁にしてほしいと頼むとますます驚いた。何かに化かされたかと思ったが娘が熱心に頼むので承知して、夫婦になった。

 それからしばらく暮らしていて、米がなくなった。娘は小判を出して、「これで買ってきてください」と渡した。吉次はそれを持って川端を下流に下って行ったが、川淵で鶴がつがいで遊んでいるのを見つけた。(語り手が言うには、この辺りには鶴はいないから、オシドリだという説もあるとのこと。)ともあれ、吉次はそれに小判をぶつけて、家に帰ってきてしまった。

 話を聞いた娘が「あれは小判という尊いお金だよ」と呆れると、吉次は、俺が炭を窯で焼いたときに一番いい出来のものを一本ずつ、南無住吉様と唱えて供えているが、それがああいう金にみんななっている。そんな尊いものではないと言った。

 夫婦で行ってみるとその通り、神に供えた炭がみんな黄金になっている。それを持って鴻の池に移り住んだ。だから鴻の池には《炭の倉》という立派な倉がある。


参考文献
いまに語りつぐ日本民話集 動物昔話・本格昔話10 [大歳の客/長者] 長者になる秘訣』 野村純一/松谷みよ子監修 作品社 2001.

※吉次という名は、黄金を商う伝説の商人《金売り吉次》に関わると思われる。

楊梅樹の話  中国 [イ同]トン

 越の国王が三人の娘に「どんな婿が欲しいか」と訊ねると、長女は大臣、次女は将軍と答えたが、末娘は「五穀を作る人」と言った。

 国王に勘当された末娘は、日頃可愛がっていた白馬に乗り、「私の住むべき家に連れていって」と声をかけると、馬はコックリ領いて山路を進んで行って、見るからに粗末な小屋の前で停まった。末娘はそこに住む荒地を拓いて暮らす男と、近くの楊梅樹を三拝して夫婦の契りをした。楊梅樹は「2人は天意に叶った夫婦だ」と祝福し、そのとおり幸せに暮らした。

 この夫は、実はこの地方の農民一揆の指導者であった楊四郎の世を忍ぶ姿であったという。


参考文献
『楚風』1984年第三期 路泉/呉登艶記録
炭焼き長者の話 搬運神」 伊藤清司著/『比較民俗研究 21号』 2007


参考 --> 「三姑娘

住友家の起こり  日本 徳島県板野郡上板町

 昔、上板町かみいたちょうの大山の峰の麓に一本の大きな松があり、その辺りに糠が丸という長者の家があった。この家はたいそう羽振りが良く、月の初めと真ん中と終わりの日には、必ず小豆入りのお粥を四、五升は炊いて、屋敷の隅の神様に供える習わしだった。誰もそうするいわれを知らなかったが、供えた晩の夜中には雨が降るような音が聞こえ、朝には小豆粥はなくなっているのである。

 あるとき長者の娘が婿養子をもらった。この婿養子が大のケチん坊で、お粥の話を聞くと「勿体ない事をする」と言って、お供えすることをやめさせてしまい、他の者の言うことになど聞く耳を持たなかった。

 ところが、お粥のお供えをやめてしばらくすると、婿養子はぽっくり死んでしまった。それどころか家の者が次々死んでしまい、娘一人だけが残った。それから長者の家はつるべ落としに貧乏になってしまった。

 ある日のこと、娘が縁先でウトウトしていると、白ネズミが枕元に現れて、「奥さん奥さん、伊予の山奥で炭焼きをしよる友蔵ともぞうちゅうもんを頼っていきなはれ。ええことあるでよ」と言った。白ネズミは神の使いだからと、娘はさっそく伊予へ向けて旅立った。

 何日も歩いて、やっと友蔵を訪ね当てたところ、髪ぼうぼうの乞食のような風貌であった。娘は白ネズミのお告げを話して友蔵の嫁にしてもらった。

 友蔵は「わい貧乏じゃけん、お前に食わすもんがない」と気の毒そうな顔をする。嫁は「ほんな心配いらんでよ。これで欲しいもんを買うてつかい」と言って小判を差し出した。すると友蔵が「こんなもんで物が買えるんか。こんなんなら、なんぼでもあるわ」と言って、嫁を炭焼き窯のある所へ連れていった。

