閉じる円環






「ど……どうして……っ?」

 やっとのように搾り出した、その言葉の後に。かはっ、と血が吐き出された。がくりと全身が力を失う。

「アルルーーーーっ!!」

 ルルーの、ラグナスの、そしてサタンの叫び。それらを意に介する様子もなく、シェゾは無造作に己の剣――アルルの腹部を貫いた、漆黒の魔剣を引き抜いた。ブシュウゥッ、と血が噴出し、剣によってかろうじて支えられていた体が、人形のように床に投げ出される。

「アルルっ」

 駆け寄ろうとしたのか、ルルーが二、三歩よろめいたが、その場で膝が崩れた。そんなことも出来ないくらいに、彼女は――彼女たちはボロボロだったのだ。それほどに死力を尽くし、傷つき、限界を越えに越えた文字通りの死闘が、つい今まで行われていたのだから。

 そこは神殿だった。今こそ殆どが崩れ落ち、無惨な姿をさらしてはいたが――本物の、神のくら。全ての秘宝石の力を結集して道を開いた天界、その中心の天使城、最奥の始原の扉。扉の向こう、この世の始まりからのあらゆる時空が混在する時の回廊。そこを抜けた、世界の中心にして最深の空間。

 そこには――創造主が座していた。この世の全ての世界、あらゆる命を創造したという、……正真正銘の神。

 だが同時に、世界を無に帰す、破壊の魔神でもある。

 その存在は、最初から知られていたわけではなかった。創造主の破壊の使徒である天使。かつてはその一人であったというサタンですら、その存在を知らないでいたのだ。天使たち「聖なるもの」は、「邪なるもの」から世界を守り、人々をより高みへと導く。……が、その発展がある一定のレベルを超えると世界を滅ぼす。それは、天使にとって「朝になったら日が昇る」のと同じほどに当たり前のことで、「何故」などとは考えたこともなかった。――まさか、それが創造主の定めた「因果律」であろうとは。

 天界を滅ぼしても、世界滅亡の定めは変わらない。全ての因果の元、創造主の存在を断ち切らぬことには。

 だから、彼らは来たのだ。全ての秘宝石の結晶――究極魔導器セラフィム・オーブの主たるアルル・ナジャを中心として、深すぎる傷、多すぎる喪失を得ながら、この、誰もが決して訪れることが出来なかった異空へと。

 そして――アルルが創造主を倒し、ついに安寧が訪れた……ばかり、だったのに。

「な……なんでこんな……。やっと……やっと、終わったんじゃないのよぉおおっ!」

「シェゾ……っ!」

 ルルーの叫びを聞きながら、ラグナスは彼の名を吐き出した。何を言えばいいのだろう? 怒り、悔しさ、悲しみ、そして疑問。全てが渦を巻いて、言葉を塞いでいる。

「――俺たちは……共に戦ってきた仲間じゃないかっ!」

 やっと、こう叫んだ。

 思えば、シェゾと剣を交えたことは幾度もある。

 かつて、彼は自ら悪を名乗り、己の野望のためにアルルの魔力を奪うと公言して憚らなかった。生来正義感の強いラグナスとしては無視できるものではなく、何度も衝突を繰り返したものだが。

 しかし、それはもう何年も前の話だ。好むと好まざるとに関わらず縁は続き、そうして人となりを知れば、彼が自分で言うほどの悪人ではないことが分かってくる。アルルに対する怪しげな言動も、関わりあうための一種の口実と見え、実際、ラーナの事件以降……この戦いが始まってからはそれも鳴りを潜めた。

 凶暴化した魔物を鎮め、襲い来る天使たちと戦いながらの異空点探しの旅。創造主に対抗できる唯一の力、セラフィム・オーブ。そのただ一人の主に選ばれたアルル。最終的に全ての重圧をアルル一人に負わせなければならないことを歯がゆく思い、共に、本来ならこの戦いに加わる必然を持てぬ存在――真にはこの世界に帰属せぬ異世界の者、世界に仇なすとされる闇の力の持ち主――でありながらも、彼女を支えて最後まで闘うことを誓い合ったこともある。

 そう。紛れもなく、彼は戦友であり、かけがえのない仲間だった。始原の扉を潜り、時の回廊を行く時、そこに待ち受けていたケルビムとも共に闘った。そして、この時シェゾは、ケルビムを道連れにして時空の混迷の中へと消え去ったのである。仲間たちを――アルルを奥へ行かせるために。

 あの悲しみと衝撃の記憶は、いまだ生々しい。

 この犠牲を経て深部へ達し、創造主と相対して――全ての戦いが終わったとき。そんな彼が、無事な姿で現われた。

 それを見て、歓喜しない仲間がいただろうか。アルルも表情を輝かせ、よろめきながらも彼の側へと駆け寄った。――その身体を、シェゾの魔剣は躊躇なく貫いたのである。

 信じられない、という驚愕。なにか大切なものを踏みにじられたかのような悲しみと憤り。

 ――こんな思いは、以前にもさせられた覚えがある。

 それが閃き、思わず、ラグナスはこう叫んでいた。

「まさかっ……シェゾ、お前、またルーンロードに乗っ取られているのか!?」

 少なくともラグナスにとってのこの戦いの「はじまり」。

 それが、かつて廃都ラーナの遺跡で起こった事件である。

 その頃、ラグナスはいまだ記憶の大半を失い、それでも元の世界に戻る方法を探しながら傭兵稼業を続けて旅をしていた。そんな中、久しぶりにアルルとルルーに再会する。彼女たちは魔導学校のマスクド校長の依頼で廃都ラーナの遺跡にある魔導石盤の調査に行くのだと言い、「ラーナの遺跡」という言葉に不思議な引っ掛かりを感じたラグナスも、その旅に同行することになった。そして到着した遺跡で、三人は今度はシェゾと再会したのである。彼は魔導石盤の話を聞くと、心当たりがあると言い、封印された扉の向こう、吹き抜けの闘技場のような場所に一行をいざなった。そして――そこで突然、アルルの魔力を奪い取ったのである。

 ――この時の驚愕と悲しみ、憤り。

 今、まさにそれを追体験している。……いや、あの時以上か。

 それでも、あの時にはある種の感情の逃げ道があった。

 結論から言えば、この時のシェゾは、シェゾであってシェゾではなかったからだ。かつてシェゾに闇の魔導師としての宿命を継承したという邪悪な寄生精神生命体ルーンロード。密かにシェゾに寄生していたその欠片が、この頃密かに世界に満ち始めていた「負」の影響を受けて増大し、シェゾの肉体を奪い取っていたのだ。

