死と再生の物語

 この【死者の歌】で紹介した物語群には、二つの要素が入っている。

 一つは、殺された人間の復讐譚。《死人に口有り》で、死者が自らの無念を人々に訴え、復讐を果たす。いわば、因果応報の怪談である。

 もう一つは、死と再生の物語だ。死んだ人間は植物になり、鳥になりして、最後には元の人間として再生する。こういった転生のモチーフは、インド起源だと考えられているらしい。

 ここでは、主に死と再生の物語についてあれこれ考えていこうと思う。

飛ぶ魂

 昔から、人間には《魂》が存在すると考えられていた。それはその人間の心や人格のようなもので、実体を持たず、その人間が死ぬと魂は肉体から抜け出すが、魂そのものは滅びない。

 古代エジプトには《魂》に関する複数の考え方があった。その一つは《カー》といい、死後も地上に留まって暮し続ける。《カー》が何不自由無く永遠の生を楽しめるように、人々は様々な供え物をした。《カー》は人間だけでなくあらゆる生命、果ては無生物にまで付き添っているとされた。それに対し、私たちの思う《死霊》というべきものが《バー》である。人が死ぬと《バー》はその体内から飛び去る。復活と永遠の生を信じてエジプトでは死体をミイラにして保存したが、《バー》はミイラの周りを徘徊し、時にミイラの上にとまってじっとその顔を覗きこみ、再び体内に入ろうと機をうかがうのだった。

 ちなみに、日本の道教〜陰陽道系の考え方では、人間の霊魂は《魂》と《魄》の二つから成っており、人が死ぬと《魂》はあの世へ飛び去るが、《魄》はこの世に残るという。《魂》は陽の気であり、人の精神を司るエネルギーである。そして《魄》は陰の気であり、人の肉体を司るエネルギーであった。精神は光、肉体は闇、というわけである。いわゆる死霊(残留思念?)というやつは、《魄》のことを指すものらしい。なお、神道系の考えでは、霊魂は荒魂あらみたま和魂にぎみたま幸魂さきみたま奇魂くしみたまの四魂から成る。このように、魂が二つ〜四つに分かれていて、人が死ぬとある部分はあの世へ去りある部分はこの世に残って災いを成す、もしくは子孫を守護する、という考え方は、決して珍しいものではなく、世界の各地に見られるようだ。

 話は戻るが、エジプトにはもう一つ、人の魂につけられた名があり、《クー》という。それは人間が眠っている時など、肉体から抜け出して自由に遊行する。故に人は夢を見るのだという。日本の《魂》が陽の気の存在であるように、あるいは日本の遊行する魂が「火の玉」であるように、《クー》の名は「光り輝くもの」という意味だ。そして、この《クー》は、絵では鳥の姿で表されるのである。

 

 死者の魂が鳥として現されるのは、世界中に普遍のことである。それは、ごく単純に、魂が《飛び去るもの》であって、鳥もまた《飛ぶもの》だからなのだろう。日本では、ヤマトタケルの魂が白鳥になって飛び去ったとされるエピソードが最も有名だ。ギリシアでは、アレクサンドロスが死んだとき、鷲が飛び立ったという。世界各地の多くのシャーマンが鳥の姿を模した衣装や飾りを身につけ、バビロニアのギルガメシュ抒情詩では、地獄へ至った者は羽毛の服を身につける。――死者は鳥に変わる。

 もっとも、この考え方だと、鳥に限らず飛ぶものなら何でも《魂》になぞらえて構わないことになる。実際に、蝶やハエも、しばしば《魂》にたとえられる。生き物ではないが、雲や煙もだ。

 しかし、ここでちょっと考えてみよう。同じ「飛ぶもの」なのに、タンポポの綿毛だとか飛行機、もっと他の虫が《魂》にたとえられることはまず無いのだ。これは何故なのだろうか?

 私は、それは実際の体験による選択だ、と思っている。

 雲や煙を魂と考えるのは、死体を焼いた時に煙が空に向けて立ち昇り、消えて行くからだろう。ハエをそう考えるのは、死体にハエが群がるからだろう。死体から抜け出した何かが、ハエの姿を取って死体の周りを飛び回っているのだ。蝶も同様である。蝶はアンモニアに群がる性質がある。体液の流れ出す死体があると、それにも群がることがある。蝶がみっしり群がっているのを見つけて近寄ると、それらがわっと飛び去り、後に死体が残っていた。死体があちらこちらに転がっていただろう時代では、頻繁に目撃された光景だったに違いない。死者が蝶になって飛び去った、とイメージするのは自然なことだろう。

 ――では、鳥はなんなのか?

 恐らく、鳥葬のイメージがある、と私は思う。これは死体を鳥についばませて処理する方法だ。魂は鳥の姿をした死神に掠め取られ、あるいはその背に乗ってあの世へ連れ去られる。この場合、死者の魂自体が鳥になるわけではないが、鳥と魂(死)の関連付けを強める要素にはなっていると思う。鳥葬のイメージを引く鳥の姿の死神は、ギリシア神話のハルピュイア(ハーピー)などが有名だろう。

 

 死者の魂は鳥になる。妬む女に殺された妻は鳥に変わり、夫にそれを訴える。天邪鬼に殺された瓜子姫の魂はうぐいすになり、両親に向かって悲しい声で歌う。――そして、継母に殺された子供の魂は鳥となり、人々に真相を告発する。鳥が、特に《殺された者》の魂となって物語に現れやすいのは、鳥がもともと《啼く(泣く)》ものだからかもしれない。

甦る鳥

 世界各地に伝わる、殺された子の魂が変わった鳥は、まず白い鳥か、さもなければあいまいに《きれいな鳥》だ。あるいは雀やうぐいすといった現実のありふれた鳥である。ところが、日本の東北に伝わる「赤いうぐいす」と鹿児島(南島地方)の「赤い鳥」は、どちらも継母に殺された継娘の魂が赤い鳥になって現れる。

 甦りの力を持つ赤い鳥、というと、私はすぐにギリシアやエジプトの伝説に現れるポイニクス――不死鳥フェニックスを思い出す。ご存知の通り、火に我が身を投じては若々しく甦る鳥なのだが、これが赤い鳥なのである。そもそも、ポイニクスとは「赤」という意味なのだ。

 「フェニキア人」の意味である、との説もある。これは女神アスタルテに捧げられた聖王――(信仰的に、殺された後再生する)生け贄を指した。この生け贄は火で焼かれることが多かったという。

 フェニックスは、老いると香料に火をつけ、そこに自ら横たわる。火が燃え尽きるとそこから若いフェニックスとして復活し、自らの古い骨を太陽の都エジプトの神殿に運んで行く。それ以前の説では、フェニックスは自ら香料等で作った棺に横たわる。するとその死骸から虫が生じ、それが新たなフェニックスに成長する。このフェニックスは古いフェニックスの墓をヘリオポリス神殿の太陽の祭壇の上に運ぶ。

 死(復活)に際してフェニックスが用いる香料――没薬ミュルラやら安息香やらは、ミイラ製作に使われるものと同じで、つまり防腐剤の意味がある。フェニックスは、食べるものさえも乳香や茗荷の汁といった防腐効果のある香料だった。

 フェニックスの伝説は、毎日燃え尽きて死んでは翌朝甦る、《太陽》を現したものだ、という説がある。それはその通りだろう。ギリシア神話では、太陽神ヘリオスは、毎日日が沈むと、黄金の杯トリプスに乗って冥界の川を流れて行ったとされる。太陽は毎日死んで冥界に下り、また翌朝甦っていたのだ。中国の伝説では、太陽は三本足のカラス(の運ぶもの?)で、毎朝水浴びをして木の枝に止まり、天の運行を始めていたらしい。

 ところで、このギリシアの神話に現れる《黄金の杯》とは何だろう? 単に船の代わりのようにも思える。実際、ヘラクレスがこれを借りて西の島へ旅したことがある。現世とあの世を自在に行き来できる乗り物らしい。

 ところが、実はこの杯が《釜》だとする解釈もある。太陽は毎晩、釜でぐつぐつと煮られて《死に》、翌朝《甦った》らしいのである。継母に殺された子供たちが釜でぐつぐつと煮られたように。

反魂〜死者の歌

「杜松の木」をはじめとする[継子と鳥]系の物語において、殺され、食べられて捨てられた子供の骨は拾い集められ、そこから子供が復活する。

 散らばっていた骨を拾い集め、何らかのアイテムや術でもって骨を繋ぎ、肉をつけ、魂を戻す、いわゆる反魂の法は、しばしば民話の中に現れる。このコーナーに集めた民話の中では「プチュク・カルンパン」や「ヨニと楊の葉」などもそうだ。単に死者を甦らせるだけではなく、主人公が一度死んで甦えると元よりも良くなった(美しくなった、若くなった、賢くなった)ので、羨んだ別の者が自らも死んで甦ろうとし、しかし失敗して死んだままになってしまう、という膨らみを見せることもある。

