「今日と明日は学校もお休みだし……何をしようかなぁ」
「ぐー」
ゆったりと歩くアルルの足元で、黄色くて小さな友達が可愛い声を上げた。
「んっ、何? カーくん」
その時、彼方から奇妙な音が近づき、瞬く間に通り過ぎていった。 「がぼがぼごぼがぼがばぐぼげぶがぼがぼがぼごぼがぼがばぐぼげぶがぼがぼがぼごぼがぼがばぐぼげぶがぼ…………」
川を何かが流れていったのだ。どうも溺れているらしい。
「大変だ!」
「ぐぐー!」
アルルとカーバンクルは川岸を走り出した。けれども、それはぐんぐん流されていく。川の流れは結構、激しい。
「ぐーー!」
走りながら、カーバンクルがその長い舌を伸ばした。己の体長の十倍以上は優にある。ピンクの舌は流れていくものをはっしと掴むと、くるくると巻き上げて川からすくい出した。
巻き取られたままびちびちと跳ねているそれは、大きな魚だった。体長は一メートルを超えているだろうか。白銀に鮮やかな朱の大班が入っていて、いわゆる”錦鯉”というやつである。
「ぐー……」
カーバンクルはしばらく舌を巻きつけたままじっと考えていたが、おもむろに巻き上げ、あーん、と大きく口を開いた。
「あぁっ、ダメっ、カーくん! やめなさい」
アルルは慌てて両手で魚を持って引っ張った。不満げなカーバンクルが引っ張り返す。
「ぐぅ〜〜」
「川魚は、ナマで食べたら体を壊すことがあるんだから。ちゃんと料理して食べないと。ねっ」
「ぐぅ!」
納得したようにカーバンクルは舌を放した。
「何を作ろうかな。洗いに鯉こく、衣煮に丸揚げあんかけに、旨煮とか……」
すっかり当初の目的を忘れ、アルルがうきうきと鯉を抱え上げると、びちびちと暴れてそれが叫んだ。
「やめてぇえ〜っ、私は観賞魚です。食べる魚じゃありません〜っ」
「え、そうなの?」
反射的に応えて覗き込み、一瞬後、アルルは「わっ」と叫んで鯉を取り落とした。
「鯉が喋った!」
「あいたたたっ……。ひどいじゃないですか、落とすなんて」
「あ、ごめんなさい」
謝って、アルルはしゃがんで地面の上の鯉に話しかける。
「あのー、キミは普通の魚じゃなくて、魔物の魚なの?」
「生まれはただの錦鯉です。話せば長くなりますが……ええと、その前に水に戻してもらえませんか。呼吸はいいんですが、身動きが取れなくて」
「いいの? また溺れない?」
「溺れてたわけじゃありませんよっ、流されてただけで……。そこの、淵になってる流れのゆるいところに入れてください」
アルルは苦労して鯉を川に戻した。淵にぷかぷかと浮かび、鯉は人心地付いたようである。
「はぁ〜っ、やっぱり水の中は落ち着きます」
「よかったね」
にっこりして、アルルは話を戻す。
「それで、キミは生まれは普通の錦鯉だってことだけど、どうして喋れるの?」
「はい……」
うなずいて、鯉は言った。
「私は養鯉場で生まれました。高級錦鯉の血筋です。ですが稚魚のとき、数減らしとかで溝に流されましてね。一緒に流された仲間は死んだりはぐれたりしましたが、私は昔から根性がありまして。ええ、根性でなら誰にも負けませんよ。色々と厳しい環境でしたが、生きて生きて生き延びました。もう、かれこれ百年以上になりますかね」
「ええ〜っ、じゃあ、キミって百歳以上のお年寄りだったの?」
「失礼ですねっ、まだまだヒレもウロコもピンピンしてますよ! ……まぁ、長生きしたせいか、百歳を過ぎたくらいの頃から人の言葉を喋れるようになったんです。魔力が付いたって言うんですかね」
それに、地上でも息が出来るようになったし、と鯉は付け加える。
「ですがね。魔力が付いたと言っても半端なもので。結局水からは出られませんし。それで一念奮起したわけなんですよ。どうせ魔物になるなら、竜になろうって!」
「ドラゴンに!?」
「はい!」
嬉しそうに鯉は応える。
「鯉仲間に昔から伝わる伝説があるんですよ。ナントカという滝があって、その滝の流れをさかのぼって登りきることができたならば、竜になって天翔ることができるって! 私は竜になって、そして竜たちの仲間になって暮らしたいんです」
「滝を登るとドラゴンに……?」
聞いたことのない話だ。アルルが軽く首をひねったとき。
「龍門の滝の伝説だな。本当かどうかは俺も見たことがないから知らないが……。急流をさかのぼって、挙句滝まで上ってしまえるような鯉だけが、竜に化すことができるという」
