銀色の魔法使い




 夜の九時を回ると、ママはいつもこう言う。

「もう遅いわよ。早く寝なさい」

 九時なんて、ちっとも遅い時間なんかじゃない。クラスの友達はみんな起きているって言ってるし。

「あたし、まだ起きてるよ」

「何言ってるの。子供はもう寝る時間よ。さ、早くベッドに入って」

 ママはあたしをベッドに押しやる。

「ゆかちゃんやミリアムは、この間 夜に隣町の音楽会を見に行って、夜中にアイスクリームを食べたって言ってたよ」

余所よその子のことは余所のこと。ウチでは子供が夜に出かけるなんて、パパだって許しませんよ。夜の外には、怖〜いものがいっぱいいるんですからね。”黒い旅人”に魂を吸い取られても知らないから」

 ママは、いつもこう言う。

 あたしはベッドの中でぷっとふくれた。

 

 (本当に小さかった)子供の頃から、ベッドにあたしを寝かしつけるたび、ママは”黒い旅人”の話をする。

 それは、夜の大地を永遠にさ迷う旅人なんだそうだ。

 黒い服、黒いマント。全身真っ黒のその旅人は、とてもきれいな顔をしている。誰でも――若い女の子は特に、そのとりこにならずにいられない。

 でも、それは罠なのだ。旅人は、虜になった女の子を捕まえて、冴え冴えとした冷たい瞳で覗き込み、その魂を吸い取ってしまう。

「私のおばあちゃんのお父さんが、若い頃に一度、”黒い旅人”を見たんだって」

 すごい秘密を打ち明ける口調で、ママは言った。

 魂を吸い取られた者は、次第に弱って、しまいに死んでしまうという。

 

 小さい頃は、この話が本当に怖かった。”黒い旅人”に魂を吸い取られてしまったらどうしようかと不安で泣けたものだ。するとママは言った。

「大丈夫よ。家の中で眠っていれば、”黒い旅人”は決してやってこないの。旅人が現れるのは、夜の闇の中だけ。朝や昼の光の中には決して出てこれないわ。だから、夜は早く寝ましょうね」

 そう言ってふとんの上からぽんぽんと叩いてもらうと安心して、あたしは朝を待ち焦がれながら早々はやばやと眠ったのだった。

 

 だけど。

 今は、あの話は子供を寝かしつけるための方便ウソだってことが解っている。あたしは、もうそんなおとぎばなしを信じているほど小さくはないし、そんなに早く眠くなるほど子供じゃない。

 いつまでも夜更かしして、夜の町を歩いたって平気なんだから。

 

 

 神殿の鐘が鳴った。深夜零時を示す音。

 そっと足をさし伸ばして、あたしはするりと玄関のドアの隙間から抜け出た。またそおっとドアを閉める。ガチャリ、と音が響いて肝を冷やしたけど、誰も起きてくる様子はない。

 やった!

 真夜中。パパもママも、おばあちゃんももちろん弟も、家族全員が寝静まるのを待って、とうとうあたしはベッドから――家から、外に抜け出した。

 あたしの部屋の窓からは、石畳いしだたみの通りと、ぼんやりと揺らめく街灯の魔導光ライトが見える。眠れなくてそれを眺めているうち、どうしても、そこに出てみたくてたまらなくなったのだ。

 

 夜の空気はひんやりして、どこか水っぽい匂いがする。少し霧が出ていて、街灯の光がにじんでいた。

 嬉しくなって、あたしは石畳の上を駆け出した。パタパタと足音が響く。うんと遠くまで響いていく気がする。

 誰もいない。影だけが一緒にいる。

 あたしの貸し切り。あたしだけの世界だ。

 広場まで走っていって、あたしはぎくりと足を止めた。

 ここは、街の中心。街中の道が交わるところで、いつも市が立つ場所だ。もちろん、それは昼の話で、今はまるく敷き詰められた石畳を街灯が照らして、がらんとしているだけなんだけど。

 噴水だけは昼間のままに、ざぁざぁと水を吐き出している。

 誰もいないはず。いないべきだったその場所。そこに、黒い人影があったのだ。

 

 心臓がドキドキして、その音が耳の奥にわんわんと響いた。

 ママの話の通り、その人は黒い服に黒いマントを着ていた。いかにも旅の途中、といういでたちだ。どこに行こうか、少し考えているような雰囲気で、長く影を伸ばして噴水のそばに立っている。

 

 ”黒い旅人”だ!

 まさか、本当にいたなんて!