 日本の喜界島の民話に、一人の魔法使いが雨宿り先の洞窟で白骨を見つけて、これを甦らせる話がある。白骨は、自分の山羊を食べられたうえに殺された男で、甦るなり魔法使いを自分の山羊を食った男だと思いこみ、役所に訴え出る。それで、魔法使いは男を元の白骨に戻してしまったという。

 この話を読むと思い出すのが、日本の『撰集抄』にある、僧・西行が反魂の術で死者を甦らせた話だ。

 心を共有できる友人が欲しいと思った西行は、骨を拾い集めて藤の糸で結び、その骨に薬を塗り、いちごやはこべなど様々な植物の葉をもんだり灰にしたりして骨につけ、水で洗い、安置した。しかる後に香を焚いて反魂の術を行った。ところが、そうして甦った人間には心がなかった。香を焚いてはいけなかったし、術者も精進潔斎しなければならなかったらしい。肉は戻ったが、魂は返らなかったのである。

 ここで興味深いのが、心のない蘇生者が、まるで《笛のよう》《草木と同じ》と表現されている点である。

 人の姿には似侍りしかども、色も悪く、すべて心も無く侍りき。声は有れど絃管声のごとし。げにも人は心がありてこそは、声はとにもかくにもつかはるれ。ただ声の出るべき計ごとばかりをしたれば、吹き損じたる笛のごとし。

 さても是をば何とかすべき。破らんとすれば、殺業にやならん。心の無ければ、ただ草木と同じかるべし。思へば人の姿なり。しかし破れざらんにはと思ひて、高野の奥に、人も通はぬ所に置きぬ。

 グリムの「歌う骨」をはじめとする[歌う骨]や[継子と笛]系の話では、死者の骨、あるいは死者の死骸から生えた植物で笛を作る。

 古く、踊りと音楽(芸能)は呪力を持つ、神聖なものだった。それらは死者の霊に作用した。日本でも、口笛を夜や墓場で吹けばお化けか泥棒がやってくる。口笛のような音を鳴らして《うそぶく》のは、霊を呼ぶ動作だった。耳無し芳一は琵琶の音で平氏の亡霊たちを呼び寄せた。逆に、弓の弦を鳴り響かせれば悪霊は去る。世界中の、祖霊を慰撫するための様々な儀式で踊りと音楽は欠かせなかった。

 特に呪力を持つ楽器は、人間の体から作られたことも忘れてはならない。ロシアのある民話では、《ひとりでに鳴るグスリ》は、人間の血管で作られていた。とすれば、死者の骨から作られた骨笛、風に揺られて鳴り響くしゃれこうべにも、相当の呪力があったに違いない。歌い、踊り、死者の身で現世に働きかけ、ついには復讐を果たすほどに。

 死者はこの世に存在できぬモノである。だから、生者と語ることは出来ない。生者も、死者に語ることは出来ない。だが、歌や踊り、楽器はそれを可能にする。人は芸能によって死者に語りかけ、歌声や楽器の音の中に死者の言葉を聞き取るのだ。

 

 そして――死者の声は、鳥の声とも関連することを忘れてはならない。そもそも、鳥の声と笛の音はよく似ている。

 民話には【聴き耳】という世界的なモチーフがある。小鳥をはじめとする動物の言葉を解し、智者となる話だ。どういうわけか、小鳥は多くの《神秘的な真実》を知っていて、枝にとまっては噂話に興じている。

 聴き耳の能力はいかにして習得されるのだろうか。単に「修行先で動物の言葉を学んだ」とされることもあるし、《聴き耳ずきん》《ソロモンの指輪》といったアイテムによることもある。蛇に耳をなめられて、とされたり、あるいは、他ならぬ小鳥そのものの魔力によることもある――不思議な小鳥を耳に当てると小鳥の言葉が理解できたり、不思議な小鳥を殺してその心臓を焼いて食べると、小鳥の言葉が理解できるようになった、と。

 北欧神話の英雄ジークフリードは、黄金を守る竜を殺してその血を浴び、不死身かつ小鳥の言葉を解するようになった。このエピソードには原型とされる物語がある。少年シグルズルは、黄金を守っていた大蛇ファヴニルを殺した。彼の養父レギンは、ファヴニルの心臓を焼いて自分に食べさせるように命じた。しかし、心臓の焼け具合を確かめた指を思わず口にいれたシグルズルは、不意に小鳥の言葉がわかるようになった。小鳥たちは言った。シグルズルが心臓を焼いている。自分で食べればもっと賢くなれるのに。レギンは心臓を食べたらシグルズルを殺すつもりだ、と。シグルズルは眠っていたレギンを殺し、ファヴニルの黄金を奪って立ち去った。

 この物語は、ケルト神話の英雄フィンが知恵の鮭を食べたエピソードとそっくりである。知恵の鮭は知恵の実を食べた鮭で、これを食べると聖なる知恵が身につく。彼の師であるドゥルイド僧フィネガスは、捕えた鮭の調理をフィンに命じた。その際、決して鮭を食べてはならぬと注意したが、フィンは鮭を焼いていた時やけどした親指を口に入れ、聖なる知恵を身につけた。

 フィンは、小鳥の言葉が解るようになった、とは語られていない。しかし、北欧神話の主神オーディンがミーミルの泉や知恵の蜜酒を飲んで手に入れた《知恵》が、単なる知識をさすのではなく、むしろ詩才――霊感であるらしいこと、この霊感とは即ちシャーマンの力であろうこと、シャーマンの力とは異界との橋渡し、《死者の声を聞く――聴き耳》に他ならないことからして、《小鳥の声を聞く――聴き耳》=《聖なる知恵の取得》であると判断できるだろう。小鳥のさえずりは、死者の歌だった。

 

>>参考  雑学考夜に口笛を吹くと来るもの、の話

髑髏の呪力

 [歌う骨]の物語は、死者の復讐・因果応報という要素を除けば、日本の【鳥呑み爺】や【竹伐り爺】といった話群によく似ている。

 これらの話では、富を得る者と罰を受ける者が分離しているが、[枯骨報恩]では一人がその両方の役を果たしている。つまり、最初は富を得るが、最後の最後、《殿様》の前での正念場に《歌う者》に裏切られて身を滅ぼす。

【鳥呑み爺】や【竹伐り爺】では、歌うのは死者ではなく、小鳥である。だが、ここまで語ってきたように、鳥はしばしば、死者の魂の変化である。しかも、食べた鳥が腹の中から声を出すのだから、やはり死者の声と言ってよいだろう。【竹伐り爺】では、その声を鎮めるために《殿様の竹やぶ》に行く。何故、殿様の竹やぶなのか。そして、何故、風呂なのか。……風呂はさておき、日本の民話を見る限り、竹やぶはすなわち《冥界》である。あるいは、あの世とこの世の接点だろうか。竹やぶを守る《殿様》は冥王であるとも考えられる。爺がそこへ行った点からしても、この《歌う鳥を飲み込む》話が、《死者の声を聞く》ことと何らかの関わりを持つ話であることが読み取れるだろう。

 

 上で紹介した【鳥呑み爺】の例話では、腹の中の鳥が自ら「殿様の行列の前で歌え」とアドバイスしている。[歌う骨]の話群の中にも、同様に、骨自らが「私が歌うからそれで金もうけをするといい」と勧めるものがある。そうしておいて裏切るのだが。中国にはこんな話があるそうだ。

 ある男が大晦日に宝を探していて頭骸骨を発見し、同情して埋めてやる。頭蓋骨は感謝して、彼によい託宣を与え、それによって彼は富む。

 他の男がそれを真似ようと思い、頭蓋骨をわざと掘り出してからまた埋める。頭蓋骨は悪い託宣を与え、男はひどい目にあう。

 この骨は歌いも踊りもしないが、人を富ませたり不幸にするだけの託宣を与える呪力を持っている。沖縄の「枯骨報恩」にも似ている。ロシアの民話には、道に転がっていた勇者の首を主人公が葬り、それに呪宝や今後の助言を受ける話群があるし、イギリスには転がっていた三つの首を洗ってやると、それらがその少女に幸運を授ける話がある。メラニシアにも似たような話があるそうだ。

 これらの頭蓋骨は、死ぬ以前まではただの人間だったはずだ。むしろ、殺されたり横死したのだから、弱者だったといってもよい。しかし、そうした者でも死者になると呪力を持つものらしい。それは、その者が《死者》――あの世とつながる存在に変容したためである。

 

 人が人を殺して食べる時、そこには単なる嗜好や栄養補給ではない、呪術的な意味合いがある。相手を支配し、その力を我が物にする、という。特に、目や口といった他者とのコミュニケーションにおいて必要な器官を供えた《頭》は、死体の中でも重要であるはずだ。織田信長は敵の武将の頭蓋骨で杯を作り、酒を飲んだ。それは敵を辱める行為であると同時に、それを支配し、その持っていた力を己が奪い取った証でもあったはずだ。

 つまりは、死体を、特に頭蓋骨を支配するということは、その死者の力――そして異界の力をも支配するという意味合いを持っていたと考えられる。

 知恵持つ頭といえば、ギリシア神話のオルペウスや北欧神話のミーミルを思い出す。これらは殺された者の首で、喋り、歌い、《霊感》をその所有者たるゼウスやオーディンに与えたとされる。霊感――すなわち、あの世につながる力である。それは支配者にとって不可欠のものであった。