「ふーん。……って、シェゾ!?」
当たり前のように横から口を挟まれて、つい普通に返事してしまったが。何故か、真横に銀髪のヘンタイ……もとい、青年魔導師が立っていた。
「相変わらず妙なことはよく知ってる――っていうか、なんでキミがここに?」
「当然だろう。お前の行くところ、必ず俺もいる」
思わず胡乱な表情になったアルルに対し、あくまで真面目な表情を崩さず、シェゾは言う。青い瞳でアルルをじっと見つめて。
「シ、シェゾ……」
「お前は俺の獲物だからな。片時も目を離さずにいるのは当然だ」
アルルのこめかみに血管が浮かんで、ぴくぴくとひきつった。
「そういうのを………ストーカーっていうんだよっっっ。このドヘンタイっ!!」
「ぐーーーっ!」
アルルの放った増幅版の爆裂魔法と、ついでにカーバンクルのフライングキックが、シェゾをどこか彼方に吹っ飛ばした。
「あのー、……いいんですか?」 はー、はー、と荒く息をついているアルルの背中に、おそるおそるといった声色で鯉が声をかける。 「いいんだよ。あれくらいじゃアイツは まいらないから」
まだ幾分肩を怒らせたままアルルが振り返り、息をついて力を抜いた。 「そういえば、この川の先には大きな滝があったっけ。もっとずっと上流だけど。そっか、キミはそこをのぼるために来たんだね」
「そうです、そうです」
うんうんと嬉しそうに頷いて――ふいに、どよ〜んと鯉は沈み込んだ。
「ですが、川の流れは予想以上に激しく……それでも根性でこの辺りまで泳いできたものの、力尽きて流されてしまったのですぅう」
ううう、と無念の嗚咽をあげる。 何日も粘って粘って粘り倒したのだが、いかんせん、体力は無限ではなく。
「やっぱり、お年寄りだから」
「違いますっ!」
鯉はぴしゃりと否定した。が。
「しかし、体力の限界なのは確かです……ああ……早く竜になりたいのに」
と、ふるふる震えて泣きそうな顔をする。鯉が泣きそうな顔をするなんて滅多に見られるものではないと思うが、表情が作れるのも、魔力が付いたおかげなのだろうか。 「うーん……。他にドラゴンになれる方法ってないのかなぁ」
アルルは眉根を寄せて考え込んだ。
「ボクが滝まで運んでいくんじゃ、やっぱりズルになっちゃうよね。魔導学校の入学試験だって、乗り物を使っちゃいけなかったんだし」
あの試験の旅も、年端もいかぬ少女にとってはなかなかハードなものだった。ヘンタイは出るわ、変質者は出るわ、女王様は付いてくるわで。どうにか乗り越え、今は無事に”魔導学校の生徒”という身分を手に入れているわけだが。
「魔導でなら、ボクもいつだってドラゴンになれるんだけどな」
「えっ、本当ですか? 自由に竜になれる魔法があるなんて、それはすごい」
鯉がキラキラと目を輝かせる。尊敬と憧憬の熱い視線である。
「えへへ、まぁね。――イリュージョン!」
アルルの周囲の光が歪み、異なる画像を映し出す。そして彼女の”見かけ”が一頭のドラゴンに変わった。
「どう?」
と、ちょっと得意げにアルルは言ったのだが。
「………」
鯉の反応は悪かった。
「なんだ、ただの幻影じゃあないですか。そんなの、本当の竜になったとはいえません」
「う……まぁ、そうだけどさ」
調子に乗っていた分、きまり悪げなアルルである。 「だけど……これ以外、ドラゴンになる方法なんてボクにはまるで分かんないよ。話の出来るドラゴンの知り合いなんていないし。……子供の頃、竜族の長のレビアタンには会ったことあるけど、ボクの故郷でのことだからなぁ」
ボクの故郷はここからずーーっと遠くだし、と腕を組んでアルルは考え込む。
ちなみに、魔法の効果が消えていないので、見かけはドラゴンのまんまである。この幻影は消えるまでに小一時間かかる。
「はぁ〜……。やはり無理なんですかねぇ」
「んー……。あっ、そうだ! ドラコのところに行ってみようよ」
暗くなりかかった空気を破るように、アルルが声のトーンを上げて言った。
「えっ、その方は何かご存知なので?」
「分かんないけど。なにせドラコは半分ドラゴンなんだもん。何か知ってるかもしれない。
確か、竜人族の村はここからそんなには遠くなかったはずだし……ボクが運んであげるから、行ってみようよ」
