Mei‐Mu


 旅先で急に天候が変わったりすることは、そう珍しいことではない。だから、薄く流れてきたそれがたちまち視界を覆い尽くしてしまった時、その現象自体について彼はどうこう思わなかった。

 ただ、厄介だと思っただけだ。

「まいったな。何も見えん」

 ミルクのように濃密な霧が森を沈めていた。一寸先も見えないとは、まさにこのことだろう。白い闇に木々はかすみ、道は見えない。

「さっさとここを抜けてしまいたかったんだがな……」

 ひとりごちて、彼は木の幹に寄りかかった。幹は霧でしっとりと濡れている。もっとも、彼自身も同じように濡れているのだから、それは問題ではない。

 闇の魔導師シェゾ・ウィグィィ――魔導の裏世界にその名を轟かせる彼も、今、この場においては無力だった。

 時空や自然の魔力にある種の歪みがあって、時空転移系の魔法が使えない場所というのは、実は巷にはそれなりに点在しているものだ。この森を含む地域一帯もその一つで、故に自分の足で越えていたのだが、その矢先にこれだ。順調に行けば夕刻までには森を抜け、今夜は久しぶりにまともな宿を取れるはずだったのに、なんともついていない。その辺りまで行けば、後はテレポートで一息に家にまで帰着できるものを。

 額に垂れてきた前髪を払い、彼は空を仰いだ。こういう場合、霧が晴れるまでじっとしているのが正解だ。しかし、それですぐに霧が晴れる保証はない。霧に覆われ、薄ぼんやりとした光輪しか見て取れないが、日は真上にある。

「行ってみるか……」

 幹から背を離し、シェゾは歩き始めた。

「……ん?」

 しばらく進んだところで、彼はそれに気がついた。

 人が倒れている。

 見かけ上、年の頃は彼よりも四つ五つ若いくらいか。少年である。

「行き倒れか」

 さして興味なさそうに……別に男だったからというわけではない……呟いたものの、彼はそこに歩み寄った。とりあえず、息はあるようだ。

「おい、しっかりしろ」

 呼びかけてみたが、少年は反応を返さなかった。それほどひどい状態ではないが、衰弱しているようだ。

「ったく……今日はなんて日なんだ?」

 毒づきながら、彼は少年を荷物のように肩に担いだ。ぞんざいな扱いだが、おぶったり抱えたりすると両手がふさがってしまうので、仕方がない。万が一魔物にでも遭遇した際に命取りになる。とはいえ、辺りは静まり返り、魔物どころか、先程まではあれほどかまびすしかった鳥の声も聞こえてはこなかったが。

 ――まるで、この霧に吸い取られちまったみたいだな。

 そんなことを思いながらしばらく歩くと、霧が僅かに薄まった。おぼろに、木々とは違った影が見えてくる――建物のようだ。それも数軒分。

「村……?」

 紛れもなく。

 小規模ではあるが、集落だ。

「こんなところに、村なんてあったか?」

 一瞬、いつのまにか森を抜けてしまっていたのかと思った。だが、そんなはずはない。まだ霧が出てからさほど歩いていないし、その程度で抜けられるほどこの森は小さなものではなかったはずだ。第一、並び立つ家々の向こうには、また背の高い針葉樹林の影が霞んで浮かんでいる。

 だが、シェゾが知る限り――この森の中に村など、あるはずはなかった。

 ――なんなんだ?

 地図にない村、というのも珍しい話ではないから、そのこと自体は奇妙に思うべきことではないかもしれない。だが、それでもシェゾが奇妙に感じた……というより面食らってしまったのは、今、この時の村自体の様子からだった。

 魔導師という職業は、純粋に個人の才能や資質に関係することもあって希少な技能職であるから、世間では尊崇を集める存在である。特に辺境の村などではその傾向は強く、旅の魔導師が立ち寄ろうものなら村ぐるみの歓待を受けることも珍しくはない。とはいえ――今、この村に入ってきたばかりで、名乗りもしていないシェゾの前に、村人一同、どういうわけかずらりと並んでにこにこと笑顔を見せているのは、一体どういうわけなのか。

「よく、いらっしゃいましたな」

 どこかの魔物商人みたいな笑顔をして、真っ先に口を開いた恰幅のいい親爺が、多分村長なのだろう。

「いや、俺は……」

 どう言っていいのか分からず、思わず言いよどんだ彼の周りに、数人の村人たちが集まってくる。一瞬緊張したが、村人たちの狙いは彼ではなく、彼が担いでいた少年の方にあった。

「また、ピートか」

「しょうがない奴だな。まだ懲りないのかね」

 口々に言い合いながら、シェゾの肩から少年を下ろし、どこかに運んでいった。

「あいつは、この村の人間なのか? 向こうで倒れていたんだが」

「ええ。まったく、しょうがない子だ。いくら言い聞かせても勝手に森に入ってしまうんだから」

 村長はそう言ったが、そこには特に強い感情は――怒りとか、心配とか――は感じられなかった。まるで天気の話でもしているように。よほど日常茶飯事なのだろうか?

「それより、まだ家の準備は出来ないんでね。とりあえず今晩からは私の家に泊まるといい。ええと……失礼だが、何と呼べばいいかな?」

「シェゾ・ウィグィィ……シェゾでいい」

 村長の奇妙な言いまわしを訝りながらシェゾが名乗った時、誰かが口をさし挟んできた。

「へえ……面白い名前ね。それって、”神を汚す華やかなる者”って意味でしょ。古代魔導語で」

 村長の後ろに立っていた女だった。背が高いので、村長より頭一つ上に見える。若く、見掛けの年齢はシェゾと同じくらいか、少し上か。茶色い長い髪を後ろでゆるく束ね、珍しいことに眼鏡をかけている。

「……よく知ってるな」

「まぁね。私、結構頭がいいのよ。王都に留学の話もあったんだから」

 初対面にしてはいささか高慢にも取れる物言いを、しかし悪びれなく言う女を、シェゾは胡乱な目で見つめた。

「人の名前の意味を云々する以前に、自分も名乗るのが礼儀だと思うが」

「そうだぞ、イーリス。失礼だろう」

 村長にたしなめられて、女は小さく首をすくめた。

「すまないね。娘は、少し変わったところがあって……立場を考えて、もう少し相応に行動してもらいたいものだが」

「ごめんなさい、父さん――気をつけるわ」

 イーリスはそう言うと、再びシェゾに視線を戻した。

「改めて、村にようこそ。私はイーリス。この村では神官長を務めているわ。もっとも、私以外に神官は一人もいないのだけれど」

 確かに、イーリスの衣服は他の村人たちとは違い、白い神官のそれだった。シェゾの見慣れている女神の神官のそれとは少しデザインが違うようだが。もっとも、少しずれていると言えば村人たち全体がそうではある。田舎ともなれば、着ている物も古臭くなるのだろう。