 人は死者の骨を所有し、それを祀り、支配する事によって、生者への奉仕を強要する。死者は生者の守り神となり、正の作用をおよぼす。だが、それは負の作用と表裏一体でもあった。骸骨に裏切られて不幸に落ちる男の姿は、そういった人々の不安を表しているのだろう。

生命の木

 木――植物に関する信仰は世界中に見られる。

 この【死者の歌】に現れている《木》に関わる信仰は、再生復活に関する部分だ。植物の化身たる豊穣神は、一度死んでからまた甦る。冬枯れの木が春に再び芽吹くように。

杜松の木」の主人公たる少年は、まさに植物の化身である。その母は杜松の実を食べ、少年を身ごもる。日本で言えば桃太郎的誕生である。(「桃太郎」の類話の中には、川を流れてきた桃を爺婆が食べて子供を生む、とするものがある。)杜松は常緑樹で、日本の松と同じように、不死のシンボルとされる木の一つで、その実は特に薬効が高いとされる。そして少年は《りんごの実を取ろうとして》殺され、後に杜松の木から甦る。杜松の木の下に死体を埋めると甦る、という伝承があるそうだが、まさにその通りだ。少年の最初の誕生も次の再生も、必ず杜松の木からであることに注意すべきである。

 物語の冒頭、少年の実母は誤って自分の血を杜松の木の根元の雪の上に落とす。その色彩を見た母は、まだ授からぬ子供への想いに憑かれたようになる。そっくりのシーンが同じグリムの「白雪姫」にあるし(白雪姫もまた、一度《りんごの実を食べて》殺されるが、後に復活を果たす存在である。)、少し違うが、【三つの愛のオレンジ】系の話にもある。(血を落とした王子が得るのは果実から生まれた乙女であり、後に殺されるものの、復活を果たす。)

 私は、これらモチーフの原型を、東南アジアや中国の物語にある、《男が血を植物や水に落とすと、そこから神の子が生まれる》というものであると思っている。たとえば「ハイヌヴェレ神話」もその一つだ。ハイヌヴェレは日本で言えば「瓜子姫」にあたる。植物と水の化身たる豊穣の乙女で、養い親に富を与えるものの、他者に残忍な方法で殺されてしまう娘である。死後、彼女の魂は鳥になって歌い、あるいは植物として再生する。

 植物や水に血が落ちる場合、その血は精液の比喩であろう。だから、中国や東南アジアの話では血を落とすのは必ず男だ。一方、果実を食べるのは性行為の比喩であろう。りんごやいちじく、桃は、しばしば恥丘や睾丸に擬せられる。

「杜松の木」では、物語の冒頭で《血が植物に落ちる》《果実を食べる》と二つのモチーフを合わせて語っていた。生まれた少年が植物の化身であることを二重に、執拗に宣言しているのだ。少年は、杜松の木の化身――植物神だったからこそ奇跡的な復活を遂げたと考えられるし、逆に、奇跡的な復活を遂げるからには植物と関わらねばならなかったのかもしれない。

 余談だが、「果実を食べて妊娠する」エピソードは「魚を食べて妊娠する」ことにしばしば入れかえられることを追記しておく。多産の魚は子宝の象徴だから、とされたり、大きな口で呑み込む魚は子宮の象徴だから、と説明されたりする。エジプト神話で、殺され刻まれて川に捨てられたオシリスの死体のうち、男根だけが魚に《食べられて》いた、というのは示唆的だ。――しかし、私はこうも思う。魚は、魂(生命)の象徴なのだ、と。西欧の神話や民話を見ていると、魚=生命の果実=心臓は入れ替え可能のものとして現れている。食べれば妊娠するか、不死になるか、若返る(健康・美しくなる)か、知恵〜霊感(死者の声が聞き取れる)が身につく。

 アイヌ等北方の狩猟民族の間では、祖霊は鮭の姿になって川を遡ってくる。日本本土にもこの信仰の片鱗が残っており、東北の日本海側の各河川流域には、鮭が「オオスケ コスケ、今通る」と言いながら川を遡るので、家に閉じこもって宴会をし、騒いで、決してその声を聞かぬようにするとの言い伝えがある。声を聞けば三日のうちに死ぬ。オオスケは大助とされるが、原義はオオサケ――大鮭である。南北アメリカの現住民族やバビロニアの洪水神話を見れば、死者の魂が魚と化した事が語られている。

 一方、[継子と笛]系の多くの物語では、殺される子供の出自と植物は特に関連付けられない。死んだ子供は植物として再生するが、多くの場合不完全であって、完全な人間として復活することは出来ない。完全な再生を果たすには、やはり《最初から》植物の化身――神たる必要性があるのだろう。

 

 ところで、注意しなければならないのは、甦る植物神の死因は、「他者に殺されること」でなければならない――それも、八つ裂きにされる、皮をはがれるといった、恐ろしく残酷な手段で――ということだ。

「杜松の木」の少年は首を落とされた後にシチューにされたし、日本の「継子と鳥」の子供たちも釜でゆでられた。瓜子姫はまな板で切り刻まれて鍋に煮こまれ、ハイヌヴェレは生き埋めにされた後ばらばらにされて埋められた。

 木の傍で残忍に殺され血をばら撒かれる犠牲者は、自然や神に対する生け贄であったかもしれない。葉や水に落ちた数滴の血から神の子が生まれたように、血――精気を大地に出来る限り沢山ばら撒くことで、大地の女神はより活気付き、地上に豊かな実りをもたらす、と。

 だが、後述する聖杯や魔法の大鍋の信仰に片鱗が見られるように、より古い、食人的信仰の変形かもしれない、とも思う。《力》を持っている人物がいれば、人々はそれを殺し、食べることによってその力を取りこむ。その際、より多くのものにそれを分配するために、死体は出来る限り細かく、粉々に切り刻まれる必要がある。現代の私たちでも、何かの祭があった時、その祭に使った祭具の一部をこぞって持って帰ったりする。その小さなかけらに無病息災の力がこもっていると言われているからだ。――つまり、そういうことだろう。

食人の神話

 継子が継母に殺されたり、殺された者が木や鳥に変化するモチーフは、説話全体としてはそう珍しいものではない。そんな中で、「杜松の木」が特に人々に衝撃を与えるのは、殺された子供が鍋で煮込まれ、実父に食べられてしまう部分だろう。

 それは、あり得ベからざる事態。怪奇の世界だ。なのに、「母さんが僕を殺した/父さんが僕を食べてる」の詩がマザーグースにとり入れられ、繰り返し歌われてきたのは、不気味さの中に、人々が何らかの魔術的な意味を嗅ぎ取り、惹かれてきたからに他ならない。

 

人が人を食べる

 食人の習慣が現実に行われてきたかについては、人々の意見は真っ向から反発している。

 一方の人々は当然行われてきたと主張し、民話や神話に現れる事象、近世の実際の記録、あるいは遺跡から掘り起こされた、料理された跡を残す骨を例に挙げる。もう一方の人々は、そんなことはあり得ない、物語を現実と混同している、と嘲笑する。

 一体、どっちなんだろう?

 私は、実際にあったと思っている。

 伝承に限らず、近世まで現実にそうした行為を行う民族があったことは記録されているし、逆に、《なかった》という証拠はないと思うからだ。ニューギニアで、クロイツフェルト・ヤコブ病(CJD)――今の狂牛病のような病気が流行ったことがあるが、これはその人々が人の脳を食べていたからだと言われている。《バーベキュー》はカリブの原住民が肉を焼くとき使っていた枝製の焼き網を語源とするというが、これは人肉を食べるためのものだったそうだ。

 では、どうして人は人を食べたのだろうか。

 一つは、《飢え》だろう。何一つ食べるものがなく、どうしようもない飢餓に襲われた時、人は生きる為に人を食う。ある飛行機事故の際にそうしたことが起こったことはよく知られているし、もっと昔、日本の東北の大飢饉の際などにも、実際にそうしたことが行われていたという。西欧でも中国でも、同様の記録があるらしい。もっとも、これらは死体を食べたという話で、生きた人間を襲って殺し、食べたというわけではない。(はずだ。)

 もう一つは、嗜好。人肉を食料として好む。これは個人的なものであり、変質者の領域に属することなので、特に語らない。

 もう一つは、愛情。「食べちゃいたいほど可愛い」というやつ。日本の「雨月物語」に、愛する稚児が死に、悲しみと愛情の故についにその肉を食らい、鬼と化した僧の話がある。これも変質者の領域に属するだろう。健康的な思考ではないと思う。

 もう一つは、憎悪。中国や日本には、肉体を損壊すれば魂が成仏できない、という思想がある。よって、憎い相手の肉を食えば、その者は死後の安寧を得られないとされる。中国で行われていたらしい。

 もう一つは、薬効。異常な食物である故にか、人肉は万能の薬とされることがあった。実際、中国には《割股》という風習があったそうだ。親が病気になったとき、子が自らの肝臓もしくは股の肉を薬として与えるというもので、親孝行の手本とされて税役を免除されることもあったが、税金逃れのために割股する者が増えたため、元の時代には禁止されたという。