言って、アルルは立ち上がった。
どうやら、この休日の過ごし方を決めてしまったようである。
二段目「村の噂にのぼります」
竜人族の村は、アルルたちと錦鯉が出会った川辺からそう遠くはない。――とはいっても、それは日常の移動が長距離当たり前の魔導世界での感覚で、徒歩数十分でただちに到着、などというわけにはいかない。さらには、大き目の器を探して、それに水と共に鯉を入れて運んだので、手間のかかることこの上なかった。 半魔物の鯉は、呼吸こそ陸上でも出来たが、そのまま手で持って運ぶわけにもいかない。体が乾けばウロコもはがれやすく、体が傷ついてしまうのだ。
というわけで、アルルたちが竜人族の村にたどり着けたのは、夕方、日が沈み始めた頃だった。
竜人族の村は谷あいにあり、ゆるく湾曲した赤瓦の屋根が連なった、異国風の景色である。
アルルたちが村に入ると、村人たちが足を止め、遠巻きに様子をうかがった。
昔のように敵対するとまでは行かないものの、今でも魔物(と総称される異種族たち)と人間はやはり異なる存在であって、最初から気を置かずに交流できるというわけではない。やはりどこかに壁があり、ぎこちなくそれを飛び越える機会をうかがっている。……のだが。
「こんにちはー!」
あっけらかんと言って、アルルはスタスタと村人たちに近づいた。
「あの、ボクはアルル・ナジャって言います。ドラコに会いたいんですけど……」
ザワザワと村人たちがさざめき、互いの顔を見合わせた。
「ドラコとは、誰のことかの?」
人垣を割って、杖をついた白髭の老人が歩み出てきた。眉も真っ白で目の上に垂れ下がり、鋭い眼光を隠して、一見好々爺然として見せている。
「えっと、ドラコはドラコケンタウロスって言って……」
「確かに、この村は竜人族の村じゃがな」
老人は言った。
「わしらは全員がドラコケンタウロスじゃ。して、どのドラコケンタウロスをお探しかな」
「えええっ……!」
思いがけない事態に、アルルはひるんだ。
(そういえば、ドラコの種族はみんな同じ名前だって聞いたことはあったけど……本当のことだったの!?)
「えーと……ドラコはボクと同じくらいの年の女の子で、若草色の髪の毛で、角が二本生えてて、羽と尻尾があって……」
「そういう特徴の娘なら、この村にはごまんとおりますじゃ」
と言った老人の背後に、実際、その通りの特徴の娘たちがずらりと並んだ。
「ううっ……」
「なぁに、何の用?」「あたしに何の用事?」「あら、この子人間ね」
よく見るとそれぞれ違う顔立ちをしているのだが、一見そっくりな”ドラコケンタウロス”の娘たちが口々にそう言ってきて、アルルは頭の中が鍋の中身のごとく ぐるぐる回った。
「真っ赤なチャイナドレス姿で、格闘が得意でっ」
いくらか減ったが、まだまだドラコの集団である。
「がぁーお、ちょっと、一体何の用なのっ。あたしは忙しいのよ」「ねぇ、何なの?」「なになに、あたしと勝負したいって? いいわよ、受けて立とうじゃない」
(あの人もドラコ、この子もドラコ……うわーみんなそっくりだぁ。あ、あれ? ドラコってホントはこんなにいっぱい――じゃなくて! えーとえーと、ボクの知ってるドラコの、他に何か特徴って)
「あっ、そうだ、美少女コンテストが大好きな!」
老人がぽん、と手を打った。
「おお、それなら西の端の家の娘じゃろう。誰か、呼んでおいで」
「はい、長老様」
ささっ、と側にいた若者が翼を広げて飛んでいった。待つこと数分。やがて、向こうから一人の娘を伴って戻ってくる。
「あれっ、アルルじゃない。どうしたのよ、あたしの村にまで来て」
驚いた顔でアルルの前に降り立った娘に、アルルはがばっと抱きついた。
「うわ〜〜ん、ドラコぉ〜、会えてよかったよぉ〜!」
「うわっ、ちょっと、なによっ!?」
「うぅううううう〜〜〜、ドラコぉ〜〜〜」
「ちょちょちょちょっと、アルル!?」
アルルに抱きつかれたまま慌てふためいているドラコを、長老以下村人たちはじっと見ていたが。
「……まぁ、お前の趣味にはとやかく言わないが。ほどほどにのぅ」
「長老さまっ!? なななんですかそれぇ!」
それより、こいつをあたしから引き剥がして助けてください。……って、ああっ、みんな、あたしを残して帰らないでぇえ〜〜!!
