■七夕の話

 七夕は、現在の私たちの間では”星祭り”として定着しています。離れ離れにされてしまった牽牛(彦星/鷲座のアルタイル)と、織女(織姫/琴座のヴェガ)が、年に一度、天の川を渡って逢瀬をする日。けれど、雨が降ると天の川が溢れて逢えない。悲恋の恋人たちの夜です。日本では、この日には笹竹を飾り、それに様々な色紙を切った飾りや短冊を吊るします。この時、短冊に願い事を書くと叶えられると言います。

 けれども、この現在の”一般的な”イメージは全国的に習合・イベント化されたもので、昔ながらの各地域ごとの”七夕”からすればかなり簡略化したものです。更に、本家中国、お隣 韓国を見ていけば、また違った”七夕”を見ることも出来ます。

 そもそも、七夕とはどんな祭りなのでしょうか。中国の伝承、日本・韓国の風習を見て行くと、星だけではなく、水に深く関わる祭だということがわかります。では、七夕は本来、水の祭なのでしょうか。ところが、ルーツを見ていくと、また別の面が現れても来るのです。

 

七夕のルーツ1……乞巧奠

 七夕のルーツは、中国の乞巧奠きっこうでんという古い行事にあると言われています。中国の六世紀の書物『荊楚歳時記』によると、七月七日を牽牛と織女が逢う晩とし、この日、夕方になると女たちは五色の糸を七本の針に通したそうです。この針は金や銀、真鍮で作られることもあります。そして庭に机や敷物を出し、その上に酒や干し肉、瓜や菓子を並べ供えて、裁縫の腕の上達を願いました。この時、蜘蛛が供え物の瓜の上に網をかければ願いが聞き届けられたとしたそうです。

 現在の私たちの行事とは全く違いますね。笹竹も短冊も出てきませんし、願い事も何でも叶うと言うわけではなく、縫いものが上達する、ということになっています。(実際、行事の名前自体も”巧くなることを乞う祭”、ですね。)織女に対して願う、女たちの祭りのようです。

 ただし、中国のもっと古い時代の七月七日には、乞巧奠とは別に現代の私たちのように子孫繁栄や富など、様々な願い事をしていたようです。後漢の『四民月令』には「子の無き者が子を乞う」とあり、『風土記』(A.D.280年頃)には「富と長寿と子の三つから一つだけを乞う」とあります。

 この乞巧奠が日本に伝わり、宮中で貴族たちの行事として行われました。伝えたのは、機織りや養蚕の技術を持ちこんだ渡来人達だとの説があります。最初に行われたのは孝謙天皇の時ですが、年中行事として定着したのは平安時代以降のようです。

 平安時代の乞巧奠は、こうでした。

 七月七日、御所の庭に敷物を東西に長く敷き、朱塗りの高机を東西の敷物の端に南北二脚ずつ、全部で四脚置きます。東南と西南の机の南側には梨・桃・ささげ・大豆・熟れた瓜・茄子・薄く切ったアワビを盛った足付きの皿を並べ、北側にはお酒や青磁の壺、朱塗りの華盤など置きます。西北と東北の机の西側には香炉を置き、東側には蓮の花五本か十本を飾った朱塗りの華盤を置きます。そして、西北の机にだけ更に、金と銀の針七本ずつを刺した柏の葉を置きます。この針には七つの孔があり、五色の糸をより合わせたものを通しています。もっと昔は金と銀の針一本ずつを色紙一枚に刺していたそうです。その他、筝一張、灯明九つなどを置き、粉五合を敷物や机の上に撒きます。庭に椅子を置き、天皇が牽牛と織女の逢瀬をご覧になったそうです。針と糸を置くのは裁縫の上達を、筝を置くのは技芸の上達を願って、だそうです。他に和歌も詠んだようです。

 江戸時代になると、御所の庭二間(約三・六メートル)四方に枝つきの竹(高さ二〜二・四メートル、太さ一回り十五センチ程度)を立て、この上に小縄をめぐらしました。現在、神主さんが地鎮祭の際に立てるものにそっくりですね。縄の囲いの内には敷物を敷き、天皇側の縄には五色の絹糸をかけます。御所の縁側には高机を置き、その上に針・糸・扇・笛を置きます。また、瓜を皮ごと輪切りにしたものと塩あわびを切ったものをそれぞれ七つの皿に盛って台に載せ、梶の葉・ひょうたんの葉を敷いた上に蓮の花をむしって置きます。縁側には更に、角盥つのだらいに水をいっぱい張って置きます。灯明を七つ灯し、懐紙を卓の上に置きます。

 江戸時代になってようやく、行事に笹竹が出てきました。けれど、まだ”五色の糸、針”といった中国オリジナルの乞巧奠の名残を見ることが出来ます。竹を立てるようになったのは、民間の七夕祭りを取り入れたからのようです。しかし、一体いつから、何の意味で竹を立てるようになったのか、はっきりとはしていません。文献に現れ始めるのは鎌倉から室町時代にかけてだそうですが。四本立てて縄を張り巡らすところから見ると、単に聖域を作ったように見えますね。(竹は常緑で殺菌作用を持つこともあり、日本では異界〜冥界と関連する神聖な木。張られた縄は境界を示す。) 

 なお、江戸時代、備後国の民間の”七夕祭り”は、こうでした。

 七月六日の午後二時半頃から、新しい竹を切り、葉のついたままの枝に五色の短冊を付けて立てます。短冊には、月初め頃から競い合って詩歌などを書きしたためます。瓜・茄子・五色の糸などを供え、すずりを洗ったりすることもあります。また、子供たちが短冊を付けた笹を寺子屋(学校)に持って行くと、先生がご馳走してくれることもあったそうです。翌七日になると、短冊・笹・供え物などはみな川に流します。これらは、星合いのカササギの橋の材料になると言い伝えられていたそうです。

