アラタマ




 年の暮れになると大掃除とやらをするのが通例だそうで、どこもかしこも騒々しくなる。新しい年はピカピカにして迎えなくちゃね、とはあいつの弁だが、ものを汚すのが仕事の私としては、かなり面白くない期間である。何しろこの時期、連中は殆どがあいつに同調していて、私が近付くのさえ嫌がられ、警戒される。やりにくいことこの上ない。

 だからといって私の存在が消えるわけでもないし、行動が変わるわけでもないんだがな。



 

 今日は、街道に水溜まりを一つ、作った。

 一見なんてことはなさそうで、一歩足を踏み入れれば予想外の深さに驚き、泥水は靴に染み込んでどす黒く冷たく変わり、服のすそや荷物までを泥跳ねに汚染させる。そんな逸品だ。

 さて、近くに潜んでここに足を踏み入れる獲物を観察しているか、それとももう一つ水溜まりを作りに行くか……。

 ……もう一つ作りに行く方が建設的かな。

 背を向けて歩き出した時、背後から、ぱしゃん、と水音が聞こえた。

 早速、誰かがかかったらしい。

 私は振り向いた。が――そこには誰もいない。

 いない? だが、水音はまだパシャパシャと続き、水面も激しく波立っている。

 ――誰かが溺れているのだ!

 駆け寄り、私は水溜まりの中からそれを掬い出した。小さな小さな、それこそてのひらに乗る大きさの……老婆、だった。

 全身泥水で濡れてどす黒く染まっているのは勿論だが、灰色の髪は一応結われているもののバラバラで、着ているボロ布……いや、服は、雑巾といった方が分かり易い。元は淡い色のドレスだったのだろうか……? どうも、泥水に落ちる前からかなり薄汚れた姿だったようだ。

 泥水を思い切り飲んだようで、ひどく咳き込んでいる。私は老婆の背をひとさし指でゆっくりとさすった。

「あぁ……ひどい……目に遭ったわ。まさか、この水溜まりが、こんなに深いなんて……」

 喘ぎながら老婆は言った。

 罠を仕掛けるのは私の本分だが、それで誰かに怪我をさせようとか、まして命を取ろうと思っているわけではない。危うく溺れ死にさせるところだったとは、明らかに私の設置ミスである。

「すまない、私の作った罠だ」

 私は、そう言おうとした。しかし。

「ああ、ありがとう。あなたはとても親切ね」

 老婆がそう言って私を見上げて微笑んだので、何故か痰が絡まったようになり、言えなくなった。

「ごめんなさい……、降ろしてくださる? 私、とても、急いでいるの……。今夜半中に、行かなければならないところが、あって」

 私が彼女を地面に降ろすと、彼女は服や髪を軽く絞って水を出した。といって、勿論それで濡れた体が乾くわけではない。

「どこへ行くのだ?」

 尋ねてしまったのは、物のはずみというものだったのだろう。老婆は僅かに計るような、考え込む顔をしたので、私は少し後悔した。

「始まりの森よ」

 だが、案外すぐに笑顔で答えた。――眉をひそめたのは私の方だ。

「始まりの森?」

 そう遠いというわけではない。だが、この小さな小さな老婆の足で、果たして今夜半中に辿り着けるものか?

「少々、予定を遅らせてしまって……。でも、大丈夫よ。なんとかなるわ。私が遅れて、待たせるわけにはいきませんものね」

 またひとしきり咳をすると、老婆はちょこちょこと歩き出した。本当に、自分の足で始まりの森まで行く気らしい。

「……おい、待て!」

 私は老婆を呼び止めていた。

 

 老婆を呼び止めてしまったのは、幾ばくかの罪悪感があったからだろうか。――「私の罠だ」と、何故か言う事が出来なかったから。それとも、「親切な人」と言われて、いささか調子が狂ってしまったということかもしれない。私にそんな事を言う者なぞ、ついぞお目にかかったことがないのだから。

