闇が光を食らう。

 闇の中で孤高の光を放つ月が、影に完全に消される日。

 ――蝕。




クリプス



 

 その日。道を急いでいたところを、間の悪い事にアルルに捕まった。

「えぇ〜? 折角なんだから、シェゾもみんなと一緒に見ようよ」

 零れ落ちそうにデカイ目でまっすぐに俺を見上げ、懇願するような声を上げてくる。肩に乗ったカーバンクルまでが同じ視線で見上げてくるのもいつもの事だ。

「ハッ、冗談抜かせ。何で俺がお前達とそんなことしなくちゃならないんだ?」

 ことさら馬鹿にしたように、俺は言葉を吐いた。

「第一、見て楽しいもんじゃないぞ」

「でも、珍しいじゃない。ボク、初めてなんだもん。皆既月食って」

 何の含みもなく楽しげに言い放つアルルから、俺は視線をそらした。

「俺は珍しくない。……とにかく、今晩はお前らと一緒にいるつもりはないからな」

「あ、シェゾ!」

 最後までアルルに言わせず、俺はその場を逃げ出した。

 

 

 月蝕。殊に、月が完全に影に消える、皆既月食というもの。

 星と月の位置関係に因るこの現象は、そう頻繁に起こりうるものではない。暦の上ではかなり間遠の周期で起こる事態だったはずだ。普通の人間が一生のうち何度も見るのが難しい程度には。

 とはいえ――この現象に幾度かは遭遇した覚えがあるのだから、俺の「旅」も、それなりに永きの時を巡るものではあったらしい。

 

 辿り着いた森の中で、中天に差し掛かりつつある月を眺めながら俺は考えていた。

 深閑としたその森に人の気配はない。――そういう場所を選んだのだ。

 

 月蝕は、勿論、この星の影が月に重なる事に因って起こる現象だ。天文学の範囲では。

 だが、魔導学や伝承学の分野では、その意味は大きく異なる。

 

 中天の月は、左端からゆっくりと欠けつつあった。伝承で言うところの、「魔竜のあぎと」に食われているかのように。

 

 魔導学の「象徴」の思想では、月は無に浮かぶ「理性」であり、魔力を導く「魔導力」そのものである。

 …………月が消え去る今夜。闇の中に潜む魔性はそのたがを失う。そして、「魔」は静かに、しかし容赦なく氾濫を始めるのだ。

 

 

 月が消え去った森。完全な闇。

 星明かりすら消え去っている……溢れかえった闇は、僅かな光の存在すら許さず、己の中に全てを飲み込み包み隠す。

 その全くの無明の中に、やがて俺は幾つもの気配を感じ始めていた。

 闇である故に、姿形は判然とはしないが。

 だが、その気配やまとう臭気ははっきりと感じ取れた。

 ぞっとするもの。空虚。触れれば切れるほどに心底冷え切ったもの。自己の快楽への異様なまでの偏執。むっとするような血のにおい。腐臭。冷え冷えとした墓場の奥底の匂い。――屍臭。

 胸の悪くなるような気配を放つこいつらは、完全なる闇に属する者であり――闇に溺れた者。取り込まれた者の末路。そして、恐らくはかつて俺と同様に「闇の魔導師」や「闇の申し子」などと呼ばれた連中なのだろう。

 

 初めてこいつらに遭遇した時――闇の魔導師となって、初めて迎えた月蝕の夜だったか。その時は、それは混乱もした。それほどまでに「これ」は唐突な事態であり、また抗えざるものだった。……その後の幾度かの経験でそれは確認済みだ。

 そして、その経験によって。連中の最後に何者が現れるのか。それすらも俺は知っていた。

 

 まとわりつこうとするモノを追い払い、わだかまった過去の亡霊たちの傍らを通りぬけると、その向こう、最も深い闇に閉ざされた奥底に、やはり奴は待っていた。

 

 均整の取れた、すらりとした長身。ゆったりとした、しかし動作を妨げぬよう裾をまとめたローブにマント。その肌は真の闇の中にあっても白く、手には一振りの剣。何よりも銀色に輝く髪が目に付いた。