 なんと、笹竹を飾るのは七日ではなく、前日の六日なのですね。現在の私たちの七夕にかなり近い感じですが、まだ”五色の糸”が残っています。短冊に書くのは願い事ではなく、一生懸命書いた詩歌だというのも違います。芸・技能の上達を願う、という意味がまだ残っているようです。とはいえ、子供が七夕の短冊で勉学の上達を願うという風習は、実はごく最近まで普通にあったようなのですが、最近はすっかり忘れられている感じですね。勉学の上達を願うのは最近は流行らないのでしょうか? なお、新潟では、七夕に女の子がんで夕顔棚に掛けておくと苧績みの腕が上がると言われていたそうで、糸・針仕事の上達を願う乞巧奠的な習慣が日本の民間にもある程度定着していたことはわかります。(苧とはイラクサ科の植物で、その茎から糸を作る。「績む」とは苧を細く裂いて、長く合わせて糸を縒ること。)

 ちなみに、韓国の七夕も中国の乞巧奠が宮中に伝わったものがルーツだそうで、日本のそれより乞巧奠らしさを色濃く残しています。大体次のようなもの。

 各家庭でミルジョンビョン(小麦粉の煎餅)と季節の果物を供え、女たちはしょうゆや味噌のかめを置く台に井戸から汲んだ若水を供えて家族の長寿と家内安全を祈り、少女たちは織女星に針仕事の上達を願いました。若水を供えた次に灰を平らに載せた盆を置いておき、翌日それに何かが通った跡があれば祈願成就の証としたとか。他に、中国の乞巧奠そのままに、瓜や胡瓜を上位に置いて手をついて礼をして、後に食べ物の上に蜘蛛の網が張ってあれば、願いが成就したと喜んだりもしたようです。一方、少年たちは夜空に星を描いて学問上達を願いました。

 

七夕のルーツ2……棚機

 七夕は七月七日の夜に行われる行事です。ですから”七夕”と書くのは解るのですが(本来は中国の言葉です)、これをどうして日本では”しちせき”ではなく、”たなばた”と読むのでしょうか。

 日本には、中国から乞巧奠が伝えられるより以前から”たなばた”に類する習慣が存在していました。”たなばた”は”棚機”と書きます。これは機織り機のことです。機織り機は棚状の構造になっているのでこう呼ばれていました。また、機を織る女、乙棚機おとたなばたまたは棚機女たなばたつめのことを略して棚機ということもあります。

 棚機女は巫女でした。つまり、神の妻です。彼女は年ごとに村の中から選ばれ、一人、人里から隔離(聖別)された建物の中で夫たる神をその衣を織りながら待ちます。訪れた夫神は、彼女(村)に”豊穣”を授け、代わりに穢れを持って立ち去るのでした。

足玉も手玉もゆらに織る機を 君が御衣みけしに縫いあへむかも(万葉集)

足のアクセサリー、手のアクセサリーをゆらゆらさせながら織った布を、あなたのお着物に縫い上げましょう

 一方、中国の伝説の織女も、その名の通り機を織る女でした。天帝の娘とされる彼女は天女――女神です。神に関わる機織り女、ということで、日本の棚機女と中国の織女の同一視が起こったのでしょうか。

 

 それにしても、どうして女神は機を織るのでしょう。

 ギリシア神話の運命の三女神モイライは、人の人生を表す機を織ったといいます。その人間の人生が終わる時、機の糸は断ち切られました。糸紡ぎ・機織りと言った仕事は女性の普遍的な仕事でしたから、当然、女神もその仕事を”より上等に”こなしていると考えられたでしょう。そして、女神である故に、その仕事には特別な力・意味があると考えられたようです。針と糸を使って”世界”を作り上げた女神もいました。中国のヤオ族の神話では、世界は漂う大山より生まれた女神・密洛陀ミロトという女神によって作られました。彼女は天と地を作りましたが、天より地が大きかったので、糸で天地を縫い合わせました。よって天は丸く隆起し、地にはスカートのようにギャザーが寄って山や川になったそうです。

 民話や神話、伝説を見ていくと、女神(神女、妖精、天女)は多くの場合、水と糸(機)に関わって現れてきます。「水の側で長い髪を梳く女」もしばしば現れますが、これは機織りを表しているのだそうです。

 日本の棚機女の座す機屋の側には必ず河か池か海か、水がありました。これは、生命の水の根源的なイメージです。あるいは、異界と現界を隔てる水――水の彼方から神が寄り来る、という信仰でもあったでしょうか。古く女権性の社会では、家を構えて座しているのは女で、男はそこに訪ねてきて種を残す――夜這い婚だったのですから、棚機女が機屋で夫たる神を待つ、というのは解りやすい考えのように思います。

 「天稚彦の草子」「七夕女」参照。選ばれた乙女は、一人、水の傍の特別な建物に座して夫たる神を待つ。神話を紐解いても、特別の建物にこもって機を織るアマテラスやサクヤヒメのもとに、夫たるスサノオ、ニニギが現れる。

 なお、機屋は多くの場合、水の上に板を掛け渡した懸造に作られていたとされ、渡した板――”棚”の上で機を織る女、という意味で棚機女という、との説もあります。棚は神棚や盆棚と同じく神霊への供物を載せるための台なのですが、私は水(境界)に渡した板――すなわち棚橋(欄干のない板の橋)、異界(神霊)と現界(人)の橋渡しをするもの、という意味もあるかと思っています。

天の川 棚橋渡せ 織女たなばたのい渡らさむに 棚橋渡せ(万葉集)

 ペルシアの女神アナーヒター(弁天)は水の源に座していると言われましたが、神の花嫁である棚機女は、そういった創造・生命の根源の女神の縮小版だったのでしょう。棚機女の習慣は廃れて後も人々の記憶に残り、機織り淵伝説――水神の生け贄に捧げられた娘が、神の妻となり、水の底で機を織りつづける――といった日本各地の伝説や民話になっていったと考えられます。

 中国の織女も最初から”河のほとりで”機を織る女です。私は、棚機女は日本独自のイメージではなく、やはり原型は海外から伝わってきたものではないかと思います。別々に伝わってきた根を同じくするイメージが、出会って再び融合した。そんな風に思っているのですが、どうでしょうか。

 