 日本の民話に【嫁の乳、孫の肝】という、グリムの「忠臣ヨハネス」を思わせる話群がある。老病の親を癒し養うために嫁の乳を吸わせたり孫の生き胆を与えなければならなくなるのだが、割股の習慣と関連があるように思える。それ以外にも、例えば「白雪姫」など、継母が継子を殺してその肝を持ちかえるよう命じるモチーフは数多い。時に、継母はその肝を自ら食べる。その肝は彼女をより美しくし、あるいは病を癒すのだ。

 そして、最後の一つこそが《呪術》である。

 私達はしばしば、食べ物からその持つ力や特質を譲り受ける、と考えている。馬の肉を食べれば馬のように精力がついたり足が速くなると考え、果ては馬やうさぎの好物であるにんじんを食べてもそれらの動物のように足が速くなると考えたりする。まむし酒を飲めば、(男根を思わせる)蛇のように精が強くなると思う。新鮮な野菜を食べれば自らにも新鮮な精気が溢れると考えている。十七世紀のハンガリーの伯爵婦人エルゼベエト・バートリは、近隣の六百人もの娘を虐殺し、その血を溜めたバスタブに己の身を浸した。そうすれば、娘達の持つ若さ・美しさが己に移ると考えていたのだ。

 この《食べることにより力を受け継ぐ》という考え――感覚は、遥か昔から世界に普遍に伝わるもので、珍しいものではない。西アフリカのイフェ王国やジュクン王国では、即位式に際し、新王は先王を殺し、その内臓の一部を食べたという。これは内臓に祖霊の力が宿っているからで、食べることにより、それが先王から新王へ移るのである。西欧人が食人を責めると、彼らは逆に「では、どうやって先祖の魂を引き継げばいいのか」と質問したという。

 ニアム・ニアムというアフリカの部族は、部族内で死者が出ると、それを縁者たちで刻んで食べた。食べないまでも、オーストラリアのワケルブラ族は、死者の死体を斧で切り刻み、樹皮で包んで、縁者が時に十八ヶ月間もそれを持ち歩いた。その後、ようやく死骸は砂丘に埋葬される。沖縄では、昔は洗骨といって、洞窟に置いて腐らせた死体の骨を後に縁者が洗い、墓に収めていた。死体を扱うことで部族の絆を強めていたことがわかる。 

 

子供を食べる太陽

 以上のように考えると、「杜松の木」の子供が鍋で煮込まれ、父に食べられてしまうのも、ただの残酷な描写ではない、何かの呪術的な意味があるのではないかと思われる。なにより、父が息子の肉を食べる時、「とてもおいしい。まさに私のために作られた料理のようだ」と思う点が、非常に示唆的である。父にとって息子の肉は特別なものなのだ。

 けれど、若い息子が老いた父の肉を食べるのであれば《力を受け継ぐ》という理に叶っているのに、ここでは老いた父が若い息子の肉を食べる。何故だろうか? 中国の割股のように、老いた父を癒すために子の肉を与える、という思想なのか? しかし、父が病に苦しんでいるような描写はない。

 

 民話に限らず、神話や伝承の世界を紐解いても、父が我が子を食べる、というモチーフは幾つも現れてくる。

 ギリシア神話の天父神クロノスは、我が子に支配権を奪われると予言されたため、生まれた子供を次々と呑み込んだ。後に、隠され育てられていた息子ゼウスに倒され、予言通りに支配権を奪われるのだが、そもそもクロノス自身も、子供達を次々奈落に投げ込んでいた(もしくは、間断なく妻ガイアと交合しつづけて、子宮から子供たちが生まれ出られないようにしていた)父ウラノスを倒して、世界の支配権を奪っていたのだった。

 ウラノス――クロノス――ゼウスは、親子であるが機能的には同一の性質を持っている。彼らは天空の神であり、広義に太陽だ。

 グリム童話に「七羽のカラス」(KHM25)という話がある。父の投げかけた呪いの言葉のためカラスになって飛び去ってしまった七人の兄達を救い出すべく、一人旅立った少女の話で、彼女は世界の果てまで行き、まずは太陽を訪ねる。

 お天道さまはとても熱くって、おそろしくて、小さな子供たちをむしゃむしゃ食べていた。

 急いで逃げ出して、お月さまのところへかけて行った。ところがお月さまはとても冷たくて、それにとてもおそろしくて、この子に気がつくと言った。

「くさいぞ、人の肉くさいぞ」

 太陽や月は、人食いなのである。それも、子供をむしゃむしゃと食べている。

 これは珍しい描写ではない。風や月、太陽は、民話においてはしばしば《巨人》として現れる。そして多くの場合人食いなのだ。「ジャックと豆の木」で、雲の上の御殿に住んでいる大男も人食いの悪人とされるが、天の御殿に住み金の卵を生むニワトリを持つ彼は、まさに天空神――太陽なのである。金の卵は太陽であり、朝を告げるニワトリは太陽のシンボルなのだ。(余談だが、大男のもう一つの宝、歌う竪琴は異界の神の持ち物であり、シャーマンの祭具である。日本神話のスサノオが冥界神として現れた時、やはり琴を持っており、ジャックの逃亡を竪琴が教えたように、オオクニヌシの逃亡を琴が鳴り響いて教えている。)

 

 それにしても、太陽(父)が子を食べるのは、どんな意味があるのだろう?

 父クロノスから呑まれた兄弟達を吐き出させたゼウスは、しかし、やはり我が子を呑み込む父であった。生まれた子が男なら支配権を奪われると予言された時、彼は妊娠した妻メティスごとその子を呑みこんだ。――ところが、後に、ゼウスは呑み込んだ子を自ら《生み直している》。彼は自分の頭から、呑んだ子――女神アテナを生んだ。また、息子ディオニュソスが巨人神たちに八つ裂きにされ、焼かれて食べられた時も、残った心臓を呑みこんで、後に別の妻から、あるいは自らの腿から生み直したのだ。

 心臓を飲みこんだ男神が妊娠して子を産む話は、北欧神話にもある。ある日、女巨人アンクルボザの心臓を拾った邪神ロキは、それを菩提樹で焼いて食べてしまう。焼いた心臓を食べれば、相手の魔力を取りこむことが出来たからだ。しかしこのためロキは妊娠し、ミドガルズ(大地を支える蛇)、フェンリル(世界を飲み込む狼)、ヘル(死の女王)の三兄妹を生んだ。なお、ロキは男神であるが、しばしば女性に変化して子を産んでもいる。

 こんな面から、ゼウスを両性具有的神と捉える見方がある。すると、父が子を食べるのは、父が女性化して――経口妊娠して、我が子を産みなおすためなのであろうか。太陽がそれと関わるのは、太陽が毎日死んでは甦る、死と再生のシンボルだからなのか。

 神話には、男神が独りで子を産むエピソードを散見できる。聖書のアダムとイブの誕生もそうだろう。生命を生み出すというこの世で最も偉大な能力を、男性上位を主張する男たちは、自分たちにこそ移動させようと躍起になっていたらしい。儀式として、男性が妊婦の真似をして出産に苦しむ演技をしてみたり、何かの加入式の際、男の血や雄牛の血を新加入者にふりかけて、出産の血にまみれて再生した、と言ったりした。

 

騙して身内の肉を食べさせる

 太陽は意識的に我が子の肉を食べた。だが、伝承に現れる殆どの事例では、親は欺かれて、そうと知らずに料理された我が子の肉を食べる。

 [その後のシンデレラ〜偽の花嫁型]【蛇婿〜偽の花嫁型】の話群では、最後、継母がそうと知らずに、料理されたり塩漬けにされた実娘の肉を食べてしまう。時に、家の外にいたカラスが「貪欲に自分の娘の肉を食べるとは、カラスのようだ」と囃したてる。ほぼ同じエピソードが、フランスの「赤ずきんちゃん」の類話にも見られる。狼は先回りして赤ずきんの祖母に化け、やってきた赤ずきんに、殺した本物の祖母の血と肉を食べさせる。すると猫が「自分の祖母の肉を食べ血を飲むとは、なんて恐ろしい娘だ」と言う。

 動物たちは、ここでは第三者として現れているが、本来は「杜松の木」と同じように、食べられた死者自身の魂ではなかったろうか。

 もっとも、日本の【カチカチ山】や【瓜子姫】にも《殺害者が被殺害者に化け、何も知らない被殺害者の家族にその肉を食べさせる》というエピソードがあるが、そこで真相を告げるのは殺害者であり、肉を食べた家族を嘲笑って逃げ去っていく。

 これは北欧神話にも同様のエピソードがある。フィンランド王の息子ヴェルンドは、その鍛冶の腕を欲されて、ニーズス王に足の腱を切られ、幽閉されてしまう。この怨みを晴らすため、彼は幼い王子たちに宝をやろう、と言って箱の中を覗かせ、蓋を閉めて首を落として殺害した。そしてその頭蓋骨で見事な杯を、眼球で宝石を、歯で美しいブローチを作り、何も知らない王と王妃、王女に与えた。そして人工の翼を作って大空に舞いあがり、王たちを嘲笑いながら逃げ去っていった。箱の蓋で子供の首を落として殺害、翼を羽ばたかせて――鳥になって真相を告げるなど、「杜松の木」とそっくりである。