 そう。闇の奥底に佇んでいるのは俺。シェゾ・ウィグィィなのだ。

 とはいえ。

 そいつは、今ここで対峙している「俺」とは様々な点で異なっている。

 本来白銀だったのであろうそのローブは、どす黒く色を変えてしまっていた。布地を染めているそれは――赤黒い血。あるいは、様々な生物、魔物の体液。その返り血だ。

 服だけではない。銀の髪にもそれはこびりつき、髪の束がところどころ黒く固まってしまっている。

 透き通った水晶のような透明度を見せているはずの闇の剣は、鈍く濁り――その刀身は今しも血にまみれ、ぽたぽたと赤いそれが滴り落ちていた。

 鼻を突く、生ぬるい血のにおい。

 それは、奴の足元に転がる犠牲者のものだ。

 露になった白い肌を朱に染め、人形のように無造作に投げ出されている。

「フッ……。「俺」のくせに、なんて表情をしている?」

 立ちすくむ俺を見やり、血にまみれた「俺」――シェゾ・ウィグィィは嗤った。

 陰惨とした、嫌な表情だ。…………何より、その赤く濁った双眸がまがまがしかった。かつてのルーン・ロードのように。

 そう。これが「闇の魔導師」の貌なのだ。本来の。

 ――「俺」の顔。

 その顔のまま、「俺」は足元の犠牲者を足で軽く転がす。

 茶色い髪が払われ、まだ幼さを残す顔だちがはっきりと見てとれた。

 ――アルル・ナジャ。

 その少女の名を、俺は呟いた。

 何故、よりによって?

 見開かれたままの大きな瞳がこちらを向いたが、それはもはや何も映してはいない。

「「何故」はないだろう。…………これが「俺」の望みなんだからな」

 「俺」が言う。

「アルル・ナジャを手に入れたかったんだろう。

 こいつを倒し、

 屈服させ、

 傷つけ、

 陵辱し、蹂躪して――

 完膚なきまでに粉々にして、

 魔力を、その存在の全てを俺のモノにしたかったんだろう?」

 嗤いながら「俺」は言う。アルルの血に染まったままで。

 ――違う!

 俺は叫んだ。……叫ぼうとした。しかし声にならない。叫びは闇に食われてしまう。

 いや……何が違うんだ?

 実際に、アレが俺の望みではないのか。

 アルル・ナジャという存在を破壊してしまいたい――破壊し尽くし、吸収し尽くして。世界からその存在を抹消し…………。

 タダ、俺ダケノモノニスル。

 それは、ひどく破滅的で――それ故に魅惑的な、欲望。

「そう、それが「俺」の望みだ。……そうだろう?」

 闇の中で、俺は「俺」と混じり合おうとする。

 ――だが。

 壊れた人形のように、動かないあいつ。

 ――違う。

「何が違う?」

 ――俺は……!

「認めろ。己の闇を。欲望を。そうすれば楽になる。……それが闇の魔導師として、「あるべき姿」じゃないのか?」

 ――俺は…………。

 

 

「こんなところで、何をしている?」

 水底から引き上げられたかのように、突如、闇が開けた。

 辺りは相変らず闇。だが、木々の梢を透かして星の瞬きが見え、耳を澄ませば虫の声も聞こえる。

 当たり前の、森の夜だ。

「サタン…………」

 ぼんやりと見上げて、俺は俺の腕を引き上げている男の名を呼んだ。

 しょっちゅうくだらない事を仕組んでいる、しかしその持てる魔力は人知を超えているという、気に食わないヤツの筆頭だ。

 何故こいつがここにいるんだ?

「どうした? まるで闇で窒息でもしかけたような顔をしてるぞ」

 案の上。

 まさか例によって何もかもお見通しなんて言うんじゃないだろうな、と思えば、実際、見透かしたような事をサタンは言ってのけた。

 こいつは、俺を助けに現れたんだろうか?

 まさか。何かの偶然か、別の思惑によってだろう。

 いや。そもそも、俺は「助かった」んだろうか? 何から?

「…………大丈夫か」

 とられた腕を払うのも忘れてぼんやりしていたからだろう。珍しく、サタンが気遣うような声で言った。……こいつでもそういう声を出す事があるのか。アルルやルルーに対して以外に。

 いや、つまりそれだけ、今の俺の様子がおかしいということなのだろう。

「チッ。なんでもない、放せ」

 腕を払って、俺は立ちあがった。いつのまにか、座り込んでいたらしい。…………「あれ」に我を失わされていたのは、ほんの数瞬の事だったのか。影にふさがれた月はいまだ姿を見せてはいないようだ。

「…………お前、なんでここにいるんだ?」

 まだ気持ちのバランスが取れない。誤魔化すように、俺はサタンに聞いてみた。

「今夜は月蝕。真の闇が訪れる晩だ。

 こんな晩は、「魔」がたがを失って暴走する。

 こう見えても、私は「魔」の統率者だからな。あちこち見回っているというわけだ」

「ほーう……。ご苦労な事だな」

 茶化すように言うと、思いがけず静かな声が返ってきた。

「こんな闇夜には、独りきりにならない方がいい。…………お前のように闇を抱え込んだ者は特にな。孤独である故に闇に呑まれた者は多い」

 俺はサタンを見た。

 その視線に居心地の悪さを感じたのか。

「じゃ、私はもう行くからな」

 サタンは身を翻そうとする。その背中を、俺は呼び止めた。

「待てよ」

「……何だ?」

「…………ちょっと聞きたい事がある」

 黙って、サタンはこちらを向いた。

「なあ……。お前、「魔王」だよな」

 アルルなどは「自称」魔王だとしか思っていないようだが、実際、こいつがその絶大な魔力でこの世界を実質上支配している……というのは、恐らく間違いのない事実だ。あたかも神の代行者を気取ったかのようなそのやり方は、色々と気に食わない事も多いが。