とかなんとか。
日の暮れかかった谷あいの村に、ドラコの悲鳴が響き渡ったりしたのだった。
三段目「明日の日がのぼるとき」
「鯉を竜にする方法?」
ふてくされた声でドラコは言った。息を吐くたびに、口から黒い煙が立ち昇っている。ファイヤーブレスの吐きすぎだろうか。
あれから、いつまでもしがみつくアルルにキレたドラコが大暴れし、我に返ったアルルが魔導で対抗したりしたもので、村は阿鼻叫喚、あやうく炎の海の一歩手前……にまではいかなかったが、それなりの被害をもたらしてしまったのだ。
ただ、幸いなことにドラコケンタウロス族は古くから武芸をたしなむ一族で、強い者を無条件で認める傾向があった。村にやってきてイキナリ大暴れ、などすれば普通は追い出されて当然のところだが、そのおかげでどうにか受け入れられて、ドラコの家に泊めてもらえたりなどしているわけである。
風呂を使わせてもらい、すすも落として着替えも借りて、互いにスッキリしてドラコの部屋に落ち着いたところだ。
「うん。――この錦鯉さんが、ドラゴンになりたいんだって言ってね……」
たらいの中の鯉を示して、アルルはかくかくしかじかと説明する。
「ふーん。そりゃ大変ね」
「うん。だからさ」
「だからって、何よ」
「だから、ドラコなら何か知ってるんじゃないかって。ドラゴンになる方法」
「知らないわよ、そんなの」
「「ええ〜〜っ!?」」
アルルと鯉の声が、デュエットを奏でた。
「ドラコなら何か知ってると思ったのに……」
はぁ? という顔でドラコがうめく。
「なんであたしなら知ってると思うのよ」
「だって、ドラコは半分ドラゴンでしょ」
「……確かに、あたしたちの一族にはドラゴンの血が流れてるって言うけどさぁ……」
片手で顔を抑え、ドラコは天を仰いだ。
「それならアルル、あんた人間だけど。他の生き物を人間に変える方法、知ってる?」
アルルは虚を突かれた顔になった。
「……知らない」
「でしょっ。まったく、ちょっと考えればわかりそうなことなのに。ムチャ言わないでよね」
「うぅ〜、名案だと思ったんだけどなぁ……」
アルルはがっくりとうな垂れた。
そんなアルルを、鯉はたらいの中からじっと見ていたが。
「もう……いいですよ」
「えっ?」
驚いてアルルが顧みる。
「甘えすぎでした。これ以上、お嬢さんにご迷惑をかけることは出来ません」
「だ、だって……ドラゴンになりたいんでしょ?」
「そりゃ、勿論ですよ。……あ、すみません。諦めるってことじゃないんです。元々、鯉が竜になるってことは、誰かにしてもらうってことじゃなく、相応のことを自分でやり遂げてこそ成し遂げられる、そういうことだったんですよね。忘れていました」
「鯉さん……」
「私は、自力で滝をのぼります。そして、自分の力で竜になってみせますとも!」
たらいの中で、力強く鯉は言い切った。
――その時。
「うぉおおおおおんっ。キミのその心意気、私は感動したぞ!」
大声で感動の泣き声をもらしながら、一人の男が飛び出してきた。……ドラコの部屋の床下から。
長身の男は紺のジャージにサングラスをかけ、ジャージと同色の野球帽をかぶった緑の長髪の頭には、二本の金色の角がねじくれて立っている。
「あ、あなたは!?」
「私のことは、コーチと呼んでくれたまえ! 今日一日、アルルくんとキミの様子を見ていたが、素晴らしい。実に素晴らしいぞ! 今からキミを、滝をのぼれるように鍛えてあげようっ」
「本当ですか!?」
「本当だとも。私に任せてくれれば大丈夫だ。
どんなに暗い夜でも、必ずまた日は昇る……。きっと滝をのぼりきり、キミは立派な竜になれる!」
「コーチ!」
男と鯉は、ヒレと指先を取りあって互いに感銘を受けたようにうち震えている。感動的なシーンであることは間違いない。……が。
「あの……おっさん」
「ん? なんだねドラコくん。私のことは、コーチと呼んでくれたまえ」
「おっさん、いつからそこにいたのよ」
抑揚のないドラコの声に、「え?」と”コーチ”の顔が引きつった。
「ボクのこと『一日見てた』って言ったよね。ま・さ・か……」
Tシャツの前をかき合わせているアルルの声にも、抑揚が少ない。人間、あまりに驚き怒ると、逆に無表情になるものなのである。
「い、いや、違うぞ。私はたまたま、アルルくんと鯉くんの話を耳にして、様子を見ていただけで……の、覗いてないとも。本当だ!」