「さあ、いつまでも突っ立ってないで早く中に入ろう」

 村長が場を動かす。ぞろぞろと村人たちが――大人も子供も、動き出した。

 なんとも奇妙な感じだが、とりたてて悪意や害意は感じられない。

 ――ま、いいか。

 シェゾは思考を止めた。

 ――とりあえず、今夜の寝床は確保できたみたいだからな。


 とはいえ、そう簡単にはシェゾはベッドへ辿り着かせてはもらえなかった。夕食も済み、そろそろ部屋へ引き上げようかという頃合。

「よう! シェゾ君、いるかい」

 口々にそう言いながら、酔っ払った村人の集団がなだれ込んできたのだ。彼らはシェゾを取り囲み、グラスに酒を注ぎ、次々に質問を繰り返しては、彼が席を立つ隙を与えなかった。無論、こういった展開はシェゾ自身の好むところではない。

「ホラホラ、もういいかげんにしなさいよ。シェゾ君の目がすわってきてるじゃないの」

 いよいよ我慢も限界かという頃、それを敏感に察したものか、単に偶然か。食堂に戻ってきたイーリスが、一言で場を閉めさせた。

「だけど、なぁ」

 まだ騒ぎ足りないとでも言いたげな村人たちを、村長がこう告げて促す。

「みんなの気持ちは解るが、今夜はこれでおしまいにしよう。シェゾ君も疲れているようだし、時間はまだまだ、たっぷりあるんだからな」

「それもそうだな」

 村人たちは口々に言い合い、やがて村長の家を出ていった。もっとも、単に場所を変えて飲みなおしをする気なのかもしれない。村長さえも出ていってしまったから。

「なんなんだ……」

 げんなりとして思わず呟いた彼の前に、湯気の立った湯飲みを置きながら、イーリスが笑った。

「みんな、あなたが珍しいのよ」

「魔導師がそんなに珍しいか? ――第一、みんな俺自身のことはどうでもいいみたいだったがな……」

 人々はしつこいほどに質問を繰り返していたが、その殆どはシェゾ自身に関するものではなく、もっと茫漠とした……最近の世間の動向だとか、王都の様子とか、現在の王は誰かとか……そんな話題が殆どだった。シェゾ自身としてはかえって望むところではあったが、釈然としない思いは残る。

「なかなか鋭いわね、あなた。そうね……みんな飢えてるのよ。村の外の情報にね」

「まるで外界から隔絶されてるみたいな言い方だな」

 湯飲みの中の液体を一口すすって、シェゾは言った。香りのいいお茶だ。

「そうね」

 相槌を打ち、イーリスはふと宙を見つめた。

「ここは閉じた村だからね」

 

 霧は、翌朝も村を覆っていた。

「おはよう。結構早起きね」

 食堂には既にイーリスがいて、朝食を並べ始めている。

「なあ……昨日も、お前が食事を作っていたよな」

「そうよ。美味しいでしょ。これでも腕自慢なんだから」

「普通だろ……そうじゃなくて、お前、神官なんだろ」

「神官だって食事の支度くらいするわよ。霧や霞を食べては生きていけないんだから。……まあ、人手不足なのよ」

 イーリスは言った。

「この村は元々入植者が作った開拓村だったからね。ギリギリの人数しかいないし。母さんも死んで他にする人がいないんだから、私がやるしかないでしょ」 

 シェゾの前の皿に、スープを注ぐ。

「どうぞ。せいぜい、普通の味だけど」

 妙ににこやかな顔で言うと、続ける。

「先に食べちゃいなさいな。父さんはどうせ起きてくるのが遅いし。夕べは随分遅くまで騒いでたみたいだから」

「そうか……。じゃあ、お前からよろしく言っといてくれ」

「ん?」

「いや、一晩世話になった、と」

「ああ……。そう言えば、あなた、すっかり完全装備ね。マントも着込んじゃって。もう出立するつもりなんだ?」

「ああ」

「やめといた方がいいと思うけどなぁ……」

「――どういう意味だ?」

「言った通りよ。村の外に出ようとしたって、結局道に迷うわ。……この霧だしね」

 シェゾは窓の外に目をやった。白い霧は、村の中ではそれほどではないものの、周囲の森は木の先端近くまでたっぷりと覆い沈められている。

 ――もしかして、村の連中はこうなることを知っていたんだろうか?

 シェゾは思った。昨日の村長を始めとする村人たちの言動は、最初からシェゾがここにしばらく逗留すると決め付けていたようなフシがある。

 ――ま、確かにこの霧の中を歩き回っても無謀なだけかもな。

「霧が晴れるのを待つか……」

 シェゾはスープを一さじ、口に運んだ。


 その日一日、霧は晴れなかった。翌日も。そしてシェゾがここを訪れて三日目の朝。

「おはよう。……あなた、相変わらず完全装備ね。家の中でくらい、マントを脱いだら? 肩凝らない?」

「うるさい」

「機嫌悪いわね。でも、仏頂面なのはいつものことかしら」

「そんなことはどうでもいい。一体なんなんだ、この霧は!」

 シェゾは叫んだ。

 三日目。しかし、窓の外は初日と同じ。白い霧に沈んでいる。

「なんて頑固な霧だ! いつまで待ってろっていうんだ? もう待てん。待っていられるか!」

「まあまあ、シェゾ君……」

 村長が宥めを口にする。

「いいじゃないか。のんびりしていれば。君が来てくれて、みんな喜んでいるし……」

 ――だから嫌なんだよ……。

 内心、シェゾはそう呟いたが、とりあえずそれを口にはしなかった。別の怒りにとらわれていたからだ。つまり、晴れない霧に対する。

「もういい、無謀だなどと言ってられるか。今日こそ、とっととあの森を越えるっ」

「シェゾ君、まあ、待ちなさい」

「仕方ないわよ、お父さん。本人が行くって言ってるんだから。……誰も強制はできないわ」

 止めようとする村長を、イーリスが遮った。

「当たり前だ。俺は行くといったら行くっ」

「やってみなけりゃ納得できないものだもんね。……すぐ分かると思うけど」

「やけに気に障る言い方だな……それより、この村から森を抜けるルートを教えてくれ」

 しかし、イーリスはあっさり首を横に振った。

「分からないわ」

「……何?」

「私たちにも分からないわよ。この霧だもの。こんな中、森の奥まで行こうとするような人なんてまずいないしね」

「…………」

 真意を推し量っているシェゾの視線に気付いて、「嘘じゃないわよ」とイーリスは付け加える。

「……まぁ、いい。とにかく行くまでだ。それじゃ、世話になったな!」

 そう言ってマントを翻したシェゾに、イーリスののんびりとした声がかかった。

「あ、シェゾ君」

「――なんだ?」

「私、今日は木の実のケーキを焼こうかと思ってるのよね」

「はぁ?」

 今度こそ困惑して、シェゾは眼鏡をかけた神官を見返した。その視線を受けて、彼女はニコニコと笑っている。

「それが何だってんだ? 俺はもう行くぜ!」

 乱暴に扉を開け、シェゾはそこを出て行った。

 

