銀の星 |
「まっ、まいりましたぁあ!」
岩のような巨体が地に倒れ、ついにその言葉が吐きだされた。
ヒュウウ…
息を吐き、ルルーは高めた気を解放する。
「……ま、こんなものかしらね」
そう言うと、清流のきらめきを思わせる長い髪を払った。
額には、宝石の粒のように汗が光っている。しかし動作は未だ軽く、呼吸も乱れてはいない。
「流石……お見事です、ルルー様」
一方、よろめきながらようやく身を起こしたミノタウロスは、息も絶え絶えにあえいでいた。
「ま、あんたもよくやったわよ、ミノ。ちょっと腕が上がったんじゃない?」
「は、はいぃ!」
巨漢の半獣人、いかにもこわもてなミノタウロスに対し、ルルーは一介の少女に過ぎない。(際立って整った顔立ちや、豊満な肢体を持ってはいるが。)
だが、体力・腕力・技。その全てにおいて、少女がこの巨漢に勝っているのはご覧の通りだ。ついでに言うと、精神的・社会的な位置づけも……だが。
ルルーは大きく伸びをした。
「んーっ…。結構疲れたわね……。ミノっ。いつまで這いつくばってるの。帰るわよ!」
ルルーに誉められた。その一点だけで男泣きに泣いていたミノタウロスは、ばね仕掛けの人形のように跳ね上がった。
「はいっ、ルルー様」
慌てて、むつっとして待っているルルーの後ろに走っていく。
いつもの二人の光景である。
が。
「あら…?」
いつもならさっさと歩き出すルルーが、ふとその足を止めていた。
「ルルー様?」
一瞬訝ったものの、すぐにミノタウロスもそのわけを悟った。
香りだ。甘い、とても心地よい花の香り。風に乗って、彼らの鼻腔をくすぐっている。
見回して、ミノタウロスはすぐにそれを見つけた。
「ルルー様、あそこに」
木がまばらで開けている。この林の中の平原の、その端に。こんもりとした濃緑の潅木が立っていた。その細い枝にまとわりつくようにして、白い星屑のような小さな花が、びっしりと開いている。
「へえ……。花は小さくて地味だけど……いい香りじゃない」
「これは、金木犀……いや、花が白いから銀木犀という奴ですな。…もうこの花が咲く季節なんですなぁ」
ミノタウロスは空を見上げた。晴れ上がった空はカンと照り映えていて、遠い。この季節特有の空の高さだ。
ああ、そろそろ冬のために薪を作りおきしておかねばな……。
ルルーの屋敷の下男としても仕えている彼は、そんなことを思う。
「ホント、いい香りね……。サタン様も、この香りはお好きかしら。ね、ミノ」
「は、さぁ…」
歩み寄って、ルルーは枝の一つに手をかけた。
「一枝もらっていこうかしら?」
「あっ、ダメですよルルー様っ!」
「なっ! ……なによっ?」
「目には見えなくとも、木には精霊がいるんですよ。だから、むやみに折ってはいけない………と、私は教えられていた……のですが…」
ミノタウロスの声は、次第に小さくなっていく。ルルーが非常に険のこもった目で睨んでいるので。
「ル、ルルー様?」
「ミノぉ〜っ!!」
つかつかと近付いてくる。
「お、お許しをっ。ルルー様ぁっ」
一瞬、ぶたれるかと覚悟したミノタウロスだったが。
「あ、あんたがあんな大きな声出して驚かせるからじゃない!」
「……は?」
差し出されたルルーの手には、花の付いた木の枝が握られていた。……ちょっと一枝、という程度の小枝ではない、まさに枝一本ごっそりだ。
「ワザとじゃないわよ。でも、もう折っちゃったモノはしょうがないでしょ!?」
流石にばつが悪いのか、ルルーの頬は少し紅潮していた。
「そ、それは……。申し訳ありません」
「あたくしだって、なにもこんなにぼっきり折ろうなんて思ってなかったんですからね」
枝をミノタウロスに手渡しながらの台詞は、誰に向けて言ったものか。
とりなすように、ミノタウロスは目を細める。
「そうですな……では、せめて持って帰って飾りましょう」
白い花の枝を手土産に、二人は帰途についた。
そこには何もなかった。
何もない。ということは果てしないといってもいいのかもしれないが、事実果てがないのかは分からない。それを確かめようにも、視界が殆どないのだから。
ここは……何処なのかしら?
歩きながら、ルルーは考えていた。
そもそも、どうしてこんな場所にいるのだろう?