風呂上りのラフな姿のままの、うら若き乙女二人の鉄拳が下った。
「出歯亀!」「変質者ぁ!!」
「のぉおおおおっ!!」
その夜、竜人族の村は二度目の大騒動に揺れ、惨劇(?)は繰り返された。
これらより、ドラコケンタウロス族と外種族との交流に何らかの影響が及ぼされたかは……定かではない。
四段目「夢にのぼれば」
「よし、では特訓を始めるぞっ」
翌朝。
コーチの指導のもと、錦鯉の滝のぼり特訓が開始された。なお、コーチのサングラスにひびが入っていたり、顔や手足に小さな怪我や腫れが見えるのは、昨夜の乙女たちの鉄拳の名残である。……この程度の名残で済んでいるあたり、この男の耐久力だか回復力は尋常ではないようだ。
コーチは、長さ十メートルほどの長い水槽を用意していた。一方の端から一方へ水が流れ、川の流れを再現している。
ピルルルーッ、と胸から紐で下げた笛を吹くと、コーチは鯉に向かって言った。
「まずは、ここをさかのぼってみたまえ」
「はい、コーチ!」
気持ちよく鯉は答え、ピッ、ピッ、と吹かれるコーチの笛に合わせてじゃばじゃばと流れに逆らって泳ぎだした。
なかなかの馬力だ。じわじわとではあるが、確実に流れに逆らって進んでいく。
「ふむ……なかなかいいぞ。では、第二段階だ」
コーチが手元のリモコンのようなものを操作すると、水槽が中央を始点にして動き、斜めになった。ちょうど、傾いたシーソーのような按配だ。
「むむむむむ………がばごぼがべぐぶ」
頑張ったものの、持ちこたえきれずに鯉は水槽の一番下まで押し流された。
「だめです〜、コーチ」
「諦めてはいけなぁ〜いっ! まずは体力をつけるのだ!」
というわけで、次にコーチが用意したものは、小さな重りのついた魚用サポーター(?)であった。
「さぁ、これを着けて泳ぎたまえっ」
「はいぃっ、コーチぃ!」
重さに耐え、鯉は果敢に流れに挑んで泳ぎだす……。
……などという特訓が、飽きずに延々と繰り返された。
「いーのかなぁ……」
傍に座って様子を見ているアルルは、思わずそう呟いた。ちなみに、カーバンクルはその背後で例のごとく踊っている。
まぁ、コーチも鯉もノリノリで楽しそうだから、口を挟むことではないのだろうけど。
そうして時間は過ぎ、やがて日が天頂から傾き始めた頃。
「よし、特訓完了だ。よく頑張ったな!」
何故か左手にバレーボール、右手にバットを持ったコーチが、サングラスの下の瞳をキラキラと輝かせながら鯉に言った。
「コーチ……」
よれよれの鯉が、うるうる(しているように見える)目でコーチを見上げている。
「ありがとうございました! 私は……必ず竜になってみせますっ」
「うむ、その意気だっ」
見守るうちにいつの間にか居眠りしてしまったのでアルルには全てはわからないが、あれから実にバラエティに富んだ――というと聞こえがいいが、はっきり言えば何の関連があるのだか判らない特訓メニューが強行された。中には”特別コーチ”を呼んでのメニューもあった。すけとうだら指導による水上ジャンプ特訓(ポーズが華麗であることが最も重視されていた)、セリリ指導による尾ビレびちびちビンタ特訓。ウォーターエレメントによる「耳たぶを動かす特訓」は、鯉に耳たぶが無かったため断念された。
こうした幾多の特訓を乗り越え、今、コーチからの修了宣言が鯉に下されたわけである。
「これは、私からのはなむけだ……」
コーチがしゃがんで手をかざすとキラキラした魔導の光が広がり、よれよれの鯉の全身がピカピカにリフレッシュした。
「おお、全身に力がみなぎるようですっ」
「よし、では行くがよい」
「はい!」
かくて、鯉は川をさかのぼり始めた。アルルに会ったあの場所から。「うぉおおおっ」と雄たけびを上げつつ、すさまじいばかりの馬力でもって。
「すごいっ。これなら本当にさかのぼれちゃうよ!」 川岸を走って追いかけながら、アルルが感嘆の声を上げる。彼女は自らにスピードアップの魔法をかけていたが、さかのぼる鯉に並ぶのさえ難しい。
やがて、行く手に大きな滝が近づいてきた。ドドドドドと瀑布の轟きが響き始め、流れが渦を巻いて激しくなる。鯉の雄たけびと気迫が、いっそう強まった。
”彼女”はゆっくりと息を吐き、整えた呼吸の中で気を練り上げた。 「瀑布粉砕……逆流覇ァーーーーーーっ!!!!」
