日が落ちたのか、辺りはもう薄暗い。 ――帰らなくっちゃ。
遠き山に日は落ちて
木々の影が薄闇の中に溶けて、その隙間から遠く、街の明かりが見えている。明るいんだけど、かえって、辺りが暗くなっていることに気付かされる。月や星もそうだけと、光があるから、闇がくっきりと際立たされるんだね。 そんなことを考えながら、ボクは街からほんの少し外れた原っぱにいる。 夕暮れの時間って、完全に暗くなった夜と比べても、なんだか心細い感じがするよね。暗いんだか明るいんだかあやふやなところとか、どんどん暗くなっていくところが、そんな気持ちにさせるのかもしれない。 早く帰らなくっちゃ、って。焦るような、寂しいような。 「ぐー」 足元にいる小さな友達が鳴いた。 「うん……もう帰らなくっちゃいけないね」 分かってる。けれど、さっきからボクはなんとなくぶらぶらとここにいる。家に帰れば、明るくて温かな部屋とご飯とやわらかいベッドが待っている。(それを用意するのはボク自身なんだけど。)早くそこに帰って安らぎたいと思う。この、どんどん闇に侵されていく場所にいたいってわけでもない。いたってしょうがないし。ただ……なんだろう? 億劫なような……まだぼうっとしていたいような……。 気持ちと体と感覚が全部切り離されて、ばらばらに浮かんでいるような、ヘンな感じ。熱があるわけでもないけれど。早く帰りたいな、帰らなくちゃと思ってるボクと、別にどーでもいいじゃない、まだここにいようよと思ってるボクと。 帰りたいけど、帰れない。 何故か、そんな気持ち。なんでだろう? ぼうっと考え込んでいたら、ごうっと風が吹きつけた。肌を刺すほどじゃないけど、冷たい風だ。後ろでまとめている髪がざらざらと顔にかかって、顔をしかめてかきあげる。 「こんなところで、何をしている?」 ――声がした。
夕暮れ時のことを”たそがれ時”ともいうんだって、昔、おばあちゃんに聞いたことがある。”たそがれ”っていうのは「誰だ彼は」って意味。薄暗くなって、向こうにいる人の顔も見えない、ってことみたい。 けれども、今ここに現れたのが誰なんだか、すぐにわかった。声でもわかるけど――長身でマントを背に垂らした男の人で、トレードマークのようにいつも巻いてる青いバンダナ。なにより、こんな見事な銀髪の人は、滅多にはいない。 「おかしなやつだな、ぼうっとして」 少し不機嫌そうに顔をしかめて、彼――シェゾ・ウィグィィは言った。 「さっきから見ていれば、ずっとその調子だが。お前らしくもない」 「別になんでも――ん? 『さっきから』って、キミ、もしかしてずうっとボクのコト見てたの?」 じろりとにらみつけると、悪びれるでもなく、彼は肩をすくめた。 「たまたまここに来たら、お前がいたからな。今日は声をかける気もなかったし、立ち去るのを待っていたんだが、いつまでもブラブラしていやがる」 そして、シェゾはふっとボクに向き直った。 「――で、どうした? 子供はもう帰る時間だぜ」 思いっきりバカにした口調にムッとしたけど、彼のこういう言い方はいつものことだ。そうそう挑発に乗るのもバカバカしい。それより、彼がこんな風に人のことを気にして声をかけてくるって方が珍しいかも。――もしかして、心配してくれたってことなのかな?
「シェゾはさ。もう帰らなくちゃならないんだけど家に帰りたくない、って思ったことない?」 ボクは言った。心配してくれているのなら、あまりつんけんするのもよくないと思ったのだ。うまくできるかは別にして、説明する敬意くらいは払うべきだろう。たとえ相手がヘンタイの闇の魔導師だって。 だけど。彼は目を丸くして、大きな声で「――はぁ?」と声を上げた。あからさまな”呆れ”の表象。 「お前、何かやって寮を追い出されたのか?」 「ちーがーうっ!」 ボクは、魔導学校の用意した寮に住んでいる。一軒家なんだけど。 「”帰れない”んじゃなくて、”帰りたくない”の! ……あ、特別何かあったってわけじゃないんだけど、なんとなく、ね。帰りたくないっていっても家に嫌なことがあるってわけでもなくて……」 やっぱりうまく説明できない。ボク自身が解っていないんだから、そりゃ当然だ。 したいのにしたくなくて、理由はなくて……。うーん……これって、単にボクがワガママなヒネクレ者だっていうこと? もう一度、頭の中をボクは整理する。 どうしても帰りたくないんじゃないから、今すぐ帰ったって別にいいんだ。ただ……。 「ただ……。夕方になって暗くなって、家に帰らなくちゃな、って思うとき。このまま帰らなかったらどうなるのかな……って」 そう。ボクは、そう思っているんだ。 「………」 シェゾはほんの少し首をかしげ、真っ青な瞳でじっとボクを見下ろしていたけれど。ふっと腰をかがめ、ボクの顔を覗き込むようにして、こう言った。 「よく解らんが……自分の家に帰りたくない、と言うのなら。――今夜は、オレのところに来るか?」 「――へ?」 あんまりびっくりすると、本当に頭の中が真っ白になるんだ。何故か、そんなことを頭の別の部分で冷静に考えていた、その一瞬。 「な……何を言ってるんだよ、キミはっ」 一瞬後、ボクは叫んだ。 「ボクはこれでも乙女なんだからね。く、来るかって……。そんなコト言って、どうせ、隙を見てボクの魔力を取っちゃう魂胆なんでしょう!」 声が裏返りそうになるのを必死でこらえて、睨み付ける。シェゾは腰を伸ばして胸をそらすと、 「フッ。――よく解ってるじゃないか」 ニヤッと笑った。 「―――――!!」 カーッと血が上る。まんまとからかわれた! ぐるぐると、頭の中で色んなものが回ったけれど。 「………帰る! 行こっ、カーくん」 ようやくそれだけ言って、ボクはシェゾに背を向けて街の方へ駆け出した。 |
(いいのか? 主よ) 見る見る小さくなっていく あいつの背中を見送っていると、心の内から相棒が語りかけてきた。 「まぁな。……今日はその気はない」 相棒――心を持つ魔剣、闇の剣に、オレは応える。 駆け去っていくアルルの背中は、隙だらけだった。よほど動揺したと見える。少々からかいが過ぎたかと思うが、あいつが隙だらけなのは今に限らず、いつものことだ。 (そのくせ、仕掛けてみると返り討ちにあうのも、か?) 「うるさい」 闇の剣はいつも寡黙だが、たまに人をからかうことがある。ぴしゃりと話題を切って、オレは少しばかり考えに沈んだ。 ――家、か。 オレにだとて、身を休めるねぐらの一つや二つはある。だが、アルルの言うそれは、それらとは違うものだろう。 アルルの言葉が甦る。 『このまま帰らなかったらどうなるのかな……って』 オレは、帰らなかった。 全てのつながりを断ち切って。 だから、オレには帰らなければならない家は無いのだ。
ふと気付けば、あいつの背中はもうどこにも見えなかった。あいつが持ち去ってしまったかのように、最後の日の光も失われ、辺りはすっかり、夜の闇の手に落ちている。 ――慣れ親しんだオレの時間。オレの世界だ。 「さぁ、行くか」 (――おう) 誰にともなく声をかけると、相棒が応える。街の灯に背を向け、オレは森を支配する真の闇の中に歩いていった。
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