赤ずきんちゃん】や【カチカチ山】【瓜子姫】では、殺害して調理し、食べさせる者は、悪意の第三者である。「杜松の木」でも、継母となっていて辛うじて他人だ。しかし、殺害者自身も被殺害者の身内であるとする話も少なくはない。

 ギリシア神話に登場するアテナイ王の娘プロクネーは、わが子イテュスを殺して煮、夫テーレウスに供した。というのも、彼がプロクネーの姉妹のピロメーラーを犯し、人に告げることのないよう舌まで切り落としたからだった。我が子の肉を供されたことを知ったテーレウスは、怒って斧を持って姉妹を追った。そして姉妹はナイチンゲールとツバメに、夫はヤツガシラに変わったという。鳥になったのである。

 

煮えたぎる釜と髪の毛一本橋

 日本の[継子と鳥]では、継子は、煮立った大釜か風呂桶に落ちて死ぬ。継母はそれら煮立った釜の上に薄い板か細い橋を渡し、継子にそれを渡れと強要したり、あるいはその上に乗ると出稼ぎ中の父が見えるなどと唆したりする。このモチーフが独立化したのであろう話群に[継子の釜茹で]というものがあり、継母は周囲の人々には豆を煮ているなどと偽って、継子を大釜でぐつぐつ煮る。夫に食べさせるというくだりはないが、「杜松の木」で継子を鍋で煮てシチューにしてしまうのと同様のモチーフだろう。

 

 ところで、「杜松の木」では、煮立った釜に入る、あるいはその上に渡された細い橋を渡るということが、《難題》として継子に課されることはない。しかし西欧の他の民話の中に、それらの《難題》が登場するものがある。

 たとえば、ロシアの「せむしの子馬」系の話だ。欲深い王は主人公の青年に様々な難題を与える。青年は物言う馬の助力でそれらを果たし、ついには太陽の娘を連れ帰る。王は太陽の娘と結婚することを欲するが、娘は「煮えたぎる釜」あるいは「氷のように冷たい水、煮えたぎったお湯、そして最後に、火のように煮えたぎったミルクの釜」に入らなければだめだ、と言う。主人公の青年が最初に釜に入れられるが、前よりもっと美しく立派になって出てくる。王は自分も若く美しくなろうと釜に入り、そのまま煮え死ぬ。他の例では、主人公の連れてきた美女と結婚するために、深い穴の上に渡した棒や縄を渡らなければならない。先に挑戦した主人公は成功するが、王は落ちて死ぬ。

 この、煮えたぎる釜の上や深い穴の上に渡された細い橋は、冥界の橋である。死者が冥界に至る時、髪の毛のように細い橋、あるいは刃の橋、あるいは灰の橋――非常に渡りにくい橋を渡らなければならない、としているところは世界中にある。つまり、民話の中に現れているこの橋は、冥界への渡りを暗示しているのだ。

 たとえば、インドネシアのスマトラ島では、死者は地獄の業火の上に渡してある刃のように鋭い橋を渡らねばならない。ボルネオ島では、巨人が常に揺さぶっている一本の丸木橋を渡らねばならない。ゾロアスター教では、死者はチンヴァットという橋を渡る。悪人が渡ろうとすると、この橋はたちまち糸ほどの幅になってしまう。興味深いのはマレーシアのもので、死者はまず地獄に行き、煮立った大釜の上にかかったメンテグという橋を渡らなければならない。煮立った大釜の上の細い橋。まさに、民話に現れているモチーフそのままではないか。

 世界の民話に現れる類似したモチーフには、「煮立った大釜を飛び越える」「煮立った大釜に手を入れる」「燃えているかまどに入って出てくる」「刃で作った梯子を上る」といったものがある。これらも、やはり冥界行きの比喩なのだろう。これらには常に死と再生のモチーフが付きまとう。

 

 アジアのシンデレラ系の話を見ていると、殺された《シンデレラ》は転生を繰り返した後、元の娘になって再生する。より美しくなった娘をねたんだ《ニセのシンデレラ》は、自分も美しくなろうと、《シンデレラ》が言う通りに煮立った大釜に飛びこむなどして死んでしまう。《ニセのシンデレラ》と《本物のシンデレラ》、両者の違いは何だったのだろう? 姿や心栄えの美しさは二次的なものではないか。《本物のシンデレラ》が主人公足り得たのはただ一点、《再生の力を持っていた》からではなかろうか。

 

 北欧やロシアの民話において、同じように煮立った大釜の中に入ったのに、主人公の青年はより美しくなって出てきて、王はそのまま死んでしまう。《地獄観》で考えれば、主人公は善人であり、王は悪人だったから、ということになる。実際、物語の中の王は主人公に無理難題ばかりを吹きかけていて、我侭で強欲に見える。

 しかし、こうも考えられる。王は年老いているというだけで《悪》であり、死すべき存在だった、と。

 古く、王と国は同一のものであった。王は呪力を持つ。帝や天皇が神であると信じられていたように。天候さえもが王の呪力に作用された。よって、その力の衰えは国の存亡に関わる。民衆の意思により、老いた王は死なねばならない。その残る力を新たな王に譲り渡して。

 ギリシア神話で魔女として名高いメディアは、老いた雄羊を切り刻み、薬湯を煮たてた大釜で煮こんだ。(別説では、雄羊の喉を裂き血を絞り出してから、薬湯を沸かした大釜に投じた。)ややあってふたを取ると、雄羊は真っ白な仔羊となって釜から出てきた。それを見た老ペリアス王の娘たちは、父を若返らせようと、父を切り刻んで煮立った大釜に投げ込んだ。しかし彼は甦らなかった。この老王は、甥で正当な王位継承者であるイアソン(メディアの夫)に譲り渡すべき王位をなんとしても渡そうとしなかった。よってこのような死を迎えたのである。

 が……。

 私は思う。ウラノス――クロノス――ゼウスが親子でありながら《天父神》という機能的には同一であるように、同じ煮え立った釜に入る老王と新王たる青年は、実は同一の存在とも言えるのではないだろうか。――そう、老いた王は煮立った釜に入り、若い王として再生したのだ。魔女メディアは、雄羊を煮る前に、老いた先王――夫イアソンの父でペリアス王の兄――アイソンを、同じように喉を裂いて釜で煮立てた薬湯を注ぎ込み、若返らせたと言われる。王が煮立った釜に入り、王位が若者に移動する。――王が若く再生する。このモチーフは、本来はそういった信仰が根底にあるのではないだろうか?

 

刻む、煮る、火であぶる

 日本のわらべうた――遊び歌に、「あぶく立った 煮え立った」というものがある。日本全国、かなり広い範囲で遊ばれているもののようなので、ご存知の方も多いのではないだろうか。

 まずは、一人の鬼を大勢のその他が囲み、回って歌う。

あぶく立った 煮え立った/煮えたかどうか食べてみよう/むしゃ むしゃ むしゃ/まだ煮えない

 再びその他大勢は鬼を囲んで歌う。

あぶく立った 煮え立った/煮えたかどうか食べてみよう/むしゃ むしゃ むしゃ/もう煮えた

 その後はセリフになる。《煮えた》鬼を戸棚もしくは冷蔵庫にしまい、自分たちは布団で寝てしまう。すると、夜中になって鬼が戸を叩く。

「トン トン トン」
その他「何の音?」
「風の音」
その他「あ〜よかった」
「トン トン トン」
その他「何の音?」
「お化けの音」
その他「キャー!」

 その後は鬼ごっこになり、逃げたその他大勢を鬼が追い掛けて捕まえる。

 昨今、わらべうたの歌詞に何らかの意味を見出そうとする試みが盛んだが、寡聞にして、この歌に関する学術的な解釈は、未だ目にしたことはない。いつ頃からあるものなのか起源すら知らないので、私自身、この歌についてまともな解釈をするつもりはない。だが、現在広まっている歌詞をごく素直に読み取ってみると、何やら食人的な匂いが感じられてくる。

《鬼》は《その他大勢――集団》に煮られ、食べられる。その後、戸棚もしくは冷蔵庫にしまわれ、夜中にお化けとなって現れ、《その他大勢》を襲う。食われた者の亡霊が復讐に現れたようにも思えるし、煮られ、戸棚――うつぼに入れられた者が、異能の者に変容し、再生復活を遂げたようにも思える。《その他大勢》は逃げ惑うのだから、復活は好ましいものではなかったのだろう。

 

 先に、《釜で煮られる》のは冥界の描写であり、死を比喩していると書いた。北欧の宮廷詩人(シャーマン)たちは、死者の魂を泉フヴェルゲルミルに送った。これは《轟き沸き立つ大鍋》という意味である。日本でも、仏教的なイメージなのだろうが、地獄には大釜があるとされている。悪人はこの釜で煮られる。私自身、祖母に「お盆には地獄の釜のふたが開くので、海に近寄ってはならない(引きずり込まれる?)」と言われていた。

