雨が降っていた。
白い、それも比較的太い糸がバサバサと光りながら垂れ下がっているようにも見えるのは、側に大きな光源があるからだ。
魔導学校の、窓の灯かり。
まだ夜ではない。どちらかといえば昼に近いかもしれない、午後。豪雨とまではいかないが、かなり強い雨を降らせている雨雲のおかげで、世界はどんよりと暗い。室内に灯かりが必要なほどに。
バサバサと降りかかり、見る間に衣服をずぶぬれに、果てはびしょびしょにしていく雨は、幸いにして身を切るような冷たさは持ってはいなかった。季節は、そろそろ爛漫の春に近い。
それでも暖かいはずはなかったし、ぐちゃぐちゃの地面にうち伏している体の下からじわじわと泥水が這いあがってきていて、不快感は秒刻みで上昇を続けていた。
なのに、彼女は倒れたままでいる。起きあがることが出来ない。実際は、意識を保っているのでさえやっとだった。せめてにらみつけることすら出来ないのだ―――彼を。
春。――歓喜の春。
最も祝うべき、待ち望んでいたこの日。
つい数十分ほど前までは、喜びでいっぱいだった。
――とうとう、やりとげた。
――夢を叶える、第一歩。
全てが希望に溢れ、道はどこまでもまっすぐに、光り輝きながら前方に伸びている。あとはその道を、全力をもって駆けぬけていくだけだった。――これまでもずっと、そうしてきたように。
だが、夢はついえた。
驚愕や、悔恨や、絶望や――そんなものをあっさりと置き去りにして、驚くほどあっけなく。道は、閉ざされた。
今、彼女の目に映るのは、先の見えない灰色の道。
雨のしぶきでけぶり、薄闇の中に掻き消えている。
そして――その前に立ちふさがるようにして見下ろしている、黒衣の男。
男も、全身が濡れそぼっていた。そうだろう、彼女と同様、もう数十分も、傘もささずにこの雨の中にいるのだから。……いや、彼女がここに来た時には既に濡れて立っていたのだから、もっとずっと以前からここでそうして待っていたのだろうか。
全身をずぶぬれにして、冷え切って。
――何故?
彼に待ち伏せされるのは、初めてではない。むしろ、”いつものこと”と言えた。だから、そのこと自体には大して驚かず、ただ、ずぶぬれで立っていたのを問題にした。
「ど、どうしたの!?」
「お前を、待っていた」
「って……いつからそうしてたんだよ。びしょ濡れじゃない。ほら、唇なんか色がさめちゃってるし」
駆けよって、持っていた傘を差しかけようとした。
彼が、自分に対して善意を持つ相手でないことは知っていた。――彼自身によって幾度も突き付けられてきた。俺たちは敵同士だ、と。それでも、これまで共に過ごした時間の中で、彼が必ずしも悪意に満ちているわけではなく、口で言うほど敵意を向けてはこないことを知っていたし、正直なところ……侮ってもいた。
――彼は、自分を決定的に害するようなことはしないし、できない。
彼の善意を信じていたとも言えるし、また、自分自身の力を過信していたとも言えた。なにしろ、今まで彼女は、誰かに決定的に裏切られたり、”負けた”経験を一度も持たなかったのだ。
――自分は、負けない。
――だからこそ、このバランスを保っていける。
それが過信であり、傲慢でもあったことを知る日がこようとは――若い彼女は想像さえしなかった。それも、よりによって、最も喜ばしいはずのこんな日に。
彼は、傘を持つ彼女の手を強く払いのけた。
パン、と乾いた音がし、黄色いウサギのような動物の描かれた可愛らしい傘(ある男性からのプレゼントだ)が、雨の波紋を描きつづける地面に転がった。
「なにするんだよ! ………シェゾ? どうしたの、キミ、ほんとにおかしいよ」
「アルル。お前の魔力がほしい」
宙を揺らめかせて現出させた魔剣を滑らかに突き付け、低く、男は告げた。
「今日こそは、お前の魔力を……奪う!」
いつものように、口元に皮肉な笑みを浮かべるのでも、気配のどこかに緩みを持たせているのでもなく。それは確固たる宣言で、それ以外のものではありえなかった。
「はぁ? あんた、まだそんなこと言ってるの? もういい加減にしなさいよ。折角の卒業式の余韻が台無しじゃないの!」
側にいた長い髪の美女――ルルーが、苛立ちを隠そうともせずに言った。彼女の後ろに立つ牛頭の大男・ミノタウロスが、身を乗り出す彼女に雨がかからないよう、慌てて巨大な傘を動かす。
「もう四年も経つってのに……大概にして進歩しなさいってのよ。あたくしもアルルも、いつまでもあんたのバカの一つ覚えに付き合ってるわけにはいかないんだからね! 大体ねぇ……」
ルルーは、まだ続けて何か言おうとしていたのかもしれない。だが、次に彼女の口から出たのは、「え……?」という、彼女らしからぬ囁くような声。そして、大量の鮮血だった。
「ルルー様っ!!」
傘を投げ捨て、ミノタウロスが倒れこむルルーを支えた。その顔にもたくましい体にも鮮やかな
ルルーの白いドレスの胸から腹部にかけて、赤黒い、毒々しいまでの華が咲いていた。男――シェゾが喚く彼女にちらりと視線を向けた、その刹那で。
ぐったりとして意識のないルルーには、まだ息はある。だが、軽傷とは到底言えなかった。信じられない思いで、アルルは眼前の男を見た。
「……シェゾ?」
喉に何かが絡まったように、言葉がうまく出てこない。頬の筋肉が凍っている……。何故。どうして、こんなこと。なんで、何事もなかったように、かけらの恐れも後悔もなく、まっすぐにボクを見て……見ていられるんだよ!