七夕のルーツ3……お盆

 ベトナムでは満月ごとに民間信仰的な行事が行われているようで、七月の満月をカップルの月と呼び、七夕によく似た伝承が伝わっているそうです。

 実は、満月に合わせて行事を行うのは日本でも同様で、満月に魂祭り(正月、盆)を設定し、その前の半月の日を魂祭りの期間に入る”神ごとの日”と定めていました。例えば一月七日には七草粥を食べますが、これは小正月(陰暦一月十五日)の前、その期間に入る日という意味合いでした。七日正月と言います。同様に七月七日も七日盆と言って、十五日のお盆まで一続きの、祖霊を迎える期間の始まりの日、という意味があったのです。

 逆に言うと、日本の七夕はお盆期間中に行えばよいもので、必ずしも”七日”に行うものではなかったようです。実際、地域によっては六日だったり八日だったり、数日がかりだったり。七月一日から七日の期間中に雨が降ると彦星と織姫が逢えない、と言う地域もあります。

 前述の棚機女も、一説では盆に先立つ祓いの儀式だったといいます。選ばれた乙女が水辺の機屋で神と一夜を過ごし、翌日七夕送りをして(あるいは、村人も禊をして)穢れを神に託して持ちさってもらったのだとか。

 実際、日本では七夕(旧暦)とその後にくる盆祭をひとまとまりの行事として捉えている地域が多いそうです。一説によれば、お盆の棚に印として旗(飾りつきの竹竿か?)を立てたため、”タナバタ”といったのだとか。

 例えば、関東を中心に藁などで”七夕馬”と呼ばれる馬や牛の人形を作る地域があります。この馬を飾ったり、あるいは子供たちが引きまわして草刈りや田めぐりに連れて行ったりし、最後には川に流したり屋根に投げ上げたり、柱に縛ったりします。これに”七夕さま”が乗って来る、と言ったりもするようで、まるで、お盆に一部地域で作られる、祖霊が乗るという茄子や胡瓜の馬のようです。実際、西日本では七夕馬を茄子や胡瓜で作るところもあるそうです。(この、祖霊の乗り物をナスや胡瓜で作る習慣を突き詰めると、農業の収穫祭に行き当たります。)

 余談ですが、室町時代の将軍家では、七夕、七枚の梶の葉に歌を書いて、これをそうめんなどと共に竹にくくって、後ろ向きのまま屋根に投げ上げていたそうです。中国と日本の風習がちょうど折半になった形で、面白いですね。

 棚機女が水の傍で神の来訪を待ったように、七夕には川や海から”七夕さま”がやってくる、と考えていた地域も多いようです。川原に笹竹を立てたり、七夕船といって、船を模したオブジェを作ったり、あるいは実際に船を飾りつけて供え物をし、その周囲で祭りをしたり神輿のように担いで練り歩いたり。そうして最後には海の沖に押し流し、”帰す”のでした。

 日本のローカルな七夕を見ていくと、笹竹等を立てる、七夕船や七夕馬を作る、といった”祖霊(神)を現世に迎えるための準備”と、”やってきた祖霊への供え物”が必須になっています。ロマンチックな牽牛と織女の伝説は、殆ど関係ない感じです。供え物をするのは中国の乞巧奠も同じなのですが、祖霊を迎える準備のあたりは、乞巧奠とは違う土俗の古い匂い――祖霊信仰が感じられます。

 北海道には”ロウソクもらい”という独特の七夕の習慣があるそうで、ハロウィンのように、子供たちが「ロウソク出せよ、出さないとひっかくぞ、くいつくぞ」と言いながら各家を回ってお菓子や文房具をもらうのだそうですが、本来はお盆祭の灯篭作りのためにロウソクや材料費をもらって回る意味があったのではないか、と言われています。この慣習は青森等のねぶた祭り関連のそれに近いのだそうで、ねぶた祭りの掛け声「ラッセラー」は「ロウソクをよこせ」という意味があるのだそうです。後述のように、ねぶた祭りは実は七夕の一バリエーションとも言えますので、お盆に先立つ行事として七夕が位置していたことがわかります。

 ただし、時代と共に七夕が盆行事の始めである――七夕さまと祖霊が同じものである、という意識が薄れてからは、お盆関連の行事を七夕からはわざと少しずらす地域が増えたようです。七月六日に迎え火をたいたり、迎えた祖霊(七夕さま)をお盆直前の七月十三、四日頃に帰したりするようになったとか。迎えられて帰されて、また迎えられて。ご先祖様も大変ですね。

 なお、韓国では七夕の日、地域によっては畑に出て豊作祈願の田祭りを行ったり、告祀(自分や家族の厄を祓い、幸運を祈る祭祀)をしたりしたそうです。また、女の子の健やかな成長を祈願して馴染みの巫女に祈ってもらったりしました。これを”七夕迎え”というそうで、日本の”七夕さまを迎える行事”と どこか繋がるような繋がらないような感じです。

 

七夕と瓜、水

 中国の乞巧奠、そして日本の宮中の乞巧奠から民間の七夕祭まで、糸の他に一貫して現れている供え物があります。

 それは、”瓜”です。日本には逆に、七夕には絶対瓜を供えてはいけないと戒めている地方もありますが、いずれにしても”瓜”は七夕と関連付けられているわけです。

 中国の古典に「織女は瓜果を主どる」「果瓜糸綿珍賽を司る」などとあり、織女と深く関連するものとして供えられていたと思われますが、何故織女が瓜なのか、その理由はよくわかりません。つるが糸を思わせるからでしょうか? けれど日本の七夕伝説を見ていったとき、一つの意味を見出せます。なにしろ、彦星と織姫を隔てた天の川は割れた瓜の中から溢れ出したのですから! そして、その瓜は織女の家の畑のものなのでした。

 瓜――胡瓜は水神の象徴とされます。胡瓜を輪切りにした木瓜紋は水神(龍神)を祀る祇園社の紋ですし、水神の零落した姿とされる河童の好物は胡瓜です。瓜はたっぷりと水分を含んでいるからでしょう。砂漠地帯ではスイカやメロンは咽を潤す水筒代わりになります。

 水をたっぷり含んだ天の瓜を割った、あるいは間違った切り方をしたとき、瓜の中から大水が溢れ、大河となって夫婦を隔てるのです。

 しかし、数多ある七夕の由来話において、瓜から水が湧いたとしているのは日本のものだけです。何故でしょうか? 日本でのみ独自に発達したモチーフなのか、中国の方で忘れられたのか……。中国の話では、かんざしで天を引っかいた傷が天の川になったり、単に元からあった河の向こうに追いやられたりしています。ただし、中国の神話には、かつて大洪水が起こって世界が一度滅んだ時、ただ一組の男女が瓜――ひょうたんに乗って難を逃れた、というものがありますので、中国でも水と瓜の関わりは考えられていたものと思います。