 私は、老婆をてのひらに載せて、始まりの森まで歩いて来ていた。

 短い日は既に暮れ、森は薄闇に支配されている。

 柔らかな闇をまるく押し広げて、ふわり、と光が舞った。



    はちみつとケーキ

    バター入りエール

    準備は出来た

    さぁ、パーティーよ

    新しい年が来るのだもの。お祝いしなくっちゃ



 さざめきのような声をあげて、沢山の円い光達が群れ飛んでいる。妖精だ。

「あら、今時分に森にやってくる人かいるなんて。何の用?」

 光の一つが止まり、言った。止まると光が薄まり、中心に小さな虫のはねを生やした少女がいるのが見える。

「まぁ、その服装、そのモップ。あなたはキキーモラね。ねぇお仲間さん、一緒に年越しのお祝いをしましょうよ」

「私達、一晩中 飲んだり食べたり唄ったりするのよ」

 無邪気にくるくる回りながらそう言う側で、別の妖精が鋭く声を上げた。

「待って。この人の髪、金色じゃないわ。雨雲みたいな灰色よ」

「ほんと! それに、黒いエプロンドレス。これはブラックキキーモラだわ!」

 きゃー、と悲鳴を上げて、いっせいに光達は舞い散った。

「大変、大変。せっかくのパーティーを真っ黒に汚されちゃかなわないわ」

「よりによって年越しの夜にはね!」

 あっという間に、光の粒は森の奥の暗闇へと消えていった。

 勝手に声をかけて、勝手に逃げていって、全く騒々しい連中だ。――待てよ。

「おい、婆さん。もしかして、あんたはあの連中のところに行くつもりだったのではないのか?」

 包んでいた両手を開けて、私は小さな老婆に尋ねた。もしそうなら申し訳ないことをした。一度逃げてしまった妖精を捕まえるのは至難の技だろうから。たとえ私でも。

 けれど、老婆は首を横に振った。

「私が行きたいのは………もっとずっと森の奥。そこに、とてもとても大きな木があるの。その木にはうろがあって……私が行かなければならないのは……そこなの」

 私は眉をひそめた。

「……眠そうだな。疲れたのか?」

「いいえ。あなたの手があまりに暖かいものだから、眠くなってしまったの。大丈夫……着くまでは起きていますよ。……ごめんなさいね、結局こんなところまで連れて来てもらって」

「いや、いいんだ。(元はといえば私のせいだからな。)

 それより、本当にそんな木があるのか? この森の中でこの暗さでは、見つけるのは難しそうだが……」

「あるはずよ。私も帰るのは一年ぶりなのだけど。……大丈夫。必ず辿り着けますよ。大勢の人たちが待っているのですもの」

 老婆は確信を込めて言う。

 彼女がそう言うのなら、そうなのだろう。私はまた森の奥目指して歩き始めた。ここまで来たら最後まで付き合う覚悟だ。



 

 薮の中を突っ切っていたのに、不思議に枝に髪や服を取られることもなく。後で思えば、それこそ何かに導かれていたということなのかもしれないが……私は、これまで来たこともないような森の奥へ入り込んでいた。

 もはや、深夜に近いだろうか。

「ここか……婆さん」

 目の前が不意に広がって、ちょっとした広場のようになった草地の中心に、とても大きな木があった。枝は節くれだち、蛇のように捻じ曲がり絡みあっている。枝に葉はなく、その隙間からランタンを灯したような星の灯がゆらゆらと揺らめいて見えた。