 アルルの魔力を手に入れた「ルーンロード」は、恐るべき破壊の力を見せ付けた。この時、その膨れ上がった「よこしまなる力」を感知した無数の天使たちが襲来し、ラグナスらは伝え語りのみでしか知らなかったその姿を初めて目の当たりにしたのだが、「ルーンロード」はアレイアード――古代語で「天使の翼を折る」という意味であり、本来対天使に特化した呪文なのだと、後にサタンに聞いた――を用いて、あっけなくそれらを惨殺したのである。血と脳漿と砕けた骨の中で哄笑する姿は凄惨極まりなく――そして、ここにいたってラグナスは、ガイアースの勇者ラグナス・ビシャシとしての記憶と力の全てを取り戻していたのだった。

 かつて、数百年前の魔導世界に時空転移したラグナスは、このラーナの遺跡でルーンロードと戦い、その時の彼の肉体を打ち砕いた。その肉体はラグナスと同じように「勇者」と呼ばれた男のものだったが、やがてラグナスに追い詰められたルーンロードが暴走すると、寄生された肉体は膨れ上がってゼラチン状の不気味な肉塊へと変貌した。ラグナスはこれを切り裂いて消滅させたのだが、ルーンロード自体は消滅しておらず、不意をついてラグナスの記憶と力を封じ、自分が次に寄生するはずの肉体――次代の闇の魔導師たるシェゾのいる時代へとラグナスを転移させたのである。

 そして――運命は過たず、ラグナスとシェゾを出会わせていた。

 その破壊の矛先をこちらへ向けてきた「ルーンロード」と闘いながら、ラグナスは迷った。以前闘った偽勇者ラグナース――先代の「ルーンロード」は、ラグナスにとって倒すべき敵でしかなかった。しかし、シェゾは違う。共に戦ったこともあり、まだ色々と信頼できない面があるものの、仲間だった。そんな相手と、本気で――すなわち、殺すつもりで闘ってもいいのか。

 しかし、アルルの力を得た「ルーンロード」の力は強大だった。なんとかルーンロードの支配からシェゾを逃れさせられないかとも思ったが、とてもそれどころではない。殺すか、殺されるか。その瀬戸際で。それに、以前の例からすれば、ルーンロードの力が暴走したとき、その肉体もが異形に変わる。シェゾのそんな様を見たくは無かったし、アルルたちにも見せたくなかった。

 ――本気で、やるしかないのか。

 その時。そう決意したラグナスの思いを見透かしたかのように、魔力を奪われてからずっと気を失っていたアルルが目を開き、声にならない悲鳴をあげた。

 その全身から発散される、「光の奔流」としか表現しようのない、圧倒的な力。

 それは「ルーンロード」の背後に影の形でその本性を浮かび上がらせ、シェゾ本来の意識をも呼び覚ました。目覚めたシェゾは渾身の気力で己の内からルーンロードを弾き飛ばし、寄生すべき肉体から切り離されたそれを、二人は、いつになく静かで大人びた口調のアルル――本人は、この時のことは全く覚えていないと後で言っていたが――に促されるままに、それぞれ覚醒させた闇の剣と光の剣を用いて、ついに消滅させることに成功したのだった。

 ――そう。ルーンロードを、俺たちは確かに滅ぼした。だが、かつて俺も、シェゾも、ヤツを倒したつもりで失敗していたんだ。だとすれば、また……?

「ルーンロードか……。そんなこともあったな」

 半ば期待にも似たその疑惑を、しかし、シェゾはすげなくいなび返した。

「だが、生憎だ。俺は俺――正真正銘のシェゾ・ウィグィィだ。何かに惑わされているわけでも、誰かに操られているわけでもない」

 冷めたままの瞳でのいらえに、それを見つめる三人は息を飲む。

「ならば……何故だ! 何故、アルルを殺した!」

 痛みをこらえるような顔で、サタンが叫ぶ。――自責の痛み。よもや、このような結末を迎えるとは思わなかった。この男がアルルを……害するなど。読みきれなかった私の罪なのか?

「ぐーっ」

 血溜の中で倒れたまま動かないアルルの側にぽつんと佇んでいたカーバンクルが、不意に声を上げた。そのつぶらな瞳の見つめる空間に光が生じ、パアアッと発散して何かを映し出す。

「……戦いの中でセラフィム・オーブの力を使いきり、創造主に負けるのならば……それでよかった」

 光は人影となり、フワリとした残像を残しながら実体の重みを伴って床に降り立った。

 赤みがかった栗色の長い髪。裾の長いサフラン色のドレスをまとい、手には月をかたどった大きな魔導杖を掲げている。

「時の……女神様?」

 ルルーは呟いた。教会や何かの本で、その姿はよく見ていた気がする。……しかし、何かが違う気もした。確かにその姿は伝え語りの時の女神そのものだが、もっと、別の何か……誰かに似ているような……?

 サタンは愕然としている。

 見開いた目。麻痺しているかのような舌が動き、ようやくのこと、その名を音に乗せた。

「リリス……」

 その名は、衝撃となってルルーの内部に響き渡った。

 ――この人が……!?

 そして、気付いた。――随分大人びてもいる。それに、瞳の色が鮮やかな紫だ。だが……。

「でも、そうはならなかった。だから、彼は殺さねばならなかったのです。――世界を、滅ぼすために」

 そう告げる彼女リリスは、アルルと同じ顔をしていた。




 リリス。その名をルルーが初めて聞いたのは、廃都ラーナでの一件の際だ。ルーンロードに支配されたシェゾの暴走と、天使の出現。――そして、魔力を奪われ、意識さえ失っていたはずのアルルの、圧倒的なまでの"力"の発現。そればかりではない。まるで人が変わったような態度でもって、彼女はルーンロードを滅ぼす助言さえもを行った。そしてルーンロードが滅ぼされると、アルルを包んでいた異様な力は消え去り、彼女は再び意識を失ったのだが……。

「くっくっく……そうか、そうだったのか!」

 誰かが低く笑った。そして、ぐったりとしたアルルを抱き起こしていたルルーの眼前で、一瞬の光が交差する。

 襲来した天使たちは「ルーンロード」によって惨殺されていたが、ただ一人、灰色のフードを被った天使だけがその場に生き残っていた。――厳密に言えば、アレイアードが放たれた時、どこからか駆けつけたマスクマンSによって庇われ、救われていたのだが。その天使がアルルめがけて攻撃し、それをマスクマンSが弾いたのだと、理解が追いつくまでに数瞬を要した。

 

「やめろ!」

 叫ぶマスクマンSに、天使は叫び返す。

「何故止める。あれはリリスの力だ。あの女のためにお前は力を失い、このような穢れた地に堕ちることになったのだぞ、ルシファー!」

 