 ところで、江戸時代の日本の宮中の乞巧奠では、供え物の他に角盥に張った水を置いていましたよね。日本では七夕のときにたらいに水を張って置くことがよくあったようで、風で水面が揺れると水に映った星が河を渡って出会ったように見えるのを楽しんだ、などといいます。福岡県の星の宮という神社では、七夕の日、川に置いたたらいの水と短冊で縁結びの神事を行ったそうです。そして、面白いことに、韓国でも七夕には井戸から汲んだ若水を台の上に置くのですよね。どうも、星を映して楽しむためというより、もっと別の目的で水を供えたのではないかと思うのですが。

 なお、若水とは普通、立春か元旦の一番最初に汲んだ神聖な水のことを言います。この水には若返り(美しくなる)効果があると、世界的に信じられているようです。つまり、井戸をさらったり物をすすぎ洗ったりして一年の汚れを落とし、新たな一年を始める――そんな新年的なイメージが七夕にあったことが推測できます。

 以上のことからしても、七夕は水に深く関わる祭であるようです。

 前述の江戸時代の備後国では、七月七日の朝、家々では井戸さらえをし、神酒を供えて水神を祀ったそうです。また、この日に川に入れば一年中河童の災いを退けられるとされ、人も牛馬も川や海の水を浴びました。七夕の水は特別で、油が落ちると言い、櫛や行灯を洗ったそうです。

 現在においても、水に関わる七夕の習慣は日本各地に残っています。七夕には水泳をするという習慣は今でも各地にあるそうですが、千葉県夷隅郡長者町では、逆に水泳を禁止するそうです。七夕の水で洗濯すると汚れや油がよく落ちる、とする地域も多いです。他には江戸時代と同様に井戸さらえをしたり、お盆の準備の意味か、墓石や仏具を洗ったりもします。面白いのは埼玉県のもので、七夕に髪を洗うと黒く長くなる、というのです。これも”汚れがよく落ちる”のバリエーションなんでしょうが、水の側で髪を梳く棚機女を連想させますよね。また、里芋の葉についた七夕の朝露を集めて墨をすり、短冊を書いた地域もあったとか。七夕の朝露は天の水、と考えられていたのだそうです。(この風習は、室町時代の貴族の間に既にありました。)京都の貴船神社では七月七日に水祭りを行います。

 なお、韓国でも、七夕には井戸さらいをするそうです。そして井戸のふたの上に蒸し餅を供えるとか。他に、衣類や書物の虫干しもするそうです。日本でも、中古の頃の宮城では七夕に虫干しを行っていたそうですが。ここでも、七夕にものを清める、新しくするという思想が出ていますね。これらの風習は半島経由で日本に伝わってきたのでしょうか?

 「水に流して忘れましょう」という言いまわしがありますが、嫌なことは水に流すときれいに消え去ってしまうようです。

 江戸時代の記録を見ると、使い終わった七夕の竹や供え物は川に流すことになっています。この習慣は最近まで各地に残っていたようですが、今は川が汚れるという理由で禁止されているようですね。

 ひな祭りのルーツとして”ひな流し”という行事が知られていますが、これは、子供をなぞらえて作った紙の人形を川に流し、災いを人形に肩代わりさせて祓ってしまう、というものでした。実は七夕に同様の意味の行事を行う地域があります。長野県大町市では紙の人形を吊るして飾り、後に川に流したそうです。(七夕人形の風習は兵庫県姫路市東部にもありますが、こちらは川に流さず毎年使うそうです。)しかし、この系統の祭りで最も有名なのは、青森等のねぶた祭りでしょう。ネブタはネムノキ。睡魔のことです。ねぶた祭りとは睡魔を祓う祭なのですが、この睡魔は元々”災い”のことで、人形に災いを肩代わりさせて水に流すのと同義の意味を持っていました。実際、大正の頃まではねぶたは川に流されていたそうです。

 実は、笹竹や七夕馬ではなく、七夕にネムノキを立てる地域も多いのです。そうしてネムノキに睡魔を依らせて川に流し、祓うのです。その観点から見れば、ねぶた祭りは七夕祭りの変形なのでした。なお、ねぶた祭りの起源を京都の祇園祭とする説もありますが、祇園社は水神を祀ります。いずれにしても”水”が関わってくるようですね。

 

 現在の私たちは、七夕には雨が降ってはならない、と考えます。天の川の水があふれて彦星と織姫が逢えなくなるからです。しかし、地域によっては雨が降るとよい、とします。清めの雨、洗い流しの雨だからだそうです。ここには、彦星と織姫の観念はありません。つまり、日本に元々清めとしての水を欲する祭り(タナバタ)があって、それが中国から伝わった牽牛織女の伝説(シチセキ)に結びついたと見ることも出来ます。

 しかし、前述の韓国の例の通り、七夕が水と関わるのは日本に限ったことではありません。

 一説によれば、七夕は、古代中国において洪水の害を避け秋の収穫を祈って川を祀った風習に由来すると言うのです。やがて星を「水を司る神」と考え、星祭りに移行していったのだと。また、韓国の七夕伝説では、引き裂かれた牽牛と織女の涙によって地上に大洪水が起こったとされています。この二人を逢わせてやることで洪水をおさめた、というのが伝説後半の主筋です。

 現代も、韓国や中国、ベトナムにおいては七夕には必ず雨が降る、と考えられています。それほどに七夕と雨は深く関連付けられているわけです。日本でも、江戸時代以降の子供の遊び歌に七夕と雨の関連が唄いこまれたものがあります。

天の七夕 おいとしござる
としに一度は しのぶでござる
しのぶようさは 雨ふりあげく
雨と涙ともろともに もろともに
(江戸時代以降、名古屋地方の手合わせ歌)

 七夕の雨は逢瀬の喜びの涙や別れの悲しみの涙などと言いますが、牽牛と織女が”雨を降らせる神”と捉えられている点に注目すべきだと思います。

 