 なんと、山肌という山肌が金に光っているではないか。それから友蔵は大金持ちになった。これが住友の先祖だという話。


参考文献
阿波の民話 住友家の起こり」/『徳島新聞社』(Web) 湯浅良幸再話

焼きの 蔵だから スミトモか。友蔵心の俳句。 


参考 --> [炭焼長者:再婚型]「男女の福分

佐渡の金山の起こり  日本 兵庫県城崎郡三椒村

 出雲大社の神主の娘が、いつまで経っても縁組がなくて困っていた。そんなある年の神無月の夜のこと。例年通りに諸国の神様が集まって、あちらこちらの娘の縁組を決めているのを、神主の娘は本殿の下で聞いていた。それによれば、自分は佐渡の炭焼きの嫁になるということだった。

 不服には思ったものの、神様の仰せだから仕方ないと嫁入りの支度をして、多くの供人と沢山の小判を持って佐渡に渡り、婿になる定めの炭焼きを探し出して訪ねて行った。そうして「出雲の神様がみあわされたので嫁にしてくれ」と言ったが、炭焼きは「自分では身分が釣り合わぬ」と断る。けれど娘が熱心に口説いたので、とうとう折れて嫁にすることになった。

 炭焼きの家には今日食べる米もない。そこで娘は小判を一枚出して、「これさえ持って行ったら米をくれる」と炭焼きに渡した。すると炭焼きは「こんな物なら、この山の奥の炭を焼いとる所から、いくらでもどろけて出る。こんな物がそんなに値打ちのするものか」と不思議がった。

 その後、夫婦は沢山の金を山から掘り出して長者となった。これが佐渡の金山の起こりである。


参考文献
いまに語りつぐ日本民話集 動物昔話・本格昔話10 [大歳の客/長者] 長者になる秘訣』 野村純一/松谷みよ子監修 作品社 2001.

 

 この類話は韓国や中国に多くある。

 イギリスにも近いものを見出すことができる。フィアナ神話に含まれる「常若の国へ行ったオシアン」の異伝がそうだ。

 妖精の姫ニァヴは美しい娘だったが、娘婿が自分の玉座を奪うという予言を知った父王が彼女を醜い豚の顔に変えてしまった。しかし、その呪いは人間の騎士オシアンと結婚すれば解かれることになっていた。豚の顔のニァヴははるばる常若の国から訪ねて来て、オシアンが結婚を承知すると元の美しい姿に戻ったという。(『ケルトの神話 女神と英雄と妖精と』 井村君江著 ちくま文庫 1990.)

 醜い姫が運命の結婚相手を求めて訪ねてきて、結婚が成就すると美しい姿に戻る点は、「炭焼き小五郎」の前半部によく似ている。また、姫を醜い姿に変えたのが彼女の父親である点は、中国や朝鮮地域に多く見られる[炭焼長者:父娘葛藤型]を思わせる。それらの話では父の迫害で家を出された娘は牛などに乗って運命の夫のもとへ旅することが多いが、別伝では、オシアンを訪ねたニァヴは白馬に乗っていた。

 

 後半、般若姫の物語は【絵姿女房】のモチーフと[竜宮女房]のモチーフ、そして[灰坊]のモチーフが混ざっている。異伝によれば豊日の皇子が豊後へ行ったのは、兄との権力争いに負け、迫害されていたからで、継子苛めによって逃げた灰坊と重ねる見方もできる。