 結局、この時は天使は何も出来ずに去り、事態は一応の終息を見せた。

 ――アルルが発現させたリリスの力。そして、マスクマンSとルシファー。

 ルルーにとって、それはまだ、じきに意識から零れ落ちる程度の情報に過ぎず、さして意味を持つものではなかった。

 だが、間もなく世界の平穏を揺るがす事件が頻発し始め、それらの一つ一つに関わっていくうち、瑣末だったはずの情報は俄かに意味を持ち始める。

 事件の中で出会った人々は言った。

 今、世界には滅亡の危機が迫っている。神が世界を滅ぼさんとしているのだ、と。

 神による世界の終末を"ラグナロク"という。――だが、希望を捨ててはならない。遥か一万数千年前にも、一度世界はラグナロクによって滅びかけた。だが、それを食い止めた"人間"がいる。彼女こそがリリス。まだ年若い娘であったが、強大な力を誇る魔導師であり、神にまつろわぬ者どもを率いて反逆した。そしてついに、究極の魔導器セラフィムオーブの力を解放して、世界に再生と平和をもたらしたのだと。

 リリス伝説は、少しずつ形を変えながら各地に残されていたが、その中にしばしば現われるのが"ルシファー"の名だった。多くの伝承において、ルシファーは憎むべき敵、時には世界を滅ぼす神そのものの名として現れた。

 悪魔王ルシファー。破壊の王。殺戮の天使……。

 しかし、魔女の里で聞いた伝承においてのみ、その扱いは大きく変わっていた。

 堕天使ルシファー。導きの明星。――リリスの夫。

 その伝承においては、ルシファーは神を裏切ってリリスにくみした者とされていた。リリスと契りを交わし、それによって新たな世界を生み出したのだと。しかし、神に逆らった罪により、ルシファーは美しい十二枚の翼を引きちぎられて地に堕ち、リリスは世界の車輪にとらわれた。朝に子を生んでは夜にはそれを失う、そんな苦しみを永遠に受けることになったのだという。

「私たち魔女の一族は――その時、ルシファー様に従って地に堕ちた星から生まれたと、そう伝えられているのですよ」

 この物語を語った老いた魔女は、最後にそう言った。

 この伝承を聞いたときの、あのなんとも言えない感覚を、ルルーは忘れることができない。

 単純な驚きと、全てが腑に落ちたという納得。それが入り混じった鈍い衝撃。

 それまでの旅の中で、魔導学校のマスクド校長、神出鬼没の自称ヒーローマスクマンS、そして愛するサタンが同一人物だということは、既に明かされていた。――そのこと自体にもかなり驚かされたものだったが。ともあれ、それを知ってから少しずつ心の中に凝り始めていたモノが、その時、はっきりとした形になったことを、ルルーは悟ったのだ。

 美しく強大な力を持つ魔王サタン。かつて天使の長だったというルシファー。まるで天使の襲来を予見していたかのようなマスクド校長の依頼。守護者のように要所に現われるマスクマンS。マスクマンSは天使をかばい、天使は彼をルシファーと呼んだ。

 そう……。サタンこそが、堕天した天使ルシファー当人だったのだ。

 ――それに、アルルとリリス。

 旅の最中、一度、ルルーは思い余ってサタンを問い詰めたことがある。

 

「あなたが好きです。愛しています。少女の頃からずっと、どうしようもないほどに。なのに、どうして応えて下さらないの。

 いいえ、答えは分かっています。それを聞きたくなくて、ずっと誤魔化してきました……。

 でも。どうしてなんです。そんなにもあの子を……アルルを愛しているのですか。あの子は決して、あなたの愛に応えようとはしないのに。……ダメなのですか。わたくしには、ほんの少しの可能性もないのですかっ? だったら……だったら、私はもう……」

 

 我ながらメチャクチャだったと思うが、この時は、積み重なった痛苦しさが恐れに勝った。――どこかに終末を望む疲れがあったことも否めない。が……。サタンの答えはかなりルルーの意表をついた。

 

「私のワガママだということは分かっている……。だが、もう少し待ってはくれないか」

 

 サタンは言った。

 自分はずっと妃となるべき者を探してきた。遥か昔からぽっかりと空いていた、己の心の空洞を埋めるべき誰かを。そのために関門つきのダンジョンを設置し、魔導学校を作った。不屈の心、そして強大な魔力を持つ"人間"こそが己が妃に相応しいと常々考えていたからだ。

 アルル・ナジャは、そうして集めた妃候補の少女たちの中では突出した存在だった。強く、くじけず、なにより、カーバンクルがなついている。その言動の一つ一つが強くサタンの心を引いた。

 それを聞いて。

 ルルーの胸は痛んだ。アルルについて語るサタンの表情は明るく、どこかぼうっと夢見ているようで、彼が、いかにの娘に特別な感情を抱いているのか、火を見るより明らかであったから。

 しかし、ルルーが目を伏せる気配に気付くと、サタンはいささか声を大きくした。

「いや、違う!」

「え?」

 反射的に上がったルルーの視線の先で、驚いたことに、サタンはひどく真剣な顔をしていた。

「その……だから、違うのだ。確かに、アルルは私にとって特別な存在だ。彼女の側にいると、心がざわめく。喜びや、切なさや、長く生き過ぎた私の中で風化しつつあった感情が鮮やかに活かされてくる。だから、私自身、それは恋や愛と呼ぶべきものなのだと、長い間思い込んでいた。

 ……しかし、気がついたのだ。私は、アルルが懐かしいのだと」

「懐か……しい?」

「ああ。……何故なのかは分からぬ。だが……懐かしい。切ないほどに。あの娘を見ていると……何かを、誰かを思い出す気がする……」

「………」

「このことに気付いて、私は己が欠けていることを知った。私は……何かを失ったのだ。何か……とても大切な……。だが、忘れている。忘れていることすら、つい最近まで忘れていた」

 サタンは、右手で自分の胸を押さえる。

「この空洞が何なのか……私が何を失ったのか……。アルルと共にいれば、それが分かる気がするのだ。……かつては、ただ、アルルがこの空洞を埋めてくれることを期待していた。だが今は……そうではない、と気付いている。アルルは私の空洞を照らすだろう。だが、その中を見つめるべきなのは……私自身だ。私は、私が何を失ったのかを知らねばならぬ。――そして、それが分かったならば。私は、私が今まで目をそらしてきた様々な物事に、やっと、正面から向き合える気がする……」