織女と蜘蛛

 中国の乞巧奠で、縫い物の腕が上達する印として、瓜の上に蜘蛛が巣を張るとよい、とされているのは興味深いことです。ギリシア神話に女神アテナに機織りの腕で挑戦したアラクネという乙女の話がありますが、敗北した彼女は蜘蛛に変えられたとされているからです。つまり、機織りが巧い女性=手工芸の女神=蜘蛛、という思想がそこに見え、それが中国の乞巧奠の思想にも同じように見えるのです。

 中国のトン族の神話に登場する薩天巴サテェンバは、日本のアマテラスと同じく女神にして主神であり、天地創造の神でしたが、彼女は巨大な蜘蛛であり、天宮に八角形の網を張って住んでいたといいます。彼女の別名は薩巴隋俄サバスイウといいましたが、隋俄とは蜘蛛のことです。また、南北アメリカの先住民族の神話には、世界を創造した者、あるいは原始の人を導いた者として”蜘蛛女”が現れます。彼女は創造と知恵の女神です。

 古くより、蜘蛛は”糸を紡ぐ者”として女神と同一視され、”糸を紡ぐ女神”は”運命を紡ぐ者”と考えられました。ギリシア、インドにもそのイメージは見られます。また、自らの糸でぶら下がる蜘蛛は、”天地を繋ぐ者”とも考えられました。キリスト教による異教弾圧の時代には、異教の女神たちと関わる蜘蛛は魔女と結び付けられ、邪悪なものと考えられました。

 一方で、雄を食い殺す牝蜘蛛は”世界の終わりに降りてきて男たちを食い殺す女神たち”ともされました。(アステカ神話) 現在、ホラー映画などに登場する”蜘蛛女”といえばこちらのイメージでしょうか。

 玄宗皇帝の時代の中国には、七月七日、宮中の女たちが蜘蛛を捕らえ、それを香箱の中に入れて占う習慣があったそうです。八日の朝に箱を開けてみて、糸が厚く張っていたら縁起がよく、蜘蛛が怠けていたら縁起が悪い、と。

 実は、日本での織女の別名の中に”ささがに姫”というものがあるのですが、”ささがに”とは蜘蛛のことなのです。

 日本では蜘蛛に関する言い伝えは様々ですが、いずれにせよ”吉”か”凶”か、蜘蛛の様子を見て判断していたようです。『日本書紀』には、衣通姫が蜘蛛が巣を張る動作を見て「これは吉兆だ、きっと帝(夫)が訪ねて来るに違いない」と詠う話があります。日本でも、蜘蛛は吉凶を――運命を紡ぐ者と目されていたと言えるでしょう。

 日本の民話を見ていくと、有名な「賢淵」など、淵の主が水蜘蛛であって、釣人の足に糸をかけて水に引きこもうとする怪談があります。一体何故、淵の主――水神が蜘蛛なのか。これだけでは理解しがたいのですが、水辺で機を織る棚機女を視野に入れて考えると、とてもよく解ります。

 糸を紡ぐ女神――運命と創造、手工芸の女神は、即ち蜘蛛である、ということでしょうか。

 

”七夕さま”は災いを運ぶ?

 日本の七夕には様々な不思議な言い伝えがあります。現在、一般的には「七夕の日には雨が降らないほうがいい」と言います。雨が降ると天の川が溢れて彦星と織姫が逢えなくなるから、と。しかし天の川での逢瀬は関係なく、「三粒でも雨が降ると、七夕さまがおいでにならないのでよくない(高知)」と言うところもあります。この場合の七夕さまは彦星・織姫ではなく、祖霊のようです。同地域では、この日には瓜を食べてはならないと言います。瓜から天の水(雨)が出るためでしょう。

 ところが、逆に「雨が降ったほうがよい」とする説もあるのです。中国や朝鮮と同じように「雨は、牽牛と逢えた織女の嬉し涙だから」等と言うのですが、それとは全く違った理由を挙げている地域もあります。

 どうしたことでしょうか。牽牛と織女が恐ろしい疫病神とされています。けれど、”七夕にやってくる者”が災いを運ぶ、としている地域は結構あるのです。

 七夕の笹飾りのルーツは、農耕行事の際に田んぼの虫よけに立てた飾った竹だとの説がありますが(田の端に竹を立てたので、”タナバタ”というとか。)、そう考えるとこの伝承はピタリとくる感じがします。福島では、七夕の後に笹竹を野菜畑に立てると虫除けになるといわれています。また、鳥取では七夕の色紙を台所に吊るすと蛇が入って来れないと言います。島根県の美保神社では、七夕に虫祓いの札を作って配ります。この札は”水乞い”の面を撫でた紙です。水と虫はセットになっているようです。この季節、雨が降ると害虫が増える、ということなのでしょうか?

 七月七日に、夫婦の”七夕さま”が豆畑で逢う、とする地域は結構あります。なので、その日は畑に入ってはならないと言うのです。

 カヘイという貧しい百姓が、天女の羽衣を取り上げて妻にする。七人の子を産ませ、安心して羽衣を見せると、天女は「七月七日に小豆畑で会いましょう」と言って天に帰ってしまった。カヘイは貧しく、七人の子供たちに着せる着物もない。七月七日に土用干しをしてそれを子供たちに着せていた。天の神が哀れんでカヘイをひこぼしに、子供たちをすばるに変えた。天女はさよひめぼしになった。七月七日には小豆畑で天女とカヘイが逢うので、小豆畑に入ってはならない。(茨城)

 七夕さまは大豆畑の中で子供を育てるので、七月七日は大豆畑に入ってはならない。七夕さまは子沢山で貧乏なので、衣類をお供えする。(大分)

 七月七日にはささげ畑に入ってはならない。七夕さまがささげ畑に降りて逢っておられるから。(長野)

 子沢山で貧しい七夕さまは、子沢山で畑に盗みに入ったというお大師様と同じ、山の神・山の祖霊のイメージであると思われます。(子沢山とは豊穣神であることを示している。)だから畑に現れるのでしょうが、何故豆畑なのでしょうか。恐らくは「ジャックと豆の木」に見られるように、豆が天に向かってつるを伸ばす植物、ひょうたんや瓜と同じく”天地を繋ぐ植物”だからだと推測します。

