【手無し娘】の広がり

手無し娘】は西欧全域、ロシア、アフリカ、アジア一帯と、世界各地で語り伝えられている物語である。内容にも殆ど差異がない。

 日本で確認できる文献上最古の【手無し娘】は明治初期に筆写された『高野山女人にょにん堂由来記』で、これが講談や芝居で全国に広まったのではないかとの説がある。

 継母が継娘に良い縁談が来たのを憎んで夫に讒言し、夫はそれを信じて娘の両腕を切り落として谷に蹴落とす。娘は畑のスイカを食べていたところを縁談の相手に発見され、結婚する。夫の留守中に子供が産まれ、夫に報せる手紙を出すが、途中で継母に書き換えられ、娘は婚家を出される。旅僧の勧めで高野山へ行き、弘法大師加治の水で手が生える。夫が探しに来て妻子と再会し、親子で出家する。

参考 --> 「淑娘と陸青

 一方、フランスでは十三世紀に成立した『コンスタンチノープルの美しいエレーヌ』が行商人本として普及したのが元で、そこから民話として語り伝えられているとされる。ただ、原本は確認されていない。

 日本では古い時代の文献に見えないことから、比較的新しい時代に海外から伝わったのではないかと言われている。

 

 なお、失われていた娘の手が再生する時、そこに特定の超自然的存在の介入が語られることがあるが、日本では千手観音や弘法大師、キリスト教圏では聖母マリアや聖ペテロ、イスラム教圏ではアラーの神や預言者モハメッドなど、それぞれの伝承地の信仰に合わせて変化している。日本の研究者は、日本では各地を遍歴する宗教者が伝承して回ったものだと推測していた。

獣産み、子食い

 手無し娘は「(獣/化け物)の子を産んだ」と手紙を書き換えられて、婚家を追い出されてしまう。

 似たようなモチーフは【みどりの小鳥】にもあるが、こちらでは実際に子供を獣とすり替えられてしまい、本物の子供は川に流されたり土に埋められたり獣に食わせられたりしてしまう。捨てられた子供は一度死ぬわけだが、その後再生し成長して現われ、獣産みの罪で虐げられていた母を救い出す。【みどりの小鳥】とも共通するモチーフだ。

 また、[その後のシンデレラ〜濡れ衣型]のように、生まれた子供を《妬む者》が殺し、その罪を母に擦り付ける話もある。こちらでは殺された子供は再生しないことが多いが、「あなたはだれ?」や「伯爵のお姫様と水の精」のように、死んだ子供が後に再生する場合もある。

手無し娘】のクライマックスは、背負っていた子供が水に落ちて、アッ、と無い手を差し伸べたときに手が生えるというシーンだが、重要なのは子供が水に落ちるという点ではないだろうか。これには、本来は「あなたはだれ?」のように、殺された子供が生命の水を潜って再生する、という意味があったとも考えられる。

 これらの、子供が害されて母に濡れ衣が着せられるモチーフは、子供の再生の奇跡を語ることが本来のテーマであろう。

手紙のすり替え

 [火焚き娘]系説話では、異形になっていた娘は結婚によって再生を果たす。だが、【手無し娘】ではここからがいよいよ苦難のピークとなる。夫と交わした手紙が《妬む者》によって書き換えられ、赤ん坊共々、婚家を追い出されてしまうのである。

 手紙が人の運命を左右するモチーフは、説話には何パターンか見られる。

  1. ウリヤの手紙…ダビデ王は美女バテシバに欲情し、その夫で家臣のウリヤに手紙を持たせて戦地に送る。手紙には「この男を殺せ」と書かれてあり、ウリヤは自分の届けた手紙によって殺される。
  2. 沼神の文使い…沼のほとりで水神に出会い、別の沼に手紙を届けるように頼まれる。途中で手紙を読むと「この手紙を届けた者を殺せ」と書いてあったので、「褒美をやれ」と書き換えて宝をもらう。(類話によっては手紙の書き換えが無く、そのまま届けて褒美をもらうこともある。
  3. 幸運児…王が、貧しい男児が王女と結婚して王位を継ぐと運命で定められているのを知り、それを阻止すべく、男児に「この手紙を届けた者を殺せ」と書いた手紙を持たせて城に使いに出す。しかし、道中で盗賊がこっそりこの手紙を盗み読んで哀れみ、「この手紙を届けた者と王女を結婚させよ」と書き換え、運命が成就する。