 まぶたを開き、真紅の瞳でルルーをとらえた。

「だから、それまで………待っていてくれるか?」

「サタン様……」

 ルルーは、その男の名を呼んだ。

 勝手な言い草だ。何かを確約したわけではなく、結局、先延ばしに過ぎない。――それは分かっていたが、それでも。

「――……はい」

 微笑んで、ルルーは頷いていた。花がこぼれるように、涙の粒をひとつ、ふたつ落として。

 "それ"を思い出したとき。サタンは、やはりルルーを選ばないのかもしれない。それでもいいと思えた。誤魔化しでもおざなりでもなく、真剣に答えを探してくれている。そう思えて、何よりもその気持ちが嬉しかったから。それだけで――この時は、痺れるような幸福に満たされることができたのだった。

 ――今は、その感覚も遠い。

 サタンがアルルに何を感じていたのか。それは、ルルーにははかりようがない。だが……様々な伝承に触れ、今、ここで"リリス"と対面して。固く閉じて見えなかったものが、するりとほどけてさらされた気がした。

 アルルは、ルルーの目から見ても、不思議で妙に気を引かれる娘だった。

 見た目では決してルルーには敵わないお子ちゃま女のくせに、やたらと求心力がある。どこまでもまっすぐで、その分危なっかしいのに、転ばない。非力そうに見えて強大な力を発揮し、あらゆる難事をすり抜けていく。――まるで、見えない翼に守られているかのように。

 世界の終末を知り、まっさきに「なんとかしよう」と言い出したのもアルルだった。そんな彼女の周囲には、ルルーを含め、多くの仲間たちが集っていった。

 そんな、旅の中で出会った者の中には、アルルを"リリスの後継者"と呼ぶ者たちがいた。

 伝説の再来。リリスの力を継ぐ者。女神に選ばれし勇者。

 それらの声を裏付けるかのように、アルルはかつてリリスに仕えたという秘宝石の守護者ジュエルガーディアンたちを従えてセラフィムオーブを操り、時に、人の領域を超えたかのような圧倒的な力さえ発揮した。――そんな時、違和感を感じることもあった。

 

「あんた……本当にアルルなのっ……!?」

 

 今まで見せたことのない呪文、知らないはずの知識。まるで、アルルの中に別の誰かが現われ、危地を救ってくれているかのように。

 そう――今ならば揺らぎなく言える。恐らくは、あれが"リリス"だったのだ。

 アルルと同じ顔をしている女神。

 ――サタンさまは……アルルの中に、あのひとを見ておられたのだわ。

 思いが確信となった時、ルルーは胸に裂かれるような痛みを感じて震えた。

 それは、半ば予想していたことだったけれど。それでも、現実は容赦なくルルーを切り刻む。

 ――たとえ選ばれることがなくったって、それでもいいなんて、そんなのウソ。

 ただ、考えまいとしていただけだと、急に思い知らされる。

 神を裏切って地に堕とされ、一万数千年を経てなお、リリスの面影を追い求めていたサタン。

 ――その想いに……私は入り込むことが出来るの?

 偉大な力を持ち、サタンと並び立ってなんら不足のないリリス。

 待っていてほしい。その言葉に希望を見ていたけれど。もしも二人が再び出会うことがあれば、サタンはリリスの元へ行ってしまうのかもしれない。

 そんな風に、ずっと恐れていた。そのリリスが――目の前にいる。




「世界を滅ぼす……だって!?」

 肺腑から言葉を搾り出し、ラグナスは剣を握る手に力を込めた。

 今の体では、戦うのはおろか、ただ剣を振るうことすら難しい。それは分かっていた。しかし、諦める気はない。どんな絶望的な状況であろうとも、先が見えていたとしても、決して諦めてはならない。

 ――俺たちは、世界中のみんなの命と――その願いを背負って、ここにいるのだから!

 胸の中でその想いを叫んだ刹那、フッと既視感がよぎる。

 そうだ。同じことを以前も言った。

 天使城に乗り込む前のことだから、あれは昨夜のことだ。けれども、もうひどく遠い――何百年も前の出来事のように思える。

 あの時は、絶望の重圧を全身に感じながら、それでも仲間たちは皆、光を失っていなかった。

 たとえ神殺しの罪を背負い、永劫に罰を受けるのだとしても。

 やりぬくという決意、きっと勝つという希望、明日もその次もずっとこの世界が続いていくという未来。それを信じる夢。

 それは、共に戦う仲間がいたからこそ失わずにすんだ光だ。

「お前だって……それを信じていたんじゃないのか、シェゾ!」

 シェゾは、黙ってその言葉を聞いている。その視線がふと流れて、己の背後に向かった。

「……!!」

 シェゾとリリスを除く、その場の全員が息を飲む。

 つい先程まで床に倒れ付し、血溜りの中でぴくりとも動かなかった娘――アルル。彼女が目を開き、ゆらりと立ち上がっていた。

「どうし、て……」

 倒れる前に口にしていた言葉を、再びその唇が紡いでいく。

「キミは……ボクたちと、一緒に未来を見るって! だから戦うって! そう言ったのにっ!!」

 全身を金色の光に覆われた彼女を目に映しながら、シェゾは低く呟いた。

「……やはり、この程度ではお前は殺せなかったか」

「シェゾ! お前っ!!」

 激昂し、ラグナスがシェゾに殴りかかろうとした、その時。

 ゴガァッ!