振り上げた拳に込められた”気”が爆発的に膨れ上がり、駆け上る。それは川の岩を砕き、流れ落ちる滝の水を巻き込んで天に吹き上がった。のみならず、絶え間なく流れ続けてくるはずの水さえもが吹き飛ばされ、たった今まで滝から流れ落ちる川だったものが、一瞬にして水のない川底をさらけだす。
「おめでとうございます、ルルー様ぁーーっ。ついに完成ですね、瀑布粉砕逆流覇!」 川岸から、重い足音を響かせて、牛頭人身の大男・ミノタウロスが感激の面持ちで駆けてくる。滝のまん前――ついさっきまでそうだった、今は水のない川底に立っている美女・ルルーが、晴れ晴れとした顔で振り向いた。
「ええ。自分で言うのもなんだけど、上出来ね。おーっほほほ!」 右手を口元に、左手を腰に当てて高笑いするルルーの背後で、錦鯉が空しく川底に転がってビチビチと跳ねている。
「でも、まだまだだわ……。格闘の道に、『完成』と言う言葉はないのよ。ひとつを成し遂げても、それは始まり。更なる修行をしなくちゃね」
「さすがです、ルルー様」
「ほほほ、当然よっ。こうして己を高めていって……サタン様の妃にふさわしいあたくしになっていくのだもの。ああ、サタン様……ルルーはあなたのために今日も頑張っていますわ。けなげなア・タ・ク・シ……。なんちゃって、キャッ」
「ブモ〜……」
「さっ、ぐずぐずはしていられないわ。次の修行地に行くわよ、ミノっ」
「はいっ、ルルー様!」
よかった、今日の妄想モードは短かった。安堵しながら、ミノタウロスは駆け出すルルーの背後について自らも駆けて行く。
彼らが駆け去った後、ゴゴゴ……と低い音が響き、遥か彼方に押しやられていた川の水が一気に戻ってきて、洪水のごとく滝と流れ、遥か下流へ流れ落ちていった。 「がぼがぼごぼがぼがばぐぼげぶがぼがぼがぼごぼがぼがばぐぼげぶがぼがぼがぼごぼがぼがばぐぼげぶがぼ…………」
川底でビチビチしていた錦鯉を容赦なく巻き込んで。
最終段「ぐんぐんのぼれ!」
「………大丈夫?」
アルルは、たらいの中で口をパクパクしている錦鯉を、心配そうに覗き込んだ。
あれから、荒れ狂う川に押し流された鯉をどうにか見つけ、ここに保護し、治癒魔法もかけたのだが。
「うぅうううう……」
体の傷はともかく、心の傷は相当大きくなったようだった。 「所詮、私は長く生きているだけのダメな鯉なんです〜〜。どうやっても竜になんてなれないんだぁ!」
「そんなことないよ! あと少しだったじゃない。あれは単なる間の悪いハプニングなんだから」
アルルは力を込めてそう言ったが、
「その間の悪さが私の運命なんですぅう。……そうですよね、私みたいな鯉が竜になれちゃうんじゃ、世の中間違ってますよね」
などと、ますますどっぷりと落ち込んでいくのだった。
(うぅ〜ん、どうすればいいんだろう……。)
励ますのか、慰めるのか。どちらをやっても今は効果がないようである。
「お〜ほほほほほっ! どうやら、わたくしの出番のようですわね」
アルルが途方に暮れたとき、頭の上から甲高い笑い声が降ってきた。
ほうきに乗った金髪の魔女が、長い紺のスカートをはためかせながらふわりと舞い降りてくる。
「話はドラコさんから聞きましたわ。その錦鯉をドラゴンにしようと、苦労なさっているんですってね。見たところ、失敗なさったようですけれど」
『失敗』という言葉に反応して、鯉が「わあっ」と泣き伏した。
「ウィッチ!」
「あらあら……そんなに短気を起こさないでくださいな。折角、わたくしがとっても”いいもの”をお持ちしましたのに」
そう言うと、ウィッチは袖の中から小さな薬ビンを取り出した。
「これは、私が開発した、『ドラゴンになれる薬』ですわ」
「ええっ!」
声を上げて、沈んでいた鯉が顔をあげる。その鯉に向かい、ウィッチは実に可愛らしく、満面の笑みを浮かべてみせた。
「本当に、本当に竜になれるんですかっ?」
「そうですわ。これを飲むだけで、あなたの望むとおりの姿に変われますのよ」
「ちょ、ちょっと待ってよ」
今にも薬を飲みそうな鯉の前に割り込み、アルルはウィッチをにらみつけた。
「いやですわアルルさん、そんな顔をなさって。何か文句でもありますの?」
「……だってさぁ」 経験上、アルルはあれがウィッチの”営業用スマイル”であることを知っている。ついでに言うと、こういうときのウィッチに関わるとたいていろくでもない結果になるということも。