 長野では、他に「七月七日に夕顔棚の下に行くと七夕さまが天の川を渡る音が聞こえる」という言い伝えがあるのですが、これも夕顔がつるを伸ばして天地を繋ぐものだからだと思います。天地を繋ぐ……即ち、異界と現界を繋ぐ、渡らせるということです。なお、中国の伝承には、七月七日の夜にぶどう棚の下に行くと牛郎と織女の話し声が聞こえる、というものがあります。ぶどうもつるで天地を繋ぐ植物ですね。

 七夕さまを豊穣をもたらす神と考えた時、”畑で逢う”というイメージが生まれ、”神域を侵してはならない”という畏れが”畑に入ってはならない、畑に入ると祟りがある”となって”畑で病気を生む”となったのではないでしょうか。あるいは、豊穣をもたらす祖霊が異界から帰ってくるとき、一緒に悪霊も帰ってきて、これが災いをもたらすという考え方があったようなので、その変形かもしれません。雨が降った方がよいと考える地域があるのは、雨をその穢れを落とす清めの水と考えているからのようです。また、中国の古い伝承に七月七日に死んだ子供が疫病神になって祟ったというものがありますので、「畑で病気を産む」のはもしかしたらそれが関わっているのかもしれません。

 ギリシアの豊穣の女神デメテルは、イアシオンという男と”三度鋤き返された”畑で交わり、子を成したといいます。フィンランドやエストニアでは、夜、裸の女性が神に豊穣を願いながら種子を撒く習わしがありました。ヒンドゥ教の女性は、旱魃の期間に裸で畑に行き、鋤で土をかき回しました。土は女性であり、鋤は男性器だったわけです。畑で性交を暗示する行為を行うことにより、子沢山――豊穣を得ようとしたわけです。よって、”七夕さま”が畑で逢う――交わることにも、豊穣をもたらす意味があったと推測します。

 

星の世界

 中国では、七夕伝説は星合伝説と言うそうです。(日本でも、古く”星合い”と呼んでいたようですが。) 織女と牽牛という星座名の記述は春秋時代の書物からあるそうですが、現代のラブロマンスの形が整えられたのは漢代ごろだろうといわれています。(ただし、昔”牽牛”と書かれていたのは二十八宿の牛宿(山羊座の頭の部分辺り)のことで、現代の牽牛三星は”河鼓”という星座名で呼ばれていたようです。)

 しかし、何故これらの星が――琴座のべガ、鷲座のアルタイルが選ばれたのでしょうか?

 一説によれば、現在の北極星が北極星となる以前には、琴座のヴェガこそが北極星だったからだ、といいます。(遥か未来にヴェガは再び北極星に戻ります。)天の中心たる星は世界の中心たる世界樹と結び付けて考えられ、世界樹の化身たる女神、織女になったのだと。牽牛星の方は、天の川を挟んで織女星と対応する星、ということで選ばれた、等といいますが、果たしてどうやら。

 実は、天の自然の運行として、ヴェガとアルタイルは秋の宵の口には西方の空に、春には東方の空に現れ、七夕の頃には天頂附近に見えるようになるので、あたかも一年に一度相対し逢ったかのように見えるのです。(七夕の頃に天の川が消えたように見えるから、という説も見たことありますが。……消えたように見えるか?) この現象は恐らく周代には知られていて、よって年に一度逢瀬をする夫婦の物語が想像され、漢代に整ったのだろうと考えられます。

 また、何故この星座の名が牽牛、織女となったかについては、当時 牛飼いは男の、機織りは女の普遍的な仕事であったこと、そしてこの星の運行時期によってそれらの仕事(農業、養蚕)の時期を計っていたからだ、との説があります。

 ところで、日本の民話では天の瓜畑で彦星が瓜の切り方を間違えて流されてしまいますが、日本古来の星座には、天の川の近くに”瓜畑”というものがあるのです。昔の人の間には、結構この物語――天に瓜畑がある、という思想――が浸透していたということでしょうか? また、中国の民話では、天の川に阻まれた牽牛と織女がそれぞれの持ち物(縄や牛の鼻輪、機織りの梭)を投げ合い、その星の傍にそれらの星座があることになっていますが、日本の熊本や長崎でも全く同様に、織姫が彦星に投げつけた梭だという星という星座や星が設定されていて、興味深いです。

 

参考:七夕関係の日本の星座

 

 ところで、日本では牽牛星のことを”犬飼星””犬ひき”としている地域が多いのが面白いところです。(牛飼い、牛引きとする地域もあります。)どうも、こちらの方が日本古来の星名らしいのですが。牽牛星は、中央の大きな星・アルタイルの左右に小さな星が一つずつついた、三つの星が一列に並んだ形で知られています。この小さな星は中国では牽牛と織女の子供とされますが、日本で犬飼星と言う場合、これらの星は二匹の猟犬のようなのです。死んだ妻を捜し星巡りする日本の古典物語『びしゃもんの本地』では、彦星は二、三匹の犬を連れた美しい僧として現れます。七夕(織姫)は二人の子を左右に置いた女として現れます。

 奄美に伝わる天人女房伝説では、去った天女を追う犬飼の翁は子犬の助力で天に昇り、翁は一番の夜明け星に、犬は二番の夜明け星になったそうです。ここではまだ七夕伝説とは結びついていませんが、熊本の民話では、同じく去った天女――七夕さんを追う犬飼いさんが犬の尻尾にすがって無事天に昇ったものの、七夕さんが瓜の切り方を間違えたために水に隔てられ、年に一度しか逢えなくなったと語っています。

 牛も犬も、どちらも異界へ”渡る”能力を持つ動物として現れるようですが、それが牛になるか犬になるかは、恐らく、物語を伝えるのが農耕民族か狩猟民族か、牛と犬どちらをより身近な動物とするかで別れていくのでしょう。

 

七夕の食べ物

 七夕には、そうめんやうどんといった麺類、そしてまんじゅうを食べる習慣があります。日本では、これはそうめんを川の流れにたとえているのだ、等といいますが……。個人的には、七夕の供え物である”糸”にたとえているのだ、という説の方がしっくりきます。