 突き上げるような衝撃が走り、地鳴りのような音と共に辺りが揺れ始めた。

「――こ、これはっ!?」

 サタンが動揺した声を上げる。これは地震ではない。ここは時空の果ての神のくら。そもそもそんなものが起こりうる場所ではないのだ。揺れているのは、もっと根源的な……。

「まさか……時空が崩壊しているというのか!?」

 時空は、世界を構成する線と面。それが崩壊するということは。

「世界の滅亡が始まる……」

 リリスが呟いた。

「世界とそこに生きる命は、全て創造主によって作り出されたもの。その創造主が滅んだ今、世界は存在の力をなくし、その一切が消滅しようとしているのです」

「なっ……」「なんだって!?」「バカな……!!」

「そ……そんな」

 アルルがかすれた声で呻いた。

「ボクは、世界を……みんなを守りたいから……だから、戦ったのに………っ。

 ……いやだ。そんなの、いやだよ! ボクは、諦めない。まだ……間にあうっ!」

「ぐーっ!」

 カーバンクルが鳴いた。

 アルルは両の手をさし伸ばした。全身を覆っていた光がてのひらの間の宙に集まり、円く凝り始める。

「まさか、セラフィムオーブを使う気か? やめろ、アルル! そんなことをすれば、お前は!」

 ハッとしてサタンが叫ぶ。

 その刹那。漆黒の刃が閃き、アルルの手の間で形を取り始めていた光を分断した。具現しつつあったその力は、一時的に"場"を砕かれて消失する。

「そうだな。まだ、間にあう」

 刃を引き戻して、剣の主は言った。

「このまま、お前に何もさせないでいれば………世界を、終わらせることが出来る」

「……シェゾ!」

 彼を見やったアルルの目に一瞬、悲しみが瞬き、しかしすぐに強い意志の光に塗り替えられた。

「どうしても邪魔をするの?」

「無論だ」

「だったら、ボクは……!」

 アルルは両手を構えなおす。攻撃魔導を放つ形に。

「フッ……」

 小さくシェゾは笑い、魔剣を構えた。

「やめろ、二人とも!」

 ラグナスは叫んだ。

 以前は、何度も目にした光景だった気がする。だが、今、どうしてこんなものを見なくてはならないのか。

 しかし、間に割り込むいとまはなかった。ひときわ大きな揺れが襲い、その一瞬の後、対峙した二人の姿は、そこになかったからである。

「二人が、消えた!?」

 愕然とする。誰かが二人を別の場所に飛ばしたのか。そう思い、すぐに意識はその場の"誰か"に向かう。

「あんたがやったのか?」

 そう問われたリリスは、しかし、静かに首を横に振った。

「私が何かをしたわけではない。空間が歪み、位相に僅かなずれが生じたのです。――二人は、まだそこにいます」

「なっ……」

 言われて、つい先程までアルルたちがいた場所を、ラグナスたちは見やった。……やはり、誰もいない。だが、ほんの僅かずれた空間のその場所に、二人はいる……のか。

「アルルが勝てば世界は続き……シェゾが勝てば世界は終わる。私たちは、その戦いを見ることも、干渉することも出来ません。ただ、ここで……訪れる結果を待つだけ」

「俺たちは何も出来ないっていうのか!」

「空間が歪んだのは崩壊の影響。――ですが、あの子達が望んだからでもある」

「え?」

「この戦いを、誰にも邪魔されたくないのでしょう」

「………」

「リリス……」

 満ちた空白に、サタンの苦しげな声が落ちる。

「何故だ。何故、世界の消滅を望む。お前はあの時、身を捨ててまで世界を救ったのではないか」

 彫像のように硬質だったリリスの表情が揺らぎ、サタンを見つめる。

「――ルシファー……」

 彼を呼ぶ、その声を耳にしただけで。激烈な痛みがルルーの胸を貫いた。

 その声音、息の響き。それだけで分かってしまう。――彼女が、彼にいかな気持ちを抱いているのかが。

 ――わたくしと、同じだから……。

「一万数千年前のラグナロクの際――セラフィムオーブを手に入れたお前は、その力を振るって天使を滅ぼし、世界から敵を排するのだと……誰もがそう思っていた。だが、お前はそうしなかった。お前が作り出したのは、聖、人、魔、全てが混沌として混じり合い、共立できる世界だったのだ。お前はそれを……全ての存在と命を生かすことを望んだのではなかったのか!」

「……そのために、過ちを犯してしまった」

 返ったりリスの呟きを聞いて、ルルーの頭の中はカッと白くなる。

「愛していたのでしょう!? あなたは、世界を……サタン様………をっ。だから!」

 愛していたから。排除されるべき敵だった天使たちをも取り込んだ世界を創造したのではないのか。

 ――なのに。

「そう……愛していた」

 否定することなく、静かにリリスは言った。その紫の瞳を伏せ、僅かに眉を曇らせる。

「それが、私の罪」




 異空の神殿で、少女と男は戦い続けていた。

「アレイアード!」

「シールドっ」

 放たれた闇の奔流を、アルルの周囲を包んだ光が跳ね飛ばす。

「ジュゲムっ!」

 返すように放った白い波動を、シェゾは雄叫びと共に漆黒の魔剣で切り裂いた。

 気づけば、いつの間にか仲間たちの姿が見えない。だが、今はそれは重要ではない気がした。時折轟く不気味な地響きや、歪む視界が早期の決着を促す。

 ――急がないと、世界が消える。

 みんながいる世界。お母さんやおばあちゃんや、ラーラや先輩や先生たちや、ドラコやウィッチやセリリや……。一つ一つの命が瞬き、連なりあっているところ。

 それは、アルルが存在していた世界でもある。肩にはカーバンクル。乱暴だけれど根は面倒見のいいルルー。その後ろで困ったように笑っているミノタウロス。颯爽としたラグナス。自信に満ちた顔で笑って、いつも妙てけれんな方法で言い寄ってきたサタン。――そして……。

「……どうして?」

 今更のように、アルルの唇から疑問がこぼれた。目の前で闇の剣を構えている、銀髪の男に向かって。

「どうしてなんだよ! キミは、ボクたちの仲間じゃないの?」

「……」

 黙って、シェゾはアルルを見つめている。もう一度アルルは叫んだ。

「ボクたちを、好きでいてくれてたんじゃないのっ!?」

「……くだらんな」

「シェゾ!」

「くだらんが。……そういうお前に、確かに俺は救われた」

「え……」

「闇に囚われ、見るべき世界を失っていた俺に、お前はもう一度世界を見せてくれた。だから俺は……」

 僅かに伏せた目を、シェゾは再び上げてアルルを見る。

「お前のために戦ってきた」

「……だったら……だったら、どうして!」

「お前は何故、戦う?」

「え?」

 不意に問い返されて、アルルは目を瞬かせた。

「そ、そんなの……。決まってるじゃないか。ボクは、守りたいから! 世界を……みんなを! だってボクは」

 勢いのままに言いかけて、シェゾの青い瞳に射抜かれた心地になり、僅かに口ごもる。

「……好き、だからっ」

 ――キミは。違うの? シェゾ……。

 見つめる視線の先で、太陽の光を直接見た時のように、シェゾは僅かに目線をそらしていた。

「シェ……」

「好きだとか、大事にしたいだとか……そんな想いから発した全てが正しいわけじゃない」

「……え?」

「時の回廊でケルビムを倒し、時空の歪みの中に投げ出されて……。俺は、そこで太古から連なる膨大な時の流れを見た」

 空間を斬り裂く力を持つ闇の剣がなければ戻ってはこられなかっただろう、とシェゾは己の手にした魔剣を見やる。

「お前がしているのはリリスの罪の再現だ。――アルル。全てを一人で抱え込むのをやめろ」

「リリス……。さっきのひと……?」

 アルルは呟いた。他のことに気を取られすぎていて、その姿はあまり覚えてはいない。だが、ひどく見慣れた、よく知っている人のような気がした。

「リリスは、一万年以上昔の魔導世界……いや。魔導世界の元となった世界に生きていた、魔導師だった」

 シェゾは言った。

「その時代、発展した科学は、古代より細々と伝えられてきた魔法と融合し、魔科学と言うべきものを生み出していました。それを扱う者を魔導師と呼んだのです」

 アルルとシェゾの立つ場所とほぼ重なった、少しずれた位相。

「リリスは、稀代の魔導師だった。まだ年若い娘でありながら、絶大な魔力を秘め、魔科学への造詣も深かった」

 語るリリスの前で、サタンは呟いている。ずれた場所でシェゾが続けた。

「そしてまた、リリスは、その時代に台頭し始めた宗教集団の法主・アダムの一人娘でもあった。その集団では、魔法は神に授かった神聖なものであり、魔導師は神に選ばれた存在だと教えていた」

