夏の琥珀 |
その日、シェゾはアルルの家にいた。
別に、押し入ったとかいうわけではない。招かれたのだ。
「えへへー。完成っ」
目の前で、アルルが実に嬉しそうに、大きな広口のビンに入った琥珀色の液体を見せている。中には、薄黄色の丸い実が幾つも揺れている。
「本当は後二ヶ月くらい熟成させると美味しいんだけど」
早く飲みたかったから、とアルルは笑う。シェゾにも早くご馳走したかったからね、と。
そう。今を溯ること一ヶ月前。どういうわけか、シェゾはアルルに頼まれて、梅とやらの木の実を取る手伝いをした。その実を使った果実酒――梅酒が飲めるようになったから是非飲みに来い、と招待を受けたのである。
――しかし、なんでまた俺は、アルルに招かれたからといってのこのこやってきて、大人しく席に座ってるのだろうか。
そうシェゾは考えた。
――こいつは、絶対何か考え違いをしている。俺は闇の魔導師だ。仮にも、こいつの魔力を狙っている身だ。魔導師にとって魔力を奪われるのは死にも等しいこと、だというのに。
何故、こいつはこうも無防備に俺に向かって笑っていて、俺ものほほんと座っているのか。
どうも……あまり考えたくないことなのだが。
シェゾは眉根を寄せた。
俺は……俺は、アルルに………。
――アルルに、餌付けされてるのではなかろーか!
心の内で、シェゾは叫んだ。
ここ最近、アルルの作った旨いものと引き換えに、なんだかんだとヤツの思うがままに動かされているような気がする。
そう思うと、自分が鎖付きの首輪でもつけた犬になったような気がした。鎖の先を握っているのは、言わずもがなのアルルである。犬はもう、鎖を握った飼い主の言うがまま。お行儀よく座っている。
――いや、そんなことになってたまるか!
シェゾはぶるんと首を振った。
――俺は狼だ。何者にも束縛されない。
「シェゾ、どうしたの?」
はっとする。
グラスに注いだ梅酒を差し出しながら、アルルが不思議そうにしていた。
「――っ」
――そうだ、今だ。
心の内の声が主張する。
――アルルの手を払い除けろ。そして、言うのだ。”馴れ合いは終わりだ。お前の魔力をよこせ”、と。
そんな迷いが駆け巡っていたのは、一瞬のこと。
「ぐーっ!」「あぁーっ!」「こ、こいつ!」
次の瞬間、カーバンクルが舌を伸ばし、シェゾに差し出されていたグラスを奪って中身をすっかり自分の口の中に空けた。
「ダメでしょ、カーくん! それはシェゾの分なんだから」
「ぐーっ」
「ゴメンね、シェゾ。すぐに注ぎ直すから」
「あ、あぁ……」
一瞬の迷いは
――まさか、わかっててやってんじゃないだろうな、この怪生物。
横目で睨むと、カーバンクルは楽しそうにピコピコと踊っている。どこから見ても、何も考えていそうにない。
――……ただ、口が卑しいだけか……。
初めて飲む梅酒は、独特の酸味と香気があった。
「……甘いな」
果実酒なんだから仕方がない。だが、あまり好みじゃないな、とシェゾは思った。
「ふっふーん。じゃーん!」
「なんだよ」
アルルが、魔導酒のビンを引っ張り出してきた。
「これを、ここに……どぼどぼどぼどぼーーっ」
梅酒の入ったグラスに魔導酒を注ぎ込む。
「お前……そーゆー飲み方するか?」
「だって美味しいんだもーん」
ぐいーっと飲んだ。実にいい飲みっぷりである。またグラスに注ぐ。
――……先刻から見てると、何杯飲んでるんだ? こいつは。
「悪酔いするぞ。つまみもなしにがばがば飲みやがって」
「つまみ、つまみ……カーくんが食べものみんな食べちゃったからなぁ。梅酒の梅はあるけど。それとも、塩でも舐める?」
「オヤジか、お前は」
「ぷっ。オヤジだってー!」
あっはははは、とアルルは笑い出した。……あからさまに様子がおかしい。
「お前、酔ってるな」
「むぅー、酔ってないよー」
「酔ってないと言う奴は、酔ってるんだ」
「シェゾは酔ってないの」
「梅酒くらいで酔ってたまるか。伊達に魔導師やってるんじゃないぞ」
それを言うならアルルもそのはずだが。
魔力回復には、一般に仙人酒、魔導酒といった酒シリーズが使われる。他に竜シリーズやきのこ等もあるものの、廉価性と入手の容易さから酒シリーズが最も揃えやすく、長期の遺跡探索などには欠かせない。
もっとも、酒といいつつ、実際には幼稚園児でも飲めるような代物だ。本物の酒とはやや違う。とはいえ酒であることは間違いないので、世間的には”魔導師は酒が強い”という認識になっている。……その認識に合わせるため、己を鍛える魔導師も実は結構いるという噂だが。
「ぶぅー。ずるーい」
「はぁ?」
「自分だけ酔わないなんて、ずるいー。シェゾの酔ったところ見たいのにぃ」
「こら、やめんかっ」
ポカポカと殴り掛かってくる。
梅酒の魔導酒割りは、よほど今日のアルルには効いたらしい。
「お前はもう、飲むな。水でも飲んでろ」
「あっ、何するんだよ、シェゾの意地悪」
グラスを取り上げられて、アルルはむくれた。
「意地悪、じゃねぇ。女はあんまり酔うな」
「男女差別っ。そーゆうコトいうやつは、こうしてやるー!」
「なっ!?」
アルルに取り返されないようにグラスを持った手を高く掲げていたのだが、おかげで胴がガラあきだった。――まさか、そこを狙ったというわけでもあるまいが。