 夕刻になっても霧は晴れない。傾いた日が、霧を通して薄ぼんやりとばら撒かれている。

「結構遅かったわね。ケーキ、もう冷めちゃったけど……バターケーキは冷めたほうが美味しいものね。今、紅茶を淹れるわ」

「…………」

 戸口に立って、シェゾはもう、文句を言う気力もない気がした。

 丸一日、森の中を歩き回って……結局、またこの村に帰ってきてしまったのだ。

 いくら霧で方向感覚が狂ったにせよ、ひどすぎる。まあ、本格的に迷ってしまうよりは、運がよかったのかもしれないが。

「だから言ったじゃない……どうせ無駄だってね」

 切り分けたケーキの皿を置きながら、イーリスが言う。

「何を言ってやがる。今日はたまたま失敗しただけだ。明日は……」

「無駄だってば。何度やっても同じことよ。……あなたも、そろそろ分かってきたんじゃないの?」

 イーリスは眼鏡の奥からシェゾを見つめた。

「この村は、霧で閉ざされている。そして誰もここから出ていくことは出来ないのよ」

「……何を、言ってる……?」

 シェゾはイーリスを見返す。

「まるで、この村が完全に外界から隔絶されているとでも言いたげじゃないか。……バカバカしい。人をからかうのもいいかげんにしろ。こんなところ、霧が晴れればすぐにでも出ていけるぜ」

「霧は晴れないわ。明日も……あさっても。多分、ずうっとね」

 これまでそうだったみたいに。カップを取り上げて、紅茶の香りを吸いこみながら、イーリスは告げた。

「……バカな。大体、こんな小さな村が隔絶されて、自給自足だけでやっていけるわけがない」

「それが、なんとかなっちゃうのよねえ……」

 天井を仰いで、イーリスは首を傾げている。

「それに、完全に隔絶されているわけでもないわね。たまに、あなたみたいに外から迷い込んでくる人がいるから……入ってはこれても出ていけないから、みんなここに住みつくことになるんだけど」

「じょ……冗談じゃないぞ! 俺はこんな村なんかに骨をうずめる気はない! こんなところで、みすみす時間を無駄にしてたまるか!」

「……ま、みんな、最初はそう言うのよね。そしてあれこれ出ていく方策を探すのよ。でも、結局は諦めてここでうまくやっていくことになるわ。……まあ、中にはどうしても諦めない人ってのもいるけれど」

 そして、イーリスは続けた。

「それに、時間は無駄にならないわ……この村にいる限りはね」

「どういう……」

「言った通りの意味よ。そのうち分かることだわ」

 謎めいた言い方をして、イーリスはゆっくりと紅茶を飲んだ。

「あなたが出ていこうとするのを私は止めないけど……まあ、覚悟はしておいたほうがいいってことよ」


 イーリスの言葉は正しく、翌日も、その翌日も霧は晴れることはなかった。村は常に霧に霞む森に囲まれている。シェゾがこの村に迷い込んでから、もう一週間ほどが経とうとしているが、その時間の流れすらもあやふやになるくらい、毎日は同じ顔をしていた。

 村から森に入ろうとする境界に人の姿を見つけて、シェゾは足を止めた。霧の中、佇んで森を見つめているようだ。ここに来て以来、夜ともなれば彼を肴に酒を飲む男たちや、どこか物欲しげな女たち。そして、今もしつこくまとわりついている子供たち――それらの中には見たことがなかったが、確かに見覚えのある顔。

「あ、ピートだ」

 子供たちのうちの誰かが言った。その声で気付いたのか、声を上げると彼は小走りに近づいてきた。

「この間は、ありがとうございました」

 頭を下げてくる。以前、森で行き倒れていたのを拾ってきた少年だと思い当たった。

「ああ。もう大丈夫なのか?」

「はい。しばらく寝込んじゃったけど……」

 少しはにかんだように笑った顔は、素朴な性質を透かして見せている。子供たちが言った。

「ピートもね、前に外から来たんだよ」「シェゾお兄ちゃんみたいにね」

「そうなのか?」

 ピートが頷くのを見て、そうか、とシェゾは得心した。ここに来て見た限りでは、村の連中は森へは決して入ろうとしなかった。

「どうなってるんですかね。何度も外に出ようとするんだけど、どうしても出られないんだ。いつのまにか村に戻っちゃって……いつまで経っても、霧も晴れないし」

「そうか……」

「あの……シェゾさんは、やっぱり諦めちゃったんですか? 最近はもう、森に入ってないみたいだってみんなが言ってたけど」

 見上げて、今度はピートが尋ねてきた。

「さあな」

 シェゾの応えは短い。考えを巡らせ始めているためだが。

 ――とりあえず、簡単には出られないってのは確かなようだ。

 ピートがどのくらいそれを試したのかは知らないが、たとえ極度の方向オンチであろうとも(どこかの見習い魔導師のように)、こうもことごとく村に戻ってしまうというのはやはり尋常のことではない。加えて、シェゾ自身も同じ経験をしているのだから。無論、彼は自身の方向感覚には全幅の信頼を置いている。とくれば、何故迷ってしまうのか。村の周りに何か強烈に感覚を狂わせるものでもあるのか。あるいは空間自体が歪められているのか。どちらにせよ、その気配に気付けなかったのは己の過失ではある。

 ――やはり、この霧か。

 霧全体に微量の魔力が含まれており、それに包まれてしまったことにより、惑わされてしまったのかもしれない。

 ――ったく……今頃は、とっくに帰りついているハズだったんだがな……。

 思った以上に長い外出になってしまった。

「お兄ちゃんたち、まだ森に出るの?」「また道に迷うよ?」「危ないのになぁ……」

 見上げて、子供たちが口々に騒いだ。内一人が、思いついたように自分の胸から何かを外してピートに差し出す。

「はい、あげる」 

「え……何だい」 

「お守り。シェゾお兄ちゃんにもあげる」

 やや年長の女の子だ。その子は肘で別の子供を突っつき、その子が自分の胸に着けていたものをシェゾに渡させた。 

「おい、いいのか?」  

「いいよ」「もう私たちにはいらないもの」  

 口々に彼女たちは言ったが、

「バーカ。それじゃ、そんなの意味ねーだろ」

 男の子のうちの誰かが言って、わっと子供たちは笑い、憤慨した様子の女の子たちと共に村の中の方へ走って行ってしまった。まるで豆が散らばるように。

 ――ガキってヤツは……。

 閉じ込められているのでなければ、まず接触しない人種ではある。呆気にとられつつ、シェゾは”お守り”とやらを検分した。

「なんだこりゃ……随分と古臭い形式だが、護符……か。――何かの魔物避けか?」

「ああ……。だったら、確かにいらないんだろうな」 

 ピートが言った。疑問顔のシェゾに続ける。

「ここって、魔物が出ないんですよ。全く」 

「魔物が出ない……? まさか」 

「ホントです。少なくとも、僕はここに来てからは一度もお目にかかったことってないし」   

「…………」 

 シェゾは再び考え込んだ。

 魔力の関わる事象には、必ずと言っていいほど魔物の影もちらついているものだ。……というより、今時全く魔物のいない場所など皆無に等しい。それが……。 

 子供たちをはじめ、村人たちは決してシェゾたち外部からの来訪者に害意は抱いていないように思える。少なくとも「村から出る」ということを抑止しようとすることは全くない(悪意を持って閉じ込めているといった気配はうかがえない)。といって、助言もしないが。それなりに訊いてまわったが、あまりめぼしい情報というのは得られなかった。村人たち自身がはっきりとした回答を持たないためのようなのだが。彼らは囚われていることに慣れ切り、諦めてしまっている。ここから出るということを、まるで”天空の彼方へ行く”ことと同義とさえ思っているようだ。だからこそ、他愛もないお守りのようなものをせめての心づくしにしてみせたりするのだろう。 

 ――どう考えりゃいいんだ……?