「震えているのか?」
そう言われて、初めてアルルは、自分の全身が小刻みにわなわなと震えているのに気付いた。全身を濡らした寒さのためか。恐れのためか。それとも――怒りのためか。自分でさえ判然としないままに。
「おのれ! よくもルルー様をっ!」
まるでアルルの心を代弁するかのような雄叫びがあがり、血まみれのミノタウロスが巨大な斧を振りかざしてシェゾに襲いかかった。
瞬間、シェゾが行ったのは、ちらりと横目でミノタウロスを捉え、片手を閃かせた――ただ、それだけ。
「いけないっ」
呪文の詠唱さえ必要としない。魔力によってごおっと沸きあがった紅蓮の火球が、一瞬にして巨漢を光の中に消した。
それは、ほんの幾つか数を数える程度の時間。
「……邪魔するか」
結果から眼前の少女に視線を移して、シェゾは言った。
ミノタウロスはそこにいた。かなりの火傷を負ったようだが、消し炭になったわけでもなく。地に倒れこんでいるが、意識もある。雨の中とは言え先ほどの火勢からすれば有り得ることではなく、つまり、別の魔法がミノタウロスを守り、熱を退けたのは明白だった。――この場にいるもう一人の魔導師、アルル・ナジャの放った魔法が。
「………」
自分を見ているシェゾの目の中に、今日初めて、わずかな感情の色がうかがえた。これまでの魔法勝負の際によく見せていたそれとよく似ているようで、けれど違う。ただ冷徹に、品物を値踏みしているような……眼前の者を人として見ていないような、そんな色。
「――シェゾォオオオっ!!」
凍り付いていたものが、一気に溶け崩れ、雪崩落ちたように。アルルの感情に火がついた。
「ミノタウロス! キミは、逃げて!」
うめきながら半身を起こしているミノタウロスに言った。視線はシェゾから外さないまま。
「え? し、しかし……」
「ルルーを、早く魔導学校に! 先生がたなら治癒魔法をかけてくれるはずだよ。急いで!」
「あ、あ……ルルー様! ……くっ。すまん、アルル!」
自分の火傷も相当の痛みを伴っているはずだ。だがミノタウロスは倒れているルルーを抱え上げると、雨のしぶきを跳ね上げ、大またに魔導学校へ駆け戻って行った。ここは学校の塀の側だが、正門まではかなりある。
そんなミノタウロスを庇う気迫で、アルルは強くシェゾを睨み、牽制した。
「自分を犠牲にして仲間を逃がしたが。お前らしいが……。俺は、お前の魔力がほしいだけだ。邪魔をすれば倒すが、そうでないなら用はない」
「……ボクは別に、犠牲になったつもりなんかないよ!」
そう。犠牲になるつもりなど……負けるつもりなど、なかった。苦戦して死にそうになったことは数あれど、今まで一度も負けたことはない。特に、この男との戦いではそうだった。彼が並ならぬ技量の持ち主であることは知っていたが、常に勝利してきた事実が彼女を慢心させていた。
いや、本当はそんなことを考えてもいなかったのかもしれない。アルルは、激怒していた。ただただ、怒り狂っていたのだ。生まれて初めてとも思える激烈さで。
後になって幾度か考えた。激怒して冷静さを欠いたため、――こうなったのか、と。
そうかもしれない。
それとも、……あまり考えたくないことだが、普段は彼が多少でも手加減していたため……だからいつも勝てていたのだろうか。
……それもあるのかも、しれない。
勿論、自分の方とても、常に”本気で”戦っていたりはしなかった。”全力”ではあったけれど。
戦うけれど、相手を傷つけたり、ましてや殺したりしたいわけではない。
その感覚を――シェゾも持っているのだ、と感じていた。理屈ではなく、体感で。
――もしかしたら、ボクに勝つのを避けてるんじゃないのかな。
そう思うことさえ、あったのだ。