「神に選ばれた……?」

 アルルは呟き、「全く、くだらんがな」とシェゾは嗤う。

「その時代、自然は破壊され、倫理は歪み、世界の終末が叫ばれていた。神聖魔法集団は天使が神の審判により世界を滅ぼすとし、しかし心から神を信じる者は新世界に行けるのだと唱えていた。それだけなら単なる与太話だ。だが……天使は現実に現われ、世界を滅ぼし始めた」

「その、天使軍を率いていたのがあんただったのか……サタン」

「そうだ。私と……私の双子の弟だった、大天使ミカエル」

 ラグナスの問いに、サタンは頷きを返した。一瞬沈められた彼の表情を見て、ルルーの眉が曇る。

 廃都ラーナで初めて天使と遭遇した時、それを率いていたのは灰色のフードを目深にかぶった天使だった。この天使はその後も何度かルルーたちの前に姿を現しては戦いを呼び起こし、決着がつけられたのはつい先日のことだ。

 

「闇の剣の使い手か……。フ……フハハハ! もう一度殺してやる!」

 

 天使城へ繋がる異空点を探して、ラグナロクの跡だとされる死の大陸、”失われた大地”にアルルたちは辿り着いた。そこに例の天使は待ち受けていたのだ。シェゾとの死闘が繰り広げられ、血まみれになりながら、闇の剣の力を極限まで解放したシェゾが辛くも勝利をおさめた。そして……。

 

「え……サタン……さま……?」

「嘘。……サタンそっくり……?」

 

 地に叩きつけられ、瀕死の息を吐くその天使のフードの下にあったのは、サタンと瓜二つの顔だった。頭頂部にねじれた角こそなかったが。「かつて一度殺した奴に殺されるとはな」とミカエルは嗤った。「どういうことだ」と問い質したシェゾには答えずに、浅くなっていく息の下からサタンに告げる。

 

「ルシファー。お前たちは、創造主に消滅させられるだろう……」

 

 その時まで、世界を滅ぼすのは天使たちなのだと思っていた。何故天使が世界を滅ぼそうとするのか、それは謎のままであり、天使たちの更に外側に存在する”世界の意思”があることなど、誰も――サタンすらもあずかり知らぬことだったのだ。

 創造主の定めた因果律により、天使たちは豊熟した世界に群れ集まって滅ぼす。それが太古より繰り返されてきた世界のシステムであり、ことわりだった。

「現実に天使が来臨して『最後の審判』を開始すると、人々はこぞって父の宗教集団に帰依しました。ですが、私は……」

 リリスは語る。

「だが、リリスは父親に反発し、集団を飛び出した。あくまで世界を滅ぼすべきではない、救われる者を選択する権利は誰にもないと唱える彼女の周囲には、それまで闇に潜んでいた『よこしまなる力』を持つ者たちが集った」

 一度言葉を切り、シェゾは「俺のような連中だな」と皮肉に笑う。

「神聖集団の理論では、邪な者は決して救われることなく、新たな世界に転生することは叶わないとされていたからな」

「そうして、『聖なるもの』と『邪なるもの』の血で血を洗う戦いは長く続きました。そんな中……私は、禁断の魔導器”セラフィム・オーブ”を手に入れた」

 リリスは静かに目を伏せた。彼女を見つめるサタンの目に苦しみが宿る。

「セラフィム・オーブ……。今はボクが受け継いでいる?」

「そうだ。リリスにくみする人間の研究者が、捕らえた天使たちの命を糧にして作り上げた」

「え……!?」

 目を見開くアルルの前で、シェゾは淡々と語った。

「セラフィム・オーブは、その使用者に神をも凌ぐ力を与え、他者の心さえも自在に操ることが可能だった。まさに究極の――禁断のアイテムだな。もっとも、その使用者として認証されるには、それなりの力量を示さなきゃならなかったようだが」

 言いながら、シェゾは「闇の剣も、その時代に作られたものだ」と己の手の中の剣に目を落とす。

「この剣の最初の主だった男も、リリスに従って戦っていた。……戦いの結末を見届けることなく死んでいったがな」

「……」

「ともあれ、リリスがこの魔導器の主となった時、誰もが、彼女がその力で全ての『聖なるもの』を滅ぼす、あるいは従えるのだと考えていた。だが……」

「リリスは、そうしなかった……」

 ラグナスが呟く。さきほどサタンが語っていた言葉を繰り返して。頷きをサタンは返した。

「人も、魔物も、天使も。みんなが一緒に仲良く暮らせる、そんな世界を創ると……。そして、"魔導世界"を創ったのだ。引き換えに――リリス、お前自身を消滅させることで」

「なのに、何故?」

 再びルルーが疑問を投げかける。アルルが叫んだ。

「どうして……今、世界を滅ぼそうとするんだよ! 自分で望んで創った世界なんじゃないか。なのにっ。それなのに、どうして!」

 沈黙が落ちた。叫ぶアルルの前で、憤った目をするルルーやラグナスたちの前で。

「……愛することが常に正しいわけじゃない」

 呟きが落ちる。リリスの、シェゾの唇から。

「人は闇を憎み、光は人を裁く。――リリスは人と光と闇の全てを愛し、その融和を求めた。それが可能な、永遠の平和の続く世界を望んだんだ。だが、それは……」

「それは、世界そのものの在りようを変えるということだった。……時空すら遡って、世界の根本を」

 セラフィムオーブを媒体として膨れ上がったリリスの力は、時空を歪めた。戦いの中で死んでいった多くの仲間たち。失われた自然。それらが存在する、美しく平和な世界への回帰。

 その願いは世界を歪め、全ての魂を、二万年ほどの歴史を繰り返す輪の中に閉じ込めたのだった。どこが始まりなのかは定かではない。カーバンクルを連れた魔導師の少女、魔王、女格闘家、闇の力を持つ男……。どこかに彼らが存在する世界。少しずつ形を変えながら、それは無限に繰り返される。

「そして……。魔導師の少女は、二十歳までしか生きられない」

 リリスは言った。

「彼女の死をもって、世界は崩壊し、再び始まりに戻される。……それが自らの命を対価とした、彼女の望みなのだから」

「ま……待ってくれ。それは、どういうことだ」

 ラグナスが混乱した声を上げる。命を賭して世界を創ったのはリリスではないのか。それに、それが繰り返されるとは……?