「そもそも、それ、いくらなの?」 ウィッチのことだから、足元を見てかなりの値段を吹っかけてくる気なのかもしれない。露骨に警戒して尋ねると、ウィッチはぷんと頬を膨らませた。 「失礼しちゃいますわね。この薬は、勿論差し上げるんですのよ。わざわざ探して来てさしあげた好意を無下にさせるおつもりですの?」
「えっ?」
「なんですの?」
「じゃあ、タダでくれるの!? 本当に?」 素っ頓狂にアルルは叫んだ。
「当たり前ですわ。……って、そんなに驚くことですのっ?」
「いやぁ……」
あいまいな笑みを浮かべて、アルルは言葉を濁す。
「まったく、失礼しちゃいますわっ。とにかく、飲みますの? 飲みませんの?」
「のっ、飲みますっ!」
慌てたように鯉が叫んだ。
「ええっ、ちょっと待ってよ!」
「なんですの、アルルさんたら、まだ何か文句がありますの?」
「それ……危ない薬じゃないだろうね」
「まったく、ほんっとうに失礼ですわねぇ! 大体、薬を飲むかどうか決めるのはこの鯉さんで、あなたじゃありませんわ。アルルさんはこの鯉さんの保護者じゃありませんのよ」
「うっ……」
「私、この薬を飲みますよ」
口ごもったアルルに向かい、鯉が口を開いた。その瞳は清々しく澄んでいる。あたかも、殉教者のごとくに。
「たとえ1%の可能性でも、賭けてみたいんです」
「鯉さん……」
悲愴に呟き、アルルはきっと表情をひきしめた。
「わかったよ。それほどの覚悟なら、ボクはもう何も言わない」
「ありがとう!」
「……って、あなたたち何気に果てしなく無礼ですわぁ〜!」
顔を引きつらせながら、ウィッチは薬ビンの蓋を開いた。かすかに、甘い花の香りが漂う。
「……よろしいですかしら。これを飲んだら、三つ数える間に、なりたい姿を強く強く思い浮かべますのよ」
そして、ビンの中身を鯉の口に注ぎ込んだ。
「一、
二、 三………!」
数え終わると同時に。ポン、と何かが破裂するような音ともに煙が上がった。その煙が晴れると、そこには……。 そこには、なんだかよく判らないひょろ長い生き物が、にょろにょろ〜んと たらいの水に浸かっていた。
「……ウナギ?」 それとも、ナマズだろうか。少なくとも、アルルの知っているドラゴンとは似ても似つかない。ついでに言うと、色と模様は元のままなので、不気味なこと甚だしいのだが。
「………ウィッチぃい〜〜!」
「あ、あら? おかしいですわねぇ〜」
不穏なオーラを発するアルルを背後に感じて、ウィッチはドギマギと首をかしげている。一方、鯉……もとい、鯉だったものはやたらと大きくなった目を輝かせて、
「やった、やりました! ついに……ついに私は、竜になれたんだ!」
と言った。
「ほら、本人は満足しているようですわよ」
「うー……」
いいのだろうか、これで。なにやら納得できないアルルである。その様子に気付くこともなく、鯉だったものはたらいから身を乗り出し、
「私は竜になれたんだ。大空を天翔ることができるんだ!」
と、思い切り飛び上がった。
………つもりだった、ようだが。
実際には一メートルも飛び上がることなく。びちゃっ、と地面に落ちてびちびち跳ねた。
「飛べません〜〜」
転がったままうるうると大きな目を潤ませる。肩をすくめ、ウィッチが言った。
「まぁ、姿が変わっただけですものねぇ。中味は鯉のままですもの」
「それじゃ、意味がないじゃないですかぁー」
ますます激しく泣き出す鯉……もとい、ウナギモドキ。
「おほほ、心配ご無用ですわ! こんな時にぴったりの薬がございます」
ウィッチは、袖の中からもう一本薬ビンを取り出した。
「これを飲めば、たちどころに空を飛びまわれるようになりますのよ」
「おおー」 そして、目を輝かせているウナギモドキの鼻先に契約書と計算機を取り出して、 「ちなみに、先ほどの薬とは違って、この薬は売り物ですの。一ビン一万五千Gですけれど、今なら分割払いも出来ますので……」
……などと計算しながら言いかけたのだったが。
不穏な気配を漂わせたアルルが、ポン、とその背中を叩いたので、笑顔にたらたらと冷や汗を流しつつ「……と、思いましたけど、これも無料でサービスいたしますわ」と言葉を終わらせたのだった。
「まったく……、ひどい営業妨害ですわっ」
ぶちぶち言いながら、ウィッチはウナギモドキの口の中に新しい薬を注いでいく。
「キミがいけないんじゃないか。あくどい商売するから」 「最初はサービスで気を引いて、次で販売するのは、基本の商法ですわよ。あくどくなんかありません。わたくしはこんなにも善良で勤勉な魔女なのに、アルルさんときたら………はい、これで全部ですわよ」 ウィッチは空のビンを持って立ち上がり、