手無し娘】に現れる手紙のモチーフは以上のどれでもなく、第四のパターンになる。

 上の三つのパターンが、全て「悪いことを良いことに書き換える」のに対し、【手無し娘】の場合は、「良いことが悪いことに書き換えられてしまう」という逆パターンになっている。

切られた手の意味

 民話研究の視点は様々だ。伝承は現実の引き写しだとみなす者は、【手無し娘】を、かつて現実に起こった残酷な事件を伝えているのだと解釈する。また、この物語から身体障害者観を探ろうとする向きもある。だが、《腕を切(られ)る》という事態には、ただ「現実を引き写した」という意味しかないのだろうか。

 説話には腕を切(られ)る他にも、指を切(られ)る、足を切られる、目が潰れる(視力を失う)、喋ることを禁じられるといった、肉体欠損・機能障害のモチーフがしばしば現れてくる。そしてこれらの障害を負った者は、その前後に異界を訪ねたり、どこかに閉じ込められたり、罰された、死にかかったと語られることが多い。

 結論から言えば、これら肉体欠損・機能障害のモチーフは、《死》の比喩であるらしい。よって、冥界(死後の世界)の存在たる神霊や、現界と冥界を繋ぐシャーマンは、隻眼/弱視/盲目、あるいは独脚/隻腕であったと語られることが多いのだ。

 

 手を切り落とされた娘が王(夫)と出会うまでの展開には、概ね二つのパターンがある。

  1. 手無し娘は山や森や樹上に潜み、狩りに来た王に発見されてその妻となる

 この場合、王は最初、自然の中で暮らす娘を見て、これは人か獣かと怪しむ。このモチーフは「千匹皮」などの[火焚き娘]系説話でも見られるものだ。《手の無い娘》と《皮をかぶって異形に扮した娘》は、観念上では類似の存在なのである。山や森や樹は冥界とみなされ、死者の霊はそれらの場所で憩う。そして神霊は時に獣の姿を取って現れるという観念が世界的に見られることも考慮しておくべきであろう。

  1. 手無し娘が果樹園に忍び込んで果実を盗み食いし、果樹園の持ち主たる王に発見されてその妻となる

ゼラゼと双子の兄弟(ナルト叙事詩)」や「猪の国を訪ねた男」、「ブルブル」や「楽園の林檎」に見られるように、夜毎に畑や果樹園を荒らす獣の正体は、冥界から訪れた神霊である。グリム版の「手無し娘」では、手の無い娘は天使たちに導かれて境界の水路を越えて果樹園に入る。彼女は夜になると出てきて果実を枝につけたまま齧り、日が昇ると隠れるのだった。これは「ゼラゼと双子の兄弟」で、夜になると白鳩の姿をした女神たちが飛来して生命の林檎を食べ尽くしてしまうのと同じイメージではないか。

 畑や果樹園に少女の姿の神霊が宿り、神婚が行われるという観念は、やはり世界各地の民話や神話、俗信に見てとれる。幼い女神が夜毎に畑に降臨して荒らしていたと語る「ム・ジュク」、異常誕生した娘が畑で王に見出されて結婚する「ナン・ウト」「太陽の娘」など。日本(長野、茨城、大分など)には、七夕の夜には七夕様が畑で逢瀬する、子供を育てるので、見てはならないという俗信がある。

 つまるところ、腕を切られた娘は、冥界から来訪した神霊としての性格を持っている。彼女と王の結婚のエピソードは、女神と聖王の神婚の神話を原型にしているのではないだろうか。

 

 

 ところで、イラクの伝説「預言者の花」では、娘は夫との約束を破った罰として両手を切られている。この話においては、もしかすると《現実の引き写し》が起こっているかもしれない。イスラム法シャリーアのもとでは、窃盗犯など犯罪者の腕を切り落とす刑罰が行われているからである。

主な参考文献

『決定版日本の民話事典』 日本民話の会編 講談社+α文庫 2002.
『決定版世界の民話事典』 日本民話の会編 講談社+α文庫 2002.
『世界昔話ハンドブック』 稲田浩二 他編 三省堂 2004.

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