「お前、世界を壊したくはならないのか?」

 俺は聞いた。

 これはひどく馬鹿げた、あるいは危険な問いなのかもしれない。

 物語の中の「魔王」は、大概、恐怖で人々を支配しているものだ。意味もなく都市を一つ壊滅させてみたり。そして、奴は都市どころか、この世界まるごとを破壊してしまえるだけの力を持っている。

 勿論、サタンがこの世界を奴なりに大事にしているらしい事は、俺も知っているのだが。

 それでも。……いや。だから、か。

 サタンは、黙って俺の問いを聞いていたが…………やがて小さく笑った。

「そうだな。時折この世界の全てを破壊してしまいたい衝動に駆られる事はある。確かにな」

「……壊さないのか?」

「壊してしまうのは一瞬の快楽だ。勿論、その後に別のものを作る事も、手に入れる事も出来るだろう。だが、一度自ら破壊してしまったものは……そのものは、二度と手に入れる事も、作り直す事もできない」

 そう言った奴の目はどこか遠くを見詰めているようで…………。

 もしかしたら、奴は自分で自分の大切な何かを破壊してしまった事があるのだろうか?

 何時の間にか足元に薄く落ちていた影を眺めながら、俺はそう思った。

 中天の月は魔竜のあぎとから逃れ、再びその姿を現していた。

 

 

「あっシェゾ、ゆうべはどこに行ってたんだよ」

 街中で、甲高い声を上げてアルルが駆け寄ってきた。

「ゆうべ、楽しかったんだよ。みんなで月蝕を見て、お弁当食べたりして。シェゾも来ればよかったのに……。あ、そういえばサタンもいなかったんだよね。ルルーが不機嫌になっちゃって大変だったよ。知らなかったケド、ルルーって酒乱だったんだよねぇ。それで…………ねえ、シェゾ?」

「な、何だ?」

 黙って奴の喋っている顔を眺めていたら、不意に不思議そうな顔になって覗き込まれた。

「だって……。いつもだったら「そんなくだらない話をするために俺を呼び止めたのか?」とか「くだらん」とか、なんかそういうイヤミっぽいセリフの一つや二つは言ってくるのに…………ねえ、ホントにどうかしたの?」

「ほっとけ!」

「そういうワケにもいかないでしょ」

「なんでだよ」

「だって、ボクが気になるもん!」

 あっさりと、俺の開いた口が塞がらなくなるような事を言ってのけて、アルルはその大きな瞳で俺を見上げた。

 ゆうべ闇の中で見た「あれ」と同じ金無垢の、けれど決定的に違うその瞳。

「…………シェゾ?」

 不意に、何かが「開けた」気がした。

「…………アルル。お前が欲しい!」

 思わず、俺は言ってしまっていた。

「ファイヤーっ」

「どわぁあっ」

 間髪入れず放たれたアルルの魔法を、俺はすんでで避けた。

「イキナリ何しやがるっ」

「それはこっちのセリフでしょ! イキナリ何言うんだよキミはっ! このヘンタイ!」

「あのなぁ。俺は…………」

「そ、そりゃ…………。シェゾはボクの魔力だけが欲しいんだろうけど、それにしたってこんな風に話してる時にイキナリ言わなくても…………ボクは、今キミと戦う気なんてないのに……」

 目を伏せたアルルに、内心「しまった」と思いながら、俺は言った。

「俺だってない。…………今のは、ただ言いたくなっただけだ」

「…………へ?」

 アルルは、大きな目をこれ以上ないくらいに丸くしている。

 

 闇の中に佇んでいた「俺」。

 あれは真の闇が見せた幻などではなく、紛れもない俺自身の欲望なのだろう。

 ――アルル・ナジャを破壊してしまいたい。

 だが、それと同じように――もしかしたらそれ以上に、この金無垢の瞳を眺めていたいとも思ったのだ。

 生きて、光を湛えたこの瞳を。

 

「気にするな。俺はもう行くぜ。じゃあな」

 らしくない自分の考えに居心地が悪くなって、俺はさっさとその場を退散する事にした。

「あ、ちょっと待ってよシェゾ! それってどういう意味なのさ?」

 どういう意味なんだろう? 俺自身にも分からないのだから、答えようがない。

「さぁな」

「なんだよ、それぇ。……待ってってば!」

 だが、答えはこれからゆっくり見つけていけばいい。

 夏の日差しの下、不思議に穏やかな気分で俺はそう思った。

 

 


あとがき

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