「ここは、暮らすにはいいところなんですよね。危険なことは起こらないし、みんな親切だし。でも……」

 何かにはめられ、閉じ込められたのだとすれば考えようはある。しかし、そうでないとするならば……。

「でも、僕は諦めたくない……帰りたいんだ」

 うつむいて、ピートが呟いた。両手が硬く握り締められている。

 シェゾは考えるのをやめた。結局、諦めたくなければ自分でどうにかするしかないわけだ――そう、この少年のように。


「シェゾ君、今日、ピートと話をしていたんだって?」

 村長の家に戻ると早速イーリスが話し掛けてきて、シェゾは眉根を寄せた。

「これだから狭い共同体ってのは嫌なんだ……」

「まぁね……でも、人との繋がりが密接なんだから、いいこともあるのよ。ま、慣れなきゃしょーがないってトコロはあるけど」

「大体、なんでお前はいつもここにいるんだ? 神官なんだろう。そんなことでいいのかよ」

「あら、ちゃんとお勤めはやってるわよ。空いた時間にお茶を飲んでいて、何が悪いって言うの。神官にだってお茶を飲む時間くらいあっていいわよ」

「口の減らない女だ……」

「そりゃ、減らないわよ。減ったら困るじゃない。あなたの場合は減りすぎて井戸の底みたいに沈んでるって感じだけど」

「だぁ――っ、うっさい!」

 往々にして、シェゾは女性には口でやり込められる傾向にある。人は総じてそれを”女難の相がある”と表した。……話がそれた。

「ったく……大した神官をもって、お前の神もさぞや幸せだろうな」

「あら、神じゃないわ。精霊よ」

「精霊……?」

 シェゾは怪訝な顔をした。

「変わってるな。土着の信仰ってやつか」

「土着って言えるのかしらね。元々、入植者たちが自分たちの故郷から、一緒に持ちこんできたものらしいから」

 それより、とイーリスは話題を転じる。

「いいかげん、諦める気になったの? ここ暫く、森へ入るのはやめたみたいだけど」

「とりあえず、闇雲に出ようとするのはな」

「ふうん……? じゃ、諦めたわけじゃないのね」

「当たり前だ!」

 イーリスは息をついた。

「早く慣れたほうが後々楽だと思うけど」

「冗談ぬかせ。こんな状況に慣れてたまるか!」

「いちいち大声出すの、やめなさいよ。……でも、いいじゃない。ここもそう悪いところじゃないと思うけどね。みんないい人でしょ。ケンカもないし」

「不気味なくらいにな」

「こんな村で争っても得にならないってみんな知ってるのよ。……それに、実際争う理由もないわ。ここではね、本当に、争いの元になるようなことってないのよ。悪いことは何もね」

 信じられないかしら、と笑うイーリスに向かい、シェゾはわざとらしく言い捨てた。

「本当にそうなら、ここは昔の夢想家が思い描いた、理想郷ってやつだな」

「そうね……そんな感じかもね。病も、飢えも、災害も起こらない。魔物だって出ないし、外に出られない代わりに、あらゆる面で外敵に脅かされることはない」

「くだらん……つまりは、何もないってことじゃないか。時間が止まってるようなもんだ」

「そうよ。――だから言ったじゃない」

 シェゾはイーリスを見返した。光を反射する眼鏡の奥の真意はつかめない。

「この村では、時間は無意味だわ。今日があって、明日が来て、ただそれだけ。でも村は確かにあって、隣人はいて、暮らしがある。……それでいいんじゃない? 平凡だけど、”幸せ”ってものじゃないかしら」

「――……」

 何か言いかけて、シェゾは口をつぐんだ。

 ――俺自身、多分に主観的な時間の中に生きている……。

 それは、もう随分と長い旅であったような気がした。……あまり具体的に認識したことはないのだが。

 だが……違う。ぬぐい切れない違和感がある。

 もしも本当にこのままここから出ることが叶わないのであれば、望むと望まざるとに関わらず、シェゾはここに留まらなければならないだろう。しかし、この違和感のある限り、ここで「暮らす」ことが可能だとは思えなかった。

 ――闇の魔導師として世界最強になる――その野望が、ここでは叶えられないからか?

 それもある。

 ――まっとうな暮らしを捨てている俺が、そもそも「暮らそう」と考えること自体がちゃんちゃらおかしい。

 それもあるだろう。

 だが、それ以前に――。

 ――俺はここには馴染めない。

 この違和感は、どこから来るのだろうか。

「……ま、しょうがないわね、こればっかりは。人の心に強いることなんて出来ないもの。……ピートなんかもね」

 イーリスは息をついた。

「とうとう行き倒れるまで無理なんかしなくたっていいのに」

「……あいつなりに必死なんだろ」

 ――それで行き倒れるのは、弁解の余地なく間抜けだが。

「だけど、どうせだったら村を好きになってもらいたいわね。……ここは私の生まれた村だし」

「どうせ、か。結局はここに住みつくしかないんだから、か?」

「……ま、ね」

「…………」

「……シェゾ君、あなた、何薄ら笑いなんか浮かべてるの? 気味悪いわねぇ〜」

「う、うるさいっ。俺はただ闘志ってヤツを燃やしてただけだ! 悪いか!」

 確かに、黙って「不敵な笑み」なんぞを浮かべるのは瑞で見ていて気味悪いことなのかもしれない。シェゾ自身としては、単に「何が何でも出られない」と言われて、逆に「絶対出る」という気分になったに過ぎないが。……天邪鬼なのだ、この男は。

「そんなことはどうでもいい。――で、ここで生まれたお前に訊きたいんだが」

「何?」

「いつからなんだ」

「え?」

「いつからここはこうだったのかってコトだ。入植者たちは霧の中に村を作ったのか? 最初から、この閉ざされた中に」

「あ、ああ……違うわよ。昔は……そうね、普通……だったと思うわ」

「思う、か……」

「え?」

 シェゾは続けた。

「村の連中にも聞いた。この村がこんなになっちまったのは、いつからなのかってな。……みんなお前みたいにトボケてやがって、あまりはっきりとした答えは返らなかったが、大体の意見を総合すると、こうだ。……お前が神官長になった頃」