 異界には大釜――大鍋がある、神がそれをもっている、という信仰は、西欧でも珍しいものではなかった。多くの女神の神殿には大鍋が置かれていたというから。

 それら神殿に置かれていた大鍋は、祭儀に使われたものだという。つまり、生け贄を捧げ、その血と肉を大鍋に満たした。これは殺害を楽しむ意味のものではなかった。細かい解釈の違いはあれど、死からの再生――不死を願う儀式だったのだ。実際に人間を殺すこともあっただろう。時には、代わりに仔羊や牛などの獣を使ったことだろう。そして、儀式に集まった人々は、大鍋に満たされた血と肉――ナマのままだったこともあろうし、煮こまれたこともあるだろう――を口にしただろう。不死の力にあやかるために。

 

 ギリシア神話に、こんな話がある。リュディア王タンタロスは神々に愛され、神々と食卓を共にする栄誉を与えられていた。それで、ある時彼は我が子ペロプスを刻んで釜で煮、神々の食卓に供した。神々はすぐにそれに気づき、手をつけなかった。ただひとり、大地女神デメテルのみが一口食べた。神々は細切れの肉を繋ぎ合わせ、ペロプスを生き返らせた――少年は以前よりも美しくなって釜から立ちあがった。しかし、デメテルに食べられた肩の部分だけは欠けていたので、そこは白く輝く象牙で補われた。

 一般に、タンタロスはこの罪で冥界に落とされ、永遠の責め苦を受けているとされる。彼が我が子の肉を供したのは神々を試そうとする傲慢であり、罪だったと。

 しかし――そうなのだろうか? 神々が子供の肉に手をつけなかったのは、人肉がおぞましいものだったからではなく、あまりに重大な供物に対して遠慮したからだ、ともいう。デメテルが一口食べてしまったのは、冥界に連れ去られた娘のことを思って放心していたからだとされるが、実際は、大地――豊穣――冥界――再生の女神たる彼女にこそ、この肉は捧げられるものだったからだろう。

 自分の子供を生け贄として神に捧げる話は、聖書にもある。もっとも、ここではギリギリで神がそれをとめ、「お前の信仰心を試したのだ」と言った、との苦しいオチがついているが。古代の人々にとっても、人間を殺して切り刻み、神に捧げる儀式は、不死への断ち切りがたい憧憬を与える一方で、おぞましく受け入れがたいものだったのだろう。

 ともあれ、実の父に殺され刻まれ煮られ、神(儀式に集まった人々)に食べられた後に、釜の中から以前より美しくなって復活するペロプスの物語は、「杜松の木」の、母に殺され刻まれ煮られ、実の父に食べられた後に、美しい鳥〜元の姿で甦る少年の物語の意味を説明してくれるはずである。

 

 釜で煮られ、調理されることによって《より美しく立派に再生する》子供たち。これと同系統であろうエピソードが、やはりギリシア神話にある。人間の乳母となった女神デメテル、あるいは、人間との間に子を成した女神テティスが行った秘儀である。つまり、誰にも知られないように、赤ん坊を炎にかざして炙ったのだ。これは、赤ん坊の燃え尽きる部分――人間の部分、つまり死すべき部分を燃やし尽くし、燃えない部分――神の部分、つまり不死性を残すためであった。女神たちは、赤ん坊を不死なる神にしようとしたのである。(別説では、テティスは赤ん坊を冥界の川に浸した。) だが、この秘術はこれを目撃した人々によって阻止された。「赤ん坊を火で炙れば、焼け死んでしまう」。この常識により、彼らは女神を批難したのだ。不死と再生の魔力は消滅し、子供は不死にはなれなかった――時には、本当に火の中で焼け死んだ。大釜による再生の魔術を知っていた魔女メディアも、一説によると、同様のことを自分の子供に行っていたらしい。それを夫イアソンに発見され、批難され、これが夫婦の亀裂となった。

 

 世界的に、社会には加入式や入社式というものがあって、その集団で一定の年齢に達した子供たち――特に少年たちは、大人として認められるべく、集められ、なんらかの教育が施されるものだった。行きすぎた体育会系の合宿のようなもので、実際に肉体的に痛めつけられたりもしたようだし、あるいは女たちには隠された性的な秘儀――大人の男たちと少年たちの性交が行われたりもした。また、部族に伝わる呪術的な記憶、秘儀が伝えられる時には、少年たちは一時的に死ぬ必要があった。

 ブリヤートやヤクートなど、北方の狩猟民族たちのシャーマンは、シャーマンになる前、必ずある幻覚を見る必要があった。それは、殴られ、虐げられ、体を切り刻まれて、鉄の大鍋で煮られるといったものである。前述の通りこれは冥界の情景なので、臨死体験ということだろう。一度死んで甦ったことにより、死者と世界とこの世界との橋渡しが出来るようになる。

 同じように、秘儀を伝えられる少年たちも死なねばならないのだ。それは幻覚の中で行われることもあった。少年は眠らされ、目覚めた時に「お前の肉体は切り刻まれ、その後に繋ぎ合わされたのだ」だとか「お前は槍で突き通されたのだ」と告げられる。呪力の象徴である《蛇》が、切り開かれた彼の体に収められた、等と言われる。

 しかし、実際に肉体を痛め付ける方法もあった。オセアニアでは、少年たちは燃えさかる焚き火の前に座らされる。そして大人たちは少年を掴み、やけどが出来、体毛が焼け焦げるまで、彼を火で炙りつづける。いくら泣き叫んでも無駄である。デメテルが赤ん坊にそうしたように、少年たちの未熟な部分は焼き尽くされ、立派な男として再生するのだ。別の地域のもっと優しく、儀式的な方法では、少年たちは建物や動物の皮をくぐった後、熱い灰や熱湯をかけられた。ものをくぐることも、冥界(子宮)に入ってて出てくることを示している。

 

 ロシアの民話に、こんなものがある。少年が《森の老人》の元へ修行にやらされる。父親が迎えに行くと、老人は言った。

「いや、まだ渡せぬ。わしはこれからあの子を釜茹でにするんだ」

 老人は火を燃え立たせ、釜を据え、息子を掴むと釜の中へ投げ入れた。すると息子は怪我もなく飛び出してきた。もう一度投げ入れたが、やはり無事だった。

「もういいか」

「いや、もう一回だ。お前はたちまち わしより多くのことがわかるようになる」

 こうして釜茹でにされた少年は、小鳥の声を理解できるようになった。――シグルズやフィンと同じく、聖なる知恵……霊感を身につけたのである。

 

 『今昔物語』巻二第二十に、こんな話がある

薄拘羅ハクラ、善を行って報いを得ること  日本 『今昔物語』巻二第二十

 今は昔、天竺(インド)に仏の御弟子、薄拘羅ハクラ尊者という人があった。その九十一劫の過去(前世)の時、毘婆尸仏が亡くなった後の頃、頭痛が持病の僧が一人いた。前世の薄拘羅は貧しき人としてこの僧を見て哀れんで、呵梨勒かりろくの実(インドや東南アジア原産の落葉高木ミロバランの実。万病に効く薬として珍重された)を一つ与えた。僧はこれを服用して頭痛が治った。薄拘羅は、病んだ僧に薬を施したことによって、その死後の九十一劫の間、天上や人の間に生まれ変わって福を得、楽に暮らして病気になることもなかった。最後に婆羅門バラモン(インドの身分制度の最上級で、僧侶階級)の子として生まれた。

 その母が死んで、父はまた妻を得た。幼い薄拘羅は継母が餅を作っているのを見て、これを欲しがった。継母は憎んで、薄拘羅を掴みあげて鍋の上に投げ入れた。鍋が焼け焦げても薄拘羅の身が焼けることはなかった。その時、父が外から来て薄拘羅を見ると、熱い鍋の上にいる。これを見て驚いて抱き下ろした。

 その後、継母はいよいよ嗔恚しんい(憎悪)を増して、釜の煮えている中に薄拘羅を投げ入れたが、薄拘羅の身は焼け爛れることがなかった。その時父は、薄拘羅の姿が見えないのを訝しんで探したがいないので、彼を呼ぶと、釜の中から答える。父はこれを見て、戸惑いながら抱き出した。薄拘羅の身体は治癒していて、元の通りだった。

 その後、また継母は大いに憎んで、深い河のほとりに薄拘羅と共に行って、薄拘羅を河の中に突き入れた。その時に、河の底に大きな魚がいて、つまり薄拘羅を呑んでしまった。薄拘羅は福の縁が有るために、魚の腹の中にいてもなお死ななかった。

 その時に魚を獲る人があって、この河に臨んで魚を釣るうちに、この魚を釣りあげた。大きな魚を釣ったぞと喜んで、市に持って行って売ったが、買う人がなくて、夕暮れになって魚は臭くなろうとしていた。その時に薄拘羅の父が来て、この魚を見て買い取って、妻の家に持って行って刀で腹を割こうとすると、魚の腹の中に何かがいて、「願わくば父よ、我を害することなかれ」と言う。父はこれを聞いて驚いて魚の腹を開いて見ると薄拘羅がいる。抱き出した。身体に損傷はなかった。

