女神の微笑ほほえみ

 

「そうだな。だから私は……」
 息を吐き、漸う、サタンは口を開いた。
「確かにそうなのだろう。私がこうも……この世界の形に固執するのも、カーバンクルちゃんを手放せぬのも、……アルル・ナジャに感じる、あの途方もない懐かしさも。全ては」
 ”彼女”に収束される。――そう、呟く。
 
 認めると、まるで記録された映像が甦るかのように、サタンの脳裏にかの少女の面影が浮かんだ。
 肩で切りそろえた暗い栗色の髪、紫紺の魔導装甲。不思議な輝きを放つアメジストの瞳。
 開け広げに笑うアルル・ナジャとは異なり、記憶の中の彼女は、常に強い瞳で見据えつつ、抑えた笑みを浮かべている。
 人の身で、しかもこの世に生じて二十年にも満たない存在でありながら、神にさえ匹敵する魔導の力を秘めていた少女。
 ――いや、問題なのはその戦闘能力ではなかったのかもしれない。
 意思なのか、心なのか、魂の色そのものがそうさせていたのか。
 人を破滅に導くはずの”邪なるもの”たちすら、彼女のために人の世を守って戦った。
 そんな、理由も分からぬ力が、彼女にはあった。
 周囲をひきつけ、巻き込まずにはいられない。

 ――そして、それこそがアルル・ナジャに通じる”何か”なのだ。

 彼女といるときに感じていた、あの感覚。
 それを、あの少女は思い出させる。鍵爪でつかんで引き寄せるように、逃れがたく、日々を経るほどに強く。遠く朧に去りかけていたはずの心が引き戻され、その頃の想いが奔流となって押し寄せ、かき乱される。

「サタン……さま……」
 目を閉じ、僅かに眉根を寄せているサタンの横顔を見上げて、ルルーは胸を押さえ、きゅっと唇を結んだ。
 胸が痛い。長い針でも差し込まれているかのよう。
 恋敵はアルルだと思いこんでいた頃の方が、ずっと楽だったかもしれない。そのときも胸が痛むことはあったけれど、これほどではなかった。
 戦える、と思っていたからだ。
 格闘が骨の髄まで染み付いたルルーにとっては、欲しいものを戦って勝ち取る、というのは至極当然な行動だ。たとえ分が悪くとも、戦える限り、最後の最後まで勝利をつかめる可能性はある。そう、経験として知っている。ひるがえれば、戦える限り諦めない。それがルルーの信条なのだ。
 けれども。
 もういない。しかしサタンの心の中にだけは確固として”居る”という相手と、一体どうやって戦えばいいのだろう。
 あたくしは、どうすればいいの? ――何が出来るの?
 床が全て抜け落ちてしまったかのように。何も出来ない。どこにも行けない。ただ、下に落っこちるだけ。
「忘れられないんですわね……。その方……リリス、のことを」
 これ以上、何も聞きたくない。知りたくない。なのに足はその場に根付いたようで、口はこんなことを紡いでいる。
「勿論だとも。――忘れることなど、出来ようはずもない」
 ぐっ、とルルーは息を詰めた。想像していた通りの答えなのに。全身をこわばらせ、次の決定的な打撃を待ちうける。
「忘れてたまるものか! なにしろ、私は彼女に金18万貸していたのだからな」
「――は?」
 ルルーは顔を上げた。口がポカン、と開いてしまっている。サタンはそれをどう解釈したものか。
「ま、まぁ、大した金額ではないかもしれないが……金額そのものの問題ではないのだ。人に借りたものは返す。それは当たり前のことだろう!?」
 腕を振りあげて熱弁をふるっている。
「そ、そうですわね……」
「リリスに頼み込まれると、何故だか、どうにも断りきれなくてな……。ついつい、何度も重ねてこの金額になってしまったが。とうとう、返してもらえることはなかった」
「そうでしたの……。では、その、リリス……いえ、アルルのことは」
「魔導世界を創造した後、リリスはその姿を消した。だが、この世界のどこかに彼女は生きている。……そう、思えるときがある。この世界に、未だに彼女の気配を感じるのだ。アルルのことも含めてな。
 大体だな、私とリリスは敵同士だったのだ。なのに、妙に気安いところがあったというか……そういう風にされると、こちらの調子も狂うだろう? アイツときたら、その辺が全く……」
 サタンはなおもブツブツ言い続けている。その傍らでルルーは呟いた。
「もし……もし、本当に彼女が生きていたら。サタン様。その時、あなたは……」
「ん? 何か言ったか、ルルー」
「いえ、何でも……。………くだらないことでしたわ」
 ルルーは再び顔を伏せる。サタンはしばらくその横顔を眺めたが、やがて独り言のように呟き始めた。
「……アルルは、リリスとどこかで繋がっているような気がする。でなければ、カーバンクルちゃんが私のもとを離れるはずがないだろう。アルルを見ていれば……いつか、リリスに再び出会える日が来るように思えるのだ。それは遠からず」
「………」
「アイツと再び会えたとき……会えれば。私はようやく、あの時見つけられなかった答えを見出せる気がする。
 どうして、敵だったアイツにああも引きずりまわされたのか。あの瞳を見ていると逆らえなかったのか……。
 ヤツがいなくなったとき、私はそのことを考えることをやめた。だが、そのために……あれ以来、私の中の一部は凍りついたまま、止まってしまっている。そのことに……今になって、気付いた。
 もう少し。もう少しなのだ。もう少しで、わかる。だから、……その日まで、…………………」
 言いかけたまま、サタンは口を閉じる。恥じたごとく。あるいは、怖れるごとく。
 沈黙が辺りを満たした。
「…………サタン様」
 少なくとも彼にとっては長いと思えた沈黙の後、ルルーはその名を口に乗せた。これまでもずっと、そうしてきたように。
「ルルーは………あたくしは、サタン様のお側にいます。ずっと……」
「………………そうか」
 それだけを、サタンは応えた。
 