芋掘り藤五郎  日本 石川県金沢市

 昔、加賀の国石川郡山科の里に、藤五郎という男が住んでいた。加賀の介 藤原吉信公の子孫だと言うが、山芋を掘っては売る貧しいその日暮らしをしていた。

 ある日のこと、大和の国初瀬(長谷)の長者、生玉いくたま方信ほうしん夫妻が、一人娘の和子わご(和五)を連れて訪ねてきた。なんでも、和子は子宝に恵まれなかった方信夫妻が長谷寺の初瀬観音に祈願して授かった観音の申し子で、観音の夢告げがあったから、藤五郎と夫婦にならねばならないと言う。そして娘を押し付けて帰っていった。和子は財宝を沢山持参してきたが、藤五郎はそれをみな周りに配ってしまった。

 二人が夫婦になった後のある日、方信が砂金一袋(黄金)を贈ってきた。藤五郎はそれを持って買い物に出かけたが、途中で田を荒らす雁を見つけて砂金の袋を投げつけ、手ぶらで戻ってきた。それを知った和子が「あれは貴い黄金というものなのに」と呆れ嘆くと、藤五郎は「こんなものが尊いと言うなら、いつも掘る芋の根にいくらでも付いてくるから来てみろ」と言う。行ってみると本当に砂金だらけであったので、和子の喜んだことと言ったらなかった。こうして籐五郎夫婦は長者となった。

 枯れてしまって今は無いが、籐五郎が山芋を掘るとき鍬を掛けた松を鍬掛けの松と言う。また、砂金混じりの土の付いた芋を洗った沢を金洗いの沢と呼んだ。今の兼六公園の泉はその跡で、金沢の地名もここから起こったものである。



参考文献
正説・芋掘り籐五郎」/『金城霊澤の秘密 〜芋掘り藤五郎をめぐる歴史ロマンへの旅〜』(Web) 美多 幸夫著
いまに語りつぐ日本民話集 動物昔話・本格昔話10 [大歳の客/長者] 長者になる秘訣』 野村純一/松谷みよ子監修 作品社 2001.

※[芋掘長者]と呼ばれるパターン。運命の夫の職業が山芋掘り。百済の武王の「薯童伝説」でも有名。

 芋掘長者系の財宝発見は、山芋を掘った土に砂金が混じっているもの、山芋や蕪を掘った穴から酒が湧くものなど、《植物を抜いた跡の穴から宝が出る》というものが多い。単に山芋を探して地面を掘ると黄金が出た、と語られることもある。

 

 金沢の地名由来伝説として知られた話で、『越登賀三州志』等に記述がある。金洗い沢には今も金城霊沢の碑が建っている。また、金沢市の伏見寺の重要文化財の金銅阿弥陀如来は、籐五郎が掘った金を自ら鋳造して作ったものだと言われ、同寺には籐五郎の墓まである。

 異伝には、籐五郎が地中から一寸八分の黄金の薬師如来像を掘り当てて奉納したというものもある。思えば「炭焼き小五郎」の般若姫の守り本尊は、海から漁師の網で引き揚げられた一寸八分の黄金の千手観音像だった。とはいえ、これは日本の伝説ではよく見るモチーフで、例えば道成寺縁起の髪長姫伝説でも、海女である姫の母が妖しく輝く海底に潜り、己の髪に絡んで引き揚げられた一寸八分の黄金仏を姫の守護仏にしたとある。ちなみに、漁師が宝(女神、神童)を引き揚げるというモチーフも、世界中の伝承で見られるものである。

 

芋掘り藤兵衛  日本 岐阜県

 昔、丹生川村に芋掘り藤兵衛というハンサムな乞食がいた。山に小屋を建てて、毎日 山芋を掘ってはそれを売ってその日暮らしをしていた。

 ある日、芋を掘ろうとすると土の中からかめが一つ出てきた。その中には小判がぎっしり入っていた。翌日にもまた甕が一つ出てきて、やっばり小判が詰まっていた。七日のうちに七つの甕を掘り出したが、乞食の藤兵衛は小判など一度も見たことがなく、価値をまるで知らずに暮らしていた。

 さて、船津町に大きな店があって、一人娘があった。ところが、この娘は何度婿を取っても七日もすると離婚されてしまう。どんなに大事にしてもだめなので、両親も心配し、易者に見てもらった。すると易者が言った。