「――そうか。そういうことだったのか!」

 不意に、サタンが叫んだ。

「サタン様?」

 戸惑うルルーの一方で、リリスは静かな瞳を向けている。彼女を見つめてサタンは言った。

「堕天して以来、私の記憶には混乱が生じていた。リリス、お前の存在を忘れていたのだ。あまりに長い時間がそうさせたのかと思っていたが……違っていたのだな。この私をかき乱した魔導の娘、アルル・ナジャ。あれは……」

「――お前はリリスなんだよ。アルル」

 シェゾは言った。

「正確には、もう一人のリリスか。リリスが世界を変えた時、生じた歪みは、あいつを世界の輪の外にはじき出した。その代わりに生まれた存在がお前。……アルル・ナジャだった」

「輪となった世界では、永遠に滅びと始まりが繰り返される。アルルは滅びに立ち向かい、崩壊する世界を救うために力を使う。そして世界は再び始まりに戻り、新たなアルルと仲間たちの歴史が始まる。……幾千幾万の時の砂を数え、この繰り返しを見守るうち、私は考えるようになりました。……世界を回し続ける、この輪を断ち切るべきだと」

 リリスは語る。

「異世界ガイアースの勇者ラグナス。あなたを、そして光の剣を呼び寄せたのも、そのためです」

「な……!?」

「ですが、それは輪を断ち切るまでの揺らぎを起こさなかった。このままでは再び世界は創造され、回帰していく」

「ま、待てよ。魔導世界を創って、それを滅ぼそうとしていたのは創造主なんだろう? 世界の滅びの因果律を定めた」

 ラグナスは確かめる。その呪縛を断ち切るために、今まで自分たちは戦ってきた。そしてつい先ほど、それを撃破したはずではないのか。

「創造主なんて存在は、本当はいない」

 確かめるアルルに向かい、シェゾは言った。

「永遠のループの継続を望んでいる――アルル。お前こそが、創造主になるんだよ」

 衝撃は、静かに空間を満たしていく。

「……………うそ」

「俺は時空をさまよい、輪の外にはじき出されて世界を俯瞰し、リリスに会った。……だからアルル、俺は……」

 闇の剣を握る手にシェゾは力を入れた。

「お前が世界を創造しようとする限り。お前を、殺す」

「……ボクは……」

 俯くアルルの唇から声が落ちた。

「それでもボクは……」

 顔を上げる。金の瞳に宿る意志は変わらぬままだった。

「ボクはみんなとっ……サタンやルルーやラグナスや………シェゾ、キミと!」

「俺は……この輪を断ち切る!」

「ぐーっ!」

 カーバンクルが鋭く鳴く。シェゾの持つ魔剣に一際濃い闇が凝った。

 対峙する二人の周囲を、それぞれに魔力の輝きが包み込む。




「だからって……あんまりじゃないか、こんなの!」

 全てを聞き終えて、ラグナスは叫んでいた。永劫回帰の牢獄か、滅亡か。そんな二者択一しかなく。そのうえ。

 ――そのために、あの二人が戦うなんて……!

「これも全て、私の罪」

 目を伏せて、何度目かのその言葉をリリスが呟く。

 その時、一際大きな轟音が走った。辺りを蝕む歪みが大きくなり、そこから生じた白い闇が全てを覆い始める。

「決着がついたようです」

 リリスが言った。「どっちが……?」と不安げにルルーが呟く。

「それは、私にも分かりません。どちらが勝ったにせよ、今のこの時間は消え去ります」

 再び世界が始まるのか。このまま消え去るのか。それは、今ここにいる者たちには計り知れぬことなのだ。

「勇者ラグナス。あなたは輪の外から訪れた者。心配しなくても、あなたは元の世界に帰れるでしょう」

「……俺は。それよりも!」

「忘れないで下さい。一時でも、あなたが過ごした世界のことを……」

 ラグナスは鳶色の瞳を瞬かせる。次の瞬間、白い闇に飲まれて消え去った。彼だけではない。この場に残った全員が白い闇に飲まれ、うっすらと消えていきつつある。

「ルシファー」

 消えて行きながら、リリスはサタンを見つめた。今までとは違う、懐かしい……感情の篭もった声音を聞いて、サタンは呆然と彼女を見返す。

「私はただ、あなたと一緒にいたかった。同じ世界で、ずっと一緒に……。だから……」

 言葉の終わりは不明瞭だった。白い闇に包まれて、彼女は消えていく。惹かれるように、サタンは己の手を伸ばして、リリスの手を取ろうとした。――その、刹那。

「いやぁああっ、サタン様ぁーーっ!!」

 ルルーの叫びが耳朶を貫く。伸ばされていた手が、ビクリと震えて留まった。

 全てが消える。白い闇は、世界を包んだ。






「……こうして、異世界の勇者は、魔導世界の勇者たちと力を合わせて、次元邪神を退治しましたとさ。めでたしめでたし」

 締めくくりの言葉を落とすと、紙芝居の前に集まっていた子供たちはホッと息を吐いて気を散らした。バラバラとてんでに散らばり始める中、残っていた子供の一人が、「ねぇおじさん、それって本当の話なの?」と訊いた。

「ああ。勿論、本当のことさ」

「ふーん。じゃあ、魔導世界って本当にあるんだ」

「それは……分からないな」

「なんだそれ。やっぱ嘘なんじゃんか。ほら、もう行こうぜ」

「あっ、待ってよお兄ちゃ〜ん」

 子供たちは駆けて行く。その間を縫って、濃い色のフードを目深にかぶった長身の男が近付いてきた。

「――あんたは……!」

 紙芝居を見せていた男は目を丸くした。が、すぐに笑みを浮かべる。

「十年ぶりか? 久しぶりだな。――サタン」

 名を呼ばれて、彼も微笑む。被っていたフードを落とすと、緑の長い髪と赤い瞳が現われた。本来なら目立つはずの角や翼は隠していたが。

「久しぶりだな、勇者ラグナス。私にとっては五百年ぶりだ」

「勇者はもうよしてくれ。しかし、あれからどうしていたんだ。あんたがいるってことは、魔導世界は消えなかったんだな」

「いや。……魔導世界は消えた」

 サタンは答えた。

「……そうか」

「五百年間、私は様々な世界を放浪しながら考えていた。どうして私は消えなかったのか……。異なる時間の異なる世界から訪れていたお前とは違い、私はあの世界の輪廻に囚われていたはずなのに」