 

 足ががくがくと震えだした。

 ああ、あたしは、”黒い旅人”に魂を吸い取られて死んじゃうんだ。

 どうしよう……見つかる前にこっそり隠れたら……。ううん、あんなに大きく足音をさせて走ってきたんだもの。気付かれてないはずがない。……でも、こっちを向いてないし。今のうちに逃げたらいいかも………。

 色々考えていたんだけど、現実には、あたしはバカみたいにそこに突っ立っていた。とても長く感じたけど、本当は少しの間だったかもしれない。

 固まっていた時間は、すぐに砕けた。”黒い旅人”がこちらを向いて、しかも歩いてきたからだ。

 

 見つかった。どうしよう、どうしよう、どうしよう!

 そうだ、”黒い旅人”は、エモノを虜にしてから捕まえるんだ。虜にならなきゃいいんだ。顔がきれいだっていうけど、見なければいいんだよね。ようし、見ないぞ。絶対見ないぞ!

 

 ぎゅっと目をつぶったあたしの間近に気配は近づいてくる。ちらり、とこちらを見遣った気配がして、体が強張った。

 

「フン、ガキか」 

 

 ………え?

 一言だけの言葉を残して、気配はそのまますれ違い、立ち去っていく。

 え? 今の、何?

 女の子を虜にするという”黒い旅人”らしからぬ、少しも上品でない口調だった……ような………イメージ丸崩れ…………って。

 そうじゃない。そうじゃなくって。

 なんだか………。

 なんだか。今、すっごい無礼なことを言われなかった?

 

「ちょおおおっと、待ちなさい! 誰がガキですって!?」

 あたしは叫んでいた。

 ”旅人”は足を止めて振り向いたけど、「はぁ?」って顔をして、肩をすくめてすぐに首を戻し、歩き去ろうとする。

「待ちなさいよ。 失礼じゃないの!」

 ますますカーッとなったあたしは食い下がり、”旅人”のマントをつかんで引っ張った。彼の足が速いので、そうするしか出来なかったのだ。

「ぐぇっ!」

 ”旅人”がヘンな声をあげた。マントが引っ張られて、首がしまったらしい。

「何をする、このくそガキが!」

「あ、また言った! あたしガキじゃないもん!!」

 あたしは叫ぶ。不機嫌そうな”旅人”は、表情を複雑に歪めてあたしを見た。

「なんでアイツと同じ反応なんだ……。女のガキの共通項なのか?」

 冴え冴えとした青い瞳に、ありありと「不可解」と「困惑」の文字が浮かんでいる。

 ……うわ。本当にきれいな顔だなぁ。

 白い額にかかる髪の毛は、想像していたのとは違って、銀色をしている。でも月の光のようで、やっぱり、とてもきれいだ。

 ……って。

 わぁあああっ、顔を見ちゃったよ!

 あたしは顔を手でおおって、その場にうずくまった。

 だって、このままじゃあたしは死ぬんだ。虜になって、魂を吸い取られて。

「おい、どうした?」

 少し驚いた調子で、”旅人”の声がした。返事をしようか、少し迷ったけど。

「なんでもない」

 うずくまったまま、あたしは答えた。

 絶対、彼の目に覗き込まれてはならない。魂を取られちゃう。

 覆った手の下で、あたしはぎゅうっと両目をつぶる。

 ああ、どうしてあたしは、”旅人”を引き止めたり、あまつさえマントを引っ張ったりしちゃったんだろう。ばかばかばか。もう構わなくていいから、早くどこかに行ってしまえばいいのに。

 けれど、今度に限って”旅人”の気配は立ち去る様子がなかった。代わりに、チッ、と大きな舌打ちが聞こえて、

「仕方がねぇな。――おい、お前の家はどこだ? 連れて行ってやるから、さっさと教えろ」

 イライラした調子でこんなことを言っている。

 

 ――”仕方がねぇ”で送ってほしくなんかないもん。

 

「なんでもないってば! いいから、ほうっておいてよ!」

 あたしは叫んで、思わず、顔を上げて立ち上がっちゃってた。

「――あ」

 ”旅人”の青いの視線が、あたしのそれとぶつかっている。

「あぁあああっ、また見ちゃったよぉー! 目も合っちゃったぁ」

「なんなんだ、お前は」

 半泣きのあたしを見て、”旅人”がますますイラついた声で言った。あたしがパニックしてるのは、彼のせいなのに。

「だって、あなたは”黒い旅人”でしょ。あたしの魂を吸い取っちゃうんだ。知ってるんだから!」

「はぁ?」

 ”旅人”は眉を上げ、ややあって肩をすくめる。

「確かに、オレは旅人ではあるが……。ガキの魂なんぞに興味あるか。俺が欲しいのは……」

 その時、ふいに彼の目つきが変わった。

「え!?」

 腕をつかまれて、すごい力で引っ張り寄せられる。

 やっぱり、魂を吸い取る気なんだ!