 その後、漸く成長して、仏の御許に詣でて出家して、阿羅漢果(最高の知恵)を得て三明六通(神通力)を備えた御弟子となった。年齢が百六十になっても、身体に病があることはなかった。これは皆、前世で薬を施したためであると、仏が説きたもうたということだ。

 ここでは継母の悪意にされていて、[継子と鳥]や[継子と笛]に近くなっているが、母が子供を火で炙ったり川に突き入れると、父親が来てそれをとめるなど、デメテルやテティスの神話に関連する思想・物語が根本にあったものと思われる。火に焼かれ、聖河に浸され、魚の体内(冥界)をくぐった薄拘羅は、立派な僧――聖人になったわけだ。

 

 子供を火で炙った母の行為が《悪意》として語られたように、語り手が《再生の大鍋》への信仰を持っていない場合、それは否定的に語られる。

 シベリアのウデヘ族の民話に、一人の若者が両親を救うべく《海の彼方の家》へ向かう話がある。(「一人のムルグンが暮らしていた」(外部リンク))/『北東ユーラシアの言語文化』(Web) 東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所

 そこに行く道はある老婆が知っていると助言され、その家に行くが、彼はその老婆を全く信用しない。彼女が出す食事を拒み、彼女が「鍋で煮込んで鉄のように強い体にしてやろう。一緒に鍋に飛び込もう」と持ちかけても信じない。二人の体を縄で結んで飛び込む時、自分の縄だけ緩くしておいて鍋を跳び越え、老婆だけが鍋に落ちて死ぬ。

 この老婆は人食いだったのだと説明されるが、その家に行く前に二匹の番犬と遭遇していることからも、彼女が冥界に住む女神であることがわかる。スラヴ伝承のババ・ヤガーに相当する、富と死のどちらをも与え得る山姥であり、冥界の関守であろう。

 しかしこの伝承では既に、神人共食して加護を得ること、女神の子宮(煮える鍋)に入って強く産み直されることといった信仰は忘れられている。わざわざ訪ねながら、主人公は老婆の助言を全く受けようともしない。全てを胡散臭い魔物の企みとして拒絶していて、物語はそれを肯定している。

 

妹が骨を拾って

 生け贄は刻み煮こまれ、祭儀の参加者たちはその肉を食べる。ところが、唯一、それに参加しない者がいる。参加しないにもかかわらず、儀式において非常に重要な役割を持っているのだ。

杜松の木」において、妹のマリーは殺害にも食事にも参加しない。彼女はテーブルの下で骨を拾って布で包み、杜松の木の下に安置する。この布は、原型的には獣の皮であろうと推測できる。狩猟民族の葬礼において、遺体はしばしば獣の皮で包まれる。つまり、マリーは兄を正しい手段で葬ったのであり、祖霊と一体化した兄の魂は獣(鳥)の姿で帰ってきたわけだ。

 ほぼ同じエピソードは、類似の民話や神話にも現れる。イギリスのシンデレラ系民話「モーリン」では、二人の姉が実母を煮立った鍋に入れて煮溶かしてしまう。唯一殺害に参加しなかった末娘・モーリンは、その骨を集めてエプロンに包み、庭の隅に置く。すると母の魂が白い仔猫となって甦り、モーリンを助ける。シンデレラ系の話では、《シンデレラ》の死んだ母の化身である牝牛、あるいは恋人である魚が継母たちに殺され、食べられてしまうエピソードがしばしば現れる。《シンデレラ》はその肉を食べず、骨を大事に集めて、壺に入れたりどこかに埋めるなどする。すると骨が彼女に富を授ける。ギリシア神話で、ゼウスの息子ザグレウスは、継母ヘラの陰謀により巨人族に八つ裂きにされ、串焼きにされて食べられてしまう。駆けつけた姉アテナが(当然、殺害と食事には参加していない)心臓だけを救い出してゼウスに渡した。別の説では、《大地から生まれた者》がこの子供を引き裂いて煮、女神デメテル、あるいはレア――大地の女神が残った四肢を拾い集めた。後にザグレウスはディオニュソス神として再生する。

 同じくギリシア神話で、父ペリアス王を若返らそうとして彼を引き裂いて釜で煮てしまった娘たちのうち、唯一アルケスティスだけは魔女メディアを信用せず、殺害に参加しなかった。彼女は父の四肢を拾い集めて復活させはしなかったが、後に、死すべき夫アドメートスの身代わりに冥界に連れ去られ、しかし許されて戻ってきた。(別の説では、連れ去られかけたところでヘラクレスに救われた。)彼女自身が《甦った者》になったわけだが、《夫を甦らせた》とも言える。

 

 この、骨を拾い集める乙女、煮られる者の近親者たる女は、儀式における《巫女》なのだろうか。彼女は釜の持ち主たる女神の小分身なので、そう考えれば煮られた肉は彼女にこそ捧げられるものであるはずだが、この儀式が蛮行として人々に疎まれるにつけ、逆に、《彼女だけが肉に手をつけなかった》と語られるようになったものか。彼女が煮られる者の近親者なのは、儀式の本来の形が、女神の夫が殺され、彼が息子〜新たな夫として甦る、というものだったからだろう。アドニスを失ったアフロディテが、アキレスを失ったテティスが泣き叫んだように、釜の持ち主たる女神は、死んだ若者〜愛する夫を悼んで泣かねばならない。その悲嘆の後、煮られた者は甦る。…彼女の子宮(大釜)から、息子として再生する。

 一説によれば、魔女メディアは恋人イアソンと共に逃亡するため、実の弟をバラバラに切り刻んでばらまいたという。追っ手がその肉片を拾い集めている間に彼女らはまんまと逃走した。実弟殺しはメディアを魔女たらしめている残虐行為として名高いエピソードだが、追っ手が追うのも忘れて肉片を拾い集めている辺り、これも生け贄と再生の儀式であって、肉片を拾い集められれば、刻まれた弟はちゃんと再生できたに違いない。先に書いたように、儀式によって刻まれる者は、巫女の愛する近親者でなければならない。相手が実の弟なのに刻んだ、ではなく、相手が愛する弟だったからこそ刻んだ、ということだ。

 

 骨を拾い集めて繋ぐと死者が甦る、という思想は、世界的に見ることが出来る。前述の西行が死者を甦らせる話、後述のトールの山羊の話もその一つである。これらの物語の多くには、「骨の一部が欠けていた為に、甦った肉体が完全ではなかった」というモチーフが入る。聖書にも、「(生け贄の仔羊の)骨を折ってはならない」「主は彼(キリスト)の骨をことごとく守られる、その一つだに折られることはない」等と出てくる。再生する者の骨を傷つけるのはタブーであるようだ。……中世西欧では、生き物の体に《骨の種子》があり、これは腐敗せず、ここからまた植物のように体が再生する、などと信じられた。

 

 殺された者の骨を拾い集め再生させるのが聖なる巫女ならば、殺して刻み煮込むのは邪悪なる巫女だ。しかし、この両極端の巫女たちは、再生の大鍋の持ち主たる女神の分身であって、根本的には同一の存在である。にもかかわらず、邪悪なる巫女は人々に石持て追われ、生け贄と同様に残虐に殺される運命も持っていた。

杜松の木」の継母は石臼に潰されて死ぬ。[継子と鳥][継子と笛]に登場する多くの継母・殺害者が同様の目に遭う。魔女メディアは夫も子も失い、幾度も国を追われた。プロクネーは、斧を持つ夫に追われ、鳥に変わった。ディオニュソス神の養母イーノーは、狂って我が子を煮立った大釜に投げ入れ、その死骸を抱いて海に飛び込んだ。同じく、ディオニュソス神の恋人アウラーは、狂って神との間の子を殺し、自らも河に投身した。ディオニュソス神を迫害した王リュクルゴスは、狂って我が子を八つ裂きにし、その後、彼自身も人民に馬に縛り付けられて八つ裂きにされた。その死によって土地に実りがもたらされたという。

 邪悪なる巫女が殺されてしまうのは、この暗い儀式の忌むべき部分、おぞましさの責任を、全て彼女に負わせてしまうからだろう。もっとも、《殺される女神》――地母神を殺害し、その肉体を刻んでばら撒くことで、大地に豊穣をもたらす――「ハイヌヴェレ神話」に代表される信仰が混入しているのかもしれない。

 

魔法の大鍋

 北欧神話に、神々が鍋を盗みに行く話がある。

 雷神トールと戦神チュール(ここでは邪神ロキのこと、との説がある)が、巨人エーギルにビールを造るよう命じる。エーギルは巨大な鍋を要求する。そこで、チュールの父・賢人ヒュミルの持つ大鍋を奪いに行くことにする。ヒュミルの家は大地の果てにあった。彼は恐ろしい巨人だが、その妻がかくまい、とりなした。トールはヒュミルと幾つかの勝負をして勝ち、鍋を手に入れる。帰ろうとすると頭の沢山あるヒュミルの軍団が追ってきたので蹴散らしたが、気がつくとトールの連れていた山羊の片足が不自由になっていた。これはロキの仕業だった。