周囲は白い霧で満ち、その広がりを遮る気配といったものは感じられない。
首を捻って、ぽんと手を打った。
「そうか、これは夢なのねっ」
そう考えれば、さっきからずっと香っている、この芳香にも納得がいく。
鼻腔をくすぐるのは、覚えのある甘い花の香り。
あの白い星の花枝を、メイド達は花瓶(壷と言った方がいいかもしれない)に挿して、ルルーの寝室に飾っていた。
花の香りをかぎながら眠ったから……こんな見慣れない夢を見ているってところかしらね。
「でも、だったらもっとロマンチックな夢でもいいのに。例えば花畑なんかで、サタン様とお逢いする、とか……」
ムシのいいことを考えていたルルーの視界に、ぼうっと白いものが浮かび上がった。
……幽霊?
咄嗟にそう考えてしまったのは、それが白く裾のヒラヒラした服を着ていたからだが。
ま、いいケド…。
恐れ気もなく、ルルーはその影に歩み寄った。霊体すらも消滅させる超絶の格闘技を持つ彼女に、何も怯える事はない。
近付いてみると、それは手足を備えた完全な人型をしているのが分かった。十歳にも満たないだろう。小さな子供だ。
「ちょっと、そこで何してるの?」
ビクッと背を震わせ、子供が伏せていた顔を上げた。
へえ…。綺麗な顔してるじゃない。
整った顔立ちは、幼いこともあって男女の区別を判然とはさせない。長いまつげの間に朝露のように大きな涙の粒が溜まっていて、顔を上げた拍子に、ぽろぽろと零れ落ちた。
「なっ…。なに泣いてるのよ」
あたくしが泣かせたワケじゃないわよね……。
「なんで泣いてるんだか知らないけれど、泣きやみなさいよ。泣いてたって何にもならないわよ?」
子供は、ルルーを見ながら小さくしゃくりあげる。強情に口元を引き結んだまま。
そして、ぱっと身を翻すと、向こうへ駆けていった。
「あっ…。ちょっと、待ちなさいよ。……待てって言ってるでしょ、気分悪いわねぇ!」
ルルーも走り出した。
足には相当に自信がある。けれど、夢だからなのか。子供の背中には一向に追いつけなかった。
「なんなのよ……。待ちなさいってば!」
それでも、今にも背中を捕まえられるかと思えた刹那。
光が広がった。
「!」
丸い燐光。ぼんやりとした提灯の明かりのようなそれが、一面にふわふわと浮かんでいる。
これまでとは、明らかに情景が変わっていた。
綿雲のような霧の向こうには沢山の木があって、オレンジ色をした小さな星屑の花が、濃い緑の葉の隙間からびっしりと咲き出している。
むせかえるほどの甘い花の香りだ。
「えっ…?」
ルルーはきょろきょろと視線をさまよわせた。
目の前には子供。だが、一人ではない。
いまや、ルルーの周りには子供がうじゃうじゃいて、てんで勝手に走りまわっているのだった。年も、背格好もみんな同じくらい。デザインの同じオレンジ色の服をひらめかせている。
「ちょっと…? どーなってるのよ、これっ」
少しうろたえて…。しかしルルーは子供達を掻き分け始めた。
しかし、まるでラチがあかない。いくらルルーでも、こんな子供たちを弾き飛ばして進もうとは思わないし。
「もうっ…! イライラするわねぇ! あんたたち行儀が悪いわよっ。通しなさいってば!」
大きな声は、騒ぎの中ではさしたる効果を持たなかったようだ。
いつもだったら、もう少しなんとかなる気がするのに。
そうよ。普段なら、こういう時…。
「あぁ〜〜っもう! いつもデカイ図体して頼みもしないのに付いてくるんだから、こんな時くらい役に立ちなさいよっ、ミノタウロス〜〜〜っ!」
「は、はいっ!」
間髪入れず、応えがあった。
呆気に取られて、ルルーは忽然と背後に現れた巨漢を見上げた。
「ミノ……。さすが、夢ね…」
「どこであろうと、男ミノタウロス、お呼びであれば参上します!」
ふん、と鼻息も荒いミノタウロスに、ルルーの表情が少し緩む。もっとも、それはほんの一瞬のこと。
「夢の中でも熱っくるしいヤツね。それよりミノ、頼んだわよ」
「はいっ」
何を、とはお互いに言わない。ミノタウロスは大きく息を吸った。
「ブモォ〜〜〜〜〜〜〜ッ!!!!!」
空気を震わす恐ろしげな雄叫びに、ピタリ、と子供たちの動きが停止した。一瞬後、きゃーっと悲鳴を上げて、蜘蛛の子を散らすように逃げ始める。
「あれよ!」
どの背中をとっても同じように見える中から、ルルーは過たずに一つの背中を選んだ。その子供だけ白い服を着ているのだ。
「つかまえたっ!」
「きゃああっ」
ルルーは子供に飛びついた。ジタバタするのを抑え込んで。
「さぁー、もう逃げられないわよ」
「う…うわぁ〜〜ん!」
大きな声で子供は泣き出す。
「泣くなって言ってるのよ! 泣いたらぶつわよっ」