「…………」

「それ以前は霧もなく、普通に外と行き来できた……確かお前も、王都に留学するはずだったって言ってたっけな」

 シェゾはイーリスを見据えた。

「……何があった? 何故この村はこんなになっちまったんだ」

「……知らない……分からないわ」  

 イーリスは、初めて動揺したように見えた。……とはいえ、これは村人たち全員に見られた反応だ。ひどく陽気なのに、この話に至ると決まってうろたえる。それでも、一呼吸でどうにか息を整えると、イーリスはいつもの語り口を取り戻した。

「母さんが死んだのよ……それで、私が跡を継ぐことになったの。ささやかな役職だけど、村には必要だもの。……留学は諦めなきゃならなくなったけど、もともと終わったら村に帰るつもりだったしね。早いか遅いかの違いだわ」

「つまり、その時までは王都へもどこへでも、自由に行けた」

「そういうことに……なるわね。それで、あの夜…………いえ、朝……ね。目覚めたら、もう村は霧で閉ざされていて……」

 額を押さえて、ひとつひとつ考える様にしている。

「……なんにしても、霧と村の閉鎖の相関自体は、間違いがない……か」

 シェゾはひとりごちた。

「え? ……だから……?」

「お前にしちゃ反応が鈍いな、イーリス。つまり、霧を消せば、閉鎖も解けるかもしれないってことだろ」

「霧を消す……? 途方もない話ね」

「そうでもないさ。……まあ、この場合は原因を断つ方が良策だろうな。
 その時から急に霧が現れたというのなら、必ずその原因があるはずなんだ。……それを断てば、霧も消える…………かもしれん」

「でも、原因なんて想像もつかないわ……」

 イーリスは首をかしげる。シェゾは彼女を一瞥したが、すぐに視線を戻し、言った。

「俺は、ここ暫く村の周りの霧の流れを見て廻っていた。
 微かなものだが、流れの収束している地点がある。そこに何かあるのか、まるで見当外れか……ま、やれることからやってみるさ」


 霧は、渦を巻いて流れている。ある方向の森の入り口……村の外れにやってきたシェゾは、振り返り、たまりかねたように口を開いた。

「……なんでお前がついてくるんだ?」

 その視線の先には、例によって眼鏡をかけた女神官の姿があった。

「いいじゃない。堅いことはいいっこなしよ」

 悪びれず、しゃあしゃあと言ってのける。「闇」に生きる彼に対してこういう反応を返す人間は、実は少ない。……最近は増えつつある気がするが。特に、"あの少女"の周りに集まる者の間では。

 どうも”彼女”に関わるようになってからというもの、自らのアイデンティティが揺らいでいるような気がしてならないシェゾであった。……まぁ今回に関しては、イーリスは彼が闇に属するものだとは知らないはずだし(わざわざ説明する必要もないし、万が一敵意を持たれても困る。こんな閉鎖空間では特にだ。)、関係ないことのはずだが。……それでもこうなってしまうのは、あるいは、彼自身の性質が何か変わってきてしまっているのだろうか。

「ヤジ馬なら、帰れよ」

「そんなつもりじゃないわよ。……あなたって、誰にでもそんなにつんけんしてるわけ?」

「どーでもいいだろ」

「よくないわよ。それじゃ、女の子にモテないわよ。折角外見は結構マシなのにさ。勿体ないと思わない? 第一、女に対して残酷よね。村の女の子たちも嘆いてたわよ。ま、私としては優しいだけの男なんて願い下げだけど、それでももう少し、包容力って言うかねェ……」

「うるさいわぁっ! ピーチクパーチク……女ってヤツはなんでどいつもこいつもこうなんだ!?」

「あなたも充分うるさいわよ」

 イーリスは耳を押さえてケロリとしている。だから、口では勝てないというのに……つくづく学習能力のない男である。

「私はこの村の神官よ。あなたは一応村の住民だし、今のところウチのお客なんだから、安全に導く義務があるわ」

「お前ごときに頼らなくても、俺独りでどうとでもなる!」

「そうかもね。……でも、その子は放っておくとまた行き倒れるかもしれないし。やっぱり、無視しておくわけにはいかないでしょ」

「……は?」

 振り返ったシェゾは、背後にいつのまにか現れていた少年にようやく気がついた。

「ピート!? なんで、お前まで……」

「僕……どうしても、帰りたいんです」

 こぶしを握り、まっすぐにそう言った少年をシェゾは軽くにらんでみせた。

「あのなぁ……」

「絶対邪魔にはなりません!」

「俺が今からしようとしていることは、まだどういうことなのか、俺自身にも分からんのだ。ただの徒労かもしれん。お前が付いてきたところで……」

「でも、可能性はあるんでしょう。だったら、僕も行きたい。僕の手で、外に出る方策を得たいんだ」

「だがな……」

「私は連れて行くべきだと思うわ」

 イーリスが言った。

「ここで断っても、結局後からついてくると思うし。それに……彼の気持ちは、シェゾ君が一番よーく分かってるんじゃない?」

「…………」

 ――俺って結構甘いんじゃないのか……? それとも、甘くなったのか。

 シェゾはため息をついた。

「……勝手にしろ」

 ピートとイーリスは笑顔を見交わす。そんな二人を尻目に、シェゾはあくまで苦虫を噛み潰した顔で、さっさと歩き始めた。


 村から一歩踏み出しただけで、濃密な霧の中に沈んでしまう。漆黒のシェゾの衣服でさえも、白い闇の中に溺れてしまいそうだ。

「ところで、だ。お前はなんでそんなに帰りたいんだ?」

 歩きながら、シェゾはピートに問うた。常に声をかけていなければ、すぐにも互いを見失ってしまいそうだ。

「え? 何でって……」

「村には何人か迷い込んだヤツらがいた。だが、みんなすっかり村に慣れ切ってやがる。無理もないかもな。ここじゃ生活に苦労することはないらしいし。……だが、お前は諦めない。何故だ?」

「そりゃあ……家には母さんも待ってるし……父さんはいないんだから、僕が帰らなくちゃ」

 ピートは答えた。それから、少し間を置いて続ける。

「それに、ルシーも待ってるから」

 言って、気がついたように補足した。

「ルシーっていうのは、僕の家の近くの家の子で……僕たち、まだ若いけど、僕が帰って春になったら一緒になろうって、出かける前に約束したんです」

 ――最近のガキは…………。

 なんとなく、シェゾの仏頂面度(なんだそりゃ)がアップしたが(当サイト比)、別に自分が独り身だから不愉快になったというわけではない。……多分。

「おかしいですか?」

「いや、別に。ま、帰りたい理由ってのはそんなものなのかもな」

「そうかぁ……」

 背後で、イーリスが息を落としたのが聞こえた。

「待っている人がいる……つまり、帰るべき場所が他にあるってことよね」

「あの、イーリスさん。僕はここに不満があるってわけじゃないです。みんな良くしてくれましたし。だけど……」

「分かってるわよ。……仕方ないわよね。ここが私の村であるように、ピートにはピートの村があるんだもの。当たり前だけど。
 ……でも、そっか。シェゾ君もそうなんだ」

「俺が……何だって?」

「あなただって、諦めずに帰りたいんでしょ。……待っている人がいるのよね」

 ギョッとしてシェゾは立ちすくんだ。実際に足を止めてしまったくらいだ。

「バカな、俺はずっと独りだ。そんな奴なんていない!」

 振り返ってシェゾは反駁した。一瞬、動作が遅れたのは、誰かの顔を思い浮かべてしまいそうになったからだ。

「ふぅん、そう?」

「なんだよ、その笑みは……ムカつくぜ」

 実際には、一瞬とはいえ、闇の魔導師らしからぬことを考えた自分に腹が立ったのかもしれない。イーリスはまるでそこまで見透かしているように見えて、それが尚更シェゾを苛立たせた。