「今日は、とんだ損害でしたわ!」 と、ふくれっ面でほうきに乗って飛び去っていった。商売にならない場所に長居をするつもりはないらしい。
一方、残されたウナギモドキからはシューシューと空気の漏れるような音が聞こえ出し……。
「え……えええっ!?」
目の前で起こった光景に、アルルは驚愕の声をあげた。
「やった……! 飛んでます、飛んでます。私飛んでますよっ」
夕焼け色に染まった空を飛び回り、ウナギモドキは目を輝かして感動している。
「まぁ……『空が飛べるようになる』っていう能書きは、間違ってなかったわけだけど……」
飛び回るウナギモドキを見守るアルルは、複雑な表情だった。 ウナギモドキは、風船のように膨らんでぷかぷかと夕空に浮かんでいた。もはやウナギにも見えない。錦鯉のようなウナギのようなそれ以外のような、なんだか判らない謎めいた魚の魔物の誕生である。
「本当にこれでよかったのかなぁ……」
疲れた表情でアルルは呟いた。 確かに、本人は満足しているようだし、喜んでいるんだけれど。……こんなんでも。
だけど、あの鯉さんはそもそも、ドラゴンになってその仲間に入りたいって言っていたのに。……どう考えても、アレじゃ無理なんではなかろうか。
そう思うと、重苦しい気分になってきてしまうアルルである。
「ぐー」
肩に乗っていたカーバンクルが、大きな声で鳴いた。 「ん……、なぁに、カーくん」
カーバンクルの視線を追うと――彼方の空から、ゆっくりゆっくり、何かが宙に浮いて近づいてくるのが見えた。夕日以上に赤い色をしていて、ひらひらとしたショールのようなヒレをたなびかせている。 それは間近まで来てウナギモドキの前にぴたりと止まり、大きな口を開いてこう言った。
「ふふふ、来たのね」
真っ赤でひらひらのヒレを持つ、金魚型の魔物。魔物商人のふふふである。 ウナギモドキとふふふは空中で大きなぎょろ目を見交わし、ぷくぷくぱくぱくと口も動かして、なにやら意思の疎通を図っているようだった。……ようだった、というのは、アルルにはまるで解読できなかったからなのだが。何を言っているのか解らないので、大変怪しい相談に見える。 しばらくすると、ウナギモドキがスーッとアルルに近づいてきた。
「私、決めました。ふふふさんの国に行くことにします」 「え!?」
口を開くなりの言葉に驚く。
「ふふふの国、って……。だってキミは」
「はい。……でも、それもいいと思って」
ウナギモドキには屈託がなかった。ペコリと頭を下げて、今にも旅立ちそうな様子でそわそわしている。
「お嬢さんには本当にお世話になりました。何もお返しが出来なくて心苦しいんですけれど」
「ううん、ボクはなんにも出来なくて。……本当に行っちゃうの?」
思わず心配を声に出して問うと、ウナギモドキはニコリと笑った。
「ふふふさんの国には、私たちみたいな魚系の魔物が沢山住んでいるんだそうです。私は、そこに住もうと思うんです」
ふふふの国――。一体どんなところなのか、想像すると怖いような、ちょっと楽しいような気がしたが。 けれども、そこが本当に魚魔物たちの世界なら。そこに行くのが、ウナギモドキにとって最も相応しいのは確かなことなのだろう。
「そっか……。そうだね。それがいいのかもしれないね」
アルルは言った。ようやく、納得した心地で。
「はい。それでは、お元気で」
「うん。キミも、元気でね!」
ウナギモドキは再びスーッと舞い上がる。
「ふふふ、行くのね」
ふふふがそう言い、ウナギモドキを従えて飛び始めた。
二匹の奇妙な魚は夕日の沈む方角に向かい、ぐんぐんと高く昇っていく。やがてその姿は夕空の中に沈み、小さくなって消えていった。
「……これでよかったんだよね」 点ほどになるまで見送って、アルルは言った。途中、色々と釈然としない気もしたけれど……幸せは本人が決めることだろう。うん。 「でも、ふふふの国があるなんて。まだまだ、世界にはボクの知らないコトがいっぱいあるんだなぁー」
「ぐぅ?」 肩の上でカーバンクルが小首をかしげる。それを目で覗き込み、笑ってアルルは言った。 「その国を探しにいくのも面白いかもしれないね、カーくん。次のお休みにはさ」
「ぐぅ!」
元気よく、カーバンクルが応えた。
終わり |