 実はこの風習、かなり起源が古く、三世紀末の中国の『風土記』にも載っているそうです。また、中国の伝説によれば、七月七日に死んで悪霊と化し、おこり(熱病)を流行らせた高辛氏の子供を鎮めるために、その子の好物だった索餅さくべいを食べる、とされています。恐らくこの風習を取り入れたものでしょう、中古、日本の宮中では旧暦七月七日、帝に瘧避けのまじないとして索餅を献じる、「七日の御節句おんせちく」という行事が行われていたそうです。この風習が民間にも広まった、とされています。

 ところで、索餅とは一体どんな食べ物なのでしょうか? 調べてみると「うどんかそうめんのような食べ物」となっています。なんでも、索餅はそうめんのルーツだそうで、索餅の名が索麺さくめんになり、素麺そうめんに変化したというのが現在の定説だとか。ところが、資料によっては索餅は「小麦粉で作ったお菓子」となっていたりするのです。

 更に調べると、小麦粉を練って細いひも状に伸ばして、それを縄のようにない合わせた食べ物だとわかりました。”索”とは細い縄のこと。同じように、日本では索餅が縄に似ているからと”むぎなわ”と呼んだのでした。こちらには米の粉も入れて塩水で練ったようです。”むぎ”とは小麦粉で作った麺の事を指します。そういえば、今でも太めのそうめんのようなものを”ひやむぎ”と呼びますよね。小学館国語大事典より

 原料と形は判りました。けれど、これは実際、どんな調理法でどんな味だったのでしょうか。そうめんのように茹でてからつゆにつけて食べたのか、パンみたいにソフトに焼いたものだったのか、クッキーか煎餅みたいにカリカリしたものなのか。さっぱり分かりません。マカロニサラダのごとく、色んな野菜と混ぜて、たまり醤油や香辛料であえて食べていたという説もあれば、何もつけずにそのまま食べていたとの説もあります。保存食品として平城京や平安京で売られていたとも言いますから、乾麺のように固くして、茹でて食べていたのでしょうか?

 あれこれ調べていくうち、索餅によく似た形のお菓子として、中国北京地方特産のお菓子「麻花兒マファール」に突き当たりました。(中国では”麻花”と言うようです。日本では”よりより菓子”と呼ばれているらしい?)これも「そうめんのルーツ」だそうです。なるほど、形は絵で見る”むぎなわ”そっくりです。むぎなわは唐から伝わったたくさんの小麦菓子の一つとされていますから、元々の食べ方はこちらの方なのかも……?

 ちなみに、索餅と同時に唐から伝わってきた、うどんのルーツとされる[食昆]飩こんとん。これも現在のうどんとは似ても似つかないもので、小麦粉を練って平たく延ばした中に餡(肉餡かな?)を入れて丸く閉じた、小さな肉まんか餃子かワンタンのようなものだったようです。これを暖かい汁に入れて食べたので温飩うんどん、転じて饂飩うどんと呼ぶようになったのでした。ルーツとは言っても名前だけで、全然違う食べ物ですね。 

 現在も中国で七夕に小麦粉食品を食べるのかは知りませんが、韓国ではミルクッスという うどんのような麺とミルジョンビョンという小麦粉の煎餅を食べるそうです。韓国の七夕は旧暦ですから、新暦ではそろそろ九月になろうかという頃。冷たい風が吹き始めたこの季節、韓国では小麦粉は臭いがし始めるといって敬遠し、食べ収めとして七夕に必ずそれらが食卓に上がるのだとか。……ってことは、冬に暖かい麺やワンタンスープを食べたりしないんでしょうか。なお、他にはインオフェ(鯉の刺身)、インオグイ(焼いた鯉)、オイキムチ(きゅうりのキムチ)などを食べ、桃やスイカなど様々な果物をいれて混ぜた飲み物クァイルファチェを飲みます。ご馳走だなぁ……。

 

子供たちの祭、恋人たちの祭

 行事が廃れて行く過程として、”子供たち”中心の行事になる、ということがあると思います。儀式・神事の類も子供たちの遊びに変わって行くと言いますし。

 日本では、七夕は”子供たちの祭”として機能している地域がかなりあります。前述したように、七夕馬を作って子供たちが引き回して歩いたり、ロウソクをもらって歩いたり。ロウソクもらいと似た系統のものとしては、七夕荒らしがあります。ひな祭りの頃にもひな荒らしといってハロウィンによく似た行事がある地域がありますが、七夕荒らしは供え物や畑の作物の盗み食いの許可だそうです。また、宮城県では子供たちが七夕小屋といって川原に笹竹の小屋を作り、泳いだり食事をしたり花火をしたり、他部落の小屋を壊しに行ったりして遊びます。富山県ではなすやきゅうり、短冊で飾った七夕舟を作って少年たちが「天の川原へ流れ込む、来年またございせ……」等と唱えながら海の沖まで泳いで押し流していました。神奈川県では、少年たちが竜を模した竹みこしを作り、里芋の葉の露ですった墨で書いた短冊を飾り、地区内の神社、道祖神、井戸を廻って祓い、最後に海の沖に流しました。長野県では、子供たちが道祖神の周りに笹竹を飾ってお祀りしました。

 現在も、日本では七夕は”子供の祭”として認識されている部分が大きいように思います。

 一方、台湾や韓国では、七夕は”恋人たちの祭”として明確にイベント化されたり、意識されたりしています。日本にも縁結びの神として牽牛と織女を祀っている神社などあり、かつてはたいそう流行ったこともあるようなのですが、現代ではメジャーではありませんしね。

 台湾の七夕(旧暦)は”七夕情人節”といい、”西洋情人節”――バレンタインデーに次ぐ、恋人たちのイベントです。どちらの情人節も、恋人たちが互いにプレゼントを贈りあってデートしたり結婚式を挙げたりする日で、日本のバレンタインデーのように”女性が””チョコを”贈る、などと決められてはいません。なお、台湾では七夕には必ず雨が降る、とのジンクスがあるそうで、それは牽牛と織女が逢えた喜びに涙を流すからだそうです。