「いいじゃない、別に怒るようなことでもないでしょ。……ホント可愛いわね、シェゾ君って」

「――死にたいのか、お前」

 別に脅しでもなく、本気でシェゾはそう言ったのだが、あまり伝わった様子はなかった。

「それより……ホントにすごい霧ね。森に入ったことってなかったから、これほどとは思わなかったわ」

 視界は一面に白く煙り、全てがひんやりと冷え、濡れている。

「……確かに、ここらはひどい。もう方向すら全然分からんな」

 シェゾは言った。

 僅かな霧の流れは、三人が中に混ざり歩いたことでかき乱され、読むのは難しい。シェゾ自身のカンとしてはこのまま進んで間違いないと告げてはいるが、勿論確証はない。

「多分、こっちでいいはずだが」

 暫く留まって、霧の流れを再び読むか。

「そうね……こっちで間違いないと思うわ」

 不意に、イーリスがそう言うと、先に立って歩き始めた。

「おい? どうした」

「分からない……でも、こっちだっていう気がする」

 彼女はそのまま歩いて行ってしまう。やむなく、シェゾとピートはその後を追った。

「……!」

 場が開けた。

 周囲に密集していた木々が無いのが、感覚で分かる。濃い霧の中に、木や岩ではない、何かの影が見えた。

 一瞬、また村に戻ってしまったのかと思った。だが、違う。それはこぢんまりとした東屋で、古代めいた四本の支柱に丸い屋根が支えられている。屋根の下には壇があり、その上に石をくりぬいた半円の水盤があった。……花びらのような模様が掘り込まれている。

「大当たり、か……?」

 その水盤の辺りに、奇妙な力が凝っているのを、シェゾは感じた。

 いわゆる魔力というものとは微妙に違う。……これだけ似ていればそう区別する必要はないのかもしれないが。もっとも気配はかなり淡い。拡散している、と言うべきか?

 ――霧……? 霧と同化している? いや、これが霧そのもの――正体、か。

「ここは……」

 イーリスが呟いている。

「知ってるのか?」

「ここは……村が奉じている精霊の祠よ」

 イーリスは言った。

「そうだわ……精霊はここにいたんだわ。……どうして忘れていたのかしら。私が祭らなければならないものなのに。私は……」

 額を押さえる。

「なんだか知らんが、アレをどうにかすればいいみたいだな」

「……ま、待ってよ。何をする気? 精霊の泉は、村の大切なものなのよ」

「ここまで来て何もせずに帰れるかっ。お前にも分かるんだろう。あの水盤が霧の中心なんだぞ」

「でも……っ」

「何かいるっ」

 ピートの叫びが、言い争いを中断させた。

 壇の向こう、霧の奥から、それはゆっくりと歩み寄ってきた。白い獅子の体躯。鷲の翼に、ねじくれた角。伝説に語られる魔獣――キマイラだ。

「ま、魔物!?」

 ピートとイーリスがギョッと身を引いた。それはそうだろう。この村には魔物は出ないはずであるから。

「ふん……お前が黒幕か? ……違うな。それにしちゃ存在感が希薄だ。ガーディアンってとこか」

 グロオォオオ

 キマイラが吼えた。翠の瞳を光らせ、牙をむく。そこにあるのは絶対的な敵意と拒絶。

「面白い!」

 マントを払い、シェゾは黒のグローブに覆われた左手を突き出した。呪文と共に、そこに魔力が収束していく。

「フレイム・トルネード!」

 灼熱の炎の渦が、魔獣を巻き込んで荒れ狂った。凄まじい爆熱と轟音。熱が空気を渦巻かせ、風となり、ピートやイーリスたちをも翻弄する。

「す、すごい……」

 揺らめく熱光をみつめて、呆然とピートはそう漏らした。

「すごいや、ねえ、イーリスさん」

 ピートは同意を求めたが、応えはない。見やると、イーリスは言葉もなく、目を見開いている。

「イーリスさん?」

「――あ、ああっ?」

 何度か呼びかけるとようやく我に返り、ぺたりとそこに座り込んだ。

「私は……」


 キマイラは炎に巻かれたが、勿論、この一撃で燃え尽きてしまうようなことはなかった。魔物は何がしかの魔力を帯びているもので、魔力を持つ者は通常より魔法に対する耐久力が強い。

 翼を鳴らすと、キマイラは舞い上がり、一瞬で間合いを詰めてくる。

「くっ」

 どうにかそれをかわすと、シェゾは眼前に両手を打ち合わせた。自らの左のてのひらから何かを引き出す仕草をすると、現実にそれを鞘とするかのごとく、刃が引き抜かれていく。――きらめく水晶の刀身をした、闇の剣。妖気が噴出し、物理的な力となってシェゾの髪を揺らめかせる。

「闇の剣よ!」

 キマイラは己の勢いでかなり離れた場所に過ぎ去っていたが、闇の剣から放たれた衝撃は難なくそこに届き、それを切り裂いた。確かに当たった。魔獣が声を上げ、衝撃に耐える仕草をする。だが、然程のダメージではない? 間を置かず向かってくる。

「はぁっ!」

 気を吐き、シェゾは刀身を魔獣の向かってくる力の流れに沿わせた。自らの力によって、魔獣は二つに分断される。肉を切り裂く、重い手応え。

 ――が。

「なに!?」

 魔獣は確かに二つに裂かれていた。ほんの、数瞬の間は。瞬き数回の間に、切り裂かれた肉は呼び合い、元に戻ってしまった。

 グロォオオ

 魔獣は吼える。何事もなかったかのように。

「へっ、楽しませてくれるぜ……」


「イーリスさん? どうしたんですか」

 座り込んでしまったイーリスを前に、ピートは困惑した声を上げている。側では戦闘が行われているのだ。じっとしているわけにはいくまい。だが、イーリスはピートの呼びかけには答えず、地面を凝視していた。意識がないわけではない――彼女は何かを呟いている。

「そうだったんだわ……どうして忘れて……いえ、覚えていたくなかったのね」

 呟くと、彼女はのろのろと顔を上げ、ピートを見た。

「ごめんね、ピート」

「え?」

「思い出したのよ……私は」


 幾度か剣で切り裂いてみたが、やはりキマイラは斬れなかった。いや、斬れる。斬れるが元に戻ってしまう。

「とんでもない再生力だな……ぷよだってここまでじゃないぜ。ほぼ一瞬で戻っちまう」

 魔法は効かないわけではないようだが、決定的なものではない。暖簾に腕押しと言うのか、妙に手応えのないところがある。こちらの力がすりぬけている……いや、拡散しているとでもいうのか。

「シールド!」

 キマイラが吐き出してくる酸の霧を魔障壁で防ぎながら、シェゾは思考を巡らせた。

 ――斬っても斬れない、すぐに元に戻ってしまう……か。その特性は何のものだ?