「やだぁあああ! ママー!!」

「うるさい、静かにしてろ!」

 怒鳴って、”旅人”は剣を抜いた。――どこから出したんだろう? まるで、手のひらの中から抜き出したようにしか見えなかった。

 その剣の刃は、インクの中に落としたガラスのかけらみたいに、真っ黒のような透き通っているような、不思議な色をしている。時折、黒い中に明るい紫色の光がまたたいた。

 

 この剣で、あたしを刺すの?

 

 でも、”旅人”はすぐには剣を振るわなかった。ただ、剣とは逆の手をかかげて朗々と唱える。

「サンダーストーム!」

 まばゆい光が起こって、雷みたいにバチバチと辺りに弾けた。その魔導の光の中に、黒い影みたいなものがぞろぞろと浮かび上がる。

 光を怖がるみたいに、その影たちは耳障りな悲鳴を上げた。周り中、すっかり囲まれている。いつの間にこうなってたんだろう?

「闇の剣よ……」

 流れる動作で”旅人”が片手の剣を構え、低く唱えた。

「切り裂けぇっ!!」

 くうを斬って振り下ろす。

 ただ一度そうしただけなのに。周り中の影が無数の剣に切り刻まれたように、一斉にバラバラに引き千切れた。同時に、さっきの魔導の光がふっと消える。辺りはまた暗く、一本の街灯の光だけに戻った。

 元の通りの、夜の静けさ。

「……な、何? 今の」

 あたしは呟いた。

「魔物だ。たいした力はないヤツだがな。――街中でも、夜になればあんなやつらがうろつきだす」

 ”旅人”は再び手の中に剣をしまいこんでいる。あたしを見て意地悪く笑った。

「だから、夜は家の中でおとなしく寝ているべきなんだ。お前みたいな、魔力のカケラもないガキは、特にな」

「………また、ガキって言ったー」

 あたしは言って、でも、その場に座り込んでしまった。

「どうした?」

「……足に力が入らない」

 くにゃくにゃになってて、立ち上がれない。

「腰が抜けたのか」

「腰じゃないもん。足だもん」

「それを”腰が抜けた”っていうんだ」

 呆れた口調で”旅人”が言う。あたしはまた泣きそうになった。

 真っ暗で寒くて魔物がいる。こんなところで動けなくて。いったい、どうしたらいいんだろう。

 ため息が聞こえた。

「結局こうなるのか。――だから、俺は女とガキが苦手なんだよ」

「えっ」

 あたしは、”旅人”に抱きかかえられた。彼の青い瞳が間近にある。

 

 ――”黒い旅人”のきれいな顔を見て、瞳を覗き込まれると、女の子なら誰でもその虜になって、魂を吸い取られて死んでしまうんだよ。

 

 でも、恐れずに見た彼の目は、不機嫌そうで、でも凍えるようではなくて。触れた腕も、ガラスの冷たさではなく、普通に血が通っていて温かい。

「ボケッとするな、早く案内しろ。自分の家もわからないのか?」

 そして、やっぱり不似合いに口は悪かった。

 

 霧が晴れて、夜空にはくっきりと白銀しろがねの月が輝き、道を照らしている。

 

 

 

 

「もう遅いわよ、早く寝なさい。”黒い旅人”が来ても知らないから」

 あいかわらず、ママは九時にはあたしを寝かしつけようとする。

 あの日、あたしが夜中に家を抜け出していたことを、家族の誰も知らない。気づいていないのだ。

 ”旅人”はあたしをベッドまで送り届けると、また暗い夜の中へ消えていった。

 彼と会ったのは、きっと、街じゅうでもあたしだけ。

 

 ほお杖をついて、あたしは自分の部屋の窓から真っ暗な外を見た。この闇の中、きっとあの人はまだ旅を続けているのだろう。

 夜をさ迷い続ける、黒い服の旅人。

 

 ――でも、あたしは知ってるよ。

 

 目を閉じて、あたしは思った。

 

 ”黒い旅人”なんかじゃない。

 あの人は、銀色の魔法使い。

 月みたいに夜の大地を旅して、迷子の道を探してくれるんだよ。

 

 

 

おわり



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