「この家の婿になる人は、丹生川村の山の中の小屋に住んでおる。このハンサムな男を婿にすれば、必ず金持ちになるであろう」

 それを聞くと娘は喜んで、さっそく支度をして出かけて行った。言われた場所に行くと本当にハンサムな乞食がいたので、娘は「私を嫁にしてください」と頼んだ。

 藤兵衛は驚いて言った。

「なんと、不思議なこともあるものだ。オレみたいな乞食が、あんたみたいな綺麗な人と夫婦になれるものか」

「いいえ、これは定められたこと。私は船津町の大店の娘ですが、何度婿を取っても七日も続かず、出て行かれてしまいます。どんなに大事にしても無駄でした。何の悪縁によるものだろうかと易者に見てもらったところ、丹生川村の山の中の小屋に住んでいる男こそが婿になる定めだと告げられました。言われたとおりにあなたがここにいるのが何よりの証拠。どうか私を受け入れてください。私はあなたと夫婦になる定めを信じてここまで来たのですから」

「そこまで言うのなら仕方がないが……オレのところには布団も食べ物もないよ。それでもいいのかい?」

 藤兵衛はそう言ったが、娘は藤兵衛の掘り出した小判を見つけて「これで買ってきてください」と町へ送り出した。

 藤兵衛は町へ向かって出かけていったが、本当にこんなもので品物が買えるのか、どうにも信じることが出来ない。途中で小判を池に投げ込むと、亀が小判を吸い込んでしまった。

 けれども、小判はまだまだ沢山あったので、布団やらお米やらを買いそろえて、山小屋で夫婦仲良く暮らすことが出来た。

 その後、藤兵衛が芋掘りに行くと、今度は千両箱を掘り当てた。それで夫婦は千両箱と甕七つを持って船津町の家に帰って、千万長者になって幸せに暮らしたということだ。


参考文献
『日本昔話集成(全六巻)』 関敬吾著 角川書店 1950-

※厳密には、この妻は初婚ではないのだが、話の構造的に[初婚型]。何度婿を取り替えても上手くいかないというくだりは、「死人の借金を払った男」のような、初夜に花婿を殺してしまう花嫁のモチーフを思い出さされる。



参考 --> 「薯童伝説」「三公本解



運命の結婚   中国

 老夫婦に娘があり、瞳は泉のように澄み肌は白く、牡丹の花よりも美しかった。おかげで仲人がひっきりなしに来て、門の敷居が踏みならされて平らになるほどであった。

 老夫婦も「娘三六 十八歳、結婚させる時が来た」と話していたが、やがて仲人が双方を往来して、王という誠実な若者との婚約が決まった。両親はこの縁を喜び、娘はせっせと嫁入り支度を行った。

 ところがある晩、灯火の下で縫い物をしていた娘は、誤って髪に灯火を燃え移らせてしまい、頭髪がすっかり焼けただれ、頭にぽつぽつと黄色い水泡ができ、痒くなって掻くと手にも水泡が移ってしまった。婿の実家は娘の姿が醜く変わったのを見ると婚約を取り消した。

 娘は嘆き悲しみ、運を天に任せてでも夫を探す旅に出ることにした。老いた両親はそんな娘を止められず、金の鉢と銀の手袋を整え、馬を用意して娘を旅出たせた。娘は金の鉢をかぶり銀の手袋をして、馬の行くままに旅を続けた。

 三日目の昼、馬は突然、高粱の茎がらで囲まれた小さな茅葺きの家の前で止まり、そのままどうしても動かなくなった。娘はここが運命の場所かもしれないと思い、その家を訪ねた。見れば、白髪の老婆が縫い物をしている。「お婆さん」と丁寧に声をかけると、老婆は家の中に入れてくれた。娘は尋ねた。