 倒せない敵はいない。とりあえず、それがシェゾの考え方だ。空論ではなく、今までの経験に基づいたものである。ただ、その特性や属性は見極めなければならない。闘いを有利に導くためには。

 斬撃を受けても即座に再生してしまう魔物といえば、まずはぷよぷよを始めとする原始的な不定形系のものがいる。しかしぷよは魔法には極端に弱いし、必ず再生するわけでもない。逆に上位魔族ならば斬られても完全に己のダメージを回復させてしまうだろうが、そこまでのクラスの魔物には滅多にお目にかかることはないし、目の前のこの魔獣からはそんな魔力は感じない。

 ――他に、実体を持っていて物理的なダメージを与えられないといえば……再生とは違うが、物質変化の能力……だな。

 例えば、吸血鬼の中には霧化の能力を持つ者がいる。己を構成する物質そのものを変えてしまうわけで、斬れないし、属性を突いた攻撃も効かない。ただし、反対にその間は向こうもこちらに攻撃できないし、実体化すれば斬れてしまうわけだが。

 ――斬ろうが突こうが滅ぼせず、しかし実体を持ち、高い恒常性を保つ物質…………。

 イメージが閃いた。揺れる水面。水に映った月。

「そうか!」

 素早く、シェゾは呪文を編み上げた。魔力が剣に収束し、増幅される。まるでダイアキュートをかけたかのようだ。それは意識の中で集中され、構えられた左手に集う。

「ダイアモンドダスト!」

 シェゾは魔力を解放した。

 猛烈な冷気が魔獣を襲った。急激に熱を奪われ、霧が痛いほどに煌いてザラつく。しかし、これもまた拡散されてしまうのだろうか。――否。

 霜を踏みしだくような音を立て、魔獣の体を一瞬で氷の舌が這い登った。効いている。魔獣が苦鳴を上げた。

「まだだ……、完全に固めてやるぜ!」

 シェゾは再び冷系の魔法を唱え、続けざまに放った。

「ダーク・ブリザードっ」

 が。

「風よ! 阻む壁となれ」

 風の障壁が割り込んで、魔法を魔獣に届く前に拡散させた。

「……っ、なんのつもりだ」

 思わず振り向いて、シェゾはきつく問うた。――女神官に向かって。

 イーリスはどこか硬い表情をしていた。彼女が放ったのは属性を操る神官魔導――いわゆる方術の一つだ。通常魔導に比べて攻撃性は少ないが、独自の効果と体系を持つ。

「もう、いいのよ。闘う必要は無いわ」

 言うと、彼女はシェゾと魔獣の間に歩いてきた。

「おい……」

「イーリスさん、危ないですよ!」

「大丈夫。危険じゃないわ」

 イーリスはおろおろしているピートに笑った。そして、

「あなたもね。ごめんなさい……もういいわ」

 言ったのは魔獣に対してか。事実、キマイラはその言葉を受諾したかのようにもがくのをやめ、彫像のように固まる。次の瞬間、それは水と化してばしゃりと流れ落ち、飛び散った。

 場は静寂を取り戻した。

「……お前、そういうコトができるんなら、最初からやれよ」

 考えてみれば当然なのかもしれない。彼女はここを奉る神官なのだから。

「そうね……でも、忘れてたのよ」

「そりゃ大した神官だな」

「うん」

「……どうしたんだ、お前」

「ちょっとね。殊勝な気持ちになっちゃってるわけよ」

 シェゾは沈黙で先を促した。彼女の瞳に宿ったある種の感情を読んだからだ。ひどく抑えられてはいるが。

「私はね、この村が好きだったのよ」

 イーリスは言った。

「どこかへ出ていっても、いつかは必ず帰ってくると思ってた。ここが私の帰る場所だったから。小さいけど、気心が知れた村の人たち。尊敬できる両親……。何かが起こっても、みんなで協力して解決してきた。……たとえそれがほんのささいなことで壊れる結束だったとしてもね」

 ふと視線をさまよわせる。

「本当に怖いのは、魔物ではなく、人の心だったのよね」

「…………」

「母さんは村に現れた魔物と戦って死んだの。私はその後を継いだわ。村のみんなを守りたかったから……母さんみたいに。だけど、みんなの心はもうどこか別の場所に行ってしまってたのね。
 でも、それでも私はこの村を失いたくなかった。私の居場所だったから……」

 イーリスは視線をシェゾに戻した。

「シェゾ君、この水盤を壊せる?
 精霊はこの水に宿っているの。依り代を失えば、拡散されて魔力も消えるはずだわ」

「いいのか?」

 思わず問い返す。悪いと言われても壊す気であったのに。

「あんまり良くはないけど、仕方ないわよ。……それに、多分これはもう必要のないものなんだわ、ここには……。私はここにこだわったけれど、本当は、もう……みんながそれぞれ、行くべきところへ行かなくちゃならないんだから」

「……そうか」

 ここにきて、何故ためらうような気が起きたのか。シェゾはそれを振り切り、剣を振り下ろした。

「――はっ!」

 闇の剣は一刀で水盤を真っ二つに叩き斬った。

「わっ」

 水が溢れる。たったこれだけの水盤に入っていたとは到底思えぬほどの量が。次いで、霧が文字通り渦巻いた。中央に向けて収束し、しかし次の瞬間、急激に外に向けて拡散する。

「ごめんね……」

 薄れていく霧の中で、イーリスがそう呟くのが聞こえた気がした。


 日は中天から僅かに傾いていた。空は青く晴れ渡っている。随分と久しぶりに見る彩だ――木々は光を受け、輝きを増してそれぞれの色をまとっている。鳥たちはうるさいほどに鳴きかわし、生を謳歌しているようだ。

「……つっ」

 久しぶりに陽を見て、何だか眩暈がするような気がした。

 ――まるで吸血鬼だな。

 我ながら苦笑する。

 視線を落とすと、辺りの情景は一変していた。

 東屋は、確かにそこにあった。たった今叩き斬った水盤も、二つになってそこに転がっている。しかし、床には一適の水もなかった。あれほどの水が溢れたのに。加えて、東屋の床石はでこぼこに剥がれかけ、そこかしこから雑草が覗いている。

 まるで真昼の夢が覚めたように、なにもかもが少しずつ、あるいは劇的に違っていた。すっかり荒れ果ててしまっている。一時に数十年もが経ってしまったかのようだ。

「……おい?」

 はっとして、シェゾは周囲を見まわした。つい今まで目の前にいたはずのイーリスの姿はない。白い神官の衣装はどこにも見て取れなかった。では、もう一人は……。

「…………」

「ピート?」

 気配を感じ、シェゾは床に倒れている者を見つけた。茂った草の間に見覚えのある服が見える。

「おい……しっかりしろ」

 助け起こし、シェゾはぎくりとして身を強張らせた。

「母さん、ルシー……」

 最期に、溜息のようにそう呟いて。

「…………」

 力を失った――枯れ木のような老人の手を、シェゾはそっとその胸の上に組ませた。


「あらっ、シェゾじゃありませんの」

 帰りついた街で、ばったり会うなり声を張り上げられた。

「今回はまた、随分と長く留守にしてましたわねぇ。わたくしはまた、どこかで行き倒れにでもなってるのかと思ってましたわよ!」

 おーっほっほ、と高笑いする魔女(正確には見習らしいが)をシェゾはぼんやりとみつめた。

 ――なんで俺はここに来ちまったんだろう? 