 老婆の言った通り、ごつごつした木の幹には、ぽっかりとうろが開いている。

「私を……そのうろの中に置いてちょうだい」

 老婆が言うので、私は彼女を木のうろの中に置いた。しっとりと柔らかな苔のクッションの上に、彼女はちょこんと座った。

「ありがとう……。あなたのおかげで間に合ったわ」

 私は辺りを見まわした。森の中は真っ暗で殆ど何も見えなかったが、ここは星と月の明かりが差し込んでいる。なんといっても今夜は満月だ。

 だが、その視界の中に、”大勢の人たち”はおろか、人影はまるで伺えなかった。

「――待ち合わせてるってヤツらは、一体どこにいるんだ? まだ来ていないのか?」

 来るまで、私もここで待っていようか。そう言おうと思ったのに、老婆は首を横に振った。

「いいえ、いいのよ。これ以上あなたを煩わせることは出来ないわ」

 老婆は穏やかに微笑んでいる。

「……………わかった。私はこれで失礼しよう」

 そう言って、すぐさま私は背を向けた。早足で歩き出す。

 折角の親切を先んじて制されたようなのが気に食わなかったし、また気に食わないと感じる自分が決まり悪かった。結局のところ、私のようなものが、長い間 手の中に暖かいものを持っているべきではないということだろう。

「真っ直ぐ歩けば、道に迷わず帰れますよ」

 背後から老婆のそんな声が聞こえた。構わずに私は森に踏み込んで、どんどん歩いていった。 

 ………………。

 …………。

「……!」

 私は立ち止まり、振りかえった。

 やっぱり、納得できない。 

 あんな老婆がこの森の奥に一人残って、大丈夫なのか。一体誰が来るというのか。私はとても気がかりだし、それを確認するのは、ここまで老婆を連れてきた私の義務だし、権利だと思うのだ。

 再三、私は森の道を走り戻った。

「婆さん!」

 あの大木の広場に戻り、木のうろを覗き込んだが、そこには何もいない。

「婆さん?」

 もう、誰かがやって来て、一緒にどこかへ行ってしまったんだろうか?

 考えてみたら、私はさよならとも言わなかった……。

 呆然と立ち尽くしていた私の視界の隅に、奇妙なものがひっかかった。

 ぼうっと、光を放っている。――木のうろの中が。

 最初は妖精でも現れたのかと思った。でも違う。光っているのはうろの中全体で、光るものがうろに入り込んだわけではない。

 光はどんどんどんどん強くなり、やがて紐状に収斂すると、紐に太いところと細いところがするすると出来て、小さな光の人のようなものになった。

「婆さん?」

 違う。

 だって、この小人のボディラインはずっと若くて美しい。背筋もぴんと伸びていて、さっきまでの縮こまってボロきれのような老婆とは似ても似つかない。

 だが。

 金色の髪をして、内側からぼうっと光り輝くような薄紅色の花を沢山それに飾り付けたこの美しい少女の微笑みは、確かに、あの老婆のものと同質のものだった。……私にはそう感じられた。

 微笑みによって、全身から発される光度がいや増したように、ぱぱっと光が走った。目を開けていられなくなり、私は目を閉じた。まぶたの向こうで、光はさっとうろからほとばしり、天空へと駆け上がっていく。

 数瞬間を置いて、おそるおそる目を開くと、もうそこには何の異変も起きてはいなかった。ただの大きな木、ただのうろ。見上げた夜空にも、当たり前の星と満月しかない。何一つ変わらない。

 ――本当に?

「新年、おめでとう!」

 どこかで小さな声が聞こえた。多分、妖精たちだろう。

「待ち望んでいた新しい年!」

「おめでとう!」

「新しい年、おめでとう!」

 粟粒が弾けるような乾杯の声を聞きながら、ようよう、私は悟った。

 今、私の目の前で”古い年”が死に――そして、”新たな年”が生まれたのだと。

 そんな厳粛で劇的な瞬間を、私は目撃したのだ。



 

 生まれて初めて、改まった気持ちで私は満月を見上げた。

 勿論、新しい年になったといって私の役割が変わるわけではないが。それでも、新たな気分で取り組んでいこう、と思えたのだ。

 ひとりごちる。

「とりあえず、初詣の帰りの客を狙った落とし穴だな……」

 晴れ着を着た奴が多いから、汚しがいがあるだろう。勿論、怪我をさせないように。

 それが、ブラックキキーモラの仕事というものだ。



 

 妖精たちの歓声を背にして汚れたモップを担ぎ直し、私は意気揚々と森を後にした。






モドル
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