それにあぐらをかいて彼をからかうこともままあった。
それが許されると思っていた。……実際、許されていた。
なのに。
「ジュジュジュジュ………ジュゲムっ!」
「闇の剣よ、切り裂けっ!」
渾身の魔力を込めたジュゲム。その爆圧を、魔剣で分断された。返ったそれがごおっと襲いかかる。
「きゃああっ!」
吹き飛ばされ、全身を鉄柵に打ち付けた。本当に目の前に星が散って、次いで全身の痛みで息が詰まった。
――ヒーリングを………ダメ。さっきのジュゲムが、残りの魔力をかき集めた最後の魔法だったんだ。……魔法がダメでも、せめて、立ち上がって殴るくらい………。
起きあがれない。何度やっても。
ひやりとする。こんなことは初めてだった。何度も何度も叩きつけられるうち、体のどこかが壊れてしまったんだろうか?
「………どうやら、終わりだな。アルル・ナジャ……」
濡れた地面を踏む気配が間近に迫って、シェゾの声がした。
――誰がっ。ボクはまだ、負けてなんかいない……。
だが、実際には視線を上げることさえ出来ていない。
ふわりと、髪の毛に何かが触れる感触があった。そのまま頭をつかまれて、軽く顔を上向かせられる。思わずうめいたが、目を開けると間近に男の端正な顔があった。その蒼い瞳に邪悪な色はない。冬の空のように、ただ、しんと冷たく澄んでいる。
一瞬、ヒーリングでもかけてくれるのか、と期待した。
だが。
「バーニング・ルアク・ダグアガイザン」
美しい形の唇から漏れた呪文は、アルルを絶望の闇に突き落とした。
「あ。あぁあああああぁあ!」
知らず、アルルは叫び声をあげた。自分という器の内部を無遠慮にかきまわされている、そのおぞましい感触に。
普段、魔法を使うための魔力。それを湧き出させている、もっと根本の何か。それをぶちぶちと引き抜かれていく。
自分というもの。自分を構成していたもの。それが渦を巻いて、どこか――自分以外の場所に吸い出されていく。突然足元の地面が消失した錯覚を覚え、圧倒的な恐怖に叫び続けた。
「あ。ひ。うぁっあああああぁああぁ!」
痛いのでもない。苦しいのでもない。
恐怖。ただ、恐怖。
消える――キエル。ボクガキエル!
白くなる。ナニモ――ナイ。
恐怖が飽和して、真っ白に、その感情さえも消え去ろうとした、その時。
不意に、楽になった。
地面があった。自分は鉄柵にもたれ、濡れた地面に座りこんでいた。降りかかる雨、その音。塗れた土の匂い。先ほどまでの魔法の名残の、どこかきな臭い匂い。全ての感覚がある。……痛みと、先ほどまではなかった、吐きそうな気分の悪ささえ。
つかまれていた頭が解放された。シェゾが立ち上がる気配。狭い視界に、彼の足がきびすを返すのが見えた。立ち去ろうとしている。
「………う」
――彼に、何を言うつもりだったんだろう。
声も出ず、動かそうとした体は動かせず。ただ、バランスを崩した上体が倒れて、アルルはそのまま濡れた地面に突っ伏した。ばしゃん、と響いた音が、去っていこうとした足を止まらせた。
しばらく、彼はそのままそこに立っていた。戻ってくることもなく、何を言うでもなく。頭を上げることさえ出来ず、アルルはその表情をうかがえない。
ただ、雨が地面を打つ音だけが際限なく続いている。
カチャリ、と小さく金属の触れ合う音がした。彼の身につけているプロテクターか何かの金具の音。
去っていく。
足音と気配が、遠く遠く、けぶる道の向こうへ消えてしまう。
全身に、ひどい痛みを感じた。消える彼の気配と合わせるごとく、アルルはそのまま意識を手放した。
06/10/24 すわさき
四年ほど前に書きかけていた話のプロローグ部分のみ。断片。
おまけ >> ブログに書いた、その後のあらすじ。