「こちょこちょこちょこちょーーっ」
「……ひゃひゃひゃひゃっ、やめっ、くすぐるなっ」
「おー、弱点発見〜。シェゾって結構くすぐったがりなんだ」
「嬉しそうに言うなっ。……って、おい、まだやる気か? やめろ!」
「やめませーん。こちょこちょこちょ〜」
「あひゃひゃひゃひゃ……って、やめろ、ってのにっ。うわっ」
ついに、シェゾはひっくり返った。グラスは、アルルの分もシェゾの分も床に転がってしまった。
「あぁー、ひっどーい。おしおきしちゃうからねっ」
シェゾの上に馬乗りになって、アルルは言った。目がすわっている。
「な、なにを……」
「脇が弱いってコトはー、もしかしてココも弱いのかなぁー」
「ちょっ……ちょっと待てっ! ――ひゃっ!」
身をかがめて、口付けせんばかりの距離から、アルルはふーっとシェゾの耳に息を吹きかけた。
「あ、やっぱり弱いんだ。ふっふっふ……どーしてやろうかなぁ」
ニヤニヤとアルルは笑っている。シェゾの弱点を見つけて、実に嬉しそうである。
「こ、こいつはぁーーっ。……いい加減にしろっ、この酔っ払い女!」
「きゃっ」
渾身の力を込めて体の上に乗っかっている女を撥ね退けると、逆に、シェゾはアルルを己の下に組み敷いた。またくすぐられたりしないように、両手を頭の上の両脇に自分の手で押え込む。
「大人しくしろ!」
――まさに、その瞬間。
「アルル〜〜、カーバンクルちゃん〜〜、遊びに来たよ〜〜!」
「サタン様ったら。アルルの所になど立ち寄らなくても、あたくしの屋敷に直接いらっしゃればよろしいのに」
家のドアを開けて、サタンとルルーが入って来た。ノックもしないで入ってくるとは、傍若無人な連中である。――っていうか。
入って来た二人の動きが、そこで固まった。
シェゾの方も固まっていた。
今、シェゾはアルルを己の下に組み敷き、抑えつけている。
どこからどう見ても、これは、まさしく……。
「きっ……、貴っ様ぁあ! よりにもよって、我が妃をてごっ、手込めにしようとは!!」
「なに白昼堂々とゴーカンなんてしようとしてんのよぉっ、このヘンタイ〜〜っ!!」
二人が噴火した。今までにないくらい苛烈に、壮絶に。まぁ無理もないが。
「ちっ、違うっ。おい、アルル。こいつらに説明しろっ」
慌てて身を起こし、シェゾはアルルに言ったが。
「――って、寝てやがるしー」
アルルは、安らかな寝息を立てて眠っていた。酔いが回ったらしい。
もはや弁明のしようもない。泣くしかない状況だ。
尋常でない鬼気に包まれた二人が、襲いかかってくる。
「殺ーーーーーーす!!!!!」
「女の敵ぃいいい!!!!」
「んぎゃあああああ!!」
この日、この地方に記録的な血の雨が降った――かどうかは定かではないが、一人の男が半死半生一歩手前、にまで追い込まれたのは、事実のようである。
後日。
「やぁ、シェゾ」
「ア、アルルっ!?」
顔を見るなり、思いっきり嫌そうな顔で一歩後ずさったシェゾを、アルルは不機嫌そうに睨み付けた。
「あっ、なぁに、その態度。人が挨拶してるってのにさ」
「……昨日の今日だ。あれだけの目に遭わされれば、警戒したくもなるだろうが」
「なに、それ。あ、そういえばルルーとサタンがさ」
「あいつらも近くにいるのか!?」
ぎょっとしてシェゾは叫んだ。今、アルルと一緒にいるところでも見られれば、また殺されかけるかもしれない。
「いないよ。
あの二人、なんか、やたらと親切なんだよねー。大丈夫か、どこも具合が悪くないかって。なんともないって言ったら、サタンなんて泣いて喜んじゃってさ」
「………」
「ねぇ、何かあったのかな」
「何か……って、お前な! お前のせいで、俺がどんなに……」
言いかけて、シェゾは言葉を切った。アルルは、きょとんとしてシェゾを見上げている。
「まさか………、お前、覚えてないのか?」
「へ?」
アルルは首を傾げた。
「いや……そうか。なら、いい。覚えてないんなら、その方がいいんだろ」
――いっそ、俺も忘れてしまおう。……アルルの、あの酒癖の悪さを。
シェゾはしみじみと思った。
女に組み伏せられてくすぐられまくったというのも、孤高を気取る闇の魔導師としては、なかなかに忌まわしい過去である。しかも、それが原因のくだらない誤解から、第三者に殺されかかったとあっては。
「ちょっと、何一人で納得してるのよ。はっきり言ってくんなきゃわかんないじゃない」
「いいんだ。お前はもう、一生忘れてろ」
「むー。そういう言い方するかな」
アルルは膨れた。そしてひょいとシェゾの側まで近寄ると、顔を寄せ、言った。
「そういう態度とってると―――また、くすぐっちゃうからね」
「!?」
ヒゲを切られかけた猫のように、シェゾは飛びすさる。
その様子を見て楽しげに笑うと、アルルは向こうに去って行った。実に足取り軽く。
血の気の引いた頭で、シェゾは思った。
――最も危険なのは、サタンでもルルーでもなかった。
あの女……アルル・ナジャだ!
それを自覚したところで、果たしてどうにかなるものなのやら。
首輪の鎖は、今のところ、しっかりと彼女の手に握られているようだった。