「お婆さん、ご家族は」

「私と息子で暮らしています」 

「息子さんはどちらへ行ったのですか」

「息子は地主の作男ですから」

 娘は言った。

「私は、夫となる人を探しに来たのです。これは天の定めた運ですわ。私を息子さんの妻にしてください」

 老婆はびっくりして「家は貧乏で、息子は妻を娶ることができないのです」と言ったが、内心では(嫁が自分から訪ねて来るなんて、これは御先祖さまの徳のおかげだ。息子に天の定めた嫁がいたとは大変な吉事だ)と喜んでいた。

 ちょうどその時、息子が仕事を終えて帰って来た。家の中で話し声がするので覗いてみると、金の鉢をかぶった綺麗な娘が静かに話している。息子は思わず、「こんな娘が俺の妻だったらいいなあ」と呟いてしまった。その声を聞いて老婆が気づき、戸を開けると、息子は顔を赤くして逃げ出そうとした。

「息子や、行かないでいいよ、入っておいで。お前がいつも私に孝行してくれるから、天がお前にいいお嫁さんを寄越してくれたんだよ」

 老婆は息子の手をひいて家の中に入らせた。娘は立ち上がって若者を見た。中肉中背、濃い眉、大きな目、たくましい体格である。娘は頭を下げて言った。

「私は馬に運命を任せて夫を求めて来ました。するとあなたの家の前で馬が止まりました。これは運命です」

 息子は慌てながら、それでもうっとりして

「あなた、私は家も畑もありません。この茅葺きの小屋だって地主のものです。あなたそれでも……」

と言うと、娘は若者の言葉に逆らうように、

「私たちが一生懸命働けば、きっと幸せな日々が送れます」ときっぱり言った。老婆が二人に言った。

「あんたたち二人は天がめあわせた夫婦、前世からの因縁だ。私が花嫁衣裳を作るから結婚しておくれ」

 

 数日後に、二人の婚礼が簡単に行われた。初夜の二人は互いに愛を誓い、息子が妻の被っていた金の鉢を取った。すると黒く豊かな髪が流れ落ち、手にはめた銀の手袋を脱がすと白い滑らかな肌の手が現れ、火傷をする前よりもいっそう美しくなった。

 夫婦は金の鉢と銀の手袋を売って、自分の家と畑を買うことが出来た。こうして若い夫婦と老母は一緒に幸福な日を送った。



参考文献
「騎馬招夫」/『姜淑珍故事選』
運命の結婚」/『ことばとかたちの部屋』(Web) 寺内重夫編訳

※醜くなってしまった姫が神秘的な縁に導かれて貧しい男と結婚する、というくだりは「炭焼き小五郎」前半と全く同一のモチーフである。

 娘は金の鉢と銀の手袋をはめて家を出る。日本の「鉢かづき姫」を思い出してならない。あの話も、姫が鉢をかぶって顔を隠して放浪し、幸せな結婚をするものだった。そして、夫を得て鉢を取ると、美しい素顔と共に宝が溢れてこぼれ落ちるのである。



参考 --> <炭焼き長者のあれこれ〜走馬定婚



いざり長者  日本 青森県

 昔、あるところに たき子といういい娘がいた。ところが幾つになっても嫁の貰い手が無いので、どうしても結婚したいと思って一週間篭って神様に祈った。寝ないで祈っているうち とろとろと眠り込むと、夢の中でこう言われた。

『橋の下に住んでいる、足の不自由な人のところに嫁に行きなさい。この人はお金持ちになるから』

 たき子は綺麗に着飾って、町の橋まで訪ねて行った。すると子供たちが集まって、橋の下の人に悪戯を仕掛けているではないか。たき子が「こらあ!」と叫んで橋の下に走っていくと、足の不自由な人は杖を振り回して応戦していた。

 子供たちを散々叱ってから、たき子はここに来た理由を話した。結婚したくて神様に祈ったこと、夢のお告げで橋の下の足の不自由な人と結婚しろ、お金持ちになるからと言われたこと……。けれども、それを聞くと足の不自由な人は怒って、「あんたなんか嫁にいらないよ」と言う。もめていると騒ぎを聞きつけて役人がやってきた。たき子がもう一度 最初から説明すると、とうとう足の不自由な人はたき子を嫁に貰ってくれることになった。役人は「嫁さんを貰ったんだから、何か仕事を見つけてやらないとなぁ」などと考えてくれた。その間、たき子が川に水を汲みに行くと、川を酒樽が流れてきた。その酒で杯を交わした。不思議なことに、この酒樽からは酌んでも酌んでも酒が湧き出すのだった。