 何故、自分だけが残ってしまったのだろう。記憶も身体も、消え失せることなく。

「あんたが、元々魔導世界の外からやって来た天使だったからか?」

「さてな……」

 サタンは目を伏せる。ふと、脳裏に海の色の髪を伸ばしていた少女の姿がよぎった。

 ――リリス。お前は、あの世界で起こった事は永遠に同じことの繰り返しだと言っていたが。全てがそればかりではなかったよ。

 あるいは、それがサタンを輪の外に弾き出した一因だったのかもしれない。

「それより、私はお前に用があってきたのだ」

「なんだ?」

「青の秘宝石――アゾルクラクを持っているだろう。それを譲ってくれ」

「それは構わないが……何に使う気なんだ」

「……創造、だ」

 サタンは答える。「どうせなら、お前も付き合うがいい」と言われた瞬間、ラグナスは自分が見たこともない場所に立っているのに気がついた。――いや、立っていると言えるのか? 地面はなく、ただ一面が夜空のように暗い、広大な世界だ。

「アゾルクラクを」

 傍らからサタンが言う。青い輝石のはまったペンダントを首から外して渡すと、サタンは懐からあと二つ、赤と緑の輝石を取り出した。その一つ、赤い秘宝石に呼びかける。

「――カーバンクルちゃん」

 すると、彼の掌の上で輝石が輝いた。青と緑の輝石から赤い輝石に集まった光が金色にこごり、耳の長い黄色い小動物の形になる。その額には赤い秘宝石――ルベルクラクが輝いていた。ぴこぴこと耳を動かすそれはサタンを見上げる。サタンが頷くと、ぴょんと飛び降りて大きな声で鳴いた。

「ぐーーーーーっ!」

 眩い光が射す。

「……え?」

 青い空が見える。そこを流れる雲も。周囲には緑の木々。日の光、川のせせらぎ、頬を撫でる風。

 ガイアースに戻ったのかと一瞬、思ったが。

「あっ、サターン!」

 直後、聞こえた声に、そうではないことを悟った。

 栗色の髪を肩で切りそろえ、青い魔導装甲を装備した少女が、琥珀金の瞳を輝かせて駆け寄ってくる。

「もう、こんな所で何してるんだよ」

「おお、アルル。探しに来るとは、我が愛を受け入れる気になったのか?」

 サタンがそんなことを言ってやると、少女は僅かに頬を赤らめ、「何言ってんの」と唇を尖らせた。

「ルルーが怒ってたよ。キミ、お茶会に呼ばれてたんでしょ」

「む? そ、そうか……。すまぬ、そうだったな」

「サタンってば、忘れちゃってたの? しょーがないなぁ」

 両腰に手を当てて息を吐いた少女の肩に、黄色くて耳の長い小動物が身軽によじ登る。

「あれ? カーくん、キミまでどこに行ってたんだよ」

「ぐー」

「ふふ。それじゃサタン、行こうよ」

「……いや。悪いが、まだ用があるのでな。少し遅れる」

「ふーん? じゃ、ボクは先に行ってるからね。今日はシェゾも来てるんだよ。連れてくるのに苦労したんだから」

 そう言って笑い、少女は肩に黄色い生き物を乗せたまま駆けて行った。木の陰にいたラグナスには気付かなかったようだ。

「……五百年かけて、私が考えていたのはこんなことだった」

 少女を見送りながらサタンが言った。

 永遠の世界。失われてしまったものの再生。奪われた日常への回帰。

 それは、かつてリリスが行ったことと変わりはしない。ただ、定められた滅びはないのだろう。その代わり、どこかに行き着くこともない。

「私を笑うか?」

「……いや」

 短くラグナスは答えた。即座に否定を返せないほどには、己も年をとったのだ。そして笑う。

「なあ。あんたが今作ったこの世界に、ずっと以前、俺が来たことがあると言ったら驚くか?」

 ラグナスにとって、初めてのアルルたちとの邂逅。次元邪神ヨグ・スォートスと共に戦った。その出会いと、後にハルマゲと戦った際の出会い。二通りの出会いの記憶に長く困惑してきたが。そうか、そういうことだったのかと漸く合点する。何のことはない。それぞれのアルルたちは別の存在だったというわけだ。

 それを知れば、初めて会った時のサタンがやけに親身だったことも頷けるし……そうだ、アゾルクラクのペンダントはその時サタンから譲り受けたのだった。そして今、それを用いてサタンはこの世界を創造した……。

「ならば、全ては因果の定めたことだったの知れぬな」

 サタンは苦笑している。

「じゃ……俺はもう帰るよ」

「他の者に会わなくてもいいのか?」

「この世界のアルル達はまだ俺を知らないはずだ。会っても混乱するだけだろ」

「ふむ……そうだな」

 サタンが軽く手を振ると、ラグナスの身体が青く輝いた。ふわりと浮き上がる。

「さらばだ、ラグナス」

「ああ。もう二度と会わないだろうな」

 そう言うと、サタンはニヤリと笑った。

「しかし、私は間もなく過去のお前に会うことになるのだろうがな」

 ラグナスは青い光の玉となってその新世界の空に舞い上がった。森や川を俯瞰する。初めてこの世界を訪れた時、帰還の際に見たのと同じ光景だ。

 ――ああ。そうだったな……。

 それを見ながら思い出す。かつてこの光景を見ながら、自分自身が考えていたことを。

 ――この世界は確かに……あんたの望んだ世界だったよ。サタン……。

 視界が弾ける。時空を越え、ガイアースに戻るのだ。

 己の世界の光が広がるのを知覚しながら、ラグナスは思う。この物語を忘れまい、と。

 世界を護る為に己の命を賭した、栗色の髪の少女がいた。その少女を付け狙いながら、守護者のように闇に控えていた男がいた。世界を見守り続ける魔王。破天荒で、愛に一途だった少女。彼らを取り巻く、奇妙で愉快な住民たち。

 因果に縛られ、様々な魔の力に導かれていた者たちの紡いだ物語。

 時空ときの片隅で回り続ける、魔導の物語を。






終わり

06/10/29 すわさき

半分くらい書いて別館の日記に貼ったあと、一年近く放置していたというロクでもなさ。
どーにか、当時書いていたプロット通りに終わらせました。
 いかに短くまとめるかに腐心したんですが、いざ書いてみたらマジに短くなってしまい、ちょっとガックリ。

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