 疲れているのだし、まっすぐに家に帰れば良かったのだ。なのに、なんとなく――そう、まさになんとなくだ。ふらふらと街に立ち寄ってしまった。顔見知り(それもウルサイ連中ばかりだ)に出くわす危険性はかなり高かったというのに。しかも実際捕まってしまったのだから、世話はない。

「なになに? あ、シェゾだ」

 次に現れたのはドラコケンタウロス。ウィッチに釣られてか、そのままそこで話し込みはじめる。

 半人半魔……いわゆる亜人の種族を含め、魔物一般を住民として受け容れない街は多いが、ここには殆ど制約はない。街の中心になっている魔導学校がそういった方針を打ち出しているためだが、それ故にかここにはおかしな住民が多いのも確かである。

「あっ、シェゾさん。お久しぶりです」

 すけとうだらと連れ立ったセリリが挨拶してきた。デート中だったのだろうか? すけとうだらは面白くなさそうだ。そう言ってやると、「そんなぁ。すけとうだらさんはただのお友達です。ね、すけとうだらさん?」と笑顔で返されて、すけとうだらは「ガーン」という擬音付きで固まってしまった。セリリは笑顔である。単に鈍いのかしたたかなのか。女は良く分からない。

 気がつくと、随分沢山の連中が集まっていた。

「あれっ、シェゾ!」

 騒ぎの中で、その声は何故か突きぬけて聞こえた。

 最後に現れたのは、茶色の髪に金無垢の瞳の少女。肩に黄色い怪生物を乗せている。……ついでに、その隣にはウシを連れた筋肉女もいたが、この際無視しよう。

「なぁんですってぇ〜!?」

「な、なんだっ。俺は何も言っとらんだろうが!(コイツは超能力者か……?)」

「ウルサイわね、あんたの顔を見たら何か急に不愉快になったのよ! いいから挨拶代わりに一発殴らせなさい! 久しぶりだから、サービスしてあげるわっ」

「そんなサービスいらんわっ」

「ま、まぁまぁ……」

 アルルとミノタウロスが仲裁した。代わりに殴られるミノタウロス……哀れである。

「でも、なんだかホントに久しぶりだね。どこに行ってたの?」

「お前に言う必要はない」

「そ、そうかもしれないケド……」

 アルルは少し困った表情をした。小声で、「シェゾと話すと会話が続かないんだからなぁ……」と呟く。

「悪かったな。……帰ったばかりで俺は疲れてるんだ。もう家に帰って寝る。そこをどけ」

「あ、うん。……そうなんだ。ゴメンね」

「謝ることなんてないわよ、アルル。疲れていようがいまいが、コイツはいつもムスーッとしてるんじゃない。カルシウム足りてないんじゃない? 大方、全部身長の方に行っちゃったんでしょ」

「ウルサイっ。それを言うならお前だってそうだろうが。この万年ヒステリー女がっ」

「お、恐れを知らない奴め……」

 ミノタウロスがそう呟くのが聞こえた……のは一瞬。

 シェゾはキレたルルーの攻撃を受けた。

「ルルー、ルルーってば。やめなよ、それ以上殴ったらシェゾ本当に死んじゃうよっ?」

「ルルー様、コロシはマズイっす、コロシは!」

 再びアルルとミノタウロスの仲裁が入り――勿論、その間に散々殴られてしまっていたが――シェゾはどうにか夜空の星になる事態を避けられた。

「んもー。シェゾもイケナイんだよ。わざわざルルーを怒らせるようなことを言うんだから……」

 ――お互い様じゃないのか、そりゃ。

 そう思ったが、とりあえず口をきく気力がないので黙ってアルルのヒーリングを受けた。彼女の魔力は心地よい。

 ――何言ってるんだ? 魔力そのものにいいも悪いもない。強さや純度はあるが……。

「……帰る」

 シェゾは立ちあがった。もう歩くのもかったるい。テレポートで一気に跳んでしまおう。

「大丈夫?」

「ああ、お前のヒーリングが効いた。……世話になったな」

 アルルは一瞬ぽかんとした表情をし、次いで照れくさそうに笑った。――一瞬、目を奪われる。

「シェゾにお礼なんか言われると、照れちゃうね」

「ぐー」

 同意するように肩のカーバンクルが鳴いた。シェゾは憮然とした顔になる。

「ほっとけ……疲れのせいでどうにかしてたんだ」

「ふうん……でも、シェゾがそんなに疲れるなんて、ホントに大変だったんだね」

 ふと真面目な顔になって、アルルは言った。

「無事に帰ってこれてよかったね。――お帰り、シェゾ」

「…………」

「何、ボク変なこと言った?」

「……いや」

 短くシェゾは応えた。「じゃあな」と言い残し、すぐにテレポートで消える。

 後に残ったアルルは、ぽかんとして呟いた。

「シェゾ……今、微笑ってたよね」

「ぐー……」


 ――なんで俺は微笑ってるんだろうな。闇の魔導師が……全くバカげてる。

 だが……たまには、いいのかもしれん、こんな気分も……。そうだな、悪くはない……。

 

 夏の日差しが木々の葉の影を落として斜めに差し込んでいる。

 森の中に、確かにその村はあった。

 しかし今は荒れ果て、誰の姿もない。住む者を失って数十年、あるいは数百年か――もう随分と長い年月が過ぎたのだろう。かつて入植者たちが汗を流して開墾したのであろうこの村も、夏草や若い木に侵食され、まもなく完全に森に戻ってしまうようだ。

 あちこちに、黒く焼け焦げた梁や柱が露出していた。壁にもすすが残っている。この村は一度焼けたようだった。周囲の木々に延焼した様子はないから、それが滅んだ直接の原因だったのかは分からない。単に、滅ぶ過程の中で起こった一つの事象だったのかもしれない。実際、不自然に打ち壊された様子の扉や壁もあった。ただの火災ならそういうことにはなるまい。

 なんにしても、何かが起こったのならば、こんな小さな村ではそれはあっという間のことだったのだろう。しかし、今となっては――何があったのか。それは分からない。

 廃墟は何を語ることもない。


 そして、旅人はかつて村だったその場所を立ち去った。

 自らも、帰るべき場所に帰るために。

 

<End>


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