 さて、夫をお風呂に入れて髭をそったら、とてもいい男だった。しかも、持っていた荷物の中には五百両もの大金が入っていた。この金を元手に家を建て、例の不思議な酒樽で酒屋を始めて、いつしか二人は大金持ちになった。たき子の故郷の人たちも物見高さからとはいえ みんな買いに来てくれたし、ついには話を聞きつけた夫の両親が舟に米だの金だのをぎっしり積んでやってきた。夫は大金持ちの息子で、家を出るときに五百両を持たされたのだった。

 その後も不思議な酒樽の酒は尽きることがなく、家は富み栄えて夫婦は幸せに暮らしたということだ。



参考文献
『日本昔話集成(全六巻)』 関敬吾著 角川書店 1950-

※大金を持っているのにあえて橋の下でホームレス生活をし、たき子のプロポーズに怒った彼。その心情や背景をかなり色々考えさせられる。どんな状況で実家を出、どうして橋の下に住むことになったのか……。

 類話まで見ていくと、男女のどちらが障害を持っているか、どちらが金(福運)を持っているかは入れ替え自由で定まっていない。

 お告げに従って足の不自由な女を嫁にした男が、妻の持っていた不思議な株から湧いた酒で大金持ちになる話。ハンサムだが甲斐性なしの乞食男が足の不自由な金持ちの娘に見初められて出世する話。足を折って不自由になった芋掘の男が長者の娘と結婚する話などなど。

日本 島根県邑智郡

 昔、大阪に芋を掘って暮らしを立てている男がいた。ところがあるとき足を折ってイザリ(足の不自由な人)になり、働けなくなったので、車(台車)をこしらえて、それに乗って報謝をもらっては日を送っていた。

 その頃、下関の大変な長者の娘が、嫁ぎ先から離縁されて出戻ってきていて、易者に良い婿がいないか見てもらっていた。すると易者が言うことには。

「お前が生涯暮らす男は大阪のイザリで、陪堂ほいと(乞食)をして暮らしている男だ」

 娘はそれを聞いて、その男のもとへ旅する決意をした。両親は心配して、お千代という下女を供に付けてやった。長者の娘はお千代を連れて大阪中を尋ね歩いたが、どうしても見つからない。それでも諦めずに訊いて回るうち、とうとう「それは、餓鬼車がきぐるまに乗って報謝をする男に相違あるまい」という話を聞けて、山奥の小屋へ訪ねて行った。

 行ってみると男は留守だったが、やがて車に乗って帰って来た。娘がここに泊めてくれと言うと、食うものがないと言って断る。食うものは持っているから泊めてくれと言って許しを得、お千代が小屋の前の池で米を研いだ。すると、研いだ後で池の水が酒になっていた。その酒に鴻池こうのいけ酒と名を付けて売り出して、大金持ちになった。

 これが大阪の鴻池家の先祖で、だから今でも鴻池の家では、イザリの男が乞食をする時に使った藤袋と餓鬼車が家宝になっているのだそうな。


参考文献
「芋掘長者」/『いまに語りつぐ日本民話集 動物昔話・本格昔話10 [大歳の客/長者] 長者になる秘訣』 野村純一/松谷みよ子監修 作品社 2001.

※この話は[再婚型]に分類すべきではあるが、夫となる者が体が不自由であるという点でここに記載する。また、[芋掘長者]の要素も持っている。

 日本の【炭焼長者】譚は、権勢を誇った長者の由来伝説とされることが多く、この話のように鴻池財閥の祖だと語るものも散見できる。



参考 --> <炭焼き長者のあれこれ〜盲目、足折れ




inserted by FC2 system