 神々が鍋をめぐって戦うなど、一見ギャグのようにも思えるが、ここまで読んできたあなたになら、この神話の意味する真の意味が読み取れるだろう。――これは、死と再生の神話だ。ついでに言えば、冥界にくだり、不死の呪物(鍋)を奪い、そこから帰還する物語である。

 トールの連れている山羊の片足が不自由になる、というモチーフは、別の物語でも現れている。貧しい百姓の家を訪れたトールとオーディンが、連れていた山羊を殺して煮て、それを百姓一家にふるまった。ただし、決して骨を噛み砕いて髄を吸ってはいけない、と戒めて。しかし、百姓の息子はこっそり足の骨の髄を吸ってしまう。翌朝になると、トールは山羊の皮の上に置かれた骨をハンマーで祝福して甦らせた。ところが、山羊の片足が不自由になっていた。 --> 参考[魔法使いの娘

 鍋泥棒の物語の最後に唐突にトールの山羊の足のエピソードが入るのは、この物語を引いているのだと思われる。冥界のヒュミルの家に下ったトールは、山羊と同じように煮られ食べられて死んでおり、それが甦った、ということを比喩しているのだろう。片足が不自由だというのは、半分だけ「足で歩かない」者、すなわち冥界に属する霊的存在だということを意味しており、冥界と現界を自由に行き来できるシャーマンだということを比喩していると思われる。

 

 鍋(壺)に満たされた霊酒は、北欧神話では他にも現れる。巨人――古い女神が守っていたそれを、鷲や蛇に変身した男神が盗み出す。よく似た物語はインド神話にも現れる。酒は、鍋の持ち主たる女神の知恵の血――経血であり、鍋に満たされた生け贄の血でもある。鍋で煮こまれた、焼かれた肉と同じく、それは不死――若さ・命・治癒力・変身、あるいは霊感や肉体の力を与える。

 

 ケルト神話にも、有名な魔法の大鍋が登場する。この大鍋は食べる者の徳に応じていくらでも食べ物が湧いて出た。持ち主はダグダ神で、女神ではなく男神である。しかし彼は冥界の神でもあって、常若の国にいくら食べてもいなくならない豚を飼っていた。この豚たちは、殺して食べても翌日には生き返っているのだ。トールの山羊のように。

 ケルト――ウェールズの女神ブランウェンは、湖の中の島に住む三人の女神のうちの一人だったが、死者が中に入ると一晩で甦る《再生の大鍋》の持ち主だった。そもそも、彼女の住む湖こそが《大鍋》なのだ。ケルトの神殿には、どこにも聖なる大鍋が置かれていたという。それは女神たち――妖精たちの持ち物だった。

 

血まみれの聖杯

 八世紀、キリスト教会は《巫女たちが料理をする場所》に《大鍋を持っていく》という異教の風習を禁止したという。この異教の巫女たちを、キリスト教会は《魔女》と呼んだ。

 不死の魔力を持つ大鍋は、時代が下ると、異教の忌むべき呪物とされた。つまり、魔女の持ち物となった。現代の私たちの想像する、妖しげな薬草やイモリや蛙を煮込む魔女の大鍋――そのルーツは、血にまみれた供犠用の鍋、あるいは神酒の満たされた容器だったというわけだ。

 もっとも、キリスト教が大鍋の信仰を完全に廃していたわけではない。使徒ヨハネは煮えたぎる大鍋に入れられ、以前より美しくなって出てきたという。そもそも、キリスト自身が殺された後に甦る――オシリスやアドニスと同じ、植物〜太陽の化身……《聖王》の信仰を基にした者であって、女神の血の大鍋との関連は深いのだ。彼はそこで煮られて、新たな王としてこの世に復活するのだから。

 キリストが十字架(十字架は生命樹の象徴である)にかけられて殺された時、その死体の脇腹に槍が刺され、ほとばしった血は杯に受けられた。これが聖杯である。あるいは、キリストが最後の晩餐の際にワインを満たして「私の契約の血である」と言いながら使徒たちに飲ませた杯だというが、いずれにしても、中に赤い液体の満たされた杯のことで、この液体はワイン=キリストの血、だと考えられている。

 聖杯の信仰は、スペインのムーア人の伝承からキリスト教に取り入れられたとされている。聖杯の神殿はスペイン領ピレネー山脈の高い山の上にあり、様々な宝玉で飾られている。この山は女神の丘、歓びの山であって、すなわち女性器の比喩である。神殿には女王がおり、聖杯と貴婦人の守護を誓う勇猛な騎士たちがここを守っていた。聖杯の縁には炎の文字が浮かび、騎士たちに女神の危機を知らせるのだ。

 聖杯とキリストを最初に関連させたのは、十二世紀、クレチャン・ド・トロワの「ペルスヴァル または聖杯の物語」だとされる。しかし、ここで登場する聖杯は、料理のたびごとに席の間を飛びまわる、中に神の食べ物――聖体を入れた容器であり、むしろ豊穣の角やダクダ神の大鍋に近いマジックアイテムに過ぎない。これが、ブルゴーニュの詩人、ド・ボロンの著作によって、キリストの最後の晩餐の杯と結び付けられた。それによれば、この杯は元々、堕天使ルシファーの冠の宝玉だった。よって、キリストに破滅をもたらしたのである。アリマタヤのヨセフがこれを持ってイギリスに渡り、聖なる晩餐の儀式に用いる円卓を供えた聖杯の神殿を作った、と。後の幾つかの書物を経て、聖杯は騎士たちが探求するべきものになり、絶大な人気を誇ったアーサー王伝説群によって人々の間に浸透して行った。

 

 キリスト教には《聖体拝領》という儀式がある。祭日や日曜日ごと、教会で神父の手から小さく千切られたパンのかけら、そして杯のワインを一口ずつ与えられるものだ。これはキリストの肉であり、血である。大人のキリストではなく、幼子のキリストのそれであるらしい。古くから、キリスト教会の中ではこの《聖体》の実在性について激しい論議が重ねられてきた。パンやワインを単なる《象徴》ととるか。それとも、《奇跡によって、現実にパンやワインが肉と血に変わる》とするか。後者の方が正しいとされていたようだ。つまり、公然と人肉――キリストの血と肉――を食べる、とされていたのである。同様の儀式の片鱗は世界中にある。饅頭は、本来は生け贄の代わりに作られたものだった。小麦粉を練って人形を作り、それを引き千切ったり食べたり、生け贄の代わりにする儀式は、フランス、チベット、メキシコでも見られる。

 神の肉を食べるのは、神の魂と力を取りこみ、一体化するためである。ギリシアにも、古く《内臓まで食べること》という聖体拝領の儀式があったという。最も初期の頃には、信徒たちは犠牲者――生け贄の動物に群がり、よってたかって素手と歯で引き千切り、生のまま食べて血を飲んだ。生け贄の中に神が存在し、食べることによりその魂と不死性が人々に移ると信じられていた。神が聖なる肉体に再生する時、自らも再生できる。

 

 人々は、再生する者――植物――太陽……すなわち、聖王を食べる。食べることにより、その力にあやかろうとする。しかし、何故 鍋で煮られ食べられる者は再生するのだろう?

 鍋……釜が冥界、すなわち女神の子宮を現していることはすでに述べた。そう。死者は、女神に食べられることによって……経口妊娠によって再生されるのだった。

 タイやニューギニア、アフリカ等では、死者、乳飲み子が《母》に食べられれば、その子は新しい子供となって生まれてくる、と考えられていた。オーストラリア原住民の女性は、乳児が死ぬとその肉を食べ、骨は赤く塗って自分の体に吊るした。死んだ子を胎内に戻し、再び出産する、という呪いである。骨を赤く塗るのは、再生の呪力のある血――母親の胎内の血に、死んだ子をもう一度浸す意味があった。

 どうやって妊娠するのか、そのメカニズムが明確化されていない頃、妊娠・出産は母親の不思議な力によるものであり、その胎内に死者の霊が宿って再生すると考えられていた。妻――母の手によってバラバラに引き千切られた夫――息子は、《食べられて》《釜で煮られ》――母親の血となり肉となって、新たな命として再生する。

 生命の神秘に対する人々の恐れと崇拝。それこそが、この一連の奇妙な物語、その根底の残酷な信仰の原型なのだろう。

 

>>参考 <青髭のあれこれ〜「本当は怖い」民話?><童子と人食い鬼のあれこれ〜片目の神><赤ずきんちゃんのあれこれ〜針の道か、ピンの道か

主な参考文献

『魔法昔話の起源』 ウラジミール・プロップ著、斎藤君子訳 せりか書房
『世界樹木神話』 ジャック・ブロス著、藤井史郎ほか訳 八坂書房
『ディオニューソス ――神話と祭儀』 ワルター.F.オットー著、西澤龍生訳 論創社
『大地・農耕・女性 ―比較宗教類型論―』 M.エリアーデ著、堀一郎訳 未来社
『狼男伝説』 池上俊一著 朝日選書

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