「ルルー様…。もうぶってます」
ミノタウロスの冷静なツッコミは置いておいて。
当然といえばその通り、子供は泣き止まない。
「もう……。どうすればいいっていうの?」
「ルルー様…」
ミノタウロスが口を開いた。
「その子と視線を合わせてやって下さい。そして抱きしめてやったらいいと思いますよ」
「そんなことで? ……まぁ、いいけど…」
ルルーは座り込み、子供を正面から抱きしめた。ぽんぽんと背中を叩いて。
「もう、泣き止みなさいよねっ」
「……ひっく」
まだしゃくりあげてはいるものの。子供の声は小さくなった。
「落ち着いたみたいね。…あなた、どうして泣いていたの?」
「ルルー様がぶったからでは…」
鈍い音が響いた。ルルーの鉄拳がミノタウロスの巨体に炸裂した音だ。
「違うっ! 最初にあたくしが会ったときから、この子は泣いていたのよっ」
「ぐ、ぐぼっ……。ブモー…」
仕切り直し。
「と、とにかくっ。何で泣いてたの。よかったら、話してみなさいよ」
「……」
「おいお前。こう見えても、ルルー様はとても心のお優しい方だ。我々で何かできる事があるなら力を貸すぞ。話してみてはどうだ」
「ちょっとミノ、こう見えて、ってのはなんなのよ」
「こ、コトバのアヤです。私は、心の底からルルー様を女神のような方だと……ブモッ」
「何照れてんのよ…。
どうせなら、サタン様に言っていただきたい台詞よね。あーあ、どうしてサタン様が出てきて下さらないのかしら。あたくしの夢だっていうのに」
「ブモ? これは、私の夢でしょう」
「は? 何言って…」
「……から」
「え?」
小さな声。ようやく、子供が口を開いていた。
「ぼくだけ、みんなと違う…から」
消え入りそうな声で呟いている。
「違うって……。服の色の事をいってるの?」
ルルーは首を傾げた。泣くほどの事かしら? なんだかよく分からない。
「ルルー様…。もしかしてこの子供、あの銀木犀の木の精霊なのではありませんか?」
「精霊ですって?」
ルルーは、改めて目の前の子供を見た。
別に神々しい感じはしないが……確かに、浮世離れはしているかもしれない。
「ぼくだけみんなと色が違うし……匂いも薄いしっ…」
言っているうちにまた悲しくなったのか、ぽろぽろと涙をこぼす。
ルルーは背後の明るい方を振りかえった。
金色の星の花はそれ自体が灯のように柔らかな光を点し、オレンジの服の子供たち……精霊たちは、楽しそうに走り回っている。
「そうね。確かにあんたは地味かもね」
ビクリ、と白い精霊の体が震え、見る間に涙が盛り上がってくる。
「あのね。だからって、そこでうじうじ泣くんじゃないわよ! 泣いてたってなんにもならないでしょ?
あんたは銀木犀で、金木犀じゃない。
それはどうしようもないことよ。それをそねんでたってしょうがないじゃない!
違うなら違うで、今の自分の中から誇れるものを見つけて磨いていくしかないわ。そうやって、自分自身に誇りを持てばいいのよ」
「……誇り?」
「そうよ。あたくしだって、そうして生きてきたわ。そして誇れるだけの自分になったと思っている」
小さな星かもしれない。もっと目立つ色をした星から見れば、地味かもしれない。
けれど、自分だけの星。自分の誇りを持って輝く星だ。
「ルルー様…」
彼女の傍らで、ミノタウロスは誇らしげにルルーを見つめた。
そう。俺は、そんなルルー様の光に惹かれたのだ。焦がれるほどに。
「誇り…」
白い精霊は呟く。そして。
「え…?」
何の前触れもなく、フッと場は掻き消えた。
「ありがとう」
微かな声だけを残して。
「…終わりましたよ、ルルー様」
「これで根が付くかしらね」
「大丈夫だと思いますよ」
まだ僅かに朝の気配が残っている日差しの下。
ミノタウロスは、土の付いたシャベルを肩に担ぎ上げた。
彼の足元、そしてしゃがみこんでいるルルーの前には、まだ掘り返した庭土も乾いていない、一本の挿し枝。
一晩部屋に飾っている間にだいぶ花が落ちてしまったが、それでもまだ幾ばくかの白い星の花はあり、かすかに甘い香りがする。
ルルーは、頬を抱えてその枝を見つめた。
自分は自分。自分に誇りを持って、自分で輝くように。
でもね。本当を言えば、あたくしだって泣きたくなる事はある。
どんなに努力しても、輝こうとしても。所詮、そこには辿り着けはしないように思えることがあるから。
あの方のいらっしゃる――遥かな高み。
けれど……。
立ちあがり、ルルーは傍らの巨漢を振り仰いだ。
「さぁーて。今日も、修行に出かけるわよ! ぐずぐずしないでさっさと片づけてらっしゃい、ミノっ」
「はい、ルルー様!」
00.10.1 庭の木犀の香りをかぎながら。