 韓国でも、同じ理由で七夕には必ず雨が降るといわれています。古く、韓国の恋人たちは永遠に変わらない愛の証の贈り物として、この日に互いに銀杏の種を贈りあったそうです。これは今は廃れた風習ですが、現在、台湾の情人節に倣って、この日を恋人たちのイベントにしようとの動きがあるそうです。

 なお、ベトナムでも七月の満月を”カップルの月”とし、由来として七夕伝説があるようですが、どんな行事を実際に行っているのかいないのか、詳細はわかりません。

 

拾遺

●奈良から平安時代の初めにかけて、相撲の節会と言って、七月七日に相撲を行って天皇が観戦する行事があったそうです。今でも、民間で七夕の頃に相撲を行っているところがあります。富山県富山市西番の西番神社では、七月八日に水神祭の奉納相撲を行います。大正三年と昭和五年に常願寺川が氾濫したのは、相撲大会を取りやめたからだと言われたそうです。そういえば、水神たる河童は相撲が得意なんですよね……。

●『魏志倭人伝』によると、中国の呉の沿岸部の人には七月七日にホウセンカの花の汁にみょうばんを混ぜ、爪を赤く染める風習があったそうです。ただし、人差し指だけは染めなかったとか。染めた人差し指で蛇や犬を指すと噛まれると言われていたため。そういえば、現代日本の私達は、蛇や霊柩車や葬式を見たら指を隠せ、と戒められますよね。もしかしたら根は一つ? 七夕に爪を染める風習は日本にもあり、「七夕姫の爪紅」とか「ツマグロ」と呼ばれていたそうです。

●日本には、七夕の日には何でも七回やるという習慣の地域がありました。七回ご飯を食べ、七回水浴びし、七回親を拝み、七回着替えをしたりします。そうすると祓いになったそうです。宮中で行われた乞巧奠でも、七種の供物、七つの孔のある七本の針、と七に関連付けています。勿論、中国の乞巧奠でも針は七本用意されていましたし、色々と七と関連付けられていました。七は特別の数だったのです。――そもそも、何故七夕は七月七日なのでしょうか。これは中国では奇数が陽の数として尊ばれたからで、奇数の重なる日を特別視したためらしいのです。実際、一月一日、三月三日、五月五日、と殆どの奇数の重なる日に行事が入っていますよね。

●日本の織姫には様々な別名があり、これまた”七”に関連付けられて七種類セットで”七夕の七姫”と呼ばれていました。例えば、「朝顔姫・梶の葉姫・糸織姫・蜘蛛ささがに姫・秋去姫・薫物たきもの姫・百子ももこ姫」の七種類。別の説では「朝顔姫・梶の葉姫・糸織姫・蜘蛛ささがに姫・秋天あきそら姫・琴寄ことより姫・ともしび姫」の七種類とも。

●日本の伝統芸術として名高い”生け花”ですが、実はそのルーツは七夕にあります。七夕がお盆の準備行事だったことは先に書きましたが、盆迎花として七月七日に山から花をとって来て飾っていたのです。これは小正月に山から年木を切ってくる行事に対応しています。年末に木を切ってくることは西欧でも行われていました。「クリスマスの話」参照。宮中での乞巧奠の様子を見ると必ず花が添えられていますが、七夕に花を立て、飾ることは、数ある節句の中でも重視されていたようです。特に、なでしこが七夕の花とされていたとか。平安時代には「なでしこ合わせ」、室町時代には「花合わせ」が行われ、いかに美しく花を立てて飾るかが工夫され競われ、これが生け花の様式になって室町時代に定型化されたのでした。

●七夕には笹竹に色んな飾りをつけますが、その謂れについても様々な説があるようです。

吹流し、細く切った紙……乞巧奠式に裁縫の上達を願って供えた”糸”。

短冊……糸と同じく、裁縫の上達を願って供えた五色の布。(なお、五色なのは中国の陰陽五行説より、という。)神(祖霊)の依り代としての笹竹に付けた御幣という説もある。

紙で作ったスイカやひょうたん……供え物の瓜類

 ただし、”祖霊への供物を載せた棚に立てた旗”――棚幡が、七夕の笹竹の原型である、との説もあります。

天の川 霧立ちのぼる棚幡の 雲の衣のかえる袖かも(万葉集)

”たなばた”は、天の川の雲の衣のはためく袖のようだなぁ

*”たなばた”は、棚に立てた旗と棚機女をかけている。雲の衣は、中国の伝承で織女が織っているという錦雲の衣のことだろう。七夕棚に立てた旗がはためく様を、天の川の織女の衣がはためく様のようだねぇ、と言っている。

 短冊が元は布だったとすれば、笹竹に布をつけたものはまさに旗ですし、吹流しも旗の一種です。そう考えると、この説にも信憑性がある感じがします。

●中国やベトナムでは、天の川を渡るのは織女の方だとされていたようです。中国の民話の織女はえらく所帯じみていて、天の川を渡っていって牽牛の家に行き、一年のうちに溜まった汚れものを一晩かけて洗ってやったりします。ところが、日本では天の川を渡るのは彦星の方だとされています。日本では男性が女性のもとに通う、通い婚が行われていましたから、その影響だろうといわれています。ちなみに、韓国の伝説でも、河を渡っているのは牽牛の方ですね。なお、中国や韓国の伝説では、牽牛と織女は仙車や鳳車といった豪華で不思議な車に乗っていますが、日本の場合は、月の船、または徒歩、になっています。……なんとなく貧乏臭いです。

 

民話想」内『星辰万象』に、日本、中国、韓国の実際の七夕の物語と、コラム「七夕伝説のあれこれ」を掲示しています。
宜しければ併せてどうぞ。



02/07/08
追加修正 02/07/23
完全修正 02/09/24

参考文献
『日本の星 星の方言集』 野尻抱影著 中公文庫 1976.
『星と伝説』 野尻抱影著 中公文庫 2003.
『いまは昔むかしは今(全五巻)』 網野善彦ほか著 福音館書店
『節供の古典 花と生活文化の歴史』 桜井満著 雄山閣
『日本民俗大事典〈上、下〉』 福田アジオほか著 吉川弘文館
『日本年中行事事典』 鈴木棠三著 角川小事典
『大地・農耕・女性 ―比較宗教類型論―』 M.エリアーデ著、堀一郎訳 未来社

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