日は熟れ過ぎた果実のように潰れて、足元に沈んでいこうとしていた。
今日はここで野宿になるだろう。乾いた適当な場所を選んで、旅人は腰を下ろした。
その辺りからかき集めた枯れ枝や乾燥したコケに、呪文を唱えて火をつける。魔導師である彼が火や水に困ることは無かった。少なくとも、自分一人をまかなう程度では。
懐の空間圧縮された袋から僅かな保存食料を取りだし、もそもそと頬張る。アルマイトのカップにホットの呪文で湯を満たし、だいぶ小さくなった茶葉の塊を削って、中に放り込んだ。
独特の茶の香りが漂い始める。
時折、旅人がその薄い茶を啜る以外は、焼ける火のはぜるバチバチという音だけが聞こえていた。
――と。
ガサガサと茂みを掻き分けて、暗闇の中からぬっと、何者かが現れ出でた。
――まるで、藪の塊のようだ。
おそらく一度も櫛を通したことが無いのだろう。全身を覆うような毛は、もつれて所々こぶのように固まっている。僅かに見える肌も地なのか汚れなのか浅黒く、全体に黒っぽく薄汚れて見えた。
それは火を見て驚くようなことも無く、といって襲ってくることも、ましてや媚を売ることも無く、黙って焚き火に近づき、火を挟んで旅人の正面に座った。まるで当たり前のように。
旅人の方も何も言わなかったので、しばらく場は平穏に静まり返っていた。
パチリ、と木がはぜる。
それを合図にしたように、押し黙って火にあたっていた”黒い奴”が口を開いた。
「お前は今、変なやつがやってきたな、と思っているな」
僅かに眉を上げ、旅人は黒い奴を見た。
「お前は今、不思議だ、と思ったな。――こいつ、俺の思考を読んでいるのか? と思ったな」
淡々と黒い奴は喋り続けた。
「どうやら本当らしい……と思ったな。思考を読む魔物か、と思ったな」
心なしか弾んだように言ってのけて――黒い奴はふと困惑したように言葉をとめた。
「……お前は今、面倒くさいな、と思っているな。……ベラベラとうるさいが、勝手に喋らせておこう、と……」
黒い奴は黙り込んだ。旅人も黙っているので、場は沈黙に包まれた。
茶を飲み終わった旅人は、もう一度ホットの呪文を唱え始めた。もう一杯飲もうと思ったのだろう。
「……湯加減が大事だ、と思っているな。……熱過ぎる茶はよくない、と」
旅人が僅かに眉根を寄せた――か、寄せないかの内に、黒い奴は突然飛び退った。
「お前は今、こいつに熱湯を浴びせてやろうか、と思ったな!」
だが。
「ぎゃんっ」
間をおかずに頭から液体を浴びせ掛けられて、黒い奴は悲鳴を上げた。ただし熱湯ではない。冷水だった。
「避けたはずなのに、しかも冷水を掛けられたのは何故だ、と思ったな」
言ったのは、旅人のほうだった。
「答えは簡単――お前が思考を読み反応するより、俺が思考し呪文を起動させるほうが早いからだ。――と、俺が思っているとお前は思ったな」
毛先からぽたぽたとしずくをたらしながら、黒い奴は困惑したように体をゆすった。
「――何故こいつは自分が言おうと思ったことを先に言うのか、と思ったな。こいつも思考が読めるのか、と思ったが、あいにくそんな芸当は出来ないと俺が思ったとお前は思ったな」
ベラベラと、黒い奴が口を挟む隙が無いように旅人は喋った。実際その必要は無かった。黒い奴の思っていることを、旅人はみんな喋ってしまっていたからだ。加えて自分の思っていることまで喋っていたので、黒い奴は全く何を言うことも出来ない。口を封じられてしまったかのように。
「俺に言わせれば――」
しまいに、旅人は言った。
「人の思考を借りてしか喋ることが出来ない奴は、単に頭の中身が空っぽなだけだ」
「……」
黒い奴は口を開いたが、何かが喉につっかえたようなそぶりをして、結局口を閉じた。じっと見つめる旅人の青い目に刺されでもしたように、身をよじり、背を向ける。
そして小さなうめき声を上げながら、暗闇の奥へ消えていった。
火の前に座る影は、ひとつに戻った。
木のはぜる音が小さく聞こえている。
細い枝を折って火に投げ入れながら、明日は宿にたどり着いて、熱い湯をたっぷり張った風呂に入りたいな、と旅人は思った。