 
 
 その頃、”リリスの後継者”たるアルル・ナジャは、どこで何をしていたのかというと。
「じーーーーーーっ」
「なんなんだ、お前は」
「別に。じーーーーーーーーーーっ」
「おい、いい加減にしろ。人の顔をジロジロ見るなっ!!」
「じーーーーっ」
「だから……。チッ、わかった。金はオレが払ってやるっ!」
「わぁーーい! やったぁ!」「ぐーーっ!」
 肩で切りそろえた明るい栗色の髪に、青の魔導装甲。金無垢の瞳の少女が、腕を振りあげて嬉しそうに飛び跳ねた。肩アーマーの上で、黄色い小動物も飛び跳ねている。
「ったく……なんでオレがこんな目に……」
 それを横目で見ながら、銀色の髪の青年の姿をした魔導師――シェゾ・ウィグィィは苦々しげにうめいた。
「お前なぁ、遠出するなら金くらい持って出ろよ。無計画すぎるぞ」
「お財布はちゃんと持ってきたよ。でもボクは学生で、そんなにお金がないんだもん。冒険となると何かと入用だし……魔物退治で何とかなるかと思ってたんだけど、予定が狂っちゃってさ。お腹ペコペコで死にそうだし、お金はないし、どうしようかと思ってたところだったんだよね」
「それで、オレに目を付けたってワケか……? 言っておくがな、おごってやるってわけじゃないぞ。あくまで、貸しだ。貸しただけだからな!」
「まぁまぁ。困ってるときはお互い様って言うじゃない。そんなに怖い顔していると、顔にしわが出来ちゃうよ?」
「大きなお世話だ! それに、お互い様だ? フン、いつお前がオレを助けると? そもそもオレは闇の魔導師だ。敵の――獲物のお前を、何故オレが助けねばならん」
「あっ、そういうコト言うかなぁー。……大体、キミの犯罪行為を水に流してあげようって言うんだから、一食くらいおごってくれたって罰は当たらないじゃないか」
「はぁ? なんだそりゃ」
「だってキミ、ボクのことストーキングして、散々ヘンタイ行為してるじゃない」
「なっ……。誰がそんなコトしとるかっ!!」
「ついさっきだって、『お前が欲しいっ』って言ったでしょ?」
「当たり前だ! お前はオレのモノだからな!」
 力いっぱい言うと、周囲の通行人がぎょっとしたように、あるいは呆れた視線で振り返った。が、シェゾはそれに全く気がつかない。――あるいは、気にしていないだけなのか。
「まったく。コレだからなぁー」
 アルルは肩をすくめ、大仰にため息をついた。
「シェゾ、キミねぇ。キミは、女の子に関する物事ってモノがよくわかっていないんだ。女の子に『欲しい』って言うなら、相応のセキニンってものがあるんだからね。少なくとも、ご飯をおごるくらいは基本中の基本ってものだよ」
 腰に手を当て、そう言う。あまりに毅然とした態度なので、思わず、シェゾは「そ、そうなのか……?」と返してしまった。
「そうだよ! あったりまえじゃない。シェゾは今までずーっとボクにそう言ってきたんだから、その分、ボクにご飯をおごらなくちゃいけないんだよ」
 そうなのだろうか……?
 冷静に考えれば無茶な理屈だが、そもそも、シェゾがアルルの魔力目的で「お前が欲しい!」と言っているあたりからして、既にヘンなのである。なので、なにやらこんがらかった。こんがらかったところに、暖かい手にぎゅっ、と手のひらを握られて、シェゾの思考は散り散りになってしまう。
「じゃ、とにかくご飯食べに行こうよ。ボク、もうお腹が減って倒れそうなんだから」
「なっ……。お、おいっ。わかった、わかったから引っ張るな!」
「早く、早くーっ」
 少女に手を引かれて、転びそうになりながら走っていく青年の姿を見て、道行く人々はそれぞれに目を笑ませた。仲のよい、微笑ましい姿に見えたのかもしれない。
「ぐっ」
 揺れるアルルの肩につかまりながら、ふと、カーバンクルが空を見上げる。
 空は青く、輝くばかりに広がっている。そのどこかで、女神リリスが微笑った気がした。


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